江戸時代の名前の規則と戸籍法
~「名前」をめぐる明治維新史(1)
大学での授業は気になっていたことを一挙に解決してくれることがある。
歴史研究者からすれば、当然のだが、一般人にはあまり知られていないことがある。
今回、教えていただいた内容は江戸時代において名を名乗るの原則であり、それが明治維新によってどう変わったかである。
祖先調べで資料(史料でない!)にでてくる名前で苦しんだ経験があったので、この内容は非常に興味深かった。幕末維新史の大家の先生の話からは多くの発見ができる。
今回は先生の話を紹介しつつ、追加的に調べたことを交えて、幕末維新史をめぐる「名前」について記し、次回は応用編として私が祖先調べの中でわかったことを述べていきたい。
なお、先生は幕末維新史の政治史にかかわってでてきた内容なので、武家の「名前」にかかわる話となり、庶民の名前には触れておられない。個人的に、庶民の名前についても調べたいという興味もわいてきた。
前近代の名前の原則~坂本龍馬の名前から
坂本龍馬が例として扱われた。龍馬の正式の名乗りを記すと
坂本・龍馬・紀・直柔
(さかもと・りょうま・き(の)・なおなり)
「坂本」が「氏」の名前、今でいう名字、坂本家の出身であることを示す。
「龍馬」が「通称」であり、家族や仲間が一般に用いる名前。だから、一般にはこれが用いられる。 愛称になると、省略されたりするのは現在と同じである。
実際に多く用いられるのが通称である。有名な者としては、西郷「吉之助」、大久保「一蔵」などがこれにあたる。一般に用いられるのはここまでである。
残りの「紀・直柔」は一般には用いられない名前である。子孫が系図に記したり、墓石に刻むための名前である。
ちなみに「紀」は、「姓(かばね)」であり、先祖の家系を示すものであり、多くは「源平藤橘」の4姓が用いられることがおおい。とくに藤原がおおい。「大部分はフィクションであろう」というのが先生の見立てだ。
そして「直柔」が「名」であり「諱(いみな)」ともよばれる。
なお国語大辞典では諱とは「「忌み名」の意味であり、① 本名。生前の名で、その死後人々がいう。② 死後に尊んで付けた称号。おくりな。のちのいみな。③ (①の意を誤って) 実名の敬称。貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。」とあるように、本名ではあるが死後にもちいられることを原則とした名前といえるようである。
ただし、江戸時代の大名家などでは、③のように諱を貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。
目上の人を呼ぶためには~吉田松陰の例
通称で呼ぶあうのは、基本的に、「上から」ないし「横から」の呼び方であり、目下から目上を呼ぶことには用いにくい。
そこで、吉田松陰の例があげられる。松陰の正式な名乗りを記す。
吉田・寅次郎・藤原・矩方
(よしだ・とらじろう・ふじわら・のりかた)
さきほどの理屈で、目上の者や家族、友人は、「とらじろう」やそれを略した愛称「とら」で松陰を呼ぶことになる。小説などで、主君の毛利敬親が松陰の命日に「今日はトラの日であったな」と話すのはこうした仕組みからである。
しかし、目下の者、とりわけ弟子などが「とらじろう先生」と呼ぶのは、恐れ多いことと考えられた。そこで用いられたのが「号(ごう)」である。こうして弟子たちは「松陰」先生と呼ぶことになる。門人が先生を呼ぶときは「号」が用いられる。
さらにちょっと気取った文人・学者世界では「字(あざな)」を用い、「子義」という「字」が多く用いられた。
ちなみに松陰は多くの名をもっている。
「国史大辞典」によると「幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す」となる。
「号」と「字」の違いが今ひとつわからないが、「国語大辞典」によれば、「号」は「特に、学者、文人、画家などが、本名、字(あざな)のほかに付ける名。雅号。」とあり、「字」は、「㋑中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれる。実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。㋺ 日本で、中国の風習にならって文人、学者などがつけた、実名以外の名。」である。さらに「江戸時代には、儒者・文人の間に広まったが、総じて尊称的なものと考えられていたようである。」との説明が付されている。尊称とあるように「字」の方がより気取った感じなのだろうか。
「偉い人」は「官位」が名前~「遠山金さん」と「一橋中納言」
これが大名や有力旗本になるともっと面倒になる。先生が例を挙げたのが「遠山の金さん」だ。まず正式名を記す。
遠山・金四郎・藤原・景元
(とおやま・きんしろう・ふじわら・かげもと)
となり、原則はこれまで通りであり、通称を用いて「遠山金四郎」という呼び方が用いられる。ところが、官職につくと、「官名」がつく。「国史大辞典」によると、天保7年に「左衛門尉」という官位があたえられる。これ以降、一般的な呼び方は官名でよばれるようになる。周囲の人々も、自らも「金四郎」でなく「左衛門尉」「左衛門尉様」と呼ぶことになるのだ。おなじみの「遠山左衛門尉様、ご出座」という呼び方になる。
ちなみに、彼は天保3年に「大隅守」の官位をもらっており、それ以後の5年間は「遠山大隅守様」であったことになる。
こうして、官位を持った者は官位で呼ばれることが大きな意味をもつ。
徳川慶喜などは「一橋中納言」と呼ばれていた。
私もたまに、幕末期の史料を見ることもあるが、大名や旗本の名前が出てくればとても困る。たとえば、幕末の村上「藩」の家臣などは、「紀伊守家中」としてしか史料にでてこないこともあり、特定することが非常に困難である。
「名前が一つにされる」~戸籍法と壬申戸籍
こうした状況が大きく変わるのが明治4年の戸籍法である。これに基づき翌明治5年から編成されたのが壬申戸籍である。近代国家形成に伴い、政府は人間を名前で掌握する必要が生まれた。これまでのように一人の人間がいくつもの名前を持ち、立場や状況によっていくつもの名前を用いるのでは個人が特定できなくなる。そうすれば、徴税や徴兵といった事業を行うことが困難になるのだ。こうして「個人の名前は一つでなければならないし、一生変えることが出来ない」という原則が打ち立てられる。
こうした中で、超有名人をめぐる一種の「喜劇」が発生する。先生が紹介したのが西郷隆盛の例だ。例によって、隆盛の幕末における正式な名を記す。
西郷・吉之助・平・隆永
(さいごう・きちのすけ・たいら(の)・たかなが)
おかしなことに気がつかないであろうか。西郷隆盛の「隆盛」はどこにいったのか?
戸籍法・壬申戸籍の編成にあたって、西郷は代理人に戸籍名の届けをだした。先に見たように、「名 」「諱」は一般には使われることはなく、西郷もつねに「吉之助」で通用させていた。したがって、代理人は、彼の名(諱)である「隆永」でなく父親の名(諱)である「隆盛」として届けたというのである。嘘のような話であるが、史料批判の厳しさには定評のある師のことであるので、事実だと思う。実際の所、西郷は自らの署名は常に「吉之助」で通している。しかし、先生はいう。「西郷は一度だけ『隆盛』という署名をしている。それは西南戦争に際して『伺いたきことがあり兵をつれて東京へ向かう』という文書を鹿児島県知事大山綱良に提出したとき、そのときだけはさすがに『隆盛』という署名をした」とのことである。
先生は、「明治になって『名前が変わった』。以前は名前は何種類もあったのが、戸籍法によって一つに固定された。しかし、正式にいうと近代になって『名前を支える論理が変わった』というべきである」と話された。
先生のいいたかったことは、こうした具体的な事例を通じて、明治の変革の意味が見えてくるのだといいたかったのだとおもった。
非常に興味深い話であった。この話を聞いて、さっそく私が把握しているだけでも5つの名をもつ私の高祖父、その一家がそれぞれの名前をどのように届けたかを整理したいと考えた。それによって、現在の名前のいくつかのパターンもみえてくると思う。