井上毅という人物~明治14年政変を中心に

準備室にて
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はじめに

辻義教『評伝井上毅』(弘生書林 1988)を読んだ。
この井上毅という人物、明治政治史・法制史においてきわめて重要であるにもかかわらず、手頃な評伝がなく、おおよその概略をつかもうとして図書館にあったこの本を借りることにした。
(もう一冊、別の評伝も見つけたが、パラパラ見ているとあきらかに問題のありそうな記述があったので……。)
時間の都合もあり、飛ばし飛ばしではあったが、おおまかに井上の生涯をたどることができた。

井上毅という人物

まず井上毅という人物について「世界大百科事典」の長尾竜一氏の解説を引用する

井上毅(いのうえこわし)1844-95(弘化1-明治28)
明治期の官僚,政治家。大日本帝国憲法,教育勅語などの起草にあたったほか,明治10-20年代の法制・文教にかかわる重要政策の立案・起草に指導的役割を果たした。熊本藩士の出身。生家は飯田家で,井上家の養子となった。幕末に江戸に遊学,奥羽戦争にも従軍した。1870年大学南校中舎長となり,翌年司法省に出仕,72-73年渡欧し,主としてフランスで司法制度を調査した。帰国後,大久保利通,岩倉具視,続いて伊藤博文に協力して,枢機に関与した。とくに明治14年の政変では参謀として活躍,また元老院国憲按を却下して,プロイセンに範をとった君権主義的憲法を採用するよう岩倉に建言した。大日本帝国憲法起草の中心人物で,また,教育勅語の起草にあたっては,元田永孚の儒教的君主論を抑えて,勅語の中立性を確保し,権威そのものに高めるよう尽力した。法制局長官,枢密院書記官長,枢密顧問官を歴任した後,93年3月から8月まで第2次伊藤博文内閣の文部大臣を務めた。冷徹な政治的リアリストで,漢籍と西洋法制の両面に通じ,ボアソナード,レースラーらの協力を得て,日本法制の近代化に大きな功績を残した。儒学の非実用的性格を排し,尚武の気風と《韓非子》などの統治術を尊び,また政治における〈機〉を重視した。中江兆民は〈真面目なる人物,横着ならざる人物〉として評価している。終生,持病の結核に悩み,日清戦争の遂行に関与できないことを悔やみつつ世を去った。号は梧陰。[長尾 龍一]

辻の評伝を読んでの井上の勝手な印象は、職場にいそうな「デキる人」。有能な秀才型官僚・エリートの典型。
豊富な知識と形式論理で最適解、さらには次善の解までを提示し、NGはきびしく指摘する。
課題と条件にとっての最適な対応策を打ち出すAI的人物。
他方、「あなたが本当に実現したいことは何ですか?人生のテーマは?」などの質問には「自分の職務に関係のないことには応える必要はありません」と返してきそうな……。
有能であるが、夢の実現よりも自分の能力・有能さを発揮することに生きがいを感じるタイプ。自分が正しいと考える原則についてはとても頑固であり、その点については相手も忖度しない。自分がトップに立つことはあまり考えていないようなので、まわりの信頼感も大きいし、本人もぶれない。

明治憲法の起草と井上毅

井上の頑固さは、草案を作り、発布のときまで、強くかかわることになった大日本帝国憲法(明治憲法)制定の過程でとくに発揮される。井上は憲法を作る以上、日本は立憲政治として恥じることのないものでなければならないと考えていた。
欧米の政治理論に詳しい井上にとって、
立憲政治は君主権を制限し国民の人権を守るものでなければならないとの原則にきわめて厳格であり、
憲法における国民の人権規定や、国会は君主権を制限する機関
という立場を一歩も引こうとしなかった。
こうした点だけから見るとリベラルにも見える。
また外国からの憲法の直輸入を嫌い、日本における伝統的な政治のあり方にもとづいた憲法を制定しようとする。こうした国粋主義的な面もみえる。

井上の頑固さは憲法に内閣という条文を書き込まさなかったところで発揮される。井上は、第一次伊藤内閣がとっていた内閣の連帯責任制と総理大臣の優越権は、あらたに設けようとする憲法の天皇主権論とは非整合性になると強く主張する。それは大宰相主義であって幕府の再来につながると強く否定したのである。伊藤らも折れ、憲法の規定から内閣についての条文を消えた。
井上自身は第一次伊藤内閣のような総理大臣の優越性と連帯責任を否定したわけではなく、他の法令によって定めればよい考えていたとされる。
井上の主張によって憲法は
第55条国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス2 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
とのみ記され、憲法だけから見れば内閣は集団輔弼をとらず単独輔弼をとったと見える。明治憲法の問題点と指摘されるし、実際にこの規定により、閣内不一致が内閣崩壊につながり、少数の大臣の強硬姿勢が政変を引き起こす理由ともなる。井上の頑固さが引き起こしたともいえる。

教育勅語の起草

憲法制定と並ぶもうひとつの仕事が教育勅語の起草である。井上は気乗りする仕事ではなかったといわれる。憲法への姿勢から、国家は国民の「思想信条の自由」に口出すべきでないという立場をとっていたからだ。
ところが、儒教的イデオロギーによる国民の思想統制を強化したいしたいという内務省=地方官の意向、さらには天皇側近の元田永孚もとだなおざねらの強い意向(実は明治天皇の個人的意向でもある)、そうした意向を支持する当時の山県有朋首相芳川顕正文相、こういった人々の手によって天皇の名で提出される道徳上の文書(勅語)の作成が動き出した。
山県が最初に原案の作成したのは啓蒙思想家として有名であった中村正直である。しかし中村の草案は宗教的・哲学的色彩の強いもので、「滅私、国に奉ずるよりも人間としての完成に力点が置かれ…あまりに長文で…とても読み通し暗誦することはできな」いものであった。(山住正己)
井上は、中村の案は宗教家や哲学研究者からの疑問を生じる性格を持っており、天皇の考えとして発表する勅書としては問題が多い、「思想信条の自由」を定めた憲法との法的整合性に問題があるなど七点にわたって批判を展開した。
井上にとって、作成されべき勅語は、
憲法の精神と合致し、特定の宗教や哲学から距離を置くものでなければならず、なんといっても天皇の尊厳を傷つけるものであってはいけないと考えたのである。そのためには細心の注意が必要であるとしたのである。
このような文章がつくれるのは井上しかいなかった。
こうして「教育勅語」は、井上が元田や関係者の意見を聴きながら完成したものであった。
「教育勅語」の交付に際しても、井上は細心の注意を払う。そこでとられたのが担当大臣の副署が必要な「勅令」ではなく、天皇自身が個人的な意見表明した社会的著作物という形式である。
一見すれば見事な「解」であった。
しかし、この形式のため「教育勅語」は他の勅令とはことなる天皇自らが、直接国民に道徳の規準を示した天皇の思い「肉声」との意味合いを与えてしまったのである。

この結果、「教育勅語」(御名御璽がしるされた「謄本」)は天皇夫妻の肖像である「御真影」とともに、一種の「御神体」という性格をあたえられ、それをまつる神殿としての奉安殿などのなかに納められた。
さらに学校教材なども「教育勅語」の精神に沿うことが求められ、国民の思想統制の最大の武器となり、批判的な意見や扱いは「不敬」にあたるものとされる。

明治国家と井上毅

井上毅はこうした人物である。
かれは、政府の有力者から課題を与えられ、それに対する的確な回答を提出し続けることで、その地位を保ってきた
明治初年の江藤新平にはじまり、欧州留学後は私設秘書的役割を果した岩倉具視、清との外交交渉にさいする知恵袋・通訳官として用いた大久保利通であり、なんといっても憲法制定などにおける伊藤博文、こうした人物が井上を利用し、その力を引き出す。山県にも教育勅語で協力する。
明治憲法や教育勅語のみならず、井上がいなければ明治の日本が大きく異なったものとなったことは明らかである。
しかし、このように有能すぎる人物を並の人物が使いこなすのは困難である。伊藤も、憲法や立憲政体について余裕をもって議論したり使いこなせたりする自信は、憲法留学、とくにシュタインの講義を聞いてからと思われる。

現在なら、誰も使いこなすことができず、不遇をかこちそうな井上が、大きな仕事を増し遂げたのは、こうした時代であり、有力有能な政治家が存在したからである。さらに明治という時代、富国強兵という「国是」を守るという名目の下にかつての「志士」たちが巨大な権力をもつ明治国家であったからともいえる。
このような世界で、藩閥出身でないかれが藩閥勢力の求めに応じ、各時期にかれらにとっての最適解、ないし次善の解を提示し続けた。
原田敬一は、井上を「権力者による『共通の頭脳』として行動していた。誰に対しても自らの持つ能力を発揮するのは、官僚制の重要な能力である。近代国家誕生期に、まさにかれらはまさに有能な『官僚』としての位置を自覚していたのである」と評している。(『帝国議会誕生』)

ただ、こうしたタイプは自らの地位を脅かそうとする人、みずから同様にあるいはそれ以上に有能とみえたり、有利な立場の人間には激しい敵意をむけることがある。
また自分のやってきた業績・仕事への執着が強く、それを批判するものへの反撃も厳しい……。

ここでは、そうした井上毅の人物像を、1884年の明治14年の政変をめぐる動きの中から見ていきたい。

明治14年の政変と井上毅

まずは明治十四年の政変についての日本大百科全書における芝原拓自の説明から。

明治十四年の政変
1881年(明治14)10月、10年後の国会開設、開拓使官有物払下げ中止の決定とともに、参議大隈重信 とその一派を追放し薩長 藩閥政府の強化を計った政治的事件。自由民権派による国会開設請願運動の高揚のなかで、政府はこれを弾圧しつつも憲法制定・国会開設への決断を余儀なくされつつあったが、その内部では、参議伊藤博文を中心とする薩長系参議の漸進論と大隈の急進即行論とが対立していた。同年3月、大隈が政党内閣制を容認するような憲法意見書を単独で上奏するや、この対立はさらに激化した。そのうえ、北海道の開拓使官有物の有利な払下げ条件をめぐる開拓使長官黒田清隆と開西貿易商会の五代友厚 との薩摩閥同士の癒着が暴露され、民権派はじめ国民的な非難攻撃のなかで大隈もまたこれに反対するや、政府部内での対立は決定的となった。右大臣岩倉具視も伊藤と組んで井上毅にプロシア流の憲法構想を立案させ、大隈のイギリス的議会主義を排撃していたが、ついに井上をブレーンとして大隈放逐のクーデターを計画、岩倉・伊藤は薩長系参議とともに、天皇の東北・北海道巡幸からの帰京を待ってこれを断行した。この政変で明治憲法体制確立への第一歩が画され、下野した大隈の立憲改進党も含め、板垣退助 らの自由党を中心とする自由民権運動と薩長藩閥政府との対抗も新段階に入った。 [芝原拓自]

 この事件において、井上毅は岩倉と組んで大隈のイギリス的議会政治を退けプロシア流憲法実現を推進し、他方で伊藤とむすんで大隈放逐の陰謀をすすめた
この時期の井上の行動の背景には、イギリス流議会政治への危惧と同時に、ある人物へのつよいライバル意識、敵意が指摘される。その人物とは福沢諭吉である。井上は大隈の背後に、福沢の姿をみていた。

福沢諭吉と井上毅

福沢諭吉(1835*-1901)幕末-明治時代の思想家。

いうまでもなく、福沢は幕末から明治にかけての日本を代表する知の巨人であり、自由民権運動とは一線を画しつつ、藩閥政府に対しても歯に衣着せぬ批判をあびせかけた人物である。
門下生は言論界や経済界などに各界に進出した。この時期は矢野文雄や小野梓・犬養毅らが官界にも進出、大隈のシンクタンクとして活躍、岩倉の私設秘書的性格であったとされる井上とはライバル関係にあった。
福沢グループは1881年機関誌「交詢雑誌」に「交詢社私擬憲法案」を発表する。イギリスの立憲君主制をモデルとしたこの案はきわめて完成度が高く、すこしの手直しですぐにも採用できる質を備えていた。
これをみた井上は過剰ともいえる反応をみせている。
政変の直前に井上は伊藤に次のような手紙をおくる。
福沢の交詢社は、すなわち今日全国の多数を牢絡し、政党を約束する最大の器械にこれあり、その勢力は無形の間に行われ、冥々の中に人の脳漿を泡醸せしむ、その主唱者は充満の精兵を引て無人の野を行くに均し(伊藤宛M14、7,12)

たしかに自由民権派は最大の盛り上がりをみせつつあり、私擬憲法作成を運動する動きも活発化していた。井上は交詢社案がこうした運動に確かな質と論点を供給し、イギリス流の憲法をめざす動きが政府側を圧倒すると危惧していたのである。井上がめざすドイツ流の憲法制定と漸進的な国会開設にとってきわめて深刻な事態であった。

井上が知っていたかどうかは不明ではあるが、この時期、彼にとって気になる動きが水面下で進行していた。
民権運動のたかまりとそれに呼応したジャーナリズムの活発化に圧倒される状況を打破すべく、井上馨が伊藤博文・大隈重信とともに官製新聞の発刊を検討していた。その主筆として声をかけたのが福沢であった。
言論界に影響力のある福沢を自陣営に取り込むことで、一方では政府内開明派グループの影響力を在野の都市知識層へと広げることで民権派の影響力を分断し、他方で政府内の立憲政治に後ろ向きな勢力を牽制しようとしたのである。
井上馨は、福沢に憲法制定・国会開設を語り、さらに大隈や伊藤も合意している述べたという。福沢も心をうごかしつつあった。
伊藤も、薩摩閥を中心とする立憲政治に消極的な勢力と対抗するため、大隈や福沢と組もうとしていた。
1884年正月の熱海会議でも、伊藤は大隈らとともに立憲政体への移行を薩摩閥のボス黒田清隆に説いていた。
こうした動きを、井上毅がどこまで知っていたたか明らかでない。また伊藤と大隈、井上馨、三者の理解が異なっていたことものちに明らかになる。ともあれ、井上にとっては憲法制定・国会開設といった「大口の仕事の受注」を福沢一派にとられかねない危機であった。

「大隈意見書」の衝撃

矢野文雄(龍渓)1851*-1931 明治-大正時代のジャーナリスト,新聞経営者

この時期、太政官では左大臣・有栖川宮熾仁親王を主管として、国会開設(立憲政体移行)についての意見書提出をもとめていた。多くの参議が提出する(伊藤の意見書は井上に作成させている)中、提出が遅れていた大隈は、三月になり「他のものには秘密にする」という条件で有栖川宮に意見書(「大隈重信国会開設奏議(史料)」)を提出した。
その内容をみた有栖川宮は驚愕する。
年内に憲法を制定し、二年後に国会を開設、さらに議院内閣制に基づく政党政治をはじめるべきという急進的な内容であったからである。
大隈は主張する。国会の多数派が政権を獲得すれば、輿論も空論を唱えることができなくなり、責任をもった政治が行われると。
ちなみに、ゴーストライターは「交詢社私擬憲法」の中心メンバー矢野文雄でる。
大隈が、なぜ、どのような成算があってこうした行動にでたのか、なぜそれを伊藤博文や井上馨にも秘密にしていたのか。
のちに、大隈は伊藤らも合意してくれると思い込んでいたと弁明しているが。
有栖川宮は扱いに困り2ヶ月以上手元におき、5月やっと太政大臣の三条と右大臣の岩倉に見せることとする。
 ちなみに有栖川宮や三条さらには岩倉も、政治が薩長に偏することをきらい、非薩長の中心である大隈には好意的であったとされる。先の芝原の説明では、岩倉がクーデタの首謀者のように記されているが、岩倉は大隈追放には消極的であったと考えられている。

大隈意見書と岩倉・伊藤

岩倉具視(1825〜83)
当時、右大臣。大隈の即時国会開設案に危機感を感じ、井上毅に意見書を書かせ、自らの名で提出した。

大隈意見書に衝撃を受けた岩倉は、まず六月上旬にこの意見書を私設秘書的性格をもつ大書記・井上に見せる。エンジンがかかった井上の動きは速い。数週間のあいだに意見書を次々と岩倉の手元に届ける。井上がそれだけの緊急性を感じていたようにも見える。
井上は、さらに意見書を伊藤に見せることをすすめたとおもわれる。
それをうけ岩倉は、まず大隈に会い「自分の意見は伊藤とは異ならない」との言質をとった上で、伊藤に意見書をみせる手はずをととのえた。
伊藤が大隈意見書の内容を知ったのは六月末である。大隈を同志と考えていた伊藤は激怒、辞意を表明、驚いた大隈は弁解に終始、伊藤は岩倉の顔を立てる形でいったんは引くが許さなかった。

「岩倉憲法大綱領」

さて井上からすれば力の見せ場である。法律顧問のドイツ人ロエスレル(レースリーとも表記される)の協力を得ながら、大隈案のベースとなるイギリス流の憲法案とドイツ(プロシア)流の憲法との得失を検討、岩倉に「天皇の名で憲法作成の方向性を示す」ように勧めた。岩倉に宛てた意見書は、井上自身の手で整理しなおされ、岩倉の意見書として三条らの下に提出された。これが「岩倉憲法大綱領史料)」である。
井上によると
イギリス流立憲君主制・政党政治は日本の伝統や現実には適合しておらず、日本は王権の強いプロイセン(ドイツ流)憲法の方向性をめざすべきであり、大隈意見書がめざすような政党政治=議院内閣制ではなく、天皇の信任によって政治をおこなう、のちに「超然主義」とよばれる政治体制をめざすべきと主張した。更に踏み込んでそしてドイツ流の憲法をめざすなどの方針(18項目)を天皇の名で明示すべきとしたのである。
岩倉=井上にとってみれば、大隈=福沢がめざすイギリス流の国家像は、政党政治への途を開き、藩閥政治のみならず天皇制をゆるがしかねない危険なものだったのである
この「岩倉憲法大綱領」には大日本帝国憲法の主要なテーマのほとんどが含まれており、これ以後の制定過程は時間つぶしに過ぎないとの極論も存在する。

しかし「大綱領」の議論を詳細に見ていくと、面白いものが見えてくる。
大日本帝国憲法の中心部分、
たとえば「天皇の神聖不可侵性」や「天皇大権」とくに「統帥大権」、「二院制議会」「欽定憲法」といった特徴の多くが、実はライバルである福沢グループの「交詢社私擬憲法案」から借用されているのである。
坂野潤治は明治憲法の制定が遅れたのはこの類似点が明らかになることを嫌ったという。
福沢グループの憲法案の枠組みを利用しつつ、正反対の内容を打ち出した、それが「大綱領」であった。

「立憲政治樹立」の主導権をめぐる対立

井上が大隈意見書に強く反発した背景には、その内容と共に、福沢一派への強い対抗意識があったと考えられる。
大隈意見書が採択され、大隈主導で憲法制定・国会開設がすすめられた場合、その主導権とシンクタンクの役割を福沢グループとなる。過酷な外交交渉や激しい非難をあびつつ国家建設の第一線で働きつづけてきた井上からすれば、政府外から「気楽に」「無責任な」政府批判を繰り返してきた福沢らはそもそも不快に感じていたと考えられる。
そうした福沢グループが、自分たちが作ってきた国家を危機に陥れるような憲法案を制定し、やや軽薄なところのある大隈と結んでそれを実現しようとしたことに、井上はつよい反発を感じたことは容易に考えられる。
大隈意見書は、国家・政府を危機に陥れるものであると同時に、藩閥の知恵袋である井上個人の危機でもあった。あるべき将来像はイギリスではなくドイツにあり、国家にとって有益なアドバイスができるのは福沢でなく自分であると井上は示したかった。

井上毅と伊藤博文

井上は、非藩閥のリーダー大隈に甘い岩倉よりも、藩閥勢力内の憲法制定や立憲政実現には積極的であるが、大隈=福沢の危険性をも理解し、自分を立憲政治実現の中心として働かせてくれるであろう人物、伊藤博文に接近する。

ただ、伊藤は井上の考えをそのままうけいれる人物ではない。たとえ結論が同じであっても、最初に憲法の原則を天皇が明示するという拙速なすすめ方はすべきでないと考える人物であった。伊藤はこの有能な官僚のいうがままになることはない政治家である。とはいえ、大久保・木戸からドイツ流の憲法制定という大事業を託された伊藤にとって、やはり井上はかけがえのない存在であった。憲法制定を井上中心に進めることは既定のコースとなっていく。
かれらがめざす漸進的な立憲体制への移行を実現するためには、一方における大隈=福沢派の影響力の排除(イギリス流の憲法の否定)と、他方における薩摩閥を中心とする立憲政治消極論を押さえ込むことが課題となる。
この点で伊藤と井上の利害は一致していた。

開拓使官有物払下げ問題

こうしたなか、黒田清隆による開拓使官有物払下げ問題が発生する。この事件について、世界大百科事典における永井秀夫の解説をみることとする。

開拓使官有物払下げ事件
開拓使廃止の時期が迫った1881年に,開拓使の官営事業を官吏や政商に払い下げようとして世論のはげしい攻撃をうけ,払下げを中止した事件。藩閥政府攻撃が強まったため,明治14年の政変をひきおこした。開拓長官黒田清隆は,開拓使官吏の結成する北海社と,関西の政商で鹿児島出身の五代友厚らがつくった関西貿易商会とに開拓使官営諸事業を払い下げ,継承させようとし,8月1日政府は黒田の要求を認めた。払下物件は,当時建設中だった幌内炭坑や鉄道を除くほとんどの官船,倉庫,工場,鉱山などをふくみ,38万7000余円,無利息30年賦という破格の条件だったことから,薩摩閥の官僚・政商が結託して官物を私するものとして,はげしい憤激を呼んだ。自由民権派だけでなく,政府派の新聞や論客まで反対の立場を表明し,政府は苦境に立った。北海道でも函館の豪商はこの払下げに対抗して開拓使の官船・倉庫の払下げを出願し,函館区民の請願・建白運動がおこった。払下反対運動のかげに国会早期開設を唱える筆頭参議大隈重信と岩崎弥太郎(三菱),福沢諭吉の共謀援助があるという説が流布され信ぜられた。政府は10月12日払下げの中止とともに国会開設の詔勅を発し,あわせて大隈重信とその系統の官僚を免職にした。これを明治14年の政変という。[永井 秀夫]

  きっかけは開拓使の官有物払下げである。薩摩派のボスで開拓使長官・黒田清隆が膨大な税金を投入した財産を同じ薩摩の政商に極端に安い価格と条件で売却しようことがきっかけである。不透明なやり方に政府内外から反対の声が噴出したことはいうまでもない。しかし、この問題を最初に報道したのが福沢系の新聞(東京横浜毎日新聞)とされたことで、話は別の方向にそれていく。払い下げに反対する大隈が、福沢グループにリークしたとささやかれたからである。
裏で暗躍したのが井上といわれる。井上は福沢周辺から情報を収集、大隈が福沢や岩崎弥太郎と通謀し、政府転覆の陰謀を図っているという噂をつくりあげた。

明治14年政変

薩摩閥のボス黒田の危機は薩長藩閥の危機と感じた薩摩系有力者は長州派のボス伊藤のもとに結集、伊藤は藩閥のリーダーとして薩長の敵・大隈追放をすすめた。あわせて、それによって起こるであろう世論の反発に対抗するため、黒田に払い下げを断念させ、民権派が求める国会開設を認める。ただし十年後という中途半端な時期で。

計画は、7月にはじまった天皇の東北巡幸を利用してすすめられた。大隈や黒田・有栖川宮が随行し、さらに岩倉が東京を離れた間隙をぬって進められた。東京を離れていた井上馨のもとに井上毅を、岩倉の下に山田顕義を派遣、説得にあたる。東京では明治六年の政変同様、三条実美がつらい立場に追いやられていた。今度は、薩長の勢力に取り囲まれて。岩倉も覚悟を決めて東京にもどる。
クーデターは10月の帰着をまって決行された。大臣・参議連名の大隈罷免の上奏に天皇もしぶしぶ同意、伊藤自ら西郷従道とともに大隈のもとを訪ね辞職を勧告、黒田は天皇の命ならばと払い下げ中止を承諾し辞職、あわせて国会開設の詔勅が発表された。
政府内の矢野文雄や小野梓ら大隈=福沢系の官僚はつぎつぎと辞職、辞職しないものは罷免された。
伊藤=井上毅の完勝であった。

十年後の国会開設を公約する勅諭を起草したのも井上毅である。
井上はそのねらいを
①内閣の一致とくに薩長の一致を示す
②天皇の命令(勅諭)でなければ事態を鎮静できない
③急進派はムリでも中立派の士族は味方にできる
④反対するものは急進派と見なすことができる
と記している。
草案を受け取った伊藤は
「ことさらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害するものあらば処するに国典をもってすべし」と詔勅には用いるべきでない脅しのことばをつけくわえた。

井上毅の勝利と伊藤博文

大隈の失脚は、井上が期待したように大隈=福沢のすすめるイギリス流の政党政治の否定と、岩倉=伊藤=井上のドイツ流の超然主義の勝利であった
この路線をとったことは、大隈意見書が記した政府を国民の支持の上に樹立するという立憲政体のありかたを捨てることであり、国民の信任が不十分な立憲政体(かつては「外見的立憲制」とよばれた)でよしとする路線の勝利であった。
非藩閥のエース大隈を切り捨てることは薩長閥がさらなる勢力拡大をすすめることでもあった
薩長閥は井上毅の後継者ともいうべき帝大卒などのエリート官僚と融合、権力を維持しつづけ、国会の外におかれた強力な執行機関=官僚組織を維持し続ける。これが伊藤がヨーロッパで学んだ事である。
国会開設後も、国民の信任のうえに政府を樹立することを拒否、さまざまな利益を供与することで国会議員たちを飼い慣らし、藩閥とその後継勢力が権力を維持し続ける
こうしたありかたが日本の政治の特徴となる。

作戦参謀ともいうべき位置にいたのが井上毅は、伊藤との関係を強めるとともに、政権最大のイデオローグとしての地位を確実なものし、明治憲法の第一次草案作成の栄誉を獲得し、憲法制定と憲法体制樹立の中心として名を残す。
井上のあらたな保護者となった伊藤ではあるが、有能すぎる井上をおさえようとしていたようにも見える。欧州への憲法調査には井上ではなく伊東巳代治を同行させ、シュタインの議論を聞いて「死処を得た」と狂喜したのも、井上と互角に対峙しうるだけの論点を得たこと面もあるように思われる。
憲法起草でも井上に独走させないよう、ロエスレルにも草案をつくらせ、原案作成の過程では伊東、さらに金子堅太郎も同席させている。伊藤にとって、井上をいかに使いこなすかは課題であったように思われる。

注記:この文章は「明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)」を記す過程のなかでできたものです。よろしければあわせてご覧いただければ光栄です

 

【参考文献】
辻 義教『評伝 井上毅』(弘生書林1988)
梅溪 昇『増補明治前期政治史の研究 』(未来社1978)
稲田正次『明治憲法成立史(上)(下)』(有斐閣1960)
坂野潤治『日本近代史』(筑摩書房2012)など
山住正己『教育勅語』(朝日新聞社1980)
原田敬一『帝国議会誕生』(文英堂2006)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社2009)など
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)

 

 

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