日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(1)

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はじめに:

2022年2月、ロシアは突如ウクライナへ侵攻、世界は一斉に非難の声を上げます。しかしいつもなら空爆など武力で対抗するアメリカもその同盟国も、直接的な介入を避けました。世界戦争を引き起こす危機をはらむからです。世界は歯がゆい思いを感じました。これにたいし、ウクライナのゼレンスキー大統領は持ち前のパフォーマンス能力でウクライナにたいする支援と介入を世界に要請しました。
 こうした姿は、日中戦争における日本と中国、傍観する・せざるをえない世界~民衆と列強・その他の国々~という構図をおもわせました。さらに軍事力を過信し短期間で相手を圧倒できるとの思い込み、思いがけない抵抗を受けての動揺、残虐な行為の発生とそれを知り歯がゆい思いをする世界、民族的抵抗の国家的広がり、国際的な介入を求める指導者たちと支援の輪、支援といいながら「国益」と国内事情を重視する各国の思惑、情報統制と支配のいっそうの強権化などなど、あまりの既視感に驚くばかりです。
 ロシアが当時の日本、ウクライナが当時の中国に、現在の中国はナチス支配下のドイツ、面白いことにアメリカは今も昔もアメリカ。
 両者の類似点は、戦争とりわけ侵略戦争が引き起こすある種の「法則」的なものなのでしょう。また「歴史の教訓」からも学んだものもあるでしょう。
 ただ変わってきたことも多くあります。戦争は許さないという合意、戦争を止めようという世界の民衆や国家の存在、「NO WAR」のプラカードを掲げて自国の戦争に反対するロシアの人々、敵はプーチンであってロシアの人々ではないというウクライナの人々、善悪二元論ではなく客観的に事態を捉えようという意思をもった人々。さらに戦争の様子は瞬時に世界の一人一人のもとに伝えられるようになりました。戦争に反対するものを孤立させない力も生まれました。

 蒋介石は戦争終結のためには世界戦争が必要であると説き、一方では中国の人々をそのための生け贄として捧げることもいとわず、対日戦争の正義を世界に説き、ついに日中戦争を第二次世界大戦のなかに組み込むことに成功しました。

 しかしゼレンスキー大統領が世界戦争を望むといったことは万に一つもないでしょう。最悪のシナリオとなった場合、日中戦争の結果発生した第二次世界大戦という恐るべき惨禍、しかし、それすら凌駕する惨禍になりうる可能性をもっているのですから。

 ともあれ、日中戦争から日本の対英米蘭戦争の開戦にいたる過程は、現在の世界を読み解くヒントになるかも知れないと考え、まとめてみました。
 なお、この内容は2022年1月に話した内容を再構成したものです。

日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(1)
~日本に勝つには世界戦争が必要だ。

Ⅰ,胡適が送った三通の手紙 ~1935年の中国

日本がなぜ無謀な対米英戦争に踏み切ったのか、その理由は中国侵略の結果でした。この侵略をとめるため、軍事力で遙かに劣っていた中国は世界の力を必要としていました。そこで中国は日本を世界戦争に巻き込むことで、日本軍国主義を終わらせるしかないと考えます。自国の民衆を犠牲にし、塗炭の苦しみを味わわせることもやむを得ないと覚悟したのです。

胡適(1891~1962)
近代中国の代表的知識人、白話運動で陳独秀らと新文化運動を促進した。のち国民党のブレイン、駐米大使として重要な役割を果たす

この戦略を明示した一人が、20世紀中国における知性の巨人・胡適でした。胡適は友人で当時国民政府高官であった王世杰に三通の手紙を送りました。
胡適は第一次大戦下で口話運動をすすめるなど、陳独秀や魯迅、李大釗らとともに新文化運動をすすめた一人です。のち陳独秀や李大釗が共産主義にすすみ、魯迅も国民党に批判的であったのに対し、胡適は国民政府との関係を維持、日中戦争が本格化すると大使としてアメリカで活躍しました。

1935年の中国と取り巻く世界
~「国際的解決」の失敗

この手紙が出された1935年の中国を見ましょう。
1931年にはじまった満州事変によって中国東北部は日本軍に蹂躙され、傀儡国家「満州国」が作られます。中国では、1927年の国民革命(北伐)によって国民党による国家統一が実現したものの、共産党や旧軍閥勢力といった敵対・抵抗勢力を抱えており、内政に従事するためにも日本との戦闘を避け世界に救いを求める必要がありました
これに先立つ、1920年代、世界は国際協調の動きが高まり、東アジアでもワシントン会議で九カ国条約などにもとずく国際的枠組みが成立していました。しかし、1930年代に入ると、世界恐慌のなか、各国は国内の経済・社会問題に忙殺され、日本を実力で阻止せねばならないとの緊迫感を感じなくなっていました。自国の安全や利権が脅かされているとは考えないまま「決定的な対決を避けた」(入江昭)のです。
ソ連も、五カ年計画達成といった当面の課題に集中するため衝突を避けました。日本軍がソ連勢力圏の北「満州」に侵攻した際も抵抗せず、最大の利権・中東鉄道(旧:東清鉄道)を売却する方向に話をすすめました。
イギリスの関心も経済中心となり、東アジアの調整役をアメリカに譲り、この地域最大の軍事大国・日本との対立に巻き込まれることを避けようとしていました。こうした宥和的な姿勢はイギリス人を団長とした国際連盟リットン調査団報告にも反映されました。(日本はこのような微温的な報告・提案すら受け入れを拒否し、連盟脱退を決めたのですが)
アメリカは満州事変発生当初は、対日制裁さえも考慮していましたが、恐慌の深刻化によって孤立主義的傾向がすすみ、国内対策を重視するようになっていきました。
 このように満州事変は、あえて日本とたたかうリスクをとるほど切実な問題とは思えず、日本の行為を非難するものの、積極的に介入しようとはせず、宥和的な態度で中国の要請を退けたのでした。
 国民政府は、欧米諸国や国際社会の介入によって日本の侵略が阻止するという戦略は誤りであったと自覚せざる得ませんでした。

右の表は鹿錫俊氏の『蒋介石の「国際的解決」:1937-1941』所収のp15の表を簡略化したものです。満州事変当初の蒋介石らは「英米等の援中制日」が即時実施されるとの「判断1」であり、その後も「判断2」を期待し続けていたのでしょう。
しかし、こうした判断が現実的でないと思い知らされる中、「判断3」ないし「判断4」をとらざるをえなくなりました。それが1933年の塘沽停戦協定でした。中国は「満州国」を黙認、華北に非武装地帯を設置しました。

帝国書院「図説日本史通覧」P269

これによって事態は一時的に沈静化しますが、日本軍の動きは止まず、華北や内モンゴルに第二・第三の「満州国」ともいえる傀儡政権が建設され、非武装地帯を経由した日本商品を流入させ、中国経済を混乱させました。日本軍が関与したアヘン流通も活発化しました。
他方、幣制改革によって旧軍閥勢力を圧倒し、国共内戦でも優位に立った国民政府にとっても、こうした日本の動きは看過できませんでした。さらに古くからの「中華の地」華北を奪おうとする日本の動きは20世紀になって活発化してきた漢民族ナショナリズムを強く刺激しました。
さらに国際共産党(コミンテルン)が「反ファシズム統一戦線」を提唱、在モスクワの中国共産党代表団が八一宣言で「内戦停止・一致抗日」の反日民族人民戦線の構築を訴えたことは感銘をもって受け取られました。
1935年の中国は、日本とたたかうべきとの世論が盛り上がった時期でした

胡適の手紙
  ~中国の犠牲で世界戦争を起こし日本を破る

胡適が国民政府高官王世杰に三通の手紙を送ったのはこの年のことです。

鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略:1937-1941』
左の記述をはじめ、今回の内容の多くはこの本など鹿氏から学んだものである。

胡適は一通目の手紙で、取り得る二つの道を示します。
一つは「満州国」を承認し、引き換えに最大限の譲歩を得るという「代価ある譲歩」という道であり、
今ひとつは、将来発生するであろう世界大戦で日本の覇権をくつがえすという道です。
「援中制日」という「国際的解決」への期待が薄らぎ、日本への全面的妥協という「判断4」か、現状では期待できないが長期的な国際情勢の変化をまつという「判断3」をとるかの選択が課題となっていました。
胡が第二の道として提示したのはさらに厳しい選択、中国が自らの犠牲によって国際情勢を変化させ、世界戦争への途をきり開く道でした。中国人が多大な犠牲を覚悟して抵抗することで「近い将来のあの世界戦争」を実現させると説いたのです。
胡の議論は、実際の歴史を見通していたようなリアルさを持って進みます。
戦争が始まると、
①沿岸の港湾や長江下流域がすべて占領され、
②華北の諸省なども占領される。
③長江が封鎖され、財政も崩壊、天津・上海なども占領される。こうした苦戦が3~4年続くだろうと記します。
しかし、苦しい戦争をつづけるなか変化の兆しが見えてきます。
①日本は疲弊し、国民の多くが戦禍を実感し、
②財政危機に陥る。
③兵力のバランスが壊れ、ソ連につけこむチャンスが訪れ、
④世界の人々も中国に同情するようになる。
⑤香港やフィリピンの脅威を感じた英米が軍艦を派遣、こうして太平洋における戦争の機会が醸成され、世界戦争の途が開かれる。
世界戦争で日本が勝利することは不可能でしょう。
胡適はいいます。
日本は国家挙げて自殺(「切腹」)の道を歩んでいる。中国は「介錯」をする役割を果たす必要がある
漫然と世界戦争を待つのではなく、自らの犠牲で日本を世界戦争に巻き込む必要がある(「不惜犠牲」)、中国側の犠牲と説得でこそ、世界戦争が実現し、日本に勝利できると説いたのです。
恐るべきリアルな分析でした。

政府内の反応と蒋介石

王世杰は政府部内部での議論の結果を胡に返しました。その内容は
①「代価ある譲歩」への否定の声が強い。譲歩をしても日本は侵略と脅しをやめないだろう。譲歩は軍事・外交権にとどまらず、他の面でも日本の奴隷状態におかれることになる。妥協は国際正義に反し、国内も分裂させ、国民政府も崩壊するしかない。
②政府部内には胡適に同意する者もいるが、日本との妥協しかないというものもいる。結局は蒋介石の決心によるだろう。
こうしたものでした。
では最高実力者・蒋介石はどう考えていたのでしょうか。この頃、蒋介石は四川省などの中国西南部で精力的に改革をすすめているとの家近亮子氏の研究があります。家近氏は対日戦が発生しても、日本軍の侵入が困難であるこの地を整備することで、対日根拠地となると考えていたことを示唆していると考えたのです。実際の日中戦争でもこの地が蒋介石の抗日戦を支えました。
蒋も1935年頃から中国は、対日戦争の覚悟を決めつつあったと考えられます。

Ⅱ、日中戦争の開始と第二次上海事変 ~本格的抵抗と国際社会への働きかけ

「一撃を加えれば屈服する」
~根拠なき楽観論ではじまった戦争

日中戦争は1937(昭和12)年7月7日、北京郊外で夜間演習中の日本軍に向けて弾丸が発射された盧溝橋事件がきっかけで発生しました。
 この事件について、中国では日本軍謀略説が主流ですが、日本側は偶発的事故ということでほぼ一致しています。なお、事件直後の対応の早さに注目、中国共産党の謀略という説もあります。
ともあれ、双方ともに一触即発の状況いわば揮発性ガスが充満した状態が存在しており、引火させたスパークがこの事件だったといえそうです。

帝国書院「図説日本史通覧」P274

戦闘は、小規模なものであり、11日には停戦協定が結ばれ、戦闘は終わるはずでした。
参謀本部の首脳部もそれをのぞんでいました。中心にいたのは柳条湖事件をおこした石原莞爾です。石原からすれば、満州国を充実し対ソ戦にそなえる時期であり、中国とことを構えべきでないと考えたのです。
ところが中国に一撃を加える好機と考えた軍人もいました。参謀本部の将校が石原にいったといいます。「あなたが関東軍でやったことと同じじゃないですか」と。
当時、中国兵は弱兵でただちに屈服、短期間に終わるという根拠なき楽観が日本中を支配していました。実が対ソ戦に向かうヒトラーも同じような台詞を吐いています。
無責任な楽観論が取り返しの付かない事態をまねきます。
さらにいったん軍隊を派遣した場合、進展がないままの撤兵は極めて困難となります。「挙げた拳を下ろすこと」は極めて難しいのです。
新たな派兵によって沈静化されつつあった戦火は再び拡大しました。

なお、こうした楽観論のため中国に派兵された兵士の多くはいったん兵役を退き、臨時召集で集められた予備役・後備役が主体となりました。現役兵は対ソ戦の為に温存されました。
とはいえ、この段階では、華北に限定した「北支事変」で終わらせるつもりでいた。

「廬山談話」と「暴支膺懲」~蒋介石の「本気」

1941年12月のアジア太平洋戦争開始まで、日本側は日中戦争を乱暴な国民党政府をこらしめる「正義」の行動(「暴支膺懲」)であり、日中間の懸案解決のための武力による威嚇で、戦争ですらない「支那事変」であると主張し続けました。
正義の行動である以上、中国人も支持するはずだ、中国人が「無知」であるため、「東洋平和」という「真意」を理解せず抵抗していると考えようとしました。

蒋介石(1887-1975)日本の陸軍士官学校に留学。辛亥革命に参加。黄埔軍官学校長、国民革命軍総司令などを経て1928年国民政府主席となる。

「強大な一撃をくわえれば中国は屈服する」と信じ、「戦争を始めるという意思決定が行われたわけでなく大規模な戦争に踏み込んだという自覚もない」日本に対し、中国側は覚悟を決めつつありました。
盧溝橋事件の10日後、蒋介石は「廬山談話」とよばれるメッセージを発し、国民に挙国一致と徹底抗戦をよびかけました。蒋介石はいいます。
「最近数年来、吾等は忍耐に忍耐を重ね、無抵抗の態度をつゞけて来たが、これは果して何のためであつたか?
 国内の安定を図り、統一を達成し、国力を充実し、最後の関頭に臨んでは即ち抗戦し、雪辱せんがためであったのである。
 今や既に平和の望みは絶えた。この時に当り、吾等としては徹底的な対日抗戦あるのみである。故に吾等は挙国一致、犠牲を惜しまず日本と決戦すべきである。」
日本は中国の、蒋介石の「本気」を見誤っていました。

第二次「上海事変」
~戦闘を開始したのは。海軍?国民政府?

華北での戦闘は、上海にいた海軍を刺激します。海軍は長江流域での戦闘を計画、大山事件を口実に戦闘を開始しました。第二次上海事変です。この結果、戦争は中国の心臓部、国民政府の最大の拠点華中にも拡大、「北支事変」は「支那事変」=日中全面戦争へと拡大しました。
この原因について、笠原十九司氏は上海事変の原因となった大山事件自体、日本海軍が殺害されるように大山少尉に意を含めて起こされた策謀であると論証しました。

NHKスペシャル『開戦・太平洋戦争~日中米英知られざる攻防』(2022年8月放映)

他方、2022年8月に放映されたNHKスペシャル『開戦・太平洋戦争~日中米英知られざる攻防』では、「我々が上海事変(813事変)を起こしたのであり、その逆ではない。国際的な干渉を引き起こすのが狙いだった」と記した中国側の司令官の史料を紹介、
蒋介石が「上海をあえて戦場にすることで、日本の行為を広く海外に伝えようとした。太平洋戦争開戦に至るまで、この極東での戦いを国際化し、大国の介入を引き出すことが、一貫した戦略の根幹であった」と結論づけました。

第二次上海事変

たしかに中国側は周到な準備をしていました。国際都市上海を戦闘の舞台として選び、トーチカなどの陣地を整備し、最新鋭のチェコ製の機銃で武装し、ドイツ人によって訓練された最精鋭部隊が投入されました。航空機も準備しました。それに加え、通信料を引き下げするなど国際メディアを意識した対応もなされていたといいます。このように、世界の耳目を集めることで「国際的解決」を実現しようという蒋介石のたくみな戦略といえるでしょう。番組では「中国側の戦略に日本がうまく乗せられた。その戦略につかまって、非常に苦しい戦いを強いられ」たとの岩谷将氏のコメントが紹介されました。こうして、上海における戦闘は、当初中国側のペースですすみました。
しかし日本側は仕掛けられただけといっていいのでしょうか。笠原は中国側の策謀も認め、双方の謀略で発生したと記します。「揮発性のガス」は上海にも充満していました。さらに日本側は、中国側の覚悟を見誤っていたのでしょう。

鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937-1941』(東方書店) 本稿の多くは鹿氏の研究に依存している。

蒋介石が「劇場型」ともいえる戦闘を計画した背景には「国際的関心と干渉がなければ解決できない」といった戦略があったからです。
10月30日の「蒋介石日記」には次のような記述があります。
①日本侵略は止まらず、果てしない。
② (満洲国を)承認しても対中侵略を停止する保障はない。
③日本に妥協した場合の国内混乱は想像もできない。
④中国支配以前に日本の対ソ開戦はない。機会を待っても無駄である。
⑤今次の抗日戦は回避できない。
⑥国際的な関心と各国の干渉を引き起こさなければ中日間の問題が解決できない。
⑦有利な国際情勢が生まれつつあるのは抗日戦の犠牲の効果だ。

日本軍に軍事的能力では及ばないため、中国は「国際的解決」をめざし、世界に働きかけつづける必要がありました。
鹿錫俊氏はその基本戦略を次の三点にまとめました。
①国際連盟に対する提訴活動を再開し、日中衝突と抗日戦の世界的意義を訴え、日中問題の国際化を促す。
②既存条約擁護を旗印にし、中国の正当性を強調しつつ、条約に違反した日本の孤立を深め、条約の履行を関係国に求める。
③国際情勢の変化すなわち英米ソら列国の対日干渉が必至であることを確信し、変化が来るまで如何なる苦難も忍んで抗日戦を堅持していく。

浅田雅文『蒋介石の初刊外交(上)(下)』(人文書院)

この戦略にもちいたのが大量の「書簡」でした。これを分析したのが麻田雅文氏の『蒋介石の書簡外交』です。書籍のオビに記された「日中戦争下、蒋介石は米英ソの指導者たちと多くの書簡を交わした。中国の存立を賭けた決戦下で、各国首脳との往復書簡は、もう一つの戦場であった」との一文は、この本の狙いをうまく紹介しています
さらなる「戦略」は国外での宣伝とロビー活動です。胡適は駐米大使としてアメリカ国内の親中派を組織化、蒋介石夫人宋美齢も渡米、各地で遊説し、日本による侵略の様子を世界に伝え、たたかう中国への支援を呼びかけ、世論形成に大きな功績を残しました。

Ⅲ、トラウトマン工作と第一次近衛声明

蒋介石の誤算~米英の消極姿勢とソ連の援助

1937年の秋段階で、蒋はまだ楽観的であったように見えます。上海での一時的な優勢で蒋は「援中制日の期待大」という「判断2」の楽観的判断に立ち戻ったようにも見えます。
しかし上海での戦闘で敗北し、列強の支援が期待ほど得られないという事実に直面、さらに日本軍が首都南京に向かって進撃すると、楽観的判断は失われ、逆に日本との妥協を探りはじめます。
蒋の誤算は、アメリカの消極姿勢でした。
米大統領F.ローズヴェルトは、10月日本,ドイツ,イタリア三国を念頭に「国際的無政府状態」を引起している国は「隔離」されなければならないとの趣旨の「隔離演説」を行い、中立主義を離れ,平和愛好国と協力して侵略行為を阻止するための集団安全保障に参加すべきだと打ち出します。しかし国内の冷淡な対応のなか、再び消極的態度に終始するようになりました。当初は日中の斡旋を計画していたイギリスもアメリカに影響されました。
国際連盟は、日本の行為が不戦条約ならびに九カ国条約違反と認定しましたが、11月の九ヵ国条約会議は非難決議にとどまり、アメリカの反対で対日経済制裁にも踏みこめませんでした。世界戦争はおろか、列強による対日干渉もおこなわれず、日本への軍需関連物資の輸出もつづきます。アメリカにかかわる兵器が中国戦線で用いられつづけたのです。
これにたいし積極的な支援体制をとったのがソ連です。ソ連は早くも8月には中ソ不可侵条約を締結、最大の援助国となりました。しかし、ソ連の支援がすすめばすすむほど、米英がいっそう傍観的になるとの危惧もありました。
なお、蒋介石はソ連がいずれ対日開戦に踏み切るという幻想に囚われ、蒋の判断を狂わせつづけました。

トラウトマン工作

米英による「国際的解決」が困難になる中、蒋が頼ったのは友好国ドイツでした。
ヒトラー率いるドイツは日・中間の戦争に戸惑っていました。第一次大戦で敗れ、ヴェルサイユ講和条約で敵意を浴びせかけられたドイツが国際舞台に戻るきっかけが中国です。ドイツは1921年中国との間で通商条約を締結します。他方、近代的な主権国家を目指す中国にとっても、欧米列強との間での初めての平等な条約でした。以後両国は良好な国際関係を築きます。
国民政府の軍備の近代化に際して、ドイツが顧問団を派遣するなど積極的な援助を行われ、ナチス政権成立後も変わりませんでした。1936年には中独同盟が締結され、ドイツは中国に大量の借款供与と武器輸出を行い、中国はドイツに希少金属を提供、この年のドイツによる武器輸出総額の57.5%を中国が占めるに至りました。上海事変で活躍した中国軍を鍛え、陣地構築を指導したのはドイツ人でした。
なお蒋介石はヒトラーに強い親近感を持っていたとも言われます。
他方、東方進出をめざすドイツにとって、日本はソ連を東から牽制する頼れるパートナーでした。1936年ソ連を仮想敵とした日独防共協定を締結、ソ連を東西から包囲する体制を構築します。
このように、数少ない友好国である中国と日本が戦争をつづけることは困った問題でした。ドイツは両国間の調停に乗り出しました。最初に動いたのは上海で苦戦する日本でした。日本は10月「支那事変対処要項」を決定、ドイツに、中国側への伝達・調停を依頼、駐中大使トラウトマンが調停工作に乗り出しました。
いったんはこれを拒否した中国ですが、期待した米英による調停が行われず、上海戦線も劣勢となるなかで、蒋は領土保全を条件に和平の受諾を伝え、12月その内容は「覚書」という形式で日本に伝えられました。こうして当初日本が期待した内容の和平が実現する運びとなりました。

南京陥落と第一次近衛声明
~「爾後国民政府ヲ対手トセズ」

ドイツの努力を覆したのは日本でした。上海戦に勝利した現地日本軍は、東京からの命令をも、兵站をも無視して南京に向かいます。食糧も財産も何もかも食い尽くすイナゴ(蝗)のような軍隊=「蝗軍」といわれるような略奪と暴行を繰り返しつつ南京に向かい、12月上旬にはこれを占領しました。南京で何が起こったのかは周知の通りです。

近衛文麿 (1891-1945)日中戦争時の首相。また対米英戦争の直前まで首相であった。最も格式の高い貴族出身。

南京陥落は、日本国内を歓喜の渦に巻き込みました。街には花電車が登場、戦勝の祝典が日本各地で繰り広げられました。首都陥落によって戦争が勝利の内に終焉を迎えたと考えたたからです。
この思いは政府内も同様でした。その結果、講和内容は現状にそぐわない、国民が納得しないと拒否したのです。
これを大本営会議で主張したのが外相の広田弘毅でした。海軍大臣の米内光政、近衛首相も合唱に加わりました。現地軍も、既成事実を積み上げる形で和平工作の妨害をはかりました。
和平に最も積極的であったのが参謀本部です。参謀本部は、対ソ戦争に備えるべく一刻も早い中国戦線の終結を望んでいたのです。
こうして和平条件は一挙に強硬なもの、降伏勧告としかいえないものに変更されます。難色を示しながらも中国が交渉継続を望んだにもかかわらず、近衛や広田はこれを引き延ばし工作と断じます。そして打ち出されたものが38年1月の第一次近衛声明でした。
この声明において近衛は「帝国政府ハ爾後国民政府ヲ対手トセズ」として、和平交渉の打切りを宣言現行の中国政府を否認し、新たに生まれる「健全分子」(=傀儡政権)との交渉をすすめると宣言します。中国側は硬化し、和平は困難となりました。
こうしてドイツによる和平工作は失敗に終わります。さらにドイツは日本との連携の道を選び、中国との関係は絶たれました。
なお1937年に日独伊三国防共協定を締結することになるイタリアも日中戦争までは中国と良好な関係にありましたが、早い時期に中国との関係を絶って、日本に接近していくことになりました。

日本が提示した条件~「日支新関係調整方針」

日本側が提示した和平内容とはどのようなものだったのでしょうか。1938年11月に御前会議で決定した「日支新関係調整方針」は次のようなものでした。
①政治形態は分治合作=強力な統一中央政府を作らない
②中央政府に顧問を派遣
③軍隊・警察に顧問を派遣・武器を供給
④防共軍事同盟
⑤航空・沿岸の主要海運・長江水運は日中協力
⑥日本国民の戦争後の損害を賠償
⑦内モンゴル・華北…駐兵権・鉄道・通信・水路などの監督権
⑧長江下流…所用の機関に顧問配置、駐兵権・鉄道・交通等の監督権
⑨華南…幹線部隊の駐屯権
⑩上海・厦門・青島を特別行政区域=日本人を市政に関与させる 

こうした条件を受け入れるなら中国ははもはや独立国とはいえず、保護国化するでしょう。それがどれだけ屈辱的なのか、受け入れがたいか、それを察する能力が日本政府・軍には欠けていました。
さらに、日本との和平交渉を求めて重慶を脱出してきた汪兆銘にも、この類いの条件を押しつけました。汪は最終的には日本の要望の多くを受け入れますが、このような内容を受け入れた中国人をだれも認めようとしなかったのは当然です。こうして汪は今に至るまで国賊の汚名を着ることになりました。日本は和平とか交渉とかいいながら、妥協しようとしない硬直的な態度をとりつづけ、しだいに自らの道を塞いでいきます。それが日本のやり方でした。
三年後、日本は逆の立場に苦しむことになります。

<つづく>

《参考文献》

鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』
麻田雅文『蒋介石の書簡外交(上)』
家近亮子『蒋介石の外交戦略と日中戦争』(岩波書店 2012)
笠原十九司『日中戦争全史(上)(下)』
臼井勝美『新版日中戦争』
入江昭『太平洋戦争の起源』『日本の外交』
川島真・服部龍二編『東アジア国際政治史』(とくに鹿執筆部分)
木畑洋一『日独伊三国同盟と第二次大戦』
原田敬一『戦争の終わらせ方』
吉田裕『アジア・太平洋戦争』
吉田裕・森茂樹『アジア・太平洋戦争』
伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』
森武麿『アジア・太平洋戦争』
江口圭一『二つの大戦』『十五年戦争小史』

帝国書院『図説日本史通覧』
NHK「開戦 太平洋戦争~日中知られざる攻防・完全版」(2021.12月放映)

<メニューとリンク>
日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦

1:日本に勝つには世界戦争が必要だ
2 :  
第二次世界大戦の勃発と三国同盟
3 :  日米交渉とアジア太平洋戦争開戦

 

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