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アヘン戦争はなぜおこったのか。

アヘン戦争はなぜおこったのか

はじめに~ある質問から

私が参加させていただいている市民講座、前回のテーマは「開国と開港」でした。
そこで、以下のような質問をいただきました。
それにお答えしたいと思います。

■イギリスが何故アヘンを中国に輸出したのか、今ではイギリス人意志(ママ)が大反対するでしょうが、民度が高くなかったということですか?

私は、どちらかというと人間をシニカルに見る性格があり、金儲けをしたいイギリス人がそもそも誠実な商売をするとは思っていないので、このように考えた事がありませんでした。
「いい人もいれば悪い人もいる」、あるいは「金儲けとなれば悪いことをする人もいる」といってしまえば、おしまいですが、それではあまり歴史的ではないので、

①当時のイギリスにとってアヘン貿易とはどのような意味があったのか、
②中国国内になぜアヘンが大量に流入したのか、
③なぜアヘン戦争が始まったのか、
④アヘン貿易、それへの取り締まりをきっかけとした武力行使(アヘン戦争)という「不正義」にたいし、イギリス国内はどのように対応したのか、

主にこの四点を話させていただきす。

なぜ「アヘン」に手を出したのか
~イギリス・紅茶ブームの陰で

一つ目は、イギリスにとってアヘン貿易の持っていた意味です。
18世紀後半に始まる産業革命はイギリスを豊かな国へ変えました。(その豊かさは貴族や中産階級に限定されており、並行して発生した農村での囲い込みなどもあり、大量の貧困な無産階級を生み出したのですが)
そして富裕層の間で流行したのが「紅茶ブーム」でした。
中国産の茶葉を用い中国製ないし日本製の陶磁器(chine)を用い、カリブ海沿岸の奴隷たちによって作られた砂糖を入れて飲む、これがイギリスの有産階級の豊かさのシンボルでした 。この風習は現在のイギリスでも定着していることはご存じの通りです。
1823年、インド・アッサム地方で新たな品種の茶の木が発見されるまでは、原料の茶はほぼすべて中国産でした。さらに産業革命で経済が急速に発展したとはいえ、18世紀末でも、多くの産業での中国製品が圧倒していました。

浜島書店『世界史詳覧』p213

それはイギリスが世界に売り込みたい戦略商品・綿織物でも同様でした。18世紀段階では、イギリスの対中貿易は大幅な輸入超過であり、対外収支の赤字は新大陸で手に入れた銀で支払われました。せっせと集めた銀が穴が開いたように中国に流出しました。

「欲しいものは何もない」~乾隆帝のことば

こうした事態に対応すべく、イギリスでは、貿易に対する清側の規制緩和と貿易港増加を実現し、イギリス産の安価で大量の綿織物など工業製品の輸出増を実現、貿易収支の改善し、イギリス産業のさらなる発展をめざそうという声が高まりました。

乾隆帝(1736~96)清第六代皇帝。清の全盛期を実現させた皇帝。

こうした声を受け、イギリス政府が派遣したのがマカートニーです。彼は、皇帝に会いたいというのなら三跪九叩頭皇帝との面会に際しては、3回ひざまづき,そのつど頭を3回,合計9回床につけるという儀礼という屈辱的な儀礼を求められるなどさまざまな苦労の末、1793年皇帝との謁見を実現しました。しかし、皇帝(乾隆帝)から受け取った書状には「中国は豊かな国であり何でもある、おまえたちがほしいというからお情けで売る事を認めているのだ。おまえたちから欲しいものは何もない。貿易拡大とは笑止千万である」との文字が記されました。1816年に派遣されたアマーストに至っては皇帝との謁見すら認められませんでした。
イギリスは正式なルートでのイギリス製品の販路拡大に失敗します

中国では、伝統的な知恵として、辺境で国家の管理の下に外国人との間で交易をおこなうという「互市」という制度をとっていたのです。
ところが正式な国交を求めようとすると、華夷秩序というたてまえ部分が表面化し、臣としての対応が求められることになったのです。

とはいえ、中国との貿易赤字=銀流出はイギリスにとって大きな懸念材料となり、さらにイギリス産業界にとっても、急速に生産力を増やしている綿織物などの輸出拡大への欲求はいっそう高まっていきました。

三角貿易~インドの購買力を高めるために

こうした貿易収支の改善の材料として導入されたのがアヘン貿易でした。

浜島書店『世界史詳覧』P213

イギリスは1773年インド・ベンガル地方におけるアヘンの専売権を、1797年には製造権をも獲得、その一部を中国でひそかに販売しはじめていました。
さきの皇帝の言葉にからめていうと、イギリス人が持ち込むもので中国(人)がほしがるものがアヘンでした。そしてその規模はどんどん多くなり、両国間の貿易収支の赤字はみるみるうちに縮小し、イギリスの銀流出に歯止めがかかります。

イギリスからの綿布の流入とインド綿業の破壊 浜島書店『世界史詳覧』p213

インドにおけるアヘン栽培はインドに新たな輸出産業を創出する事でした。アヘン貿易は、イギリス産業によって綿工業という世界に冠たる主要産業を破壊されたインドに新たな収益源を与える事になりました。アヘンを中国に売って得た資金が、イギリス産の綿織物などの購買力を高めました。
こうして戦略産業であるイギリスの綿工業が活性化されます。
アヘン貿易はイギリスの経済の重要な環となって来ました。
1834年、イギリス本国での自由主義化のなかで、イギリス東インド会社が統制下に置いていた対中国貿易の特許が失効、多くの冒険的な商人が中国貿易に乗り出していきました。輸出における主力商品がアヘンであったことはいうまでもありません。こうしてアヘン貿易は更に規模を拡大していきました。

脆弱な統治機構
~「密売」商人を取り締まれない清帝国

二つ目は、中国側の事情です。

浜島書店『世界史詳覧』p108

日本では人口増加率が急速に低下していった18世紀、中国では人口の激増が始まっていました。
その結果、中国人は条件の悪い土地、辺境などに可耕地などの生業をもとめ移住していきました。
大量の貧困層が出現する一方、それまでの住民との間との対立も発生しました。
さらに可耕地を求めて行われた乱開発は洪水や干ばつといったも引き起こし、各地で不穏な事態を引き起こしていました。
こうした事情はアヘンの中に救いを求める人々を生み出していました。

こうした人口増は、政府によって移住が制限されていた東北部(「満州」)や台湾などへの入植を活発化させ、新たなフロンティアとしていきました。そのことが先住民族との対立も引き起こしました。さらに華僑として東南アジアなどに移住する人も現れました。

18世紀はこうした時代でした。

清の支配。わずか100万人にもみたない女真(満州人)が約2億の漢人を支配する体制であった。
(浜島書店『世界史詳覧』p97)

また清朝政府の統治体制もアヘン拡散の背景となりました。
清朝は、ごく少数の満州人(女真族)が圧倒的多数の漢民族を統治するという国家でした。
したがって、その統治は末端に及ぶことは不可能であり、社会の最上層にいる満州人たちが、漢民族の郷紳や中間団体などの力を借り、租税を課すという仕組みがとられました。
そしてこうした中間団体の中には専売商品である塩などを扱う非合法なネットワークを形成するものも多く存在しました。
こうしたネットワークを経由して、やはり非合法であるアヘンが流通したのです。アヘンは従来の塩の密売組織などを通じて中国各地に浸透していきました。さらに民間社会から利益を得ていた清の官憲もアヘンの取り締まりに対しては消極的でした。こうした事情がアヘンの大量流入を実現させたといえます。

浜島書店『世界史詳覧』p

アヘンの流入とそれにともなう銀の流出は中国を混乱させていきます。
アヘン自体の生理的害悪はいうまでもありませんが、同時に、正貨である銀の大量流出は、デフレを発生さて中国経済を混乱させました。
非合法で危険な存在であるアヘンが公然と社会に広がっていくことは清朝政府の統治の問題点を否応なく見せつけました。
アヘンの害の広がりを通じて、清朝政府は主権国家的な枠組みで「中国」という存在を考えなければならない事態においこまれつつあったのです。
世界の中心であるべき中国が「国益」を問わねばならない事態におちいったのです。こうした問題に自覚的であったのが林則徐でした。

林則徐~主権国家としての対応であったが

なぜアヘン戦争が発生したのか、それが三つ目です。
これも中国側からの事情とイギリス側からの事情双方から考えることができるでしょう。
19世紀に入ると「世界の一体化」が一挙進みます。東アジアの諸国も、否応なく「世界=経済」の存在を意識、対抗して、自らを主権国家として認識しはじめます。
日本では、18世紀末以降、それまでの海禁政策を「鎖国」と再定義しなおします。林子平の「海国兵談」の出版などはその典型でしょう。ばくぜんとではあっても「国家としての日本」を意識する層もひろがりをみせはじめます。松平定信政権が、この本を危険視し出版を差し止めたことはこうした事態を逆方向から示しているようにも見えます。そして幕府の影響力も深く浸透していました。
これに対し、中国=清王朝は征服王朝という性格上、社会の中で発生した混乱をコントロールする手段を余り持っていませんでした。取り締まりは中間団体の場所で跳ね返され、民衆に直接届くきにくかったからです。こうした社会に規定されてアヘンの害は社会内部に浸透していきました。
清朝政府がアヘンの拡大のためとった政策は、
アヘン常用者を処刑するという厳罰と、開港場での貿易ルールを厳格化し国内への流入を避ける水際作戦です

林則徐(1785~1850) 清末の政治家。アヘン厳禁を主張、欽差大臣として1839年広州に着任し、アヘンの没収・廃棄、中国人密貿易者の処罰、イギリス商館区の封鎖などを強行した。アヘン戦争が勃発すると、動揺した清朝に解任され、さらにイリ地方に追放された。

取り締まりを命じられたのは西洋事情にも造詣が深かった林則徐です。
林は国際法に則って、アヘン貿易を規制します。
貿易港広州在住のイギリス商人を官憲に取り囲無というやり方で脅し、所有するアヘンを提出させ、それを破却します。
よく「焼却」したといわれがますが、実際は大きな池を作り、塩水のなかにアヘンを投げ込み、生石灰をなげこみ無害化するという手段がとられます。しっかりとした知識を持って対応した事がわかります。
さらに、アヘン貿易にかかわった商人は死刑に処するという通達もだします。こうした清の対応は、刑罰については問題があるものの、基本的には正当なものといえるでしょう。
イギリス側でもそうした認識もあり、本国の支持には困難もありました。そこでアヘン商人たちは、この出来事は「私有財産権の侵害」であると訴えます。また現地外交部は、イギリス人への中国の法の適用に強く反発しました。
治外法権が認められない事に反発したのです。

イギリス側がめざしたもの~貿易の拡大

こうしてボールはイギリスの側に投げ返されます。
イギリスにとって最大の問題は工業製品の輸出が進まない、中国市場への進出が思うに任せないことでした。産業革命の進展にともなって、急速に増加していく工業製品の輸出は至上命令でした。とくに世界一の人口をほこる中国市場への進出は、とくに綿製品の輸出はイギリス資本の夢でした。
しかし、こうした期待はなかなか実現しませんでした。

公行13行
浜島書店『世界史詳覧』P108

イギリス側は、その原因を
貿易港を広州一港しか認めず、しかも②公行という特許商人が貿易を独占するという中国側の外交政策に求めていました。③朝貢という東アジア的な枠組みの中で両国関係を処理しようとする伝統的な対応にも反発をもっていました。
イギリス人のアヘン商人たちは、国際法上も正当である中国側の取り締まりを、中国官憲がイギリス人を死刑という処罰でおどし、イギリス人の財産を没収・破棄したと本国に訴えました。清がイギリス人の生命・財産を侵害していると主張したのです。非合法な取引であるということはぼかしつつ。
アヘン戦争とは、イギリスが、中華思想に基づく清の態度を改めさせ、制限貿易を打破して自由貿易を強要し中国市場をイギリス資本に開放させるために、清によるアヘン貿易取り締まりを口実におこしたものでした。

「イギリスの永久の恥さらし」
~不正義の戦争とわかっていたイギリス

最後に、国際法に反したようなこうしたイギリスのやり方を本国はどのように考えていたかをみたいと思います。
アヘンの蔓延はイギリスの、ヨーロッパでの国内問題でもありました。コナンドイルは名探偵のシャーロック=ホームズをアヘン(モルヒネ)常用者として描き出し、ブロンテの『嵐が丘』の登場人物の中にはアヘン中毒者をおもわせるものがいます。このようにアヘンは世界各地に拡散されていきます。

アヘン靴の様子

こうした状態ですから、アヘン密輸を取り締まった清と戦争をすることには、強い異論が生まれます。
イギリス国内でも、クェーカー教徒やイギリス国教会、また議会内のリベラル派などが、道徳的理由、ないしアヘン貿易が綿製品の市場を狭めるという経済的理由から、アヘン貿易、またアヘンを契機とする中国との戦争に反対してい」ました。とくに後の首相グラッドストンは「イギリスの永久の恥さらしとなるべき」との反対論を展開しました。
しかし「対華貿易を安定した基礎のうえに置くのに必要な諸条件の獲得」を図るべきとのアヘン商人や資本家に押される形で、わずか9票差で可決、開戦となりました。

アヘン戦争(1840~42)

とはいえイギリス政府もアヘン貿易を立派な事とは思っていないのも確かだったようで、アヘン戦争の結果、結ばれた南京条約および付属条約において、アヘン貿易については触れられていません
これ以降もアヘン貿易は密輸の形で、実際に新たに開港場となった上海を舞台に繰り広げられます。

アヘン貿易が公認されたのは、アロー戦争(第二次アヘン戦争)の最中に結ばれた1858年の天津条約のことです
イギリスがアヘン戦争で本当にほしかったのは、貿易の拡大や香港島の割譲といった点にあったことはここから見えてくると思われます。
<おわり>

参照文献:

岡本隆司 『中国「反日」の源流』(ちくま学術文庫)
岡本隆司 『中国の形成 現代への展望』(岩波新書)
吉沢誠一郎『清朝と近代世界19世紀』(岩波新書)
「日本大百科全書(ニッポニカ)」(https://kotobank.jp/word/アヘン戦争-27018)

「領土問題」をめぐって

「領土問題」をめぐって

第9回目の東北アジア史のオンライン授業がおわりました。(20,7,9)
前回までの「通史」がおわり、残り二回はテーマ史ということで、今回は「周辺国との領土問題」という内容です。
双方のマスメディアが「自国の論理のみを紹介している」中で、領有権をめぐる双方をいい分を確かめながら検討する内容でした。とくに以下の三点をめぐって話をすすめられました。
①「固有領土」という説明は歴史的に通用するのか、
②「尖閣諸島や竹島の存在を知っていた」ことが領有の根拠となるのか
③中国・韓国の強い反発の背景は何か、対立と妥協の歴史

いずれも納得できる内容でした。

とくに日韓国交正常化交渉の中で、「竹島の存在は、両国の国交回復の障害になるから爆破(!)してしまえ」という都市伝説のような話が、あったとかなかったとかいう話は笑えました。しかし、領土とは何かを示唆に富んでいるようにも思えました。
「爆破して、さっぱりした」と考えれば、解決策もでてくるのかもしれませんね。
今回の意見・感想のコーナーには、おおよそ以下のような内容(かなり加筆・訂正をしましたが)を書いておきました。
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ありがとうございました。
「領土」問題という生活人にとってどうでもよい問題なのに、各「国」・「国」民が角突き合している、この問題を考える上での貴重な示唆を与えていただいたことに感謝します。
 以下、本日の話を聞いて考えたことをやや理屈っぽく書かせていただきます。

前近代の東アジアは、朝貢=冊封体制にもとづくアナログな国際関係にもとづいて動いてきました。
これにたいし、19世紀になって、欧米諸国が主権国家体制(「万国公法」体制)をもちこんできます。そこでは、国境でへだてられた平等な国家が対峙しているというデジタルな原則に立っています。しかし、「平等な国家」というのは、欧米先進国にのみ通用する規定で、かれらが「文明」と認めない住民は、「国家を維持する資格」がない「無主地」とみなし、早い者勝ちで手に入れることができるという「無主地先占」の原則をもちこんできました。無人島などにたいしてはいうまでもありません。
ちなみに東アジアの諸国(「琉球王国」も含めて)は、文明国に準じる「半文明」とみなされました。そしてこの国際秩序をいちはやく導入したのが、東アジアでは異端の地位にいた日本でした。
*なお、両者を自分に都合よく利用したのが戦前の日本軍国主義であり、現在、自国の覇権主義の正当化に利用しているのが現在の中国であるようにおもわれます。

朝貢=冊封という原理にたっていた前近代の東アジア世界は、圧倒的な高度な文明を誇る中国の皇帝の「徳」をしたって周辺の君主が朝貢品を持って服属を申し出、中華帝国の皇帝が彼らを臣下としての「地位」と「暦」をあたえ保護することで、外交や内政の自由がみとめられるという、君主間、拡大解釈しても「民族」間の関係でした。
侵入と排除という関係が続いた中華世界の西半分とは異なり、おもに海で隔てられた東半分では、とくにこうした関係が強かったと思われます。
1873年、牡丹社事件(「台湾出兵」)にさいし、日本側の照会に対し、清が先住民を「化外の民」と表現したことは、朝貢を求めていない以上当然の説明でした。
この原理は東アジア諸地域でも一般的であり、支配の基本は貢納などを負担する民衆を把握するという属人主義であり、それと結びついた形での土地支配でした。人間が住んでおらず、収益をもたらすことも考えられない無人島などは支配という範疇の外の存在でした。

尖閣諸島

琉球と清との進貢船・冊封使が尖閣諸島を経由し、ときには停泊していたことは沖縄県立博物館の展示などを見ても明らかですが、当時の人びとにとって、無人島であるこの島がどちらの国のものなのか、などということは問題になりません。服属すべき人間がいないのですから。
さらに中国=清の理屈からすれば、この地球=宇宙全体が皇帝の支配下にあり、さらに琉球自体が属国なので、この無人島が中国本体のものか、琉球王国に管理を委託しているかなどは、議論の必要のないことです。しいていえば、公共の財産とでもいうべき存在だったのでしょう。
このように東アジアにおいて、無人島が「固有の領土」であるという考えは出てくるはずがなかったのです。にもかかわらず、「昔から自国領であった」と強弁することは、主権国家体制を原則とする国際秩序を前提とする「固有の領土」が存在したかのような論理は、現在の国際法を過去に反映させる暴挙です。
にもかかわらず、「固有の領土」を主張すれば、鎧の下から「無主地先占」という弱肉強食の議論が顔を出してきます。

竹島(韓国の表記では独島)

とはいえ、欧米列強の立場にたっても、19世紀段階では無人島の領有権ということはそれほど問題にならなかったのかも知れません。
19世紀、諸国が植民地化や開国を求めたのは、市場として有望な農業地帯であったり、軍事的な重要地点でした。無人島は無用の存在でした。アフリカの熱帯雨林や中近東の砂漠と同様に。
しかし20世紀が近づき、国際関係が緊張してくるとまず軍事的ニーズが高まります。植民地獲得競争が過熱し、さらには再分割をめざす動きも始まりました。列強同士の紛争も発生、軍事拠点がもとめられます。第二次産業革命は天然資源を必要とします。
たとえ無人島であっても、領海(現在は経済水域も)を拡大するという意味をもってきます。
そして、東アジアで、いち早く「万国公法体制」を採用した日本が尖閣諸島(1895年)や竹島(1905年)の領有を打ち出してきました。
尖閣諸島については1885年段階で開拓許可願いが出されていますが、日清間で両先島諸島を清の領土(新たな「琉球王国」の復活)という形での妥協が図られる中、黙殺されていました。

「領土」問題が、純粋に領土問題として存在したことはあまりありません。つねに政治とのかかわりでもちだされました。
たとえば北方領土問題は、鳩山一郎が進める「自主独立」=日ソ共同宣言路線、それが日ソ平和条約と歯舞・色丹返還という方向にすすむことを妨害するために、アメリカ=自民党吉田派が実現困難な四島一括返還を強硬に主張、米軍も返還される二島への基地配備をちらつかせることで、日ソ間の「雪解け」に水を差しました。

2012年、日本の尖閣諸島国有化に反対する中国のデモ隊

領土問題はつねに政治問題に利用され、ナショナリズムを利用して政権への求心力を図るためにも利用されてきました。
韓国では、大統領の人気が下がり求心力が失われてくると「独島」問題を持ち出すというのはよく指摘されことです。
2012年、民主党政権の尖閣諸島国有化にたいする中国での猛烈な抗議行動は中国政府に対する民衆の不満を日本に向けさせる目的があったともいわれています。

はっきりいえば、誰も住んでいない無人島の帰属などどうでもいい問題です。
ところがそれがナショナリズムを利用した勢力によって排外主義的に利用されること、領海・経済水域とそこにおける利権がからみ合っている以上、なんらかの形の解決が必要です。
日韓国交正常化交渉に際して、「竹島など爆破してなくしてしまえ!」という暴論があったという都市伝説もありますが、こうした国境問題というトゲが、不要な対立を引き起こしていることもたしかです。

こうした問題を解決するには、基本的には、国家が国境というもの区切られるという主権国家的な国際秩序を無力化させることが大切です。象徴的にいえば、国家の一部であることによって国家間のトゲとなっている存在を「爆破し、なくす」ことです。具体的にはこうした島を国家の枠組みからできる限り自由にすることでしょう。
EUでの経験は国境のカベを低くすることで長い間殺し合ってきた国々との間で友好的・平和的な国際秩序を構築することができることを示しました。ガルトゥングが主張するように、国境問題を平和的に解決しようという努力のなかに、あらたな平和的国際秩序構築という展望がみえてくるかもしれません。

追記:竹島(独島)爆破を発言したのは金鍾泌や朴正煕といわれてきましたが、最初に発言したのは日本側であるとの指摘もあります。
“http://www.f8.wx301.smilestart.ne.jp/kai/news/news-13suppl.pdf“

’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。

 

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

~高度な学問に耐えられる言語としての「日本語」~

 またまた余談をします。
みんな、日本人は英語が苦手だというんだけど、なぜ苦手か、
分かるかな。教育制度とか、教え方とかいろいろ理由がいわれるけど、実は日本は英語(外国語)な しでもやっていける珍しい国だから。だから切実じゃない。
生活レベルだけじゃなくて、大学や大学院といった高等教育、さら には研究レベルにおいてもそうだから。
日本で普通に暮らし、学んでいくうえでは英語は、怪しげなジャパニーズイングリッシュというか、カタカナ英語を除いて、あまり必要ない。あまり使わないので、そんなに真剣にならない。だから、英語がうまくならない。こんな風に考えられないかな。
でも、英語(欧米語)なしで、何でもできるってすごいこと思わない?
自国語だけで高度な研究ができる国って、欧米語を母語としない国のなかでどのくらいあるんだろうね。
残念だけど、インドのヒンドゥー語だけで世界レベル の研究はできないだろうね。だからインドの高度な研究や高等教育は英語をつかう。高度な学問なんかで使えるほど洗練されていないから。大学などの高等教育が英語が行われるというのはその国の言葉で難しい研究をするのが不可能だから。植民地化された国では、そうさせなかったからといってもよい。
こうした結果、その国の中には、英語を使うエリートと、英語が使えず高度な内容を持った会話ができない一般人という二層構造ができてしまう
しかし日本にいれば、英語なしで高度なレベルの教育も高度な研究もほぼできる。普通の人もそれなりの質の話ができる。高度な知識にすべての日本人が触れることができる。これってすごいとおもわない?だったらなぜこんなことができたか、
最も大きな理由は日本が植民地にならなかったこと。そして啓蒙主義者、福沢諭吉や西周、森有礼といった連中、そして中江兆民や植木枝盛といったそれにつづく人たちが、なんとかして重要な用語などを日本語(じつは「漢語」)にしようと頑張ったから
世界の知識をなんとか日本人に伝えたいと思ったかれらは、重要な単語について、日本語(実際には中国語なんだけど)で近いニュアンスの言葉はないかと必死で探し、当てはめていった
freedomということばは、幕末の通訳が「わがまま、放蕩」という意味の「自由」ということばを当てていたのを、福沢が「西洋事情」という本で用い、広めたらしい。またfeudalismという英語は中国の周の時代の「封建制度」に似たシステムだということで「封建制」という訳語を当てはめた。
困ったのはeconomicという単語。ちょうどよい言葉が見つからない。そこで福沢諭吉か西周か、あるいは二人が相談したのか、「世の中をおさめ、人々をすくうこと」という意味の「経世済民」を略して「経済」という新しい言葉をつくったんだ。
こういう風にして、英語などの文章は日本語で読めるようになったんだ。彼らの使ったり作ったりした言葉は、日本だけじゃな
く漢字文化の国々にも影響を与えた。現在の中国では、そこら中で「経済」という言葉を使っている。
以上、余談でした。
(※以上の文章は、「明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道」の一部にくみこんでいたものです。)

書いたあとで考えたこと

 ここまでは、以前から考えていた内容に、大学の授業で学んだ内容もまじえて書いていました。ほぼ同じ内容を、高校の授業の中でも話してきました。
ところが原田敬一氏の「日清・日露戦争」(岩波新書)を読んで大きな問題に気がつきました。ある意味で「ナショナリズム」に侵されていることに気がついたのです。このことを少し考えたいと思います。

「蘭学」はどのようにして始まったのか?

海禁政策(「鎖国」)の結果、ヨーロッパ文明と切り離される結果となった日本人が、どういう経過で再度ヨーロッパ文明と接触をしたのか。あるいは「蘭学」という名で呼ばれる西洋学問の研究がどのように始まったのか、私たちは、知っていながら、重要なポイントを見落としています。
蘭学がはじまったのはいつでしょうか?
出発点のひとつは前野良沢や杉田玄白たちによるターヘルアナトミア(「解体新書」)の翻訳です。この過程で、オランダ語の知識が蓄積され、その知識とスキルを用いて、オランダ語を翻訳する技術が身につき、そのオランダ語の力を借りて西洋の知識を学んでいったのです?
このころの「蘭学」で、必ず一人の人物の名前が出てきます。
「万能の天才」「日本のダビンチ」こと平賀源内です。
解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225
平賀源内は前野良沢や杉田玄白と同時代人です。狂気にとらわれて殺人を犯し獄死した源内の追悼文を杉田玄白が書いています。
源内は、オランダ語はできませんでした。オランダの本の図版を必死でながめていたということです。ちなみに、玄白もオランダ語の力はたいしたことなかったみたいですが?!
では、源内の西洋知識はどのように入手されたのでしょうか?

日本人は西洋を「漢文」で学んだ。

もう一つの出発点の話をします。
徳川吉宗、享保の改革の時代です。それは、吉宗が○○を解禁したため、サツマイモを日本に持ち込んだことで有名な青木昆陽という先生などが西洋の学問を学ぶようになったこと、これが蘭学のきっかけとなったという話です。
吉宗が、解禁したもの・・それは欧米人が書いた書物=洋書の輸入でした。でも、洋書にはキリスト教の書物が紛れ込む可能性がありますね。そこで、このとき輸入が認められた洋書は、欧米からワンステップおかれた洋書でした。前に何か付いていましたね・・・。
「漢訳」洋書。漢文に翻訳された西洋の書物でした。
これなら、キリシタンの書物かどうか、すぐわかりますね。
では西洋の言葉を漢文に訳したのはだれでしょうか?
考えればわかりますね中国人、正式にいうと中国人が、中国にやってきた西洋人(とくにイエズス会系の宣教師)の協力を得て翻訳していたのです。
このことの意味に、私たちは無頓着であったように思います。
まず、西洋知識を東アジアの人が分かることばに翻訳したのは中国人です。
西周

福沢や西が幕末から明治初年にかけて行った苦労、それを蘭学で前野良沢らがおこなったような基礎作業も含めて行ったのが、中国人の学者とそれに協力した西洋人の宣教師たちでした。

「蘭学」と呼ばれることになる西洋の知識の導入のきっかけは、中国人が翻訳した洋書を読むことからはじまりました。
中国の学者たちが、自然科学の用語をはじめ多くの欧米語を、宣教師たちとともに「あーでもない、こーでもない」と頭をひねりながら漢語に訳していったのです。
こうした人たちの努力の成果を青木昆陽が、そして平賀源内が学んだのです。前野良沢らの解体新書の翻訳も、こうした基礎作業のうえに立っていたのだろうと考えられます。
日本人は中国人が翻訳した洋書で、西洋文化を学びました。現在用いられる西洋の言葉の訳語は、まず中国の学者がまず考えたものでした。

東アジア共通語=「漢文」の実力

東アジアの知識人にとってありがたかったのは、漢文という共通語の存在です。中国の公式の文語である漢文は、そもそも話をすることができない国内の人びとや中国周辺の蛮族(日本人ももちろんその一つです)との間で意思疎通をするため、しゃべれなくとも意味が通じるという言語です。返り点をうってその内容を理解するという日本的な漢文の読み方は邪道でなく正当な漢文の読み方です。音声で通用させることなどは最初から期待していないのですから・・。
話が横道にそれました。このように、音声でなくとも意味が通じるという言語上に、まず中国の学者たちが西洋の知識を漢語でアップロードしました。東アジア文化圏の知識人はこれにより、東アジア共通語によって西洋の知識のアクセスできるようになったのです
幕末の日本において、蘭学者と並んで西洋への深い知識を持っていたのは、中国直系の学問であるため大義名分論に凝り固まったなどとの誤解を受けてきた朱子学を学んだ人びとでした。
高い国際的教養に裏付けられていたと近年評価される幕府の開明派官僚たちは、こうした朱子学の基礎の上で育てられました。

東アジア共通のデータベースの存在

では西洋の知識を翻訳した中国の学者たちは、どのようにして適切な漢語を選び出していったのでしょうか。
それは、中国文明のなかで蓄積された歴史・思想・学問などの膨大な知識、データベースからです。このデータベースの中から、西洋の言葉に最適な訳語を見いだし、当てはめていったのです。
注意しておきたいのは、このデータベースは東アジア世界全体で共有されていたということです。日本や朝鮮の知識人は、自国の歴史以上に中国の歴史についての深い知識を持っていました。「儒教」とくに「朱子学の知識は東アジア全土に共有されていました。やや衰退傾向にあった「仏教」ですが、それでもデータベース上にはしっかりと保存されていたのです。
こうした知識の多くが共有されていたため、個々の単語についてのニュアンスはかなり細かい部分まで共有可能であり、相互理解できたと思われます。言葉に対する日中朝の共通の知識のデータベースが存在したのです。これによって西洋の単語に対する訳語はそれほどのズレもなく、こまかいニュアンスも含めて共有できたのです。民族の枠を越えた討論なども行うことが可能なのです。
さらに、漢語にない言葉、例えば「経済」といった語も、なぜこの語を使ったのかという了解の上で利用できたのです。
西や福沢も、主にこのデータベースから適切な語を選び出してきました。だからこそ、彼らが用いた訳語が中国にも逆輸出可能だったのです。

「西洋知識の導入」という壮大なプロジェクト

こうして考えるならば、西や福沢に代表される欧米の思想や文明の導入自体、16世紀以来、続けられてきた東アジア文化圏全体で行われた西洋知識の導入という国際的共同作業の一環、巨大なプロジェクトの一環だったと考えることができます。東アジア諸民族の知識を結集し、適切な訳語を中国史・思想を中心とする巨大なデータベースから選び出し、吟味して、あてはめていく作業でした。
私たちは、英語の力がそれほどなくとも、世界の高度な知識にアクセスすることが可能です。それは東アジア文化圏、とくにインターナショナルな言語である漢文・漢語のもつ偉大な力、漢文とそこにつながる中華文明圏の巨大なデータベースの恩恵があったからこそでした
日本人が中国に漢語を逆輸出したというような浅薄でナショナリスティックないい方では、とらえきれない広がり、壮大なプロジェクトが、私たちがつかっている欧米起源の用語の翻訳の背景にあったのです。
最後に、最初に示した原田敬一氏の著書の一部を引用して、今回のまとめとします。
近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになるが(中略)問題は、優等生だったことが一方的に強調されすぎることである。日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことが語られすぎている。
15世紀から19世紀にかけての中国文明が、まずヨーロッパ文明を消化し、アジアに送り出していったことが、なぜこんなに簡単に忘れられたのであろうか。日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった

新しい「井戸を掘る」こと~「反日」と「愛国」

新しい「井戸を掘る」こと

~「反日」と「愛国」~

日本の「エロ本」と中国の「反日」本

 

中国にはもう10数年前以来、いっていません。
最後にいったとき、立ち寄った中国のドライブインに、日本のコンビニの週刊誌やエロ本のような感じで、日本帝国主義時代の暴露本(ある人たちの言い方の「反日本」)と「米中戦えば」のような軍事関係の本ばかりが並んでいました。ストレス解消が、日本ではエッチな本で、中国はナショナリズムなのか、と変に納得した思い出があります。

不思議な「日本人論」

別の旅行の時は、空港の本屋で研究書風のペーパーバックを買い、とぼしい中国語の知識でながめました。加藤周一などそうそうたる日本人の本を引用しているのですが、結論は「日本人は歴史的に人を殺すことに躊躇しない(※細かいニュアンスは私の中国語の能力では無理です)性格を持っている」。それは「日本人の道徳である『武士道』からくる」というトンデモ本で、いくら何でもこんな書き方はないやろ、と愕然とした記憶があります。それも戦前ならともかく、戦後についても妥当するかのような書き方だったのです。(正確には「のように思いました」)
そのとき、切に思ったのは「ぜひ、日本国憲法下の現在の日本に来て、生活者としての日本人を見て、自分の説が妥当なのか、その目でたしかめて欲しい」ということでした。

怖いところでなかった「シリア」

それからのち、私の旅行先は中近東や南アジア中心となり、中国へ行くことは少なくなりました。
今は、決して行けないシリアも、当時は「怖いところやろ」といわても、「なんの心配もない」と答え、その通り何の心配もなく帰ってきました。アレッポのバザールで困っていたら、日本語で声をかけてくださった人もいました。あの人たちは、どうなってしまったのでしょうか?

反日デモと「知日」

その間、中国では尖閣をめぐる反日デモがありました。ちょっと行きにくいかな、とも思いました。その後、中国では日本旅行ブームがおこり、爆買いブームとなり、最近は中国旅行者も多様になってきました。テレビ報道では雑誌「知日」に代表される日本への冷静な視点をもつひとたちも増えているようです。
ストレスのはけ口を「反日」にもとめていた中国がどのように変わったのか、変わっていないのか、興味があるところです。

中国のドライブイン化した日本

しかし、ふと考えてみました。今の日本ってどうなの?って。
なんのことない、日本自体がかつての中国のドライブインのようになっているのじゃないかと
ストレス発散の対象を、他国や他民族をおとしめ、必要以上の日本礼賛をするナショナリズムに求める人が増えているんじゃないかと・・。
学校の授業で歴史学の常識をいったことが、全国紙や雑誌に取り上げられ、ネット上には「反日」というようなヤジがあふれだす。聞くに堪えないヘイト発言が路上でまき散らされ、ヨーロッパでは逮捕されるような旗をもった人たちが「愛国」といっている。
中国への侵略はなかった」と公言している人物が防衛大臣となる。

中国の「反日」主義者と日本の「愛国」者

中国でもっとも「困ったちゃんの反日」主義者を鏡に写したような、日本の「困ったちゃんの「愛国者」があふれている。
こうした人たちの特徴は、自分を逆の立場に置いて考えるということができないことです。
古いタイプの中国の「反日」主義者は主張しそうですね。政府に統制されたニュースとプロパガンダを信じ、実際の日本の姿を見ていないような人たち「やっぱり日本人は変わっていない」と。
エロ本代わりの「反日」本が、過去の侵略の話でなく、現在のこととして書かれる・・・。恐ろしい未来予測です。

今、「井戸」を掘っている人たち

日中関係で、周恩来でしたかが「井戸を掘ってくれた人のことは忘れない」といっていました。
現在はいろいろな人、とくに庶民が井戸を掘るようになってきたのではないでしょうか
私は、さっきもいったようにもっと多くの中国の人が日本に来て欲しいと思っています。最初は爆買いでもいい。たしかに、ちょっと「うーん」というところもあるでしょう。でも、長い目で見ましょう。

これって「自虐史観」ですか?

私が幼い頃の日本人がそうだったのですから。
ノウキョウさん」といわれて世界のひんしゅくを買っていたのが日本人だったことを、健忘症の日本人は忘れています。
ついでにいうと、日本の町はとても汚かった。新聞やニュースでは「欧米の町は何でこんなにきれいなのだ。日本の町がゴミだらけなのに。」という特集記事がよくありましたよ。川の水は、悪臭を放ち、京都の鴨川は化学染料のおかげで「色彩豊か」でした。
恥をさらしますが、ちょっとアカン奴だった私は町中でよく尿意を催しました。困った両親はやむなく繁華街の街路樹に立ち小便をさせてくれました。ごめんなさい&お恥ずかしい。でも、そんなことは、それほど珍しいことでもなかったのです。
欧米の人は思ったでしょうね。「だから日本人は・・・
こんな風な日本の恥ずかしい歴史をいう私の言い方は、きっと自虐史観なのでしょう。
でも、実際あったことを忘れるのは健忘症で、「あったことをない」と強弁するのはウソですし、人間として卑怯だと思います。

外国に行くと『愛国者』になる!

だから、中国の人のなかには、欧米の人だってそうですけど、確かにうーんという事をする人はいます。でも、日本に住んでいる人、この場合、やはり日本人というべきでしょうでも、そんな人はいくらでもいます。問題は、その人間であって、その国籍や民族を問うべきではないでしょう。文化の発展段階というかもしれませんが、他者の目にさらされることのない状態におかれていたことの反映でしょうし、ひょっとしたら世界を知らない日本人(「日本で生まれ育った人」の方がいいか)が、何の問題もないことを、おかしく考えているだけかもしれないのですから。逆ももちろんです。(私はくしゃみだけは派手にしないと気が済まないたちです?!ふたたび、お恥ずかしい。)互いに学びあい、長い目で見ることが大切なのでしょう。ノウキョウさんを迎えたパリの人たちもそうしたのですから。
日本の人も、どんどん外国に行くようになったこともあって、変わったでしょ。当時よく言った言葉があります。「外国に行けば『愛国者』になる世界を知って、こんなことはすべきでない、逆に日本にもこんないいところがあることを学んできました。
だから、中国の人はもっと日本に来ればいいと思います。欧米よりもはるかに安く来られるのですから。ぼくが中国の本がある程度理解できるように、ある程度は漢字で分かるのですから。
しかし、できれば「ノウキョウさん」でない形で。

「よい日本の人」が新たな「井戸」を掘る

実際に目で見て日本の良さも、ダメさも知ってほしい。そしてより深い日本理解へつながってほしい。できれば「よい日本の人」と知り合い、「日本のよさやダメさ」にも触れ、「中国のよさ」も気づいて、よい意味の『愛国者』となって欲しい。それが中国のよりよい発展へとつながっていくと期待しています。
私は、多くの人たちが日本で「よい日本の人たち」にふれることが、新たな「井戸」を掘ることになると思っています。そして、あいがたいことに、今のところ、多くの日本に住む人たちもいっしょに「井戸」を掘っているのだと思っています。たいそうなことではありません。ほほえみ合うだけでも、落とし物をしましたよ、どうかしましたか、の一言でも、それが新たな「井戸を掘る」ことだと思っています。

新たな「井戸」を埋めさせてはならない

残念ながら、先に見たように、井戸を埋めたくて仕方がないような人が日本でも増えてきたのも事実ですし、やはり残念ながら、今の中国のリーダーたちの中にも、「井戸」の大切さを理解していない人たちがいます。
しかし、私たちは、彼らが気がつかないうちに、庶民の普通の良識によって、日本と中国の間で多くの「井戸」が掘られるようになっています。新しい「水路」を築きつつあります。
両国政府の言動に惑わされたり、偏見と対立をあおるえせ「愛国者」にまどわされることなく、「井戸」に「水路」に清涼な水をたたえていきたいものです。
※ある依頼をした方が、北京に居られると聞いて、そのメールに添えるつもりで書き出した文章がもとです。
せっかくだから、もう少し書き継ごうと思うと、えらく長いぶんになってしまいました。