五色塚古墳で考えたこと~「本物」と実際

「本物」を見せただけでは実際の姿には近づけない
 ~五色塚古墳で考えたこと~

 

ふと、気がむいて、神戸の五色塚古墳へ行ってきた。

五色塚古墳①
五色塚古墳①

神戸市西方にあり、淡路島と淡路海峡大橋を眼前においた兵庫県屈指の規模を誇る古墳である。

ここの古墳の特徴は工事用のじゃり置き場のように丸い小石、葺石がゴロゴロしているところにある。この古墳が作られたころの姿に復元すると、このような姿となるのた。

五色塚古墳②葺き石
五色塚古墳②葺き石

僕たちは、古墳といえば、大仙陵古墳(いわゆる仁徳天皇陵)のような鬱蒼とした木々に覆われた緑の森を想像してしまう。古墳といえばこういう姿だとして、こうした写真ばかり見せられるてきたからだ。歴史の教師の側からいえば、見せてしまうというべきか。

正面から・・・一般には、ここからの拝観・・・仁徳天皇陵古墳拝所・・これよ... [大仙陵古墳(伝
大仙陵古墳http://pds.exblog.jp/pds/1/201308/21/45/a0249645_1943557.jpg
たしかにこうした古墳は「本物」ではある。しかし、これを見せて、古代の人はこのような古墳を作りましたというのは正しいだろうか?ここに、五色山古墳再生の面白さがある。1000年以上経った古墳ではなく、古代の人々がつくったような、彼らが実際に目にしていた古墳を再生して現在の我々に提示しているからだ。

大仙陵古墳や周囲の陪塚全てにおいて、葺石や円筒埴輪が忠実に復元されてい... 歴史文化学科の学生
大仙陵古墳の復元図(近つ飛鳥博物館の展示) http://www.osaka-ohtani.ac.jp/blog_campus/literature/003124.html

現代人にとっては神々しいとは思えない土砂置き場のような盛り土の山、これが実際の古墳なのだ。しかし、これも実際の姿とはいえないかもしれない。周りが、まったく違うからだ。現在の我々は嫌になる程、毎日、人工物を目にしている。そうした我々にとって、自然の緑は美しく生き生きしたものと感じる。しかし、古墳が作られた時代はまったく逆なのだ。

古墳が作られた時代、人間は荒々しいまでの森林と戦いつつ自らの支配地域を広げて行く時代であった。そこに実に人工的な建造物が作られる。鬱蒼とした緑の中に、明石海峡を通る船からもくっきりとみえつ人工物、周りの葺石は太陽の光を浴びて輝き、頂上部分には埴輪が隙間なく並べられている、それは自然と対峙している人間の力の象徴のようにもみえる。古墳は自然に戦いを挑んでいる人間の力を示しているのだ。

五色塚古墳②明石海峡と明石海峡大橋を望む
五色塚古墳③ 明石海峡と明石海峡大橋を望む

だからこそ、現代人にとっての古墳が緑に覆われた神聖な空間と感じるように、緑の自然の中の人工的な輝きこそが多くの人間たちを組織してこのようなものを作らせた古代人のリーダーの権力を示すものであったのだ。 

我々は、現在に残された「本物」、本物の現況を見て、過去のことを想像する。しかし大仙陵古墳のように「本物」ではあるが、当時の現実とは異なる姿に慣らされている。

復元鋳造された銅鐸 京都の青銅器工房 「和銅寛」のHPより https://wadokan.ocnk.net/contact

私たちは、銅鐸や銅鏡が青緑色をしていると教えてこなかっただろうか。あのような輝きのない色をしたものを古代人がありがたく思ったように思わせていないだろうか。これは古代人たちの信仰をミスリードする。当時の人々が見た、銅鐸や銅鏡は金色にぴかぴかと輝いて、叩けば当時の人たちが聞いたことのないような高い金属音を発した。だからこそ、信仰の対象となったのだ。こうした古代人たちが見ていた姿を伝えていただろうか。

仏像でもそうだ。

新薬師寺十二神将婆娑羅大将 JR東海「うましうるわし奈良」より http://nara.jr-central.co.jp/campaign/shinyakushiji/special/index.html

木目が見えていたり、銅の地金が見えている仏像、これを当時の人々が信仰したと思わせていないだろうか。実際の仏像は金色に輝き、濃い群青色で隈取れるものであったり、様々な色で塗り分けられたものであった。

奈良、新薬師寺の十二神将像にいたってはヘビメタ真っ青の色彩で表現されていた。そのケバさを超自然的な力をもつ仏や神として尊んだ感覚を伝えられているだろうか。我々が感じる長い時間を生き延びるなかで得られた虚飾を脱ぎ捨てた仏像の物語とともに、もともとの姿をも思い浮かべる想像力も必要なのだろう。

浄土寺(兵庫県小野市)の阿弥陀三尊像 採光を最も劇的に用いた建物と仏像とされる。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA_(%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%B8%82)#/media/File:%E5%B0%8F%E9%87%8E%E6%B5%84%E5%9C%9F%E5%AF%BA%E4%B8%89%E5%B0%8A.jpg

仏像の場合は、光の状態やそれを見る目線も重要である。蝋燭の光、差し込むわずかな光、護摩の炎、こうしたなかでの仏像、さらには時々で移ろっていく光に照らされた仏像こそが、人々にとっての仏像である。電気の光に照らされたり、さらには写真用の照明で完璧に照らし出された仏像とは異なるものであった。

 我々は、現在の姿で歴史的なものを見て、分かったような気になっている。しかし、それが作られた時の姿にも注意を向ける努力をしなければ、当時の人々に近づくことはできないように思う。

 鬱蒼とした緑のなかに、ひときわ輝く砂利置き場のような人工物のなかにこそ我々は古代人の思いを知ることができる。「本物」であることで満足するのではなく、作られた時代の姿や人々の前に現した状況などにも、時には配慮しなければ、実際の歴史には近づけないのだろう。

授業は「仕事」の合間にやる「仕事」?!

 授業は、「仕事」の合間にやる「仕事」?!

ある先生の「怒り」

はるか昔、教育実習生の講評会でのことです。
教育実習が終わりました。実習生たちは「授業の準備がとても大変だった」「授業を進めることの難しさを学んだ」といった感想を口々に話していました。
普通なら、にこにこしながら、「みなさんごくろうさんでした。がんばって採用試験に受かってくださいね」とかいってお引き取り願うのが通例です。
ところが、かなり厳しいクラスを持っていた先生が、憤然としていわれました。
みんなは、授業、授業といっているけど、教師にとっての仕事はそれだけではないの。実際には補導にかかわる生徒指導や学級運営、分掌業務など、それに会議、そのような仕事で手一杯。
授業研究はそうした合間の時間にやっていること。
教師は教材研究だけやっていられる仕事ではないの。教師というのはそのような仕事だということ、そうでないと教師の仕事なんて分からないと思う。

授業は、仕事の合間におこなう「仕事」?

授業研究は『仕事』の合間にやっている
これは大部分の先生方の「本音」でしょう。さらにすすんで
「仕事」の合間に授業をやっている」と感じておられる先生も多いのではないでしょうか。私もそうでした。
もちろん「授業が中心です」といわれる先生も多いでしょう。
当時の私なら「ほんとですか?いい学校におられますね」と心の奥で毒づき、「生徒指導などは多いですか?」とひねった憎まれ口をたたいたかもしれません。
「授業は大事だ」とはいいながら「一番力を入れている」とはいいにくい実態があります。
冒頭の話の時代、授業にかかわる仕事、とくに教材研究などをやっていれば、「こんなに忙しいのに」とか思われかねない実態がありました。
そんな時期でも、そんな時期だからこそ、スゴく授業に力を入れていた人もおられました。「すごいな、尊敬するわ」といわれました。生徒指導などでも情熱的で「すごい情熱」とか「エネルギッシュ」とかいわれましたが、いつのまにか「やっぱりできる人はすごい」、「自分にはあそこまでの力量や情熱はない」となってしまうのです。
でも、多くの先生はせっかく準備した授業がコケたりしながら、頑張ってもいたのですが。

生徒指導・分掌業務・ホームルーム運営・保護者対応・・・

教師には本当にいろんな仕事があります。
冒頭の話の時代、学校はとても厳しい状態にありました。生徒指導からみの案件がつぎつぎと起こり、家庭訪問や保護者への連絡、会議、場合によっては関係機関との調整などに走り回り、予定などがたたない状態でした。
しかも、緊急性が高いことが普通ですから「ちょっと失礼します」とはいえないのです。
緊急とはいえなくともクラス運営は、毎日毎日が勝負。この先生の所のように厳しいクラスでは何もなくても神経がやられてしまいます。
現在でも、分掌業務などでは、学校全体や学年全体の行事・会議など期日が決められたものが多いのでどうしてもそちらが優先します。管理職や分掌などから、期限付きの調査やアンケートなどが山のようにやってきます。的確に生徒に伝えたり、生徒や保護者との連絡が必要な内容だったり、データ処理が必要だったり、文章化したりと、時間がとられます。
保護者との対応も大変です。連絡を取るために帰宅してから遅い時間に連絡しなければならないので、ゆっくり酒も飲んでられません。
とくに担任はつねにのどに骨の刺さっているような感覚がありました。学校や教育問題を扱うドラマやドキュメンタリーなどは「家に帰ってまでこんなもの見てられるか」という気持ちでスルーしました。家に帰ってまで学校のことを考えたくないのです。

部活動顧問という「本務外」の仕事

また教師を苦しめるのが部活動です。
多くの人は部活動というとグランドや体育館などで校内で生徒たちの活動を指導している姿しか思い浮かばないと思います。もちろんこれが中心です。
これだけでもたいがい大変で、休みの日の多くがつぶれます
練習をしている間、顧問は校内にいなければならないのです。
もちろん試合の時は顧問のだれかが付き添わねばなりません。
私のようないい加減な顧問でも、月に数回は「出勤」していました。校内練習は授業準備に使えましたが、試合はそうはいきません。ある程度強い部だったので、9時から18時なんてこともありました。
メインの顧問で、すべて自分がかぶるタイプの先生に「いつから休んでないの?」ときくと「正月から」とか「今年に入って3日くらい」、あるいは「今月は休んでない」とかいう答がよく出てきました。
体育の先生でない一般教科の先生ですよ。
こうした先生は部活動のスキをねらって授業の準備をしておられるのです。
こうした先生の多くは部活動に生きがいを持って取り組んでおられる先生が多いのですが、そうでない先生もいます。
全員が顧問にならなければならないという圧力のもと、ほかのことをやりたいなとおもいながら、今週もクラブかとため息をつき出かけるのです。
でも生徒にいやそうな顔を見せることは決してしませんでしたし、もちろん試合に勝てばうれしかったです。
思わず時計を見たり、カレンダーを見ることはありましたが・・。

顧問の仕事はグランドや体育館だけではない!

部活動の仕事はこれでおわりません。
数年前、人事異動の関係である体育系部の主顧問となりました。急にこんな仕事をすると、事務作業の量が半端なくて、異様に忙しいことに気づくのです
校内予算のための書類、県教委に提出する書類、生徒会への予算請求、名簿の作成。試合のメンバー表を作成、校長印をもらっての発送。泊がともなえば、宿舎や交通手段の手配、親宛の文書。また練習試合の相手探しと日程調整をする。部費や交通費などの金を集め、おわれば決算をし、さらにその管理・・・などなど
実際には、別の顧問の先生がてきぱきとこなしていただいたのでぎりぎりのところで生徒に迷惑をかけることはなかったのですが、緊張の連続でした。顧問の責任で試合に出られないなんてことになれば困りますので・・・。
教師を長くやっていながら、他の先生がこんなに面倒なことをしておられたのかと気づき、申し訳なかったと退職直前になって知りました。
とくに面倒なのがお金です。近年はいろいろ不祥事があって、「世間の目が厳しくなって!」、さらに管理が面倒、つまり仕事が増えました。私のようなずさんな人間はたまりません。これって教師の仕事なんですかね?
ここまでが普通の顧問の仕事であり、教師の本務でないボランティアとしての「仕事」です。

役員になるとさらに大変・・らしい

さらに高体連の役員とかしていればもっと大変・・らしいです。遅い時間から会議が開かれ、会場との調整、試合の組み合わせを作り、顧問たちからのいろいろな泣き言やクレームを処理し、試合が終われば、そのあとのまとめ・・などなど
とんでもないほどの仕事が飛んできているようです。
ある先生は、19時くらいに部関係の会議に行き、それが終わって22時くらいに学校に戻ってきて仕事をしておられたということで、案の定、健康を害されてしまわれました
この先生も一般教科、補習や補充の多い教科の先生です。
無茶せんといて、手伝えることはやるから」といっても聞いてもらえないのですね。
ついでにいうと、こうした先生に限って部長・主任といった校内の重要な仕事が回されるのです。
さすがに翌年、校内の役職ははずれられましたが。
(このへんは一般企業のかたは理解できない学校の特徴かもしれません。)

まず片付けるのは授業以外の仕事から

教師の仕事の優先順位としては、緊急を要すること、みんなでやらなければならないこと、日程が決まっていること、こうした順番で決まっていきます。
内容的にいうと生徒指導、保護者対応、分掌業務、事務的な内容としての部活動、といったものが先に来ます。
職員会議や分掌会議、教科会議なども会議もあります。
そうなると、クラス経営とくに個人面談、指導としての部活動、さらに授業準備など、個人でできる仕事はあとの方におかれることになります
やりたい仕事より、やらされる仕事、時間に追われる仕事がどうしても先に来てしまいます。
強い部や部活動に熱心な先生は会議は、もちろん部活動第一です。その結果、優先順位がかわり、いろんな仕事をすっとばされます・・。
さきもいったように部活動に熱心な先生が部長・主任となりやすいので「肝心の部長さんがいない」ということも、ときどき起こります。

授業準備でも、優先順位が・・・

そしてやっと授業です。
授業自体についても優先順位があります。
社会科というか歴史の場合は、ルーチン的な作業は少ないのですが、英語・国語・数学などの習熟的な側面の強い科目は、ルーチン的な作業、ノート提出・点検・返却、小テストの作成・返却などが仕事の大きな部分を占めます。
私が教えていた歴史などは考査作成・採点といった仕事が大きな負担となり、考査前の1週間と考査終了後の数日間はほかの仕事は一切手がつきませんでした。睡眠時間を削ってということは普通のことです。
なお、最後の学校では四十人クラスで二単位、同一内容の授業になったので、自分の健康と分掌などの仕事の関係もあって、教育的ではないと思いながらいくつかのクラスでマークシート方式を使いました。
できないことはできません!
でも、その分だけ作問に時間がかかるのですが・・。
私のように割り切っている先生はやはり少なく、無理をしている先生がたくさんいました。
とくに添削や小テストを重視している教科・英語や国語の先生などの労働環境はとんでもないものです
学校内にいる勤務時間としてみた場合、短く見えるのですが、実際はそんなものではありません。
とくに子育て中の女性の場合、帰宅されるのは早めなのですが、聞いていると「子どもと一緒に寝てしまったので、朝の3時に起きて、ノートの添削をした」といった話がごろごろと出てきます。「身体壊すから、もっと手を抜いた方がいいよ」と何度も説得したものです。
という私でも、採点や分掌の仕事で「あかん、今日は3時起きやった」というはめに陥りました。
授業関係の仕事は、一人でやる仕事が多いので、夜なべ仕事になることが多いのです
こうした状況であるにもかかわらず、マスコミが「テストや○○を学校外に持ち出している」などと非難されると、「学校に住み着けとでもいうのか」とキレそうになったりするのです。
問題があるのはわかっているのですが、それならどうしろというのかと思ってしまいます。
このように授業の準備などに費やす時間と労力といっても、こういったルーチン的なものが優先されます。

やっと授業内容の準備にはいれる・・・

こうしてやっと日常の授業の準備にあたることになります。
授業直前になってバタバタと準備をするのが実際です。
その最中に、いろいろな用事が入ってくることも多く、「悪いけどちょっと待って、次の授業なんで」などと嘆願します。そんなこんなで、結局、去年のノートでお茶を濁そうということになるのです。楽勝・得意の分野だからと思っていたところでも、年をとると人名や歴史用語などがすぐにはでてこずに恥をかくことも多いのです。やっぱりしっかり授業準備がいるなあと反省しながら、また同じ事を繰り返してしまいます
ですから、本来の意味の教材研究、授業の中に新しい研究成果を反映させるとか、内容を深めるとか言った作業はめってにできません。
すくなくとも私の意識の中では、そうしたものは、授業のカテゴリーではなく、趣味としての読書の一環とかテレビ視聴とかいったカテゴリーに分類されていました
そのくせして、「最近の研究では」といいながら、昭和や二〇世紀の研究成果を話していたものですが。
学校の机に学術書なんかを置いている人はごく少なく、実際に読んでいた人は、思い出しても一人か二人いたかな、という程度です。ただ、家には研究書などが山積みという人が多いことも知っていますが。
私のように買っただけで開いていないという人も多いみたいです。そうした本とおもわれるものが古本屋では1円とか229円で販売しており、定年になった今、せっせと買い集めています。

いかに「風船」を割らないかが第一?!

昔、テレビでこんなゲームをやっていました。
一周二分くらいの線路の上を先に針のついたおもちゃの列車が走っている。線路の上に風船が置いてあり、割れたらゲームオーバー。ゲームをやる人は列車が風船を割らないように気をつけ、列車が近づくと風船を持ち上げて割れないようにしながら課題に取り組みできた数で勝敗が決まる。ときどき障害物もでる・・。
こんな内容だったと思います。覚えておられる方も多いのではと思います。強迫神経症になりそうなゲームですね。
学校現場は、まさにこのゲームのような状態です。
分掌のための会議資料と会議への参加、生徒用プリント作成、分掌間の調整、部関係の仕事をし、採点やノート点検、飛び込みの来客との対応。アンケートや調査のためのデータ処理、出張準備のための時間割変更や課題作成、代行の先生への依頼。辛いなという表情をしながら快諾する先生、露骨に不快感を示す先生。こちらが代行するときもある。予定していた作業時間がつぶれる。気がつくと授業の時間が迫っているのでバタバタと準備をする。
こんな風に、つぎつぎとおそってくる課題や「障害」を片付けたり乗り越えたり、ときには見て見ぬふりやスルーしたりしながら、授業や行事、HRといったなどをこなしていく。時間をかけすぎたり、計画をミスったり、手抜きをしすぎると「風船」が割れてしまい、ゲーオーバーとなる。
ひとつひとつの授業もこの「風船」のようでした。ときどきは「風船」を割ってしまうこともありましたが。
強迫神経症を患いそうな環境。「やっつけ仕事」の毎日。

もっとしっかりと授業がしたかったのかな?!

一般的にいって、多くの教師はまじめですし、優秀な人が多いと思います。そのせいか、仕事をやめてからもろいろな分野で活躍できる人が多いように思います。
いろいろな人がいます。授業との関わりでいうと
授業で教えることが好きな人、授業は得意でないがその学問は好きな人、超名門校出身でとんでもない学識を持っているけど授業は○○という人、普通の授業は嫌いだけれどいろいろなチャレンジがすきな人・・・などなど
ところが多くの場合、力を出し切れないまま、動いていることが多いのです
実は「しっかり授業をしたい」「授業をさせて欲しい」こういった声はもっと大きいのかもしれません。それが、いろいろな要因によって抑圧され、欲求不満のまま推移している、それが授業をめぐる教師の姿のなのかもしれないと思います。
そういえば、授業もそれほど好きでなく、最後まで教師という仕事に違和感を感じていた私がこのようなホームページを立ち上げたのかのも、実はしっかり授業がしたかったからなのかもしれません。

よい授業ができる条件とは

いろいろと教師批判をする人がいます。いわれても仕方ない人、場合があるのも確かです。
大学で授業を受けていると「高校の授業はどうなっているのだ」という声がよく聞こえます。
しかし、多くの職場ではこのような日々を送っている先生方が多いのです。
「教師が悪い」「いい加減な仕事をしている」といったような「○○が悪い」「□□がよくなればもっとよくなるはずだ」といった犯人捜しや責任の押しつけではなく、みんなでもっとうまくいく方法を考えませんか。