文明開化と「国民」の創出~明治維新と文明開化(3)

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文明開化と「国民」の創出
~明治維新と文明開化(3)

明治維新と文明開化<メニューとリンク>

1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出

Ⅶ、「文明開化」と『日本人』の創出

1,文明開化

明治維新において、政府が主導的な役割をもってすすめた西洋近代文明摂取による近代化政策とそれによって生じた社会風潮文明開化といいます。(単純にこのように定義できない面があります。その点はのちほど)
たとえば
①大都市を中心とした生活の洋風化(「開化」物)
シャボン、ランプ、洋傘、シャッポ(帽子)、洋服や洋館、ガス灯、和洋折衷建築、牛鍋
②政府主導の「開化」政策
近代的工場・鉄道・郵便制度・銀行制度・学制・散髪・ 廃刀・太陽暦・新たな祝祭日
などが思い浮かび、こうしたものが
③新聞、雑誌といった新しいメディアや錦絵・瓦版など従来のメディアでも伝えられました。政府は布達をだし地方官に命じあるいは新聞で報じさせ開化を進めました。博覧会も開催しました。神官や俳諧師など地域の知識人のちには僧侶・講談師・落語家などを教導職として動員、宣伝にあたらせました。
福沢諭吉など知識人も西洋の学問・文化・制度などを積極的に伝え啓蒙思想と呼ばれました。
文明開化は政府の強いリーダシップの下に進められました。

ざんぎり頭をたたいてみれば文明開化の音がする」というおなじみのフレーズがあります。そのつづき、ご存じでしょうか。それは
チョンマゲ頭をたたいてみれば、因循姑息の音がする」というものです。
しいものとくに西洋風の文明の受け入れを「善」として肯定する一方、伝統的なものを「因循姑息いんじゅんこそく」=「文明」に背を向ける愚か者としてみなす姿勢が見えてきます。
こうして生まれた精神性は前回見た開国・開港で発症した「強迫神経症」とあいまって、以後の人々の精神に大きなひずみを与えたように思います。

2,文明開化と官僚、文明と旧弊

楠本正隆(1838~1902)。肥前大村藩の武士、明治期の政治家。男爵。大久保利通の腹心として知られた。

1872(明治5)年新潟県に楠本正隆という外務官僚が県令として着任しました。
楠本は高い場所でふんぞり返るお役人ではなく、人民と同じ高さで話を聞く「良吏」でした。
他方、かれが強硬に進めたのが風俗取り締まりです。野外で裸体でいることを禁止、断髪を強要、道路の整備拡張、都市中心部からの藁屋根の撤去まで行いました。
風俗の取り締まりは江戸時代も多く見られました。しかし、それは庶民の生活が華美に流れることにたいし「分をわきまえる」よう倹約を命じるものが中心であり、楠本が進めたものとはまったく別物でした。

楠本の狙いは何だったのでしょうか。

カギは、新潟が開港場だったことです。
楠本が民衆に向ける目は、外国人が日本に向ける目と同期していました。
楠本は外国人が見る民衆の風俗が「日本は野蛮・未開な国」との理解につながることを恐れたのです。
江戸時代はものの数にも入らないと考えられていた庶民も日本人を代表する「同じ日本人」であり、その風俗が日本の恥になる考えたのです。これまでは支配者の目に入っていなかった民衆も「同じ日本人」という目で見るようになりました。

楠本に代表される官僚が「文明開化」を担う中心でした。
県令を中心とする開明派官僚が、「頑迷固陋」な頑民、野蛮・未開な風俗が渦巻く地方を「開化」するという構図です

官僚の多くは士族出身です。
士族たちは自分たちを文明の側におくことで優越感とエリート意識をもつことができました。そこには士族の身分制的な「目」もかくれていたでしょう。
次いで、この構図に、農工商の一部、特に裕福なものたちが加わり始めます。
洋装をし、牛鍋を食べ、新聞を読み「文明」側であるとみせることで自分は優越的な立場にいることをアピールしますいまだに髷まげをきらず肉食や牛乳を毛嫌いし、迷信の世界に住む「頑迷固陋」な民衆を笑いものにしはじめます。文明化された「都市」と因習と迷信の世界=「農村」という対立も生まれます。
こうした風潮は更に広がります。僧侶や神官・地域の有力者さらには講談師や落語家、ゴシップ記事を売り物とする「小新聞」といった庶民文化の担い手も政府のお墨付きをもらって「頑迷固陋」の人々を笑いものにし、「文明開化」を拡散していきます。これは伝統的価値を重視する人たちを萎縮させる効果ももちました。

牛鍋をつつく洋装の紳士

ただ文明開化として示された欧米の科学技術や文物・価値観などのなかに、明らかな優越性があったことも否定し難い事実でしょう。
西洋の衛生知識や医学によって、救われた命がありました。西洋の軍事技術が日本を軍事大国へと変貌させていきました。洋食は日本人の体位を向上させます。そして西洋の自由・平等といった思想は身分制の中で諦めを強いられていた人々の精神を解放しました。
こうした事実のひとつひとつが、「文明開化」=欧米文化の導入の優位性に説得力を持たせ、「文明開化」に否定しがたい権威を与えました。それは「文明開化」を推進する政府の政策的優位性の冠を与えるものでもありました。

こうした枠組みは、日本とにアジア諸国とくに中国や朝鮮との関係にも投影しはじめます。日本が「おくれた」(と感じた)朝鮮や支那を「文明」化してやるのだという優越意識が生じ始め、人種的優位性があるとすら思うようになっていきます。
それはさきにみた「強迫神経症」の「症状」の一つであり、欧米文明に対する劣等感の裏返しであったようにもおもえます。
他方、東アジアの人々が日本をみる目の中にも、似た関係がうまれました。日本は自分たちを脅かす危険な存在ではありますが、西洋文明を東アジア文明圏が共有する共通文化・言語世界に翻訳・吸収しようと努力していました。それは強大な西洋文明と対峙しつつ新しい文化を打ち立てていかねばならないこの地域の諸民族と共通の課題でもありました。

3,明治政権下でのキリスト教弾圧

ただ「文明開化」は「欧米化」と単純化はできません
新政府は欧米文明の精神的支柱であるキリスト教を厳しく弾圧、それ以後も警戒の目をもちつづけました。
 幕末、長い間姿を隠してきた長崎・浦上村のキリシタンたちはフランス人神父による教会建設をきっかけに公然と姿をあわらしました。ところが、新政府は彼らを捕らえ、西日本の諸藩に連行、厳しく改宗を迫られせました。とくに多くが送られ、多数の殉教者を出したのが神道家の藩主を擁する津和野藩でした。現在もこのときの記憶が現地には残っています。

津和野のカトリック教徒殉教者の墓

非主流の佐賀藩出身の大隈重信が一躍脚光を浴びたのは、キリスト教への迫害に対する欧米諸国の批判にたいし、「国家主権」という国際法をもちいて断固はねつけたことがきっかけでした。
新政府は西洋文明を受け入れつつも、西洋文化の心臓とも植えるキリスト教は以前のまま邪宗とし迫害をつづけたのです。
 キリスト教が事実上認められたのは、1873年2月です。欧米視察に向かった岩倉遣欧使節団は、各地でキリスト教徒迫害への抗議をうけました。これが条約改正交渉の障害となると考えた使節団の連絡を受けてのことでした
とはいえ、キリスト教禁止を命じた高札を撤去するといった姑息なやりかたで、キリスト教を黙認するということでしたが。

4,「御一新」と国学

新政府は明治維新を日本が長い暗黒時代を脱して天皇中心の新しい国に戻ることととらえていました。これは「御一新」「御維新」(「惟れ新たなり」という言葉)ということばで示されます。
では暗黒時代とはどういった理由であり、戻るべき時代とはどのように考えられたのでしょうか。

本居宣長(1730~1801) 国学の大成者。「もののあはれ」という日本固有の情緒こそ文学の本質であると提唱し、大昔から脈々と伝わる自然情緒や精神を第一義とし、外来的な儒教の教え(「漢意」)を自然に背く考えであると非難した。

幕末、大きな影響力を持った「日本は天皇中心の国」という考え方を支えた学問のひとつが国学でした。国学は仏教や儒教といった外来の思想を「からごころ(漢意)」)として排撃し、本来の日本の姿(「やまとごころ」)をとりもどすことを主張してきました。国学の立場から見れば、明治維新こそ、ただしい古代の日本のあり方にもどる時代の到来(「復古」)であったのです。
彼らの一部は、仏教文化だけでなく摂政・関白など宮廷内のルールさえも「からごころ」によるゆがみとみなしました。
しかし日本文化の特徴は、基層文化のうえに、東アジアから伝来した文化(「からごころ」)を受け入れ、血肉化してきたものであり、その影響を排除することは日本文化の否定でしかありません。にもかかわらず、新政府内部の国学者たちはこれを神武天皇が示した理想の時代へ「復古」することが、明治の日本がめざす道と整理しました。
 こうした時代の要請の中、明治以来の近代歴史学は江戸時代を暗い時代と描き、それと比較する形で「御一新」以後の「明治の御代」を輝かしく描き出そうとしつづけました。
歴史の発展段階論に立ち「近代」の進歩性を強調した戦後歴史学も同様の問題点を持ちました。そして暗黒の時代に立ち向かった英雄を人民の中に見いだそうとして、一揆や打ちこわしなどの人民闘争・階級闘争が重視されたのです。

5,神道国教化政策と神仏分離・神道再編成

新政府が国学者を重用した背景には、新政府の権力の源泉である天皇の地位を盤石にするうえで天皇による日本支配の正統性を主張するかれらの考えが都合がよかったからです。
そのため利用されたのが民族宗教としての「神道」でした。
神道は、もともと山や岩・木や川といったあらゆる場所に神が存在するいった古代人のアニミズム的な宗教観から生まれたものであり、基本的には自然発生的で、体系性には乏しいものでした。とはいえ、古代から天皇制がその正統性を神道にもとめたことから、天皇祭祀とむすびつくことも多く、伊勢神宮なども天皇制と結びついて発展していきました。
他方、仏教の伝来・伝播がすすむと、当時の神道は仏教との結びつき、その世界観も取り入れていきます。神仏習合という状態が一般化、神道は仏教の理論で裏付けられ、仏教も神道を受け入れることで定着していきました。江戸時代になると、両者が融合した現世利益の民間信仰が人々の心を捉えていったのです。

こうした宗教事情にたいし明治新政府は、一方では「文明開化」=西洋文明の優越性という視点から、他方では天皇制の権威づけに神道を利用するという二つの視点から、これまでの民間信仰を「邪教淫祠」と決めつけました。さらに神道から仏教の要素を切り捨て、さらに神道自体も天皇制に都合のよい形で再編成しました。この結果、全国の神社は神話上に神々を祀るものとされていきます。さらに天皇制の発展に貢献したとみなされた人物(たとえば織田信長や豊臣秀吉)も国家の「神」としてつけ加えられました。

廃仏毀釈
「図説日本史通覧」帝国書籍

新政府は神道を「天皇教」とでもいうような宗教に作り替え、すべての日本人をその信者にしようとしたのです。こうした政策を神道国教化政策といいます。
キリスト教が迫害されたのは、この方針に反すると考えられたからでした。
この政策に沿って極めて乱暴な政策がとられます。神仏分離政策です。これに乗じて、一部の人たちは、神社が併設してきた寺院を破壊、神社のご神体であった仏像や仏具を破壊しました。これを廃仏毀釈といいます。
奈良の興福寺では大部分の僧侶が、春日神社の神官に鞍替えし、寺の破壊に手を貸しました。広大な奈良公園はその跡地です。五重塔は売り払われ、買い取った人物は焼き払って金具をとろうと考えたといいます。それを押しとどめたのは奈良の人々の延焼への危惧からでした。

太陽暦の採用と相まって、天皇制と関係の強い祝祭日が設置され、かわって五節句など民衆や生活と関わりの深い行事などが禁止された。

また、民衆の中から生まれてきた信仰は、「文明開化」政策にともない淫祠邪教とみなされ禁止されます。
盆踊りや五節句など天皇信仰とは無関係な行事も禁止されました。
かわって多くは民衆とは無関係な天皇祭祀と結びついた日が祝祭日として採用されていきました

5,国家神道の形成と「文明開化」

しかし、このような「天皇教」をすべての「日本人」におしつけること可能だと思いますか。しかもその内容は一部の国学者たちが勝手な解釈で作り上げた、不十分極まりないものを。

これに猛然と反発したのが僧侶たち、とくに民衆との関わりの強かった浄土真宗の僧侶たちでした。
かれらは、
こうした政府の宗教政策を批判、列強も政府のキリスト教迫害への批判を強めます。
こうした批判を受け入れる中、政府は方針を大きく変更します。とりいれられたのが、「神社神道は宗教ではなく、日本古来の伝統」であるという考えです。天皇神話と結びつけられた神社を崇拝するのは、日本の古来からの伝統・習俗であって、宗教ではない、したがって仏教などの他の宗教とは矛盾しないというのです。
ここで気をつけたいのは、この間、神々が天皇中心に再編成され、天皇神話の受容の道具とされていたことです。こうして宗教であるはずの神社神道は宗教でないとされ、神社参拝も宗教行為でなく伝統儀礼とされました。こういった体制を国家神道体制とよび、これが政府の圧力もあり定着したのです。
こうして、万世一系の天皇を権威づける「冠」としての新たに作り出された「神道」と、仏教など既成の宗教勢力との「妥協」が成立しました。キリスト教もこの枠組み、「妥協」の中で承認されたのです。ただこの妥協を拒否したと見なされた宗派は、不敬罪などの対象として厳しい弾圧を被ることになります。
 よく神社信仰は長い歴史を持った古い伝統と思われがちですが、その伝統の多くは天皇支配を正当化するために整備された「創られた伝統」です

6,民衆にとっての「文明開化」

明治初年の人々は政府から、
 ①欧米文化の立場から見た『文明国の国民』であることと、
 ②天皇に忠誠を尽くす『臣民』としての日本人であること、
この二つをもとめられていました。
この両者の矛盾は、天皇こそが欧米文明を率先して導入するトップランナーであり、世界に目を向け世界に学ぶ姿勢は神武創業以来の日本のあり方と同じであり、それが五箇条の誓文の趣旨であると整理されました。
こうした姿勢ですすめられたのが「文明開化」であり、この観点から、人々の生き方・伝統文化、風俗・習慣などが「文明」か「未開」「野蛮」なのか、かなりご都合主義的に判断されました。

私たちはおうおうにして「さんぎり頭」の側から歴史を見てしまいます。
しかし逆に「頑迷固陋」なチョンマゲ頭の側から歴史をみる目が必要です。

江戸時代の大部分の時期、人々は「カベ」のなか、さまざまな矛盾をかかえつつも、生活は一定度保障され、五節句や祭礼・民間療法など民間信仰の世界の中、「平和」な日常を暮らしていました。
しかし江戸も終盤に近づき、人々の生活はゆっくりとではあるが変化してきたものの、二百年以上続く太平は永続するとの思いの中で生きてきた人たちが多かったのでしょう。

ところがこうした「平和」は、まず「鎖国」のカベの崩壊によって脅かされます。開港は経済混乱を引き起こし、人々の生活・生産様式の変化を余儀なくしました。
さらに新政府が樹立されると、「幕藩体制」のカベも、「身分制」のカベも、人々の生活・生産の基盤でありセーフティーネットでもあった「村」「町」も壊していきました。
これまでの「当たり前」が次々と覆されていったのです
人々のなかで不安と恐怖が呼び起こされました。
人々の間で奇怪な噂が語られます。それを利用してあおった人々もいました。
曰く「西洋式の病院では患者は鉄串の上で身体の脂を抜かれる」「西洋人は小児の生き血を取って薬を練る」「白衣のものが、子どもを誘拐し、外国人に売り飛ばす
新政府は西洋人に乗っ取られ、天皇はキリスト教徒になったそうだ」など

ちなみに、隣国の朝鮮王朝の指導者たちはこうした日本の変化を理解できず、日本はキリスト教に乗っ取られたとの理解をしていた人もいました。

幕末~明治初年の農民反乱の件数

こうした不安や恐怖のなかで、農民たちは農民反乱(一揆)に立ち上がります。
明治にはいって一揆は激増しました。江戸時代は用いなかった竹槍など殺傷道具も用い、放火なども行うというようにその形態も変わってきました。
江戸時代の「領主たちが約束を破ったことを怒り、本来の仁政の実施をもとめる」という定型化された一揆とは全く異なり、
文明開化政策がひきおこした社会不安に対抗する性格を持っていたといわれます。
これに対し、新政府側も手加減しない対応をとり、多くの民衆が重い罪に問われました。

おわりに

1,明治天皇の二枚の写真

ここに二枚の写真があります。明治天皇は写真嫌いで残っている写真も少ないのですが、ここにあげたものは明治初年の天皇の姿を示したものです。
(いわゆる「ご真影」は写真に見えますが、実際はイタリア人画家が描いた肖像画です)
一枚目の写真は日本古来の服装衣冠束帯に身を包んだ写真です。いわば江戸時代の天皇を象徴したものといえるでしょう。
江戸時代、天皇は人々の前に姿を現わさず、御所の奥深くで女官や少数の公家に囲まれて暮らし、必要なときもすだれごしに話を聞く。こうしたあり方をしていました。
孝明天皇も御所の外に出たのは御所の火事の時だけでした。政治や社会、軍事などの歴史は学ぶこともあったでしょうが、同時代の出来事は取り巻きの公家を経由して聞く、こうした存在でした。
王政復古の数ヶ月後、それまでの朝廷のあり方からすれば許しがたいことが行われました。野蛮で危険な人々として京都に近づくことさえ許されなかった外国人使節団の前に天皇が姿を見せたのです。

東京奠都 天皇の東京東下は新政府による一大イベントとして実施された。

国際的なルールでは、外交官信任状を相手国の君主などに直接手渡すことで国家の代表としての地位を獲得します。
そのため、外交官は日本の主権者との謁見を要求します。そのため宮中での大反対を押して1868年2月謁見が実現したのです。
さらに大久保をはじめとした実際のリーダーたちも天皇に直接謁見することが必要でした。そのため天皇は大阪湾の海防状況の視察を口実に御所を離れ大阪に向かいました。(「大坂行幸」)この機会に天皇と、大久保ら指導者が直接面談したのです。

軍服姿の明治天皇
明治天皇は率先して欧米化を実践する開明的な君主であり、軍隊を率いる大元帥でもあった。

天皇が先頭に立って新しい政治を進めるという建前を成立させるには、これまでのあり方では通用しませんでした。首都を東京に移したのも宮廷勢力から天皇を引き剥がすという意味がありました。東京に移った天皇は、日本の主権者として、軍隊を率いる大元帥としての帝王教育が施されます。そのために、剣豪として有名な山岡鉄舟らマッチョな連中が周囲に集められました。二枚目の写真はこうした近代君主の姿を示すためにとられたものです。
この写真は、軍隊を率い国民に命令を下す絶対的な天皇の姿をビジュアルに示しました。
さらにこの軍服は西洋風です。天皇は外国文化を嫌うのではなく、逆に外国使節とワインを酌み交わし洋食を食べ、あるいはあんパンも食べるという文明開化の推進者であることもしめしたのです。文明開化をすすめる新政府の方針をこの一枚の写真が如実に示していたといえるでしょう。

衣冠束帯姿の明治天皇 万世一系の天皇の血脈を引く神聖不可侵な存在として国民の前に姿を見せた。

他方、一枚目の衣冠束帯の写真も同時期のものです。そこにあるのは、天皇を天皇たらしめているのは、「皇祖皇宗」からの血脈を維持する神話的な権威でした。
天皇の信任を得ることなしで、政治をすすめることはできませんでした。
近代日本は、文明開化は、こうした神話的な権威なしには進められかったのです。

2,明治維新の終期を巡って

明治維新の終わりはいつなのか。
これについての興味はうすいかもしれませんね。
幕末が新しい時代を作るという熱情の時代というのなら、
明治初年は熱情が失望に変わっていく時代だったからでしょう。西郷も木戸も「仲間たちはこんな時代を創るために死んでいったのか」という失望をよく口にしていたといいます。
かつての理想が現実の中でゆがんでいく時代だったからでしょう。
それもあって映画・ドラマや歴史小説もさっさと幕を引く傾向があります。早く幕を引きたい人が選ぶのが廃藩置県です。

しかしその後も士族反乱・農民反乱・テロの横行といった混乱が相次ぎ、混乱の時代がつづきます。
こうした殺伐とした時代が終わったのが1877年の西南戦争、そのなかで維新最大の英雄西郷が斃れます。さらに、この前後、木戸が病死、大久保は暗殺者の手にかかり世を去ります。
科学的とはいえないかもしれませんが、時代の空気が変わったのは明らかでした。この時期を維新の終期とする人がもっとも多いといえそうです。
しかし明治維新で何が問われていたかという点に注目すれば別の見方も可能でしょう。
一応の近代国家が実現し、曲がりなりにも国民代表が政治の舞台に組み込まれるようになった大日本帝国憲法制定・帝国議会の発足が考えられ、さらに開国に始まる不平等体制が条約改正によって解消され、一般民衆も戦争に動員されるなど「国民意識」が定着し始めた日清戦争を明治維新の最終地点とみることも可能です。
明治維新は、このようにさまざまな性格を持っているからこそ、このように多様な時期区分ができるのです。
どの時代区分が正しいかなどという議論はナンセンスです。

3,明治維新とは何であったのか

最初に明治維新を「江戸幕藩体制が崩壊、近代統一国家と明治新政権が形成された一連の政治的社会的変革のこと」と簡単に定義しました。
何がかわり、何が変わらなかったでしょうか。
明治維新を動かした原動力の一つは
成熟を迎えていた江戸時代日本の発展です。日本社会は新たな世界を求めていました。
今ひとつは日本の参加を求める世界=資本主義の潮流です。
この二つの力が混ざり合う中で明治維新がはじまりました。

変化の一つは、
江戸時代のルールやシステムの崩壊・解体です。
鎖国・幕藩体制・身分制度という三つのカベが崩壊し、相互監視と相互扶助のシステムでもあった村請制を基盤とした社会も消滅、自己責任と自由競争の社会へと変わりました。

二つ目は、欧米のルールである「世界標準」=グローバルスタンダードの導入です。
資本主義の発展に適した諸制度がつくられ自由競争と自己責任が問われるようになります。
日本は国境によって他の地域と区分され、その内側にすむ人間は「日本人」としての責任が問われるようになりました。こうした主権国家・国民国家システムは周辺諸国との緊張感をたかめるものでした。
三つ目。世界標準の導入はこれまでのあり方との緊張関係の中で形成されました
欧米ルールの急激な導入という急進的な変革は、天皇の命令と信任という形式によって正統化されました。そのためには明治天皇が絶対的な権力を持つという形式が必要でした。そのなかで形成されたのが近代天皇制です。近代化を進めるため、神話と身分が必要とされたのです。
四民平等とはいうものの実際の「社会的平等」は極めて限定的で、部落問題のように身分制に起源を持つ社会問題が生まれ、華族・士族という身分が編成されました。
「家」制度や男尊女卑といった封建的倫理は明治憲法体制の中に組み込まれ、農村には寄生地主制のもと、江戸時代同様の支配秩序が形成されます。そしてこうした農村の犠牲で近代化が進められました。
このように「万国対峙」「富国強兵」という大目標実現のため、しだいに「近代」と「前近代」が目的合理性に、選択的に利用されました。

こうした急速な「上からの近代化」の潮流の中、民衆もさらには武士たちも押し流されていきます。
それにたいする抵抗が、頻発した農民反乱であり、西南戦争に代表される士族反乱でした。
しかし、力による抵抗が力で封じられるなか、政府による欧米化の選択的導入には民主主義や人権といった他の欧米化の理念が欠落していると批判し、もうひとつの「世界標準」の導入をもとめる自由民権運動が始まりました。

そして19世紀末の日清戦争、さらには20世紀初頭の日露戦争、江戸時代は「客分」であったはずの人々は「国民」として戦場に連れだされ、その命を差し出すことを「国家の名」で命じられます。膨大な戦費が「国家のため」に投じられます。
人々はもはや江戸の民衆のように「客分」であることが許されない世界にいました。

「客分」であることが許されない世界は、「国民」として政治への参加を要求できる、せねばならない世界でした。こうして民衆が上から押しつけられた「国民」という存在を主体的に受け止めようとしはじめたのは明治も末年になってのことでした。
<おわり>

明治維新と文明開化<メニューとリンク>

1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出
※参考資料:レジュメとパワーポイント資料
レジュメ「明治維新と文明開化21
パワーポイント資料「明治維新と文明開化21ppt

<参考文献>
井上勝生『幕末・維新』『開国と幕末変革』
中村 哲『明治維新』
石井寬治『開国と明治維新』
安丸良夫『安丸良夫集』『日本の近代化と民衆思想』
『近代天皇像の形成』
牧原憲夫『牧原憲夫著作集』『客分と国民のあいだ』
『民権と憲法』『文明国をめざして』
三谷 博『維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ』
『図説日本史通覧』『詳説日本史図録』『新詳日本史』

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