戦争体験を語るということ

つらい真実は、話すことができないものだ・・・!~戦争体験を語るということ~

 

市民講座で話された講師の先生の話を紹介します。
戦争責任という話にかかわって、話された内容です。

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戦争の真の姿はなかなか語られませんでした。復員兵も、引き揚げ者も、シベリア抑留の人もなかなか口を開きませんでした。
実際は、開けなかったのです。
戦争のすべてを話すまで、気持ちの整理をするまでには、時間がかかりました。自分のやってきたこと、つらい思い出などを整理するのに時間がかかったからです。残虐な行為をしてしまったり、なかまを見殺しにしたり、逃げてくる途中で子どもを捨てたり、置き去りにしてきた体験を話すことは、簡単ではありません。

こんなことがありました。
満州移民が逃げる途上、松花江を渡る船をソ連軍が機銃掃射で沈めました。多くの人が川に投げ出されました。そうして投げ出された母子は、なんとか木片をみつけ、それにすがったそうです。ところが、別の男性が母子からその木片を奪いとり、自分だけ命を長らえました。
同じ村の出身で、一緒に暮らしていた親子の命を奪う行動をしたのです。そんなつらい経験、すぐに話すことなどできますか。なかなかできなかったと思います。

私(「講師の先生」)は80年代、南京事件にかかわった元兵士から聞き取りをつづけていました。ある人の所にいったときのことです。
元兵士は仏壇の前に自分たちを連れて行き、そこで両手を固く握りしめ、震えながら話し始められました。おっしゃられました。「自分はもうすぐあっちへ行く。そこで、自分がひどい目にあわせた人にあうことになるだろう。ここで話しておかなければ、向こうでひどい目にあわせた人たちに合わせる顔がない」。こういって話をされました。

つらい経験をした人は、本当のことをなかなか話せないものです。「軍隊で病気になった」こととか、「ひどい上官がいた」とかは話しても、すべてのことを話せるものではありません。とくに思い出したくないほど、つらい出来事は。だから、戦争直後といっても、戦場のほんとうに厳しい話は、なかなか世間には伝わらなかったのです。
シベリア抑留の人は比較的話されることが多かったようです。原爆被爆者の方が口を開かれるのも、かなり時間が経ってからのことでした。

参加している方に)あの話はやはりできないのですね。(うなずかれる)

いまでも口を開かれない人もいます。

それは韓国の人にとってもそうでした。元慰安婦の方が、名乗り出られて、話し出されたのも、90年代になってからでしょう。

こうした理由から、戦場の体験が共有されたことが少なかったのです。人生の最後になって、やっと話し始められた人が多いのです。死んでも死にきれないという気持ちで話されるのでしょう。
したがって、こうした戦争の加害責任の問題が語られることはすくなかったと思います

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わたしも、授業中継のなかに同様のことを書いている。
しかし、実際に聞き取りにまわられた先生の話だけにその重みを感じた。戦争中の体験を話せないまま、生き続けた人のいることを忘れてはならないと思う。

さらに、こうした人を苦しめたのは、「日本軍がそんなことをするはずがない」「日本兵をおとしめる」などといい、それに同意を求める動きであった。さらに、勇気をもって証言した人を「嘘」呼ばわりする風潮も。
戦後になっても、国家は「兵士」たちを苦しめ続けたし、続けている。

江戸時代の名前と戸籍法 ~「名前」をめぐる明治維新史(1)

江戸時代の名前の規則と戸籍法
~「名前」をめぐる明治維新史(1)

大学での授業は気になっていたことを一挙に解決してくれることがある。
歴史研究者からすれば、当然のだが、一般人にはあまり知られていないことがある。
今回、教えていただいた内容は江戸時代において名を名乗るの原則であり、それが明治維新によってどう変わったかである。
祖先調べで資料(史料でない!)にでてくる名前で苦しんだ経験があったので、この内容は非常に興味深かった。幕末維新史の大家の先生の話からは多くの発見ができる。

今回は先生の話を紹介しつつ、追加的に調べたことを交えて、幕末維新史をめぐる「名前」について記し、次回は応用編として私が祖先調べの中でわかったことを述べていきたい。
なお、先生は幕末維新史の政治史にかかわってでてきた内容なので、武家の「名前」にかかわる話となり、庶民の名前には触れておられない。個人的に、庶民の名前についても調べたいという興味もわいてきた。

前近代の名前の原則~坂本龍馬の名前から

坂本龍馬が例として扱われた。龍馬の正式の名乗りを記すと

坂本・龍馬・紀・直柔
(さかもと・りょうま・き(の)・なおなり)

坂本」が「」の名前、今でいう名字、坂本家の出身であることを示す。
龍馬」が「通称」であり、家族や仲間が一般に用いる名前。だから、一般にはこれが用いられる。 愛称になると、省略されたりするのは現在と同じである。

実際に多く用いられるのが通称である。有名な者としては、西郷「吉之助」、大久保「一蔵」などがこれにあたる。一般に用いられるのはここまでである。

残りの「紀・直柔」は一般には用いられない名前である。子孫が系図に記したり、墓石に刻むための名前である。
ちなみに「」は、「姓(かばね)」であり、先祖の家系を示すものであり、多くは「源平藤橘」の4姓が用いられることがおおい。とくに藤原がおおい。「大部分はフィクションであろう」というのが先生の見立てだ。
そして「直柔」が「」であり「諱(いみな」ともよばれる。

なお国語大辞典では諱とは「「忌み名」の意味であり、① 本名。生前の名で、その死後人々がいう。② 死後に尊んで付けた称号。おくりな。のちのいみな。③ (①の意を誤って) 実名の敬称。貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。」とあるように、本名ではあるが死後にもちいられることを原則とした名前といえるようである。
ただし、江戸時代の大名家などでは、③のように諱を貴人の一字を賜わる時などにいうことが多かった。

目上の人を呼ぶためには~吉田松陰の例

通称で呼ぶあうのは、基本的に、「上から」ないし「横から」の呼び方であり、目下から目上を呼ぶことには用いにくい。
そこで、吉田松陰の例があげられる。松陰の正式な名乗りを記す。

 吉田・寅次郎・藤原・矩方
(よしだ・とらじろう・ふじわら・のりかた)

 さきほどの理屈で、目上の者や家族、友人は、「とらじろう」やそれを略した愛称「とら」で松陰を呼ぶことになる。小説などで、主君の毛利敬親が松陰の命日に「今日はトラの日であったな」と話すのはこうした仕組みからである。
しかし、目下の者、とりわけ弟子などが「とらじろう先生」と呼ぶのは、恐れ多いことと考えられた。そこで用いられたのが「号(ごう)」である。こうして弟子たちは「松陰」先生と呼ぶことになる。門人が先生を呼ぶときは「号」が用いられる。
さらにちょっと気取った文人・学者世界では「字(あざな)」を用い、「子義」という「字」が多く用いられた。

ちなみに松陰は多くの名をもっている。
「国史大辞典」によると「幼名虎之助、のち大次郎、松次郎、寅次郎に改む。名は矩方、字は義卿または子義、松陰・二十一回猛士と号す」となる。

「号」と「字」の違いが今ひとつわからないが、「国語大辞典」によれば、「号」は「特に、学者、文人、画家などが、本名、字(あざな)のほかに付ける名。雅号。」とあり、「字」は、「㋑中国で、男子が元服の時につけて、それ以後通用させた別名。通常、実名と何らかの関係のある文字が選ばれる。実名を知られるのを忌んだ原始信仰に基づき、実名を呼ぶのを不敬と考えるようになったところからの風習。㋺ 日本で、中国の風習にならって文人、学者などがつけた、実名以外の名。」である。さらに「江戸時代には、儒者・文人の間に広まったが、総じて尊称的なものと考えられていたようである。」との説明が付されている。尊称とあるように「字」の方がより気取った感じなのだろうか。

「偉い人」は「官位」が名前~「遠山金さん」と「一橋中納言」

これが大名や有力旗本になるともっと面倒になる。先生が例を挙げたのが「遠山の金さん」だ。まず正式名を記す。

 遠山・金四郎・藤原・景元
(とおやま・きんしろう・ふじわら・かげもと)

となり、原則はこれまで通りであり、通称を用いて「遠山金四郎」という呼び方が用いられる。ところが、官職につくと、「官名」がつく。「国史大辞典」によると、天保7年に「左衛門尉」という官位があたえられる。これ以降、一般的な呼び方は官名でよばれるようになる。周囲の人々も、自らも「金四郎」でなく「左衛門尉」「左衛門尉様」と呼ぶことになるのだ。おなじみの「遠山左衛門尉様、ご出座」という呼び方になる。
ちなみに、彼は天保3年に「大隅守」の官位をもらっており、それ以後の5年間は「遠山大隅守様」であったことになる。
こうして、官位を持った者は官位で呼ばれることが大きな意味をもつ。
徳川慶喜などは「一橋中納言」と呼ばれていた。

私もたまに、幕末期の史料を見ることもあるが、大名や旗本の名前が出てくればとても困る。たとえば、幕末の村上「藩」の家臣などは、「紀伊守家中」としてしか史料にでてこないこともあり、特定することが非常に困難である。

「名前が一つにされる」~戸籍法と壬申戸籍

こうした状況が大きく変わるのが明治4年の戸籍法である。これに基づき翌明治5年から編成されたのが壬申戸籍である。近代国家形成に伴い、政府は人間を名前で掌握する必要が生まれた。これまでのように一人の人間がいくつもの名前を持ち、立場や状況によっていくつもの名前を用いるのでは個人が特定できなくなる。そうすれば、徴税や徴兵といった事業を行うことが困難になるのだ。こうして「個人の名前は一つでなければならないし、一生変えることが出来ない」という原則が打ち立てられる。
こうした中で、超有名人をめぐる一種の「喜劇」が発生する。先生が紹介したのが西郷隆盛の例だ。例によって、隆盛の幕末における正式な名を記す。

 西郷・吉之助・平・隆永
(さいごう・きちのすけ・たいら(の)・たかなが)

 おかしなことに気がつかないであろうか。西郷隆盛の「隆盛」はどこにいったのか?
戸籍法・壬申戸籍の編成にあたって、西郷は代理人に戸籍名の届けをだした。先に見たように、「名 」「諱」は一般には使われることはなく、西郷もつねに「吉之助」で通用させていた。したがって、代理人は、彼の名(諱)である「隆永」でなく父親の名(諱)である「隆盛」として届けたというのである。嘘のような話であるが、史料批判の厳しさには定評のある師のことであるので、事実だと思う。実際の所、西郷は自らの署名は常に「吉之助」で通している。しかし、先生はいう。「西郷は一度だけ『隆盛』という署名をしている。それは西南戦争に際して『伺いたきことがあり兵をつれて東京へ向かう』という文書を鹿児島県知事大山綱良に提出したとき、そのときだけはさすがに『隆盛』という署名をした」とのことである。

先生は、「明治になって『名前が変わった』。以前は名前は何種類もあったのが、戸籍法によって一つに固定された。しかし、正式にいうと近代になって『名前を支える論理が変わった』というべきである」と話された。
先生のいいたかったことは、こうした具体的な事例を通じて、明治の変革の意味が見えてくるのだといいたかったのだとおもった。

非常に興味深い話であった。この話を聞いて、さっそく私が把握しているだけでも5つの名をもつ私の高祖父、その一家がそれぞれの名前をどのように届けたかを整理したいと考えた。それによって、現在の名前のいくつかのパターンもみえてくると思う。

管理も部活動もしたくないんだけど・・

「憲法は『校門』の前で立ち止まる」

ツイッターなどで、教師の長時間労働、とりわけ部活動のあり方への厳しい批判がなされています。同時に、そこでおこなわれている指導内容にも厳しい目が向けられています。その批判をききながら、かつてきびしい「校則」批判や管理教育批判が世間をおおっていたことを思い出します。ジャーナリストで現世田谷区長の保坂展人氏などがその急先鋒でした。「憲法は『校門』の前で立ち止まる」とさえいわれました。私も、当時、指導していた社研部の生徒たちから厳しく迫られました。「たしかにその批判は当たっている」と思いつつ、なんとも腰の据わらぬ対応をしていました。

「幸福な高校」の代償としての「管理主義」?

現在、この問題はどうなっているのでしょうか。少なくともかつてのようなジャーナリスティックな批判は消えました。しかし、こうした管理的手法がなくなったとはおもえないのですが。教師というのは、自分以外の学校は意外なほどわからないのですが。こうした管理主義的指導は続いているのでしょうか。

 私が最後に勤めた高校は「管理」が大手を振っていた学校でした。「部活動」が過剰な高校でもありました。そんな学校であるという評判もあって、生徒指導案件も少なく、安定していました。「管理」によって生徒が萎縮するといういい方がされますが、私のいた数年についてはそうした面よりも中学時代には小さくなっていた生徒が安心して楽しく通えたという面が表に出ていたようです。授業を妨害したり、騒いだりする生徒がいないため、生徒もある程度授業に集中できたし、まじめに授業に取り込むことを馬鹿にする風潮もありませんでした。提出物なども出やすかったし、教師も授業でいろいろな工夫をしやすかったと思います。
目に見える「いじめ」はなく多くの生徒が「安心」して「普通に」に授業をうけ、部活動に熱中する、そんな「平和」な高校生活を送れるという点では効果があったことは認めざるをえません。学校や授業が「平和」だと、教師の側も「幸福」に暮らせます。「怒鳴りあい」と「緊張」、「居眠りの大軍」では、教師も生徒も神経を病んでしまいます。
 ただ、熱心なので、効果があがっていると思うと、そうでもないことにも衝撃を受けましたが・・。学科の特質や長時間通学が多かったせいもありますが、中退する生徒がかなりの数になっていたのも事実です。その理由の一つに、学校の管理的なありかた、それを体現した「教科」の存在もあったようです。

 学校において「管理」は「平和」「幸福」をえるための代償?!でした。この『授業中継』もこうした学校での授業が原型です。静粛にさせるのが精一杯だった学校ではこのような授業はできなかったでしょう。こうした「管理」的手法がいいのかどうかは、最後まで自分なりの答えを出せませんでした。とりあえず、事実だけを記しておきます。
ただ、世間からこのような教育における管理的手法にたいする批判や疑問がなくなってしまったことについては「それでいいの?」という気持ちもあります。

何もできない『新採』の野球部長を支えた職場

最近の部活動批判の主張自体に文句はありません。本務でない部活動の理不尽さは、退職の数年前、全く指導ができない体育系部活動の主顧問となって苦しめられた経験からもよくわかります。(この経験は別稿「授業は仕事の合間にする仕事?」のなかで一部触れています。参照してください。

 私は大学を出て講師経験もないまま採用され、担任をもち、専攻であった「日本史」「世界史」でもなく「地理」の授業をもち、そして形式的ではあれ野球部長にさせられました。まったくの運動音痴の私が!です。「練習に出てこい」といわれ、放課後、なすこともないままグランドのすみに座り、土日は平日よりも早く起きて近隣の町で行われる試合に付き添いました。田舎町では高校野球部が“町の『タイガース』『カープ』”です。飲んでいると「○○高の野球部は何をやっているんだ。△△(主顧問で監督の老先生)のせいだ。」などという酔客の声、知らんふりをし続ける、そんな日々でした。
校内暴力が話題になっていた時代です。次々と起こる生徒指導上の案件(とはいえパーマなど頭髪加工やバイク免許証取得などが中心ですが)の合間を縫っての教材研究、とはいえ、教える科目は、何を、どう教えるのか、皆目わからない「地理」です。授業は“お祭り状態!”、ひどいものでした。そうした時代、ありがたかったのは、職場の仲間の存在でした。野球部の実務はメインの先生たちがやっておられました。同じ宿舎には同期採用の先生がおり、若い先生も多く、年長の先生も(「悪い」ことも含め)なにかと気をつかってくださったので、乗り切ることができました。

失敗を許さず、馬鹿話の聞こえない学校での長時間労働

当時はいろいろな面でアバウトでした。失敗だらけの私を許す空気がありました。ところが、約四〇年の間で、しだいに教職員管理が強化され、現場では失敗を許さないピリピリした空気が生まれてきました。さらに教育の向上にはまったく不要な雑務が教育行政からおりてきます。学校改革や教育改革などと称して、現場のニーズとはかけ離れた内容から来る不満やストレスがあふれています。職場の合意のないままトップダウンですすむ学校運営は「ご勝手に!」という空気を作ります。職場の協力体制を作ることが困難になり、管理職に見込まれた(職場内では・・・の人も多いのですが)「まじめな人」に仕事が集中し、痛い目に遭わされます。(しかも部活動に熱心な人が多いので、仕事はいっそう過酷になる
自分の仕事だけをきっちりやればよい」という空気が広がり、逆に失敗には厳しくなります。こうして、自分の責任部分に対する緊張が増し、自己責任論が大手を振っていきます。かつて馬鹿話とともに教育論が語られた職員室は静粛の場となり、キーボードの音が響いているようです。(私は、オールドスタイルが残る小部屋に「隔離」されていたのでそれほどではありませんでしたが
先生方は多忙です。昔もそうでした。しかし、かつては職場で支える空気がきつさを和らげていました。「まあ、つきあってやるか」と仕事を分担したて手伝ったりしてくれる人がいました。そうした仲間や先輩たちをまわりに見いだせなくなったことが、多くの先生を痛めつけます。
仕事が終われば、そそくさと帰る人がいる一方、仕事が集中する人もいます。かつては、考査のときに行われていたような各種の職場の福利厚生事業も「地域の目」などといったことを口実に消えていきました。「先生たち楽しそうにやっているね。」というポジティブなとらえ方にかわって、「勤務時間になによやっているのだ!」というネガティブな声の方が教育現場を包むようになりました。功罪半ばともいえる「呑みニュケーション」は劇的に減りました。
孤立化が進み、相談に乗りにくい職場での長時間勤務は過酷です。肉体だけでなく精神的にも破壊的な役割を持ちます。長時間労働の身体的・精神的破壊力は職場の雰囲気で倍増します。みんなからいやがられている仕事を押しつけられている人はもっとそうでしょう。(明るい職場環境が長時間勤務を生みやすい面もあることも事実ですが…)
「本務でもない」のに圧倒的な責任を負わされる部活動は耐えられないものです。協力体制がなく、一人でかぶらされたときのきつさはひどいものです。さらに学習には期待しなくても、部活動に期待する親や地域の方が増えてきたようにも思います。そのため、さまざまなヤジが飛んできます。しんどい部活動を若い先生や転勤したての先生に押しつけられるのもよくある話です。部活動への全員加入制を取っている学校などはいっそうきびしいでしょう。「今度の顧問は・・・」という容赦のない声が聞こえます。

部活動返上となぜいいにくいのか?

現在あるような部活動は改めるべきなのはいうまでもありません。学校教育から社会教育へ移行すべきであるという主張も正しいものです。

しかし、そういったことをわかっていながら、現在の「部活動は本務でない。だから返上すべきだ」といういい方は、職場では多数派にはならず、組合活動に熱心な先生も含めて、腰が引けてしまいます。かつて一世を風靡した「『校則』などの管理は学校教育になじまない」という声とともに、「でもね・・・」という違和感が生まれているのです。

まず、社会教育に移行した場合の問題点を指摘しておきます。
ひとつは指導者の問題です。現在でも校外の技術指導者に手伝ってもらうシステムはあります。しかし、生徒指導の責任は学校・顧問教師が負い、技術指導者も顧問の管理下に指導します。ですから顧問教師の試合の付き添いも減りません。
わずかな礼金でボランティアに来てくださるありがたい外部指導者ですが、教育者ではありませんので、学校としてのルールを理解していただきにくい方もおられることも事実です。学校教育の一環としての部活動であることを忘れ、勝利至上主義になったり、学業とのバランスを欠く指導をされるなど、学校の方針とズレてしまい顧問教師など学校側が走り回ることも多々あります。一度お願いした方にお引き取り願うのは大変だという声も聞きました。「教育としての論理」を学外指導者に求めることは難しい問題でした。
近年、都市部では職業的なコーチ集団が請け負われ、試合の付き添いなども教職員なしでもよいとテレビではいっていましたが、責任の問題はどうクリアするのか、「教育としての論理」とのかねあいが気になります。活動場所や費用なども気になるし、「教育としての論理」が担保されるのかが気になります。

「教育の本質」とかかわって部活動を考える

さらに、教育の本質にかかわる問題があります。
この文章の出発点は、前々回の(高校で教える歴史の教師か、歴史を教える高校教師か?から独立させたもので、生徒指導や部活動への教師の関わりを中心に書くことにしました。しかし、前置きだけでかなりの分量になってしまいました。

ともあれ、本文に入りましょう。「教育の論理」との関わりの中で部活動を考えた部分です。

まず前々回の内容を、書き直した形で引用しておきます。(色の変わっている部分が、今回主に書き直した部分です。)

教師が課せられた役割とは

このような役割を担わされたにせよ、古い世代が次の世代に彼らが学ぶべきと考えた知識を伝授し、生きる力、集団に貢献できるような力を身につけさせようとするという教育の原初以来の機能はかわりません。
 (中略)
近代社会においては国家の要請に沿うことも多くなりますが、人類が未来を託すことが教育の目的である以上、それにとどまらない役割も持っているのです。
このように考えてくれば、教師の使命も見えてきます。それは、自分たちが先人から引き継いできた社会や文化をよい形で次の世代に受け継ぎ、よりよいものとして発達させ、再生産してもらうための手助けなのです。古い世代が受け継いできたバトンを、しっかりとバトンタッチすること、その営みが教育の役割だと思います。
こうした機能を専門的に特化した「学校」という機関において、教師たちが機能を分担しながら伝えていくのです。
近代資本主義社会は、個々の人間を「原子」化するとともに、人間関係を経済的関係へと置き替えていきます。子育ての負担は、これまで以上に家族とくに母親へ集中しますが、これまで母親を支え育ててきた家族や地域社会は衰退しています。「よってたかって子どもを育てた『おせっかいな人間』たち」が子ども(と母親)のまわりから消えていき、地域や家庭で分有されてきた「教育」機能が弱体化します。おいつめられた母親たちはその悲鳴を「教育」を公的に担う学校にクレームという形などで向けてきます。地域すらが似た行動を取るようになります。
家庭・地域・学校といった三者で担うべき「教育」機能ですが、前の二者の機能も学校教育へ吹き寄せられてきます。このなかに「生きる力、集団に貢献できるような力」という「教育の原初以来の機能」にかかわるものがあり、「この力を身に付けずに大人になることは困る」という役割すらも押しつけられます。
こうした役割は、「国家の求める「規格」に合致した「製品」としての「国民」をつくる」というあり方や「国民道徳を涵養する」という戦前以来の公教育が担わされてきた役割と響き合う形で、現在の学校に持ち込まれているのです。
こうした役割は「次の世代が学ぶべき知識を伝授」を主要な課題とする学校教育になじまないとして拒否することも可能でしょう。それは地域や家庭の問題だといって。しかし、疲弊した地域や崩壊しつつある家庭のなかで、「生きる力、集団に貢献できるような力」を育てる課題を放棄できるのか、という苦しい選択が強いられているのです。この役割も、文句も言わず引き受けてきたのが「学校」でした。「人間サンドバック」になりながら。
部活動もそうです。「本務ではない」。しかし、そこには、学校教育を超えた教育の本質にかかわるものがあり、個人や社会の形成にかかわる「教育」で効果を上げることも多い・・。
こうして、学校は、教師は、家庭や地域が担いきれなくなった教育に対する役割すらをも背負い込み、身動きがとれなくなってしまっています。
たしかに労働条件から見ると、教育現場は「ブラック企業」のひとつです。ところが、自分たちの仕事が、児童生徒の人間としての発達・成長を保障し、それによって社会を支えているという意識(思い込みが多々あるとおもいますが)が、こうした過酷な環境を容認させているのかもしれません。
ともあれ、こうした内容さえ付与されてしまった「教育」の専門機関が学校です。

いいたいことの多くはここでいってしまったような気がします。
本音の一部を言いましょう。授業では希薄な人間関係が、部活動だと親密になる(なったような気がする)という人がいます。それは生徒にとってもそうでしょう。授業などでは伝わりにくい「ことば」が入っていくのはうれしいものですし、集団のなかの一人である生徒に先生が正面から対応してくれる。生徒が真剣に物事に取り組み、真剣にとりくみ、結果もでるという状況は教師を燃えさせます。自分の指示で生徒が動くことは気持ちがよいものです。がんばれば、父母からも評価してもらえることもおおい。こうして、「部活動なんて」といっていた教師が「転向」していくことも・・。ときには勘違いも起こりやすく、マスコミを賑わす問題の発生する土壌もこのあたりにあるのですが・・・。

労働者としての教師の労働環境は「ブラック『企業』」であり、部活動は教師としても「本務ではない」し、ただちに、こうした状況を改善すべきだ。教師の長時間労働が本来の教育活動、とくに授業の質の低下につながっていることも事実です。こうした状況にただちにメスをいれる必要があります。早急に改善されねばなりません。
しかし、これまで見てきたような事情もあって、「こんなもの放り出してしまえ!」と勇敢に言い切れず、多くの先生方が口ごもってしまうのです。

青少年犯罪の割合が少ない日本~「学校」の日本的役割?!

「校則には基本的人権に反するものがある」、「服装や頭髪指導はおかしい」といういい方に対しても、やはり同様の思いがあります。そうした「管理」をやめて、本当に学校がうまく動いていくのか、学校の機能が維持できなくなるのではないかという恐怖心です。

何かで聞いたことがあります。「日本では青少年犯罪の割合が世界と比べて著しく少ない。」その話を少ししたいと思います。

外国においては、「野放し」にされている「困っている」若者が、日本ではあまり「野放し」にされていない。若者の大部分が、とりあえず学校(中学・高等学校)という「教育」機関に居場所をもち(「収容」?され)、教育的指導をうける。あるいみでは、学校は「矯正」機関であり、「警察」「裁判所」さらには「刑務所」の役割すら果たしている。裏返しとした、地域ではよっぽど「困っている」若者は以外は、あまり可視化されず、昼間からぶらぶらしていれば、それこそ「警察」などに目を付けられるというのです。
警察が行うような仕事を、学校が「生徒指導」の名で行う。こうしてよかれ悪しかれ、日本の治安は保たれ、町には、目を合わせるのを躊躇するような行き場のない若者は少なく、「△△高校の○○部の連中の電車内のマナーは悪い」の程度ですんでいるのです。警察や裁判所・刑務所はおかげで「楽」をし、司法予算も、都市政策予算も、青少年の職業支援費用も安上がりですんでいる・・・。

まあ、そんな内容でした。
話を聞いて、喜んでいいのか、腹立たしく思うべきなのか、苦笑いをした思い出があります。「それならもっと学校にカネをよこせ」といちゃもんをつけたくもなりました。
現在の学校、とくに部活動にはこうした治安維持の機能があるのかもしれません。現在の学校は、「学習」機能より「託児所」「青年保育所」の機能と「矯正」機能の方が重要なのかもしれません。ちょうど、小学生高学年の学習塾や習い事・スポーツクラブが学童保育所のかわりとなっているように・・。
 学校は秩序維持の効果を担うとともに、将来の社会問題化を鎮めている面もあります。行き場のない「困っている」生徒を支え、その苦しみをある程度聞いてやり、「このまま卒業したらあかんやろ!」という部分は指摘しとくには「矯正」し、進路保障の手助けもする。こうした役割も行っています。

管理主義に支えられる現在の「学校」

「管理」を強化する理由、もうすこし露骨な話をしましょうか。さっき前任校の話でしたように「しめあげないと、授業、そして学校が成立しなくなる」との恐怖心があるからです。教育、とくに授業は楽しいものとはいいきれません。いろんな事情で授業についてこられない生徒もたくさんいます。おとなしくすることが「体質」として苦手な生徒もいます。家庭生活上の重い事情をかかえていたり、学校以外のことが大切な生徒がいます。なぜ授業を受けなければならないのかわからないという生徒が大多数かもしれません。そうしてなかで授業を行ない、学校活動をすすめているのです。
原初の教育では教育をする側は、村の長老や父や母、年長者といったある種の権威や権力を背景に、とくにはさまざまな強制力も行使しながら、教育活動を進めます。教育というものが、ある意味では動物としての人間の本質とあまり合致しないものである以上、こうした強制力も必要になるのでしょう。こうしてこそ「矯正」といった役割も達成できるのでしょう。
「よい授業、わかる授業をしないおまえたちが悪いのだ」という声も聞こえてきそうです。教師も、生徒の状況を配慮し、興味関心を引くように工夫し、その理解を引きつけようとしますが、限界があります。考えてみてください。3~40人、しかもさっき見たようないろいろな人に、話を聞かせること、できますか?授業成立のためには、さまざまな手段を使います。発問、討論、さまざまなエピソードや各種の冗談、下ネタに特技、考査や落第などの成績面での脅し、怒声などによる威嚇、各種の「懲戒」などなど。それでもなかなかうまくいかないのが実態です。下手をすれば「反撃」を食らいます。教師は、日々こうしたなかで授業実践を進めています。しかし個人的な努力では限界があります。このため、学校全体としての権威や権力を強め、授業は静粛に受けなければならないという秩序をつくろうとするのです。こうして学校は秩序を揺るがす可能性のあるものを排除するために、校則などでハリネズミのように武装しはじめるのです。一度、こうした道を歩み出すとそれはエスカレートしていきます。
手を緩めると取り返しがつかなくなる」学校でよく話される言葉です

なぜ部活動も管理主義教育もいやでたまらないんだけど・・

学校には、校則による管理などがいやでいやでたまらない教師が山ほどいます。学校で決まっていたからとしかたなしにやっている人もたくさんいます。部活動も同様です。しかし、心のどこかで仕方ないなと思う人も一定数に上ります。その背景にはこんな事情も隠れているとおもいます。

ツイッターなどで勇敢に「部活動を拒否します」という書き込みを見て、「自分にはそれだけの勇気がなかった、がんばれ」と思う反面、現場時代のいろいろなしがらみを考え、さらに拒否しただけでは終わらない学校をめぐるさまざまな問題、若者を育てるということなど、いろいろな問題をついつい考えてしまいました。頑張っている人の足を引っ張ってしまうかのような文章になってしまったことをお詫びします。