植民地化される朝鮮~保護国化から武断政治へ

勤政殿に掲げられた日章旗

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植民地化される朝鮮~保護国化から武断政治へ

今回は日本による植民地支配の様子を見ていきたいと思います。
具体的な植民地化の経過については朝鮮の植民地化(「韓国併合」)を参照
この時期のことを韓国では今でも「日帝の強占支配」といい、かつては評価すべきものは何もない暗黒時代とみなしました。ところが近年、日本の植民地支配にも評価すべき点があったと経済指標なども用いる主張があらわれ、植民地免罪論につながるといった批判もあり激しい対立がつづいています。日本の植民地支配が、戦後の悲劇、経済発展や文化などなど以後の朝鮮半島に大きな影響を与えたのは明らかである以上、植民地支配の実態やその意図、客観的な結果などをより具体的・リアルに知り、どのような影響をあたえたのかを知ることは大切です。

日本は植民地支配をより効率的にすすめるため都合のよい「近代化」・「文明」を朝鮮に強要し、伝統的な朝鮮のあり方に致命的な打撃をあたえました。そこには植民地に特徴的なものとともに「近代」や「文明」自体が引き起したものもあり、民族国家が続いていたとしても直面したものもあります。こうして点を配慮し、日本の明治維新・文明開化と比較し、民衆の動きにも目を向けながら「植民地における近代」について考えたいと思っています
この問題意識については、次の文章を参照。植民地での「悪行」から「連帯」を考える

なお、今回は「土地調査事業」にスペースをとりました。前回のシリーズで依拠していた学説を現在の研究の内容に即したものにし、それに則った形でその問題点を明らかにしたかったからです。ここでも地租改正から地主制形成にいたる日本との共通点と違いに目を配りつつ考えたいと思います。
なお、前シリーズは「朝鮮の植民地支配」を一回分で記していましたが、今回は三・一運動を境に、二回にわけて記載したいと思っています。

植民地化の開始~日露戦争から保護国化のなかで

日本による朝鮮の植民地支配は、実質的には1904年の日露戦争からはじまり、1905年の第二次日韓協約(日韓保護国条約)をへて、1907年の第三次日韓協約でほぼ完成し、1910年の韓国併合はこうした事態を追認した性格を持っています。
日露戦争から韓国併合への動きについては朝鮮の植民地化(「韓国併合」参照

日韓議定書と財政・税務改革

日本は日露戦争下の日韓議定書をもとに韓国/朝鮮の土地・人民を徴用し鉄道敷設や基地設置をすすめました。(必要以上の土地を徴用し、日本人植民者に与えてもいます)民族的抵抗を排除するため、一方的に「軍律」を定め、朝鮮の人々を取り締まり、処罰しました。軍隊による朝鮮支配はすでに始まっていました。
直後に第一次日韓協約も締結されます。財政顧問となった大蔵省出身の目賀田種太郎がすすめた通貨改革では、これまでの貨幣が回収・廃棄され、日本製の硬貨と第一銀行が発行した紙幣(第一銀行券)が通貨となりました。日本の制度の導入によって貨幣制度は安定しましたが、日本円とのリンクにより日本製品・資本の流入や食料・原料の流出などが加速しました。

第一銀行券 十円紙幣
王国・帝国政府が発行した貨幣に代えて、第一銀行券を通用させた。ちなみに肖像は第一銀行の総帥・渋沢栄一(明石)

通貨交換は事前に十分な情報が伝えられない状態で実施されました。少量通貨の交換には応じず、これまでの手形も無効とされたため韓国経済は深刻な打撃を受け、倒産し自殺する業者も現れました。逆に前もって情報を得ていた日本人投機家は大きな利益を得ました。
二つ目は税制改革です。目賀田は、納税者が直接国庫(第一銀行)に税を納入させるシステムを導入することで国税の直接掌握をめざしました。このことは中央が派遣した強い裁量権を持つ地方官(観察使⇒守令)が、地方の事情を唯一把握している胥吏(郷吏)の力を借りて徴税、中間収奪を得るという伝統的な徴税方法との正面から対決することでした。

保護国下での「植民地化」

韓国植民地化のもっとも重要な画期は、1905年11月の第二次日韓協約(乙巳保護条約)です。これに基づき設置された韓国統監府が、初代統監伊藤博文の威信のもと、強力な「改革」を進めました。

梅謙次郎(1860-1910)民法学者

商法や民法などの整備をすすめるべく招かれたのが梅謙次郎でした。お雇い外国人・ボアソナードの下で民法典制定に尽力した梅が、今度は「お雇い日本人」として韓国で法典整備に取り組みました。日本で行ったように旧慣に配慮した法典整備の準備を進めようとしましたが、韓国併合が本決まりとなると統監寺内正毅は法典整備は中止を決定、1910年8月韓国併合の混乱の中梅はソウルで客死しました。
梅が整備した法令の一つが土地取得や未墾地開墾にかかわるいくつかの法令です。この「近代」的な法令は条約を無視して土地取得をすすめていた日本人を中心とする外国人が土地取得(強奪)をすすめる条件整備という意味を持ちました。
人口調査や土地把握、法典整備など客観的に見ても進歩的な「文明化」が植民地支配の道を掃き清めました。
1907年には陰に陽に日本に抵抗し続けた高宗がハーグ密使事件をきっかけに退位を余儀なくされ、韓国の内政権を日本にゆだねる第三次日韓協約が締結され、儀仗兵をのぞき軍隊も解散されました。韓国は国家の体裁を失いました
これ以後、韓国政府の諸政策は日本人による次官会議で決められ、日本人官僚が、日本流のやり方で執行します。いっきょに植民地化が進みました。

抵抗運動と合邦運動

こうした動きに抗し義兵闘争が激化します。これに対抗すべく、日本軍は軍事警察を担う憲兵隊を全土に配置しました。
義兵の鎮圧で有効であったのが朝鮮人から採用された憲兵補助員たちであり、親日派の一進会なども動員されました。こうした背景には義兵の主力である両班=儒生らにたいする日頃からの反感もあり、追い詰められ一部は盗賊化した義兵から地域を防衛する面もありました。
朝鮮社会の内部対立をも利用しつつ、日本軍は義兵たちを追い詰めていき、1915年には半島内での活動を鎮圧します。義兵の主力は国境を接する中国東北部(「満州」)間島地方やロシア沿海州へ移り、この地を拠点に粘り強いたたかいを続けます。

李容九(1868-1912)親日団体一進会の指導者であり、東学の一派侍天教の教祖。日本との合併が韓国民衆の解放につながると考えていた。

都市部では愛国啓蒙運動がつづいていました。日本側の圧力によって、国外に出ても抵抗をつづけようとするグループがでてくる一方(安重根はこうした典型です)、親日派の一進会と結ぶ動きもありました。
すでに植民地の流れを止めること自体、困難となっていました。
一進会の李容九らは、植民地化されるにしても対等に近い形にしようと日韓合邦請願を提出しますが、逆に韓国側からの併合要請として利用され、対等な合邦との願いは一蹴されました。このなかで「売国奴」という現在にまで続く評価が確定しました。李容九は併合に伴う叙爵をも拒み、1912年、失意のまま世を去りました。
こうして1910(明治43)年8月、韓国は韓国併合の日をむかえました。日本側が警戒したような混乱すらありませんでした。既成事実が積み上げられていたからであり、すでに「武断政治」の枠組みが完成し、軍隊が厳重な警戒態勢をとっていたためでした。
こうして「韓国」という国名は奪われ、「朝鮮」という旧国名が今度は植民地としての名として用いられるようになりました。

武断政治の展開

寺内正毅(1852-1919)
山口県出身 軍人,政治家。
明治35-44年陸相をつとめ,43年初代朝鮮総督をかねる。

朝鮮総督府

植民地統治の中心となったのが朝鮮総督府です。陸軍大将の寺内正毅が初代総督として韓国統監から横滑りとなりました。就任当時は陸軍大臣も兼ねていました。
朝鮮は日本列島などの「内地」と異なる「外地」と位置づけられました。そこは大日本帝国憲法が基本的には適用されず、朝鮮総督が出す制令がそれにかわる権限を持つ場所でした。総督は現地の陸海軍部隊を命令する権限を持ち、司法を含む官庁への行政権も与えられるなど「小天皇」ともいえる権限が与えられました。
朝鮮人官僚はその5割弱とかなりの数が残っていましたが、地位が上がるごとにその割合が減っており、実際の権限は日本人が握っていました。
とはいえ現地人の官僚が皆無と言っていいほど少なく、その地位も低かった台湾とは大きな違いではあります

なお「朝鮮や台湾は、1945年までは日本の一部だったのだから、国民徴用令などの法律に従わなければならない義務があった」と主張する人がいますが、朝鮮や台湾など「外地」では明治憲法上の権利も保障されておらず、統治者にとって都合のよい国内法(おもに弾圧法)が選択的に通用させる異法域でした。「日本の一部だから」云々は虫のよい議論といわざるを得ません。

武断政治

勤政殿に掲げられた日章旗(明石)

寺内は就任に当たり、忠誠と順法精神をもった「良土順民」は皇恩に浴することができるが、その支配に抵抗するものは『断じて仮借するところなかるべし』として、軍事力で朝鮮の人々の不満を抑えこみ、その力で「文明」を朝鮮におしつける姿勢をとりました。こうした統治を武断政治とよび、1910年の朝鮮併合から1919年の三・一運動までがこの時期にあたります。
一進会のような親日団体も含め多くの団体が解散を命じられ、新聞・雑誌の多くも廃刊させられました。言論や集会の自由もきびしく統制され、神道・仏教・キリスト教の三つの宗教のみが認められ、東学の流れを引く天道教などは宗教類似団体としてその内容も介入されました。また為政者に窮状を直接陳情するといった伝統的な政治文化も禁じられました。
朝鮮の人々の声に耳を傾けず、「協力」や「合意」を得ようとの姿勢も欠落し、ただただ力で強要するだけの稚拙な政治、それが武断政治でした。こんなものがうまくいくはずはありません。
ちなみにこうしたやり方は初期の台湾でも失敗した手法でした。それを再び朝鮮でも推し進めようとしたのです。
1911年の朝鮮教育令は、朝鮮人を「懶惰」と決めつけたうえで、教育の目的を「勤倹思想を涵養」と「忠良なる『国民』」の育成とし、日本語教育と「民度」にあった普通教育と職業教育を施すことをめざしました。その結果、短期で主に実業に特化した学校が設けられましたが、学校数も少なく、上級の教育機関もわずかしか設けられませんでした。
学校では、制服を着、サーベルをぶら下げた日本人教師を中心に教育をすすめました。子どもたちにとっての日本は「文明」をサーベルの力を借りた「規則」でおしつけるものでした。学校は朝鮮に近代的な知識の習得させるうえで大きな役割を果たしましたが、同時に日本への同化を進めるものでもありました。
こうした点を含め、以前、一人の官僚の半生を通して植民地における近代の意味を考えるため、「親日派」官僚における「植民地と近代」という文章を書きました。参照していただければ光栄です。
愛国啓蒙運動のもとで民族意識を身につけ実力養成を図るべく設立されのが私立学校でしたが、併合前後から減少しはじめます。併合後は、官製教科書の使用を義務づけられキリスト教などの影響力を削ぐために宗教教育も禁じられるなど、圧力が加えられました。そうしたなかでもさまざまな形で民族教育の工夫がなされました。
同化政策とはいえ設置された学校数もわずかでありこの時期の総督府はそれほど熱心とは言えなかったでしょう。多くの子どもたちは書堂と呼ばれる伝統的な私塾に通っており、これが幼年教育と位置づけられていました。総督府はここにも規制を強め、ここでも官製の教科書の使用が義務づけられるようになっていきました。

憲兵警察制度

憲兵警察制度
警察機関である警務部と憲兵隊本部の看板がならべて掲げられていることがわかる。〔明石〕

武断政治の中心となったのが憲兵警察制度です。警察のトップを憲兵隊司令官が兼ねるなど、実質的には軍隊=憲兵隊が警察官に命令する形となり、警察署や駐在所がない地域では憲兵が警察官を兼ねました。
微罪については警察署長や憲兵隊長に即決裁判の権限が与えられていたため憲兵=警察に従わない場合はただちに罰則を命じることが可能であり、罰金などを支払えないものを笞刑(むち打ちの刑)に処しました。
この刑を定めた朝鮮笞刑令は甲午改革の中でも問題視され廃れつつあったにもかかわらず、総督府は「旧慣尊重」と称してこのような非人道的な身体刑を復活させ、統治に用いました。
憲兵警察は義兵鎮圧や犯罪者の検挙といった内容にとどまらず、民事調停、税関業務、山林監視、民籍事務・墓地取締といった行政事務、種痘など健康衛生管理、日本語や法令の普及など啓蒙活動、道路改修・植林や農事改良など生活や生産などにかかわるさまざまな任務を担いました。そして指示・命令に従わないものを処罰などで脅し、総督府の方針を末端まで浸透させようとしました。
朝鮮人からなる憲兵補助員が通訳や情報収集にあたり、下級警察官である巡査補にも朝鮮人が採用されました。なかには地位を利用して両班や地主などへの積年の不満をはらしたり、賄賂を要求するといったものもいました。

武断政治によってすすめられる「啓蒙化」「文明化」

学校での記念写真
教師は制服でサーベルを身につけていることがわかる。(ほるぷ)

武断政治では「文明化された日本人が無知蒙昧な朝鮮人を教え導く」という江戸時代流のやり方が用いられました。それは、実際の江戸時代に存在した合意や自治の尊重などの「封建の知恵」は取り入れられず力の支配だけをまねたものでした。
「まげ」や刀にかわる「記号」として官僚や教師は制服・サーベルを身につけることが命じられ、「切り捨て御免」のように、朝鮮人への殴打を日常化していました。「文明」化は日常的な威嚇と暴力の行使という「野蛮」さが補完していました。
このような力による強要は、朝鮮の人々の中に有力な協力者を見つけられないという弱さの裏返しでもありました。

朝鮮では支配民族としての優越的な地位が保障されるということで、内地でのうだつの上がらない生活を嫌う日本人も多くわたってきます。その中には優越民族・支配民族の一員であるとして傲慢で横暴な態度をとるものも多く、つぎつぎとトラブルを引き起こしました。「不良日本人」の増加には総督府でさえも手を焼くことになります。
悪名高い「朝鮮会社令」で企業設立を認可制として制限したのはこれを機に不良日本人がさらに増えることをきらったことも理由の一つとされています。不良日本人も、総督府には取り締まりの対象だったのです。

土地調査事業

武断政治期に行われた政策の中で、最も重要な政策が土地調査事業です。

地租改正と土地調査事業

近代的な国家を運営するうえでは土地と人民の把握が必要でした。

ちなみに開港直前の1864年683万人とされていた人口は、戸籍制度の導入により1294万人(1909)と倍増しました。それでも実際の7~8割程度と考えられています。

全国的な土地調査(「検地」)はできなかったものの、近世の日本は、地方分権制をとっていたこと、村が責任を負って年貢などの負担を担っていたことなどから、人口、土地と保有者などの掌握は比較的容易でした。地租改正などもこうした基礎の上に実施されました。

朝鮮では在地支配階級である両班らの抵抗もあって、長く土地・人民の正確な把握がおこなわれない状態が続いており、比較的正確な情報をもっていたのは徴税にあたる現場の役人(郷吏・胥吏)だけでした。こうした曖昧さにつけこんで胥吏や地方官が中間収取を得ていたのです。この額は巨額に上り、中央の政府・有力者もその分け前に寄生、そのつけが民衆に回されました。東学農民戦争はこうしたあり方への反発が基礎になっていました。

耕地などの状況と土地所有関係などが確定しなければ、正確な徴税はできないし、中間収取者の排除もできません。さきにみた目賀田の財政改革はこの課題の存在を明らかにするものでした。国有地と私有地をはっきりさせることも必要でした。また土地の売買を容易にかつ正確に行う上でも土地所有権の明確化が必要でした。
こうした課題を解決すべく実施されたのが土地調査事業でした。

土地調査事業の開始

土地調査事業
朝鮮人の立ち会いの下、日本人が中心となって測量が行われている。

土地調査(「量田」)は王国時代を通じての懸案事項でした。これに着手されかけたのが日清戦争中の甲午改革であり、日露戦争直前には実際に土地調査(「光武量田」)も開始されました。こうした流れのなかで実施されたのが土地調査事業でした。
王国以来の懸案が、軍事占領下といえる状況下、全国規模で、徹底して実施されました。胥吏の非協力などでリストを入手できなかった日本側が土地の所有者の確定に用いたのが自己申告というやりかたです。
従来の歴史書などでは、所有権が不確定だった朝鮮で、自己申告という制度を利用し、大量の申告漏れの土地を奪った、弱小の自作農の土地を有力者が詐取したなどの説が語られていました。(前シリーズがその典型です)。しかし、この説は誤りであることが明らかになっています。
『韓国経済通史』を書いた韓国の経済史家韓憲昶は

「日帝の支配とは、申告がなされなかった隙を狙って土地を略奪し、地税を可能な限り搾り取るといった低次元な水準の植民地統治に依拠していたのではなかった」「土地調査事業自体を通じて収奪を断行しようとするよりは、植民地支配のための基礎を整備しようとしたのである」と記しています。妥当な指摘だと思います

兵農分離がすすんでいた近世日本と同様、中央集権国家朝鮮/韓国でも土地にたいする領主権(領有権)は弱く、さらに村が土地に対してもっていた権限や土地台帳(「検地帳」)に記載された子孫の権利も見られず、土地売買が活発で証文も残っていた朝鮮は、日本以上に土地にたいする私有権が明白でした
朝鮮史研究の第一人者宮嶋博史が唱える東アジアにおける「儒教的近代化」という考え方の根拠の一つに、この地域における土地所有権の早期確立ということがあります
このように土地所有権がある程度明確であったため、日本側も旧来の所有関係を尊重・追認、有力者による不正の余地も少なく、申告漏れは0.02%にとどまりました。自己申告に基づく「私有地」確認作業は大きなトラブルもなくすすみました。
朝鮮人地主ら土地所有者側からしても、正確な私有地の形状や面積が確認でき、台帳に登記され公に所有権を公認されたことそれ自体は歓迎すべきことでした。
この点は地租改正も同様でした。日本の農民も土地所有権の確定・登記については協力的でした。激しい地租改正反対一揆が発生したのは、それまでの開化政満にくわえ、政府が地価の算定を実際以上に高くしたこと(それは地税を高くする事に通じます)で、負担軽減どころかこれまでの年貢以上の高い地税が課されることへの不満からくるものでした。

土地調査事業の結果~「倍増」した耕地と地税収入

土地調査事業は、1910年の併合直後から1918年までの9年間、2000万円の資金を投入して実施されました。正確な測量と公的には登録されていなかった耕地(「隠結」)の把握(胥吏たちはこうした「隠結」も徴税対象としており、税金は払っているにもかかわらずその存在が公定されていなかった土地が、土地調査事業によってその存在を認められことになります)などによって、当初240万町歩とされていた朝鮮全土の総耕地面積は432万町歩(1918年)と判明しました。この結果に基づき徴税したことで地税収入は1910年の600万円から、1918年には1157万円へと急増しました。

土地測量の様子(ほるぷ)

なお、内地並みの地価の3%を地税にと考えていた総督府ですが、予想以上に耕地面積が広かったこと、朝鮮側の反発も配慮し、地税を地価の1.3%と低く設定しました。
不透明さを利用して軽い負担で済んでいた土地も正確に把握されてしまったことで負担増となった人もいましたが、一部にのみ有利で、弱者に負担をおしつける傾向にあった徴税のやり方が公平かつ透明に変わったことは確かでした。
これまでの税に含まれていた地方官⇒胥吏による多額の中間収取分(かれらの報酬という性格もあります)がなくなったことで、中央が直接受け取る税が増収となったのです。このことは中間収集で得ていた地方官や胥吏の「報酬」分を正式な給与とし支払う必要が生じたことです。地税収入の増収をただちに増税と短絡すべきではなさそうです。とはいえ土地が正確に把握されたことで土地を対象とする付加税などが容易となり、朝鮮の農民を苦しめることになりました。
また例外をゆるさない「近代」的な徴税法は、さまざまな形で「手心を加える」ことが可能であった「前近代的」の手法からすれば違和感のあるものでもありました。

国有地をめぐる紛争

土地調査事業で最も多くのトラブルが発生したのが民有地と国有地の区分けです。
王国時代、耕地の中には一般的な民有地とは別に王室や政府機関に収穫物などを納める特別な土地がありました。日本中世の寄進地系荘園のように税金逃れのため王室などの土地とした民有地同様の土地も多く存在しました。
ところが光武量田のさい、少しでも多くの収入を得たかった韓国政府はこうした土地を十分な調査なしに皇室所有地としました。それが国有地となったのです。こうした土地が全耕地の3%程度ありました。
「土地調査事業によって日本人に土地を奪われた」という訴えの大部分がこうした土地にかかわるものでした。こうした訴えがあったもののうち、正式に不服申し立てとして受理された場合は、92%が民有地とされており、一定の配慮はしていました。

日本人農場の拡大

土地調査事業は、全体として土地所有権確認をもとめる農民の要望にそい、王国時代から懸案の解消をめざすものであったことから比較的スムースに事業が進みました。
とはいえ、地租改正と同様、土地所有権が認められたのは地主や自作農であり、耕作者である小作農は置き去りとされ、小作人の耕作権(小作権)もあいまいとなりました。さらに地主の多くが日本人でした

地主制の展開

王国時代を通じ広汎に存在していた地主制は、朝鮮後期とくに開港にともなう米の商品化などをきっかけに急速に拡大します。
日露戦争ごろからは日本人地主が急増しはじめます。
多くは零細農民に高金利の資金を貸し付け抵当として土地を手に入れるという形で土地を集積していきました。
1907年日韓合弁で設立された東洋拓殖株式会社(東拓)は先に見たような形で韓国皇室の所有地とされた国有地を現物出資させたことで、朝鮮最大の地主となりました。
こうして韓国併合のころ、すでに多くの日本人地主が生まれていました。その面積は1910年には約7万町歩にのぼりました。そして土地調査事業の期間にさらに急増しました。
日本側のもくろみとしては、こうして獲得した農場に日本からの小作農を植民させることで日本農業を朝鮮に移植しようとしていました。ところが比べものにならない安価で土地が手に入り、逆に就農しても収入はわずかであることから、就農する日本人はごくわずかで、多くは苦労なしに大きな収入を得られる地主などの特権を生かした道などを選びました。いったん就農したものもしだいに離農、このもくろみは失敗に終わり、かわりに大量の日本人地主が残りました。
なお課題であった日本農業の移植は、農業研究所による技術改善と指導、そしてサーベル農政によって実現されていきました。

土地調査事業の意味~土地市場の成立と活発化

土地私有権の確認は土地売買の活発化につながりました。

日本の場合、近世全体を通じて不安定であった小農民経営を支えていたのは「村」と領主による保護・規制でした。名目的ではあっても「土地売買」は禁止されており、こうした条件下に、近世における地主制は質地地主制といった独特の形態をとりました。年季が過ぎ、数世代が過ぎた権利者が変更されていても元金を返済すれば田畑を取り返すことができるとの「村」の暗黙のルール(「無年季的質地割り戻し慣行」)の存在すら存在していました。地租改正時の土地所有権の承認がこうした保護・規制を一挙に除去し、土地の売買を容易にしました。こうして土地の集積が容易となったのです。別に言い方をすれば小農民の没落にたいする歯止めが失われたのです。
これをうけ、近代地主制が一挙に拡大したのが地租改正直後に発生した松方デフレです。農産物価格の下落と直接・間接の二重の増税、好景気時の負債などが、小農経営を
破綻に陥れました。そして有力者が遠慮なく土地を集積しました。こうして日本で近代地主制が生まれました。

では朝鮮はどうだったでしょうか。ここでは以前から地主制が形成されており、それを土地調査事業が促進しました。ただ近世日本における阻害要因を、王国時代以来の土地所有の不明瞭さが果たしていたといえそうです。それが解消されました。総督府が「保証」する土地市場のもと、地主制が全面的に開花したのです。
日本での松方デフレの役割を、第一次大戦にともなう好景気にともなう大量の資金流入が担いました。自作農の経営破綻による土地供給増のかわりに、資金供給増が地主制拡大につながったといえます。

地主制の拡大~高米価のもたらした結果

土地調査事業の時期、日本では大戦景気がおこりはじめていました。貿易の拡大により大量の資金が流入したにもかかわらず、生産財の供給不足によって行き場を失った資金が投資先を求め、土地市場に殺到、その一部が朝鮮の土地市場にも投入されたのです。
大戦景気による米価高騰は朝鮮の地主にも資金をもたらしました。会社令によって投資先がかぎられていた朝鮮人地主たちの資金
土地市場に流入しました。韓国の農業史家・金容燮はこの時期の土地兼併の様子を「暴風雨」と例えています。
他方、米価高騰は自作農に災厄をもたらしました。
土地税(および付加税)は地価によって定められます。そこに土地ブームが到来したのです。地価の急騰は増税につながりました。米の多くを売却する地主たちが歓喜する高米価も、多く自家消費にまわす自作農にとっては税金の高騰となりました。あとで見る山林政策などによるダメージもあって小規模な農民経営はいっそう不安定となりました。
こうして土地調査事業が
土地の流動化⇒地主制の拡大をまねきました
 なお、憲兵警察のなかは農地の流動化が地域の不安定化を招くとして土地売却に介入した例もあります。そのため地価が高かった時期に売却できず、地価が低下した時期に売却したため、いっそうの損害を受けた場合もありました。
そして事業が終了した1918年には全農家の3.1%にあたる8万戸の地主層が50%以上の耕地を所有し、80%を占める小作農民を支配するにいたりました。
この割合は地主経営がもっとも進行した同時期の日本(小作地率48%<1918年>)よりもさらに高水準です。
とくに日本人地主の土地所有高は23.7万町歩(全耕地の約5.4%)と、事業開始時(1910年)の3.4倍と急増ぶりがわかります。日本ではこの時期をピークに小作地率は減少しますが、朝鮮では以後も増加をつづけます。
こうしてもともと少数であった自作農は土地を失ない、これにひきつづく産米増殖運動などでさらなるダメージを受け、自小作農から小作農へ、さらには農業労働者や離農という道筋を歩んでいきます。こうして農村の貧困がすすみました。
土地調査事業によって土地が奪われたとの印象はこうした時期的な一致も大きな影響があるのでしょう。

土地調査事業の意義

東洋拓殖株式会社

土地調査事業自体は、王国時代以来の宿痾とも言える前近代的な徴税制度を近代的な制度におきかえ、農民たちの要望でもあった近代的な土地所有関係を樹立するという「一定の近代法的装置と行政的合理性を前提とする」でした
韓憲昶は日本の植民地支配はこうした「近代性」「合理性」を前提にして「市場と行政制度」を通して「剰余を吸収」しようとしたといいます。
ただ、このような近代的・合理的な「装置」は武断主義という暴力を背景に強要されました
植民地当局が与えた近代性・合理性は「地主制」を全面的に発展させ、「効率」的な植民地農業を成立させました。それは農業国である朝鮮民衆の貧困をいっそう深刻化させるものでもありました。

農村の貧困と、国外移民・土幕民・火田民

土幕民の家 ソウル

土幕民たちの住居

一般に、近代形成期、農業生産力の向上と地主制形成(あるいは資本主義農業の進展)の中で、大量の余剰労働力が農村に生みだすとされています。
他方、商工業の発展は遅れがちであり、人々をうけいれるを吸収しうるだけの余地は少なく、人々は、放浪・浮浪生活を余儀なくされました。

こうして人々はやがて都市に吹き寄せられ、巨大なスラムを形成します。
こうした風景は、産業革命期のロンドンに、明治~大正時代の東京や大阪に、あるいは現在の「南」側諸国などにも一般的にみられます。イギリスなど多くの地域で、こうして生じた安価で大量な労働力が工業化=産業革命の前提となったことは周知の事実でしょう。
同様の状況が1920年頃、京城とよばれるようになったソウルなどでも見られました。
農村から放出された人々は放浪・浮浪生活を余儀なくされました。かれらは憲兵警察から「徘徊」や「乞食」などとして処罰の対象ともされつつ都市にむかい、その郊外に掘っ立て小屋を建てて住み着きました。こうした人々は朝鮮では土幕民とよばれました。
当時の朝鮮を含む植民地や現在の「南」側諸国では工業化の動きは微弱かつ奇形的となり、あふれ出してきた人々を吸収する力が弱かったことからら、都市スラムはさらに巨大化しがちでした。
この点に関しては植民地における「近代」
参照

農村を出た人々の流れは、中国東北部(とくに間島地方)ロシア沿海州へ、さらには日本へと向かいました。ただ、国外とくに日本に向かうには渡航費用などある程度の資金も必要でした。
そしてこうした道を選ばなかった、選べなかった人々が農村にのこりました。
農村における過剰人口が朝鮮においても高額小作料の原因となり、ひいては労働者の低賃金の過酷な労働環境の原因ともなりました。

漂泊生活を行う一家間島地方のようす(ほるぷ)

これまで、農村の人々、とくに貧困層を支えたのが周囲に広がる林野でした。
林野に入って焼き畑農業で生計をはかる火田民となるものがいたり、山に入って食糧や燃料・材木などを手に入れることで生活の足しとする人々が農村の貧困化とともに増加していきました。
農村の貧困は林野への過剰な依存を加速させ、「朝鮮の山ははげ山ばかり」といわれるような事態をも引き起こしました。
総督府はひとびとをこの林野から排除します。

林野・未耕作地をめぐる紛争

総督府は林野の国有地化をすすめ、地租改正をきっかけに頻発した日本と同様の事態が生じ、更に深刻な様相を呈しました。
近代以前の農村社会において、林野は、水源として、あるいは燃料や食糧、肥料を手に入れる場所として欠かせない場所でした。そのため、多くの場合、林野は集落の共同利用地(朝鮮では「無主公山」といいます)として扱われ、近隣の農村の人々は、そこに立ち入る権利(用益権・入会権)をもっていました。
寒さの厳しい朝鮮では暖房のために大量の燃料が大量に必要であり、それを林野で得ることで冬を乗り切ってきました。林野への立ち入り制限は冬の生命維持に直結する問題でした。さらに林野は貧民が食糧や交換にもちいる物資を手に入れる場所であり、火田民の生活の場でもありました。風水を重んじる朝鮮では葬送の場でもあり、農村の人々の生活に大きなかかわりをもつ場所でした。
ところが、地租改正や林野調査事業が依拠する「近代」はこうした林野に対しても排他的土地所有権という考えを持ち込みました。
保護国期の1908年に森林法がだされ、さらに1917年からの林野調査事業がすすめられます。基本は申告にもとづく林野の所有権確定です。しかし耕地とは異なり、林野を個人私有地とみなすことは困難であり、申告がなされなかったため、大部分の土地が国有地とされました。私有権を申告したものは14%にとどまり、申告したものの多くが測量業者と結んだ有力者でした。
土地調査事業で否定された申告制にかかわる俗説は、林野調査事業では該当していました。ついでにいうなら林野に対する地租改正事業でも同様の事態が発生し、トラブルが多発しました

総督府は取り上げた膨大な林野を国有地とし、これまで許されてきた立ち入りを制限、さらにこうした土地を貸付、かれらが造林に成功すれば譲渡するという造林貸付制度を導入しました。「はげ山だらけであった朝鮮の山を日本人が緑にした」という植民者の自慢話は一連の事情をさすものでした。
なお、総督府のこうした政策は三・一運動でみせた朝鮮民衆の怒りによって変更されます。1926年の縁故森林譲与令で、残っていた国有林の一部が縁故者として認められた邑・面等の部落に払い下げられるようになりました。

総督府の経済政策

鉄道建設と道路

武断政治の時期、総督府が最も力を入れていた政策のひとつが鉄道と道路というインフラ整備でした。この事業は、満州から中国本土への兵站を担うという面からも、植民地の産業基盤整備にという面からも、きわめて重要な仕事と考えられており、その完成が急がれました。
韓国併合時にはほぼ1000キロに達していた鉄道は1918年までに1855キロへとさらに延長され、1910年2000キロであった幹線道路は4年後には17000キロと9倍近くに延長されました。
道路網の整備は地図上でルートを書き込み、その線上にある人家も農地も容赦なく立ち退かせ、接収する乱暴なやり方であったため鉛筆道路」と呼ばれました。
工事に際しては、戸ごとに工夫を割り振るという江戸時代流のやりかたで、労賃や食費も自弁でした。裕福なものは金を払うことで免れましたが、貧しいものは逃れることができませんでした。農繁期であろうが、重要な行事があろうががおかまいなしであり、遅延などがあれば笞刑がまっていました。
なお戸籍調査による人口の掌握がこういったやり方を可能にしていました。
こうした乱暴なやり方と、人々の負担が人々の不満の原因を深めました。
このようにして朝鮮の人々から土地を奪い、労働力を供出させて鉄道や道路を作ったのです。たしかに費用の一部は日本の国庫からの持ち出しでしたが、多くは朝鮮人から集められた税が用いられました。「日本人が朝鮮に鉄道や道路を作ってやった」といういいかたのおかしさは明らかでしょう。
なお、鉄道や道路といったインフラの整備は商品や人間の流通を活発化させ、経済発展を促進したことも事実です。また行き交う車両が伝統社会に生きる朝鮮の人々に皮膚感覚としての「文明」を強烈に感じさせた側面もありました。

総督府の経済政策と「朝鮮会社令」

仁川港から日本に向けて大量に積み出される朝鮮米(ほるぷ)

武断政治が始まった1910年ごろ、内地では産業革命が一段落し工業化が軌道に乗り始めた時期でしたが、不況によって朝鮮に進出する経済力もありませんでした。当時の日本が朝鮮に求めていたものは食糧(とくに米)と原料(綿花など)の供給地であり、工業製品の販売市場でした。これをうけ、総督府も内地の産業を支え対立しないとの経済政策をとりました。
悪名高い朝鮮会社令もこうした論理によるものでした。これは朝鮮で会社を設立する場合は総督府の認可を必要とするというもので、これまでから朝鮮人の民族資本の発展を妨害する差別的なものと位置づけられてきました。この法令は日本企業の朝鮮支店設置などにも適用され、総督府の利権の対象という性格もありました。このため、朝鮮内外の日本人も不満をもち、渋沢栄一などは「このような仕打ちをされてまで投資する気はない」と公言していました。
総督府は朝鮮人会社経営はもちろんですが朝鮮の工業化自体、消極的だったのです。

「サーベル農法」~高品質・低価格の「朝鮮米」と米不足

他方、総督府は内地が必要とする米の増産や綿花などの作付け拡大には積極的でした。鉄道と道路はこうした農産物の搬出の面からも重要でした。
総督府は農政においても憲兵の力を用いました綿の栽培や桑の栽培=養蚕を拒み麦や大豆を作っていた農家の作物を足で踏み倒し、笞打ちの刑に処すといった露骨なやり方で。生産された綿花の自由販売も、加工も許さず、全量を買い取り日本に送りました。
三・一運動では、暴動を起こした民衆が桑苗を引き抜き、焼き払う行動をとっています。
米の確保と増産にとって地主制は大いに役立ちました。小作料は日本同様、現物米で納めるため、それをそのまま日本に移出できたからです。

かつて朝鮮米は日本人の味覚にあわず、品質も不安定で石なども混じっていることからきわめて低い評価しか得られませんでした。より多くの利益をもとめる地主たちにとっても、総督府にとっても、収量を増やすと共に、朝鮮米の評価を向上することが大きな課題でした。
そこでとられたのが、総督府が推奨する日本品種米の導入であり、肥料を大量に投入する日本流の栽培方法の導入でした。総督府も日本農法を取り入れる土地の地価を低く見積もることで実質的に税を軽減します。さらに評価を高めるために品質検査を厳格化します。
これをうけ、米穀商(地主が進出した場合も多い)は異物の混入を防止するための技術改良をすすめ、精米業者は最新鋭の精米装置を導入しました。朝鮮の近代工業は精米業から発展します。
地主=小作制にともなう安い仕入れ価格、日本種導入による日本人が好む品質、最新技術による精米・品質管理と検査、こうした朝鮮米が日本市場に持ち込まれたのです。しだいに朝鮮米のシェアが伸びていきました。

このことは朝鮮の人々の口に米が入らなくなることを意味していました。米価高騰に伴い、雑穀の栽培⇒輸入が急速に増加、朝鮮人の主食のなかの雑穀の割合が増していきました。この傾向は1920年代以降の米の増産と比例して!進んでいきます
総督府は内地の米騒動につながる米価高騰に対し、外米の緊急輸入を行いますが、売れ行きは芳しくなかったといいます。趙景達は、朝鮮の人々はこの時期の米不足を雑穀の比率を高まることでやりすごしたといいます。米価高騰で苦しんだのは日本人たちでした。そして「日常的な植民地的抑圧にはストレスを募らせていたが」米不足に対しては「驚くべき忍耐によって雑穀粗食を習慣化し」「日本におけるような過激な騒擾を引き起こすことはなかった」と記しました。

日本市場に向けての米生産の現場で、あらたな問題が起こりました。日本米を栽培しても、周囲で栽培している従来米との交雑が生じたのです。
ここで再び憲兵が登場します。関係者は話します。「在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが、幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及していきました」。身の危険すら感じるやり方で日本米、日本式栽培が普及、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しました。
朝鮮米の大量流入の背景には憲兵による「サーベル農政」があり、土地調査事業の成果を利用した地主制の拡大がありました。
「遅れた」朝鮮農業を「近代化」したという自負をもつ関係者も多いのですが、それは同時に横暴な「先覚者」が伝統農業を破壊する過程でもあったのです。

朝鮮民族は日本統治をどのように見ていたのか。

こうした日本による統治を朝鮮の民衆はどのように見ていたのでしょうか。
憲兵隊の書類の中に、憲兵補助員に居酒屋での民衆の会話を記録させたものがありました。これを分析した松田利彦は「朝鮮民衆が、日本の植民地支配総体あるいは朝鮮王朝時代の支配体制・支配理念の変容・解体に対して、両義的な~ときには矛盾に満ちた~イメージを抱いていた」と記します。
朝鮮の民衆は、日本の統治を「文明化」「文明の政治」として、朝鮮王朝時代の支配体制と別物と考えていました。文明への憧憬、両班を没落させ封建的身分から一応解放したこと、犯罪が減少し治安が安定したことなどを評価する一方、憲兵への恐怖、道路建設の夫役への反発、高米価や増税など「生活を直接脅かしたり干渉したりする施策」には「鋭く反応し、不満を抱」いています。衛生事業や度量衡など「文明」化政策も日常生活や社会慣習への干渉として拒否感をもっていました。
「文明への拒否感」は文明開化期の日本にもみられたものです。啓蒙主義的な専制権力による「近代化」は伝統社会との間で摩擦を引き起こすという性格をもっていました。
しかし武断政治期の朝鮮では異民族の憲兵警察とその手先がむち打ちの刑などで脅しながら「文明」を押しつけたのですから、あきらかに別物でした。朝鮮における近代化・文明化に「あこがれ」という面があったとしても、それ以上に異民族の横暴という性格が上回りました。
なお、松田は「生活者としての素朴な心性こそが、植民地支配の抑圧的側面に対する絶えざる不満を通して、『植民地的近代』の浸透が及ばない精神領域を維持させていた」「抗日のみではない日本への複雑な視線、そして何よりも自己の生活への影響を基準としての関心の度合い」が重要であると分析しています。

大韓帝国を滅ぼしたということ

「満州」間島地方へ向かう朝鮮の人々とその家族(ほるぷ)

韓国併合によって日本は朝鮮王国⇒大韓帝国という腐朽しつつある政権を滅ぼしました。そして異民族である日本人がこの地域を「文明化」するとして、圧倒的な軍事力を背景に「近代化」をすすめました。
このことにより、これまでは大韓帝国のやり方にも向かっていた不満がすべて、日本の統治に向かうようになりました
朝鮮民族の国家である朝鮮王国⇒大韓帝国は矛盾に満ちた国家でした。腐敗した役人が重税で民衆を苦しめ、外国と結んで伝統を破壊することもあれば、君主の保身のために国民国家をめざす人々を弾圧もしました。旧体制への不満が同じ東洋人としての日本への期待にもつながりました。
しかし国王=皇帝はあくまでも朝鮮/韓国人の君主でした。政府への反発が国王=皇帝への崇拝をますという倒錯的な事態も生み出す存在でした。
日本が、大韓帝国を滅亡させたことは、「お上」への不満のすべてを植民地当局=日本が引き受けることでした。
さらに「文明」を称する日本の統治は、朝鮮人エリートがすすめた際にも発生した反「近代」・反「文明」的な反発をも引き受けることになりました。それは文明開化期の日本で発生した困惑や反発と同質のものでもありました。
「文明」は民衆が連綿として受け継いできた伝統文化や信仰・習俗などを頑迷・固陋なものみなし、否定し破壊しようとする「啓蒙主義」「合理主義」的価値観を必然的に伴います。
法律や規則など規律権力としてせまってくる近代的な権力は、前近代的な「仁政」や「恩恵」、儒教的な「異議申し立て」権など伝統的な権力のあり方とは大きく異なり、伝統的な文化・価値観の中で生きてきた人々に強い違和感と反感を与えるものでした。
ただ、「文明開化」の原動力が「同じ日本人がこのような有様では恥ずかしい」というある意味正当なナショナリズムの発露という性格も有していたのに対し、植民地朝鮮における「文明化」は「アジアの優等生である日本人が劣等生である朝鮮人に文明を教えてやる」との歪んだナショナリズムにもとづくものであり、その奥には自分たちの利益獲得の欲求がありました。それを軍事力を背景に押しつけました。両者は明らかに別物でした
こうして民族的反発に反近代意識も加わり、さらにその手法自体も、植民地統治への不満を強めました
食糧不足に対しては雑穀粗食をも甘んじて受ける儒教的伝統の強い朝鮮人にとって、民族のプライドを力で封じるようなやり方は許しがたいものでした。
日本の文明開化については文明開化と「国民」の創出~明治維新と文明開化(3)参照のこと

三・一独立運動へ

日本統治下のソウルの様子(ほるぷ)

武断政治は、朝鮮の人々の合意を取り付けようという努力すら行わず、ひたすら暴力と抑圧によって「日本流」の「文明」をご都合主義的に強要する政治でした。
朝鮮の一部には、日本の統治に王朝時代の矛盾や旧弊の解消、「文明化」を評価し期待するものもあったかもしれません。
しかし武断政治という手法、民族性を踏みにじるやり方とむき出しの民族差別、こうしたやり方への不満と怒りは、穏健派といわれる人々や、親日的色彩の強かった人々の間にも広がっていきました。
武断政治は朝鮮人の民族的怒りを爆発させるに十分な過酷で、稚拙な政治でした。
さまざまなレベルの不満は、民族的な不満という形をとって噴出口を求めていました。
1919年3月、こうした不満と怒りは民族的規模での大抵抗運動を引き起こしました。三・一独立運動でした。
独立宣言の起草を依頼し独立運動を組織した中心は、「売国奴」一進会を生み出し、韓国併合にも傍観の姿勢をとり続けた孫秉煕(そんへいき)が率いる天道教でした。武断政治はこうした人々にとっても耐えがたいものでした
この民族的抵抗の前に、武断政治は崩壊、日本側は方針転換を余儀なくされます。
これをうけ、朝鮮内部でもさまざまな潮流があらわれます。

参考文献

趙景達『植民地朝鮮と日本』(岩波書店2013)
趙景達『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』(有志舎2020)
趙景達編『植民地朝鮮~その現実と解放への道』(東京堂出版2011)
糟谷憲一『朝鮮半島を日本が領土とした時代』(新日本出版社2020)
李憲昶『韓国経済通史』(法政大学出版会2004)
宮嶋博史『朝鮮土地調査事業史の研究』(東京大学東洋文化研究所1991)
松田利彦『日本の朝鮮植民地支配と警察』(校倉書房2009)
小川原宏幸「武断政治と三・一独立運動」(『東アジア近現代通史3』岩波書店2010)
金容燮『韓国近現代農業史研究』(法政大学出版会2002)

『安丸良夫集(4)』(岩波書店2013)
『牧原憲夫著作集(下)』(有志舎2019)
福島正夫『地租改正の研究』(有斐閣1962)
韓哲昊他『世界の教科書シリーズ・韓国近現代史の歴史』(明石書店2009)
梶村秀樹他『写真図説・日本の侵略:中国・朝鮮』(ほるぷ出版1983)

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