米騒動とデモクラシー(1)「明治」への異議申し立て

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米騒動と大正デモクラシー
~人間らしい生き方をもとめて(1)

はじめに~大正デモクラシーとは何か

おはようございます。今日はおもに大正デモクラシーの話をさせていただきます。
大正デモクラシーとはおもに大正期の民主主義的、自由主義的な時代思潮をさします。

「明治」が富国強兵や国民国家形成をめざし一丸となって厳しい坂道を登っていた時代であり、
戦争に向かって一直線に「坂」を落ちていく印象がある「昭和前期」であるのに対し、
「大正」は薄日がさす穏やかな、しかしはかなげな、ちょうど竹久夢二の絵のような印象をあたえる時代です。
洋装や洋食、活動写真や雑誌など都市中心の豊かな大衆文化が広がり、政治的には本格的な政党政治が開始され、「普通選挙法」も実現するなど、民主主義な政治が実現したかのように見えた時代です。
アジア太平洋戦争をおわられたポツダム宣言のなかに、「日本国国民における民主主義的傾向の復活」といった一節があります。多くの人はこの「民主主義的傾向」を大正期を中心とする政党政治の時代をさすと考えています。
こうした大正時代を中心とした社会の空気、自由を求め、人間を大切にし、民主主義に向かうようにみえた政治的な風潮を「大正デモクラシー」ということばで表してきました。

しかし、何が大正デモクラシーか?と聞かれれば、あいまいであることも事実です。高校の授業でも、吉野作造の民本主義と、美濃部達吉の天皇機関説を話し、当時の社会運動を順番に話していき、最後に文化のところで「白樺」派や大正期の芸術、あるいは大衆文化といった話をする形で終わるというのがよくあるタイプです。しかし、それでは、いったい大正デモクラシーとはどのような運動だったのかと聞かれても、なかなかトータルにとらえきれない嫌いがあります。
今回は「人間らしい生き方を求めて」という形で、この時代の社会文化をとらえられて見ようと考えました。

高井としをさんを報道した記事

こう考えたきっかけになったのは、参考文献に挙げた中村政則『労働者と農民(これは名著です)で紹介された高井としをさんのエピソードです。その生き方に大正デモクラシーをささえたエネルギーが見えてくるように感じました。それを 「人間らしい生き方を求めて」ということばで、とらえてみたのです。

Ⅰ、高井としをの生き方
~一枚のビラが生き方を変えた。

1,暗い表情の女工たち~

高井さんの略歴はこのスライドのようです。
高井さんは、岐阜県で人里離れた岐阜県で炭焼きの子どもとして生まれました。小学校には下宿をして通いましたが、「山猿」などといわれて差別され、不登校となりました。
しかし、負けず嫌いの性格から、独学で勉強をし、文字を読むこと書くこと話すことが得意な女の子になりました。背景には、両親とも学ぶことの意味を知っており、学ぶことにも熱心でした。

そして12歳の時、自分から望んで、岐阜県大垣の織物工場に働きに出ます。しかし、背が低く充分な仕事ができず屑綿あつめ、1日12銭、昇給なしという職場を嫌ってこの職場から逃げだし、奈良県大和郡山の工場で働きました。半年後には両親のいる岐阜に戻りました。しかし、母親が死亡、父親が別の女性と結婚すると、今度は名古屋の豊田織機に勤めました。

 高井さんはこのころの自分のことを次のように語っています。
「自分は小学校にも行っていないし、女の子ですから自分の容貌のことも気になったし、人より背も低いし、人よりも自分は劣った者のように思う、ひがんだ根性があったわけですな。それで、なにもかもいやで、仕事でも投げやりだったし、自分がそういう考えだから、友だちもあまりできなかったし、まあ、どっちかというと、人に嫌われる娘だったわけね。」
こうした意識は女工たちにおおく見られるものでもありました。
高井さんの夫、細井和喜蔵は『女工哀史』のなかで次のような女工気質を描いています。

細井和喜蔵『女工哀史』(改造社1925・初版)

①彼女たちの顔は非常に暗い。
②彼女たちはいじけている。そして物事をなすにあたっておつくふらしいしなをみせる。
③ごく些細な事柄で怒った場合、普通人の倍くらい嫌みな目つきをする。それが対人的であった折には、いつまでも白眼を三角にして相手をにらみつける
④別段おかしくない事柄を、実にキヤラキヤラと笑いこける。そうしてそのまた笑い方が一種特別にげさく(下作。下品)なのである。
⑤ことのほか猜疑心が深く、嫉妬心に富む。
女工への偏見があるのでは、と思わせる書き様です。しかし問題は女工たちを暗い表情にし、下品で嫉妬深くしてしまった紡績資本家の苛酷な搾取と虐待(中村)のありようです。彼女らの多くは、今なら屈託なく「キヤラキヤラと笑いこける」年齢、多くは10代の少女なのです。この表現は細井の協力者・高井さんのかつての自画像のようにも思えてきます。

2,吉野作造博士の論文

高井さんを変えたのが、一枚のビラに載っていた吉野作造の論文でした。このビラは、当時勤めていた豊田織機のストライキの応援にやってきた大日本労働総同盟友愛会のオルグが渡してくれたものでした。高井は生涯、その論文のことを忘れませんでした。
その内容を高井は次のようにまとめています。

「だれでも人間は全部平等で、個性と人格、人権があることを、各個人が気づかず、知らずにいる。一人ひとりが自分の個性にあった仕事や学問をして、社会のためにも自分のためにも幸せな生活をする。自分を大切にする。そして他人を尊重する。労働者は話しあい、学びあい、団結することによって生活の向上が出来る。学者も医者も政治家も個性の発見に努力せよ、団結せよ。自己の尊さに目覚めよ」
この感動を高井さんはのちに次のように語っています。
私に魂を入れてくださった吉野博士の論文は、私の生きるための、一生の神様だったのです。私は貧乏だった。差別された。考えてみればひとつもいいところがなかった。そして、いつでも苦しいとき、悲しいとき、もうダメだと思ったときに、私の心の中に吉野博士の呼びかけの文章があったのです。(高井『わたしの「女工哀史」』より)
高井さんはその日のうちに自分の荷物を売り払ってお金に換え、それを旅費として東京へと向かいます。そして、何日も通い詰め、粘りに粘った東京モスリンの工場に女工として勤めはじめます。
多くの社会運動の活動家と同様、高井さんもとても働き者でした。とくに吉野作造の文章を読んでからは「だれにも好かれる労働者になることが第一歩だと思い」、寄宿舎でも、仕事でも一生懸命がんばり、模範工となりました。他方、「世の中の不正や間違いを正すため」「団結して何を、どうたたかえば良いのか」を知るため、日曜日には図書館に通い、裸電球の下で本を読みつづけました。メーデーにも見学に出かけました。

3,ストライキの中で~女工の生活改善を訴える

高井さんを「活動家」に変えたのが工場で発生したストライキでした。労働者1000人近くが集会を開き、組合の執行部や日本労働総同盟のオルグが話をしました。しかし高井さんにはどうもしっくりきませんでした。
女工たちのなかで最も苦しんでいたのは寄宿舎の待遇のひどさです。そのことをいってくれないことにいらだった高井さんは、おもわず壇上に上がってしまいます。そしてみんなの前で演説したのです。

高井としを(18~197)

みなさん、私たちも日本人です。田舎のお父さんやお母さんのつくった内地米を食べたいと思いませんか。たとえメザシの一匹でも、サケの一切れでも食べたいと思いませんか。街の人は私たちのことをブタだ、ブタだといいます。なぜでしょう。それはブタ以下のものを食べ、夜業の上がりの日曜日は、半分居眠りをしながら外出してのろのろ歩いているからブタのようだというのです。私たちも日本人の若い娘です。人間らしいものを食べて、人間らしく、若い娘らしくなりたいと思いますので、食事の改善をいたしましょう。
この演説の効果はてきめんでした。次の日には、いなり寿司が昼食にだされ、その次にはイワシの焼き魚、さらにはカツ丼やカレーライスなどもだされるようになります。とんかつが出たときはこれまでの食環境とのあまりの違いから下痢をするものがでました。みたことのないカレーライスはみんなを戸惑わせました。高井さんは労働者・女工たちの待遇を大きく変えました。

4,人間の尊厳の自覚~高井としをの生き方ををかえたもの

細井和喜蔵(1897-1925) 14歳ころから機屋の小僧になって以来約15年間紡績工場の下級職工として働いた経験と見聞に基づいて『女工哀史』を執筆・発行した。

労働組合とのかかわりを強めた高井さんは『女工哀史』の執筆中であった細井和喜蔵と知り合います。そして高井さんが働き、細井が執筆のかたわら家事も行うという当時では珍しい平等な家庭を築きました。友情結婚だったと高井さんはふりかえります。
しかし、執筆に命を削った細井は『女工哀史』の出版の直後に死亡、ショックのあまり高井さんは早産、その子もなくなりました。

一時荒れた生活を送りましたが、その後組合活動家の高井信太郎氏と結婚します。しかし夫は空襲の後遺症で死亡、高井さんは5人の子どもをヤミ市や日雇い労働で育てながら、自由労働者の組合を結成、初代委員長となりました。

 こうした高井さんの生き方の中に、大正デモクラシーの典型を見ることが出来ます。
資本主義の形成は多くの労働者・民衆に苛酷な生活を強いました。それは「家」のため「国家」のためといった価値観と結びつき、国家と結びついた強圧的な管理の下ですすめられたのです。こうした苛酷な労働が、細井が指摘したような女工をつくりだしたのです。こうした「女工」像を打ち砕こうとしたものの中に大正デモクラシーの姿を見いだすことができそうです。

大正デモクラシーの潮流は、吉野作造に代表される進歩的知識人を生み出しました。労働運動の発展は厳しい状況におかれていた女工たちと、進歩的な思想を結びつけました。進歩的思想に触れたとき、受け手の側にその主体的条件が熟していると、かならずそこに火花(スパーク)が起こる。そこに飛躍が起こる」と中村政則氏は指摘します。
抑圧と搾取のなかにいた人びとが新たな知識に触れ、自らの立場を社会という枠組で考える機会をもち、自分や周りの人びとを、同じ人間として、平等で尊厳をもつ存在として見直したのです。こうした過程のなかで、労働者や女性のおかれている立場を考え、学び、団結し、たたかうことの意味を考えるようになったのでした。
 今回は、大正デモクラシーを、人びとが自らの尊厳に気づき、国家・社会の一員という意識を背景に、世の中の非合理にたいして異議申し立てをしはじめた時代・運動という立場から、見ていくことにします。
※この項は、高井としを『わたしの「女工哀史」』(草土文化1980、のち岩波文庫)と中村政則『労働者と農民』(小学館)をもとに記述しました

Ⅱ、「明治」への異議申し立て~『白樺』『青鞜』の時代~

当時の進歩的思想を「明治の精神」にたいする異議申し立てという形で考えてみます。
ここでいう「明治の精神」とは、「坂の上の雲」をめざし、列強と対抗し先進諸国の仲間入りをめざす「富国強兵」「文明開化」の考え方であり、日本を天皇中心の国民国家へ変えていこうという考え方であり、その社会的基盤として「家」制度を置く考え方、それをささえる精神と考えてみました
ここでは主に鹿野政直『大正デモクラシー』(小学館1976)に多くを学んでいます。

1,いろいろな「異議申し立て」

鹿野さんの『大正デモクラシー』には「異議申し立て」の例がいくつかも示されます。
実証主義的な歴史学を打ち立てたことで有名な津田左右吉は日記の中で、「祖先崇拝を盛んにしなければ」という議論に対し、親より子が子より孫が馬鹿になるか、世の中が封建制度・世襲制度に後戻りすれば早いと皮肉たっぷりに記し、最良の策である個人の人格を立派にするという議論は聞こえてないと記します。
また文明とは「偽善・拝金・奢靡・淫蕩・法治の名を借りた形式主義、「人を起立器械とする」憲政・優勝劣敗・平等の名のもとでの富閥専制」であると看破し、「文明」を無限定の「善」とみなした異端の思想家田岡嶺雲を紹介しています。田岡の思想は「近代」自体を疑うという現代的な議論にもつながっています。
さらに天皇制の強権支配に対抗し相互扶助を原理とするユートピア構想を対置した無政府主義天皇制の押しつける「道徳」に対抗して愛欲を赤裸々に告白し、家との葛藤から個の解放に大きく手を差しのばした自然主義文学の潮流も紹介されています。

2,「白樺」の創刊~「自分勝手なもの」

『白樺』創刊号(1910)

文学における「異議申し立て」の代表であり、大正デモクラシーの典型とされるのが、1910(明治43)年発刊した同人誌『白樺に結集した武者小路実篤や有島武郎らです。『白樺』は創刊の辞で、「白樺は自分たちの小さな力でつくった小さな畑である。自分たちはここに互いの許せる範囲で自分勝手なものを植えたいと思っている。」とのべ、国家がさらには社会がおしつける規範に「自分勝手なもの」を対置し、自分たちの「精神世界の展開」を実現しようとします。
リーダーであった武者小路実篤はトルストイ的な隣人愛にも疑問を呈し、「自己の如く隣人を愛するといったって、第一自己を愛することを知らねば始まらない」とのべ、当時の国家至上主義に対し、強烈な自己肯定の精神を打ち出しています。

3,「青鞜」の創刊と「新しい女」

『青鞜』創刊号(1911)

明治の日本社会のなか、差別と矛盾が凝縮していた女性たちからも「異議申し立て」がなされます。1911(明治44)年に創刊された『青鞜』です。
平塚らいてうは創刊号でその意図を高らかに歌い上げます。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。
今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。」
『青鞜』はまず文学を通じて「他によって生きる」状態からの女性の解放、「秘める天才」の発揮をめざしました。
しかし、こうした女性解放への強いメッセージにたいし、男中心の世間は「新しい女」という蔑称と激しいバッシングを浴びせかけます。
こうした攻撃に平塚は逆に自らを「新しい女」であるという、当時の社会への闘争宣言ともいえる文章を発表し、反撃します。

平塚らいてう 1886~1971 日本女子大卒。漱石の弟子森田草平との心中未遂事件後の苦境の中、自らの結婚資金を原資に雑誌「青鞜」を発刊した。

わたしは新しい女である。(中略)
新しい女はもはやしいたげられる古い女の歩んだ道を黙々として、はた唯々として歩むに堪えない。新しい女は男の利己心のために無智にされ、奴隷にされ、肉塊にされた如き女の生活に満足しない。新しい女は男の便宜のためにつくられた古き道徳、法律を破壊しようと願っている。(中央公論 大正2年1月号)
『青鞜』には、創刊時の同人であった上流階級の女性にとどまらず、女性の故に苦しめられてきた人たちも参加、みずからの生活を語り始めました。
1913(大正2)年、『青鞜』は「女子の覚醒を促」す女性問題誌と位置づけを変更します。誌上では職業か「母性の尊重」か、など現代につながる議論もなされました。
当然のこととして、女性差別を当然のことと考える「世間」攻撃も激しく発売禁止の憂き目に遭います。
『青鞜』が開いた女性解放への動きはさまざまな潮流を生み出し、現在につながる女性をめぐるさまざまな問題を浮き彫りにしました。

4,女性解放運動の発展と落とし穴

女性解放をより政治運動・社会運動として展開したのが新婦人協会です。1920(大正9)年、平塚や市川房枝・奥むめおらが、女性の政治的・社会的自由を確立させるための日本初の婦人運動団体として設立しました。

新婦人協会の設立(1920) ①平塚らうてう ②市川房枝 ③奥むめお

設立のきっかけとなったのが、高井としをらが働いていたであろう愛知県内の繊維工場の見学、女工たちを見たことでした。
協会は、女性の政治参加や母性の保護などを要求、ついには女性の集会・結社への参加禁止を定めた治安警察法第5条改正を1922(大正11)年に実現させるます。
さらに、市川房枝らは成立しようとしている「普通選挙法」が、男子普通選挙法にすぎないことを批判し、1924(大正13)年 婦人参政権獲得期成同盟会を結成、翌年には婦選獲得同盟と名を変え、女性参政権の実現に焦点をあて、1931年には地方議会への女性参政権をみとめる婦人公民権法の衆議院通過を実現させました。(しかし、貴族院で否決されました)。
市川らは、その後もさまざまな場面への女性の社会進出をめざしました。しかしその社会進出は隣組・部落会・町内会の担い手や、国防婦人会などとしての社会進出という皮肉な結果となってしまいます。戦争動員・協力に利用されていったのです。

5,吉野作造と美濃部達吉

明治時代の政治は「藩閥政治」という言葉でまとめられることが多く、政治は、薩長の藩閥出身者・かれらと結びついた官僚によって運営されていました
こうした藩閥政治・官僚政治への異議申し立ても相次ぎました。こうした代表が、吉野作造が唱えた「民本主義」であり、理論的根拠となったのが美濃部達吉の「天皇機関説」でした。

吉野作造(1878-1933)宮城県生まれ、キリスト教徒。東京帝大教授。民本主義をとなえ、大正デモクラシー運動の理論的指導者となる。

吉野は天皇を主権者とする明治憲法下においても可能な「民主主義」、「人民による、人民のための政治」をめざしました。それは「普通選挙制を実現し、議会で多数を得た政党が政権を運営すれば、国民の意見を反映した国民本位の民主的な政治が実現できる」というものであり、吉野はそれを「民本主義」と名づけました。
そして吉野は書斎をとびだして、民本主義実現のための旺盛な言論活動をすすめました。労働運動への協力も惜しみませんでした。その情熱が、高井としをを動かしました。

美濃部達吉(1873-1948)兵庫県出身 東京帝大教授、貴族院議員。著書「憲法講話」で天皇機関説をとなえた。のち貴族院議員となるが、その説は不敬であると攻撃され辞職。著書も発禁に。

大正デモクラシーを憲法学の立場から支えたのが美濃部達吉です。美濃部は明治憲法第4条の「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総覧シ、此ノ憲法ノ条規ニ依リテ之ヲ行フ」の解釈を大胆によみかえ、国家全体を『法人』とみなし、天皇はこの中の最も重要な「機関」であるが、あくまでも国民が選挙によって示した意思、議会に反映された国家意思に従わねばならないと読みかえ、最終的には「議会を通じて示された国家の意思に天皇も従うべきだ」と論じます。
大正デモクラシーで多くの人が主張した「護憲」とは、このような美濃部の読み方を前提とした明治憲法体制を守れという意味だったのです。

 こうして大正デモクラシーを理論的に支えた「民本主義」と「天皇機関説」という二つの考えが生まれ、「明治の精神」にたいし異議申し立てが本格化していきました。

<つづく>

<米騒動と大正デモクラシー~人間らしい生き方をめざして>
はじめに~大正デモクラシーとは何か
Ⅰ、高井としをの生き方~一枚のビラが人生を変えた
Ⅱ、「明治」への異議申し立て~「白樺」「青鞜」の時代
<以上(1)>
Ⅲ、大衆による異議申し立て~日比谷事件から普選運動へ~
Ⅳ、友愛会の成立と労働者~尊厳を自覚した労働者たち
<以上(2)>
Ⅴ、米騒動の発生~立ち上がった民衆たち
Ⅵ、全国水平社の創設~部落解放運動の高まり
<以上(3)>
Ⅶ,小作争議と農村の民主化 ~農民組合の結成と普通選挙
おわりに~大正デモクラシーと戦後民主主義
<以上(4)>

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