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公立高校の元教師。おもに歴史を教えてきました。 授業で教えた内容、高校現場で考えたことなどを書いていきたいと思います。 ややこしい話は嫌いなので、コメント等はご容赦ください。

アヘン戦争はなぜおこったのか。

アヘン戦争はなぜおこったのか

はじめに~ある質問から

私が参加させていただいている市民講座、前回のテーマは「開国と開港」でした。
そこで、以下のような質問をいただきました。
それにお答えしたいと思います。

■イギリスが何故アヘンを中国に輸出したのか、今ではイギリス人意志(ママ)が大反対するでしょうが、民度が高くなかったということですか?

私は、どちらかというと人間をシニカルに見る性格があり、金儲けをしたいイギリス人がそもそも誠実な商売をするとは思っていないので、このように考えた事がありませんでした。
「いい人もいれば悪い人もいる」、あるいは「金儲けとなれば悪いことをする人もいる」といってしまえば、おしまいですが、それではあまり歴史的ではないので、

①当時のイギリスにとってアヘン貿易とはどのような意味があったのか、
②中国国内になぜアヘンが大量に流入したのか、
③なぜアヘン戦争が始まったのか、
④アヘン貿易、それへの取り締まりをきっかけとした武力行使(アヘン戦争)という「不正義」にたいし、イギリス国内はどのように対応したのか、

主にこの四点を話させていただきす。

なぜ「アヘン」に手を出したのか
~イギリス・紅茶ブームの陰で

一つ目は、イギリスにとってアヘン貿易の持っていた意味です。
18世紀後半に始まる産業革命はイギリスを豊かな国へ変えました。(その豊かさは貴族や中産階級に限定されており、並行して発生した農村での囲い込みなどもあり、大量の貧困な無産階級を生み出したのですが)
そして富裕層の間で流行したのが「紅茶ブーム」でした。
中国産の茶葉を用い中国製ないし日本製の陶磁器(chine)を用い、カリブ海沿岸の奴隷たちによって作られた砂糖を入れて飲む、これがイギリスの有産階級の豊かさのシンボルでした 。この風習は現在のイギリスでも定着していることはご存じの通りです。
1823年、インド・アッサム地方で新たな品種の茶の木が発見されるまでは、原料の茶はほぼすべて中国産でした。さらに産業革命で経済が急速に発展したとはいえ、18世紀末でも、多くの産業での中国製品が圧倒していました。

浜島書店『世界史詳覧』p213

それはイギリスが世界に売り込みたい戦略商品・綿織物でも同様でした。18世紀段階では、イギリスの対中貿易は大幅な輸入超過であり、対外収支の赤字は新大陸で手に入れた銀で支払われました。せっせと集めた銀が穴が開いたように中国に流出しました。

「欲しいものは何もない」~乾隆帝のことば

こうした事態に対応すべく、イギリスでは、貿易に対する清側の規制緩和と貿易港増加を実現し、イギリス産の安価で大量の綿織物など工業製品の輸出増を実現、貿易収支の改善し、イギリス産業のさらなる発展をめざそうという声が高まりました。

乾隆帝(1736~96)清第六代皇帝。清の全盛期を実現させた皇帝。

こうした声を受け、イギリス政府が派遣したのがマカートニーです。彼は、皇帝に会いたいというのなら三跪九叩頭皇帝との面会に際しては、3回ひざまづき,そのつど頭を3回,合計9回床につけるという儀礼という屈辱的な儀礼を求められるなどさまざまな苦労の末、1793年皇帝との謁見を実現しました。しかし、皇帝(乾隆帝)から受け取った書状には「中国は豊かな国であり何でもある、おまえたちがほしいというからお情けで売る事を認めているのだ。おまえたちから欲しいものは何もない。貿易拡大とは笑止千万である」との文字が記されました。1816年に派遣されたアマーストに至っては皇帝との謁見すら認められませんでした。
イギリスは正式なルートでのイギリス製品の販路拡大に失敗します

中国では、伝統的な知恵として、辺境で国家の管理の下に外国人との間で交易をおこなうという「互市」という制度をとっていたのです。
ところが正式な国交を求めようとすると、華夷秩序というたてまえ部分が表面化し、臣としての対応が求められることになったのです。

とはいえ、中国との貿易赤字=銀流出はイギリスにとって大きな懸念材料となり、さらにイギリス産業界にとっても、急速に生産力を増やしている綿織物などの輸出拡大への欲求はいっそう高まっていきました。

三角貿易~インドの購買力を高めるために

こうした貿易収支の改善の材料として導入されたのがアヘン貿易でした。

浜島書店『世界史詳覧』P213

イギリスは1773年インド・ベンガル地方におけるアヘンの専売権を、1797年には製造権をも獲得、その一部を中国でひそかに販売しはじめていました。
さきの皇帝の言葉にからめていうと、イギリス人が持ち込むもので中国(人)がほしがるものがアヘンでした。そしてその規模はどんどん多くなり、両国間の貿易収支の赤字はみるみるうちに縮小し、イギリスの銀流出に歯止めがかかります。

イギリスからの綿布の流入とインド綿業の破壊 浜島書店『世界史詳覧』p213

インドにおけるアヘン栽培はインドに新たな輸出産業を創出する事でした。アヘン貿易は、イギリス産業によって綿工業という世界に冠たる主要産業を破壊されたインドに新たな収益源を与える事になりました。アヘンを中国に売って得た資金が、イギリス産の綿織物などの購買力を高めました。
こうして戦略産業であるイギリスの綿工業が活性化されます。
アヘン貿易はイギリスの経済の重要な環となって来ました。
1834年、イギリス本国での自由主義化のなかで、イギリス東インド会社が統制下に置いていた対中国貿易の特許が失効、多くの冒険的な商人が中国貿易に乗り出していきました。輸出における主力商品がアヘンであったことはいうまでもありません。こうしてアヘン貿易は更に規模を拡大していきました。

脆弱な統治機構
~「密売」商人を取り締まれない清帝国

二つ目は、中国側の事情です。

浜島書店『世界史詳覧』p108

日本では人口増加率が急速に低下していった18世紀、中国では人口の激増が始まっていました。
その結果、中国人は条件の悪い土地、辺境などに可耕地などの生業をもとめ移住していきました。
大量の貧困層が出現する一方、それまでの住民との間との対立も発生しました。
さらに可耕地を求めて行われた乱開発は洪水や干ばつといったも引き起こし、各地で不穏な事態を引き起こしていました。
こうした事情はアヘンの中に救いを求める人々を生み出していました。

こうした人口増は、政府によって移住が制限されていた東北部(「満州」)や台湾などへの入植を活発化させ、新たなフロンティアとしていきました。そのことが先住民族との対立も引き起こしました。さらに華僑として東南アジアなどに移住する人も現れました。

18世紀はこうした時代でした。

清の支配。わずか100万人にもみたない女真(満州人)が約2億の漢人を支配する体制であった。
(浜島書店『世界史詳覧』p97)

また清朝政府の統治体制もアヘン拡散の背景となりました。
清朝は、ごく少数の満州人(女真族)が圧倒的多数の漢民族を統治するという国家でした。
したがって、その統治は末端に及ぶことは不可能であり、社会の最上層にいる満州人たちが、漢民族の郷紳や中間団体などの力を借り、租税を課すという仕組みがとられました。
そしてこうした中間団体の中には専売商品である塩などを扱う非合法なネットワークを形成するものも多く存在しました。
こうしたネットワークを経由して、やはり非合法であるアヘンが流通したのです。アヘンは従来の塩の密売組織などを通じて中国各地に浸透していきました。さらに民間社会から利益を得ていた清の官憲もアヘンの取り締まりに対しては消極的でした。こうした事情がアヘンの大量流入を実現させたといえます。

浜島書店『世界史詳覧』p

アヘンの流入とそれにともなう銀の流出は中国を混乱させていきます。
アヘン自体の生理的害悪はいうまでもありませんが、同時に、正貨である銀の大量流出は、デフレを発生さて中国経済を混乱させました。
非合法で危険な存在であるアヘンが公然と社会に広がっていくことは清朝政府の統治の問題点を否応なく見せつけました。
アヘンの害の広がりを通じて、清朝政府は主権国家的な枠組みで「中国」という存在を考えなければならない事態においこまれつつあったのです。
世界の中心であるべき中国が「国益」を問わねばならない事態におちいったのです。こうした問題に自覚的であったのが林則徐でした。

林則徐~主権国家としての対応であったが

なぜアヘン戦争が発生したのか、それが三つ目です。
これも中国側からの事情とイギリス側からの事情双方から考えることができるでしょう。
19世紀に入ると「世界の一体化」が一挙進みます。東アジアの諸国も、否応なく「世界=経済」の存在を意識、対抗して、自らを主権国家として認識しはじめます。
日本では、18世紀末以降、それまでの海禁政策を「鎖国」と再定義しなおします。林子平の「海国兵談」の出版などはその典型でしょう。ばくぜんとではあっても「国家としての日本」を意識する層もひろがりをみせはじめます。松平定信政権が、この本を危険視し出版を差し止めたことはこうした事態を逆方向から示しているようにも見えます。そして幕府の影響力も深く浸透していました。
これに対し、中国=清王朝は征服王朝という性格上、社会の中で発生した混乱をコントロールする手段を余り持っていませんでした。取り締まりは中間団体の場所で跳ね返され、民衆に直接届くきにくかったからです。こうした社会に規定されてアヘンの害は社会内部に浸透していきました。
清朝政府がアヘンの拡大のためとった政策は、
アヘン常用者を処刑するという厳罰と、開港場での貿易ルールを厳格化し国内への流入を避ける水際作戦です

林則徐(1785~1850) 清末の政治家。アヘン厳禁を主張、欽差大臣として1839年広州に着任し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖などを強行した。アヘン戦争が勃発すると、動揺した清朝に解任され、さらにイリ地方に追放された。

取り締まりを命じられたのは西洋事情にも造詣が深かった林則徐です。
林は国際法に則って、アヘン貿易を規制します。
貿易港広州在住のイギリス商人を官憲に取り囲無というやり方で脅し、所有するアヘンを提出させ、それを破却します。
よく「焼却」したといわれがますが、実際は大きな池を作り、塩水のなかにアヘンを投げ込み、生石灰をなげこみ無害化するという手段がとられます。しっかりとした知識を持って対応した事がわかります。
さらに、アヘン貿易にかかわった商人は死刑に処するという通達もだします。こうした清の対応は、刑罰については問題があるものの、基本的には正当なものといえるでしょう。
イギリス側でもそうした認識もあり、本国の支持には困難もありました。そこでアヘン商人たちは、この出来事は「私有財産権の侵害」であると訴えます。また現地外交部は、イギリス人への中国の法の適用に強く反発しました。
治外法権が認められない事に反発したのです。

イギリス側がめざしたもの~貿易の拡大

こうしてボールはイギリスの側に投げ返されます。
イギリスにとって最大の問題は工業製品の輸出が進まない、中国市場への進出が思うに任せないことでした。産業革命の進展にともなって、急速に増加していく工業製品の輸出は至上命令でした。とくに世界一の人口をほこる中国市場への進出は、とくに綿製品の輸出はイギリス資本の夢でした。
しかし、こうした期待はなかなか実現しませんでした。

公行13行
浜島書店『世界史詳覧』P108

イギリス側は、その原因を
貿易港を広州一港しか認めず、しかも②公行という特許商人が貿易を独占するという中国側の外交政策に求めていました。③朝貢という東アジア的な枠組みの中で両国関係を処理しようとする伝統的な対応にも反発をもっていました。
イギリス人のアヘン商人たちは、国際法上も正当である中国側の取り締まりを、中国官憲がイギリス人を死刑という処罰でおどし、イギリス人の財産を没収・破棄したと本国に訴えました。清がイギリス人の生命・財産を侵害していると主張したのです。非合法な取引であるということはぼかしつつ。
アヘン戦争とは、イギリスが、中華思想に基づく清の態度を改めさせ、制限貿易を打破して自由貿易を強要し中国市場をイギリス資本に開放させるために、清によるアヘン貿易取り締まりを口実におこしたものでした。

「イギリスの永久の恥さらし」
~不正義の戦争とわかっていたイギリス

最後に、国際法に反したようなこうしたイギリスのやり方を本国はどのように考えていたかをみたいと思います。
アヘンの蔓延はイギリスの、ヨーロッパでの国内問題でもありました。コナンドイルは名探偵のシャーロック=ホームズをアヘン(モルヒネ)常用者として描き出し、ブロンテの『嵐が丘』の登場人物の中にはアヘン中毒者をおもわせるものがいます。このようにアヘンは世界各地に拡散されていきます。

アヘン靴の様子

こうした状態ですから、アヘン密輸を取り締まった清と戦争をすることには、強い異論が生まれます。
イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対してい」ました。とくに後の首相グラッドストンは「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」との反対論を展開しました。
しかし「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るべきとのアヘン商人や資本家に押される形で、わずか9票差で可決、開戦となりました。

アヘン戦争(1840~42)

とはいえイギリス政府もアヘン貿易を立派な事とは思っていないのも確かだったようで、アヘン戦争の結果、結ばれた南京条約および付属条約において、アヘン貿易については触れられていません
これ以降もアヘン貿易は密輸の形で、実際に新たに開港場となった上海を舞台に繰り広げられます。

アヘン貿易が公認されたのは、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中に結ばれた1858年の天津条約のことです
イギリスがアヘン戦争で本当にほしかったのは、貿易の拡大や香港島の割譲といった点にあったことはここから見えてくると思われます。
<おわり>

参照文献:

岡本隆司 『中国「反日」の源流』(ちくま学術文庫)
岡本隆司 『中国の形成 現代への展望』(岩波新書)
吉沢誠一郎『清朝と近代世界19世紀』(岩波新書)
「日本大百科全書(ニッポニカ)」(https://kotobank.jp/word/アヘン戦争-27018)

幕末の人物へのアンケート調査

幕末の人々にアンケート調査をとると…

はじめに

幕末の人々の行動は、非常にわかりにくい。
昔ながらの
尊王vs佐幕攘夷vs開国
となどという基準で分類したら、?マークがそこら中にでてくる。
研究レベルで、こんな基準で分類する人はいないと思うが、時代劇などではいまでもよく使われる。そしてさっきの「?」のために訳がわからなくなる。
この基準でいけば、明治維新の指導者たちは、攘夷の理念を裏切ったものばかりである。
最初から最後まで幕府の中心として活動した一橋慶喜や松平春嶽は開国と攘夷の双方を行き来しているし、長州の周布政之助は条約締結のために攘夷を行うといった一見理解不能な議論を展開する。

旧来のやり方では分類不可能な人たち

人間はそんな単純なものでない。さまざまな思いを持ちつつ、それぞれの価値観・倫理観にもとづいて行動する。

井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

具体的に、この時期に即して考えて見よう。
 尊王家井伊直弼
まず佐幕、開国派の代表とされる井伊直弼はどうか。
井伊は国学の素養があり、熱心な尊王家とされる。その井伊が朝廷関係者を次々と捕らえ、苦しめ、ときには命を奪う。
「攘夷」藩・長州
攘夷の拠点・長州藩では、外国公使館を焼き討ちの実行犯・井上馨(志道聞多)や伊藤博文(俊輔)が、その直後にイギリス船で留学にでる。列強の脅威を身をもって学んだ高杉は、日本を対外戦争に巻き込む行動をとる。
 一橋派と島津久光
尊王攘夷の総本山ともいえる徳川斉昭は外国の技術導入に熱心であった。尊攘派の代表選手である徳川斉昭・藤田東湖と蘭癖大名の島津斉彬や開国論者松平慶永・橋本左内が一橋派として同盟関係をくむ。
上記の図式では理解しがたいことだらけである。

尊王攘夷とは違う思惑で政局にかかわった人物も多い。島津久光は、尊王家であるより薩摩幕府を開きたいという野心があると、当時から思われていた。
 「二心殿」徳川慶喜
とくに理解困難なのがさきにみた「二心殿」として当時から呼ばれ、いまも非難され続ける徳川慶喜である。かれは尊王と佐幕の間で、開国と攘夷の間で、次々と態度をかえる。
もはや攘夷が不可能との意識が共有されかけた時期、慶喜は孝明天皇ののぞむ攘夷実現のため横浜の閉港を強硬に主張し、議論をぶちこわす。逆に、慶応3年には列強の代表を集め、洗練されたマナーで紅茶を振る舞う。
 実は一貫していた松平慶永
開国論者松平慶永は、政事総裁職についた文久2年、攘夷の方針をうちだし、文久3年春、京にやってくる。しかし攘夷が現実問題として日程に上ると難色をしめし引き籠もり、ついには幕命・朝命をふりきって帰国する。
しかし、攘夷・開国、尊王・佐幕といった議論をいったん下位の判断基準とみなし、公議政体論=オールジャパンの実現という基準を第一に考え、さらに「議論をすればみんなわかってくれるはず」という彼独自の楽観主義を組み合わせると、慶永の行動は一貫していたように見え始める。

人々は何を根拠に行動するのか?

人々は、自らの世界観・倫理観、本音とたてまえ、さらに深層心理などにさえ動かされて、一見すると極めて多様で矛盾とも見える行動をとる。
では幕末期、それぞれの人物の行動を律していた原理は何なのだろうか。
身分社会の中でのさまざまな立場、武士・豪農豪商としての身分的な使命感・信念であるかもしれないし、家名を上げたい立身出世という上昇志向もあるだろうし、怨恨かもしれない。憂国家・思想家としての矜持かもしれないし、組織を守るためという現在につながる悲しい習性かもしれない。家庭人としての生き方かもしれないし、ただただ面白さをもとめた愉快犯もいただろうし、サイコパスともいえる人物もいたであろう。
それぞれ各自、多様な価値観や倫理観の中、ときには矛盾した想念を持ちつつ、それぞれが重視する「理屈」、意識的・無意識的な感情にもとづいて、順位づけをし、ときには変化させつつ行動する
こうした人間個々の、判断の重層化の中で歴史は動いていった。ではこうした多様な判断の基準をどのようにして拾い出す事ができるのであろうか。

分析手法としてのアンケート調査

そこで考えて見たのがアンケート調査を行ったとすればどうなるのかというアイデアである。
当時生きていた人間にアンケート調査をしたと仮定し、さまざまな史料や行動経過からそれぞれの人物を多面的にとらえ、そのことを通じて、それぞれ大切と思った原理をさぐりつつ、その優先順位を考える事でその行動の合理性を考える事ができないかということである。

おもいつくままに作ったのが以下のアンケート項目である。
そしてさまざまな人物が、このアンケートに応えたとしたらどのような結果になるであろうかと「妄想」した。

専門的な研究が不足している筆者がこのような事をするのは力不足なのは明らかであり、丁寧に史料にあたって考えられておられる方からすれば、納得できない事も多いだろう。逆にそういった方が別の知見を打ち出す事も可能になるだろうし、さらにはアンケート項目で不十分な内容を付け加えてもらえればもっとおもしろくなるであろう。

こうして一見矛盾に満ちた人物の行動がそれなりの筋道をとって理解できるのではないかと考える。

昨夜、テレビを見ていて「他国に利権を供与してでも資金を獲得し、日本の近代化を図るべきである。」という選択肢を考えた。
今回挙げる人物でいえば、慶喜は賛成したし、提案した小栗忠順の先輩・水野忠徳もそうだろう。
逆に、孝明天皇をのぞき、明確に反対した人物は誰であろうと考える方が正しいアプローチかもしれない。自分たちのヘゲモニーを獲得するためには、このような事は下位レベルの判断基準とみなされたであろうから。
慶永は、あるいは高杉も、もっとうまい儲け方があるとの視点から批判をするかもしれないなどと妄想した。

歴史教育の教材として

また、私の昔の仕事でいえば、それぞれの生徒に一人ずつの人物を割り当てて「憑依」(=研究)させ、このアンケートを応えさせ、それをまとめ、発表させれば、歴史の多面性を考えさせる事ができるかもしれない。その際は、最後の記述欄は必須であるし、できればⅠ~Ⅵの大項目についても、その判断の基準についてのコメントをつけさせれば取り学習が深まるように考える。

※冒頭の写真は、一藩に高須四兄弟とよばれる尾張の支藩高須藩出身の四兄弟を撮影した写真です。明治14年のものです。
向かって右から 尾張徳川家14代当主慶勝、 尾張徳川家15代当主でのちに一橋徳川家10代当主となった茂栄(尾張藩主引退後、将軍家茂の補佐役もつとめた)、 会津松平家9代当主容保(京都守護職)、 桑名松平久松家4代当主定敬(京都所司代)です。いずれも幕末の日本の最重要人物で、戊辰戦争では敵味方に分かれたたかう事となりました。

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アンケートと「回答」例

以下、「アンケート用紙」と、私が「妄想」した数人方の「回答」を示しておく。(ただし、記述「回答」は松平春嶽のみ)

アンケート~幕末期、活躍されたみなさまへ

<アンケートのお願い>

幽冥界にて、静かにお休みの処申し訳ありません。 
 みなさまがそちらに赴かれ、長い方では170年、短い方でも100年もの日々が経ちました。 
 当時、みなさまが考え、行動された結果は、2020年代の日の本にもさまざまな影響を与えていると感じます。
 ところが、長い時間がたち、研究が進んだにもかかわらず、みなさまの思いを曲解したり、お聞かせするのもはばかられるような物言いをするものや、ひいきの引き倒しをするものなどがひきもきらず、まことにお恥ずかしい次第でございます。
 つきましては、みなさまの真意を少しでも後生のものにつたえるべく、アンケート調査を企画してみました
 みなさま方の真意を理解していると思う人間に「憑依」し、お答えいただければ幸いと存じます。
 ご協力お願いします。

                 お名前(              )
Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)(  )賛成
2)(  )立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)(  )立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)(  )反対

Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつつけてもかまいません。とくに重視したものがあれば、一つに限り◎をつけてください。絶対許せないというものに×をつけてください。
(A)攘夷実現のためには
1)(  )こちらから戦争に訴えるべきである
2)(  )強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)(  )できるかぎり戦争は避けるべきである
4)(  )なにがあっても戦争は避けるべきである。
(B)攘夷実現の方法
5)(  )条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)(  )いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)(  )いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)(  )現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
(C)攘夷実現の交渉の理念について
9)(  )攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)(  )攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。

Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつでもかまいません。できればもっとも重視するもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇の意志を尊重することが第一
2)(  )挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)(  )幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)(  )朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)(  )自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)(  )身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)(  )天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。

Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。でいればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。 

1)(  )すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)(  )朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)(  )幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など
 重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。

4)(  )国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が
政治や外交を
になうべき。

5)(  )これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)(  )幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。

Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。できればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)(  )幕府がすべてを決めれば問題はない
3)(  )幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)(  )天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)(  )中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)(  )天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)(  )幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。

Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。

 (   )開国・攘夷
 (   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
 (   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
 (   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
 (   )幕府の威信
 (   )諸列強に対しての日本としての威信
 (   )軍事・産業・技術の近代化
 (   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
 (   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
 (   )下級武士や草莽の志士の登用

Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

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回答を妄想する

数人の方の回答を妄想した。
あくまでも筆者の狭い範囲の知識での判断なので、ご了承いただきたい。

<回答例 1>松平春嶽(慶永)
松平慶永(春嶽) 幕末から明治初年にかけて、改革派としてつねに政局の中心にいた。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)   立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)△立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2)△強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4)△なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5)×条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)△いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)○いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)△現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) ×攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)○攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)○自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)◎幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)△中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍を招くべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用
Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

自分は、清国がアヘン戦争で敗れた事情から、欧米列強がいずれ我が国に開国を求めにくるだろうと思い、優秀な家臣橋本左内の助けも借り、清の轍を踏まないためには、挙国一致が第一だと考えた。
 私は、現実を虚心坦懐に学び、丁寧に説明し、心の底から真摯な話し合いを行えばわかり合えると愚かにも信じ続けている。したがって、条約勅許・開国こそが正しいということを、斉昭様のような攘夷論者にも、朝廷の方々も、かれらが心底から我が国の将来を考えておられる以上、今後日本が進むべき道を理解していただけると思っていた。
だから大切な事は話し合いの場というプラットホーム作りであると考えた。慶喜殿を将軍となっていただこうとかんがえたのもその一環である。
しかし、これまでの幕府のあり方を守ろうというある意味忠義第一の井伊直弼殿が大老になることで、左内は私の代わりに殺され、私も隠居と蟄居を余儀なくされた。

 文久年間になると、私は蟄居をとかれ、政事総裁職という重職についた。朝廷は和宮様降嫁の条件、攘夷決行を強く要求してきた。もとより私が攘夷に否定的なのはいうまでもない。しかし、本来楽天的な私は真摯な話し合いをすれば、朝廷の方々はわかっていただけると考えた。いったん攘夷決行を承認し、話し合いの場で開国にもっていけると考えた。その主張が通り、慶喜殿、私や山内容堂殿、有力諸大名、そして将軍家茂様までも京都に集結、話し合いを持つ事になった。
 しかし、京都にいった私はその誤りを知った。この地では、長州や土佐の支援を受けた狂犬のような尊攘派がテロを繰り返し、彼らと結ぶ公家たちが天皇の名をかたって勝手なことを繰り返した。彼らは、「勅命」といわれれば反論できない弱みを利用し、私たちに攘夷決行を強要した。私はなんとかそれを拒もうとしたが、尊王の思いの強い慶喜殿たちはそれを受け入れてしまった。さらに急進派の公家たちは本来幕府が委託されてきた軍事や諸藩への命令権まで奪おうとしてきた。いたたまれなくなった私はいったん京を離れ、福井に帰る事とした。
 それでも、私は諸侯同士、さらには天下の有志を加えた話し合いによって、日本のあるべき道を決めることができると工作を務めた。
しかし、薩摩など雄藩を疑い幕府中心の政治への回帰をめざす慶喜殿の態度などでうまくいかず、幕府中心の挙国一致にも協力的であった薩摩は次第に幕府打倒を考え始めるようになった。

 慶応3年の王政復古では、薩摩にしてやられたが、それでも尾張の慶勝殿や容堂殿と連携し、岩倉様も折れて、慶喜殿を議長とする形でおさまる寸前までいったのだが・・。慶喜殿は・・・。
 こうして心ならずも徳川宗家とそれを守ろうとする諸藩を賊軍としてたたかうこととなってしまった。そこでも私は話し合いによる政治運営を実現しようとした。その成果が我が藩士三岡八郎が草案をつくった「五か条の誓文」のなかの「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という一文であったのかもしれない。
 時代は話し合いによる決定などという悠長な事を認めてくれなかった。大久保や木戸といった連中は、岩倉様や三条様の力を借りて、天皇様の名のもとに、相談もなしに新しい政策を決定、実施していった。あるいは、その内容は私や左内がぼんやりと思い浮かべていたものであったのかもしれない。小楠はこうした政治に参加しようとしたが、命を奪われた。
すでに私のいる場所はなかった。
コメント:幕末政治の最初から明治政権の成立期まで、つねに政権の中枢付近にいた春嶽です。
その考えも「妄想」してみました。つねに、話し合い(「公議世論」)によって合意が得られるという非常に楽天家でしたが、その理想主義はさまざまな欲望と思惑、価値観の対立によって跳ね返されていったといえそうです。
民主主義を実現するための困難という現在的な問題が、春嶽の理想主義をはね飛ばしたというところかもしれません。
<回答例 2>孝明天皇
孝明天皇 ある意味、天皇としての責任感が強い人物であったともいえる。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1) 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対
3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)  ◎ 反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)◎天皇の意志を尊重することが第一
2○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)△朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要
5) 自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1) すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)◎幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)△これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)△天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(   )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:幕末の混乱の引き金を引く形になった孝明天皇。
 かれにとっては、「祖法=皇祖皇宗の道」に反しないか、さらに朝廷の権威を高めることが最大の関心事であったと考えました。こうした事情から摂関家や武家伝奏などによる朝廷統治への反発もあったでしょう。他方、そうして点が維持できれば、幕府への大政委任については、とくにこだわりがなかったという形で、回答を考えました。基本的に○は少なかったと考えて見ました。
<回答例 3>徳川(一橋)慶喜
徳川慶喜

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)○立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)○できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)△いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)△攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)○幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)◎朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8×)天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○ )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎1 )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(△  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(◎1 )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(×  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:当時から「二心殿」と賞されていた慶喜、春嶽と同様、ほぼすべての項目になんらかの記号が付きそうなのが、特徴的かもしれません。(ただ春嶽の場合は○が多かったのに、慶喜は×も多い)
たしかに、かれは悩めるリーダーだったのでしょう。少し考えただけも、彼の判断の根拠となったものは、「日本全体の責任者としての自負」「徳川宗家を守る事」「天皇崇拝」「尊王攘夷のカリスマであった父斉昭への孝心」「出身藩としての水戸藩への配慮」あるいは「安政の大獄という愚かな判断を下した井伊直弼への反発」「薩摩=島津久光主従をはじめとする混乱に乗じて影響力拡大をはかる雄藩への反発」などなど、こうした意識・無意識の判断基準がかれを「二心殿」にしたと考えました。そのなかで、かれがもっとも重視したのは「徳川」「天皇」「日本」「自己都合」のいずれだったのでしょうか。ここでは「天皇」を選択してみましたが。
<回答例 4>島津久光
島津久光

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)○ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)△できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6) いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)◎自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7) 天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5) これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)○幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(   )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(◎  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:雄藩・薩摩の最高実力者代表です。○も◎も少なく、「自藩ファースト」との人物として回答してみました。こうした久光の思惑や行動力、兄斉彬への対抗心や虚栄心、それを大久保や西郷らが利用した面が大きかったように思います。
<回答例 5>高杉晋作
高杉晋作

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)◎立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)◎こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)◎いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)△自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)○身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)○すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)○朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)△幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4) 国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)×これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)○中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(×  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(○  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:長州の尊王攘夷派の中心、高杉晋作です。挙国一致とそれによる列強に対する危機感と独立の確保をめざす急進的改革派という位置づけで回答してみました。そうした大きな戦略の下に、尊王攘夷・長州藩の軍国主義化といった戦術を位置づけてみました。しかし、同時に上士出身という面から、「藩」意識もときどき姿をみせた面も意識しています。
<回答例 5>水野忠徳
水野忠徳

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4)◎なにがあっても戦争は避けるべきである
<B>攘夷実現の方法
5)条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)◎現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)◎攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)△挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)△幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)◎天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)×朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)◎幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)×天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)◎幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)×天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(◎  )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(×  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:多くの人には知られていない水野忠徳。対外実務を担ってきた官僚たちの黒幕ともいえる人物であす。こうした官僚の代表として取り上げた。俗吏とみなされがちな幕府官僚であるが、近年、反攘夷派ナショナリストの側面が強調されてきた。国際的な信義こそ国益とする立場に立ち、朝廷や雄藩との協調によって対外危機をよびこむことに強く危機感を持つ、朝廷や一橋慶喜ら在京幕僚・公議政体派への批判勢力としての回答とした。
挙国一致のためには薩長を軍事的に屈服させるという別の選択肢もあった

 

祝、70万アクセス

いつも本サイトをご覧いただきありがとうございます。
おかげさまで、2021年1月28日をもって、総アクセス数が70万に達しました。(訪問者、のべ31万5500人)
本当にありがとうございます。
100万アクセスという夢のような数字も、視野に入ってきたと驚きつつ、喜んでいます。

さて、これまでで、固定ページで198本、投稿で66本の文章をアップさせていただきました。
ときどき、これまで書いたものを読み返し、気がつくごとに内容に手を入れ、不適切な部分をさしかえるなど、気をつかっているつもりではありますが、不行き届きが多いことと思います。お許しください。
いくつかの文章は、取り下げた方がよいのかも知れませんが、一本、一本、それにかかわった思い出、喫茶店・公園・電車など文章を書いていた場所や風景、B大学など各大学図書館で文献をあさっていたときのこと、多くの先生から教えていただいたことなどなど、それぞれの文章にまつわる思いもあって、なかなか思い切れないところがあります。

新年のご挨拶でも書きましたように、昨年の後半は縁あって手伝わせていただいた社会人講座の準備に注力してきたため、本サイトでのアップが少なくなってしまいました。お詫びします。
しかし、蓄積もできましたので、現状で私が理解できた部分を、すこしずつ文章化していきたいと思っています。ご期待いただければと思います。
先ず手始めに「米騒動と大正デモクラシー」(全4本)をアップさせていただきました。ご覧いただければ、光栄です。

なお、ほんとうは、みなさまのご意見をうかがいながら、よりよいものをめざしたいのですが、昨今のネットをめぐる事情から、一方的な発信に左右していることを、お許しいただきたいと思います。

日本近現代史の授業中継 店主

2021年、新年のごあいさつ

  あけまして
  おめでとう
  ございます

旧年中は、多くの方のご訪問をたまわり、ほんとうにありがとうございました。

本サイト、「日本近現代史の授業中継」は2016年4月の開始以来、四年目をむかえております。
 2020年は、9月以降、内容を一部をのぞき全く更新しなかったにもかかわらず、年間で21万7000アクセス(のべ10万7200人)ものかたに閲覧していただきました。
 また開始以来のアクセス数は682791アクセス(のべ30万6600人)です。一年目のアクセスが5176(のべ1885人)であったことから考えると、驚くべき数字です。歴史用語をネットで検索したら、このサイトが「いの一番」に出て、うれしいやら、これでいいのかと戸惑ったりもしました。
とはいえ、少しはみなさまのお役に立っているのではないかと、うれしくもあります。
 ほんとうにありがとうございました。

一昨年は元号の切り替えということで大騒動していました。
元号の変更というものは、歴史の区切りという意味では何の意味もないことながら、明治から大正へは第一次護憲運動=大正政変、大正から昭和では金融恐慌、昭和から平成はバブルの崩壊、と改元の直後、不思議と大きな出来事がシンクロしてきました。ひょっとしたら今回も・・、と思っていたら、コロナでした。「こうくるか…」という思いです。これまでの出来事は、その歴史的意味が分かりやすかったのに比べ、今回は、その意味が現状では見えてきにくいという違いがありそうです。
アメリカではコロナの死者が大戦での死者を超えるなど、世界中で大きな影響を与えており、その世界史的意味を問う必要がありそうです。

コロナは、現在の民主主義にとってもっとも大切にすべき「人と人との結びつき」にくさびを打ち込んできました。人間が人間である上でもっとも重要な「社会」を危機におとしいれる危険性を持っています。これにたいし、この危機の中で人間同士の結びつきをいかに確保・発展させていくかということが問われているように思います。
コロナは否応なく、人と人の結びつきを変化、バージョンアップを余儀なくしました。それは、困った問題だけとはいえないのかも知れません。
今年、私は、今までは敷居が高くて、開催場所が遠方であるため、参加できなかったいくつかの取り組みや学会に参加しました。ZOOM開催となったからです。参加者のナマの声を聞けないもどかしさはあるものの、私のような外野(というかスタンドの観客)にとって、敷居が高くて躊躇してきた場所にも踏み込める機会が与えられ、非常に感動しました。そしてそれまでの距離感を一挙に縮めることができました。本年の歴研大会は近年まれに見る「参加」だったと聞いています。これまでのあり方は当然維持するとしても、ネットでも参加できるルートを是非、維持していただきたいと思っています。

研究でいえば、近年、インターネット上から、史料や論文にアクセスすることが可能になりました。コロナは、ネット環境を利用した学びや研究を否応なく進めた一年でした。(他方、感染予防の観点から大学図書館の一般利用が不可能になった大学がでてきたことは、私のような人間にとっても大きな打撃でした)。
私は、昨年から新聞の紙ベースでの購読をほぼすべて中止したのですが、逆にネット上の低価格のサービスを申し込むことで、より広く全国の記事に、過去の記事も含めてアクセスできるようになりました。(紙ベースの新聞を取らない弊害も強く感じていますが)。
YouTubeではこれまでなかなかアクセスできなかった多くの情報が玉石混淆のまま、ときには素材のまま流されます。
私たちは、コロナ禍にむきあいなかで、新たな「学び」のあり方、社会のあり方、民主主義のあり方、「新しい公共」が問われる時代になってきたのかもしれません。そして、本年はそのことがより問われる一年になるかと思っています。

さて、先にも書いたとおり、本サイトの記事は8月以来、事実上ストップ状態です。それは、本年度になって本格的に開始した社会人講座に、講師のひとりとして招いていただいたことにあります。その準備に忙殺されているためです。
しかももう少し余裕ある予定だったのが、コロナのため9月始まりとなり、予定が「密」状態になったためです。メインの「授業」のなかの、日清・日露戦争の部分などは、その内容を反映した書き直しましたが、多くの部分には手をつけられていません。
一区切りついた段階で、講座の内容も文章化し、さらには「授業」部分についても更新していきたいと考えています。それでご容赦ください。
なお、講座の内容については、「近現代史を考える講座」のなかの、学習会の記録という場所にレジュメとプレゼンテーション資料を保管しておりますので、見ていただければと思います。

新年早々、だらだらと書いてしまいました。
本年も、みなさまがたのお役に立つ内容を提供できるよう努力してまいりたいとおもいます。

是非、お誘い合わせの上(?)、当サイトへご訪問してくださることをお待ち申し上げております。

最後に、みなさまがたの健康とご多幸を祈念いたしまして、新年の挨拶とさせていただきます。

本年もよろしくおねがいします。

2021年1月1日
          「日本近現代史の授業中継」店主

ありがとうございます。60万アクセスに

ありがとうございます。
本日、2020年8月15日で、私どものホームページ
「日本近現代史の授業中継」のアクセス数のトータルが
60万件を突破しました。
みなさんのご協力のおかげと感謝します。
よりよい内容といたしますので、
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

「もやもや感」が・・映画「東京裁判」を観て

「もやもや感」が…映画「東京裁判」を観て

4時間半を超える映画「東京裁判(リンクへ)」を観ました。それについてFacebookに感想を書き込みました。
まずは、映画のあらすじです。

******
<映画のあらすじ 公式HPより>
1945年日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を国民に伝えた。戦後の日本を統治する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、戦争犯罪人の裁判を早急に開始するよう望み、1946年1月22日に極東国際軍事裁判所条例を発布した。通称“東京裁判”である。
満州事変に始まり、日中戦争の本格化や太平洋戦争に及ぶ17年8カ月の間、日本を支配した指導者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機ら28名が訴追された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく。
同年5月3日より東京裁判は開廷。まずは「平和に対する罪」など55項目に及ぶ罪状が読み挙げられるが、被告は全員無罪を主張した。検察側は日本軍の非道の数々を告発。弁護側は「戦争は国家の行為であり、個人責任は問えない」と異議申し立てするが、「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」と、裁判所はこれを却下した。1948年11月12日、病死した被告などをのぞく25名のうち東條ら7名に絞首刑、他18名は終身禁固刑もしくは有期刑が宣告が下された。
*****

そしてFacebookに書いたものが以下のような内容です。
かなり補足しており、元のものからはかなり変わっています。(とくに裁判の積極的側面の部分)

東條や広田などの肉声を聞くことができただけでも、面白かった。
とはいえ、「もやもや」感がのこる。

歴史屋の立場からすると、ここをもっと詰めてほしいし、
この解釈は違うやろ、といったところも多い。
なんでもかんでもナレーションでという手法も気になる。
史実の扱い方に、作られた時代(1983年公開)の限界も感じる。

しかし、「もやもや感」は映画の問題ではない
それ以上に、この裁判自体がもつ性格のせいだ。

キーナン検事は「天皇免責」のために裁判自体をねじ曲げ、
ウエッブ裁判長は、強引な裁判運営を行う。
原爆投下や本土空襲といったアメリカの戦争犯罪は問われず、
(このため、日本軍による重慶爆撃は免罪となる)
勝者による敗者への報復が表面化してくる。
(仕方ないことではあるが)
被告席の席の制限から、ソ連側の容疑者ごり押しのせいで、阿部信行ら二名が第一次訴追から免れ、結果として岸信介らは被告としての出廷は免れる。

法律上・国際法上の問題点を利用して、日本の戦犯たちは保身を図る。
犯罪事実の認否を問われ、全員が「無罪」を主張するシーンには不快感を感じたが、二者択一を問うような裁判のすすめかたについても問題もある。
たとえ良心的な被告がいたとしても、連合軍がもっていたであろう「ナチス流の共同謀議」との妄想にも似た検察側の冒頭陳述について聞かれるのだから。
当時は「田中上奏文(メモランダム)」なる偽書の存在を連合軍は信じており、それをもとに「ナチス流の共同謀議」という怪しげな議論を組み立てたといわれる。
これが偽書なしいことが明らかになるとそれにかわる「共同謀議」にかかわるものとして扱われたのが広田弘毅内閣の「国策の基準」である。陸軍と海軍の利害調整のなかでうまれたこの文書が「田中上奏文」にかわるものとみなされたふしがある。広田が処刑されたのはこの文書にかかわった面があったとも考えられる。

そして有罪か無罪か二者択一でいえといわれるのだから。
「どう答えたらいいね!」

本当はこう聞てほしかった。
「(あのハチャメチャな)冒頭陳述は置いといて、あなたたちはこの戦争に対して、本当には無罪だと思っているのですか」「罪はなかったのですか」と。

考えれば、「ナチス流の共同謀議」で日本の戦争責任を問うという図式自体にボタンの掛け違いがあったのかも知れない。分かりやすい図式は真実の追究から離れていく。ナチスはともかく、日本に対しこの切り口で戦争責任を問うたことで、被告たちは「自分は無罪」といいやすくなったことは確かだ。

裁判では、多くの事実が明らかになっていく。
このことの意味は大きい。
戦後を生きてきた我々にとっての常識は、当時は非常識であったことを我々は肝に銘じる必要がある。
張作霖は中国人に殺されたのであり、柳条湖事件も張学良側の起こした挑発行動であった。「東洋平和」のために戦う皇軍を中国の人たちは感謝している。悪いのはこの日本の好意をみとめない蒋介石やソ連の手先どもだ。ミッドウェーでの戦いも勝利し、ガダルカナルもある程度成功したから撤退したのだ。(とはいえ、それならなぜ戦線が日本に近づいてくるのかという当然の疑問はあったのだろうが、口には出せない)。こんな中で、庶民は生きてきたのだ。
軍部や政府のいうこと、新聞に書いてあることは、たとえ胡散臭いと思っていたとしても口に出せない。異論を加えれば、特高警察や憲兵につかまり、拷問をうけ、下手をすれば死体で返されてくる。そうでなくとも、地域の人から「主義者」などといって、自分だけでなく、家族や知人も嫌がらせをされる。ときには子どもたちすらも信用できない。人びとはこうした社会に生きていたのだ。だからこそ、敗戦と同時に人びとは、真実を知りたがったのだ。ときにはなけなしの食料とも引き換えに。
こうした中で、一応の証拠をそろえて、日本及び日本軍の悪行を暴露した東京裁判は、人びとの目を覚ます大きな力にもなった。東京裁判がもっていた成果は多い。
多くの日本人は、自分たちが騙されていたことを知り、
日本軍が行った悪行の数々を知った。
この重要さは、強調しても強調しすぎることはない。

裁判では戦前日本の病巣が十分追及されないまま、欧米風の組織のあり方を日本に当てはめるやり方、個人責任を追求する議論が中心となり、明治憲法体制下の日本の病巣に手をつけられなかった。
ニュルンベルグ国際法廷流のやり方はナチスには有効であったが、日本向きではなかった。戦犯指名されなかった石原莞爾向きではあったが、戦犯指定された大部分の被告向きではなかった。実際に指名された戦犯たちの多くは、小さな権力を振りかざす卑劣な軍人であり、小役人でしかなかった。被告席に並んだ凡庸な戦犯たちが日本に悲劇をもたらしたことの意味を、裁判官や検察官はどれだけ理解できたのだろうか。

さらに、マッカーサーそしてアメリカ政府の意を受けたキーナン検事は、当然審理されなければならないはずの天皇の戦争犯罪・戦争責任に話を及ぶことを全力で阻止し、ついには東条にまで偽証を強要した。
こうして裁判は、本来の戦争犯罪、戦争責任の追及からどんどんと離れていった。
その間、外の世界で冷戦の過程が深化すると、外の世界とくにアメリカはやる気を失い、裁判の早期決着を図る。そして7人を絞首台に送ると、そそくさと裁判の幕を引く。
ちなみに、唯一文官として処刑された広田弘毅を総理大臣に推薦し引き出したのが、彼を処刑したときの総理大臣吉田茂であったことは、事態の意味を考える上で示唆的である。

他方で、第一陣のはずだった戦犯全員が有罪ならば、当然有罪であると推測しうる第二陣で裁かれるはずの戦犯たちは、裁判に掛けられることもなく釈放される。彼らは、自分たちを裁くはずだった勢力に取り入って、その支持の下に政界に復帰する。そして開戦の勅書に副署した戦犯岸信介が総理大臣に上り詰める。

東京裁判における「もやもや感」は、戦後の日本の「もやもや感」につながっていく。

とはいえ、東京裁判はやはり重大なトピックだったことは明らかである。
だからこそ、右派の勢力はこれ以後も、裁判の形式上の問題をあげつらって、裁判の事実自体、戦争の責任自体を否定しようとする。パル判事の意見書をねじ曲げて賞賛し、裁判への不信を煽る。

残念なことに、私たちの先輩たちは、そして戦後に生まれた私たちも、
日本人の手で、二度と同じことを繰り返さないという立場からの、本来の意味の「東京裁判」をしなかった、できなかった。
その「屈辱」を心に留めなければならないのではないか、
そう思った。

以上のような趣旨をFacebookにのせた。
ある友人から
「戦勝国の勝手な裁判という人もいるが戦争責任を認めたがらない人の勝手の言い分。裏取引もあるだろう、このような大きなことに完璧はあり得ない。一定の歴史的意義はあった思っているのですが。」
とのコメントをいただきました。
このコメントの意見もうけいれながら、少し書き直したのが上の文章です。
そしてこのコメントに対しての私のコメントが以下のものです。

意義はたしかにあるのです。とても大きい。
しかし天皇の免罪という大きなテーマ、さらに連合国側の戦争犯罪の免責、とりあえず何人かを殺して方をつけるというやり方、最終的には勝者が敗者を裁くというところからくる限界がありました。
それに乗じて、戦争を起こした連中が、戦争責任をあいまいにし、さらに「正義の戦争」とさえいいつのる隙を与えました。
その結果、自分で戦争責任に向き合おうとしなかった以後の日本、反省しない日本という戦後の日本の問題が生み出したのでしょう。
そこに「もやもや感」の正体があったのかもしれません。そして、裁判で裁いた側(責任をあいまいにしようとした人でもあるのですが)と裁かれた側が手を握り、本気で戦争責任を追及する人たちを妨害したというのが戦後の姿だったのでしょう。
映画で感じた「もやもや感」の正体は戦後日本のあり方の「もやもや感」なのかなと思ったりします。

「領土問題」をめぐって

「領土問題」をめぐって

第9回目の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。(20,7,9)
前回までの「通史」がおわり、残り二回はテーマ史ということで、今回は「周辺国との領土問題」という内容です。
双方のマスメディアが「自国の論理のみを紹介している」中で、領有権をめぐる双方をいい分を確かめながら検討する内容でした。とくに以下の三点をめぐって話をすすめられました。
①「固有領土」という説明は歴史的に通用するのか、
②「尖閣諸島や竹島の存在を知っていた」ことが領有の根拠となるのか
③中国・韓国の強い反発の背景は何か、対立と妥協の歴史

いずれも納得できる内容でした。

とくに日韓国交正常化交渉の中で、「竹島の存在は、両国の国交回復の障害になるから爆破(!)してしまえ」という都市伝説のような話が、あったとかなかったとかいう話は笑えました。しかし、領土とは何かを示唆に富んでいるようにも思えました。
「爆破して、さっぱりした」と考えれば、解決策もでてくるのかもしれませんね。
今回の意見・感想のコーナーには、おおよそ以下のような内容(かなり加筆・訂正をしましたが)を書いておきました。
****************************

ありがとうございました。
「領土」問題という生活人にとってどうでもよい問題なのに、各「国」・「国」民が角突き合している、この問題を考える上での貴重な示唆を与えていただいたことに感謝します。
 以下、本日の話を聞いて考えたことをやや理屈っぽく書かせていただきます。

前近代の東アジアは、朝貢=冊封体制にもとづくアナログな国際関係にもとづいて動いてきました。
これにたいし、19世紀になって、欧米諸国が主権国家体制(「万国公法」体制)をもちこんできます。そこでは、国境でへだてられた平等な国家が対峙しているというデジタルな原則に立っています。しかし、「平等な国家」というのは、欧米先進国にのみ通用する規定で、かれらが「文明」と認めない住民は、「国家を維持する資格」がない「無主地」とみなし、早い者勝ちで手に入れることができるという「無主地先占」の原則をもちこんできました。無人島などにたいしてはいうまでもありません。
ちなみに東アジアの諸国(「琉球王国」も含めて)は、文明国に準じる「半文明」とみなされました。そしてこの国際秩序をいちはやく導入したのが、東アジアでは異端の地位にいた日本でした。
*なお、両者を自分に都合よく利用したのが戦前の日本軍国主義であり、現在、自国の覇権主義の正当化に利用しているのが現在の中国であるようにおもわれます。

朝貢=冊封という原理にたっていた前近代の東アジア世界は、圧倒的な高度な文明を誇る中国の皇帝の「徳」をしたって周辺の君主が朝貢品を持って服属を申し出、中華帝国の皇帝が彼らを臣下としての「地位」と「暦」をあたえ保護することで、外交や内政の自由がみとめられるという、君主間、拡大解釈しても「民族」間の関係でした。
侵入と排除という関係が続いた中華世界の西半分とは異なり、おもに海で隔てられた東半分では、とくにこうした関係が強かったと思われます。
1873年、牡丹社事件(「台湾出兵」)にさいし、日本側の照会に対し、清が先住民を「化外の民」と表現したことは、朝貢を求めていない以上当然の説明でした。
この原理は東アジア諸地域でも一般的であり、支配の基本は貢納などを負担する民衆を把握するという属人主義であり、それと結びついた形での土地支配でした。人間が住んでおらず、収益をもたらすことも考えられない無人島などは支配という範疇の外の存在でした。

尖閣諸島

琉球と清との進貢船・冊封使が尖閣諸島を経由し、ときには停泊していたことは沖縄県立博物館の展示などを見ても明らかですが、当時の人びとにとって、無人島であるこの島がどちらの国のものなのか、などということは問題になりません。服属すべき人間がいないのですから。
さらに中国=清の理屈からすれば、この地球=宇宙全体が皇帝の支配下にあり、さらに琉球自体が属国なので、この無人島が中国本体のものか、琉球王国に管理を委託しているかなどは、議論の必要のないことです。しいていえば、公共の財産とでもいうべき存在だったのでしょう。
このように東アジアにおいて、無人島が「固有の領土」であるという考えは出てくるはずがなかったのです。にもかかわらず、「昔から自国領であった」と強弁することは、主権国家体制を原則とする国際秩序を前提とする「固有の領土」が存在したかのような論理は、現在の国際法を過去に反映させる暴挙です。
にもかかわらず、「固有の領土」を主張すれば、鎧の下から「無主地先占」という弱肉強食の議論が顔を出してきます。

竹島(韓国の表記では独島)

とはいえ、欧米列強の立場にたっても、19世紀段階では無人島の領有権ということはそれほど問題にならなかったのかも知れません。
19世紀、諸国が植民地化や開国を求めたのは、市場として有望な農業地帯であったり、軍事的な重要地点でした。無人島は無用の存在でした。アフリカの熱帯雨林や中近東の砂漠と同様に。
しかし20世紀が近づき、国際関係が緊張してくるとまず軍事的ニーズが高まります。植民地獲得競争が過熱し、さらには再分割をめざす動きも始まりました。列強同士の紛争も発生、軍事拠点がもとめられます。第二次産業革命は天然資源を必要とします。
たとえ無人島であっても、領海(現在は経済水域も)を拡大するという意味をもってきます。
そして、東アジアで、いち早く「万国公法体制」を採用した日本が尖閣諸島(1895年)や竹島(1905年)の領有を打ち出してきました。
尖閣諸島については1885年段階で開拓許可願いが出されていますが、日清間で両先島諸島を清の領土(新たな「琉球王国」の復活)という形での妥協が図られる中、黙殺されていました。

「領土」問題が、純粋に領土問題として存在したことはあまりありません。つねに政治とのかかわりでもちだされました。
たとえば北方領土問題は、鳩山一郎が進める「自主独立」=日ソ共同宣言路線、それが日ソ平和条約と歯舞・色丹返還という方向にすすむことを妨害するために、アメリカ=自民党吉田派が実現困難な四島一括返還を強硬に主張、米軍も返還される二島への基地配備をちらつかせることで、日ソ間の「雪解け」に水を差しました。

2012年、日本の尖閣諸島国有化に反対する中国のデモ隊

領土問題はつねに政治問題に利用され、ナショナリズムを利用して政権への求心力を図るためにも利用されてきました。
韓国では、大統領の人気が下がり求心力が失われてくると「独島」問題を持ち出すというのはよく指摘されことです。
2012年、民主党政権の尖閣諸島国有化にたいする中国での猛烈な抗議行動は中国政府に対する民衆の不満を日本に向けさせる目的があったともいわれています。

はっきりいえば、誰も住んでいない無人島の帰属などどうでもいい問題です。
ところがそれがナショナリズムを利用した勢力によって排外主義的に利用されること、領海・経済水域とそこにおける利権がからみ合っている以上、なんらかの形の解決が必要です。
日韓国交正常化交渉に際して、「竹島など爆破してなくしてしまえ!」という暴論があったという都市伝説もありますが、こうした国境問題というトゲが、不要な対立を引き起こしていることもたしかです。

こうした問題を解決するには、基本的には、国家が国境というもの区切られるという主権国家的な国際秩序を無力化させることが大切です。象徴的にいえば、国家の一部であることによって国家間のトゲとなっている存在を「爆破し、なくす」ことです。具体的にはこうした島を国家の枠組みからできる限り自由にすることでしょう。
EUでの経験は国境のカベを低くすることで長い間殺し合ってきた国々との間で友好的・平和的な国際秩序を構築することができることを示しました。ガルトゥングが主張するように、国境問題を平和的に解決しようという努力のなかに、あらたな平和的国際秩序構築という展望がみえてくるかもしれません。

追記:竹島(独島)爆破を発言したのは金鍾泌や朴正煕といわれてきましたが、最初に発言したのは日本側であるとの指摘もあります。
“http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/kai/news/news-13suppl.pdf“

「罪なきもの、まず石を投げうて」

先に歴史を道徳に貶めてはならない!という文章をかきました。そして、次のように記しました。

現在、世界で過剰に「道徳」を歴史に持ち込む動きが広がっているように思います。
歴史上の人物について、人種差別主義者であったという面のみから捉えて彼らを全否定する動きです。コロンブスが、リー将軍が、チャーチルが、批判の対象として描き出されます。
ある人物を銅像にするということ自体が歴史を「道徳」として見ており問題があるのですが、逆に自分たちの視点だけから批判し、撤去をもとめることも気になります。
こうした動きを受け、映画「風と共に去りぬ」の配信が配信会社からいったんとめられました。しかし十分に注意を喚起した上で再配信するとのことです。こうした冷静な対応が必要だとおもいます。

もともとは韓国における反「親日派」キャンペーンへも疑問を呈する文章の中で、触れた内容です。こうしたキャンペーンとヨーロッパで起こっている銅像倒しがオーバーラップして仕方なかったのです。

「右派」として批判されそうですね。

個別の人種差別の「戦犯」探しをしながら銅像を倒しているひとたち、かれらには是非とも先住民を虐殺して建国したアメリカの「罪」、アメリカの「原罪」も問いかけてほしいとおもいます。
奴隷貿易を利用し、インドを犠牲にして産業革命を達成したイギリス資本主義の「原罪」をも問うてほしいと思います。

そして、それをもとに現在をどう考えべきなのか、歴史とどう向き合うべきと考えているのか、是非聞きたいと思います。

そうした視点は、アイヌモシリを奪った和人にも、アテルイを捕らえ、処刑したヤマトへの目ともオーバーラップしてきますね。

そうした歴史への「羞恥」をお互いにもたねばならないと思っています。

そもそも銅像なんてもの自体、人物に対する一方的な評価を押し付けるウザい存在なんだから、ぶっつぶせ!という態度、
これも嫌いではないけど、
「じゃ、立派な人っているの?」と、問い返したい気持ちが先にきてしまいます。
「立派な人の言ったことはすべて正しいの?」とも問いかけたくもなります。
かつて、朝日新聞が「空海の文章の中に差別的な表現がある」って、問題視したことを思い出しました。

「とにかく、歴史を、現在の価値観だけで一方的に非難するのは気に入らん」のです。
あかんたれの自己弁護なのかもしれません・・・。

先の文章は以下のようにまとめました。

私自身、歴史叙述において、善悪という道徳を語ることはときには必要だし、重要なことではあります。しかし「悪」として終わってしまえば、歴史叙述としては正しくないと思います。
歴史叙述には、悪や非道の中にも、客観的には歴史をすすめたことも認められるような、ある種のニヒリストの目が必要なように思っています。

ここに書いたニヒリズムを少しフォローしたいと思います。

私は、歴史を評価するとき、「汝らの中、罪なき者、まず石をなげうて」という聖書の言葉をつねに思います。

この言葉の前に来る部分は以下のようなものでした。

学者たちが、不倫の現場で捕らえられた女性をイエスのもとに連れてきて、イエスに一つの問いを投 げかけます。「こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはど うお考えになりますか。」と。

これに対するイエスの答えがこの言葉でした。

私たちの中に、私たちの歴史に、「罪なきものはいるのでしょうか」。

「石を打つ」ことによって、さらなる罪を得るのではないでしょうか

人類は歴史の中で犯して愚行や許しがたい行為、それを繰り返してきました。

昨日見ていたテレビでは、かつてヨーロッパで多くの黒猫が大量に虐殺された話を紹介していました。魔女裁判の一環でした。

歴史を学ぶものは、こうした「闇」そして「罪」を暗い目でジッと凝視しながら、その中にも輝くものを見つけだそうとする。そして、今生きているものが、再び愚行を繰り返したり、さらなる「悪」に陥ることに警告を発する。そうしたものが歴史の使命であるような気がするようになってきました。

わたしには「不幸な女性に対し石を投げつける」勇気はありません。

「石を投げつける」人に、「それでいいの?」とは、声をあげたいのです。

本編の「日露戦争への道(1)」を書き直しました。

「日露戦争」にかかわる4編を新版に変更します。(2020/06/21)

 

このたび、「授業中継」の日露戦争にかかわる四編をとりあえず、書き直すことにしました。本日(20/6/21)から、順次発表することとします。

日露戦争への道(1)へのリンクはここから。

この4編は、このサイトを開く以前の2015年12月、現役最後の冬休みに入ると同時に書き出したもので、ちょうど数週間前に行った授業をそのまま再現しようというつもりで書いたものです。新たに文献などにあたることもなく、授業でのノートや実際のやりとりをやや誇張しつつ書きました。
しかし、四年余の時間が経ち、大学で多くの講義を受け、文献にも当たる中で、不十分と思う部分も多く、妥当とは思えない記載もみられました。
司馬遼太郎の『坂の上の雲』に引っ張られていると苦笑する部分もありました。

一応、授業中継の全体がほぼ完成すると、やはりこの部分は書き直さねばと思っていました。しかし、他の興味などから着手できない状態が続きました。
そのようななか、このたび、縁あって協力させていただく「講座」で、「日露戦争」を扱う機会を得ることになり、この機会に全面的な書き換えをしたいと考えた次第です。

日露戦争研究は、ソ連の崩壊に伴いロシア側の史料が大量に公開されたこともあって、急速に研究が進んできた分野です。(申し訳ないことにこうした動向を授業に反映できていませんでした)和田春樹氏の研究(「日露戦争~起源と発生」)など新しい内容をできるだけ組み入れたつもりです。そのせいで、強い反発を受けるかも知れない内容ともなりましたが・・。

「朝鮮問題と日清戦争」についても、同様の機会をいただきました。「授業中継」本編の内容も、不十分という思いを強くもっていましたが、元の骨格を残し、大幅な書き直しですでに対応させていただきました。
なお、そのかわりといってはなんですが、研究ノート的な「朝鮮近代史」にかかわる文章を準備させていただいております。
「朝鮮近代史を考える」についての続編は・・ですが。

とりあえず日露戦争にかかわる4編について、準備でき次第、新稿と差し替えさせていただきます。さらに、日露戦争中の朝鮮にかかわる分は「朝鮮併合」のところで記述する予定ですので、これも早急に書き直さねばとおもっています。

ただ、研究の紹介と個々のエピソードを多く組み入れたため、本来の「授業中継」とはかけ離れたものとなっているのではとのご批判もあると思います。ただ授業、とくにアクティブラーニングなどでは、教師側の手持ちをできるだけ準備しておく必要があるとおもうので、こうした形になりました。そろその名称変更も必要かなとも考えています。

とはいえ、現場色満載で、思い入れの強い、しかし問題点だらけの「若気の至りの文章(といっても六〇歳の時に書いたものですが)も残しておきますので、あわせてご覧ください。

歴史を「道徳」に貶めてはならない

歴史を「道徳」に貶めてはならない

本日(20,6,18)の「東北アジア史」のオンライン授業が終了した。
本日の内容は皇民化政策、連合国による戦後構想など。
そのなかで、対日協力者の扱いの問題が触れられていた。
次の時間のテーマにつながるのかとおもいつつ、この点を意見質問欄に書き込んだ。今回はその内容に手を入れたものをアップした。

台湾人すべてが「対日協力者」とみなされた?

ありがとうございました。
「対日協力者の扱い」という点、考えれば考えるほどいろいろな課題がありそうですね。

林献堂 台湾の民族運動家・資産家。台湾の自治議会設立請願運動などをすすめていた。1945年4月貴族院議員となる。

台湾で、中華民国政府は対日協力者を処罰せず、逆に自治議会運動にかかわり最終的には貴族院議員として日本に協力した林献堂と、蒋介石が笑顔で握手しているのですから。林は対日協力者として意識されているのでしょうか、ある研究者は民族運動家という面だけで林を評価し、貴族院議員・対日協力者という点には触れられませんでしたが)

しかし、話を聞きながら逆のことを考えました。
国民党というか、外省人は台湾の人間すべてをトータルに「対日協力者」「敵」として扱っていたのではないかと。
中華民国の台湾獲得とは、敵(「日本」)から自領をとりもどすとともに、その対日協力者(「台湾人」)をトータルに統治から排除したようにも見えます。政治・行政機構はもちろん、国公営企業の経営からも排除し、「味方」である外省人が独占する。「差別」は容易です。外省人(大陸系中国人)と内省人(旧日本籍中国人)という確実に分離されたカテゴリーがあったからです。理由付けとして、中国語(北京語)の習熟度などを名目にしました。台湾人は北京語をしゃべれない「二等中国人」であり、もっといえば「敵性中国人」として扱われました。個々人の「対日協力者」は罪を問わない代わりに台湾人すべてが「対日協力者」とされたのでは、と思いました。

誰が「対日協力者」なのか?誰が決めるのか?

これにたいし、韓国の場合はどうでしょうか。
台湾のように全体を「対日協力者」としてトータルに捉えることは不可能です。そんなことをすれば、国外ないし獄中で抵抗をつづけている一部の運動家を除き、すべてがこのカテゴリーに含まれてしまうからです。

蔚山の市場の風景 https://11958787.at.webry.info/upload/detail/123260429466716215814.jpg.html

戦争中、多かれ少なかれすべての日本人が「戦争協力者」であったように、半島内で普通に生きていたほぼすべての朝鮮人(「朝鮮系「日本」人」)が、何らかの意味で「対日協力者」にならざるをえなかったからです。
税金を払い、法令を遵守し、子弟を学校に通わせ、警察などの命令にとりあえず従う。総督府の命令に耐えきれず、日本人風の名を名乗る・・・。

韓国では、個人のなかに対日協力者=「親日派」を捉えることになります。何らかの基準を設けて。
日本に協力して朝鮮人に被害を与えた、総督府の統治に能動的な協力をおこなった、軍や総督府と結んで不当な利益を得たなどなど。
しかし、現実に当てはめれば、ありとあらゆるグレーゾーンがでてくるでしょう。
帝国議会への参政権を求める運動は朝鮮を日本の一部であるという前提に立っています、この運動は「親日」なのでしょうか。植民地議会を求める運動も日本統治を前提としています。韓国が独立するための力量を得るために総督府の役人となった人物は役人になってからも朝鮮に工場を誘致することが利益になると考え努力したと主張します。ある歴史家は「親日」と一刀両断にしましたが、その判断でいいのでしょうか。自分が戦死することで韓国人の地位が向上されると心底からおもって特攻隊に志願した青年は「親日」なのでしょうか。

 問題は、だれが、どのような権限で、こうした判断をするのかということです。そしてともすれば自分は無謬であると自称する人によって、判断がなされがちなのです。

植民地支配が作り出した「闇」と、「特効薬」

朴正熙(1917~79)師範学校卒業後、日本陸軍士官学校卒業。満州に配属される。一時南労党(共産党)に入党。61年クーデターで権力掌握、63~79年大統領として独裁政権を樹立、79年、暗殺される。

台湾では台湾人(内省人)は多くの公的な仕事からトータルに排除されましたが、韓国ではこれまで日本人が行ってきた業務のほぼすべてを自分たちで運営する必要がありました。
その際、実際には総督府や日系企業のエリート韓国人=「対日協力者」に頼らざるを得ませんでした。
軍隊や警察も同様です。かつて取り締まる側にいた人間が取り締まられる側にいた人間が机をならべる事態もうまれました。かつての「親日派」が「親日派」を取り締まる法律を策定する、逮捕するといった事例もありました。
こうして多くの人が、濃淡の違いはあれ「闇」を抱えたまま戦後を生きることになりました。
「闇」を抱えた人が他の人の「闇」を告発する、こうした苦悩のなか韓国は歩き出しました。親日派の分別と、逮捕と処罰はそれほど簡単ではありませんでした。ときに「親日」派への糺弾と処罰は政治的思惑と結びつきました。

こうした「闇」を見えなくために、朴正熙政権が強調した「特効薬」が、新たな敵「アカ」でした。
共産主義の侵略と戦うということを表に建てることで、「親日」という過去は第二義的にできたのです。朴自身が「親日派」であるとともに「共産主義者」でもあったのですが。

絶対的「正義」と萎縮する人たち

共和国(「北朝鮮」)は少し事情が違うかも知れません。印象とすれば、台湾に似た面がありそうです。
絶対的な「正義」を背負った抗日運動の闘士が外から入ってきて、解放者であるソ連の力も借りて、日本と戦わないまま「解放」のときを迎えた積極的・消極的な「親日派」を統治する形です。

この構図は、戦後の日本における「戦争協力」「転向」という問題とも似ているようにおもいます。
戦争直後の日本で「抗日英雄」の位置にいたのは、「獄中非転向」の共産党員たちでした。積極的・消極的に戦争に協力した、させられた幾多の人びとにとって、戦争中も戦争反対を唱え説を曲げなかったかれらは輝ける存在でした。それが共産党の無謬神話を生み出しました。
しかし戦時下の抵抗で得られた賞讃と、かれらが「正義」を独占することとは別問題です。あるいは転向し、あるいは戦争に協力したこと自体、行為や弱さを批判されることはあっても、人格を全否定されたり、かつての行動をもとに、その後の行為自体を否定することは違うと思います。誠実な人に限って、こうした落とし穴に落ちたように思えます。

歴史を道徳に貶めてはならない

歴史を善悪二元論で判断することは極めて危険であり、それまでの行動が正しかったからといって、それを権威として正当化することは誤りです。
その愚は現在の共和国(「北朝鮮」)指導者の例を見れば明らかだと思います。
21世紀に入り、韓国の盧武鉉政権が「親日派」の摘発をすすめました。たしかに歴史の「闇」を掘り出すうえでは有効でしたが、そこにその人間が「善」か「悪」かという二元論的な判断が入りこむことによって、歴史を「道徳」に貶めてしまったように思います。
豊饒な歴史事象、善悪でくくりきれない人間の存在、善・悪が一体化してすすむ「近代」をこうした「道徳」で描きだすことは、干からびた歴史像しか提供できないでしょう。
かつて小田実が「巻き込まれながら、巻き返す」重要さを説いていました。歴史においては、こうした視点が必須だと思います。
歴史を儒教的、二元論的な「道徳」に貶めてはいけないと思います。

現在、世界で過剰に「道徳」を歴史に持ち込む動きが広がっているように思います。

リー将軍(1807~70)像 南北戦争における南部連合の軍司令官。アメリカ史上屈指の名将とされる。

歴史上の人物について、人種差別主義者であったという面のみから捉えて全否定する動きです。コロンブスが、リー将軍が、チャーチルが、批判の対象として描き出されます。
ある人物を銅像にするということ自体が歴史を「道徳」として見ており問題があるのですが、逆に自分たちの視点だけから批判し、撤去をもとめることも気になります。
こうした動きを受け、映画「風と共に去りぬ」の配信が配信会社からいったんとめられました。しかし十分に注意を喚起した上で再配信するとのことです。こうした冷静な対応が必要だとおもいます。

歴史叙述において、善悪という道徳を語ることはときには必要だし、重要なことではあります。しかし「悪」として終わってしまえば、歴史叙述としては正しくないと思います。
歴史叙述には、悪や非道の中にも、客観的には歴史をすすめたことも認められるような、ある種のニヒリストの目が必要なように思っています。

例によって、たいそうな物言いになってしまい申し訳ありません。
次回は戦後ですね、期待しています。