「おはよう」と「おはようございます」
どこの学校でも、朝の立ち番(業界用語で「登校指導」という)があった。
遅刻者や服装違反などを取り締まることがもともとの目的で、
ときにはせっかく登校してきた生徒を追い返して再登校を命じることもあった。
たまには、怒鳴り声や捕り物も発生する。
弁護士会から指摘を受けたこともある。
管理教育批判の人たちからは、「管理主義の象徴」のような取り組み。
しかし、今回はそのような生臭い話ではなく、
もっとフツウの話。
登校してきた大部分の生徒は、
つぎつぎと「おはようございます」とあいさつをし、
先生方はそれに対し「おはよう」「おはよう」と返事を返す。
先生方はそれに対し「おはよう」「おはよう」と返事を返す。
和やかにも見える風景だ。
そのようななか、「おはようございます」と、
そのようななか、「おはようございます」と、
ひとりひとりの生徒に、とても丁寧に挨拶をする先生がいた。
その様子が、とても真摯で、とても素敵なのだ。
その様子が、とても真摯で、とても素敵なのだ。
その「おはようございます」のことばの中に、
生徒一人一人をとても大切にし、同じ人間として対応していることそれだけでよくわかるのだ。
私もまねてみた。
「おはようございます」、
「おはようございます」、
「おはようございます。」
ところが、あの先生なら何も違和感も感じないのに、自分がいうと、何か違和感を感じてしまう。
生徒との間に、距離をおいているという、よそよそしさを感じてしまうのだ。
何か、慇懃無礼な態度をとっているように感じ、
何か、慇懃無礼な態度をとっているように感じ、
自分の胡散臭さを感じてしまうのだ。
「おはよう」という、上から目線の対応の方が、
親しさを示しているようで、近い立場にいられるように感じられるのだ。
しかし、相手に「ございます」といわせ、こちらが「おはよう」とふんぞり返っているかのような言い方への違和感もある。
一人称を「先生は・・・」と話す先生がいる。かなりいる。
この言い方に違和感を感じていたが、
この言い方に違和感を感じていたが、
いつの間にか、自分も「先生は・・・」という上から目線になっているのだろう。
結局、「おはよう」と「おはようございます」、
理由もなく、このふたつの言い方を併存したまま続けた。
苦笑をしながら。
苦笑をしながら。
結論のでないまま、この仕事を離れた。
「先生方、どっちを使いますか?」
という軽い気持ちで、深い意味も考えず、書き出したこの文章。
よく考えると、このなかに、教師という仕事の性格があらわれているのかもしれない。
よく考えると、このなかに、教師という仕事の性格があらわれているのかもしれない。
もう少しで40年という教員生活、
いつまでたってもすきになれなかったのは、
この違和感だったのかもしれない。
しかし、生徒になんの違和感も感じさせず、周りからも距離感を感じさせずに「おはようございます」と声をかけつづけられた
あの先生のようになれなかった自分の教師生活、
その偽善性を感じ、反省することしきりである。
※退職前後に書いた文章ですが、発表する場所もなかったのでUPしておきます。