「慰霊」ということについて(前)
~現地に「慰霊碑」を建てるということ~
フィリピンでの戦争にかかわる文章を書いていたとき、朝日新聞2019年4月1日に次のような記事が載りました。
かつて日本の占領下にあったマレーシアで、地元政府が旧日本軍兵士の慰霊碑に添えた説明文をめぐり、激しい反発が起きている。日本政府の財政支援を受けて慰霊碑を修復した際、兵士を「英雄」とたたえたためだ。旧日本軍による犠牲が多かった中華系の団体は今週にも日本大使館を訪れ、撤去を求める方針だ。
■財政支援の日本、内容把握せず・中華系団体が抗議
この慰霊碑は北部ケダ州の州都アロースターにある。戦いの要衝だった橋の爆破によって戦死した旧日本軍の兵士らを追悼するため、1941年に建設された。長く破損したまま放置されていたが、日本のペナン総領事館からの財政支援を受け、地元政府などが修復。3月21日に落成式が行われた。
ところが、慰霊碑の横に、兵士を「英雄」とたたえる説明ボードが設置されたことで、地元で非難がわき起こった。マレーシアでは戦時中、中華系を中心に多くの住民が旧日本軍に殺されており、地元メディアは「侵略軍がなぜ英雄なのか」などと連日報道。華人団体や野党が抗議行動を繰り広げた。
批判の高まりに、説明文を考案した歴史協会ケダ支部は「慰霊碑を歴史ツアーの名所にして日本の観光客を誘致したかった」と釈明。州政府の担当者が謝罪し、説明ボードも撤去されたが、その後も慰霊碑自体の撤去を求める声が広がり続けている。
抗議を続ける華人団体「中華大会堂」チェン・ライホック副会長は「戦争被害を受けた人々の傷口に塩を塗る行為。慰霊碑の再建自体が配慮に欠ける」と話す。
クアラルンプールの日本大使館によると、総領事館は慰霊碑の再建費は出したが、説明ボードの内容は把握していなかった。日本大使館は「ケダ州政府とともに冷静な対応をしていきたい」としている。
アロースターはマハティール首相の生家がある地盤で、現在は首相の三男のムクリズ氏がケダ州首席大臣を務める。騒動は野党が親日家として知られる首相やムクリズ氏を攻撃する格好の材料になっている。(アロースター=守真弓)
レイテ島やサマール島で慰霊碑をまわってきただけに、戦争中に日本軍が攻め込み、戦争中に占領し、さらに戦場とした土地に日本兵の「慰霊碑」を建てることの意味を再度考えました。
侵略者の「慰霊」行為は「不快」な行為
最初に押さえておくべきことは、日本人による「慰霊」とその象徴としての「慰霊碑」は、侵略をうけた側からすれば本質的に「不愉快」なことだということです。
この記事の舞台となったシンガポールやマレーシアでは、おもに中国系住民(華僑)が大量虐殺の対象となりました。また私が訪ねたフィリピンでも「バターン死の行進」にはじまり、ゲリラ掃討戦にかかわる住民虐殺、戦場となったレイテ島やルソン島での戦闘に巻き込まれるなどフィリピン人の犠牲者は100万人を超えました。
さらに、日本は、食料や資源を調達する目的での強奪、その「代価」としての軍票(軍が発行した不換紙幣、無制限に発行されたため事実上価値をもたない)発行・使用による破滅的なインフレーションなどを引き起こし、住民の生活や生産基盤を破壊し、耐えがたい苦しみを与えることも多かったのです。
このように、マレーシアでも、シンガポールでも、フィリピンでも、日本兵は侵略者以外の何者でもありませんでした。現地の人から「悪鬼」のように恐れられた日本兵も多くいました。
現地での「慰霊」行為が成り立つために
したがって、現地住民にとっては、日本人による「慰霊」とは、自分たちを苦しめた人間の関係者が、自分たちを苦しめた人間を弔うことです。それをどのように迎えればいいのでしょうか。厳しい言葉を浴びせかけたり、ものを投げつけるという選択肢も可能です。遺骨収集の受け入れや慰霊碑、慰霊行事を断るという選択肢もあります。
しかし多くの地域では、受け入れました。家族を失ない、つらい思いをした人への同情もあったのかもしれません。遺骨収集や慰霊団が落としていくであろう「お金」が必要でもあったでしょう。さまざまな葛藤の中での受け入れでした。
「慰霊」が成り立つ前提としての「儀式」
しかしこうしたことがなりたつためには、「けじめ」をつけるためのいくつかの「儀式」が必要でした。
一つは公的なレベル、政府間での「けじめ」をつけることです。
その点で、フィリピンは条件に恵まれていたかもしれません。アメリカの影響下とはいえ自治政府が、その影響下に独立します。日本政府に対応しうる政治主体が存在しました。日本との戦いにおけるフィリピン人ゲリラの活躍を、アメリカも認めていました。
それにたいし、マレーシアはマレーシア人ではなく宗主国イギリスが代行して日本と対応する形となります。イギリス人にとっては、住民の被害よりも、イギリス軍捕虜の虐待などが重要でした。
また多民族国家マレーシアの特殊性もあります。日本軍はこの地の支配にあたり、住民を人種によって区別して支配しました。中国系住民は「敵」とみなして残虐な対応を、マレー系住民には寛容な態度で臨みます。それにより両者の離反を図りました。今回の出来事に裏にもこうした事情が隠れていると思われます。
「儀式」その1~戦犯訴訟
「けじめ」をつける「儀式」の一つ目は、戦争犯罪者の処罰でした。
連合軍は、マレー半島やフィリピンなど現地で、さらに東京と横浜で、戦争犯罪人を裁判にかけ、約1000人におよぶ人間を死刑に処すなどの処罰を行います。
そして、こうした判決を、日本政府がサンフランシスコ平和条約の第11条において承諾、戦争犯罪の問題はカタがつきました。これが最初の「儀式」です。(サンフランシスコ平和条約の全文はここ)
なお、実際の裁判においては、さまざまな問題があったことは事実です。本来裁かれるべきものが日本に逃げ帰ったり、連合国側の都合で訴追されないこともありました。また現場で上からの命令をうけて「手を汚した・そのように見えた」兵士・軍属たちが不十分な証拠で裁かれた例も多々ありました。
勝者の裁判であり、一方的な論拠で裁かれたとの主張もあります。現地の裁判では、人違いや、証拠不十分という例もあり、弁護士・通訳抜きの裁判も多くあります。裁判よりも復讐の思いの方が先行した場合が多くあったことも事実でしょう。また、戦争責任者を裁いた東京裁判では国際情勢の変化から決着を急いだ面もありました。
逆に日本による侵略・占領によって塗炭の苦しみを強いられた現地の側からすれば、戦争犯罪の規模に比してまったく不十分であるという印象を持った人も多く、寛容に過ぎるという批判もあるでしょう。
そういったことすべてを含めて、政府間では「カタをつけた」のです。戦争犯罪人への判決そして処刑・処罰したという事実を日本が国家として認めたのです。
戦争指導者であるA級戦犯が合祀された靖国神社への政府関係者の参拝に、世界が神経質になるのは、この点にかかわるからです。サンフランシスコ平和条約で確認された戦争犯罪を日本政府が否認しようとしている、日本は戦争責任を認めようとしないとみえるからです。
「儀式」その2~賠償問題
戦争犯罪とも重なる問題ですが、「けじめ」をつける二つ目の「儀式」が戦争被害にたいする賠償問題です。
本来なら賠償問題はサンフランシスコ講和会議の席上で決着がつけられるべきでした。しかし西側陣営の一員としての日本の「独立」を急ぐアメリカは、会議で、条約で、賠償問題を扱うことをさけ、減免、あるいは賠償に応じるとしてもその額を軽減する方向をうちだしました。
平和条約(安保条約も)の「実質的なライター」のダレスは、こうした方向で、戦時被害を受けた東南アジアの国々など迫りました。これをきらったビルマ(現:ミャンマ)は会議に参加せず、フィリピンは強い不満をもちつつもアメリカに押し切られる形で条約に調印します。
なお日本が最も迷惑をかけた中国(中華人民共和国も中華民国)は参加せず、植民地であった「朝鮮」代表(韓国も北朝鮮も)も呼ばれませんでした。しっかりとした決着をつけなかったという「負の遺産」が現在の「歴史問題」につながります。
その後、東南アジア諸国などとの、賠償問題(別の形式をとることもあったが)は、二国間交渉を経て、実際の被害からみると非常に少ない金額で、しかも日本側の役務提供という日本資本に有利な形で決着がつきました。
現地の人には不満が残るものではありましたが、「賠償」にかかわる問題は、会議に不参加のビルマを含め、いちおう決着しました。
こうして、多くの問題はあるものの中国や朝鮮半島などを除いて、一連の「儀式」が完了、政府間の「けじめ」がつけられたことになります。
「上からの解決」と「公的な慰霊施設」の建設
もちろん、こうした決着は国家同士の、「親分」間の「手打ち」にすぎません。
戦争のなか、日本軍の行為によって傷ついた人々が日本を赦すかどうかはまったく別です。とはいえ、政府間の合意は、住民にとってもひとつの「けじめ」にはなりました。
「相手も謝っているのだから許してやろう」と考えた人もいたでしょう。不承不承ながらも、了解した人も増えてきたでしょう。「はしごをはずされた」。それでも「赦せない」と考える人も当然いたはずです。
ともあれ、政府間で「けじめ」がついたという事態を踏まえで、遺骨収集事業が始まり、慰霊団も派遣されます。現地政府の協力を得て慰霊碑も建てられ、共催で行われる慰霊行事も実施されました。こうした事業は、上に記したような「儀式」を経ることで実現したのです。(慰霊にかかわる問題ではここでも論じています。)
双方の配慮のもとでの「慰霊」活動の開始
しかし政府の協力を得たとしても、釈然としない人がいて当然でしょう。最初に述べたように、侵略者の家族がやってきて、自分たちを苦しめた人たちに手を合わせるのですから。
日本人戦死者の遺族たちは緊張しながら、海を渡っていきました。日本政府も緊張しつつ、事業に協力します。
しかし、多くの人たちは思いがけない歓迎と暖かい言葉をうけます。このことが慰霊団の人を感動させました。
初期の慰霊碑の碑文には地元の人々の「目」を意識し、感謝と平和への決意、ときには謝罪のことばも刻まれます。
現地の人々に迷惑をかけたことや双方の平和と友好を求めるといった趣旨の碑文が現地の人々にもわかるように英語や現地語でも記されます。
数次にわたる遺骨収集事業が実施され、遺族会や戦友会などの慰霊団も派遣されました。日本が豊かになると個人的に現地を訪れる人もでてきます。
こうしたことが可能となったのは現地の「協力」あってのことでした。感動した人々のなかには、帰国後も現地の人々と交流を続ける人もいました。さまざまな「お礼」や寄付の意味をこめた援助も行われました。
しかし、いつしかお金を媒介とした関係という性格が生まれてきたことも事実です。現地の感覚とかけ離れた多額の謝礼や寄付は、新たな問題を生みかねないものでした。
「慰霊」事業をめぐる問題の発生
実際に現地に行って日本人が建てた慰霊碑を訪れると「自らが『碑』の管理者である」と名乗る人がときどき現れます。不審に思える人物もいましたが、実際に管理してくれたり、案内してくれる方にはやはりお礼は必要と考え、いろりろと話を聞き、ドライバーにも信頼できそうかを尋ね、妥当な額を渡しました。
しかし「本当かな」という気持ちものこり、「本当に世話をしている方にお礼できていないのでは」との思いもありました。
このように慰霊碑の管理や協力が収入になるという状況がうまれるなか、ルソン島ではフィリピン人の墓から遺骨を盗み、旧日本兵のものとして日本側に売りつけようとした事件も発生しました。
時間がたち、戦争へのリアルな記憶が薄れると、日本人の間でも「現地の目」を気にすることが減りました。日本語のみで記され、現地の人への配慮を欠いた慰霊碑などが増えてきたようにおもわれます。
慰霊碑は現地の人の協力なしには維持できません。慰霊に訪れる人々が減少するなか、その慰霊碑に共感できるなにかがなければこうしたなか慰霊碑は消えていかざるを得ないのでしょう。建てた人たちが慰霊碑を撤去するという事例もふえています。
あるべき「慰霊」とは
フィリピンの歴史家レナト=コンスタンティーは次のようないらだちの言葉を発しています。
長い間くすぶっている不満の原因は、過去に植民地とされた人々に対する日本人の無神経さに由来している。フィリピンのレジスタンスの英雄たちの碑がないのに、フィリピン各地に日本が金を出して、日本人戦没者の慰霊碑が建立されたことに対して、フィリピン人は心を痛めてきた。
日本人が戦死した日本兵のために建てた「慰霊碑」は、現地の人にとっては「見たくない」、本質的に「不愉快」な代物です。あくまでも現地の人の「好意」や「配慮」で、場合によっては自らの感情を押し殺しながら建てさせてもらっているということをつねに頭の中に置いておく必要があると思われます。
サマール島カルバヨクには、「慰霊と謝罪の碑」という碑がたてられました。この「碑」は、サマール島で日本兵が犯した残虐行為をしっかり見すえて、そのことを謝罪し、今後のあるべき友好関係をめざそうと考えています。
(具体的な内容についてはここを参照)
わたしたちは、わたしたちの先輩たちが各地で行った行為を再度検証し、あらたな友好関係をつくりだすのか、こうした視点を持ちながら、「慰霊」のありかたを考えていく必要があると思います。
おわりに
ここまで書いてきて、もう一度「朝日新聞」の記事をみなおすと、私が大きな間違いを犯していることに気づきました。この慰霊碑を、勝手に遺族が戦後の建立したと考えていたのです。この前提自体が誤りでした。したがって、ここで記したことの多くは今回問題となった「マレーシアの慰霊碑」とは、かなりずれてきます。この点については後編で記すことにします。
<つづく>
参考文献:中野聡×荻上チキ「フィリピンで日本軍は何したのか?」(SYNODOS 2016.03.01)
中野聡「追悼の政治――戦没者慰霊をめぐる第二次世界大戦後の日比関係史――(WEB公開版)」