日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(3)

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日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(3)
日米交渉とアジア太平洋戦争開戦

Ⅵ、日米交渉と御前会議、そして中国 ~なぜ日米「開戦」だったのか

独ソ戦の発生

世界が再び大きく動き始めたのは、1941年6月です。
ドイツ軍は突如不可侵条約を結んでいたソ連の領内に侵攻、独ソ戦が始まりました。スターリンのもとには各国から多くの情報が集まっていたにもかかわらず、彼はそれらを無視、緒戦での敗北とドイツ軍の侵攻を許しました。

第二次世界大戦関係地図(ヨーロッパ戦線)

他方、ドイツもソ連とソ連軍の抵抗を軽視、自軍の実力を過信したこと、そこからくる補給計画のずさんさなどから、緒戦は勝利したものの消耗も大きく、しだいに侵攻の速度は落ちていきました。
独ソ戦によって、大戦は世界戦争の様相を強めます。ソ連が米英ブロックについたことで、世界の分化がすすみ、蒋介石もアメリカの支援のもとで中英ソが「大同盟」を結ぶことを提案しました。
アメリカはソ連にも武器貸与法を適用しました。
これ以降、第二次大戦(ヨーロッパ戦線)の主戦場はソ連となります。米英の主力はアフリカ戦線、ついでイタリア戦線などから動くことは困難となり、スターリンは第二戦線構築を強く求めつづけました。
1944年のノルマンディー上陸作戦まで、ドイツの主力はソ連が引き受けつづけたのです。
この間、ドイツ軍はソ連領内で食糧や資源にたいする収奪戦争、人種主義とイデオロギーにもとづく「絶滅戦争」も繰り広げます。「戦闘のみならずジェノサイド、収奪、捕虜虐殺」で奪われたソ連人は、現在の研究で2700万人におよぶだろうと考えられています。(大木毅による)

独ソ戦は、日本での「北進」論を復活させ、即時ソ連侵攻との声も高まります。それを強く説いたのは日ソ中立条約を主導した松岡外相でした。
こうした意見の相違が生じる中、7月2日御前会議が開催されます。

7月2日の御前会議~対英米戦の覚悟と北進論

こうして開催された7月2日の御前会議において、日本は対米英蘭戦争の方向を決めました。「情勢の推移に伴う帝国国策要綱」です。

ここでは、まず「南進」の方針が再確認され、そのためには「帝国は本号目的達成のため対英米戦を辞せず」と米英戦やむなしとの方針を決定します。
対ソ戦(=「北進」)については独「ソ」戦争が有利な方向に進展すれば「武力を行使して北方問題を」解決すると対ソ戦の準備も決定しました。
南進を主張する海軍と伝統的な北進にも回帰しつつある陸軍との対立も背景に、日中戦争解決のめどが付かないまま、対米英戦争・対ソ連戦争への準備が「国策」として決定されました。

「関特演」

御前会議の決定にしたがった作戦が準備されます。
一つ目は関東軍特種演習(関特演)の実施です。陸軍は「演習」の名目で、50万人・16個師団という空前絶後の大部隊をソ「満」国境に結集、シベリア侵攻の機会をねらいました。
しかし、ドイツ軍侵攻の侵攻が予想通りにはすすまないこと、正面のソ連軍の配備などをみて、8月にはこの年のシベリア侵攻をあきらめ、演習参加の兵士を南下させていきました。
こうした日本軍の動きは日本国内のスパイによって、ソ連へ伝えられます。この結果、シベリアに配備されていたソ連軍のヨーロッパ戦線投入が可能となり、初冬の大攻勢につながりました。

南部仏印進駐と石油禁輸

日本軍の仏印進駐

二つ目は、南部仏印進駐です。
7月27日、陸海軍部隊は前年の北部に続き、南部仏印へも進駐します。この地は東南アジアの中心に位置しており、シンガポール・インドネシア・フィリピンなどへの攻撃が可能な要地でした。
こうした行動が、世界の目にどうに映るか、日本側は余りに無神経でした。
これをみたアメリカは決定的な経済制裁に踏み切ります。
まずアメリカにある対日資産凍結を決定、貿易取引は困難となります。続いて対日石油輸出の規制強化を決めました。石油の全面禁輸を意図していたものではなかったのですが、基準がはっきりしなかったため結果として石油輸出全面禁止という事態になりました。こうした措置にイギリス、オランダ亡命政府(蘭印植民地当局)も追随、国外から物資とくに天然資源獲得などが極めて困難となりました。こうした措置はABCD包囲網と呼ばれ、危機感と敵愾心があおられました。

石油禁輸が日本との決定的な対立、つまり戦争につながることはアメリカ側も認識していたと思われます。この時点で実質的な石油禁輸という措置となってしまったのは予定外だったのかもしれません。
とはいえ、遅かれ早かれ、日本との戦争を想定していたため、政策変更は行いませんでした。
ただ、ヨーロッパ戦線優先、太平洋地域における海軍力や航空力の劣勢などから、時間稼ぎの必要もありました。
石油禁輸が与えた影響は強烈でした
日本は備蓄する石油が失われるまでに、交渉で禁輸を解除してもらうか、石油獲得(⇒産油地の確保)のために戦争に踏み出すのか、二者択一に迫られました。
「対英米戦を辞せず」との文言が一挙に現実味を持ち始めました。

日米交渉の本格化

日米交渉 日本側の野村・来栖両大使とアメリカのハル国務長官

こうして日米交渉が一挙に重要となりました。
前年、民間主導ではじまった日米交渉は、4月以後本格化、8月の対日資産凍結と石油禁輸、「ABCD包囲網」完成という事態のなかで、決定的な役割を担います。
日米交渉はワシントンにおいて、野村・来栖両大使とハル国務長官の間で断続的に開かれました。
日本サイドからすれば、日米開戦を避ける為にはある程度妥協せざるを得ないが安易な妥協は「敗北」とみなされかねず、メンツ上認められない。アメリカサイドからすれば安易な妥協はミュンヘン会談の二の舞になるとの意識もありました。時間稼ぎにすぎなかったとの指摘もあります。
日米交渉は、それまでの日本のあり方そのものにもかかわるものとなっていきます。なぜ妥協できないのか、戦争に訴えても守るものがあったのか、あるいは日本における意思決定の仕組みなどなど、さまざまな問題があぶりだされていきます。
この間、近衛は、日米交渉に対し否定的な松岡外相を更迭するため、いったん内閣を解散し、松岡抜きの内閣(第三次近衛内閣)を発足させました。

「日米交渉」で問われたこと

日米交渉でアメリカが要求した内容は以下の三点です。
①日本軍の仏印からの撤退、
②中国からの撤兵(満州国を含む場合も)
③三国同盟の無効化
これに日本がどこまで妥協できるかが課題でした。
①の仏印からの撤退はともかく、②の中国撤退となれば、1937年の日中戦争開戦以来の「戦果」を捨てることにつながります。ここに「満州国」の否認が含まれるとなれば、1931年の満州事変以来のすべてが否定されます。いずれにしても積み上げてきた既成事実の多くを否定することになります。敗北したのと同様の妥協を求められたと感じられたでしょう。①の「仏印」撤退すら「南進」の放棄として「屈服」と見なされるのですから。
とはいえアメリカと戦争して勝利できるとの展望をもてる人間は開戦を主張する陸軍強硬派も含めほぼ皆無でした。

問題はいかにメンツを保ち、「適当な理屈」をこじつけ、うまく「引く」か、なのでしょう

戦争は始めるのはある意味簡単です。しかし止めることは優勢であっても難事業です。優勢の場合でも「もっと取れるはずだ」という非難を浴びるのに、それが不利な場合なら…。
リーダーは「卑怯者」「売国奴」などありとあらゆる悪口雑言をあび、為政者としては、よくて暴動、さらには政変・反乱、政府転覆、国家の分裂すら覚悟しつつ決断する必要があるのですから。したがって、多くの場合、「いくとこまで、いく」。そして破滅するのです。
日本には、覚悟をもった政治家・軍人はいませんでした。

吉田裕・森茂樹「アジア・太平洋戦争」(吉川弘文館)2007

うまくいくはずのない交渉」にとくに軍部から焦りの声が広がってきます。交渉が長引けば長引くだけ日本の不利が広がっていくのです。
石油の備蓄は減少しつづけ、アメリカの軍備は増強されていき、双方の戦力差は広がる一方です。
戦争が必至とするなら、海軍力や空軍力でたちうち出来るうちに戦争に踏み切った方が、少しは勝ち目があるという議論も成り立つでしょう。
それが幕末以来つづいてきた日本のリーダーたちのやり方であり、いずれの場合も成功したやり方でした。

さらにこれまでは中国・ソ連との戦争に向けて準備してきた装備や作戦計画を、対米英戦争に対応したものとするために時間がかかります。こうした作戦上の要請からも、開戦の時期=交渉打ち切りの時期、を決定する必要があったのです。

9月6日の御前会議~日米開戦を決意?

こうした要請を受けて開催されたのが9月6日の御前会議です。そこで決定されたのが「帝国国策遂行要領」です。その要点は以下のようなものです。
①対米(英蘭)戦争を辞さない決心の下で、概ね10月下旬を目途とし戦争準備を完整する。
②それと並行して、米英に対し外交手段を尽くして、帝国の要求の貫徹に努める。
③10月上旬頃に至っても我が要求を貫徹できる目途がない場合、直ちに対米(英蘭)開戦を決意する
日米交渉に「10月下旬まで」と期限を切り、不調時は開戦する。並行して戦争準備をはじめるという内容です。
ついに対米英戦争がスケジュールに上ってきました。

会議では、東条陸相をはじめとする陸軍側が発言する一方、海軍側は沈黙し、首相である近衛も積極的に発言しようとはしませんでした。天皇も消極的な姿勢に終始しました。
海軍はひそかに近衛と接触し、「近衛が妥協を主張すれば賛成する」と伝えていたといいます。アメリカの海軍力を知る海軍には勝利する自信はありませんでした。とはいえ、アメリカに勝つためにといって強引に軍備拡張を要求・実現してきた立場からすれば勝つ自信がないとはメンツからしてもいえなかったのです。
日本国民を塗炭の苦しみに追いやる決断は、このようにして決められたのです。

「最少限度の要求事項」「帝国ノ約諾シ得ル限度」

対米(英)交渉において日本が達成すべき「最少限度の要求事項」は以下のような内容でした。
(以下、引用等は鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』からのものです)

(1)米英は日本の支那事変処理に対して容喙しまたはこれを妨害しないこと。
「(イ)帝国ノ日支基本条約及日満支三国共同宣言二準拠シ事変ヲ解決セントスル企図ヲ妨害セサルコト。
 (ロ)ビルマ公路ヲ閉鎖シ、且蔣政権二対シ軍事的竝経済的援助ヲナササルコト」。
(2)米英は極東において日本の国防を脅やかさないこと。
「(イ)日仏間ノ約定二基ク日仏印間特殊関係ヲ容認スルコト。
 (ロ)泰、蘭印、支那及極東『ソ』領内二軍事的権益ヲ設定セサルコト。
 (ハ)極東二於ケル兵備ヲ現状以上二増強セサルコト」。
(3)米英は日本の所要物資獲得に協力すること。
「(イ)帝国トノ通商ヲ恹復シ且南西太平洋二於ケル両国領土ヨリ帝国ノ自存上緊要ナル物資ヲ帝国二供給スルコト。
 (ロ)帝国卜泰及蘭印トノ間ノ経済提携二付友 好的二協カスルコト」

であり、まるで勝利した日本が、敗れた相手国に呑ませようとするかのような内容であり、その見返りとして妥協可能な内容「帝国ノ約諾シ得ル限度」も

(1)帝国ハ仏印ヲ基地トシテ支那ヲ除ク其ノ近接地域二武力進出ヲナササルコト
(2)帝国ハ公正ナル極東平和確立後仏領印度支那ヨリ撤兵スル用意ア ルコト
(3)帝国ハ比島ノ中立ヲ保障スル用意アルコト

といった内容です。このような条件で交渉させられたワシントンの代表団は頭を抱えたでしょうね。交渉を成立させようとする意欲は見えません。鹿もこれは「形を変えた開戦決議といえよう」と記しています。

「質疑応答資料」

あわせて鹿はこの会議に提出された「質疑応答資料」をも引用します。以下、紹介します

(1)「支那事変」の処理を中心とする大東亜新秩序建設は日本の八紘一宇の国是に基づく不動の国策であり、国家の生命と存亡を共にするものである。しかし、アメリカの対日政策は現状維持に立脚し、世界制覇と民主主羲擁護のため、東亜における日本の興隆を阻止しようとしている。したがって、日米の政策は根本的に対立し、両国が衝突から戦争にまで至るのは歴史的な必然性がある。
(2)日本の対米英蘭戦争の目的は、東亜における米英蘭の勢力を駆逐し、帝国の自存自衛圏を確立し、大東亜新秩序を建設することにある。
(3)南方作戦は「支那事変」に次のような影響をあたえる。
①従来米英に対する配慮から発動を控えた対重慶政権交戦権を行使し、敵性租界の処理を即時実行することによって重慶への圧力を強化できる。
②香港を攻略し、ビルマルートを遮断し、米英と重慶との連絡を完全に分断し、その援蔣行為を阻止できる。
(4)ドイツ軍は10月末または11月上旬頃までにソ連の野戦軍主力を撃 滅し欧ソの主要部分を占領し、有力なる一部を以て敗退するソ連軍と対峙し、次の作戦を開始する公算が大きい。日本は独伊との固い結合関係 を保持することが肝要である。このため、独伊と米英との単独講和を防ぐことと、日独伊協力によりまずイギリスを屈服させることを約束する必要がある。
(5)支那事変により、日本は国際情勢の転機に適応する弾性を失った。他方で中国の支配は大東亜建設の前提である。そのため、中国での日本の駐兵は不可欠である。したがって、日米交渉の核心は中国問題であり、中国問題の核心は駐兵問題である。

近衛内閣の崩壊

アメリカは先の御前会議にもとづく「日米諒解草案」の提出に対し、ハル国務長官は「一切の国々の領土保全 と主権の尊重、内政不干渉、通商上の機会均等、平和的手段による以外の太 平洋の現状の変更の不可」の四原則にもとづく覚書を提示 し、中国における日本の駐兵は不法であるとして中 国に関する日本側の要求をすべて拒否しました。
こうして日米交渉は進展しないまま、期限の10月下旬が近づいてきました。
実際に開戦が目前に迫る中、首相の近衛は焦りはじめます。そこで米大統領とのトップ会談=日米首脳会議での決着を考えました。近衛は、さまざまな条件をつけつつ中国(本土)からの撤兵を約束する方向での妥協をめざしました。
ところが東条陸相ら陸軍は中国からの撤兵はこれを断固拒否、交渉打ち切り、開戦を要求しました。
進退窮まった近衛は10月16日、政権を投げ出します

近衛は、7月、9月の二回の御前会議で、「開戦やむなし」といった方針を承諾した責任者です。更に、第一次内閣では日中戦争の開戦につながる派兵を承認し、和平の機会があったにもかかわらず「爾後国民政府ヲ対手トセズ」と啖呵を切って和平交渉を打ち切った人物です。近衛にはそうした責任にたいして自覚があったのか、問うて見たい気がします。昭和天皇は近衛にたいし複雑な感情をもっていたといわれます。

なお、近衛を論駁しようとした東条が閣議で語ったのが以下のような内容です。

駐兵問題ハ心臓夕。撤兵ヲ何卜考へルカ。陸軍トシテハ之ハ重大視シテ居ルモノタ。米国ノ主張二其ノ儘服シタラ支那事変ノ成果ヲ壊滅スルモノタ。 満洲国ヲモ危クスル、更二朝鮮統治モ危クナル。
帝国ハ聖戦目的二鑑ミ非併 合、無賠償トシテオル。支那事変ハ数十万ノ戦死者、之二数倍スル遺家 族、数十万ノ負傷者、数百万ノ軍隊トー億国民ノ戦場及内地テ辛苦ヲッ マシテ居ル尚数百億ノ国帑ヲ費シテ居ルモノテアリ、普通世界列国ナレハ 領土割譲ノ要求ヲヤルノハ寧ロ当然ナノテアル。
然ルニ帝国ハ寛容ナ態度 ヲ以テ臨ンテ居ルノテアル。駐兵ニヨリ事変ノ成果ヲ結果ツケルコトハ当 然テアッテ、世界二対シ何等遠慮スル必要ハナイ巧妙ナル米ノ圧迫二服スル必要ハナイノテアル。

(鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』)

東条英機

「中国からの撤兵」という要求に屈すれば、日清・日露以来の戦争の中で作り上げられてきた日本のあり方、戦争で流された犠牲が無になる、本来なら当然である領土の割譲、賠償金の受け取りも要求できるはずだとして、撤兵につよく抵抗したのです。
近代日本の歴史の問題点とくに陸軍の責任を問われた東条が「逆ギレ」したかに見える内容です。
勝手に柳条湖事件を起こし、戦線を拡大して国家・国民を巻き込み、結果として「数十万の戦死者、数倍の遺家族、数十万の負傷者、数百万の軍隊とー億国民が戦場や内地で苦しみ、数百億の国費を費やした戦争」に巻き込んだのは誰なのか。
「撤兵」に応じないことで新たに流される「血」を、国民の苦難を、陸軍は考えていたのか、と問い直したくなる内容です。
そして、これ以後もこのような理屈で国民は苦しめられ続けます。

東条英機内閣誕生

近衛内閣の崩壊をうけて、東条は皇族の東久邇宮稔彦王を推薦しました。しかし首相推薦の責任者、内大臣木戸幸一は、開戦となった場合、皇族に責任が及ぶとしてこれを拒否、かわって開戦派の東条を推薦、東条英機内閣が成立しました。

東条英機内閣

開戦派の中心陸軍を抑えることができるのは、開戦派ではあるが、天皇への崇敬の思いが強く、仕事には「誠実」に向き合う東条と考えたのです。
木戸がこの趣旨を天皇に伝えたところ、天皇も「虎穴に入らずんば虎児を得ずだね」と応えました。
こうして木戸は、9月の開戦決定をいったん白紙とし再検討することを条件に東条を首相に推薦しました。
首相となった東条も、天皇の信任に応え国家に責任を負うという責務を果たそうとある程度「誠実」に向き合ったといわれます。
まず開戦慎重派の東郷茂徳・賀屋興宣を入閣させます。悪名高い内相との兼任も、戦争を回避した場合におこるであろう混乱を抑えるためであったといわれます。また企画院などに命じて国力分析などの検討も命じました。
しかし、海外から見ると、開戦派の急先鋒の東条が首相の座に就いたことは日本が戦争を決意したと判断する材料となり、開戦の覚悟をさらに固めさせました。

11月5日の御前会議~戦争目的も戦略もない開戦

さて、検討の結果をもとに、11月5日御前会議が開催され、結局は9月と同様の判断となり、「帝国国策要領」が決定されました。

御前会議の様子(1943年のもの)

再検討といっても、すでに多くのものが開戦に向かっており、それをおしとどめることは困難でした。
こうして「交渉不調なら開戦」との前回の御前会議の結論が再確認されました。そして、石油備蓄量と気候条件も勘案、12月1日をリミットに日米交渉をつづけるとともに各部隊に開戦準備を命じました。そして交渉に向けて、最終交渉案(甲・乙案)も決定しました。
なお、御前会議の席上、天皇が東条に「戦争の大義は何か」と問い、東条は「目下、研究中であります」と応えたといいます。

「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」

このときは、具体的な戦略・戦闘計画すら提出されていません。
戦争の「大義」も、戦略や戦闘計画もないまま、開戦だけが認められたのです。
戦争の見通しである「対英米蘭蒋戦争 終末促進に関する腹案」が一応完成・提出されたのは10日後の11月15日です。
その内容は、
ドイツがイギリスを破ってくれるだろう。援助がなくなれば中国も屈服する。友達のいなくなったアメリカでは厭戦意識が高まりやる気を失うだろうといった内容であり、陸軍・海軍二人の参謀によるドイツ頼りで希望的観測ばかりの作文でした。作成者自ら「東条さんの命令で作成したものの単なる願望をまとめたものだった。それが政府大本営連絡会議であっさり通るのには驚いた(石井秋穗元中佐談)とのべる代物でした。

米暫定協定案と中国の反対~「ハルノート」提

11月の御前会議で決定した最終案のうち、甲案は代わり映えのしないとしてアメリカから却下され、11月20日に暫定協定案としての乙案が日本側から提出されました。アメリカはこれには興味を示し、南部仏印からの撤退・北部仏印の兵力2.5万人とすることを条件に、民需用石油の供給を再開する暫定協定案を作成、各国に提示しました。

これを聞いて猛烈な反対運動を展開したのが中国でした。
中国問題の解決を棚上げにした石油禁輸の解除は日本の中国侵略の解決を遠ざけるものであり、中国を見捨てるものであると主張、「アメリカ・民主主義への信頼を失う」とまで批判しました。
更に中国はイギリスにも働きかけます。チャーチル首相も中国に同調したため、アメリカはこの案を取り下げざるを得ませんでした。
11月26日、アメリカが日本にかわりに提示した回答がいわゆる「ハルノート」です。

その内容は
①中国・インドシナからの一切の兵力・警察力の撤収
②重慶国民政府以外、いかなる政府・政権にも支持を与えない、
③米英は中国におけるすべての権益および治外法権を放棄すべき、
という内容です。
暫定協定案の乙案には触れず、中国からの無条件撤退という日米交渉の出発点に引き戻し、さらには「満州国」の否認、満州事変以前への復帰ともよめる内容であり、日本側からすればとうてい受け入れられないものでした。
最終交渉案として提出した「乙案」に対する回答がこうした内容であったことから、日本はこれが最終回答案であると理解します。戦争の決意を固めるにはこれで十分でした。

対米英戦争の開始

タイムリミットとなった12月1日、御前会議が開催されます
そこで対米英蘭戦開戦が決定され、太平洋上の連合艦隊をはじめとする各部隊にその旨が通知され、それをうけ12月8日陸軍部隊がマレー半島のコタバルに奇襲上陸、一時間後、海軍航空機部隊がハワイ真珠湾へ奇襲攻撃を行い、その後、アメリカに宣戦布告書が手渡されました。こうしてアジア太平洋戦争が発生します。

中国の参戦~世界大戦と一体化する日中戦争

アメリカの対独伊戦線に先立ち、12月9日蒋介石は日独伊三国へ宣戦を布告、同日、共産党も「すべての抗日友好国と軍事同盟を結び、共同作戦を実施し、太平洋地域での抗日の民族戦線を結成する」と表明、日中戦争は第二次世界大戦と一体化しました
これをうけ、ローズヴェルト米大統領も「隣国の侵略者に対する四年半に及ぶ抗戦を継続したことで、アメリカからの道義上と事実上の同情を獲得した」して、中国という偉大な民族と手を組むことは光栄であるとこれまでの中国の抗戦を高く評価しました。

蒋介石

そして蒋介石は12月10日「全国軍民同胞に告げる書」を発表、勝利によって満洲事変以来の国恥を雪ぎ、侮辱を払うとともに、「国内的には主権を回復し、抗戦の目的を達成する」「国際的には、正義を広め、中華民族のかつてない名誉をもたらす」と国民に語りかけ、中国による抵抗戦争が世界大戦と一体化したことの国内的・国際的意義を宣言しました。
さらに翌年1月には「連合国共同宣言」においては四主要国の一員として共同宣言に調印、四大国の一員として認められるにいたりました。1943年1月には念願であった不平等条約の撤廃に成功、蒋介石は11月カイロ会談に参加、米英首脳とともに、戦後世界の秩序形成に大きな役割を果たしました。
しかし、その後も中国は日本と厳しい戦いをつづけます。戦争の論理は、アメリカと中国共産党を接近させ、両者は公的な接触をもつにいたりました。実態としての二つの政府の存在が確認されたことになりました。
(この項は主に劉傑『中国の強国構想』を参照しました。)

Ⅶ、日本はなぜ米英開戦に踏み切ったのか

帝国の存立をも危殆に陥らしむる ~開戦の詔勅を受けて

なぜ戦争を始めたのか、「正直な」東条はいろんなところで率直に語ります。

開戦の詔勅を受けての東条首相の説明(1941年12月)

まず、開戦の詔勅をうけ、東条が語りかけた談話(「大詔を拝し奉りて」)ではアメリカが①中国からの無条件全面撤退
②南京(=汪兆銘の傀儡)政府否認
③日独伊三国条約の破棄、をもとめてきたので開戦に至った。日中戦争を無条件で中止することは「権威の失墜」であり「帝国の存立を危殆に陥れる」とメンツにこだわる日本の事情だけが強調されます。「戦争の大義」も「支那事変の完遂」が帝国の「自存自衛を全うする」という理由も語っていません。

国際協調への敵意~11月の御前会議での発言

11月5日の御前会議での発言も見ておきましょう。ここではハルが提示した四原則①領土保全主権尊重 ②内政不干渉 ③無差別通商 ④武力的原状打破不承認は、九力国条約の集約であり、それが日本の国益に反するといって、日本が合意・調印していた条約によって成立した体制を攻撃します。

10月2日二受取ッタ米側ノ回答ハ、要スルニ四原則(①領土保全主権尊 重②内政不干渉③無差別通商④武力的原状打破不承認)ヲ日本二強要セ ントス。四原則ハ九力国条約ノ集約テアル。
①ヲ容認セハ支那事変ハ固 ヨリ満洲国ヲ承認シアラサルカ故二之レ迄触レテ来ル。
②ヲ認ムレハ支 那南京政府トノ取極、例へハ通商通信等ノ日華間ノ条約等モ廃サレル危険 性アリ。
③ハー般通念トシテハ当然卜見ラレルカ如キモ、帝国ノ自存自 衛二触レテ来ルナラハ、之ヲ許スコトハ出来ヌ。英米ダッテソウタ。之二 依リ日支条約第六条ノ隣接地帯ノ権利ヲ変更セシメラレルコトニナル。
④二就テハ、南西太平洋テハマー認メテモヨシト思フカ、支那ノ如キ国防上 並資源ノ獲得上緊要ナル地域ハマケラレヌ。米ハ之ヲ認メロト云フノテ アル。日本ハ之ヲ認メ得ス。何ントナレハ満洲事変及支那事変ハ本主旨 二基ク羈絆ヲ脱スル為ニヤツテ来タノタ。
(鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』)

「領土保全主権尊重は、支那事変だけでなく満洲国の承認にかかわる」「内政不干渉という点では、汪兆銘政府との通商通信等の条約等も廃される」「無差別通商は帝国の自存自衛にかかわる。隣接地帯の権利をも変更させられる」「武力的原状打破不承認は支那のような国防上、資源の獲得上重要な地域はみとめられない」などなど、そしていいます。「満洲事変および支那事変はこのような(九カ国条約の)羈絆きはんを脱するためにやってきたのだ」と。
日本・日本軍の行為は、日本が世界と約束した条約が気に入らないからといって破壊する国際法に違反する侵略行為であることをといみじくも自白した形です。
このように、満洲事変以来の日本の行動は第一次大戦以後形成されてきた秩序、世界が合意した原理を否定しようとして起こした無法行為であることをあけすけに語りました。

「新外交」と中国ナショナリズム

第一次大戦後、世界は二度と惨禍を繰り返さないため、国際協調(集団的安全保障体制)と戦争違法化の世界をめざす「新外交」が展開されます。東アジアにかかわってワシントン会議が開催され、九カ国条約を中心とした国際体制が作られました。
たしかに、ワシントン体制自体は帝国主義列強が自らの権益を協力して守るためのものでした。だからこそ、五三〇事件にみられるように自国の権益の回復をめざす中国ナショナリズムの挑戦をうけました。
他方、ワシントン体制は二十一か条要求にはじまる日本の強引な進出を国際協調=集団的安全保障の枠組みで押さえ込むものでもありました。

1927年に発生した上海クーデタの隠れた争点はこの体制に対する意見の相違でもありました。
この対立は二つの国共内戦のテーマにもなります。
上海クーデタではワシントン体制の維持=列強との協調をめざす蒋介石らが勝利したものの、抑えきれないナショナリズムのうねりの前に、国民政府もこの体制を維持しつつ漸進的に権益を取り戻そうという形の「革命外交」をすすめます。

満洲事変~「ワシントン体制」への挑戦

ワシントン体制を不快に思っていたのは急進的な中国ナショナリズムだけではありませんでした。
在華紡などに支えられる日本帝国主義は、ワシントン体制に頭を抑えられ、さらに中国ナショナリズムの挑戦も受けていました
こうした勢力の要求を背景に、ワシントン体制打破に動いたのが軍部、とくに一夕会などに結集した陸軍の革新派でした。(この主要メンバーの一人が東条です)
彼らは謀略と暴力で、ワシントン体制破壊=国際協調(集団的安全保障体制)と戦争違法化の世界の破壊の方向に向かわせようとしました。
1930年代の世界は、恐慌に伴う自国優先の流れの中、こうした挑戦に向き合わず、「破壊者」を枠内に引き留るべく「宥和」政策をすすめる時代でした。中国やチェコなどの犠牲の上に、破壊されつつある秩序の維持を図ろうとしたのです。とはいえ、「破壊者」には体制を守る意欲も意思もない以上、それははかない望みでした。
他方、その暴力に立ち向かうだけの軍事力をもたず、「破壊者」の攻撃にさらされた国々は、国際連盟などを舞台に、国際正義に訴えかけ集団的安全保障に依拠して対抗するしかありませんでした。こうして、中国は満州事変を提訴したのです。しかし、調査団の報告と決議案は「宥和」的なものでした。にもかかわらず、決議案が気に入らない日本は国際連盟を去って行きました。中国は挫折しました。それをみて、ドイツなどもあとを追いました。

国際協調の回復へ~日中戦争の中で

中国はいったんは塘沽停戦協定を締結、妥協を期待したものの、日本の侵略はとどまりませんでした。そうしたなか、中国が選び取ったのが自らの犠牲によって、国際秩序と正義を破壊する日本軍国主義という姿を浮かび上がらせ、国際協調の力でこれを葬る道でした。
厳しい戦いがつづき、最終的には1000万人を越える犠牲者が出ます。しかし、その犠牲のなかで、中国で行われている戦争は、世界全体で立ち向かうべき対象であることを世界に示していきました。
この動きは、日本がドイツ・イタリアと接近するのに対抗して進んでいきます。宥和政策に失敗した英米も、自国の存続を最優先するソ連も。さまざまな問題をかかえつつ国際正義と秩序の枠組みが再構築されていきました。
この立場を宣言したのが1941年8月の大西洋憲章(「英米共同宣言」)であり、世界規模での合意が中国が四大強国として調印した翌年1月の連合国共同宣言でした。

こうして中国は、日本の中国侵略を世界の反ファシズム諸勢力と連合してたたかうという目的を達成、アメリカを中心とする世界の力をかりて中国侵略を失敗に追い込みました
中国の、世界の、日本軍国主義を許さないという意思はポツダム宣言を経て日本国憲法へと流れ込みます。
中国がはじめたたたかいはこうして日本軍国主義を解体しました。

「日本切腹、中国介錯」

1935年、近代中国の知の巨人胡適がは友人に送った書簡には次のような一文がありました。

胡適(1891~1962)
近代中国の代表的知識人、駐米大使として重要な役割を果たす

我々<中国>は、3、4年の間は他国参戦なしの単独の苦戦を覚悟しなければならない。
日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、
その実行には介錯人が必要である。
今日、日本は挙国切腹の道を歩いている。
上記の戦略は「日本切腹、中国介錯」という8文字にまとめられよう。

日本は、中国が「他国参戦なしの単独の苦戦」を覚悟した抵抗に、勝利できず、愚策をくりかえし、それどころか自ら対米英戦争に足を踏み込いれました。「挙国切腹」の道です。そして中国は介錯人の役割を果たしました。

《参考文献》

鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』
劉傑『中国の強国構想―日清戦争後から現代まで
麻田雅文『蒋介石の書簡外交(上)』
笠原十九司『日中戦争全史(上)(下)』
臼井勝美『新版日中戦争』
入江昭『太平洋戦争の起源』『日本の外交』
川島真・服部龍二編『東アジア国際政治史』
大木毅『独ソ戦・絶滅戦争の惨禍』
木畑洋一『日独伊三国同盟と第二次大戦』
原田敬一『戦争の終わらせ方』
吉田裕『アジア・太平洋戦争』
吉田裕・森茂樹『アジア・太平洋戦争』
伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』
森武麿『アジア・太平洋戦争』
江口圭一『二つの大戦』『十五年戦争小史』

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日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦

1:日本に勝つには世界戦争が必要だ
2 :  
第二次世界大戦の勃発と三国同盟
3 :  日米交渉とアジア太平洋戦争開戦

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