新たな疑惑~不幸は明治天皇一家にも

以前、「なぜ将軍の子どもたちは短命だった?~ある疑惑」という記事を書きました。その内容は、将軍家、とくに江戸末期の将軍の子どもたちの短命は、大奥の女性たちの化粧品白粉(おしろい)にふくまれる鉛ないし水銀中毒ではないかというものでした。また、同一のことを主張するブログも紹介しました

ところが、話はこれで終わらないことに気がついたのです。発端は、牧原憲夫氏が著した「民権と憲法」(岩波新書)の記述です。その部分をよんでください。
明治天皇には「皇后には子供がなく、側室五人の間に15人の子(男5女10)が生まれたが、10人は夭折(ようせつ)し、成人した男子は典侍柳原愛子の子・明宮だけだった。」

幼いころ、巡幸にきた現皇后(当時は皇太子妃)の化粧をみた小学生連中が、あまりの分厚い白粉のため、とても「不敬な」ことをいっていました。昭和四〇年代の初めでもそんな状態でした。明治時代の宮中では、もっと大量の白粉を使っていたことは明らかでしょう。現皇后の白粉にはもちろん鉛や水銀は入っていません。しかし鉛入りの白粉が製造中止になったのは昭和初年(Wikipedia「鉛中毒」)のことです。それまでは、鉛入りの白粉を使っていたのです。そしていずれかの時期までは、宮中で使っていた白粉も、鉛や水銀を原料とするものでした。

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大正天皇(Wikipedia「大正天皇」より)

ですから、明治天皇の子どもたちも、大奥と同様に、乳首までしっかりと鉛を塗った女性の母乳を飲んでいた可能性が高いのです。

明治天皇は1887年までに9人の皇子女をもうけたが、大正天皇を除いてみな夭折し、誕生後直ちに死んだ2件以外の初発の病名は全て慢性脳膜炎であった」とし、さらに「大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ」と記されています。
 さらに、当時の公家・武家の華族の三歳以下の子どもの死亡原因の大部分が脳膜炎様症状であることが問題になっていて、1923年に京都帝国大学教授が「原因は慢性鉛中毒ではないか」との研究成果を発表した、実は明治末年からすでに疑いが持たれていたとも書いてありました。
明治天皇の子どもたちの死産や夭折は、鉛ないし水銀の中毒であった可能性が濃厚といわざるを得ません。

さらに大正天皇は分娩時、すでに湿疹があったという記事ものっていました

こうしたことを総合すると、大正天皇は鉛ないし水銀中毒の胎内中毒をおり、さらに母乳からさらに金属毒を摂取した。このため出産時より湿疹がでており、虚弱であり、生まれてすぐ脳膜炎様症状を発症した。なんとかこういった「病」を乗り切ったものの、後遺症や体内に蓄積した金属毒を原因とする障害で苦しみ、その特異な行動などで人びとの密かな「嘲り」(差別!)をうけ、最終的には公職をまっとうすることができず、のちの昭和天皇を摂政とし、印象の薄い人生を終えた。
このような人生であったとかんがえられないでしょうか。
気がつきませんか?
家定将軍と大正天皇の共通点
兄弟の大部分が夭折し、生き残った唯一の成人男子。虚弱で、障害をもち、短命。

しかし、他の子どもたちが金属毒に耐えきれずなくなったのに、大正天皇(もしかしたら家定も)が生き残ったのは、DNA的には長寿遺伝子をもっており、元来は強健な身体の持ち主であったのかもしれません。
大正天皇の4人の男の子たちは全員が成人し、もっとも短命であった秩父宮でも50代まで生き、最も長命の三笠宮は昨年(2016年)101歳で大往生を遂げました。
大正天皇の子どもたちは、明治天皇の子どもたちとは好対照を示しています。
宮中では、密かに不幸の原因を探っており、鉛や水銀の入った白粉を使わないようにしたのではないかとも想像されます。
彼の子どもたちの長寿はこうしたところから来ているのかもしれません。(もちろん、栄養状態もよかったのでしょうが・・)
金属中毒は、足尾鉱毒事件によってひきおこされた利根川流域の人々にたいしてだけでなく、宮中の女性のぶ厚い化粧を通して天皇家にも取り憑き、不幸をもたらしていました。
大正天皇はこうした犠牲者であったとおもわれます。
 

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

~高度な学問に耐えられる言語としての「日本語」~

 またまた余談をします。
みんな、日本人は英語が苦手だというんだけど、なぜ苦手か、
分かるかな。教育制度とか、教え方とかいろいろ理由がいわれるけど、実は日本は英語(外国語)な しでもやっていける珍しい国だから。だから切実じゃない。
生活レベルだけじゃなくて、大学や大学院といった高等教育、さら には研究レベルにおいてもそうだから。
日本で普通に暮らし、学んでいくうえでは英語は、怪しげなジャパニーズイングリッシュというか、カタカナ英語を除いて、あまり必要ない。あまり使わないので、そんなに真剣にならない。だから、英語がうまくならない。こんな風に考えられないかな。
でも、英語(欧米語)なしで、何でもできるってすごいこと思わない?
自国語だけで高度な研究ができる国って、欧米語を母語としない国のなかでどのくらいあるんだろうね。
残念だけど、インドのヒンドゥー語だけで世界レベル の研究はできないだろうね。だからインドの高度な研究や高等教育は英語をつかう。高度な学問なんかで使えるほど洗練されていないから。大学などの高等教育が英語が行われるというのはその国の言葉で難しい研究をするのが不可能だから。植民地化された国では、そうさせなかったからといってもよい。
こうした結果、その国の中には、英語を使うエリートと、英語が使えず高度な内容を持った会話ができない一般人という二層構造ができてしまう
しかし日本にいれば、英語なしで高度なレベルの教育も高度な研究もほぼできる。普通の人もそれなりの質の話ができる。高度な知識にすべての日本人が触れることができる。これってすごいとおもわない?だったらなぜこんなことができたか、
最も大きな理由は日本が植民地にならなかったこと。そして啓蒙主義者、福沢諭吉や西周、森有礼といった連中、そして中江兆民や植木枝盛といったそれにつづく人たちが、なんとかして重要な用語などを日本語(じつは「漢語」)にしようと頑張ったから
世界の知識をなんとか日本人に伝えたいと思ったかれらは、重要な単語について、日本語(実際には中国語なんだけど)で近いニュアンスの言葉はないかと必死で探し、当てはめていった
freedomということばは、幕末の通訳が「わがまま、放蕩」という意味の「自由」ということばを当てていたのを、福沢が「西洋事情」という本で用い、広めたらしい。またfeudalismという英語は中国の周の時代の「封建制度」に似たシステムだということで「封建制」という訳語を当てはめた。
困ったのはeconomicという単語。ちょうどよい言葉が見つからない。そこで福沢諭吉か西周か、あるいは二人が相談したのか、「世の中をおさめ、人々をすくうこと」という意味の「経世済民」を略して「経済」という新しい言葉をつくったんだ。
こういう風にして、英語などの文章は日本語で読めるようになったんだ。彼らの使ったり作ったりした言葉は、日本だけじゃな
く漢字文化の国々にも影響を与えた。現在の中国では、そこら中で「経済」という言葉を使っている。
以上、余談でした。
(※以上の文章は、「明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道」の一部にくみこんでいたものです。)

書いたあとで考えたこと

 ここまでは、以前から考えていた内容に、大学の授業で学んだ内容もまじえて書いていました。ほぼ同じ内容を、高校の授業の中でも話してきました。
ところが原田敬一氏の「日清・日露戦争」(岩波新書)を読んで大きな問題に気がつきました。ある意味で「ナショナリズム」に侵されていることに気がついたのです。このことを少し考えたいと思います。

「蘭学」はどのようにして始まったのか?

海禁政策(「鎖国」)の結果、ヨーロッパ文明と切り離される結果となった日本人が、どういう経過で再度ヨーロッパ文明と接触をしたのか。あるいは「蘭学」という名で呼ばれる西洋学問の研究がどのように始まったのか、私たちは、知っていながら、重要なポイントを見落としています。
蘭学がはじまったのはいつでしょうか?
出発点のひとつは前野良沢や杉田玄白たちによるターヘルアナトミア(「解体新書」)の翻訳です。この過程で、オランダ語の知識が蓄積され、その知識とスキルを用いて、オランダ語を翻訳する技術が身につき、そのオランダ語の力を借りて西洋の知識を学んでいったのです?
このころの「蘭学」で、必ず一人の人物の名前が出てきます。
「万能の天才」「日本のダビンチ」こと平賀源内です。
解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225
平賀源内は前野良沢や杉田玄白と同時代人です。狂気にとらわれて殺人を犯し獄死した源内の追悼文を杉田玄白が書いています。
源内は、オランダ語はできませんでした。オランダの本の図版を必死でながめていたということです。ちなみに、玄白もオランダ語の力はたいしたことなかったみたいですが?!
では、源内の西洋知識はどのように入手されたのでしょうか?

日本人は西洋を「漢文」で学んだ。

もう一つの出発点の話をします。
徳川吉宗、享保の改革の時代です。それは、吉宗が○○を解禁したため、サツマイモを日本に持ち込んだことで有名な青木昆陽という先生などが西洋の学問を学ぶようになったこと、これが蘭学のきっかけとなったという話です。
吉宗が、解禁したもの・・それは欧米人が書いた書物=洋書の輸入でした。でも、洋書にはキリスト教の書物が紛れ込む可能性がありますね。そこで、このとき輸入が認められた洋書は、欧米からワンステップおかれた洋書でした。前に何か付いていましたね・・・。
「漢訳」洋書。漢文に翻訳された西洋の書物でした。
これなら、キリシタンの書物かどうか、すぐわかりますね。
では西洋の言葉を漢文に訳したのはだれでしょうか?
考えればわかりますね中国人、正式にいうと中国人が、中国にやってきた西洋人(とくにイエズス会系の宣教師)の協力を得て翻訳していたのです。
このことの意味に、私たちは無頓着であったように思います。
まず、西洋知識を東アジアの人が分かることばに翻訳したのは中国人です。
西周

福沢や西が幕末から明治初年にかけて行った苦労、それを蘭学で前野良沢らがおこなったような基礎作業も含めて行ったのが、中国人の学者とそれに協力した西洋人の宣教師たちでした。

「蘭学」と呼ばれることになる西洋の知識の導入のきっかけは、中国人が翻訳した洋書を読むことからはじまりました。
中国の学者たちが、自然科学の用語をはじめ多くの欧米語を、宣教師たちとともに「あーでもない、こーでもない」と頭をひねりながら漢語に訳していったのです。
こうした人たちの努力の成果を青木昆陽が、そして平賀源内が学んだのです。前野良沢らの解体新書の翻訳も、こうした基礎作業のうえに立っていたのだろうと考えられます。
日本人は中国人が翻訳した洋書で、西洋文化を学びました。現在用いられる西洋の言葉の訳語は、まず中国の学者がまず考えたものでした。

東アジア共通語=「漢文」の実力

東アジアの知識人にとってありがたかったのは、漢文という共通語の存在です。中国の公式の文語である漢文は、そもそも話をすることができない国内の人びとや中国周辺の蛮族(日本人ももちろんその一つです)との間で意思疎通をするため、しゃべれなくとも意味が通じるという言語です。返り点をうってその内容を理解するという日本的な漢文の読み方は邪道でなく正当な漢文の読み方です。音声で通用させることなどは最初から期待していないのですから・・。
話が横道にそれました。このように、音声でなくとも意味が通じるという言語上に、まず中国の学者たちが西洋の知識を漢語でアップロードしました。東アジア文化圏の知識人はこれにより、東アジア共通語によって西洋の知識のアクセスできるようになったのです
幕末の日本において、蘭学者と並んで西洋への深い知識を持っていたのは、中国直系の学問であるため大義名分論に凝り固まったなどとの誤解を受けてきた朱子学を学んだ人びとでした。
高い国際的教養に裏付けられていたと近年評価される幕府の開明派官僚たちは、こうした朱子学の基礎の上で育てられました。

東アジア共通のデータベースの存在

では西洋の知識を翻訳した中国の学者たちは、どのようにして適切な漢語を選び出していったのでしょうか。
それは、中国文明のなかで蓄積された歴史・思想・学問などの膨大な知識、データベースからです。このデータベースの中から、西洋の言葉に最適な訳語を見いだし、当てはめていったのです。
注意しておきたいのは、このデータベースは東アジア世界全体で共有されていたということです。日本や朝鮮の知識人は、自国の歴史以上に中国の歴史についての深い知識を持っていました。「儒教」とくに「朱子学の知識は東アジア全土に共有されていました。やや衰退傾向にあった「仏教」ですが、それでもデータベース上にはしっかりと保存されていたのです。
こうした知識の多くが共有されていたため、個々の単語についてのニュアンスはかなり細かい部分まで共有可能であり、相互理解できたと思われます。言葉に対する日中朝の共通の知識のデータベースが存在したのです。これによって西洋の単語に対する訳語はそれほどのズレもなく、こまかいニュアンスも含めて共有できたのです。民族の枠を越えた討論なども行うことが可能なのです。
さらに、漢語にない言葉、例えば「経済」といった語も、なぜこの語を使ったのかという了解の上で利用できたのです。
西や福沢も、主にこのデータベースから適切な語を選び出してきました。だからこそ、彼らが用いた訳語が中国にも逆輸出可能だったのです。

「西洋知識の導入」という壮大なプロジェクト

こうして考えるならば、西や福沢に代表される欧米の思想や文明の導入自体、16世紀以来、続けられてきた東アジア文化圏全体で行われた西洋知識の導入という国際的共同作業の一環、巨大なプロジェクトの一環だったと考えることができます。東アジア諸民族の知識を結集し、適切な訳語を中国史・思想を中心とする巨大なデータベースから選び出し、吟味して、あてはめていく作業でした。
私たちは、英語の力がそれほどなくとも、世界の高度な知識にアクセスすることが可能です。それは東アジア文化圏、とくにインターナショナルな言語である漢文・漢語のもつ偉大な力、漢文とそこにつながる中華文明圏の巨大なデータベースの恩恵があったからこそでした
日本人が中国に漢語を逆輸出したというような浅薄でナショナリスティックないい方では、とらえきれない広がり、壮大なプロジェクトが、私たちがつかっている欧米起源の用語の翻訳の背景にあったのです。
最後に、最初に示した原田敬一氏の著書の一部を引用して、今回のまとめとします。
近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになるが(中略)問題は、優等生だったことが一方的に強調されすぎることである。日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことが語られすぎている。
15世紀から19世紀にかけての中国文明が、まずヨーロッパ文明を消化し、アジアに送り出していったことが、なぜこんなに簡単に忘れられたのであろうか。日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった