開戦の年に建てられた「慰霊碑」

準備室にて

「慰霊」ということ(後)
~開戦の年にたてられた「慰霊碑」~

「慰霊碑」は開戦の年に建てられた!

 前編では2019年4月1日付で「朝日新聞」が報じたマレーシアに残る「慰霊碑」の記事にかかわって、現地において「慰霊」を行うという行為を、戦後の「けじめ」という点にかかわりながら記してきました。
しかし、前編の最後で、この「慰霊碑」は、こうした範疇には当てはまらないことに気がついたと記しました。なぜならこの「慰霊碑」が建てられたのは、1941年、つまり戦争中、しかも開戦の年に建立された、正確には、建立されたことになっているからです。
とすれば、戦後の慰霊について記した前編の文章とは前提が全く異なっています。
以下、ネット上に記された他の記事なども参照しながら、この「慰霊碑」について考えてたいと思います。

「修復」という名の新たな「建立」?

いくつかの写真を見ると、慰霊碑は御影石で作られたピカピカ光っているお墓型の慰霊碑です。式典参列者の背丈から推測して2メートルはゆうにこえる、かなり背の高いものだということがわかります。今回、周辺も整備されました。他方、写真で見る限りこの碑のまわりに古い「慰霊碑」らしきものは見当たりません。
朝日新聞デジタルの写真から、碑の正面には「慰霊碑」という題字が刻まれ、左側面には以下の文字が認められます。

この地に眠る先人をしのび、平和の思いを込めて、この碑を建立する。
  平成31年吉日
  在ベナン日本総領事館

この碑文から見れば、在ベナン総領事館は修復というよりあらたに「建立」したつもりだったようにもみえます。碑文は前回見た「慰霊と祈り」という形式を踏襲します。
いくつかの記事を総合すると、この地に放置された日本軍の古い慰霊碑があったことに気づいた現地の人々が、日本人観光客への観光資源として利用することを思いつき、ベナンの日本領事館と相談し、慰霊碑を建立し、周辺を整備したというということだとおもわれます。
それなら、もともとの慰霊碑はどこにいったのでしょうか。本来なら横にでも置かれていそうなものですが、見当りません。一つの可能性としては、もともとの碑の一部を削って、修復したということですが。

「昭和16年建立」ということへの疑問

もとの慰霊碑が建てられたのは、1941年(昭和16年)と記されています。
アロースターの占領はこの年の12月12~3日です。1941年は約2週間強しか残っていません。さらに日本軍はシンガポールをめざして南進を急いでいます。ちなみにシンガポール陥落は翌年の2月15日です。このような時期に、このような条件下で「慰霊碑」を建てたことになります。
最初は、この記事の記述自体がミスではないかと考えました。現在の慰霊碑は石に文字を刻んだかなり大きな、本格的なものです。もともとの碑を修復したというのなら、短期間にこれだけ「立派」ものが建てる余裕があったのか、これだけのものをつくれる石工がいたのかなど、いくつかの疑問が生じます。
とはいえ、ネット上にある「朝日」の記事に先行する現地に取材した記事は、いずれも1941年建立と記してあることから、記述ミスではなさそうです。もとの碑に「昭和16年建立」と記されていたのだと推測できます。
1942年以降にたてられた(ひょっとすれば日本国内で作られた?)碑に、1941年建立と刻んだのかもしれませんし、逆に元の碑は木製やコンクリート製などより簡素なものだったのかもしれません。
修復というものの、写真で見ることができるように、今回新しくつくったという方が妥当だと思われます。ならば、本来の慰霊碑はどうなったのか、疑問はつきません。
とりあえず、元の碑が戦争中に建てられたことは確かみたいなので、こうした疑問は保留のままとしておきます。

戦意高揚の目的の「慰霊碑」

戦争中に建立されたとすれば、この碑は、前編で考察したようなタイプの「慰霊碑」とはまったく異なる性格をもちます。
現地の観光協会はこの碑を「日本の英雄を讃える記念碑」として売り出そうと考えたといいます。

もっとも問題となったのが、現地の観光協会がつけたこの「碑」の説明文です。全文がネット上の記事に掲載されていました。英・中・マレー語の3つの言語で記したうちの英文からの訳とのことです。

 “1941年、タイのシンゴラに上陸した約5日後の12月11日、日本の闘士たちはチャンドラとジトラ間の英印軍第5師団の第一防衛団を倒すことに成功し、アロールスターの街を征服した。
 日本の次なる標的は第11師団ミュレイ・リオン少将の統治下にあったケダ川の主要な橋だった。1941年12月13日午前10時10分、歩兵第11連隊からの指示を受けた朝井肇中尉はオートバイに乗り、英印軍が橋に仕掛けた爆弾の導火線を切断するべく、橋の北部に向かった。しかし、同時に爆弾が爆発し、彼を殺した。
 同じ部隊の2人の仲間、金子伍長も死亡し、中山伍長は重傷を負った。助けにやってきた仲間たちによる銃撃が続き、最終的に橋は確保された。
 1942年2月15日、シンガポールが陥落し、東南アジアの大日本帝国軍・山下奉文大将は、橋を征服した歩兵第11連隊の戦士たちの固い闘志を讃えるべく、感状を授与した。彼は「朝井肇中尉と彼の仲間たちの勇気と責任感は卓越しており、比類ない。彼らの闘志を見習うべきだ」と強調した“
林泰人「マレーシアに設立された日本兵慰霊碑への波紋。現地紙報道に見る『批判の理由』」ハーバート=オンライン 2019.03.28

記念式典の様子(現地紙 the SUN daily 24 MAR 2019

説明文はこの碑の建てられた当初の目的を見事に描き出してしまいました。
もともと、この碑によって「慰霊」されたのはケダ川をめぐる整備完成の記念式典のようす。戦いでの朝井肇中尉と金子伍長らの「英雄」的行為です。司令官である山下奉文大将から感状を与えられるという性格の「英雄」的行為です。マレーシアの人の命あるいは文化などを救ったというようなものではありません。作戦行動中の兵士たちに戦死した朝井中尉や金子伍長のように勇敢に戦うように叱咤激励する目的のものでした。
 ちなみにネット上のあるブログ(「犀の角」)の記事によると、この説明文の記事は1942年に朝日新聞社が発行した『大東亜戦史 マレー作戦』の要約・引用で、人物名などに誤りがあるということです。(https://sai001.com/malaysia-japan/)
その点では、日本各地に建てられ、「英雄」「軍神」である「肉弾三勇士」を讃えた像と共通した役割を担った性格をになう碑であったということができます。
なお、山下大将が朝井中尉らに感状を与えたのは1942年ということは、この碑の建立の年を考える上で、興味があることです。

「慰霊碑」を「負の遺産」として、

このように、もともとあった「慰霊碑」は私たちがレイテや沖縄で見ている慰霊碑とは全く別ものであることは明らかです。戦後建てられた「慰霊碑」が戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようという思いで建てられたのと異なり、日本軍に勇敢に戦うようにと鼓舞するための「装置」でした。現地の人が詣らされた可能性も否定できません。
このような碑が撤去されないまま放置され、約70年後、よみがえったのです。
現地の観光協会は、戦争において日本軍がどのような存在であったのか、住民とくに中国系の住民にどのような振る舞いをしたのかなどについて、深く考えることのないまま、日本人観光客を招くための観光資源として利用できると考え、ベナンの日本領事館に「修復」と「整備」をもちかけ、日本の文献をもとに説明文を記しました。その背景には、マレー系住民と中国系住民の間の、戦争と日本兵に対する受け止め方の違いがあることも想像に難くありません。
日本領事館は、この碑のもっている意味も考えず、現地の人とくに日本兵によって残虐な仕打ちをうけ十分な「けじめ」ないまま過ごしてきた中国系住民の感情も考えないままないまま、「修復」に協力したのです。もっとも、もとの「碑」の姿が見えないことは都合の悪い古い「碑」を隠蔽し、一般的な「慰霊碑」という風に見せかけようとしたとも邪推が可能です。
しかし、それはあきらかに誤ったやりかたでした。「この地に眠る先人をしのび」というには、もともとの「慰霊碑」自体、問題の多すぎるものでした。日本軍の侵略のためにつくられた「負の遺産」だったからです。もし「慰霊碑」を建てるとすれば、もとの「碑」がフィリピンなどで戦後建てられた慰霊碑とは全く別のものであるという位置づけと意味を明確に記した上で建てられねばならなかったでしょう。もともとの「碑」があるのならそこに何が書いてあるのか、どのように利用されたのかを明らかにしたうえで、マレーシアの人に対する謝罪と慰霊、平和への祈りを明確にしめした新たな「碑」とともに、「負の遺産」であることを示しながら残すべきものだと考えます。

「戦争での死」を悼むことについて

わたしたちは「死者を悼む」「慰霊する」というと思考停止に陥る場合があります。しかし、その「死」がどのような意味をもち、「慰霊」がどのような方向性をもってなされたのかを考える必要があります。それ抜きに、死者を弔うことは大切なことだと一般化するべきではないと考えます。
さきに、戦後に建てられた「慰霊碑」は「戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようにとして建てられた」と記しました。このいい方は妥当でないかもしれません。戦後建てられた「慰霊碑」のなかにも、このマレーシアの「慰霊碑」とさほど変わらないものを目にすることが多いからです。なくなった人を悼むあまり、その死を意味のあるもの、美しいものとして「顕彰」することを目にすることが多いからです。こうしていつのまに死者への弔いのはずが、戦後の「慰霊碑」をもともとたっていたマレーシアの慰霊碑に近いものにしてしまうのです。
こういったことは、戦争展などでの戦争への語りでも同様です。二度と戦争を行わないという方向で「戦争での死」を語るのか、死者を英雄視することで新たな戦争の道を掃き清めるものとなるのか、ときには厳しく問いかけることが必要だとおもいます。

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