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「もやもや感」が・・映画「東京裁判」を観て

「もやもや感」が…映画「東京裁判」を観て

4時間半を超える映画「東京裁判(リンクへ)」を観ました。それについてFacebookに感想を書き込みました。
まずは、映画のあらすじです。

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<映画のあらすじ 公式HPより>
1945年日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を国民に伝えた。戦後の日本を統治する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、戦争犯罪人の裁判を早急に開始するよう望み、1946年1月22日に極東国際軍事裁判所条例を発布した。通称“東京裁判”である。
満州事変に始まり、日中戦争の本格化や太平洋戦争に及ぶ17年8カ月の間、日本を支配した指導者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機ら28名が訴追された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく。
同年5月3日より東京裁判は開廷。まずは「平和に対する罪」など55項目に及ぶ罪状が読み挙げられるが、被告は全員無罪を主張した。検察側は日本軍の非道の数々を告発。弁護側は「戦争は国家の行為であり、個人責任は問えない」と異議申し立てするが、「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」と、裁判所はこれを却下した。1948年11月12日、病死した被告などをのぞく25名のうち東條ら7名に絞首刑、他18名は終身禁固刑もしくは有期刑が宣告が下された。
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そしてFacebookに書いたものが以下のような内容です。
かなり補足しており、元のものからはかなり変わっています。(とくに裁判の積極的側面の部分)

東條や広田などの肉声を聞くことができただけでも、面白かった。
とはいえ、「もやもや」感がのこる。

歴史屋の立場からすると、ここをもっと詰めてほしいし、
この解釈は違うやろ、といったところも多い。
なんでもかんでもナレーションでという手法も気になる。
史実の扱い方に、作られた時代(1983年公開)の限界も感じる。

しかし、「もやもや感」は映画の問題ではない
それ以上に、この裁判自体がもつ性格のせいだ。

キーナン検事は「天皇免責」のために裁判自体をねじ曲げ、
ウエッブ裁判長は、強引な裁判運営を行う。
原爆投下や本土空襲といったアメリカの戦争犯罪は問われず、
(このため、日本軍による重慶爆撃は免罪となる)
勝者による敗者への報復が表面化してくる。
(仕方ないことではあるが)
被告席の席の制限から、ソ連側の容疑者ごり押しのせいで、阿部信行ら二名が第一次訴追から免れ、結果として岸信介らは被告としての出廷は免れる。

法律上・国際法上の問題点を利用して、日本の戦犯たちは保身を図る。
犯罪事実の認否を問われ、全員が「無罪」を主張するシーンには不快感を感じたが、二者択一を問うような裁判のすすめかたについても問題もある。
たとえ良心的な被告がいたとしても、連合軍がもっていたであろう「ナチス流の共同謀議」との妄想にも似た検察側の冒頭陳述について聞かれるのだから。
当時は「田中上奏文(メモランダム)」なる偽書の存在を連合軍は信じており、それをもとに「ナチス流の共同謀議」という怪しげな議論を組み立てたといわれる。
これが偽書なしいことが明らかになるとそれにかわる「共同謀議」にかかわるものとして扱われたのが広田弘毅内閣の「国策の基準」である。陸軍と海軍の利害調整のなかでうまれたこの文書が「田中上奏文」にかわるものとみなされたふしがある。広田が処刑されたのはこの文書にかかわった面があったとも考えられる。

そして有罪か無罪か二者択一でいえといわれるのだから。
「どう答えたらいいね!」

本当はこう聞てほしかった。
「(あのハチャメチャな)冒頭陳述は置いといて、あなたたちはこの戦争に対して、本当には無罪だと思っているのですか」「罪はなかったのですか」と。

考えれば、「ナチス流の共同謀議」で日本の戦争責任を問うという図式自体にボタンの掛け違いがあったのかも知れない。分かりやすい図式は真実の追究から離れていく。ナチスはともかく、日本に対しこの切り口で戦争責任を問うたことで、被告たちは「自分は無罪」といいやすくなったことは確かだ。

裁判では、多くの事実が明らかになっていく。
このことの意味は大きい。
戦後を生きてきた我々にとっての常識は、当時は非常識であったことを我々は肝に銘じる必要がある。
張作霖は中国人に殺されたのであり、柳条湖事件も張学良側の起こした挑発行動であった。「東洋平和」のために戦う皇軍を中国の人たちは感謝している。悪いのはこの日本の好意をみとめない蒋介石やソ連の手先どもだ。ミッドウェーでの戦いも勝利し、ガダルカナルもある程度成功したから撤退したのだ。(とはいえ、それならなぜ戦線が日本に近づいてくるのかという当然の疑問はあったのだろうが、口には出せない)。こんな中で、庶民は生きてきたのだ。
軍部や政府のいうこと、新聞に書いてあることは、たとえ胡散臭いと思っていたとしても口に出せない。異論を加えれば、特高警察や憲兵につかまり、拷問をうけ、下手をすれば死体で返されてくる。そうでなくとも、地域の人から「主義者」などといって、自分だけでなく、家族や知人も嫌がらせをされる。ときには子どもたちすらも信用できない。人びとはこうした社会に生きていたのだ。だからこそ、敗戦と同時に人びとは、真実を知りたがったのだ。ときにはなけなしの食料とも引き換えに。
こうした中で、一応の証拠をそろえて、日本及び日本軍の悪行を暴露した東京裁判は、人びとの目を覚ます大きな力にもなった。東京裁判がもっていた成果は多い。
多くの日本人は、自分たちが騙されていたことを知り、
日本軍が行った悪行の数々を知った。
この重要さは、強調しても強調しすぎることはない。

裁判では戦前日本の病巣が十分追及されないまま、欧米風の組織のあり方を日本に当てはめるやり方、個人責任を追求する議論が中心となり、明治憲法体制下の日本の病巣に手をつけられなかった。
ニュルンベルグ国際法廷流のやり方はナチスには有効であったが、日本向きではなかった。戦犯指名されなかった石原莞爾向きではあったが、戦犯指定された大部分の被告向きではなかった。実際に指名された戦犯たちの多くは、小さな権力を振りかざす卑劣な軍人であり、小役人でしかなかった。被告席に並んだ凡庸な戦犯たちが日本に悲劇をもたらしたことの意味を、裁判官や検察官はどれだけ理解できたのだろうか。

さらに、マッカーサーそしてアメリカ政府の意を受けたキーナン検事は、当然審理されなければならないはずの天皇の戦争犯罪・戦争責任に話を及ぶことを全力で阻止し、ついには東条にまで偽証を強要した。
こうして裁判は、本来の戦争犯罪、戦争責任の追及からどんどんと離れていった。
その間、外の世界で冷戦の過程が深化すると、外の世界とくにアメリカはやる気を失い、裁判の早期決着を図る。そして7人を絞首台に送ると、そそくさと裁判の幕を引く。
ちなみに、唯一文官として処刑された広田弘毅を総理大臣に推薦し引き出したのが、彼を処刑したときの総理大臣吉田茂であったことは、事態の意味を考える上で示唆的である。

他方で、第一陣のはずだった戦犯全員が有罪ならば、当然有罪であると推測しうる第二陣で裁かれるはずの戦犯たちは、裁判に掛けられることもなく釈放される。彼らは、自分たちを裁くはずだった勢力に取り入って、その支持の下に政界に復帰する。そして開戦の勅書に副署した戦犯岸信介が総理大臣に上り詰める。

東京裁判における「もやもや感」は、戦後の日本の「もやもや感」につながっていく。

とはいえ、東京裁判はやはり重大なトピックだったことは明らかである。
だからこそ、右派の勢力はこれ以後も、裁判の形式上の問題をあげつらって、裁判の事実自体、戦争の責任自体を否定しようとする。パル判事の意見書をねじ曲げて賞賛し、裁判への不信を煽る。

残念なことに、私たちの先輩たちは、そして戦後に生まれた私たちも、
日本人の手で、二度と同じことを繰り返さないという立場からの、本来の意味の「東京裁判」をしなかった、できなかった。
その「屈辱」を心に留めなければならないのではないか、
そう思った。

以上のような趣旨をFacebookにのせた。
ある友人から
「戦勝国の勝手な裁判という人もいるが戦争責任を認めたがらない人の勝手の言い分。裏取引もあるだろう、このような大きなことに完璧はあり得ない。一定の歴史的意義はあった思っているのですが。」
とのコメントをいただきました。
このコメントの意見もうけいれながら、少し書き直したのが上の文章です。
そしてこのコメントに対しての私のコメントが以下のものです。

意義はたしかにあるのです。とても大きい。
しかし天皇の免罪という大きなテーマ、さらに連合国側の戦争犯罪の免責、とりあえず何人かを殺して方をつけるというやり方、最終的には勝者が敗者を裁くというところからくる限界がありました。
それに乗じて、戦争を起こした連中が、戦争責任をあいまいにし、さらに「正義の戦争」とさえいいつのる隙を与えました。
その結果、自分で戦争責任に向き合おうとしなかった以後の日本、反省しない日本という戦後の日本の問題が生み出したのでしょう。
そこに「もやもや感」の正体があったのかもしれません。そして、裁判で裁いた側(責任をあいまいにしようとした人でもあるのですが)と裁かれた側が手を握り、本気で戦争責任を追及する人たちを妨害したというのが戦後の姿だったのでしょう。
映画で感じた「もやもや感」の正体は戦後日本のあり方の「もやもや感」なのかなと思ったりします。

戦争にむきあうこと~両親の知覧訪問

戦争に向き合うということ
~父と母の「知覧」訪問~

はじめて中国旅行をしようとした。

前回、おもわず中国のことを書いてしまいました。
その内容に手を加えようとしたら、訂正では済みそうもないので、別稿を起こすことにしました。
書きかけたのは、中国に最初に行こうとしたときの葛藤でした。
まずそこから書きます。
私は中学生か高校生の時代から日本軍が中国で行っていたことは、それなりに知っていました。かつての日本軍が中国へいくことをためらわせていたのです。
「「東洋鬼子」(残虐行為をした日本人をさすことば)の子孫が、どの面をさげて中国に来ているのだ」という目を恐れ、いやな思いをすることを恐れました。
でも、「実際に行ってみなければ分からない、いやな思いをするのなら、いやな思いをさせたからだ」と下腹に力を入れて、旅行に行きました。
立場は逆ですが、なんか、かつての侵略者である「日本」を訪れる中国人の心境に近いかもしれませんね。
そして、日本を訪れた中国人が感じるように、すくなくとも表面的には、「別にどうってことないやん」という感想でしたが。

戦争にかかわるところは行きたくない!

私の中国行きへの感覚は、戦中派であった父の思いとも重なっていました。それを引き継いでいたのかもしれません。父は、私が中国に行くという話を聞くと、「自分は絶対いかない」といいました。父もそこで何があったのか、よく知っていたのでしょう。そんなところへはいけない。
さらに戦場になった所にも行こうとしませんでした。ひょっとしたらハワイは立ち寄ったかもしれませんが。
父は卑怯だったのかもしれません。
戦争に向き合っていなかったのかもしれません。

両親が「知覧」にいった!

 とても仲がよかった両親ですが、このような父の姿には、母は批判的でした。
父の定年後、両親は日本中を旅行しました。

知覧特攻平和会館
鹿児島で母は知覧特攻平和会館に父を誘ったそうです。ところが父は、拒否しました。
母は、父がいないとき、不服そうに私に話しました。
兄を二人戦争で亡くした母は、そこに兄たちの姿を見ようと思い、会いに行ったのかもしれないし、戦争の現実を見たかったのでしょう。
本当は行きたくなかった、「でも、いかなくちゃダメだと思ったの」
と、私に語りました。行かなくちゃダメなのは父も同じ、それが母の思いでした。
かなり日がたってからですが、今度は父が言いました。
「母さんは、知覧の特攻隊の記念館に自分を連れて行こうとしたんだ。そんなところ行けると思うか?」と。
よくしゃべる父ですが、歳をとってからは、踏み込んだ話は互いにしなくなっていました。意外といえば意外でした。
二人のそれぞれの話に、私は黙ってうなずくしかありませんでした。

「父のこと」

大正13年生まれの父の世代は敗戦時22歳、理系であったため召集を免れましたが、同級生の多くが戦死しています。特攻に参加した人もいたでしょう。そうした人を記念館に見ることが辛かったのでしょう。
さらに、そこに多くの遺書が展示されていることも知っていたのでしょう。その遺書、自分も書いたかもしれない遺書、それを見ることがたまらなく辛かったのかもしれません。
そして、「例によって逃げた」のかもしれません。

「遺書」にかけられた二つのフィルター

彼らの遺書には、二つの意味のフィルターがかけられています。
一つは、時代のフィルターです。多くの若者は、戦争の実態を知らされないまま、戦場に連れて行かれました。国家の繁栄を信じ、自分の死が自分の家族を、郷土を、日本国家のためになると無邪気に誠実に信じていました。
しかし、現在、あの戦争がいったい何だったのかを知り、特攻がいかに愚劣な作戦であったのか、時代のフィルターの欺瞞を知る今であるからこそ、事実を知らされないまま、死を強要された若者の無惨さが見えてきます。

「遺書」には書けなかった思い

今、多くの若者は時代のフィルターによって、戦争の実態を知らなかったといいました。それは真実でしょうか。戦争の実際をある程度知っていたう若者たちはそれなりにいたでしょう。特攻隊員の多くは、学徒動員された大学生たちだったのですから。では、なぜ、多くの遺書はそのことに触れていないのでしょうか。

 

リベラルな教育を受けてきた父は、この戦争の実際を、当時からある程度分かっていたでしょう。とすれば、父の目に映る遺書は違って見えると思います。
特攻が決まって遺書を書くことになっても、大部分の人は本当に書きたい遺書は書けませんでした。そう、「検閲のフィルター」です。作戦遂行上問題があったり、国家や軍部の方針に反するような内容であるような文章は残すことが許されませんでした。さらに「軍神」となる特攻隊員が特攻や軍隊を批判する文章を書くことは許されるはずがありません。
それにもかかわらず、いろいろな手段で書き残し伝えようとした人たちもいました。それが「きけ、わだつみのこえ」などに集められた手記です。
しかし、多くの特攻隊員、いや兵士たちも、戦争や政府・軍部への批判、特攻作戦への疑問、自分の死の無意味さなど本当にいいたいことがいろいろあっても、このフィルターに触れないことしか書けなかったのです。そこで、かれらはもう一つの真実である両親や親しい人への思いと感謝、郷土や日本の将来への思い、自分の死がなんとかその役に立って欲しいという思いを、このフィルターで許された内容を遺書に記し、作戦に参加し、命を失っていったのです。
特攻作戦の実態について、別の機会があればと思いますが、とりあえず、当時、知覧で特攻隊員を取材していた高木俊朗の作品などを読んでください。

「遺書」~ゆがめられた肖像

同じ時代を、同じように生き、一人一人の人間の生を、笑った顔やともに語り合った姿を知っていたからこそ、このような遺書しか書かせてもらえなかった無惨さを感じたのかもしれません。君の本当の思いはこれでいいの?君の「生」は、この遺書に反映されているの?
すくなくとも、君たちの「未来」、70年後の君たちの一人である自分にとって、そうは思えない。あれは、作られた無知、自分たちの命を無惨に消費し疑問をもつことを許さない国家、そしてそれを「時代の宿命」とあきらめてしまった当時の「自分」たちの、ゆがめられた肖像なのだ。

知覧特攻平和会館 に対する画像結果
三角兵舎 特攻兵たちはこのような兵舎で出撃をまっていた。http://media-cdn.tripadvisor.com/media/photo-s/05/a1/f0/5e/caption.jpg
そして、ここに展示された遺書たちは、このふたつのフィルターの存在について、あまり注意を向けないまま展示されています。そしてこの遺書たちは、かつてもっていたように、特攻隊員が国家のために命を捧げた「軍神」として美化されることに利用されうるものであり、戦争や戦死者の本来の姿を覆い隠すものとして利用されかねないものなのです。
父たちにとっては、かれらの遺書は、当時の若者であった自分たちの当時の「真実の一部」であって、かれらの約70年後の「未来」である自分から見ると、「あの時代」に国家の強制と作られた無知の産物であったのです。
そんなものは見たくない。

母の思い

母は、いいました。
「実際にあったことは、やっぱり見ておかなければならない。だからいやがってたけど、つれていったの」
両親とも、「やっぱり、いかねばならない」「そんなものいけるか」と、それぞれが同意を求めるように、私に話しました。
両親からの、実際にいったことについての感想の記憶はありません。
母は「やっぱり、いってよかった」といったような気もしますが。
母は、父に同意を求めたとおもいますが、父は無言だったのでしょう。
 母はつねづね、「あなたたちを、ぜったいに戦争に行かせたくない」といいつづけていました。
気丈な祖母が、自分の二人の子どもの死にさいしても涙を見せられなかったつらさを見ていたからでしょう。
戦死した二人の兄のことを楽しそうに語っていた母でした。知覧の遺書や写真に兄たちの姿を見て、自分のかわいい孫たちにこのような遺書を書かせたくないと思ったでしょうし、私たちに自分の父や母の辛い思いをさせたくないと、知覧の記念館で再確認したとおもいます。

「戦争のどのように向き合うのか」

十数年前に母が、昨年父も他界しました。
戦争について、きっと考え続けてきたけれど、ある意味、その問いがつらすぎると避けてきた父。自分のふたりの兄と子どもを失った母(私の祖母)について考えてきた母。甥たちが通っていた小学校の先生から、母が「平和の語り部」をしていると聞いて驚いたことがありました。母は、大好きな父(祖父)が遺族会で活動することにはやや批判的だったようにも感じます。
戦場にも行かず、空襲で逃げ惑ったわけでもない、あの時代にしては「幸福な」二人です。それでも、それぞれの体験を通して、戦争に対して向き合ってきたのでしょう。
「知覧特攻平和会館」へのそれぞれの、ちょっとした、しかし誰かに話したくて仕方なかったセリフから感じることができたような気がしました。