歴史系用語の精選問題にかかわって

歴史系用語の精選問題にかかわって
~元高校教師の視点から

 

歴史教科書の実態から

まず、実際使われている(いた)教科書を見ていただきたい。

山川出版社「詳説日本史」P225

手元にあった「詳説日本史」の1ページ「宝暦・天明期の文化」のなかの1ページ(P225)である。
ここに記載される人名本文の太字で6人(青木昆陽・野呂元丈・前野良沢・杉田玄白・稲村三伯・平賀源内)通常の文字で5人(西川如見・新井白石・大塚玄沢・宇田川玄瑞)、注釈や写真説明で2人(シドッチ・山脇東洋)、さらに表中でさらに8名(略)。計22名がこの1ページのなかで登場する。さらに書名7冊(解体新書・ハルマ和解・采覧異言・西洋紀聞・蔵志・蘭学階梯・西説内科撰要)、その他、塾の名前(芝蘭堂)などもある。
この部分は、文化史なので、多めではあるが、こうした叙述が、この教科書では415ページにわたって続く。

コラムなど省略しやすい部分があるので、約400ページ、この膨大な量が高校で授業すべき対象として期待され、大学入試の「試験範囲」となる。
さらに、大学の先生には常識であっても、高校では常識でない問題、教科書に記載されない問題が出題され、さらに教科書に載せられる用語が増える。
 かつて「天台宗の中心になる経典は」という問題(答、わかりますか:「法華経」ですよ!)が出題され、翌年にはもう教科書に載っていた。

1日50分間の授業のノルマは3ページ強

本来、日本史Bは4単位であり、実際には授業時間数は120時間程度なので、1時間に3ページ以上進むことを前提に教科書は編纂されている
さきに掲げた部分なら、「宝暦・天明期の文化」全体で約7ページなので、授業時間2回分となる。掲げた分は、洋学(蘭学)でまとまっているのでやりやすいが、これを15分で終わらせられるか。儒学は、江戸期全体(室町期も)もにらみながら、授業するのでさらに厄介だ。
本当に可能か考えていただきたい。精選しつつ教える。「入試に出るかも」という不安を抱えながら。
入試に対応する「質」を求めると、ここで示した部分だけで1時間近くかかるだろう。「思考力育成型の授業と両立可能な用語数は一時間の授業数で15語程度」という指摘からすれば、このページだけでオーバーする。1日1ページならば、鎌倉・室町で年間時間数を使い切る。
 「学校では近現代史まで教えてくれない!」という批判に、「当然じゃないか」と居直りたくなる理由をわかっていただきたい。

実際の授業では

では「宝暦・天明期の文化」全7ページを2時間、さきにみたようにこの部分は15分程度で仕上げる。
私の例を挙げよう。「授業中継(開国前夜)」では、以下のような感じとなる。

**************

蘭学も広がりを見せた。

解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225


蘭学とは、オランダ語を学び、それを元に世界の文化に触れようとする学問だ。
蘭学は、実際の人体解剖に立ち会った医師の前野良沢・杉田玄白らが、もっていたオランダ解剖書の挿絵のあまりの正確さに衝撃を受けこの本の翻訳をはじめる。いわば中学校1年の単語帳だけで医学専門書を翻訳する感じだ。
そうした努力の上に、オランダ語、さらには西洋文化の知識を蓄積される。その蓄積は辞書や文法書を作るなどの形となり、オランダ人らから直接学ぶといった過程を経ていく。そして世界の知識に飢えていた知識人(おもに医師)の中に急速に広がっていった。
18世紀後半には、その興味は医学だけにはとどまらなくなっていく。すでに18世紀中期には平賀源内のようなあらゆる分野に興味を示す人物が出現したが、この時期には林子平のように世界情勢を深く理解し、日本のあり方に警鐘を鳴らす者も現れてきた。
田沼意次はこうした動きを好意的であったが、松平定信は「幕府が世界の知識を独占すべきだ」との立場から、こうした動きを危険視、林のように弾圧されることもあった。

 これにエピソードを加えて15分。「日本史A」での内容なのでこれでいいが、入試を考えた「日本史B」では厳しい。

<板書例>
2,宝暦・天明期の文化
a.洋学
 蘭学・・吉宗期の漢訳洋書の輸入緩和とオランダ語学習(青木昆陽ら)
 18C後期、前野良沢・杉田玄白ら・・「解体新書」=オランダ語文献を翻訳
  ⇒その過程での知識の積み上げ(蘭学隆盛へ)
     蘭日辞書「ハルマ和解」や文法書
           ↓
 医学から他の分野への興味の高まり(←幕府の弾圧も)
平賀源内・・「万能の天才」

 本来ならこの程度。
黒板に書き、ノートに採らせる。それで数分。
これに「解体新書」のエピソードや源内の活躍と死(たとえば、「玄白の追悼文」を紹介)、なぜ幕府が蘭学を弾圧したか、などを紹介して、15分という展開となる。時間があれば、芝蘭堂に大黒屋光大夫がきた話なども。

教えきれないからプリントを使用するが・・

ただ、これは勤務校がそれほどの進学校でなかったからできるので、進学校で通用しない。
なぜなら、入試で出題される中心は「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」であり「芝蘭堂」や「蔵志」であり、私の板書にはあまり入っていない。
決して杉田玄白・前野良沢・平賀源内ではない。
 受験に対応していないとなる。

実は、ここで記した範囲は、授業で実施できなかった内容である。単純に時間不足だから。幕末維新史を残すか、こちらを残すかの判断で、カットした。
少し余裕があれば、上記「授業中継」程度の内容をさらっととながす程度である。そして、補習回しとなるが、人数不足からめったに開講されない。

板書には時間がかかるという場合とか、より正確な説明と密度を濃くしたいという場合はプリントを用いる。
板書にもどした時期も文化だけはプリントを用いることが多かった。
しかし、こうしたプリントをつくっても、多くの生徒は空欄に赤ボールペンで答を写すだけ。試験前に赤い下敷きで隠してその部分を覚えるだけ。

歴史の授業は構造的に消化不良を起こす!

丁寧に教えるべきことには時間をかけて教えたい。近現代まで教えたい。これから生きていく上で指針となったり、役立つことを身につけさせたい、私はそうおもって、歴史の教師となり、教えようとしてきた。
しかし、そのような余裕は全くなく、時間と、授業という形式(この点については別の機会に述べたい)のため、困難であった。
どうあるべきか。
一つは、いっそうの時間保障がなされることである。どの学校でも、いろいろな口実を付けて時間数を増やそうとしている。しかし、行政側は、いろいろなけちを付け、もし増加単位を置くとすれば、訳のわからない科目名をつけ、やれる訳のない教案まで要求する。そうとはいいながら、こうしたフィクションを行いながら、多くの学校で時間数を増やしている。
いま一つは、教えきれるわけもないまま、入試の都合や研究成果を盛り込みたい学界の都合などから押し込まれる膨大な歴史用語を精選するしかない
入試や教科書から来ている以上、ある程度「外側からの力」をもって精選を図るしかない。ただその精選は国家権力によるものであってはいけない。あくまでも、教育現場と研究現場が、国民的、世界市民的教養とはなにかを考えて行うべきものである。

放置すれば、歴史教育は、さらに暗記のみを強要する無駄なものとなる。入試と教科書において、歴史用語と内容の肥大化をなんとか押しとどめるガイドラインを出さねば、歴史教育の新たな展開はない。

このままでは歴史教育は崩壊しかねない。

実は、私自身、生徒たちにセンター試験のみで必要という者にたいし「世界史や日本史を選択すべきでない」と指導してきた。努力に対し、結果との乖離(コストパフォーマンス?の悪さ)があまりにも大きすぎる。
このまま「歴史総合」2単位の教科書が編成され、さらに他の「日本史探究」「世界史探究」などの選択科目が置かれ、単位数削減にさらされるとするならば、歴史教育はさらなる用語の羅列となる可能性が大きい。
無政府的に示された歴史用語から配慮なしに入試問題がつくられるという悪夢すら想定できる。2単位であることを看過したまま。

入試至上主義の高校からは歴史科目は消え去る動きが表面化したのが、世界史未履修問題であった。あまりに難度が高まり、些末に流れる「歴史」科目自体が、まとめて教育から消去されかねない。

高大連携歴史教育研究会の提案

こうした危機感の中を背景に、2011年「学術研究者の国会」ともいうべき、日本学術会議が、国民および世界市民として学ばねばならない教養としての歴史の最低限を「歴史基礎」(および「地理基礎」)にまとめて新設必履修化すること、そしてそうした最低限およびその発展した内容と視点の歴史用語精選を提案したのである。

この流れにしたがって蛮勇をふるって汚れ役を引き受けて原案を出していただいたのが高大連携歴史教育研究会の皆さんであると理解している。 それは、指導要領に影響されつつも、あくまでも現実の歴史教育の当面する問題を検討し、歴史学と歴史教育のあり方を検討するなかで出てきたものである。

今回の精選案(高等学校教科書および大学入試における歴史系用語精選の提案(第一次))に対しては、いくつかの誤解がつきまとっている。
ひとつめは、「精選」の主体を、文部科学省・中央教育審議会などといった政府系の機関と考える誤解である。こうした機関が上意下達的に提出したといった印象で見られがちである。
しかし、実際は日本学術会議の分科会による「関係学会などで重要用語を精選するガイドラインを作成し、大学入試の出題をそのガイドライン内で行うとともに、歴史的思考力を問う問題を増やすように働きかけていく」という提案にもとづくものであり、民間の「高等学校歴史教育研究会」が学術会議などで行った高大の現場アンケートを元に試案を作成し、「大学と高校の教員の交流を可能にする全国的規模の研究会の必要性が痛感されるようになり」2015年に発足した高大連携歴史教育研究会で検討、作成したものである。
今回公表されたものは第一次案で、2018年2月までにアンケート等によって意見を集約し、2017年度中に最終案を発表するとしている。
今回の精選案は、アンケート調査のための具体例として出されている。精選の是非、精選の考え方、具体的な用語選定など、高大連携歴史教育研究会へアンケートを集中することによって、より多くの意見を集約したいとしている。
※なお、アンケートは高大連携歴史教育研究会のホームページからも回答をすることができる。このページからもリンクしておくことにする。

是非、アンケートを寄せていただきたい。

さらに、本年度中にだされる、最終案自体も「学習指導要領」のように、それ自体が権力的に扱われるものではない。こうした考え方と具体例を示すことで、新たな教科書編成や入試などへ活かしてもらえるよう働きかけるという性格を持つものである。

精選によって「龍馬」が消えるわけでない。

なお、多くの人が誤解をしているのは、この精選によって、今まで載っていた語句が教科書に載らなくなるのではないかという点である。
もっともポイントとなる部分を「提案」から引用することにする。

このガイドラインに記載された用語を教科書で「基礎用語」として本文に記載し、大学入試でも知識として問うのはこの範囲に限定する、それ以外の用語については、例えば、教科書では「発展用語」などの扱いで資料や図表・課題中に含めて自主的な学びに導く、入試でも大学入試でその知識を求めることはしないが、基礎用語の知識と組み合わせで解答すべき資料中に使うことは制限しないというやり方で、高等学校の歴史教育に柔軟性と多様性を保証することが期待されます。(中略)
また授業内容や教科書執筆全体については、本用語精選案がリスト外の用語を、授業中に例示することや教科書の資料・図表やコラムなどに掲載することを否定してはいないことをよくよくご理解いただきたいと思います。精選(制限)を提案しているのは、「教科書本文に掲載し、入試で必須暗記事項として扱う」用語だけです。

 今回精選のリストから外れた坂本龍馬や吉田松陰であっても、教科書の本文には載らず、入試には出ない(現実問題として、そんな簡単な問題が出るとは思えないが)ということであって、教科書執筆に当たっては、資料や図表にだすことは可能であるし、後で示す理由から、脚注などでの補足にも記される可能性が高いと考えられる。
もちろん、高校の定期考査などでは出題可能であるし、私が現役の高校歴史教師であっても、気にせず出題する。

精選の具体例を見ていこう。

ちなみに、今回の精選提案において、先に示した「洋学」のページに関わり合いがあるのは
蘭学・杉田玄白・解体新書・平賀源内と、他の場所に記載がある新井白石に限定される。
人名では13人が3人、書名では7冊が1冊に減ることになる。
しかし、私の授業がらみでいえば、消えた人物が前野良沢・青木昆陽、書名が「ハルマ和解」くらいであり、実際の授業内容から見て違和感はない。(ただ、寛政期の林子平が消えていることは、やや違和感もあるが)
さらに、2日で扱う内容となる「宝暦・天明期の文化」全7ページ分では本文中の人名約40名(脚注・表を加えるとゆうに100人を越える!)が8名となっている。

残されたのはこれだけ。「<項目>歴史用語、で記す」
<蘭学>蘭学、杉田玄白、「解体新書」、平賀源内
<国学>国学、本居宣長、塙保己一、尊王論、頼山陽
<儒学>朱子学、藩校、郷学
<教育と思想>心学、石田梅岩、寺子屋、安藤昌益、通俗道徳
<文学・芸能>与謝蕪村、川柳、『仮名手本忠臣蔵』
<美術>錦絵、喜多川歌麿、東洲斎写楽

以上となる。さらに先ほどの新井白石のように別の場所で出てくる内容もある。

「こんなに減らされてやっていけるか!」という人もいるし、「それでも、まだこんなに覚えなければならないの!」という人もいるだろう。

幕末・維新期や戦国期ではどうか

もっとも意見が出されている幕末~維新についても見ていく。まず人名。
今回は《学習内容》と人名という形で記す。

《開国前後の世界》ペリー、ハリス、プチャーチン、孝明天皇
《開国とその影響》徳川家茂、徳川慶喜、井伊直弼、勝海舟
《尊王攘夷から倒幕へ》和宮
《廃藩置県の断行》明治天皇
《明治初期の諸改革》大久保利通、岩崎弥太郎、渋沢栄一
《明治初期の外交と国境問題》岩倉具視
《明治初期の国内政治》西郷隆盛、板垣退助、木戸孝允
《文明開化》福澤諭吉
《他の部分で》井上馨、伊藤博文、山県有朋、大隈重信

山川出版社「詳説日本史」のなかの太字(重要人物)で消えているのは、以下の10名である。

 

ビッドル、阿部正弘、堀田正睦、徳川家定、三条実美、高杉晋作、中村正直、前嶋密、尚泰(上記の範囲内で)
吉田松陰(化政文化の項で)

なお、話題に中心である坂本龍馬はもともと一般語句の扱い、近藤勇は脚注、すでに現在の教科書の扱いでもこうである。しかし、「一般語句なのに勝海舟が入った」とのだからという理屈も成り立つ。

しかし、他の語句をよく見ると《尊王攘夷から倒幕へ》のなかに、「安政の大獄」があるので松陰が、「薩長連合」があるので坂本が、長州征討があるので高杉が、禁門の変三条が、それぞれ触れられることは、授業の進めかたとして普通である。精選に際し、人名と出来事、どちらか一つを選んだ結果と考えられる。教科書の脚注などに記されることが予想されているし、そうでなくとも教師が授業のなかで補足することも想定していると考えられる。

さらに話題となる戦国大名であるが、リストには

北条早雲、毛利氏、長宗我部氏、北条氏、武田氏、今川氏、朝倉氏、島津氏、大友氏、伊達氏

と11の戦国大名家が選ばれている。こんなに多く必要とは思えない、地図や表で十分!という方が私の印象である。

誤解に基づく「用語精選」批判

ところが、精選については、総論賛成、各論反対は世の常である。予想通り、多くの反論が出てきた。まず出てきたのは、坂本龍馬や吉田松陰など自分の好みの人物が外されたという、マスコミ受けのする批判である。
この批判は、すでに見たし、研究会を主導する桃木至郎氏が何度も発言するように誤解に基づくものである。精選の対象は入試(しかも、その知識が正誤にかかわる出題のみ)と教科書本文についてである。つまり、例示や表などは使用可能である。そもそも、授業展開のシーンでは具体的な名前を入れた方がよいに決まっている。
私の「授業中継」で例を挙げれば、武田信玄の領国制を説明する中で、分国法や喧嘩両成敗による家臣団の統制、金山開発などの富国強兵策などを説明し、そこから目を転じて寄親寄子制、武士や商人らの城下町集住、指出検地、貫高制などに話を及ぼすというやり方は可能だし、そうした方が戦国大名を全体として理解できる。最終的に入試に武田信玄は出題されなくても、何ら問題はない。自分の学校の考査で出題することはなんの問題もない。

同様に、坂本龍馬や吉田松陰らを例にとって幕末期を説明することは何ら問題ないし、そうした方がいいのかもしれない。すべての教科書が横並びにその名前を出す必要はないし、入試にはでないと考えればいいのである。

これにより教科書としても、教師としてもさまざまな授業展開を可能にできる。校内の考査においてはいくら出してもかまわない。今まで教科書に出ていないものでもよい。考査は、教師の授業展開にかかわって出題すればいいものなのだから。

「国定教科書」意識は捨てるべき

多くの批判を見て感じるのは、多くの人の意識に「国定教科書」的な意識がこびりつきすぎているのではないか。教科書の本文には原則としてださないことは教えないことではない。
 高校生すべてが、坂本龍馬や吉田松陰の名前を知らなくともいいのじゃないか、全国のすべての人間が龍馬の名前を横並びで覚える必要はないというだけだ。だから入試にも出さない。
逆にいえば、他の用語も減り、時間的に余裕ができるのだから龍馬や松陰を使って、より丁寧に幕末を教える余裕もできる。授業であつかわれる龍馬や松陰の「名前」は入試にでないが、彼らがかかわった尊王攘夷運動、長州征討、薩長連合は入試にでる。自分の地域にかかわる人物を用いて尊王攘夷運動を説明できるのならそれでもかまわない。定期考査にも出題する。
武田信玄の代わりに、長宗我部元親で説明しても、伊達政宗を使って戦国大名を説明してよい。
とりあえず、記憶が自己目的化している歴史から歴史教育を解放しようということだと私は理解した。
かつての「ゆとり教育」の再現だという的外れの批判もあるが、意味のないような記憶でなく、さまざまなアプローチを可能にすることの方が大切だ。
「言葉を閉ざす」という批判もあるが、人の名前だけを意味もなく覚えることが「言葉を閉ざす」のだろうか。私が挙げた例でいえば、「稲村三伯」「ハルマ和解」「宇田川玄随」「小田野直武」「芝蘭堂」「蔵志」とぞろぞろと人の名前を覚えることにどれだけの意味があるのだろうか。
ターヘルアナトミアを中学校一年生単語だけで訳していく中で、どのようにして言語を習得したのか、学んだ単語を積み重ねることで辞書をつくり(「ハルマ和解」)、文法書をつくり、それでどのように世界を読み解いていったのか、読み解いた世界と日本の現実のギャップにどう向き合っていったのか。それを考えた方が、国際理解や言語習得の意味を深く考えられるのではないか。

芝蘭堂に集まった蘭学者たち

学ぶための共同体がつくられ、いかに協力し合ったのか。「芝蘭堂」の会合に参加した大黒屋光太夫が世界をどう紹介したか、蘭学者たちがその情報をどのように感じさせたか、説明した方がよほど「言葉を開く」。
そのなかで、必要に応じて、さりげなく、こんな人もいたよと人名を出せばいいのではないか。
歴史の流れから切り離された人名や歴史用語をマーカーで線を引かせて「さあ覚えなさい」の授業が「言葉を閉ざさない」とは私には思えない。

教科書は「厚い」方がよい!

そもそも、私自身は教科書は厚い方がよいと思っている。(ツイッターで見る限り、桃木氏も同じ考えを持っておられるようである)。教科書には、さまざまな事例が紹介され、史・資料の内容がだされ、その中から、教師(場合によっては生徒も)が、内容をチョイスし、学び、現代につながる課題を読み取っていく。それが最もよいと思っている。
問題は教科書に書いてあるすべてを記憶するものと位置づけていることだ
世界史研究の発展の中、「なぜ世界史にアフリカが登場しないのか?」「世界システム論という考え方をぜひ紹介したい!」といった声が研究者から、さらに教育者の側からも出された。それは、正しい議論であろう。しかし、今までのものが精選されないまま、教科書に反映され、新たに付け加えられた。結果は入試で扱われる内容が増えただけだった。しかも新傾向として。

内容が妥当なだけに悲しかった。結局、「さらに教えなければならないことが増えた」「さらに覚えなければならないことが増え、入試が難しくなった」との反発を受ける。あるべき世界史像を普及させようという思いが、入試という観点から拒絶される。教科書に書いてもらいたい、書くべき内容が、生徒の消化不良を促進し、入試での忌避、歴史嫌いを増やす。
理由もなく、あるいは考える余裕もなく記憶せざるを得ないものを「入試には出しません」「入試に出す可能性があるのはこの内容です」と宣言し、あとは教科書を作成する人たちと現場の教師たちの創意を活かせばいいというのが趣旨であると考える。

「精選」のさいの検討事項も

以上のような点から、私は今回の歴史用語精選はやむを得ないと考え、基本的に支持をしたい。
 ただ、検討すべき内容もある。
生徒、とくに学力に課題のある生徒にとってはみれば、何も考えず、論理構造も考えず、丸覚えする方が楽なのだ。とりあえず、言葉だけを必死になって詰め込み、「主義」がついているものには、覚えてきた「主義」がつくことばを、資本主義か、ロマン主義か、正統主義かなど、全く考えず埋め込む、そして赤点ぎりぎりで、なんとか単位認定してもらう、という現場がある。
一つ一つの「主義」を、抽象的・概念的用語を丁寧に学ばせ、理解させる方が、実はよっぽど大変なのだ。何も考えず「丸覚えする」歴史教科がさらに難しくなることにつながるし、教える側の努力も必要だ。
抽象的・概念的用語も、理解しないまま、事実の裏付けもないまま暗記させる恐れもある。歴史的な事実と結びついた形で歴史理論が組み立てるのはかまわないが、その理論を導き出した事実的裏付けなしに歴史理論だけを覚えるのならそれは非科学的なものといわざるを得ない
とくに、新科目「歴史総合」はそういった可能性が強いだけに注意が必要である。
こうした課題についても、目を向けていく必要があろう。

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

日本を変えた2つの「1868」年1月3日~「暦」をめぐる話

1867年12月9日でない「1867」年12月9日が存在する!

山川出版社「詳説日本史」P259所収の表より抄録

歴史の教科書には1867年12月9日ではない、「1867」年12月9日という不思議な日が存在します。なにを訳のわからないことをいっているのかと怒られそうですが、そんなことが存在するのです。
ちょっと詳しい人ならわかりますよね。明治6年1月1日以前、日本は旧暦で日付を表記していました。だから、ズレが生じていたこと。そして、面倒くさいものだから、教科書を含み多くの書物では、1868年=慶応4年または明治元年という等式で書きます。したがって慶応3年12月9日は「1867」年12月9日と書かれてしまうのです。
もし、その時代に飛行機があって、江戸からロンドンへ飛んだりしたら、約1ヶ月ぐらい時間を飛び越えたことになったのでしょうね。
今回も、大学の講義で学んだことを紹介しつつ、記していきます。

1868年1月3日~王政復古のクーデタ

さて、括弧付きの「1867」年12月9日、つまり慶応3年12月9日は、欧米では1868年1月3日でした。
その日、岩倉具視は大久保らと組んでクーデタを決行、天皇親政を宣言した王政復古の大号令が発せられました。そして、夕刻からは小御所会議が開かれ、岩倉や大久保、西郷と、山内豊信や松平慶永らとの間で、どなりあいをも含む、息詰まるようなドラマが演じられた日として知られています。(どこまでが本当か、近年は疑問視されていますが)これによって、旧幕府は日本の統治権を完全に失い、天皇中心の新政府が生まれました。
しかし、クーデタや小御所会議に参加したメンバーは、こうしたやり方に反対していました。大政奉還などにおける徳川慶喜の行動を評価し、慶喜が新政府にしかるべき地位で参加するべきだと考えていたのです。
この日以後、活躍が目立つのは、瞬発力の豊信でなく持久力の慶永らです。慶喜を新政府の中に組み込むための工作がすすみます。実は、新政府内で、慶喜を排除しようというのは、大久保ら薩摩、朝敵の汚名を着せられた長州、そして岩倉を中心とするごく一部の公家だけです。しかも、岩倉にしても、薩長が力を持ちすぎるのについては心配しています。こうして慶永らの工作が功を奏しはじめます。徳川家の責任を追及し、慶喜の官位と領地を朝廷に返還せよという「辞官納地」の要求は事実上骨抜きとなりました。さらに、慶永らは、慶喜を議定として参加させようと画策、ついに岩倉も折れて、慶喜が新政府に議定として参画することが内定しました
もし、慶喜が新政府に入るとどうでしょうか。新政府の議定の大部分は徳川家を議長格にした公議政体論を求めてきた人たちで、江戸時代の上下関係が新政府部内でも反映することは、容易に想像がつきます。なんといっても将軍家の親戚筋(親藩)や将軍への忠義の強い大名たちです。参予も、そうした大名の家臣です。さらに、慶喜の頭脳明晰さと言説の鋭さ、かつて神童と呼ばれその能力はずば抜けています。多くの議定や参予が支持したでしょうし、さすがの岩倉も、大久保も、対抗するのは困難だったでしょう。西郷が小御所会議でいったという「短刀一本で勝負がつく」という事態が発生していたかもしれません。
これが慶応3年の年末、1868年の1月の状況でした。王政復古のクーデターは失敗に終わる直前でした。大久保や西郷、木戸といった連中は、それを覚悟していたかもしれない状況でした。

「1868」年1月3日~鳥羽伏見の戦い発生

こうした事態が急変したのが、年が明けて慶応4年の1月3日、今度はカギ括弧つきの「1868」(慶応4)年1月3日です。(カッコなしの西暦標記では1868年1月27日)
江戸では、薩摩側が行っていた江戸攪乱工作への反発から、庄内藩などが薩摩藩邸を襲撃、これが大坂につたわると、慶喜配下の旧幕府側武士たちがいきり立ち、「京都進発」を主張、慶喜もそれを認めます。

しかし、「京都進発」とは何でしょうか。戦争に訴えるのなら作戦を練って多方面から攻撃すべきだし、平和的に抗議したり、議定就任の請状を提出するのなら、少数で行くべきでした。どちらの方法でも旧幕府側の有利は動かない状況でした。
ところが、旧幕府側は最悪のやり方をします。時代錯誤の感覚が彼らを動かしていました。将軍の軍隊が「まかり通る」といえば、黄門様の印籠を出された武士のように恐れ入るという感覚でしかなかったかとしか思えません。当初より、戦闘意欲旺盛な薩摩・長州の武士たちは、江戸期のフツウの武士ではないことを理解できなかったのでしょう。こんな風だからこそ、幕府は滅びなければならなかったのかもしれません。
ともあれ旧幕府側はたたかいには不向きな隊列で京に向かい、薩長と衝突しました。鳥羽伏見の戦いです。慶応4(1868)年1月3日のことでした。旧幕軍の武士たちの奮戦もむなしく、旧幕側は敗れ、ショックを受けた慶喜は家臣たちを見捨てて、江戸へと逃げ帰ります。

逆に、戦闘状態になったことで薩長側は、旧幕府は天皇に楯を突く「賊軍」であるというレッテルを貼ることができました。そして自分たちのやり方を「天皇の命令」として押しつけることができるようになります。
慶喜のため尽力した慶永や尾張の徳川慶勝らも新政府側に立ち、慶勝は家中を大粛清、多くの武士が斬られます。
こうして、慶応3年末、1868年1月段階で、風前の灯火であった新政府が、旧幕府側の愚行のおかげで、「天皇の信任」という神話をもとに確立することになりました。

和暦と西暦、この二つの1月3日をターニングポイントとして、日本は新しい時代へとこぎ出しました。

1年は13ヶ月?~閏月の話

もうすこし暦の話をします。太陰暦は月の満ち欠けをもとに、新月から新月までを1ヶ月(約29.5日)とします。ですから1ヶ月は大の月が30日か、小の月が29日となります。月の満ち欠けと一致しますから、かならず15日は満月です。「○月1日は満月であった」なんて小説やドラマがあれば、明らかなミスですね。龍馬が殺害された日は旧暦の11月15日ですので、晴れていれば、満月が見られたはずです。
しかし、おかしなことに気づきませんか。1ヶ月が29~30日ならば、1年は355日となり、太陽暦の1年(365.24日)との間で、1年でほぼ11日のズレが生じます。
イスラム暦は、この点を一切気にしないので、季節と月の関係ががたがたになります。だから断食月(ラマダン)は夏にあったり、冬になったりと、いろいろ大変なのです。1年はもちろん365日ではありません。

映画「天地明察」と日本の暦について

ところが、中国など多くの国では、やはり季節と月がある程度一致した方がよいと考えました。したがって、月の満ち欠けを基本とする太陰暦を太陽の動きで1年を図る太陽暦で補正します。これが太陰太陽暦です。どのように補正するかというと、約3年に1回、1年を13ヶ月としたのです。そのプラスアルファ分の月を閏(うるう)月といいます。中国では殷の時代から始まっていました。
たとえば慶応4(明治元)年の場合では、4月の次に閏(うるう)4月という月がやってきて、その次に5月・6月と続くことになります。

季節とのずれが生じないよう、どこに閏月を入れるかが暦をつくる人たちにまかされます。
江戸時代には、江戸の天文方と京都との間でキャッチボールしながら暦を編成、それにしたがってつくられた暦を伊勢御師など認められた人たちが印刷、配布していました
なお、戊辰戦争のことをしらべていたとき、本来なら閏4月の記事と思われるものが、4月と記されていたり混乱していて、ちょっと困ったことがありました。

 

2日しかなかった明治5年12月~大隈重信の「悪だくみ」

映画「天地明察」と日本の暦についてhttps://www.offinet.com/news/entry_73578.html

和暦(太陰太陽暦)と太陽暦の併存がなくなったのは明治5年12月のことです。岩倉使節団が海外に行っているどさくさ紛れに12月3日を明治6年1月1日にしてしまいます。この年の12月は2日しかなかったのです
では、なぜこの年、太陽暦に変えたのか。「グローバルスタンダードにあわせた」といいそうですが、実際はもっとせこい。明治6年が閏年だったせいです。

大隈重信

わかります?閏年は1年が13ヶ月。だから給料は・・・13回・・・けど、カネがない・・・。もうわかりますね。給料を13回払いたくなかったのです。しかも、「明治5年12月は2日しかない、それもいらないじゃないか!」ということで、2回分の給料をボツったのです。
考えたのは、当時の大蔵省のボス・大隈重信です。
 改暦による混乱はなかったのか。先生の話によると、その通知はぎりぎり(11月9日)だったが、それほど混乱はなかった、百姓は旧暦で生きていたからとの話でした。しかし私には疑義があります。私が卒論で扱った金光教の教祖金光大神(赤沢文治・川手文治郎)のことばのなかに、太陽暦に伴う節句の廃止を「四季節句、五節句は天地のお祭り事。今は節句を廃いておる。すれば、神の祭り事もなし。神への祭り事なければ人への例なし。子孫危うし」として節句や暦を神の祭りと結びつけて捉え、その廃止は民衆世界を脅かすものとして受け止める視点があったからです。
また急に決まったため10月1日から暦の販売に当たっていた業者も、返品の嵐で、数百万部の廃品を抱えることになりました

時間を支配するのは誰か?~昭和から平成へ

青山忠正氏は次のように記します。

時を支配するのは、近代以前では「皇帝」あるいは「王」といった最高統治者です。東アジアならば、中華皇帝が定めた暦を授けられることを「正朔を奉ず」といって、その臣従下に入ることを象徴する意味を持ちました。その意味で、文明の認識基準をヨーロッパタイプに転換する際の、一つのカギに当たる大事件なのですが、一般には文明開化の一端という程度で、軽く見過ごされているようです。(青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017)
 

 金光大神は、直感的にこの象徴性を捉えていたのかもしれません。

新たな元号を「平成」と発表する当時の小渕官房長官

こうした「支配者」による時の支配を私に強く感じさせたのが1989年1月でした。昭和天皇が死亡、1月7日をもって昭和が終わり、平成が始まりました。なぜ僕たちの時間が一人の人物の生死によって決められなければならないのか、強烈な違和感と不快感をもったことを思い出します

もう一つの「1月3日」~坂本龍馬が死んだのは満32歳の誕生日?

最後に、もう一つの1月3日の話をしたいと思います。歴史マニアの人たちにすれば、日本の歴史を変えたもう一つの1月3日といえるかもしれません。
それは1836年1月3日です。そんな日は知らないといわれそうです。これを、和暦に換算すると天保6年11月15日です。
小説などでは「彼が殺害されたのは奇しくも慶応3年11月15日、満32歳の誕生日のことであった」と記される人物の誕生日とされる日です。もうわかりますね。坂本龍馬の誕生日とされる日です。
しかし、ここにはいくつかの問題があります。
1つめ、殺害された日は資料的に裏付けられますが、誕生日を裏付ける史料はありません。記録がないのです。
2つめ、そもそも満年齢という考えがない。
3つめ、満年齢で数えるならば、1歳はおよそ365.25日で計算するはずなのに、西暦換算すると日数が足りない、などなど。
細かい論証は青山氏の前掲書をご覧ください。

<参考文献>

青山忠正「明治維新を読み直す」清文堂2017

広瀬秀雄「日本史小百科 暦」近藤出版社 1978

ブログ・映画「天地明察」と日本の暦について  https://www.offinet.com/news/entry_73578.html

注記、明治6年の改暦のドタバタと、その責任者である大隈の話を書いたところ、その内容ドタバタが、前進座で芝居として上演されたとの話を聞かせて頂きました。ありました。「明治おばけ暦」脚本は、「ゲゲゲの女房」や「八重の桜」の山本むつみだったそうです。一応、リンク貼っておきますね。

「5つの名前」と、壬申戸籍

「5つの名前」と、壬申戸籍
~幕末維新期の「名前」(2)

江戸期の名前の複雑な構造

新潟県村上市の町並み

新潟県村上の内藤家中に鳥居与一左衛門和達という武士がいた。
この人物に興味のある方は、ここを参照してください。
源平藤橘の姓はよくわからないが、先祖は三河の鳥居氏であることは確かである。Wikipediaでは、三河の鳥居家は熊野権現の神職の末裔であり、平清盛から平姓をもらったというから、源平藤橘の「姓」は「」であったとおもわれる。したがって、前回のブログ風に、記すと下のようになる。

鳥居・与一左衛門・平・和達

前回のいい方をすると、鳥居がで、与一左衛門が通称、平が、和達が名(ということになる。

村上・鳥居三家

村上には鳥居家は、代々家老を引き継いできた鳥居本家(内蔵助家)のほかに、早い時期に分出した中鳥居、そして後年になって分出した末鳥居の三家が存在していた。
戊辰戦争で、奥羽越列藩同盟に参加し、「官軍」に敵対した責任を取って切腹(政府の命令は「斬首」)した鳥居三十郎は、本家内蔵助家の出身である。
鳥居三十郎については別稿参照

さて、この二つの分家には別の呼び方がある。末鳥居は杢左衛門家であり、中鳥居の別名が与一左衛門家である。つまり和達の通称のように見える「与一左衛門」は通称ではなく、鳥居家を分類する際に用いられる「家名」でもあり、家長が代々襲名する名であった。
遠山金四郎が、役職に就いてからは「金四郎」でなく「左衛門尉」という官名を名乗ったように、家督を襲名した当主が「氏」とは別に「家名」ともいえる「与一左衛門」を名乗ったのだ。老舗や芸道によくあるものである。
ならば、こうした人々は実際にはどう呼ばれたのであろうか。「家名」でよぶことも多かったであろうが、家族や友人などもっとくだけた場合には使いにくかったと考えられる。また「和達」というような諱は一般には使わない。となれば和達という人間を識別するべき名は公的にはなくなってしまう。
そこで、公的でない場合は、ふだんは通称にあたる別の名を用いていたようである。

鳥居与一左衛門和達と鳥居存九郎

旧鳥居与一左衛門家現況
https://blogs.yahoo.co.jp/orion_chelseaより

現在わかっている「和達」の名を挙げておこう。かれの生まれはよくわからないが、子どもたちの年齢などから逆算すると、天保5(1833)年ころの生まれと想像できる。
安政2(1855)年、藩主信親の近習として江戸住まいをしていた頃の名は「喜代之助」、安政4(1857)藩主の名を受け水谷栄之丞(孫平治)、窪田潜龍とともに樺太探検をおこなった時は「存九郎」、家督を継ぎ、町奉行となってからは「与一左衛門」となる。
郷土史家の大場喜代司氏が当時の史料をもとに記されたと思われる、慶応2年の正月のようすを記したエッセイで、「和達」は「与一左衛門」ではなく「存九郎」と呼ばれている。このことから、平時は「家の当主代々の名」である「与一左衛門」ではなく、それまでの「存九郎」という名で呼ばれることが多かったと思われる。

戊辰戦争の中で

慶應4年正月に開始された戊辰戦争は、和達は、2月新潟で行われた越後の諸大名連絡会議(「新潟会議」)に水谷孫平治とともに村上藩代表として参加、さらに奥羽列藩同盟の中心であり、村上藩に強い影響力を持つ庄内藩にも行くなど、主戦派の中心の一人として活躍していたと思われる。さらに、北越戦争が始まると、実際に戦闘にも参加している。
出撃して以後の動きはわからなかったものの、村上落城後、羽越国境での新政府との戦闘に参加しており。いったん村上に戻っていたのか、会津・米沢を経由して庄内へいったのかについては、わからない。庄内藩の降伏によって、戦争が終わると、村上帰還、市内の寺で謹慎生活に入ったようである。当初は外出し、会議への参加するなど、かなりも緩やかなものであったと考えられるが、新政府から取り調べの命令がでて、監視は強化された。反新政府派の有力者として、帰順派の江坂與兵衞暗殺事件にかかわった可能性もある。

「鳥居三十郎追悼碑」(村上市)

義兄(年下であるが)鳥居三十郎切腹後、8月に三十郎を含む戊辰戦争死没者の大施餓鬼供養を行った際の中心人物であったとの記事も見られる。
その後、こうした事態を重大視した新政府は、和達らを東京召喚、それにもかかわらず東京で謹慎中に外出し狩りを行ったため、に謹慎を続ける羽目に陥った。
その後の経過はわからないが、同一行動を取っていたと考えられる水谷孫平治が隠居し家督を譲ったのが明治4年7月であるので、おそらく同じ時期に村上に帰還、隠居して家督を長子・和邦に譲ったと考えられる。

壬申戸籍の編成の中で

当時、和邦は12歳であったが、家督を相続し、おそらく元服、与一左衛門家の当主となったとおもわれる。与一左衛門を名乗った可能性もある。
鳥居和邦についても別稿参照

このように仮定すると、和邦の名前は以下のようになっていた可能性がある。

鳥居・与一左衛門・平・和邦
(とりい・よいちざえもん・たいら(の)・まさくに)

ちょうど、この年、新たに戸籍法が制定され、翌年から、いわゆる壬申戸籍が編制されはじめる。前回も書いたように、これによって、いくつかあった名前が一つに固定されていく。いくつかある名前から、一つを選ぶのであるから、どこの家でも、かなり混乱したと思われる。
入手することができた鳥居録三郎の戸籍から、こうした混乱を読み取ることができる。一枚の戸籍の中に、3タイプの名前が併存しているからだ。
録三郎の父、つまり和達の欄にはこれまで見たことのない名前が出てくる。「淇松」である。なんと呼ぶのかはわからない。なお入手した戸籍には「淇松」の名の上に「亡」の文字が付されており、和達は、入手した戸籍が編成された時には、すでに死亡していたことがわかる。
戸籍の筆頭者は兄の「和邦」、そして弟が「録三郎」、末弟が「鍗次郎」となる。
この三つの名を見ると、和邦は諱を、録三郎鍗次郎は通称、あるいは幼名を、そして和達は隠居名をそれぞれ用いたことがわかる。そして和邦の通称は、法律上=戸籍上は消去され、録三郎と鍗次郎は諱もまたないまま、そのとき用いていた名前が登録されたことになる。
この時代、人々は、どれだけこの選択の意味を理解していただろうか。これまでと同様に、いくつかの名前が公的にも使えると考えていたのかもしれないし、年長になれば録三郎らも「諱」のような名を付けられると思っていたのかもしれない。しかし、名前の変更は、これ以降、簡単には認められなくなる。それを知って、愕然とした人間もいたと思われる。そのためかどうかはわからないが、録三郎の子どもたちには、再び一族の「諱」に用いられた「和」の文字が用いられ、「諱」系の名前が戸籍を占めるようになっていく。
鳥居鍗次郎についても別稿参照

引き継がれた江戸時代の「名前」たち

こうした江戸期の名前のつけ方のルールが、明治期以降の伝統的な日本人の男性の名前のつけ方に反映している。
①一つ目は、「」系を引き継ぐ氏名である。江戸期までは特別な場でしか用いられなかった「諱」であるが、やはり「最も大切で、系図に記される名前」ということで登録されたのであろう。「和達」「和邦」などのように、2字のからなる名前がおおい。なお「徹」「彰」など1字のみの名も、公家や大名家などに散見できることから諱系と分類することができる。
②二つ目は、「通称」(幼名)系の名前で、それまでから一般的に使っていたので親しみ深かったともいえる。「金四郎」「録三郎」「鍗次郎」のように三字となることがおおく、「喜代之助」のような四字の場合もありうる。しかし、「通称」は公的なものとは見なされにくかったため、鳥居家では長子ではない子どもたちに付けたようにも思われる。
③三つ目として考えられるのは、「官名」「一族代々の名」である。
遠山金四郎のような「左衛門尉」のようなたいそうな名前はないとしても、現在におおい「大輔」のように、律令制的な官位を引き継ぐは「○○すけ」(「すけ」には「助」・「介」・「佐」などさまざまな漢字が用いられる)」を中心に、多く存在する。明治当初は「○○衞門」「△△兵衛」などがそうしてものともいえる。
実際には「与一左衛門」のように、これまでの「名字」にかわる「家名」という性格を持っていたものもあれば、すでに官名の性格を失って通称としても用いられることも多かったと考えられる。
百姓の代名詞である「権兵衛(ごんべえ)」さんや猫型ロボットの「ドラえもん」が律令制的な役職から来ているなどといっても、どん引きされるか、笑われるだけであろう。
④四つめは、その他の名前である。鳥居家の場合は隠居名である「淇松」がこれに当たる。さらに「松陰」「子義」といった「」や「」が登録されたこともあったと思われる。僧侶は「法名」が用いられた。多くは二字名であり、難しい漢字が並ぶことがおおい。

日本人の名前にはいくつかのタイプが確かに存在する。それは、このような江戸時代の名前のつけ方から来ているものがあることは明らかであろう。

版籍奉還・「藩」・「家禄」、そして「あさが来た」

版籍奉還、「藩」「家禄」「あさが来た」

前近代から近代へ、何が変わったのか?

優れた研究者からは面白い話を聞くことができます。今回も、先生の研究の受け売りです。

現在の講義では、前近代から近代、何が変わったのかという話がされています。
前回までは「名前」が変わったことすでに一部、紹介しました。今回は版籍奉還を中心とする話です。
旧大名家(いわゆる「藩」)が解体することにかかわる大騒動の話です。この話は、かつての朝ドラ「あさが来た」のなかの宮崎あおいの婚家の倒産の話へとつながります。

「版籍奉還」はどのように説明されたのか、してきたのか?

まずは、版籍奉還の辞典による説明を見ます。
でも、こんな風に説明すれば、先生はご機嫌斜めでしょうが・・。

1869年(明治2)6月,諸藩主が土地(版)と人民(籍)を朝廷(天皇)に還納した政治行為および政治過程の称。維新政府による中央集権化の一過程で,〈奉還〉という形式をとりつつ,藩への政府の統制力強化がなされた。戊辰戦争の影響から一部の藩(たとえば姫路藩)には藩を投げ出そうとする動きがあったが,維新政府の首脳(維新官僚)は,それを抑えて,69年1月20日,薩長土肥4藩主の連名による版籍奉還の上表文を朝廷に提出させた。   (世界大百科事典)

私の現役・日本史教師だった頃の説明はこんな感じです。

 新しい政府ができても、なかなか新政府の指導が入らなかった。そこで新政府では、それぞれの『藩』への指導権を強めようと、新しい政権が成立したときに行う封建契約の更新、つまり土地(「版図」)と人民(「戸籍」)をいったん主君に返し再度主君から「封じられる」という儀式を利用しようと考えたんだ。木戸や大久保といった薩長土肥出身のリーダーたちが『藩主』の所に行き、さも再度封じられるかのように説明し、その四『藩主』に、土地(「版」)と人民(「籍」)を天皇に返還する申し入れをしてもらった。「奉還」というのは、前の「大政奉還」のときとおなじ。天皇に「かえしたてまつる」という意味。他の「藩主」たちは我も我もと申し出る。
 ところが、天皇(の名を借りた新政府)は土地・人民を国家のもととし、『藩主』を「知藩事」という役人にし、今までの藩の収入の1割を給料として支払うことにした。藩主も政府の役人になったのだから、天皇・政府の命令を聞く義務があるというわけだ。
 こうして、政府の命令を聞かせやすくなった。しかし、今まで通りの『藩』組織は残り、名前が変わったとはいえこれまでの『藩主』が君臨する。やはりなかなかうまくいかない。勝手なことをする。だから、この制度はつづかず、廃藩置県を行うことになる。

 これは退職直前で、それ以前は「形式的」で「歴史的意味も小さい」といった説明が中心でした。時間がないときは省略もしました。しかし、「授業中継」の本編では、先生の説を色濃く反映するものになっています。

先生による「版籍奉還」の説明

先生は版籍奉還を次のように説明されます。要約すると次のような感じです。

 版籍奉還とは、大名家が廃止され、『藩』が置かれたことです。大名家が領地と人民の支配権を手放したこと。そして、その代償として『家禄』を受け取ったことです。同時に武士たちも支配権を手放し、やはり『家禄』を受け取りました。
 そして、大名が手放した領地に、新しく『藩』といわれる地方行政機関が置かれ、その長官として『知藩事』という役人が置かれ、それまでの大名が就任したのです。
 このことは、武士にとっても奉公の義務がなくなったことを意味します。
武士というのは、主君から「御恩」としての「知行」を与えられ、戦場に行って主君のために討ち死にすることを最上とする「奉公」を果たすものした。しかし、こうした知行(この時代は俸禄をもらう形式が多かったのですが)がなくなることで、このような主従制も廃止されたことになります。
 木戸孝允(桂小五郎)が主君である毛利敬親を説得したとき、敬親が「それなら、これからは、自分と木戸とは主従でなくなるのだな」といい、木戸は首を垂れたまま、何も言えなかったという話も残っています。
 大名や武士が土地・人民の支配権を放棄し、主君との間の主従制を廃止し「知行」を廃止したかわりに、与えられたのが「家禄」です。それまでの知行は、大幅に減額されましたが、「奉公」の義務もなくなりました。長い間続けてきた「奉公」に報いる「年金」のようなものが与えられたと考えればいいでしょう。

 版籍奉還は、難しいいい方をすれば、封建制的所有関係を終わらせたものであり、「武士も手放した」という言い方は、前近代の土地所有関係の重層性を考慮されたものだと勝手に判断しました。(この点は難しくなるので省略)
なお版籍奉還の理由を、「それぞれの大名は、膨大な『赤字』を抱えていた。だから、倒産寸前の企業を手放すようなものであった」と説明されました。
しかし、この点については、やや疑問があります。確かにその側面があり、反対が小さかった背景としてはそれでいいと思うのですが、木戸らが藩主を説得に行ったという点から考えると、やはり政府側が主導権をもって、諸大名の支配地域へ新政府の政策を滲透させるという側面の方が大きいように思います。

「藩」は2年ほどしか存在しなかった!

さて、さきの説明で、あれ、と思った人も多いでしょう。そう「藩」の位置づけです。今度は、先生の本から引用します。

もともと「藩」という言葉は、近世初期どころか、中国の古典にも見られる言葉で、皇帝の周りを固めて守るブロックといった意味です。・・・いずれにせよ、その言葉は、理念的なもので制度として、藩というものが存在したわけではありません。
 ところが嘉永・安政年間(*いわゆる幕末です)になると、大名とその家臣の中には、みずからの領地領民をひっくるめて、「藩」と自称する例が多く現れるようになります。この場合の「藩」は・・・天子(いわゆる朝廷)の周りを固めるもの、という意味です。つまり、大名にとって将軍との主従制的な関係が弱まり、むしろみずからを天子と直結した存在と自覚する考え方が強くなったことの表れです。
  (中略)
 明治二年六月、政府は天皇の名において、全大名を改めて地方官として知藩事に任命し、その旧領を管轄地として預け、公式の藩名を定めました。
(青山忠正「明治維新を読み直す」)

 「藩」という呼び方は、江戸後期になって使われたいい方で、幕府から距離を持とうとした人たちによる自称です。「幕府の家臣」より「天皇の藩屏」を重視した自称、それが「藩」であり、そこに属する武士が「藩士」です。あくまでも、正式名称ではありませんでした。

中略した部分に書かれていたのですが、慶応四年閏四月の「政体書」では、「大名が旧慣にしたがって支配する領地」を「藩」として捉えました。
 版籍奉還は、それを国家が回収し、設置したものが地方組織としての「藩」です。鹿児島藩や山口藩といった名前は、この時付けられたので、これ以前にそういった名前は存在しません。
   ※なお、長く近世史の中心であった山口啓二氏も1971年段階でこの点を指摘しています。
その藩に住んでいる士族は、大名家との主従関係を失い「○○藩貫属士族」とよばれます。略して「藩士」です。
ちなみに、薩摩・島津家の旧領は以後「鹿児島藩」となり、そこに住む武士が略して「鹿児島藩士」となります。山口藩や高知藩も同様です。ですから戊辰戦争のときには「薩摩藩士」と自称する人はいても、「鹿児島藩士」などは存在しようがない、というのが先生の主張です。

なぜ「鹿児島藩士」なのか?

ところが、現在でも、幕末期から「鹿児島藩士」「萩藩士」といった使い方がされます。先生は、それは「孝明天皇紀」や「明治天皇紀」が原因だといいます。
それはイデオロギー的だ」と先生はいいます。こうした明治政府の「公の歴史書」は天皇制=国家権力の立場から描かれているからです。この立場からみれば、彼らは最初から「天皇の藩屏」なのです。「こうした叙述を鵜呑みにするのは歴史学ではない」。先生の毒舌は冴え渡ります。歴史の叙述、とくに国家が編纂した歴史にはこうした価値観が混入しやすい、史料にあたって確認するしかないというのが先生の立場です。

知行が廃止されて「家禄」という年金に変わる

つぎが「家禄」の話です。先生は「維新によって、すべての士族が没落したようにいうのは正しくなく、オーバーである」と主張されます。
先生の説明を記しましょう。

 先に見たように、版籍奉還によってそれまでの収入源であった「知行」が廃止され、変わって「家禄」が与えられます。これは、たしかにそれまでの「知行」から減額され、それだけでやっていくのは困難です。しかし、これは「基礎給付」です。これまでとはちがって公に別の仕事をすることが可能になり、推奨もされます。大久保や木戸らは莫大な「官禄」を、「家禄」とは別に受け取ります。
 当時、士族は約30万人、その家族を含めると約150万人くらいいた、と推測されます。実際の所、その1/3が「公務員」、「藩」や「府・県」あるいは太政官などの官にかかわる仕事に就いたと考えられます。もっとも薄給なのが小学校の先生、武士は基本的に読み書きができるので、仕事を求めやすかったと思います。こうした仕事によって「官禄」と呼ばれる収入をあわせて得ることができました。
 次の1/3は、何らかの形で「起業」します。実際には土地を買って百姓になるという例などが多いですが、商業などで成功したものもいます。
 のこり1/3がうまくいかず、不平士族となりました。こうした人たちが反乱を起こしたりしたのです。
 士族がすべて新政府に反対していたなら、政府は持たなかったでしょう。しかし、そういうことはなく、反対派は限定的でした。ですから、鎮圧可能だったのです。
 旧大名と士族をどのように転職させるかということが、維新史を考える上での「核」になると思います。

 たしかに、士族のかなりの部分が官吏、とくに巡査や教員に転職していったということは確かだと思います。ただ、先生のようにすっぱりと図式的に割り切ることが妥当かどうか、躊躇するところが、偽らざる本音です。「起業」はしたものの大失敗に終わったという人がもっと多かっただろうし、その起業の質も問わねばなりません。幕末の武士の生活困窮状態からみれば、都市雑業層やプロレタリアートなどとして社会の底辺に消えていった士族はもっと多かったのではと考えます。
また運動家としての不平士族は、残りの1/3よりも、上の2/3の中から供給されたのではという気がします。この部分の研究は未着手の部分が多く、このように単純にいえるかどうかは、率直なところ疑問を持ちました。

旧大名家などが積み上げた膨大な借金はどこに消えたのか?

先生の話を続けます。

「家禄」は明治九年八月の金禄公債証書発行条例で、すべて公債(国債)に置き替えられて打ち切られます。(※いわゆる「秩禄処分」)例えば20円の家禄を受け取っていたものは、その10年分の200円分の公債の形式で与えられ、打ち切られます。政府にも資金がありませんので分割払いの形となります。いわば政府が士族に対して、ローンを組んだという形です。最終的には明治三五年までかかりました。

 ここで、先生は面白い話をされました。「このようにして日本では武士たちが持っていた領主権を有償で買い取ったのです。フランス革命やロシア革命とは違う日本の領主権廃止の面白い所です」
こうしたブルジョワ革命との比較から、秩禄処分を捉える見方は非常に面白いと感じました。私が知らなかっただけかもしれませんが。
 さらに面白い話がつづきます。先の大名家が抱えてきた「赤字」の話です。

版籍奉還の原因には、各大名家が持っていた膨大な負債がありました。それは「藩債」に置き替えられ、さらに廃藩置県を経て、国家に付け替えられました。こうしてかつての大名家の負債は消滅します。
では、こうした「債務」はどうなったのでしょうか。それは大蔵省管轄に移り、具体的には大蔵大輔井上馨のもとで処理されます。
井上はこうした膨大な債務をほぼ全額踏み倒します。こうして江戸時代以来の積み上げられてきた大名家(および幕府)の債務をほぼ消し去られ、いったんリセットされます。
こうしたリセットの上で近代国家が作り上げます

「ツケ」は踏み倒された!

重要だと思いましたので、研究書などで裏付けしようとおもいました。

江戸時代中期以来、各大名家は深刻な財政難となっており、大坂などの両替商(有力商人)からいわゆる「大名貸」を受けたり、領内の有力商人や領民から御用金を徴収するなどして、しのいでいました。藩内でのみ流通する紙幣「藩札」の発行は重要な手段でした。
ところが、幕末の混乱と戊辰戦争出兵は各大名家の財政破綻を招きました。このことが、版籍奉還の大きな背景にあったのは、見てきたとおりです。
こうした大名家の負債は、版籍奉還の結果成立した「藩」にもちこまれます。財政の大きな柱であった「藩札」の発行が禁じられ回収・処理が命じられます。秘かに発行されていた贋金の鋳造なども禁止され、藩札・藩債は各藩の責任で償却することが求められました。各「藩」では、「家禄」の減額など厳しい改革により負債の軽減に努めています。
一八七一年、廃藩置県で「藩」は消滅します。先生の話の通り、各藩の債務は、「家禄」とともに、明治政府に移ります。
各藩から引き継いだ債務残高は、藩債7413万円、藩札3909万円、さらに外国にも400万円の借り入れがありました。

 藩債の処理は明治六年三月に方針が決定されました。(新旧公債証書発行条例)。うまくまとめているWikipediaの一文を引用します。落合・富田両氏の文献をもととしています。

新政府は藩債を3種類に分割した。即ち、
①明治元年(1868年)以後の債務については公債を交付しその元金を3年間据え置いた上で年4%の利息を付けて25年賦にて新政府が責任をもって返済する(新公債)、②弘化年間(1844年〜1847年)以後の債務は無利息公債を交付して50年賦で返済する(旧公債)
③そして天保年間以前の債務については江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを口実に一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。

藩札は、廃藩時の時価によって政府の紙幣と交換された。藩債のうち外交問題になりえる外債は、すべて現金で償還された。
藩以外の旗本・御家人などの債務は償還対象外とされた。朝敵となった江戸幕府による債務は発生時期を問わずに、外国債分を除いてすべて無効とされた。
また、維新後に新立あるいは再立が認められた朝敵藩の負債は新立・再立以後の負債のみが引き継がれ、それ以前のものは無効とされた。

その結果、届出額の半額以上が無効を宣言されて総額で3486万円(うち、新公債1282万円、旧公債1122万円、少額債務などを理由に現金支払等で処理されたものが1082万円)が新政府の名によって返済されることになった(藩債処分)。新公債は、西南戦争の年を除けば毎年償還され、1896年までに予定通り全額が償還された。旧公債も、予定通り1921年に償還を完了した。

踏み倒し?民事再生に従うスキーム?

つまり天保年間以前の全借金(多くは借り換えを繰り返しているので膨大な金額に上る)、幕府・旗本・御家人関係、さらに「朝敵藩」の借金は「踏み倒し。その他の藩の借金も慶応以前の分は無利息50年賦というスキームです。先の数字が正しいと仮定すると、約4000億円が「踏み倒され」ました。旧公債1120億円も利子なし50年払いだから「踏み倒し」に近いとも評価できそうです。
しかし、幕府も、諸大名も、旗本御家人も倒産したため「民事?再生法」の適用を受けたと考えるなら、別の論点もありそうです。「破綻処理」のスキームのなかで「債務放棄」「支払い延長」「支払い」に分類した。そしてそれをしっかりと履行した。残念ながら、「連鎖倒産」した「銀行」も多数に上った。しかし、非常事態だから仕方がなかったと、おかしくもないといえそうです。
公認会計士さん、弁護士さん、こんなものでいかがでしょうか?

今度は落合弘樹氏の著書を引用します。

江戸中期以降、多くの藩は借入れに頼って藩政を維持してきたが、明治政府は多く見積もっても28パーセントしか引き継いでおらず、最後のツケは貸主に回された。とりわけ解体された旧幕府家臣団の債務はすべて私債とみなされて事実上回収不能となり、江戸の金融を支えてきた札差たちは借り手の旗本・御家人とともに瓦解した。また仙台など「朝敵藩」とされた地域における商人の打撃も計り知れない。さらに、大名貸を行ってきた大阪の両替商も多額の不良債権を抱えることとなる。住友の番頭の広瀬宰平は自叙伝『半世物語』で、維新前における大阪の旧家豪商として三四家の名をあげ、そのうち天王寺屋作兵衛、平野屋五兵衛など二三家が維新の荒波を受けて破産・絶家の災厄に遭遇し、なんとか以前の勢力を保持できたのは住友吉左衛門や鴻池善右衛門、加島屋久左衛門など九家にすぎなかったと回顧している。(「秩禄処分」

 先生はこのように話をまとめられました。

士族に対する補償はなされたのに、町人に対する補償はなされませんでした。大阪を中心とする大商人の犠牲のもとに明治維新がおこなわれたのです。江戸時代がリセットされたのです。
こういった所が実は明治維新の「核」「肝」に当たる部分です。
しかし、両替商の多くは滅亡してしまったので史料が残らず、論証しようがないというのが現実です。もしこうした部分を調べれば非常に面白いと思います。
明治維新をバラ色に描きたい人が多いのですが、こういったシステムの変化こそ、明治維新の最も重要な部分だったのです。

宮崎あおい演じた「はつ」の婚家はなぜ倒産したのか?
NHKドラマ「あさが来た」京都の豪商の娘はつとあさは、それぞれ大阪の豪商の家に嫁ぐが・・・。

数年前、NHKで評判になった朝ドラに「あさが来た」があります。私が勤めていた職場でも、その話題でもりあがりました。
このドラマの二人の主人公である姉妹の嫁ぎ先は対照的な運命をたどります。
波瑠演じる主人公「(白岡)あさ」が嫁いだ「加野屋」は明治初年の混乱の中、あさの活躍もあってなんとか倒産を逃れ、炭鉱業や繊維業など、そして生命保険などに進出していきます。
他方、宮崎あおい演じる「(眉岡)はつ」が嫁いだ「山王寺屋」は明治初年の混乱の中で倒産、はつ一家は路頭に迷う。・・この二つを対照的に描き出すことで、近代の日本の姿を描こうとしていました。
さて、先の引用文の家の名前に注目してください。似た名前の存在に気がつかないでしょうか。「加島屋久左衛門」「天王寺屋作兵衛」。この話は、この時、明暗がわかれた二つの両替商の話をモデルにしていたのです。なにやら、わかりにくかった山王寺屋倒産の背景、犯人は大商人の犠牲の上に江戸時代を切り捨てようとした明治政府だったのです。

<参考文献等>
青山忠正「明治維新を読み直す 同時代の視点から」(2017清文堂)
山口啓二・佐々木潤之介「体系日本史4幕藩体制」(1971日本評論社)
落合弘樹「秩禄処分」(中公新書1999」)
富田俊基「国債の歴史」(東洋経済新報社2006)
松尾正人「廃藩置県」(中公新書1986)
「廃藩置県の研究」(吉川弘文館2001)
Wikipedia「廃藩置県」

※山口啓二は、上記の著書で次のように書いている。
「藩」という公称は、明治元(1968)年に旧幕領に府・県を置き、旧大名領を「藩」とよんでから、廃藩置県までの三年間に存在しただけである。江戸時代の公文書では、「国」「大名」「家」「領」という中世以来の武家用語を踏襲して表現しており、大名を一括してあらわす「万石以上」が慣用されるようになるのは中期以降のことである。大名の小国家を「藩」と指摘によぶことは、中期以降ひろく形容されるようになった漢学的教養のなかで、幕藩体制を中国の封建制になぞらえて、諸大名を幕府の「藩屏」と考えるようになってからであるが、一般に用いられるようになるのは、むしろ幕末に「藩」の自主意識が強まってからであった。(P24~25)