金融恐慌と戦前社会の変化

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金融恐慌と戦前社会の変化~1920年代の変化

マクロの成長とミクロの不況

企業の側から見れば1920年代は厳しい時代でした。ヨーロッパの諸企業の復活によって、日本の産業とくに製品の質と価格で劣る重工業は厳しい競争に直面し、価格は低迷します。輸出は不調で賃金は高止まり、主要な会社の利益率は一挙に低下、大戦中に急成長した企業~重化学工業を中心に、倒産があいつぎました。経済史家の武田晴人は、1920年代を「マクロの成長」(経済の相対的高成長)と「ミクロの不況」(企業経営の動揺)の併存ととらえ、「成長とは裏腹に好況感から遠い状況の下にあった(『帝国主義と民本主義』)としるしています。
その原因として以下の3つをあげています。
①外貨獲得をめざすドイツなどとの価格競争で競争力の弱さをもつこと。
②賃金水準の上昇によって利潤が圧迫されたこと。
③経営に不安がある企業の借入金依存体質が改善されず、そのことから銀行の資金運用を困難にし、高金利状態が続いたこと
そして「強い競争圧力による価格の下落、高い賃金と高い金利、この三重の制約条件が企業の収益を圧迫し『不況感』を強めていた」とまとめす。

不良債権、震災恐慌、震災手形

こうした状態を打破するため生産性の向上が叫ばれました。しかし、金融機関の高金利がこの動きを押しとどめます。その背景には、大戦中に生産性を無視して規模を急成長したものの価格競争に対応できず経営が行き詰まった会社の大量の負債がありました。こうした会社は、公的資金などでその場その場をしのぎますが、その間にも負債は膨らみ、債務不履行となって倒産する会社が跡を絶ちませんでした。そのリスクに対応するため銀行は高金利を維持せざるをえなかったのです。
高金利は企業側の設備投資意欲をそぎ、生産性はいっそう低下します。政府としても、こうした不良債権をいかに処理し、国際競争力をもつようにするかが課題でした。その特効薬となると期待したのが、否応なく国際水準での競争を強いる「金解禁」です。金解禁は、積極財政をすすめた原・高橋の政友会内閣崩壊以後、いくどとなく計画されました。1923年の関東大震災が発生します。震災は京浜地方を中心に大きな被害をだし、経済面からみれば事業所や工場が崩壊・消失、工場の施設・設備もが壊され、原料や製品も失われました。これによる震災恐慌も発生しました。政府は震災手形を発行、決済不能となった企業の資金需要に応えました。
しかし返す見込みのもてない債務者が多数いたことは想像に難くありません。さらに問題なのは本来ならとっくに経営が行き詰まっていたはずのゾンビ企業が震災手形で生き残ったことです。さらに不良債権は蓄積・拡大され、銀行経営を圧迫、高金利は生産性向上の決意を鈍らせ、いっそうの競争力の低下につながりました。

毎年のように経営が行き詰まる企業があわられ、融資していた銀行が破綻します。個別企業の機関銀行という性格を持つ銀行も多く、信用には疑問符がつくものもおおかったのです。

こうして「こうした事態を抜本的に改善せねば、日本はじり貧になる。とりあえず、不良債権の解消をしなければ」との共通認識が高まりました。
そうしたなかで震災手形の償還期限が1927年と迫ります。このままでは、大量の不渡り手形が出て多くの銀行が破綻する危機が予測される事態されました。

金融恐慌~日本経済のハードランディング

1927年、当時は第一次若槻礼次郎憲政会内閣、大蔵大臣は片岡直温(なおはる)です。片岡は震災手形を政府・日銀の肩代わりで解消するというソフトランディングをめざします。第二党である政友会と政局にしないということで話をつけました。ところが憲政会と第三党政友本党の統合の動きが明らかになると、政友会は一変、憲政会の関連企業の救済策であると激しく攻撃します。追求された片岡蔵相が、まだ倒産していない銀行を倒産したと答弁したことから取り付け騒ぎが発生、中小銀行が連鎖倒産しました。こうして始まったのが金融恐慌でした。

 

しかし問題はこれからでした。実は不良債権の多くは大戦中急速に規模を拡大し、四大財閥に肩を並べる勢いであった鈴木商店のものでした。この段階で「ゾンビ」は数社に限定されつつあったのです。その最大のものがこの会社でした。しかし、その規模は巨大で負債額も桁違いでした。リーマン不況のときのフレーズに「大きすぎて潰せない(Too Big Too Fail)」というのがありましたが、まさにこれです。さらに鈴木商店の事実上のメインバンクが日本銀行の台湾版ともいえる台湾銀行でした。台湾銀行は鈴木商会の経営を危惧した銀行の分も引き受けざるを得ず、負債が膨らみます。この台湾銀行が金融恐慌のなか、鈴木商店への新規貸し付けを停止しました。

資金繰りに窮した鈴木商店は倒産、大量の負債をかかえる台湾銀行は他行からの短期貸付が中止され倒産の危機に瀕しました。とはいえ政府は発券銀行(台湾紙幣を発行する権限を持つ)である台湾銀行を倒産させるわけにはいきません。議会閉会中ということもあり、政府は台湾銀行救済のための緊急勅令の発布を枢密院に求めます。しかし勅令発布の審査に当たる枢密院はこれを拒否、若槻内閣は総辞職を余儀なくされました。

その後、金融恐慌は新たに成立した田中義一政友会内閣・高橋是清大蔵大臣が「モラトリアム(支払い猶予令)」を発し、さらに日銀の大量融資で金融恐慌を収束しました。
この間、29の銀行が休業におちいり、預金の多くが払い戻されないという事態も発生しました。
他方、この29行だけでなく、この間、人々はいろいろな銀行から預金を引き出します。そのお金をタンス預金で置いておく人もいましたが、多くはより安心できる場所として郵便貯金や財閥系の大銀行へ預けました。
金融恐慌と、新たに制定された銀行法の結果、中小銀行の多くは廃業や合併をせまられ、1926年末1420行あった普通銀行は1928年末には881行1930年末には781行と半減しました。
中小銀行が姿を消すということは、地方や中小企業へ資金がいきわたりにくくなったことでもあり、地方・中小企業は資金難に苦しみます。他方、財閥系銀行は集まりすぎた預金の貸出先に窮し、海外の銀行などへ預金されます。
結果として、金融恐慌は銀行がためこんでいた不良債権処理をハードランディングの形で解消したことになります。この結果、昭和恐慌では銀行の倒産などはあまり話題に上らず、アメリカと比べてると被害は限定的でした。
その分、資金が手に入れにくくなった地方や中小企業などへ被害が集中したのです。

資金と企業の財閥への集中

倒産した鈴木商会は、番頭・金子直吉のもとで、新興の産業に積極的に投資、現在につながる優良企業を多く育てました。こうした企業、たとえば神戸製鋼や日本製粉、日商岩井などは財閥に吸収され、その傘下にはいります。財閥はこのようにして新興の産業分野にウィングをひろげました
他方、金融恐慌のなかで古河などいわゆる二流財閥は力を失いました。三大財閥の銀行に大量の資金があつまり、商事会社とともに財閥の中心産業となりました。こうして財閥は財閥家族の持株会社の下に、多くの子会社・孫会社を傘下におく一大コンツェルンとなっていきます。

金融恐慌は、1920年代日本を苦しめていた多くの負債を清算し、生産性=対外競争力の低い企業は退場させるハードランディングの性格をもっていました。このなかで財産を失い、職を失う人々も多くうまれました。この混乱のあとに見えてきたのは、三井三菱住友の三大財閥が、有力企業の1/5、払込資本の1/8をしめるという独占資本が圧倒的な影響力を有する日本経済でした。

1920年代の経済①~「マクロの成長」

さきにみたように、武田晴人は、1920年代を「マクロの成長」(経済の相対的高成長)と「ミクロの不況」(企業経営の動揺)の併存状態としてとらえ、「成長とは裏腹に好況感から遠い状況の下にあった」(『帝国主義と民本主義』)と記しました。
高い経済成長率
右図のように、1890年代以降日本の経済成長率は右肩上がりで伸び、その勢いは1920年代になっても変わりません。マクロ面での成長は、他の国々と比較して順調でした。
講座派が示したモデル、すなわち農村の地主・小作関係を基礎とした低賃金構造、生糸と綿工業の二本柱の奇形的な発展、国民の貧困による国内市場の狭隘さ、というモデルとは違う姿が見えてきます。
工業では、生糸と綿工業の二本柱に加えて重化学工業が定着し始めます。大戦中に進んだエネルギー転換はこの時期に本格化し電力業の成長を支えます。都市化を背景に鉄道業も成長、製品別生産額にも衣食住の都市化・洋風化、大衆文化の広がりが反映されます。
しかし鉄鋼など重工業は復興しつつあるヨーロッパ諸国との価格競争や質の低さから国内の大きな需要をとりこめず苦戦を強いられています。機械も高度なものは欧米に依存していました。

都市化の進展と実質賃金の上昇

農村・農業中心の産業構造は、都市・商工業中心の産業構造へと変化していきます。出稼ぎ型の年少女子労働だけでなく男子熟練労働者が増加します。労働力不足は都市雑業層の多くを労働者階級のなかに組みこみ、さらに農村から都市への人口移動を促します。都市化は食料を中心とする物価、とくに主食である米価を押し上げます。1917年の米騒動は米価に追いつかない賃金など収入との間のギャップを押し広げることによって発生しました。
労働力不足と米騒動を引き起こした物価上昇は、結果としての賃金などの上昇をもたらしました。賃金上昇傾向は物価が安定しさらに低落傾向を見せるにもかかわらず継続します。こうした動きは物価の下落とあいまって実質賃金の上昇となりました。

国内市場・個人消費の拡大
客観的には低賃金ではあるものの、こうした動きが国内市場・個人消費を拡大させます。これにくわえ、大戦景気以来のブルジョワジーの増加、経営の高度化に伴う俸給生活者の増加といった新中間層の広がりが個人消費の伸びを支えました。輸出の不振、設備投資の弱さなど多くの問題を抱えつつも、サービス業など第三次産業が発展しました。都市を中心に大衆文化が定着、豊かさを求めます。そしてアメリカの大衆文化への憧れが高まります

小作争議と農村の民主化

都市の発展は、半封建的な地主小作関係のもとにあった農村の姿も変化させました。農村からの人口流出が急速にすすみます。労働力の減少は賃金(手間賃)の上昇をひきおこしました。
出稼ぎなどでの都市体験・軍隊の経験、教育の普及は、農業日雇いの水準をはるかに下回る自分の収入の実態を自覚させ、土地所有関係や旧来の社会的立場に支配される農村社会への疑問を懐かせます。そして自分たちの尊厳を守るべきだといった考えが広がりました。こうして、1920年代の小作争議が広がりを見せます。地方議会ついで衆議院の普通選挙が、農民運動とあいまって農村の姿を変化させました。
講座派が描き出す農村の半封建的諸関係は農民たちによって改められつつあったのです。こうした運動に支えられ、講座派や猪俣ら労農派も農村の地主小作関係の意味を問い直したのです。

1920年代の日本②~「ミクロの不況」

他方、1920年代は「ミクロの不況」の時代でした。
大戦景気とつづく好況は、大量の供給を可能にします。しかし、無理な規模拡大と古い施設設備と大量の労働力に依存した生産力の低さは1920年の戦後恐慌以降、日本経済を苦しめつづけます。不採算部門からくる不良債権が銀行にのしかかっていたため高金利がつづき、積極的な投資は控えらるという悪循環におちいっていたのです。抜本的な解決をとることができないまま、多くの企業や銀行が倒産・廃業に追い込まれました。

大企業での安定した労使関係と中小企業での不安定さ
業績が安定した大企業重化学工業などの熟練を求められる部門では、優秀な労働者を定着させ、「帰属意識」をたかめる優遇策がはじまります。のちに日本的経営の典型と言われる「年功序列」「終身雇用制」はこの時期にはじまり、労使協調といった傾向もでてきます。こうした動きは大企業の事務部門でもすすみました。

そして中小企業との間で「規模別賃金格差」が生まれます。経営の不安定な中小企業賃金が低く、労働環境も劣悪で、労働者の定着率も低かったのです。
労使協調の動きを見せる大企業労働者、過酷な条件の中で激しい闘いを繰り広げる中小企業の現場、労働戦線分裂の背景にはこうした問題も隠れていました。
金融恐慌が解決した課題と深刻化した矛盾
関東大震災にさいしての救済策は、結果として矛盾を先送りし、震災手形処理問題という形で吹き出します。そのソフトランディングに失敗、炎上したのが1927年の金融恐慌でした。

金本位制をめぐる年表

金融恐慌は、結果として銀行の負債を預金者などの犠牲で償却するというハードランディングとなりました。
その結果、三大財閥による産業・経済支配をおし進めるとともに、中小の弱小企業の金融アクセスをより困難にしました。経営上の危機はつづきます。
他方、金融恐慌を乗り越えたとはいえ、重化学工業を中心に、日本製品の国際競争力はまだ低く、貿易赤字はつづきます。「この際、生産性の低い不採算部門を整理し、産業構造の合理化・近代化をすすめるべきだ」という議論も高まります。
さらに、フランスが1928年金本位制に復帰し、のこる国は日本のみという状態になります。外交の基調である国際協調という意味からも、貿易活動の円滑化という意味からも、金解禁が現実問題として提起されるようになっていきます。

<講座「経済史で見る日本近代」メニューとリンク>

1:経済史研究の原点~講座派の遺産
2:日本経済の「三本柱」と大戦景気
3:生産額のランキングからみた1920年代
4:金融恐慌と戦前社会の変化
5:金解禁断行と昭和恐慌の発生
6:世界恐慌の発生
7:昭和恐慌下の日本
8:昭和恐慌からの脱出と高橋財政の功罪(NEW)
9:総動員体制の成立(「戦時下の社会」より)

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