憲法体制の整備と初期議会(1889~1894) 憲法と帝国議会(3)

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憲法と帝国議会(3)初期議会の攻防と憲法体制確立

Contents

Ⅴ、憲法体制の整備

(1)教育勅語の制定

明治憲法体制のなかで、憲法以上に重要な意味を持ったといわれるのが教育勅語です。
憲法制定作業が山を越えた1890(明治23)年2月に開催された地方長官会議で知事や県令たちは、学校を通じて民権派や西洋思想の影響が浸透することに対し、日本固有の倫理に基づいた教育・徳育の基本方針を設けるべきとの要望を政府に提出しました。これに、かねてから「欧米模倣の偏知教育を矯め、仁義忠孝を本とする固有の皇道教育の振興」を要望していた明治天皇の意思もあり、軍人勅諭を制定した経験を持つ山県のもと、教育勅語の編纂がすすめられました。

井上毅と教育勅語

井上毅(1844~1895)熊本出身 大久保利通に登用されて頭角をあらわした。,伊藤博文のもとで,大日本帝国憲法,皇室典範,教育勅語などを起草。

「勅語」の執筆をしたのは、憲法制定の中心でもあった井上毅です。当初、井上は教育勅語制定に消極的でした。しかし、それが発表され、論争となったり、特定の勢力に利用されたり、あるいは憲法の理念と抵触すべきでない主張したところ、山県に求められ執筆に当たったのです。
井上は、ながく明治天皇の侍講をつとめてきた元田永孚ながざね意見という体裁で明治天皇の意向もとりいれ、山県や文相の芳川ら政府関係者とも連携しながら、配慮の行き届いた簡潔な美文で文章を完成させました。
教育勅語の伝達
~「生身の天皇のおことば」として

井上は発表のやり方にも配慮しました。現在もよく用いられる天皇の「お言葉」の形としたのです。天皇が所感を述べ、文部大臣が受け「天皇のおことば」として伝えたのです。
結果として大臣の副署のない「天皇のおことば」が学校、社会に伝えられます。このやり方は別の意味をもちました。「生身の天皇のことば」とみえる形となってしまったのです。こうして教育勅語(実際はそれを記した謄本)は天皇の「思い」や「声」として、肖像画写真「御真影」が天皇の「姿」として、学校の御神体として祀られることになりました。

教育勅語の内容
教育勅語の内容を見ていきます。
そこでは、親孝行にはじまる儒教的な徳目が、学問を発展させて知識を身につける・公共の利益を広める・国法を守るなどの近代的市民的徳目とともに示され、こうした徳目は神武天皇にはじまる長い歴史の中で忠孝という美風を臣民と共に作り上げてきた日本独自の〈国体〉に淵源がある美風とします。徳目のなかには、「国家が危険な事態に直面したならば一身を捧げて天皇の治世を助けなければならない」との一節が紛れ込みます。
そしてこうした徳目を守る生き方こそ、臣民としての日本人の生き方であり、先祖の遺風を顕彰することであるとし、最後にこうした生き方を自分(天皇自身)とともに一緒にいっしょに体得していこうと呼びかけたものです。
天皇や国家が国民に一定の道徳を押し付けようとしたことは、人間の思想信条についての自由にかかわり、近代国家のあり方から問題の多いものといわざるをえません。井上はこの点を懸念し、配慮はしましたが、かれの懸念は現実化しました。
天皇制国家の支柱としての教育勅語
学校においては儀式での奉読が義務づけられ、さらに修身・国語・歴史・唱歌などさまざまな教科・目でも教育勅語の精神が徹底され、内容を批判したり、論評することは許されない「絶対の真理」とされていきます。
とくに1891年第一高等中学校の教員であったキリスト教徒である内村鑑三の「教育勅語」にたいする拝礼が不十分であったという批判が表面化し、内村が地位を奪われる事件(内村鑑三不敬事件)も発生、「勅語」の物神化は決定的となりました。

その後、校長の読み間違えは進退問題ともなりかねず、「勅語」を火災から守ろうとして焼死したり、焼失の責任を取って自殺した校長が美談となります。
1912年には神道・仏教・キリスト教三教の指導者が教育勅語にもとづく「国民道徳の振興のために」「その教義を発揮し皇運を扶翼す」という声明をだすに至ります。
こうして教育勅語は宗教を超え、国民の精神を大きく規定する存在とされ、「国家神道」の「聖書」ともいえる役割を担うことになりました。

(2)ボアソナードと諸法典の整備

条約改正と諸法典の整備
「自国民を「野蛮」「未開」の国の法律で裁かせるわけにはいかない」との西洋諸国の理屈が不平等条約の「治外法権」の存在理由でした。そうである以上、条約改正を実現させるためには、近代的諸法典の整備は必須でした。憲法制定もこの一環でした。
しかし、近代的な法体系の整備は「慣習」や「しきたり」といった従来の不文法の世界を「法典」という成文法の世界に翻訳することであり、そのあいだで生まれる矛盾への対処や「世界の常識」とのすり合わせが必要となり、そこに当時の日本社会との軋轢が生じます。そもそも民事と刑事という法領域さえ未分離であり、社会的身分・主従・親子といった身分関係で刑罰の軽重の決定される世界に法の下の平等という国際基準(実際には西洋基準)の法体系を導入せねばならなかったのです。
維新当初、新政府の裁判は、古代の律や中国(明・清)の律で行うこととされ1868年には仮刑律、1871年には新律綱領が提供・実施されました。当然のことながら次々と問題が発生し、さらに身体刑の存在・拷問による自白強要などの問題性が指摘され、西洋法制の受容が必須の課題となっていきました。

ボアソナード~「日本近代法の父」
「西洋」を学んで帰国した留学生や、自ら教鞭を執って育てた学生を率いて西洋法の受容をすすめたのが、1873年に来日したフランス人ボアソナードでした。ボアソナードは教師として多くの学生を育てると共に、法律顧問として多くの法典の起草にかかわりました。

ボアソナード(1825~1910)1873年来日、不平等条項の撤廃のため、日本の国内法の整備に大きな貢献を果たし、「日本近代法の父」と呼ばれている。

ボアソナードがまず取り組んだのが刑法と治罪法(刑事訴訟法)です。ボアソナードに限らず御雇外国人たちの多くは誠実でした。西洋のやり方を一方的に翻訳・おしつけるのではなく、日本固有の諸条件を尊重、勘案すべきだと考えるものが多かったのです。ボアソナードもそうした一人で、刑法では「仮刑律」に含まれていた天皇・皇室に対する罪なども導入しました。
実際の作業は、日本人委員と具体的な論点ごとに対話折衝を行い、ボアソナードがフランス刑法を基本としつつ日本の伝統観念も尊重した原案を作り、さらに係の日本人と協議・翻訳、元老院などで更なる修正をしました。
こうして刑法・治罪法は1880年に公布されました。
なお治罪法は、憲法制定と裁判所機構の整備に伴い、1893年刑事訴訟法としてさらに整備されます。刑法は西洋型刑法への反発や運用上の問題から、早くから改正を求める動きがあり、1907年に改正案が可決され、現行の刑法につながっていきます。

(3)民法典論争とナショナリズムの高まり

民法典の整備
民法や商法などの制定はさらに困難を極めました。ボアソナードは、帰国を延期し司法省とともに共に民法の制定作業をすすめます。なお商法はドイツ人のロエスレルが中心となりました。
ボアソナードは日本の法や慣習にも配慮し、とくに問題となりそうな部分は日本人に任せました。ボアソナードが起草した分は、早く成立しており、それだけを先行させる案もあったのですが、全体として交付すべきだとして、全体の完成をまって、審議することにしました。
のちに問題視された家族法関係は日本人委員によって起草されたもので、当初は長男の家督相続を認めつつも、次三男以下の財産相続や妻の権利能力を認めるなど進歩的内容でしたが、その後、司法省などで大幅な修正が加えられ、長子単独相続制が定められるなど、「家」制度を強化する内容に変えられ、提示されました。
民法典論争~フランス法とイギリス法・ドイツ法
この間に、日本では重大な変化がありました。憲法が制定され、それに基づいて議会が開催されたのです。民法は法律である以上、議会の承認が必要となったのです。
そしてこの段階で強力な反対が、学界から起こりました。いわゆる「民法典論争」です。問題はこうした民法整備の中心となったのがフランス人であり、フランス法を模倣したものであることであり、そこから、この民法はキリスト教的家族を定めた個人主義的なもので、我が国の淳風美俗を無視するとの批判へと広がって行きました。
たしかにナポレオン法典を基礎とするフランス法は「個人と個人」という関係を基礎理念としており、違和感をもたれたことは事実でしょう。だからこそボアソナードは綿密な調査と十分な議論を実施、問題のおこりそうな内容は日本側委員にまかせ、起草したのでした。
実際の論争の背景には、学閥争いも大きかったといわれます。法典整備が開始された当時はフランス法優勢であった日本の法学界ですが、しだいに国際的影響力のあるイギリス法や、憲法制定とかかわりで影響力をのばした伝統重視のドイツ法などが帝国大学を中心に主流を占めるようになっており、帝国大学卒業生が法曹界や官界の主流となり、フランス法は傍流となりつつありました。
ナショナリズムの高まりと法典整備
ロエスレルが中心として編纂された商法でも、不満はありつつも早期の実施を求めた大阪の経済界と、それまでの商習慣を変えることに消極的な東京との対立もあって、やはり論議を巻き起こし、施行延期、さらには再編纂となっていました。
背景には、明治20年代になって急速に強まってきたナショナリズムの高まり、それまでの欧化主義への反発からくる教育勅語につながる日本の伝統やあり方の再評価、保守主義.・国粋主義の高まりがありました。そうしたなかで、外国人が法典整備の中心であること自体への反発が生まれていたのです。

「民法出デテ忠孝亡ブ」~民法典の延期に

穂積八束(1860-1912) 明治時代の法学者(憲法学)。帝国大学教授となり憲法学を担当。君権絶対主義にたち,民法典論争では実施延期派の中心となる。

こうして民法さらに商法といった法典の整備は学界内の対立や世間の風潮にまきこまれていきます。とくに民法における対立は、東京帝国大学の穂積八束が『民法出デテ忠孝亡ブ』という挑発的な題名の論文を著し、ナショナリズムをあおるような形で民法典を攻撃したことにより、法曹界にとどまらない大論争となりました。こうして、民法も商法も、政府との対立姿勢を強める議会内の争いにも巻き込まれるかたちとなり、第三議会において否決され、大幅な書き換えを余儀なくされました。
ちなみに穂積は実際の民法典を読まずに、この扇動的な論文を記したと指摘されています。
「明治民法」について
新たに制定された民法(明治民法)はあくまでも旧民法を修正するという立場から作業が進められます。以下、有地亨『新版家族法概論』に学びながら、その内容を見ていくことにします。
「財産権については所有権の絶対、契約の自由、私的自由の三つの近代社会の民法原理を柱にし、資本主義社会の財産取引を法的に保障するものであった」ものの、家族法に関しては「『家』制度、戸主、戸主権、戸主による単独一括の家督相続を骨子とする男女不平等、個人の自由・独立に制約を加えた、いわば前近代的な親族法・相続法
でした。
同時に、こうした『家』制度は「天皇を中心とする絶対主義的な政治体制の基底において、それらの体制を支える家族法秩序を形成する役割を担っていたこと、農業国家である戦前の日本の農業経営において適合していたため、「当時の資本制社会において相応の役割」を果たしたとされます。
さらに、ここで定められた『家』制度は、戸主が絶対的権力を握って家族を支配・服従させるような強力なものではなかったものの「儒教倫理を教化する教育制度によって補強され、伝統的な淳風美俗論や封建的家族主義と結合されて、天皇制イデオロギーを温存させる制度として機能」しました。(P4~8)

改正された「明治民法」は伊藤博文を総裁とする法典調査会で審議されたのち、1896年および1898年に公布、1898年から施行されます。
こうした経過は、国民的な議論がなされたともいえますが、実態として近代的個人・人権を出発点とする進歩的な法体系が、前近代的な「家」観念や男尊女卑の伝統に基礎を置いた前近代的な法体系に押しとどめられ、先の教育勅語などとあいまって、天皇制イデオロギーの基盤をつくった過程ともいえます
また女性の権利を妨げ、明治の女性の権利は法的に見れば日本史上最も低くしたと指摘されることにもなりました。

(4)大津事件と司法権の独立

法律は一旦成立すると、自己運動を開始します。とくに法律の法律ともいえる憲法の制定によってさまざまなものが自己運動をはじめました。

大津事件 1891年,滋賀県大津市で来日中のロシア皇太子ニコライが警備にあたっていた巡査斬りつけられた事件。(イラストは大津市歴史博物館twitterより)

司法権は憲法に先立って確立されていきます。1875年の「立憲体制樹立の詔勅」をうけて、太政官右院にかわって、最高裁判所にあたる大審院がおかれ、それが帝国憲法によって再定義され、天皇の名の下に裁判をおこなうことになります。
立憲体制下の司法権の真価が問われたのが、1891年の大津事件の裁判でした。
大津事件とは滋賀県大津町において、来日中のロシア皇太子を警備中の巡査が斬りつけた事件です。ロシアの報復を恐れた政府は、伊藤らを先頭に、大逆罪を適用し犯人を死刑とするようせまりますが、大審院長児島惟謙はこれを拒否、犯人を無期徒刑としました。このことは、逆に政府の干渉にかかわらず、憲法に示された司法権独立を守られたとして日本が法治国家であることを証明したとされます。政府が司法権を支配することが困難となったことをしめす出来事でした。逆に児島が下級裁判所の判断に介入したという別の問題も指摘されていますが。

Ⅵ、初期議会の攻防

(1)超然主義

黒田清隆(1840-1900)明治時代の政治家。大久保死後の薩摩閥のリーダー。開拓使官有物払い下げ問題で世論の攻撃をうけた。第二代首相

憲法発布時の総理大臣は薩摩出身の黒田清隆でした。黒田は憲法発布の翌日、鹿鳴館において「政府は常に一定の方向を取り、超然として政党の外に立ち、至公至正の道に居らざる可らず」と演説、一般に、この演説は、黒田が政党を無視して藩閥政治の維持をめざしたものとして「超然主義」とよばれます。
しかし黒田内閣は、立憲改進党の総理であった大隈を外相として留任させ、次いで国会開設に向けて政府寄りの政党結成をはかっている井上馨も、翌年には大同団結運動のリーダーであった後藤象二郎も入閣させ、板垣にも入閣交渉をすすめるなど、個々の政党に偏ることなく多くの政党をとりこむ挙国一致内閣という意味合いがあり、政党は無視するという意味でもなかったようです。
同様に伊藤も超然主義をめざすとの発言をしますが、早期の政党内閣実現は党利党略に偏る恐れがあるといった内容で、政党内閣を完全に否定したものではなかったともいわれます。
とはいえ、藩閥勢力の側は、これまで冷や飯を食わされ、さらに弾圧され続けてきた政党を甘く見ており、ほぼ今までどおりのやり方で凌ぐことができるとたかをくくっていたことは明らかでしょう。

(2)第一回衆議院議員選挙

第一回帝国議会は1891(明治23)年11月29日開会と決まり、準備が本格化します。6月の華族による互選を皮切りに、7月1日はじめての衆議院議員選挙が実施されます。
選挙権が与えられたのは、直接国税を15円以上納入する25歳以上の男子とされ、総計約45万人、全人口比1.14%でした。当時の税法のため中規模以上の地主が大部分を占め、都市で選挙権を得た人はわずかというように国民代表というにはさみしい限りでした。かつての支配階級である士族の大部分も選挙権を与えられませんでした。政府は、高額の税金を納めるわずかな人だけを「公議」に参加しうる「国民」とみなしたのです
選挙権の偏りから、議員一人あたりの票の重さは東京の613票にたいし、富山は2300票であり、都市の選挙人に有利でした。しかしそれは選挙権の与え方の問題で、各議員が代表する地域の人口と大きく異なっていることも見ておく必要があるでしょう。

なお、被選挙権は選挙権と同じ納税資格が必要で、年齢はさらにあがって30歳以上の男子となっていました。

第一回目の衆議院選挙の様子。

初めての選挙であり、さらに選挙権を得たことは名誉なことと考えられたため、このときの投票率93.9%となりました。
なお、これ以後、この投票率をこえることはありませんでした。
大部分は小選挙区制をとっていたため、当選が困難な人は選挙に出ようとしなくなり、さらに現職優先になることなどから興味を失うことが増え、投票率も下がっていったと考えられます。一般に小選挙区制は投票者の興味を削ぐ傾向が強く、投票率もさがるがちです。

選挙の結果は、興味深いものでした。
300人の当選者のうち、士族が1/3強の109人、2/3弱(64%)が府県会議員を経験した名望家、1/3弱(98人)が実業関係者であり、自由民権運動にかかわってきた政党関係者(「民党」)が過半数を占めました。(立憲自由党に参加することになる議員が130人、立憲改進党が41人)他に独立派と位置づけられる議員が74名、国権派が41名であり、吏党とよばれる政府系の議員は振るいませんでした。
第一回選挙では、地方政界の有力者が選ばれる傾向が強く政党色がそれほど鮮明でなかった県も多かったのです。

(3)貴族院

「国民」代表の「下院」(衆議院)と対抗させるため、衆議院とほぼ同等の権限をあたえられたの二院制議会の片割れである上院が貴族院でした。

憲法体制樹立に際して、皇室の藩屏として新たな貴族=華族を創出、整備したことはすでに見たとおりです。
貴族院議員は華族を中心に選ばれます。成年以上の男子皇族ならび公爵・侯爵の華族は全員が、伯爵・子爵・男爵は互選で、それぞれ貴族院(上院)に議席を与えられました。互選の議員には歳費が支払われます。歳費などを求めて出馬する華族も現れ、有力者や政党との結びつきも強まり、しだいに選挙運動も活発化します。
そのほかには天皇(実際には内閣)が任命する終身の勅撰議員、各府県の高額納税者の互選による議員、後には帝国学士院の代表も選ばれました。戦後の日本国憲法制定時などはかなり質の高い議論なども展開されます。
貴族院はつねに政府寄りの判断が期待されており、初期議会では衆議院で可決された法案なども貴族院で否決されることがあいつぎ、政府の防波堤となりました。しかし、日清戦争後になると、かつての元老院のメンバーを中心に強く軍拡反対を訴える議員も現れるなど独自の動きを見せますが、勅撰議員として有力官僚・OBが選出され、互選の華族議員たちも組織化されると、政党政治に否定的な山県派の拠点となり、政治革新とくに政党政治をおしとどめる中心となりました。

(4)第一回帝国議会開催~民党の攻勢と妥協

民党と政府の激突~予算をめぐる対立
帝国議会がはじまると、政府は超然主義では通用しないことを悟ります。
民党は、高額の地租が国民とくに民党の支持者である農民を苦しめている、行政改革をすすめることで行政費を削減し、国民生活の休養をすすめるべき(「民力休養・政費節減」)とを強く迫り、政府予算の大幅削減の方向を求めていきました。
これにたいし、政府は行政費は行政大権に属し、議会が関与することは許されないと拒否しますが、民党からすればそれ以外の部分での削減は可能で総額で削減すればよいので、議論は更に混迷します。
こうして予算審議は紛糾、予算不成立の気配が濃厚となり、前年度予算を準用するとの憲法規定が現実化しました。
こうした激しい対立の背景には、これまで通りの藩閥中心の強権的な政治を維持しようとする政府と、これまでの一方的な政治を改め「国民」(その代表としての衆議院)の声にもっとを傾けた政治、最終的には政党政治=議院内閣制をも展望した政治を実現させようという政党との対立があったのです。
予算の成立は「議会の協賛」を必要とすると憲法で定めた段階で、今まで通りの政府運営ではつづかないとわかっていたはずなのに、これまでどおりの強権的なやり方で通用させようとしたこと自体、無理がありました。
こうした事態が生じることは、実は憲法制定の議論のころからわかっており、激論がくりかえされましたが、伊藤=井上毅ラインの「議会に予算審議権を認めないのは立憲制に値しない」との正論により、ドイツ人法学者らの強い意見を採用しなかった経緯もありました。井上が提案=採用されたのが、もし予算案が議会を通過しなかった場合は、前年度予算を執行するという条文と、官吏の給料など天皇の大権事項に議会は関与できないという条文でした。しかし、これが防波堤とならないことは、すぐ思い知らされます。

自由党右派の変節~妥協の背景
第一議会の衆議院では、大幅な予算削減案を委員会で通過させ、本会議の採決をまつだけとなります。政府はこれを拒否するのは明らかで、憲法に従って前年度予算執行とするか(前年度はこれを見越して大型予算としていました)、衆議院を解散するか、という事態となりました。
ところが、事態は急変、政府と衆議院との間で妥協が成立したのです。その原因となったのが、民党の中心ともいうべき自由党右派(土佐派)でした。かれらが、予算採決前に、政府の調整をもとめるという案に賛成、採択されました。政府はこれをうけ、大幅に行政費を圧縮する予算に変更したため、予算は衆議院を通過しました。じっくり検討したかった貴族院も、残り会期が少なかったため、しぶしぶ短期間の討議での採決に応じ通過させたため、予算案が成立しました。
土佐派の豹変に、多くの議員は怒り、自由党左派の中江兆民は国会は「無血虫の陳列場」であると批判、「アルコール中毒」を理由に議員を辞職してしまいました。
では、土佐派がなぜ妥協に回ったのか、従来は「コラプション(賄賂)」による裏切りと言われてきました。しかし板垣ら長年国会開催を要求してきた人々は、予算不成立・議会解散という事態を避けたいという思いがあったとの説が強くなっています。「やはり有色人種・アジア人には立憲政治を担う能力がなかったのだ」との欧米人の嘲笑をうけることを嫌ったというのですの指摘もあります。ご祝儀相場だったというのです。
ともあれ、第一回議会は大混乱のなかではありましたが、無事予算を通過させました。

議会=政党の力と限界
こうして民党は政府提出予算を組み替えさせることで、結果として「政費節減」を実現させました。しかし「民力休養」=「地租軽減」には法律改正が必要あり、それは貴族院という壁があるため実現できませんでした。こうして政党からすれば、「政費節減」はできても「民力休養」はできず、選挙民に目に見える成果を伝えることはできませんでした。
他方、政府は政党の協力なしには議会をのりきることができないことを骨身にしみて感じました
とりあえず、両者は痛み分けに終わり、歳入はそのままで歳出だけが削減されました。この結果、大量の余剰金が生じ、第二議会にもちこされました。

(5)「大選挙干渉」と自由党の変化

松方「軽量級」内閣

第一議会後、第一次山県内閣は総辞職、第一次松方内閣が成立します。これまでの総理大臣と比較すると二流の感が強い松方が藩閥の論理で首班となります。伊藤・黒田・山県という藩閥の有力者は閣外に去り、西郷や大山も早い時期に閣外に去ったため、軽量級の内閣という印象は否めませんでした。
実際、内閣発足直後に発生した大津事件で、外相をさしおいて対応したのは伊藤でした。こうして松方内閣は「二流内閣」とよばれたり、閣外の元老にあやつられる「黒幕内閣」などと揶揄されました。

大選挙干渉
こうした内閣ですが議会には強硬姿勢で臨みます。「民力休養・政費節減」要求は無視し、「民力養成」に配慮するとして先の剰余金を組み込んだ大型予算を提出したのです。しかし「民力養成」は口先ばかりで、実際は軍需工場建設の軍拡予算であったため民党は強く反発、衆議院は予算の大幅削減を決議しました。
今回はご祝儀相場とはいかず両者は正面から対立、内閣は衆議院を解散、総選挙へ打って出ました。争点が明確となったため、政党が表面にでる選挙となりました。

大選挙干渉  自由民権運動の中心高知県ではとくに激しい対立が続いた
東京書籍「日本史A」p77

選挙に勝つため内閣は徹底した選挙干渉を行います。「予戒令」という犯罪事実なしでも拘束できる命令を準備、内務省は傘下の地方行政や警察を動員し、政府系議員の当選・民党議員の落選をはかります。候補者・運動員の逮捕、刀などをもちだしての乱闘なども発生、死者25人をふくむ大量の負傷者がでました。こうした費用の一部が宮廷費からでていたことが明らかとなっており、明治天皇自身も関与していたと考えられています。
こうした干渉にもかかわらず、政府系は16議席増(79⇒95)にとどまり、民党は過半数割れを起こしたものの善戦(自由党94・改進党37)、友好的な勢力もあわせ議員の多数を制しました

第三議会と藩閥内部の暗闘
第三議会(1892)には包帯姿や松葉杖をついた民党の議員がつぎつぎと登院、選挙干渉への糾弾があいつぎ、選挙干渉に対する決議案も成立ムードで議事が進みました。とはいえ、議席減の影響もあり、予算案は大幅削減となりつつ成立します。
他方、伊藤ら藩閥内部から選挙干渉への批判も強く、品川弥二郎内相は辞任、県令や内務省関係者の多くも更迭されました。これに、内務省や地方官らは強く反発、西郷従道と品川弥二郎は松方内閣支持議員を糾合し国民協会を設立させました。
政府内外で「黒幕」や官僚・議員を巻き込んだ暗闘が激化しました。
他方、民党はも政府を追い詰めるものの地租軽減という成果は得られず余剰金だけが積み上がる状態となっています。
双方とも手詰まり状態でした

(6)産業革命の開始と自由党

1890年代、日本経済は松方デフレによる不況を克服、好況へと転じつつありました。米価の上昇は納税義務をもつ地主や自作農に有利に働き、地租の負担感は下がりはじめます。

実教出版「高校日本史A」P34

他方、鉄道建設がすすみ、綿紡績などを中心に産業革命もはじまるなか、資金の投入先を求める声もうまれ、産業界が商業会議所などを通じて要望をだす場面も増えてきました。
こうした事態が民党とくに自由党に大きな影響をあたえはじめていました。
地主たちの関心は「民力休養」=地租軽減から「民力養成」に移りつつあり、成長しつつある都市ブルジョワジーへの支持拡大も重要な課題でした。
こうして自由党の目標は、展望の見えない「民力休養(地租軽減)」から「国民の生活、国民の教育、外交、国防」の充実、地方開発予算増額といった積極財政の実現へと移りつつあり、変更の機会をうかがうようになってました。
この間、自由党は党則を改正し、これまでの壮士中心の民権政社を議員中心の政党となっていました。有産者中心の議員政党という性格を強めていたのです。
自由党には「民力休養」の旗を下ろすきっかけが必要でした。

(7)「元老」の成立~第二次伊藤内閣発足

1892年7月、第一次松方政権が崩壊しました。
議会運営の難しさが明らかになるにつれ、「黒幕」の間で次期首相の押し付け合いも激化していました。天皇は次期首相候補と目される井上馨・西郷従道・大山巌を「元勲待遇」とするとの詔書を発し、出馬を促します。しかしそれでも決まらず「結局は伊藤しかない」という声がたかまります。

元老(左上から)黒田清隆・西園寺公望・松方正義(中段)井上馨・伊藤博文・山県有朋(下段)桂太郎・西郷従道・大山巌 (なお桂については含まない考えもある)

そこで伊藤は考えます。自分が首相になっても、軍部や保守的官僚に影響力をもつ山県、伊藤に反発している薩摩閥の支持が必要である。そこで伊藤は天皇から「元勲待遇」という詔書をもらった有力者たちを集めた「黒幕会議(伊藤の言葉です)を開きました。その場で首相となる条件として「黒幕」たち全員の入閣をもとめたのです。その結果、ほぼすべての「元勲」が入閣する第二次伊藤内閣が誕生しました。藩閥勢力が団結して当たらなければ、政党側の攻勢に対処できなかったのです。
なおこの会議に集まった「黒幕」たちは、以後「元老」と呼ばれ、この会議は元老会議というもっともらしい名で呼ばれます。そしてこの会議がこれ以降、首相を推薦するようになるのです。

(8)「和協詔書」~藩閥と政党の野合

ところが、強力なはずの内閣は出足で転び!ます。国会開催直前に伊藤が馬車から転び落ち大けがをし、静養を余儀なくされたのです。
井上馨が首相代理をつとめますが、力量不足から民党の攻勢を抑えきれず、民党は新規軍艦建造の全額削除、間接税増額の拒否、さらに内閣退陣を要求する上奏案を可決するなど大攻勢に出たため、政府は議会を一時停会するしかありませんでした。

星亨(1850~1901)政治家。江戸生まれ。自由党に入党。衆議院議長。立憲政友会の結成に参加、第四次伊藤内閣の逓相。汚職事件にかかわり暗殺される。

こうしたなか、伊藤が復帰してきます。伊藤はここで明治天皇の力を借ります。天皇は、国会決議に従って衆議院議長の星亨ほしとおる(自由党のボスです)上奏を受け、議会と内閣に妥協を求める詔勅(「和協の詔書」)をだしたのです。
政府に官吏俸給の還納と行政改革による「政費節減」を命じ、宮廷費から一部支出す条件付きで議会に軍艦建造費の復活を求めたのです。
民党は名目上拒否されつづけてきた「政費節減」が正式に実現したことを評価し、軍艦建造費の支出を承認します。こうして最悪の事態は避けられました。
「和協の詔書」は、伊藤が自由党のねらいを察知し打ち出したものでした。政治史家の坂野潤治はこの詔書は「伊藤内閣と自由党の妥協のための儀式」であったといいます。
これをきっかけに、自由党と第二次伊藤内閣は急速に接近、事実上の提携関係となります
こうした伊藤内閣は自由党と連携することで議会での多数を獲得します。そして日清戦争後の改造では自由党総裁の板垣を内相として迎え入れます
藩閥政治と政党の協同が開始されました。こうした動きを自由党で先導したのが星亨でした。

(9)条約改正問題と日清開戦

議会構図の激変
政府と自由党の提携実現で第五議会はスムースに運営できるかと思われました。ところが事態は意外な方向に進みます。
自由党の伊藤への接近は、民党として政府と対決してきた立憲改進党の強い反発を招きました。改進党が対抗軸として打ち出したのが条約改正問題です。また政府与党であることに存在意義を見いだしてきた国民協会もその地位を自由党に奪われたことから野党色をうちだすために改進党に協力、議会内の構図が一変しました。

条約改正交渉の進展
このころ、日本に対する目は大きく変わりつつありました。憲法制定は日本を「文明」国として欧米諸国に認知させ、国内法の整備なども期待できる状態となってきました。
また最大の貿易相手国で、もっとも条約改正に難色を示してきたイギリスが態度を変化させつつありました。イギリスは、最大のライバル・ロシアのシベリア鉄道着手をきっかけに、極東の新興国日本との関係改善を進めようとしたのです。
こうして条約改正交渉、とくに法権回復に応じる姿勢を見せ始めました。
条約改正をめぐる最後のテーマが外国人への国内開放(内地雑居)でした。それは日本側は幕末以来もっていた唯一といってもよい切り札でした。日本はこのカードを切ることで治外法権回復の実現をめざしたのです
。客観的にみれば、外国勢力を小規模な植民地ともいえる「居留地」に閉じ込めるというやり方は時代遅れで、国内開放をすべき時期がきていました。

「対外硬」の活動と議会解散
しかし対外強硬派(「対外硬」)は国粋主義の高まりを背景に、内地開放は西洋化がいっそうすすみ、経済的な影響も出るとして反対運動を展開、これに改進党や国民協会が乗ったのです。
かれらは内地雑居なしに条約改正を実現する手段として、現行条約を厳格に適用すべき(「現行条約励行」)キャンペーンを国権主義な言論機関とともに繰り広げたのです。こうした対外硬の盛り上がりの中、論調はしだいに対清・対朝鮮政策などをめぐる政府批判へと変化していきました。
1894年1月伊藤内閣は、これに対抗して衆議院を解散、総選挙にうってでました。しかし改進党など対外硬派が政府与党・自由党と同数の120議席を獲得、中間派の議員の支持も得たことで国会はさらに混乱、条約改正は困難となりました。
そして事態打開のため伊藤内閣が踏み切ったのが日清戦争の開戦でした。
<つづく>

<メニューとリンク>『憲法と帝国議会』

1:公議政体論と立憲政体の模索 (1850代~1880代前半)
2:明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)
3:憲法体制の整備と初期議会(1889~1894)本稿
4:明治憲法体制の成立と展開(1894~)

<参考文献>

坂野潤治『明治憲法体制の成立』(東京大学出版会1971)
『日本近代史』(ちくま新書2012)
『明治憲法史』(ちくま新書2020)
大石 眞『日本憲法史』(講談社学術文庫2020)

鳥海 靖『日本近代史講義』(東京大学出版会1988)
ジョージ=アキタ『明治立憲制と伊藤博文』(東京大学出版会1971)
山住正己『教育勅語』(朝日新聞社1980)
岩波書店編集部編『徹底検証・教育勅語と日本社会』(岩波書店2017)
大久保泰甫『日本近代法の父ボワソナアド』(岩波書店1977)
出口雄一他編著『概説日本法制史』(弘文社2018)

浅古弘他編『日本法制史』(青林書院2010)
有地亨『新版家族法概説』(法律文化社1990新版2003)
安田浩『天皇の政治史』(吉川弘文館2019)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社学術文庫2015)

    『元老―近代日本の真の指導者たち』(中公新書2016)
原田敬一『帝国議会 誕生』(文英堂2006)
久保田哲『帝国議会』(中公新書2018)
『明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)』(衆議院憲法調査局事務局2003)

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