植民地での「悪行」から「連帯」を考える

準備室にて
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植民地での「悪行」から「連帯」を考える

~韓国・天安の「独立記念館」の展示をみて~

 本日(20,6,25)の「東北アジア史」の受講終了。
テーマは戦後の東アジア世界。的確にまとめられ、なおかつ興味深いエピソードも満載。
かつてまとめた内容を再確認できる面も多かった。
今回、とくに興味深かったひとつは、受講生からの「敗戦後、国家総動員法違反者はどうなったのか」という質問。先生も虚をつかれたみたいで、調べてこられ、終戦後半年も経った46年2月に朝鮮人連盟が総動員法違反者の釈放を求め拒否された新聞記事を出してこられた。治安維持法違反者のうち政治家などは10月に共産党関係者と共に釈放されたが、宗教関係者などは釈放されないまま満期までほっておかれた例もあるとのこと、まだまだ知られていないことも多いことを知った。
 本日の「感想と意見」欄、何を書こうかと考える。そこで同じ国家総動員法とくに国民徴用令は、内地と植民地で違う意味を持ったのではないかと考えて見ることにした。
 以下、「感想と意見」欄に書いた文章をもとに、まとめてみる。

追記:2年以上前に書いた文章が、公開したつもりのまま、放置されていた。重要な内容を含んでおり、引用したい内容もあったので、手直しの上、公開することとした。(2022,8,15記)

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植民地の「悪行」から「連帯」を考える

本日の講義、ありがとうございました。丁寧で行き届いた説明でよくわかりました。
国家総動員法違反者さらには治安維持法違反者の釈放問題、気がつかない視点でした。

独立紀念館のジオラマの前で

国家総動員法違反の話を聞いて、天安の独立紀念館でみた展示を思い出しました。(もう20年も前のことなので、現在は変わっていると思いますが)

独立記念館の展示より

そこには、「日帝の悪行」が生々しいジオラマで再現・展示されていました。
とくに有名なのは、特高警察だか憲兵だかが独立運動家に加えた拷問のジオラマです。
このジオラマを見たとき、私はとっさにこの被害者は朝鮮の民族運動家であるとともに、虐殺された作家「小林多喜二」でもあると思いました。
更に思ったのは、なぜこんなものを展示するのかではなく、なぜ日本国内ではこんな重要な出来事を展示しないのかということです。
戦前、治安維持法体制下、国内・植民地をとわず、同じような拷問・虐待が各地の警察署で、憲兵隊で、行われていました。
同じようなひどいことが行われているのに、なぜ日本国内で展示されないのか・・。

植民地で行った残虐行為と同様の拷問が、朝鮮人に対してだけでなく内地人に対しても行われたこと、もっと両国の人びとに知られてよい、知られるべきだと考えました。

植民地における「悪行」を考える

朝鮮など植民地で行われた「悪行」は、3つの類型に分けることができます。
①日本国内・植民地を問わず行われたもの
②植民地のみで限定的に行われたもの
③同じ名目で行われたが、植民地という構造のなかで、より過酷に、より無配慮に実施されたもの
この3つです。

独立紀念館に展示されている特高警察や憲兵の拷問は、植民地だから行われたと考えがちですが、実は①ないし③の類型です。
日本国内でも同様の虐待が数多く行われました。
小林多喜二の虐殺がその典型です。
ただ、時期的には台湾や朝鮮で行われたことの方が早いと思われますので、逆輸入されたというべきかもしれませんね。

虐殺された小林多喜二の死体。太ももの内出血の跡が生々しい。https://ameblo.jp/kurogane-0306/image-12412224658-14285086569.html

ともあり、天皇制国家に敵対していると考えたものは、朝鮮の民族運動家であろうと、共産党員であろうと、自由主義者や宗教家であろうと容赦せず、逮捕、拷問にかけました。途中で死んでもかまわない…。
植民地であるからという以上に、国体に反するものは殺してもかまわない、それが天皇制国家の論理でした。
わたしはこうした「悪行」の表現として独立紀念館の展示を見ました。

「人民の連帯」を展望した近代史を

私は、支配民族による被支配民族への迫害という視点に加え、「人民の連帯」を展望した見方が必要だと考えます。
日本人が朝鮮人に拷問を加えた側面にあわせて、天皇制国家が、朝鮮人の独立運動家に、日本のさまざまな運動家に、拷問を加え、ときには命を奪ったことをあわせてつかむことで、より実際の姿に近づくことが出来る、私が考えたのはそういうことでした。

もちろん「帝国」の中心である日本(内地)と、周辺である植民地(外地=朝鮮・台湾等)では、「悪行」の現れ方は異なります。植民地がさまざまな矛盾が集中した場所である以上、「悪行」はさらに高い頻度で、さらに露骨に、さらに残虐な形で現れるのは当然です。あのジオラマが韓国(同様ものは「北」にもあるかもしれませんね)にあるのは、そのためでしょう。

法律は本国と同様に運用されるのか?

 右派の人たちかつては日本のという限定がつきましたが、近年は韓国の、しかも優れた業績もある研究者も…はいいます。

「朝鮮人強制連行」とよばれてきた諸現象は、戦時下のわずかな期間「国民徴用令」などの内地と同様の法令によって行われたのであり、それ以前の募集や官斡旋は「法的強制力はなく」「応じなければそれだけのこと」とか、慰安婦は民間の公娼制が軍事的に動員・編成されたものにすぎませんなどなど。(李栄薫編『反日種族主義』文藝春秋社2019)

このように彼らは植民地での「悪行」を①の枠組みで一般化することで免罪にしようとします。
これにたいし、なぜ内地の不利な法令だけを植民地におしつけ、明治憲法(とくに人権規定など)や選挙法は持ち込まないのかという国内法の選択的適用という法圏の問題からの反論もできるでしょう。しかし、今回はすこしおいておきます。

問題は、同じ法律だから本国も、植民地も同様に運用されるのかという前提にかかわってきます。
同じ法だからといって、内地と植民地が同様に運用されるはずはない。そのようなことは戦後生まれの私にさえわかります。
それに目をつむって、同じ条文だから同じように適用されると考えられるのは、よほど「よい時代に生まれた」のか。あるいは見る目がないのか、見ようとしていないのか、いずれかしか考えられません。
このようなことを韓国ですぐれた実績のある研究者までが主張すているのは驚くしかありません。ある意味、よい時代になったものだと思ってしまいます。

挺身隊として日本で働いた少女たち

先日、TBS「報道特集」で挺身隊の少女たちを集めるため、教師たちが甘言で少女たちを誘い、富山の工場での過酷な労働に参加させた事実を報道していました。学校自体にノルマが課されていたか、あるいは日本人教師たちの「愛国心」がこうした行動を取らせたのでしょう。その結果、挺身隊として日本ではたらいた経験が彼女たちを苦しめました。

元勤労挺身隊の韓国人女性が死去小学6年生で強制動員
アンさんは小学6年生だった1944年、富山市にあった不二越の軍需工場に動員され、強制的に働かされた。
不二越は朝鮮半島から勤労挺身隊を最も多く動員した企業とされる。2022.2聯合ニュース

(番組では指摘しなかったのですが、朝鮮では「挺身隊」と偽って慰安婦を募集した例が多かったことから両者が同一視される傾向がありました。それがはっきりと訂正されなかったことも彼女らを苦しめたと思われます。)

内地にも女子挺身隊はありました。しかし、小学校卒業の子どもを家族から切り離して、共同生活で労働させるという記録はあまり聞きません。
対朝鮮人にたいしてのみ、以後の「官斡旋」などの影響もあってか、内地の挺身隊と異なる運用がされたように思われます。
なお高崎宗司氏に「『半島女子挺身隊』について」という研究があります。

国民徴用令

国家総動員法にもとづき制定された国民徴用令を見ていきましょう。これは「国家総動員法に基づき 1939年7月7日公布された。戦時下の重要産業の労働力を確保するために,厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので,これにより国民の経済生活の自由は完全に失われた。(ブリタニカ国際大百科事典より)との命令です。
戦時中、とくに内地は労働力不足、物資不足が深刻で、労働力をかりあつめるための命令で、のちに植民地にも適用されました。総力戦体制構築の中、政府が労務動員計画をたて、地域に割当、労働者をかき集めさせる。ここまでは内地と同様です。
朝鮮では、政府の計画にともない朝鮮総督府がこの作業を実施します。ただ「国民徴用令」が内地で実施されたのは1939ですが、朝鮮に適用されのは1944年のことです。

「募集」の開始~1939年

1939年、内地で国民徴用令が出されたのに対し、朝鮮では労働者「募集」が開始されます。内地の労働力不足を補うために、炭鉱などの事業主が労働者募集の申請をして朝鮮総督府が認可、事業主が募集予定地で労働者を集め警察の許可を得て日本に連れて行き、働かせる。文書的にはこうなっています。
1939年段階、日本への出稼ぎ渡航を希望する朝鮮人たちはまだかなりの数に上っていました。朝鮮での生活苦は、新たな働き口を内地に求めさせました。それを押しとどめたのは、ほかならぬ日本政府です。朝鮮人の大量流入・定着によって日本人の仕事を奪うなどトラブルが発生することを嫌い、押しとどめていたのです。他方、労働力不足に悩む炭鉱主などは渡航制限の緩和を要求していました。
とはいえ、自分から渡航した朝鮮人も、賃金が安く、危険で、前近代的な労務管理がなされている炭鉱などに向かうことは少なく、条件のよい仕事を求めます。労働力が軍隊にとられることが多くなるにつれ、炭鉱などの労働力不足は進行していきました。
日中戦争が泥沼化、石炭などへの需要はさらに高まると、炭鉱など労働現場では労働環境を無視した操業がさらにすすみ、労働者不足はいっそう深刻化、朝鮮人労働者の移入を求める声にこうしきれず、商工省が内務省をおしきるかたちで朝鮮人労働者の「募集」がはじまりました。

外村大『朝鮮人強制連行』(岩波書店2012)ここでの記述はこの本を参考としました。

1939年段階での募集は、当時の干魃もあって順調に人びとが集まったといいます。朝鮮では労働力の過剰がつづいていました。こうしたなか、一年目の「募集」は順調でした。
しかし、朝鮮人を受け入れた事業所は、労働環境が劣悪で、募集内容とも大きく異なります。言語の違いによる誤解などもありました。こうして労働争議が発生し、官憲が「内鮮人争闘事件」と呼んだ日本人と朝鮮人との衝突事件も多発しました。1939年から40年にかけて338件が発生、23383人が参加したと記されています。また逃亡や紛争が相次ぎ、逃亡防止のための監視が強化されていきました。
こうした事情は朝鮮にも伝わります。日本で働くことを希望する人も、「募集」による渡航を嫌い、密航などで渡航、自分たちのネットワークを使い条件のよい働き口をさがそうとします。日本側はこれを阻止しようしました。
みすみす悪条件の「募集」で働きたい朝鮮人はいません。逆に日本人は「募集」という方法を使って条件の悪いところにいかそうとしたのです。希望者があつまらないなか、「募集」は強制という性格を強めますそこで募集主たちは、地域の役場と警察の協力を取り付け募集」活動をすすめるようになっていったのです。

「官斡旋」と強制連行

1941年、日本は対米英戦争に突入、労働力不足は一層深刻となります。そうしたなか1942年政府はこれまでの朝鮮半島からの労働力流入の抑制方針を完全に放棄、積極的に朝鮮人労働者の内地への導入を進めることとします。こうして導入されたのが「朝鮮総督府の強力な指導」による日本内地送出の要員確保、いわゆる「官斡旋」です。「募集」段階でも強制があったのですが、末端の行政では農業生産への影響、家族や地域の反発も考え躊躇もありました。ところが「官斡旋」は警察や翼賛団体、労務補導員などと協力し進めることが明記されます。行政側が動員すべき人数を決め、警察官や職員、企業や業界の関係者である労務補助員が各戸を訪問し協力を強要しました
こうした「募集」は毎年くりかえされていきます。「官斡旋」で日本に渡った人たちのようすはいろいろな形で伝わっていきます。「募集」という色彩はさらに薄れ、強制という暴力的手法が強化されました。

労働の現場で~「徴用」と「応募」

かれらが連れていかれた炭鉱などの現場での労働者の待遇はきびしく、差別的でした。

筑豊の炭鉱で働く朝鮮人労働者(飯塚市営霊園内の「無窮花堂」歴史回廊より)https://hidsby.blog.fc2.com/blog-entry-742.html

支配民族である内地人には過酷すぎる労働は割り当てない方向で運用されます。もっとも厳しい現場は連行された朝鮮人、ややマシな場所は自分から応募してきた朝鮮人、内地人でも被差別部落民とその他の人びとという形でのランク分けが厳然としてあったことは、以前より指摘されてきたとおりです。
さらに、内地人の中でも国民徴用令や学徒勤労動員で連れてこられた労働者と、正規労働者の間での待遇に大きな差があったことはいうまでもありません。
こうして内地で不足する労働力、とくに内地人には過酷すぎる仕事などを朝鮮人(さらには中国人)に肩代わりさせようとしました。
同じ朝鮮人でも「徴用」と「応募」の違いがあったし、内地の日本人の間でも「徴用」と「採用」の間では大きな違いがありました。

「強制連行」された李さんの話

あるとき、「強制連行」されたという在日コリアン一世のかたから、直接話を聞かせていただいく機会をいただきました。(のちに地元紙でも証言しておられました。)
記憶のあいまいな点などもあり、実際とは異なる証言が混じっている可能性もあったのですが、私が聞き・理解した形で掲げさせていただきます。

朝鮮南部(慶尚南道金海)の李さんは、村で農耕をしていた最中にむりやりにトラックに乗せられるという乱暴な手段で日本に「連行され」た。
その後、北海道の夕張炭鉱(新鉱)へ送られ、働かされた。そこは同じ炭鉱の中でも水やガスが出るもっとも危険で過酷な現場であり、働き始めた直後から連日、事故が起こるといった状態がつづき、このままでは殺されてしまうと考えて、脱走をはかり、成功した。
その後、先の方は名前を変えて、人夫を募集している現場~炭坑や土木工事現場などを転々とし、飛行場建設をしているときに終戦を迎えた。
最初の炭鉱のときと、応募して雇ってもらったときとの労働条件・待遇は天と地ほども違い、応募した現場では逃亡しようと思うことはなかった。日本で生活するうちに、生活の基盤が出来、朝鮮半島の様子も不安定になったで帰国を見合わせているうちに朝鮮戦争が発生、帰国できなくなった。

内地の「徴用」と外地の「応募」

朝鮮の労働者の「募集」や「官斡旋」の手法は、内地における満蒙開拓団の募集においても、隣組・部落会を通して大多数の国民に戦時公債を購入させたやりかたにも通じるものがあります。
とくに総力戦体制構築にさいしては、上意下達の行政期間を通して計画を立案・伝達し、それを地元の国防婦人会や隣組といった団体を通して組織し・強制していくというやりかたでした。その背景に、治安維持法などの弾圧法の存在、軍や警察といった暴力装置による強圧などがあったことはいうまでもありません。
ただ内地においては「お国のため」「戦地で戦っている兵隊さんに報いる」といった感情を利用、要請を拒むことは「非国民」として白眼視されるという心理的強制をない交ぜとしたソフトな強制であり、むき出しの暴力が行使されることはあまりなかったとはいえそうです。
他方、植民地では「愛国心」といった「緩衝材」が基本的には存在せず、「心理的強制」の度合いも弱く、強制する側もあくまでも自分たちよりも「一段低い」民族(もともとが非「国民」)という感覚からむき出しの暴力がみえかくれするハードな強制になりがちでした。差別が当然という意識は不当な政策に対する批判やチェックを届きにくくしました。こうして、人権上問題がある諸政策も安易に計画され、その実施にさいして強要や暴力が多用されます。異民族であり、自民族のほうが優秀であるというゆがんだ劣等民族であるという差別意識が、いっそう卑劣な行動に向かわせました。
こうして、内地と同じ法令、おなじ文面であっても、植民地で運用される場合にはおおきな違いが生じました。
(法的強制力がなかったから、朝鮮人には「自発的選択権があった」などという議論はあまりに現実をみないものといわざるをえません。こうした発言が韓国側からも出たことは驚くばかりです。)

慰安婦問題とかかわって

こうした手法は従軍慰安婦でも同様であったと思われます。この制度は「からゆきさん」の伝統を受け継いだ面もあり、1932年最初の慰安所開設にさいし、陸軍は「からゆきさん」の伝統もある長崎県知事に「慰安婦団」の派遣を依頼しています。

吉見義明『従軍慰安婦』 岩波書店1995

初期の、需要がまだ少ない時期、慰安婦たちは、おもに内地から、ついで植民地などから、主に娼妓たちが集められたと考えられます。史料に残る最初の「慰安婦」は内地にいた朝鮮人女性でした。
正式な契約にもとづくものもあったでしょうが、女性の弱みにつけ込んだ問題ある募集も多かったと考えられます。
需要が拡大するにつれて娼妓だけでは足らず、不幸な境遇の女性たちが、内地や植民地から送られました。いろいろな事情や思いをもって、自ら応じた人もいたし、だまされて向かった女性もいたでしょう。
戦線の拡大と軍隊の大量動員は、大量の慰安婦の需要を生み出しました。軍は、戦線の拡大によって必要とされる慰安婦の数を割り出し、要望してきます。
こうした需要をどのように賄うか、内地では法律などによって、年齢基準など多くの縛りがあり、乱暴な手段を用いれば世間の非難を浴びかねず、さらに慰安婦という存在が表面化すれば「皇軍」の威信にもかかわります。
いきおい、募集先は法的縛りが弱く、それを破っても内地からは見えにくく、非難されることも少ない地域へシフトしていきました。具体的には占領地そして植民地でした
軍から必要とされた女性たちの調達は軍の御用商人などを中心に、さまざまな人びとを通して進めたと考えられます。日本人や朝鮮人の女衒、人身売買組織、誘拐団など、反社会組織なども巻き込んでの「募集」がなされたと考えられます
募集人たちは「日本に挺身隊として働きに行く」「別の仕事の募集」など虚偽の話をしたり、両親などを借金によって債務奴隷化して子供を差し出させたり、甘言を用いて誘拐するなど、さまざまな手法を用いて、女性たちを集め、戦場につれていきました。
もともと軍の要望からはじまったことですので、付随して発生する犯罪や類似した行為は多くは問題視されず、ときには官憲や行政側の支援も与えたと考えられます。
ノモンハン事件に際して、関東軍はあらたに2万人もの「朝鮮人慰安婦」の募集を総督府に依頼し、それに応えた総督府は約1万人(8000人という説も)もの慰安婦をおくったといわれます。
このように「需要」が急増するなか、内地の、おもに娼妓にたいする「募集」から、制約がより少なく行政や官憲の協力を得やすい植民地へと「供給」の場が変わっていきました。さらに性感染症などの心配のある娼妓から一般の女性へと「募集」の対象を変化していきました。
さらに、規模が拡大するにつれて、犯罪まがいの手法も多くなっていったと考えられます。
行政や官憲、地域がどのように関与したか、たとえ直接的な関与はともかく、違法な行為を見逃したり渡航に便宜をはかるといった間接的な関与は明らかだと思われます。
このように、内地でははばかられるやり方が、植民地では半ば公然とおこなわれ、「募集」にかかわる問題事例も表面化しにくいところに植民地のありかたがありました。

帝国の「悪行」を統一的にとらえること

わたしたちは、戦前天皇制国家の凶暴さや残虐性を内地の問題として限定的にみたり、逆に植民地だけで問題が発生したと、両者の連関を考えないことが多いように思います。その結果、発生した問題を民族主義的にとらえがちになります。
独立紀念館の展示などをみると、残念ながら「日本人の残虐性」という視点で民族対立を煽り、韓国国民のナショナリズムをかき立てることで、日本帝国主義を全体像としてとらえることを困難にしているように思えます。

官憲によって虐殺された小林多喜二の遺骸を取り囲む友人たちhttps://ameblo.jp/kurogane-0306/image-12412224658-14285086569.html

戦前天皇制国家の凶暴さ残虐性は、日本人・朝鮮人双方に、さらに多くのアジア人などにも行使されました。多くの民衆は、こうした戦前の天皇制国家の共通の被害者という面も、もっています。
内地に存在していた「悪行」は、植民地という空間、世間の目などの制約が弱まる空間のなかではさらに巨大化・怪物化しやすく、問題は肥大化しました
本国と植民地を対立的に捉えるのではなく、戦前の天皇制国家のあり方自体の問題として、「帝国」というあり方として、本国・植民地の民衆を共に苦しめた存在として統一的に捉えること、そうした問題が植民地という矛盾が蓄積された場によって拡大されたと考える必要があります
さらにいえば、こうした「悪行」は戦場や占領地さらにおぞましい姿をみせることになります。

今回も、テーマとずれた内容になったことをおわびします。次週は日韓協定と日中国交正常化ですね。現在のさまざまな問題を考える上でも重要な問題だと思います、期待しています。
本日はありがとうございました。

<参考文献>

李栄薫編『反日種族主義』文藝春秋社2019
吉見義明『従軍慰安婦』 岩波書店1995
外村 大『朝鮮人強制連行』岩波書店2012
高崎宗司「『半島女子挺身隊』について」(https://www.awf.or.jp/pdf/0062_p041_060.pdf)

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