戦争に向き合うということ
~父と母の「知覧」訪問~
はじめて中国旅行をしようとした。
前回、おもわず中国のことを書いてしまいました。
その内容に手を加えようとしたら、訂正では済みそうもないので、別稿を起こすことにしました。
書きかけたのは、中国に最初に行こうとしたときの葛藤でした。
まずそこから書きます。
私は中学生か高校生の時代から日本軍が中国で行っていたことは、それなりに知っていました。かつての日本軍が中国へいくことをためらわせていたのです。
「「東洋鬼子」(残虐行為をした日本人をさすことば)の子孫が、どの面をさげて中国に来ているのだ」という目を恐れ、いやな思いをすることを恐れました。
でも、「実際に行ってみなければ分からない、いやな思いをするのなら、いやな思いをさせたからだ」と下腹に力を入れて、旅行に行きました。
立場は逆ですが、なんか、かつての侵略者である「日本」を訪れる中国人の心境に近いかもしれませんね。
そして、日本を訪れた中国人が感じるように、すくなくとも表面的には、「別にどうってことないやん」という感想でしたが。
戦争にかかわるところは行きたくない!
私の中国行きへの感覚は、戦中派であった父の思いとも重なっていました。それを引き継いでいたのかもしれません。父は、私が中国に行くという話を聞くと、「自分は絶対いかない」といいました。父もそこで何があったのか、よく知っていたのでしょう。そんなところへはいけない。
さらに戦場になった所にも行こうとしませんでした。ひょっとしたらハワイは立ち寄ったかもしれませんが。
父は卑怯だったのかもしれません。
戦争に向き合っていなかったのかもしれません。
両親が「知覧」にいった!
とても仲がよかった両親ですが、このような父の姿には、母は批判的でした。
父の定年後、両親は日本中を旅行しました。
鹿児島で母は知覧特攻平和会館に父を誘ったそうです。ところが父は、拒否しました。
母は、父がいないとき、不服そうに私に話しました。
兄を二人戦争で亡くした母は、そこに兄たちの姿を見ようと思い、会いに行ったのかもしれないし、戦争の現実を見たかったのでしょう。
本当は行きたくなかった、「でも、いかなくちゃダメだと思ったの」
と、私に語りました。行かなくちゃダメなのは父も同じ、それが母の思いでした。
かなり日がたってからですが、今度は父が言いました。
「母さんは、知覧の特攻隊の記念館に自分を連れて行こうとしたんだ。そんなところ行けると思うか?」と。
よくしゃべる父ですが、歳をとってからは、踏み込んだ話は互いにしなくなっていました。意外といえば意外でした。
二人のそれぞれの話に、私は黙ってうなずくしかありませんでした。
「父のこと」
大正13年生まれの父の世代は敗戦時22歳、理系であったため召集を免れましたが、同級生の多くが戦死しています。特攻に参加した人もいたでしょう。そうした人を記念館に見ることが辛かったのでしょう。
さらに、そこに多くの遺書が展示されていることも知っていたのでしょう。その遺書、自分も書いたかもしれない遺書、それを見ることがたまらなく辛かったのかもしれません。
そして、「例によって逃げた」のかもしれません。
「遺書」にかけられた二つのフィルター
彼らの遺書には、二つの意味のフィルターがかけられています。
一つは、時代のフィルターです。多くの若者は、戦争の実態を知らされないまま、戦場に連れて行かれました。国家の繁栄を信じ、自分の死が自分の家族を、郷土を、日本国家のためになると無邪気に誠実に信じていました。
しかし、現在、あの戦争がいったい何だったのかを知り、特攻がいかに愚劣な作戦であったのか、時代のフィルターの欺瞞を知る今であるからこそ、事実を知らされないまま、死を強要された若者の無惨さが見えてきます。
「遺書」には書けなかった思い
今、多くの若者は時代のフィルターによって、戦争の実態を知らなかったといいました。それは真実でしょうか。戦争の実際をある程度知っていたう若者たちはそれなりにいたでしょう。特攻隊員の多くは、学徒動員された大学生たちだったのですから。では、なぜ、多くの遺書はそのことに触れていないのでしょうか。
リベラルな教育を受けてきた父は、この戦争の実際を、当時からある程度分かっていたでしょう。とすれば、父の目に映る遺書は違って見えると思います。
特攻が決まって遺書を書くことになっても、大部分の人は本当に書きたい遺書は書けませんでした。そう、「検閲のフィルター」です。作戦遂行上問題があったり、国家や軍部の方針に反するような内容であるような文章は残すことが許されませんでした。さらに「軍神」となる特攻隊員が特攻や軍隊を批判する文章を書くことは許されるはずがありません。
それにもかかわらず、いろいろな手段で書き残し伝えようとした人たちもいました。それが「きけ、わだつみのこえ」などに集められた手記です。
しかし、多くの特攻隊員、いや兵士たちも、戦争や政府・軍部への批判、特攻作戦への疑問、自分の死の無意味さなど本当にいいたいことがいろいろあっても、このフィルターに触れないことしか書けなかったのです。そこで、かれらはもう一つの真実である両親や親しい人への思いと感謝、郷土や日本の将来への思い、自分の死がなんとかその役に立って欲しいという思いを、このフィルターで許された内容を遺書に記し、作戦に参加し、命を失っていったのです。
特攻作戦の実態について、別の機会があればと思いますが、とりあえず、当時、知覧で特攻隊員を取材していた高木俊朗の作品などを読んでください。
「遺書」~ゆがめられた肖像
同じ時代を、同じように生き、一人一人の人間の生を、笑った顔やともに語り合った姿を知っていたからこそ、このような遺書しか書かせてもらえなかった無惨さを感じたのかもしれません。君の本当の思いはこれでいいの?君の「生」は、この遺書に反映されているの?
すくなくとも、君たちの「未来」、70年後の君たちの一人である自分にとって、そうは思えない。あれは、作られた無知、自分たちの命を無惨に消費し疑問をもつことを許さない国家、そしてそれを「時代の宿命」とあきらめてしまった当時の「自分」たちの、ゆがめられた肖像なのだ。
そして、ここに展示された遺書たちは、このふたつのフィルターの存在について、あまり注意を向けないまま展示されています。そしてこの遺書たちは、かつてもっていたように、特攻隊員が国家のために命を捧げた「軍神」として美化されることに利用されうるものであり、戦争や戦死者の本来の姿を覆い隠すものとして利用されかねないものなのです。
父たちにとっては、かれらの遺書は、当時の若者であった自分たちの当時の「真実の一部」であって、かれらの約70年後の「未来」である自分から見ると、「あの時代」に国家の強制と作られた無知の産物であったのです。
そんなものは見たくない。
母の思い
母は、いいました。
「実際にあったことは、やっぱり見ておかなければならない。だからいやがってたけど、つれていったの」
両親とも、「やっぱり、いかねばならない」「そんなものいけるか」と、それぞれが同意を求めるように、私に話しました。
両親からの、実際にいったことについての感想の記憶はありません。
母は「やっぱり、いってよかった」といったような気もしますが。
母は、父に同意を求めたとおもいますが、父は無言だったのでしょう。
母はつねづね、「あなたたちを、ぜったいに戦争に行かせたくない」といいつづけていました。
気丈な祖母が、自分の二人の子どもの死にさいしても涙を見せられなかったつらさを見ていたからでしょう。
戦死した二人の兄のことを楽しそうに語っていた母でした。知覧の遺書や写真に兄たちの姿を見て、自分のかわいい孫たちにこのような遺書を書かせたくないと思ったでしょうし、私たちに自分の父や母の辛い思いをさせたくないと、知覧の記念館で再確認したとおもいます。
「戦争のどのように向き合うのか」
十数年前に母が、昨年父も他界しました。
戦争について、きっと考え続けてきたけれど、ある意味、その問いがつらすぎると避けてきた父。自分のふたりの兄と子どもを失った母(私の祖母)について考えてきた母。甥たちが通っていた小学校の先生から、母が「平和の語り部」をしていると聞いて驚いたことがありました。母は、大好きな父(祖父)が遺族会で活動することにはやや批判的だったようにも感じます。
戦場にも行かず、空襲で逃げ惑ったわけでもない、あの時代にしては「幸福な」二人です。それでも、それぞれの体験を通して、戦争に対して向き合ってきたのでしょう。
「知覧特攻平和会館」へのそれぞれの、ちょっとした、しかし誰かに話したくて仕方なかったセリフから感じることができたような気がしました。