開戦の年に建てられた「慰霊碑」

「慰霊」ということ(後)
~開戦の年にたてられた「慰霊碑」~

「慰霊碑」は開戦の年に建てられた!

 前編では2019年4月1日付で「朝日新聞」が報じたマレーシアに残る「慰霊碑」の記事にかかわって、現地において「慰霊」を行うという行為を、戦後の「けじめ」という点にかかわりながら記してきました。
しかし、前編の最後で、この「慰霊碑」は、こうした範疇には当てはまらないことに気がついたと記しました。なぜならこの「慰霊碑」が建てられたのは、1941年、つまり戦争中、しかも開戦の年に建立された、正確には、建立されたことになっているからです。
とすれば、戦後の慰霊について記した前編の文章とは前提が全く異なっています。
以下、ネット上に記された他の記事なども参照しながら、この「慰霊碑」について考えてたいと思います。

「修復」という名の新たな「建立」?

Record china「「日本軍は英雄」?マレーシアの慰霊碑案内板に韓国ネットがため息」2019年3月28日(木)発信https:// ://www.recordchina.co.jp/b698498-s0-c30-d0058.html

いくつかの写真を見ると、慰霊碑は御影石で作られたピカピカ光っているお墓型の慰霊碑です。式典参列者の背丈から推測して2メートルはゆうにこえる、かなり背の高いものだということがわかります。今回、周辺も整備されました。他方、写真で見る限りこの碑のまわりに古い「慰霊碑」らしきものは見当たりません。
朝日新聞デジタルの写真から、碑の正面には「慰霊碑」という題字が刻まれ、左側面には以下の文字が認められます。

この地に眠る先人をしのび、平和の思いを込めて、この碑を建立する。
  平成31年吉日
  在ベナン日本総領事館

この碑文から見れば、在ベナン総領事館は修復というよりあらたに「建立」したつもりだったようにもみえます。碑文は前回見た「慰霊と祈り」という形式を踏襲します。
いくつかの記事を総合すると、この地に放置された日本軍の古い慰霊碑があったことに気づいた現地の人々が、日本人観光客への観光資源として利用することを思いつき、ベナンの日本領事館と相談し、慰霊碑を建立し、周辺を整備したというということだとおもわれます。
それなら、もともとの慰霊碑はどこにいったのでしょうか。本来なら横にでも置かれていそうなものですが、見当りません。一つの可能性としては、もともとの碑の一部を削って、修復したということですが。

「昭和16年建立」ということへの疑問

もとの慰霊碑が建てられたのは、1941年(昭和16年)と記されています。
アロースターの占領はこの年の12月12~3日です。1941年は約2週間強しか残っていません。さらに日本軍はシンガポールをめざして南進を急いでいます。ちなみにシンガポール陥落は翌年の2月15日です。このような時期に、このような条件下で「慰霊碑」を建てたことになります。
最初は、この記事の記述自体がミスではないかと考えました。現在の慰霊碑は石に文字を刻んだかなり大きな、本格的なものです。もともとの碑を修復したというのなら、短期間にこれだけ「立派」ものが建てる余裕があったのか、これだけのものをつくれる石工がいたのかなど、いくつかの疑問が生じます。
とはいえ、ネット上にある「朝日」の記事に先行する現地に取材した記事は、いずれも1941年建立と記してあることから、記述ミスではなさそうです。もとの碑に「昭和16年建立」と記されていたのだと推測できます。
1942年以降にたてられた(ひょっとすれば日本国内で作られた?)碑に、1941年建立と刻んだのかもしれませんし、逆に元の碑は木製やコンクリート製などより簡素なものだったのかもしれません。
修復というものの、写真で見ることができるように、今回新しくつくったという方が妥当だと思われます。ならば、本来の慰霊碑はどうなったのか、疑問はつきません。
とりあえず、元の碑が戦争中に建てられたことは確かみたいなので、こうした疑問は保留のままとしておきます。

戦意高揚の目的の「慰霊碑」

戦争中に建立されたとすれば、この碑は、前編で考察したようなタイプの「慰霊碑」とはまったく異なる性格をもちます。
現地の観光協会はこの碑を「日本の英雄を讃える記念碑」として売り出そうと考えたといいます。

もっとも問題となったのが、現地の観光協会がつけたこの「碑」の説明文です。全文がネット上の記事に掲載されていました。英・中・マレー語の3つの言語で記したうちの英文からの訳とのことです。

 “1941年、タイのシンゴラに上陸した約5日後の12月11日、日本の闘士たちはチャンドラとジトラ間の英印軍第5師団の第一防衛団を倒すことに成功し、アロールスターの街を征服した。
 日本の次なる標的は第11師団ミュレイ・リオン少将の統治下にあったケダ川の主要な橋だった。1941年12月13日午前10時10分、歩兵第11連隊からの指示を受けた朝井肇中尉はオートバイに乗り、英印軍が橋に仕掛けた爆弾の導火線を切断するべく、橋の北部に向かった。しかし、同時に爆弾が爆発し、彼を殺した。
 同じ部隊の2人の仲間、金子伍長も死亡し、中山伍長は重傷を負った。助けにやってきた仲間たちによる銃撃が続き、最終的に橋は確保された。
 1942年2月15日、シンガポールが陥落し、東南アジアの大日本帝国軍・山下奉文大将は、橋を征服した歩兵第11連隊の戦士たちの固い闘志を讃えるべく、感状を授与した。彼は「朝井肇中尉と彼の仲間たちの勇気と責任感は卓越しており、比類ない。彼らの闘志を見習うべきだ」と強調した“
林泰人「マレーシアに設立された日本兵慰霊碑への波紋。現地紙報道に見る『批判の理由』」ハーバート=オンライン 2019.03.28

記念式典の様子(現地紙 the SUN daily 24 MAR 2019

説明文はこの碑の建てられた当初の目的を見事に描き出してしまいました。
もともと、この碑によって「慰霊」されたのはケダ川をめぐる整備完成の記念式典のようす。戦いでの朝井肇中尉と金子伍長らの「英雄」的行為です。司令官である山下奉文大将から感状を与えられるという性格の「英雄」的行為です。マレーシアの人の命あるいは文化などを救ったというようなものではありません。作戦行動中の兵士たちに戦死した朝井中尉や金子伍長のように勇敢に戦うように叱咤激励する目的のものでした。
 ちなみにネット上のあるブログ(「犀の角」)の記事によると、この説明文の記事は1942年に朝日新聞社が発行した『大東亜戦史 マレー作戦』の要約・引用で、人物名などに誤りがあるということです。(https://sai001.com/malaysia-japan/)
その点では、日本各地に建てられ、「英雄」「軍神」である「肉弾三勇士」を讃えた像と共通した役割を担った性格をになう碑であったということができます。
なお、山下大将が朝井中尉らに感状を与えたのは1942年ということは、この碑の建立の年を考える上で、興味があることです。

「慰霊碑」を「負の遺産」として、

このように、もともとあった「慰霊碑」は私たちがレイテや沖縄で見ている慰霊碑とは全く別ものであることは明らかです。戦後建てられた「慰霊碑」が戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようという思いで建てられたのと異なり、日本軍に勇敢に戦うようにと鼓舞するための「装置」でした。現地の人が詣らされた可能性も否定できません。
このような碑が撤去されないまま放置され、約70年後、よみがえったのです。
現地の観光協会は、戦争において日本軍がどのような存在であったのか、住民とくに中国系の住民にどのような振る舞いをしたのかなどについて、深く考えることのないまま、日本人観光客を招くための観光資源として利用できると考え、ベナンの日本領事館に「修復」と「整備」をもちかけ、日本の文献をもとに説明文を記しました。その背景には、マレー系住民と中国系住民の間の、戦争と日本兵に対する受け止め方の違いがあることも想像に難くありません。
日本領事館は、この碑のもっている意味も考えず、現地の人とくに日本兵によって残虐な仕打ちをうけ十分な「けじめ」ないまま過ごしてきた中国系住民の感情も考えないままないまま、「修復」に協力したのです。もっとも、もとの「碑」の姿が見えないことは都合の悪い古い「碑」を隠蔽し、一般的な「慰霊碑」という風に見せかけようとしたとも邪推が可能です。
しかし、それはあきらかに誤ったやりかたでした。「この地に眠る先人をしのび」というには、もともとの「慰霊碑」自体、問題の多すぎるものでした。日本軍の侵略のためにつくられた「負の遺産」だったからです。もし「慰霊碑」を建てるとすれば、もとの「碑」がフィリピンなどで戦後建てられた慰霊碑とは全く別のものであるという位置づけと意味を明確に記した上で建てられねばならなかったでしょう。もともとの「碑」があるのならそこに何が書いてあるのか、どのように利用されたのかを明らかにしたうえで、マレーシアの人に対する謝罪と慰霊、平和への祈りを明確にしめした新たな「碑」とともに、「負の遺産」であることを示しながら残すべきものだと考えます。

「戦争での死」を悼むことについて

わたしたちは「死者を悼む」「慰霊する」というと思考停止に陥る場合があります。しかし、その「死」がどのような意味をもち、「慰霊」がどのような方向性をもってなされたのかを考える必要があります。それ抜きに、死者を弔うことは大切なことだと一般化するべきではないと考えます。
さきに、戦後に建てられた「慰霊碑」は「戦争によって殺された人々を追悼し、慰霊し、二度と戦争を起こさないようにとして建てられた」と記しました。このいい方は妥当でないかもしれません。戦後建てられた「慰霊碑」のなかにも、このマレーシアの「慰霊碑」とさほど変わらないものを目にすることが多いからです。なくなった人を悼むあまり、その死を意味のあるもの、美しいものとして「顕彰」することを目にすることが多いからです。こうしていつのまに死者への弔いのはずが、戦後の「慰霊碑」をもともとたっていたマレーシアの慰霊碑に近いものにしてしまうのです。
こういったことは、戦争展などでの戦争への語りでも同様です。二度と戦争を行わないという方向で「戦争での死」を語るのか、死者を英雄視することで新たな戦争の道を掃き清めるものとなるのか、ときには厳しく問いかけることが必要だとおもいます。

現地に「慰霊碑」を建てるということ

「慰霊」ということについて(前)
~現地に「慰霊碑」を建てるということ~

フィリピンでの戦争にかかわる文章を書いていたとき、朝日新聞2019年4月1日に次のような記事が載りました。

朝日新聞 2019年4月1日付

かつて日本の占領下にあったマレーシアで、地元政府が旧日本軍兵士の慰霊碑に添えた説明文をめぐり、激しい反発が起きている。日本政府の財政支援を受けて慰霊碑を修復した際、兵士を「英雄」とたたえたためだ。旧日本軍による犠牲が多かった中華系の団体は今週にも日本大使館を訪れ、撤去を求める方針だ。
 ■財政支援の日本、内容把握せず・中華系団体が抗議
 この慰霊碑は北部ケダ州の州都アロースターにある。戦いの要衝だった橋の爆破によって戦死した旧日本軍の兵士らを追悼するため、1941年に建設された。長く破損したまま放置されていたが、日本のペナン総領事館からの財政支援を受け、地元政府などが修復。3月21日に落成式が行われた。
 ところが、慰霊碑の横に、兵士を「英雄」とたたえる説明ボードが設置されたことで、地元で非難がわき起こった。マレーシアでは戦時中、中華系を中心に多くの住民が旧日本軍に殺されており、地元メディアは「侵略軍がなぜ英雄なのか」などと連日報道。華人団体や野党が抗議行動を繰り広げた。
 批判の高まりに、説明文を考案した歴史協会ケダ支部は「慰霊碑を歴史ツアーの名所にして日本の観光客を誘致したかった」と釈明。州政府の担当者が謝罪し、説明ボードも撤去されたが、その後も慰霊碑自体の撤去を求める声が広がり続けている。
 抗議を続ける華人団体「中華大会堂」チェン・ライホック副会長は「戦争被害を受けた人々の傷口に塩を塗る行為。慰霊碑の再建自体が配慮に欠ける」と話す。
 クアラルンプールの日本大使館によると、総領事館は慰霊碑の再建費は出したが、説明ボードの内容は把握していなかった。日本大使館は「ケダ州政府とともに冷静な対応をしていきたい」としている。
 アロースターはマハティール首相の生家がある地盤で、現在は首相の三男のムクリズ氏がケダ州首席大臣を務める。騒動は野党が親日家として知られる首相やムクリズ氏を攻撃する格好の材料になっている。(アロースター=守真弓)

 レイテ島やサマール島で慰霊碑をまわってきただけに、戦争中に日本軍が攻め込み、戦争中に占領し、さらに戦場とした土地に日本兵の「慰霊碑」を建てることの意味を再度考えました。

侵略者の「慰霊」行為は「不快」な行為

最初に押さえておくべきことは、日本人による「慰霊」とその象徴としての「慰霊碑」は、侵略をうけた側からすれば本質的に「不愉快」なことだということです。
この記事の舞台となったシンガポールやマレーシアでは、おもに中国系住民(華僑)が大量虐殺の対象となりました。また私が訪ねたフィリピンでも「バターン死の行進」にはじまり、ゲリラ掃討戦にかかわる住民虐殺、戦場となったレイテ島やルソン島での戦闘に巻き込まれるなどフィリピン人の犠牲者は100万人を超えました。
さらに、日本は、食料や資源を調達する目的での強奪、その「代価」としての軍票(軍が発行した不換紙幣、無制限に発行されたため事実上価値をもたない)発行・使用による破滅的なインフレーションなどを引き起こし、住民の生活や生産基盤を破壊し、耐えがたい苦しみを与えることも多かったのです。
このように、マレーシアでも、シンガポールでも、フィリピンでも、日本兵は侵略者以外の何者でもありませんでした。現地の人から「悪鬼」のように恐れられた日本兵も多くいました。

現地での「慰霊」行為が成り立つために

したがって、現地住民にとっては、日本人による「慰霊」とは、自分たちを苦しめた人間の関係者が、自分たちを苦しめた人間を弔うことです。それをどのように迎えればいいのでしょうか。厳しい言葉を浴びせかけたり、ものを投げつけるという選択肢も可能です。遺骨収集の受け入れや慰霊碑、慰霊行事を断るという選択肢もあります。
しかし多くの地域では、受け入れました。家族を失ない、つらい思いをした人への同情もあったのかもしれません。遺骨収集や慰霊団が落としていくであろう「お金」が必要でもあったでしょう。さまざまな葛藤の中での受け入れでした。

「慰霊」が成り立つ前提としての「儀式」

しかしこうしたことがなりたつためには、「けじめ」をつけるためのいくつかの「儀式」が必要でした。
一つは公的なレベル、政府間での「けじめ」をつけることです。
その点で、フィリピンは条件に恵まれていたかもしれません。アメリカの影響下とはいえ自治政府が、その影響下に独立します。日本政府に対応しうる政治主体が存在しました。日本との戦いにおけるフィリピン人ゲリラの活躍を、アメリカも認めていました。
それにたいし、マレーシアはマレーシア人ではなく宗主国イギリスが代行して日本と対応する形となります。イギリス人にとっては、住民の被害よりも、イギリス軍捕虜の虐待などが重要でした。
また多民族国家マレーシアの特殊性もあります。日本軍はこの地の支配にあたり、住民を人種によって区別して支配しました。中国系住民は「敵」とみなして残虐な対応を、マレー系住民には寛容な態度で臨みます。それにより両者の離反を図りました。今回の出来事に裏にもこうした事情が隠れていると思われます。

「儀式」その1~戦犯訴訟

「けじめ」をつける「儀式」の一つ目は、戦争犯罪者の処罰でした。
連合軍は、マレー半島やフィリピンなど現地で、さらに東京と横浜で、戦争犯罪人を裁判にかけ、約1000人におよぶ人間を死刑に処すなどの処罰を行います。
そして、こうした判決を、日本政府がサンフランシスコ平和条約の第11条において承諾、戦争犯罪の問題はカタがつきました。これが最初の「儀式」です。サンフランシスコ平和条約の全文はここ)

なお、実際の裁判においては、さまざまな問題があったことは事実です。本来裁かれるべきものが日本に逃げ帰ったり、連合国側の都合で訴追されないこともありました。また現場で上からの命令をうけて「手を汚した・そのように見えた」兵士・軍属たちが不十分な証拠で裁かれた例も多々ありました。
勝者の裁判であり、一方的な論拠で裁かれたとの主張もあります。現地の裁判では、人違いや、証拠不十分という例もあり、弁護士・通訳抜きの裁判も多くあります。裁判よりも復讐の思いの方が先行した場合が多くあったことも事実でしょう。また、戦争責任者を裁いた東京裁判では国際情勢の変化から決着を急いだ面もありました。
逆に日本による侵略・占領によって塗炭の苦しみを強いられた現地の側からすれば、戦争犯罪の規模に比してまったく不十分であるという印象を持った人も多く、寛容に過ぎるという批判もあるでしょう。
そういったことすべてを含めて、政府間では「カタをつけた」のです。戦争犯罪人への判決そして処刑・処罰したという事実を日本が国家として認めたのです。
戦争指導者であるA級戦犯が合祀された靖国神社への政府関係者の参拝に、世界が神経質になるのは、この点にかかわるからです。サンフランシスコ平和条約で確認された戦争犯罪を日本政府が否認しようとしている、日本は戦争責任を認めようとしないとみえるからです。

「儀式」その2~賠償問題

戦争犯罪とも重なる問題ですが、「けじめ」をつける二つ目の「儀式」が戦争被害にたいする賠償問題です。
本来なら賠償問題はサンフランシスコ講和会議の席上で決着がつけられるべきでした。しかし西側陣営の一員としての日本の「独立」を急ぐアメリカは、会議で、条約で、賠償問題を扱うことをさけ、減免、あるいは賠償に応じるとしてもその額を軽減する方向をうちだしました。
平和条約(安保条約も)の「実質的なライター」のダレスは、こうした方向で、戦時被害を受けた東南アジアの国々など迫りました。これをきらったビルマ(現:ミャンマ)は会議に参加せず、フィリピンは強い不満をもちつつもアメリカに押し切られる形で条約に調印します。
なお日本が最も迷惑をかけた中国(中華人民共和国も中華民国)は参加せず、植民地であった「朝鮮」代表(韓国も北朝鮮も)も呼ばれませんでした。しっかりとした決着をつけなかったという「負の遺産」が現在の「歴史問題」につながります。
その後、東南アジア諸国などとの、賠償問題(別の形式をとることもあったが)は、二国間交渉を経て、実際の被害からみると非常に少ない金額で、しかも日本側の役務提供という日本資本に有利な形で決着がつきました。
現地の人には不満が残るものではありましたが、「賠償」にかかわる問題は、会議に不参加のビルマを含め、いちおう決着しました。
こうして、多くの問題はあるものの中国や朝鮮半島などを除いて、一連の「儀式」が完了、政府間の「けじめ」がつけられたことになります。

「上からの解決」と「公的な慰霊施設」の建設

比島戦没者の碑 日本政府のフィリピンにおける戦没者慰霊事業として建てられたもの、厚生労働省のHPによると碑文は「ない」。(1953)

もちろん、こうした決着は国家同士の、「親分」間の「手打ち」にすぎません。
戦争のなか、日本軍の行為によって傷ついた人々が日本を赦すかどうかはまったく別です。とはいえ、政府間の合意は、住民にとってもひとつの「けじめ」にはなりました。

「相手も謝っているのだから許してやろう」と考えた人もいたでしょう。不承不承ながらも、了解した人も増えてきたでしょう。「はしごをはずされた」。それでも「赦せない」と考える人も当然いたはずです。
ともあれ、政府間で「けじめ」がついたという事態を踏まえで、遺骨収集事業が始まり、慰霊団も派遣されます。現地政府の協力を得て慰霊碑も建てられ、共催で行われる慰霊行事も実施されました。こうした事業は、上に記したような「儀式」を経ることで実現したのです。(慰霊にかかわる問題ではここでも論じています。)

双方の配慮のもとでの「慰霊」活動の開始

しかし政府の協力を得たとしても、釈然としない人がいて当然でしょう。最初に述べたように、侵略者の家族がやってきて、自分たちを苦しめた人たちに手を合わせるのですから。
日本人戦死者の遺族たちは緊張しながら、海を渡っていきました。日本政府も緊張しつつ、事業に協力します。

フィリピン・レイテ島ドラグの「垣兵団慰霊碑」題字は記されず、日本語と英語の以下の碑文が記される。「ここは太平洋戦争に於いて、比・日・米の多くの戦士達が祖国の為に激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である。再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰り返さぬ為に(略)不戦の誓いを込めて、弔魂の誠を捧げる共に悠久の平和を祈念してこの碑を建立するものである。」

しかし、多くの人たちは思いがけない歓迎と暖かい言葉をうけます。このことが慰霊団の人を感動させました。
初期の慰霊碑の碑文には地元の人々の「目」を意識し、感謝と平和への決意、ときには謝罪のことばも刻まれます。
現地の人々に迷惑をかけたことや双方の平和と友好を求めるといった趣旨の碑文が現地の人々にもわかるように英語や現地語でも記されます。
数次にわたる遺骨収集事業が実施され、遺族会や戦友会などの慰霊団も派遣されました。日本が豊かになると個人的に現地を訪れる人もでてきます。
こうしたことが可能となったのは現地の「協力」あってのことでした。感動した人々のなかには、帰国後も現地の人々と交流を続ける人もいました。さまざまな「お礼」や寄付の意味をこめた援助も行われました。
しかし、いつしかお金を媒介とした関係という性格が生まれてきたことも事実です。現地の感覚とかけ離れた多額の謝礼や寄付は、新たな問題を生みかねないものでした。

「慰霊」事業をめぐる問題の発生

実際に現地に行って日本人が建てた慰霊碑を訪れると「自らが『碑』の管理者である」と名乗る人がときどき現れます。不審に思える人物もいましたが、実際に管理してくれたり、案内してくれる方にはやはりお礼は必要と考え、いろりろと話を聞き、ドライバーにも信頼できそうかを尋ね、妥当な額を渡しました。
しかし「本当かな」という気持ちものこり、「本当に世話をしている方にお礼できていないのでは」との思いもありました。
このように慰霊碑の管理や協力が収入になるという状況がうまれるなか、ルソン島ではフィリピン人の墓から遺骨を盗み、旧日本兵のものとして日本側に売りつけようとした事件も発生しました。
時間がたち、戦争へのリアルな記憶が薄れると、日本人の間でも「現地の目」を気にすることが減りました。日本語のみで記され、現地の人への配慮を欠いた慰霊碑などが増えてきたようにおもわれます。
慰霊碑は現地の人の協力なしには維持できません。慰霊に訪れる人々が減少するなか、その慰霊碑に共感できるなにかがなければこうしたなか慰霊碑は消えていかざるを得ないのでしょう。建てた人たちが慰霊碑を撤去するという事例もふえています。

あるべき「慰霊」とは

フィリピンの歴史家レナト=コンスタンティーは次のようないらだちの言葉を発しています。

長い間くすぶっている不満の原因は、過去に植民地とされた人々に対する日本人の無神経さに由来している。フィリピンのレジスタンスの英雄たちの碑がないのに、フィリピン各地に日本が金を出して、日本人戦没者の慰霊碑が建立されたことに対して、フィリピン人は心を痛めてきた。

慰霊と謝罪の碑(サマール島)  「ここサマール島においては、日本の天皇の軍隊、特に京都からの軍隊によって残虐・非道で人権侵害の行為が行われました。私たち京都市民はそのことを心から謝罪します。そして今後カルバヨク市やサマールの人々と、京都市民のより強い、より長い友好を求めたいと思います。」

日本人が戦死した日本兵のために建てた「慰霊碑」は、現地の人にとっては「見たくない」、本質的に「不愉快」な代物です。あくまでも現地の人の「好意」や「配慮」で、場合によっては自らの感情を押し殺しながら建てさせてもらっているということをつねに頭の中に置いておく必要があると思われます。
サマール島カルバヨクには、「慰霊と謝罪の碑」という碑がたてられました。この「碑」は、サマール島で日本兵が犯した残虐行為をしっかり見すえて、そのことを謝罪し、今後のあるべき友好関係をめざそうと考えています。
(具体的な内容についてはここを参照)
わたしたちは、わたしたちの先輩たちが各地で行った行為を再度検証し、あらたな友好関係をつくりだすのか、こうした視点を持ちながら、「慰霊」のありかたを考えていく必要があると思います。

おわりに

ここまで書いてきて、もう一度「朝日新聞」の記事をみなおすと、私が大きな間違いを犯していることに気づきました。この慰霊碑を、勝手に遺族が戦後の建立したと考えていたのです。この前提自体が誤りでした。したがって、ここで記したことの多くは今回問題となった「マレーシアの慰霊碑」とは、かなりずれてきます。この点については後編で記すことにします。

<つづく>

参考文献:中野聡×荻上チキフィリピンで日本軍は何したのか?」(SYNODOS 2016.03.01)
     中野聡「追悼の政治――戦没者慰霊をめぐる第二次世界大戦後の日比関係史――(WEB公開版)」