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「もやもや感」が・・映画「東京裁判」を観て

「もやもや感」が…映画「東京裁判」を観て

4時間半を超える映画「東京裁判(リンクへ)」を観ました。それについてFacebookに感想を書き込みました。
まずは、映画のあらすじです。

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<映画のあらすじ 公式HPより>
1945年日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を国民に伝えた。戦後の日本を統治する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、戦争犯罪人の裁判を早急に開始するよう望み、1946年1月22日に極東国際軍事裁判所条例を発布した。通称“東京裁判”である。
満州事変に始まり、日中戦争の本格化や太平洋戦争に及ぶ17年8カ月の間、日本を支配した指導者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機ら28名が訴追された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく。
同年5月3日より東京裁判は開廷。まずは「平和に対する罪」など55項目に及ぶ罪状が読み挙げられるが、被告は全員無罪を主張した。検察側は日本軍の非道の数々を告発。弁護側は「戦争は国家の行為であり、個人責任は問えない」と異議申し立てするが、「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」と、裁判所はこれを却下した。1948年11月12日、病死した被告などをのぞく25名のうち東條ら7名に絞首刑、他18名は終身禁固刑もしくは有期刑が宣告が下された。
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そしてFacebookに書いたものが以下のような内容です。
かなり補足しており、元のものからはかなり変わっています。(とくに裁判の積極的側面の部分)

東條や広田などの肉声を聞くことができただけでも、面白かった。
とはいえ、「もやもや」感がのこる。

歴史屋の立場からすると、ここをもっと詰めてほしいし、
この解釈は違うやろ、といったところも多い。
なんでもかんでもナレーションでという手法も気になる。
史実の扱い方に、作られた時代(1983年公開)の限界も感じる。

しかし、「もやもや感」は映画の問題ではない
それ以上に、この裁判自体がもつ性格のせいだ。

キーナン検事は「天皇免責」のために裁判自体をねじ曲げ、
ウエッブ裁判長は、強引な裁判運営を行う。
原爆投下や本土空襲といったアメリカの戦争犯罪は問われず、
(このため、日本軍による重慶爆撃は免罪となる)
勝者による敗者への報復が表面化してくる。
(仕方ないことではあるが)
被告席の席の制限から、ソ連側の容疑者ごり押しのせいで、阿部信行ら二名が第一次訴追から免れ、結果として岸信介らは被告としての出廷は免れる。

法律上・国際法上の問題点を利用して、日本の戦犯たちは保身を図る。
犯罪事実の認否を問われ、全員が「無罪」を主張するシーンには不快感を感じたが、二者択一を問うような裁判のすすめかたについても問題もある。
たとえ良心的な被告がいたとしても、連合軍がもっていたであろう「ナチス流の共同謀議」との妄想にも似た検察側の冒頭陳述について聞かれるのだから。
当時は「田中上奏文(メモランダム)」なる偽書の存在を連合軍は信じており、それをもとに「ナチス流の共同謀議」という怪しげな議論を組み立てたといわれる。
これが偽書なしいことが明らかになるとそれにかわる「共同謀議」にかかわるものとして扱われたのが広田弘毅内閣の「国策の基準」である。陸軍と海軍の利害調整のなかでうまれたこの文書が「田中上奏文」にかわるものとみなされたふしがある。広田が処刑されたのはこの文書にかかわった面があったとも考えられる。

そして有罪か無罪か二者択一でいえといわれるのだから。
「どう答えたらいいね!」

本当はこう聞てほしかった。
「(あのハチャメチャな)冒頭陳述は置いといて、あなたたちはこの戦争に対して、本当には無罪だと思っているのですか」「罪はなかったのですか」と。

考えれば、「ナチス流の共同謀議」で日本の戦争責任を問うという図式自体にボタンの掛け違いがあったのかも知れない。分かりやすい図式は真実の追究から離れていく。ナチスはともかく、日本に対しこの切り口で戦争責任を問うたことで、被告たちは「自分は無罪」といいやすくなったことは確かだ。

裁判では、多くの事実が明らかになっていく。
このことの意味は大きい。
戦後を生きてきた我々にとっての常識は、当時は非常識であったことを我々は肝に銘じる必要がある。
張作霖は中国人に殺されたのであり、柳条湖事件も張学良側の起こした挑発行動であった。「東洋平和」のために戦う皇軍を中国の人たちは感謝している。悪いのはこの日本の好意をみとめない蒋介石やソ連の手先どもだ。ミッドウェーでの戦いも勝利し、ガダルカナルもある程度成功したから撤退したのだ。(とはいえ、それならなぜ戦線が日本に近づいてくるのかという当然の疑問はあったのだろうが、口には出せない)。こんな中で、庶民は生きてきたのだ。
軍部や政府のいうこと、新聞に書いてあることは、たとえ胡散臭いと思っていたとしても口に出せない。異論を加えれば、特高警察や憲兵につかまり、拷問をうけ、下手をすれば死体で返されてくる。そうでなくとも、地域の人から「主義者」などといって、自分だけでなく、家族や知人も嫌がらせをされる。ときには子どもたちすらも信用できない。人びとはこうした社会に生きていたのだ。だからこそ、敗戦と同時に人びとは、真実を知りたがったのだ。ときにはなけなしの食料とも引き換えに。
こうした中で、一応の証拠をそろえて、日本及び日本軍の悪行を暴露した東京裁判は、人びとの目を覚ます大きな力にもなった。東京裁判がもっていた成果は多い。
多くの日本人は、自分たちが騙されていたことを知り、
日本軍が行った悪行の数々を知った。
この重要さは、強調しても強調しすぎることはない。

裁判では戦前日本の病巣が十分追及されないまま、欧米風の組織のあり方を日本に当てはめるやり方、個人責任を追求する議論が中心となり、明治憲法体制下の日本の病巣に手をつけられなかった。
ニュルンベルグ国際法廷流のやり方はナチスには有効であったが、日本向きではなかった。戦犯指名されなかった石原莞爾向きではあったが、戦犯指定された大部分の被告向きではなかった。実際に指名された戦犯たちの多くは、小さな権力を振りかざす卑劣な軍人であり、小役人でしかなかった。被告席に並んだ凡庸な戦犯たちが日本に悲劇をもたらしたことの意味を、裁判官や検察官はどれだけ理解できたのだろうか。

さらに、マッカーサーそしてアメリカ政府の意を受けたキーナン検事は、当然審理されなければならないはずの天皇の戦争犯罪・戦争責任に話を及ぶことを全力で阻止し、ついには東条にまで偽証を強要した。
こうして裁判は、本来の戦争犯罪、戦争責任の追及からどんどんと離れていった。
その間、外の世界で冷戦の過程が深化すると、外の世界とくにアメリカはやる気を失い、裁判の早期決着を図る。そして7人を絞首台に送ると、そそくさと裁判の幕を引く。
ちなみに、唯一文官として処刑された広田弘毅を総理大臣に推薦し引き出したのが、彼を処刑したときの総理大臣吉田茂であったことは、事態の意味を考える上で示唆的である。

他方で、第一陣のはずだった戦犯全員が有罪ならば、当然有罪であると推測しうる第二陣で裁かれるはずの戦犯たちは、裁判に掛けられることもなく釈放される。彼らは、自分たちを裁くはずだった勢力に取り入って、その支持の下に政界に復帰する。そして開戦の勅書に副署した戦犯岸信介が総理大臣に上り詰める。

東京裁判における「もやもや感」は、戦後の日本の「もやもや感」につながっていく。

とはいえ、東京裁判はやはり重大なトピックだったことは明らかである。
だからこそ、右派の勢力はこれ以後も、裁判の形式上の問題をあげつらって、裁判の事実自体、戦争の責任自体を否定しようとする。パル判事の意見書をねじ曲げて賞賛し、裁判への不信を煽る。

残念なことに、私たちの先輩たちは、そして戦後に生まれた私たちも、
日本人の手で、二度と同じことを繰り返さないという立場からの、本来の意味の「東京裁判」をしなかった、できなかった。
その「屈辱」を心に留めなければならないのではないか、
そう思った。

以上のような趣旨をFacebookにのせた。
ある友人から
「戦勝国の勝手な裁判という人もいるが戦争責任を認めたがらない人の勝手の言い分。裏取引もあるだろう、このような大きなことに完璧はあり得ない。一定の歴史的意義はあった思っているのですが。」
とのコメントをいただきました。
このコメントの意見もうけいれながら、少し書き直したのが上の文章です。
そしてこのコメントに対しての私のコメントが以下のものです。

意義はたしかにあるのです。とても大きい。
しかし天皇の免罪という大きなテーマ、さらに連合国側の戦争犯罪の免責、とりあえず何人かを殺して方をつけるというやり方、最終的には勝者が敗者を裁くというところからくる限界がありました。
それに乗じて、戦争を起こした連中が、戦争責任をあいまいにし、さらに「正義の戦争」とさえいいつのる隙を与えました。
その結果、自分で戦争責任に向き合おうとしなかった以後の日本、反省しない日本という戦後の日本の問題が生み出したのでしょう。
そこに「もやもや感」の正体があったのかもしれません。そして、裁判で裁いた側(責任をあいまいにしようとした人でもあるのですが)と裁かれた側が手を握り、本気で戦争責任を追及する人たちを妨害したというのが戦後の姿だったのでしょう。
映画で感じた「もやもや感」の正体は戦後日本のあり方の「もやもや感」なのかなと思ったりします。

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

史料紹介「エドウィン・O・ライシャワー『対日政策に関する覚書』」

新年度を迎え、本年もいくつかの大学に聴講に行くこととしました。そうしたなか、ある講義でとんでもなく面白い史料をもらいました。ぜひ、多くの人に紹介したいと思います。

『対日政策に関する覚書』について

それは1942(昭和17)年9月段階、ひとりの日本研究者の青年が戦争省に提出した覚書(メモランダム)です。そこには、敗戦後のアメリカの対日政策がみごとに先取りされています。

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エドウィン・O・ライシャワー(1910~1990)

提出したのはエドウィン・O・ライシャワー、当時31歳です。私が物心ついた頃の日本大使で、日本生まれ、日本育ち、妻(結婚(再婚)したのは戦後ですが・・)も日本人。日本の歴史や文化にも造詣が深く、親日派の筆頭としてあげられた人物です。つねに日本に友好的であり、戦争中も敵意を持っていなかったと主張し続けています。この史料で見る限り、そうとはいいにくいのですが・・。
ライシャワーは、日米開戦直前に、名門ハーバード大学極東言語学部の講師となります。1941年夏には一時的に国務省調査分析官に席を置き、アメリカの対日政策にもかかわりますが、秋には大学に戻ります。12月の日米開戦を受け、1942年9月以後は陸軍省で暗号解読と翻訳など情報関係の仕事を携わりました。回顧録には、この間、国務省のプロジェクトチームにもかかわったと記していますが、この時期を対日政策を研究した書物などには不思議なほど名前が出てきません。
しかし日本研究者がわずかしかおらず、日本についての知識が切望されていた時期、1941年段階で関係を持っていた国務省が、この人物を放っておくとは思えません。戦争が終わる前後には国務省チームの責任者をすることから考えて、回顧録の証言はあたっている気がします。

この史料『対日政策に関する覚書』(以下『覚書』)は、ライシャワーが陸軍省に移る1942年9月、戦争省に提出したものです。カリフォルニア大サン・ディエゴ校のタカシ・フジタニ氏がアメリカ公文書館で発見、雑誌『世界』2000年3月号で紹介と解説を行いました。(タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」なお史料の英文テキストは『世界』のホームページhttps://www.iwanami.co.jp/sekai/2000/03/146.htmlから、現在も見ることができます。)コーネル大学の酒井直樹氏はこの文書の重要性に着目、『希望と憲法』(以文社2008)のなかで検討、さらに日本語訳を巻末資料として掲げました。講義で渡されたのはこの資料でした。
(なお、この文書をテキスト化したサイト(「忘馬楼の『老馬新聞』」2008年5月24日http://16.huu.cc/~mamo/bd080524.htm)があったので、転載させていただいています。

ライシャワーが語る『覚書』

では、ライシャワーはこの『覚書』をどのようにかたっているのでしょうか。『ライシャワー自伝』(徳岡孝夫訳 (株)文藝春秋・1987)には

 日付ははっきりしないが戦争初期に書いたらしい私の覚書の写しには、戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案が書かれている。
 日系アメリカ人の部隊をつくり、彼らに忠誠心を証明する機会を与えよ、それは戦争の人種間闘争的な性格を弱め、われわれが日本国民ではなく軍部と戦っている事実を示す好機になるはずだ、という進言も残っている。

と、その存在を簡潔に記しています。またNHKで話した内容を文章化した『日本への自叙伝』(日本放送出版協会1982・以下『自叙伝』)では、戦後改革の章で内容の一部を紹介しています。そこには「先に見た『覚書』」という記述があるにもかかわらず、その記述を見つけることはできませんでした。
自らの先見性とその影響力は自慢したいものの、その内容の過激さから「親日家」という自分のイメージを守るために現物は見せたくなかったのではと、ついつい邪推したくなってしまいます。
ライシャワーは、この『覚書』を「アジアにおけるわが国の戦争努力と、特にこの地域で戦争が終結した後の政策目標に密接な関係をもつ」「些末に見えてもじつはきわめて重要な二つの点について意見を喚起したい」と書き始めます。
その一点目は「戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させる」ための手段を論じた内容であり、二点目はさきの『自伝』にあった日系アメリカ人を軍人として戦争に参加させることです。

日系アメリカ人部隊創設を提案

話の都合上、後者の方から見ていきます。
1942年のアメリカ大統領令9066号は、アメリカ西海岸などに住む日系アメリカ人に「敵性市民」として立ち退きを命じました。その結果、12万人を超える日本人に、さらに日本にルーツを持つアメリカ国民と日本人移民、そしてメキシコやペルーなどアメリカの友好国である中南米諸国に在住する日系人と日本人移民が、アリゾナ州の砂漠など荒れ地に設けられた11か所の強制収容所に送られました。

アメリカ軍の監視下、強制収容所に向かう日系アメリカ人(1942年4月5日)Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

このことは当時から、アメリカの「理想」などとのかかわりで問題とされていました。なお、1988年レーガン大統領が国家として正式に謝罪を表明、補償を行います。
この日系移民の強制移住という政策にライシャワーは危機感を感じます。かれが問題視したのは、アメリカ憲法に反した人権を侵害する行為だからではありません。

日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れません。

このように、この行為を妥当な行為として評価、さらに、20世紀初頭から続く日系アメリカ人排斥運動を認める発言も行います。

現在に至るまで、日本人を祖先に持つアメリカ人は我々の目的にとって負債以外の何物でもありませんでした。一方ではわが国にとって人口の移動と軍事的な監視という大きな問題を課し、他方ではアジアの日本人にプロパガンダの切り札を与えてきたのです。

このように日系アメリカ人を「負債」と表現し、アメリカに負担を与える邪魔な存在として位置づけています。
ライシャワーが危機感を感じるのは、日本がアメリカのこの政策をプロパガンダに利用することでした。この戦争を人種間の戦争と主張する日本の考え方を正当化する論拠となる、だから危険だというのです。かれはこの危機感を次のように語ります。

日本は国際連合(the United Nations:注:酒井氏は連合国をこのように訳している)に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしております。(中略)日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めております。中国が戦争から脱落するような事態があった場合は、日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれません。

日本が、近代以来の欧米諸国による植民地支配という弱みをついて、白人対黄色・褐色人種という人種間戦争という枠組みに持ち込む材料となる、それが危機感の内容でした。
ライシャワーはこうしたことにならないために、日系アメリカ人という「負債」を「資産」に変える方法を提案します。

この状況を逆転させ、これらのアメリカ市民をアジアにおける思想戦の資産に変えるべきでありましょう。現時点において、今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であることを示すためには、(日系アメリカ人による) 合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありえません。

こうした意図から、ライシャワーは日系人部隊を結成することを提案します。これによって「日系アメリカ人を負債ではなく資産にする」ことができるというのです。

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第二次世界大戦における日系二世将兵を称えた議会名誉黄金勲章(表) Wikipedia「第442連隊戦闘団」より

この提案は、『覚書』から5ヶ月後、1943年2月、日系人部隊(第422歩兵連隊)結成という形で実現します。この部隊は、ヨーロッパ戦線でもっとも過酷な戦場に送り込まれ、勇敢に戦い、米軍全体を見てもとくに多くの犠牲者をだしたことでも有名な部隊です。(先日、NHKがこの部隊の過酷な戦いのようすを扱った番組(BS1スペシャル「失われた大隊を救出せよ~米国日系人部隊 英雄たちの真実 )を放送しました。)
この部隊結成と『覚書』の直接的な関連はわかりませんが、政策実施に一定の役割を果たしたのではと思います。本人としてもそうした自覚はあったようで、さきにみたように『自伝』のなかでこの部隊のことに触れ、多くの日系人がこの部隊に参加したと誇らしげに語っています。
これが二点目の内容です。

日本人に有効な「スケープゴート」は?

しかし、これ以上に重要なのが、一点目の内容です。ライシャワーが自伝でいったような「戦後日本の協力と民主化に必要な天皇を罵倒するのは避けるようにとの提案」にはとどまらないインパクトをもつ提起です。
ここで論じられているのは日本の敗戦後の占領政策を見越した上での政策提言です。すこし丁寧に見ていきたいとおもいます。

ライシャワーの中心的な関心は、敗戦後の日本において「アメリカの政策に誠実に協力する」日本人の「頭数」をそろえ、アメリカ側に「転向」させ、その協力を得ることです。

戦後の日本を友好的で協力的な国家の仲間に引き戻すためには多くの日本人の協力が必要でありますが、わが国の政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数(sufficient numbers of Japanese)我々の側に転向させることは極度に困難な課題になると思われます。(中略)日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができないことは、極東を専門的に研究する者にとって、あまりにも明らかなことであります。

そしてこういった「頭数」を確保する上での、ドイツやイタリアと異なる日本の困難さを記しています。東京裁判が、ニュルンベルク裁判と違って難しかった理由をすでに予知していたかのようです。

戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるに当たって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当な適当なスケープゴートが存在しないことであります。ドイツとイタリアでは、ナチ党とファシスト党が、さらに有り難いことにヒトラーとムッソリーニという全体主義をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合のよいスケープゴートの役割を果たしてくれるでありましょう。(中略)この政権の解体と指導層の追放という行為を通じて、彼ら自身、すなわち人民ではなく、彼らの邪悪な指導者が悪かったのでそのため敗北したのだと、自分たち自身を納得できるはずであります。

ドイツなどでは敗戦の重荷を「悪かったのはナチス党やヒトラーなどの政権と指導者」に押しつけ(実際にそうした面も大きかったのですが)、「がん細胞」を切除するかのように取り除くことで国内的にも決着をつけられると考えました。

ヒトラーとムッソリーニT128
東京書籍「日本史A」P1278

しかし、「日本ではこのようにいかない、無理だろう」というのがライシャワーの見立てです。連合軍側では多くの人が天皇をヒトラーやムッソリーニと同格に考えていました。しかし、日本人の多くがそう考えていないことは、日本に生まれ育った彼にとっては明白でした。天皇にスケープゴートの役割をおしつけることは無理であり、逆効果と考えました。

日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできません。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っているからで、天皇を告発することは国旗を非難すること以上の憂さ晴らしになるとは思えないからであります。

では、ちょうどいい、敗戦の責任を押しつけうる「悪」、日本人の「憂さ晴らし」になるスケープゴートはいるのか、と問うたとき、適当な人物を見つけにくいというのが、かれの見立てでした。かれは、当時の日本の統治形態をつぎのように見抜いています。

日本では現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任をとらせる政党は存在せず、スケープゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たりません。偽りの邪悪な指導者の役を演じてもらえる唯一の組織は陸軍でしょうが、いまや全国民が何らかの形で陸軍と軍人崇拝の永い伝統と同化してしまっており、陸軍を責めることで日本人が憂さを晴らせるとは思えないのです。

日本には都合のよいスケープゴートがいない。「現実の指導者はむしろ匿名的な権力使用を常習」とするからだ。なかなか見事な分析です。ニュルンベルク裁判に比べて、東京裁判が難しく、そのあり方に疑問が多く出され、国民にとってもストンと落ちなかった理由もこのあたりにあるのでしょう。「軍国主義」のがん細胞は、日本という肉体の深くに根ざしており、外科手術で取り除くことは困難だったのです。ライシャワーは東京裁判での連合軍の困惑を見抜いていたかのようです。
少し読み違えがあったとすれば、敗戦後の国民は彼が考えた以上に、陸軍というか軍部に批判をもっていたようです。しかし、それはこの文書のかかれた時期が原因かもしれません。なぜなら、この文書が書かれたのは、ガダルカナル島攻防戦がもっとも激しく戦われていた時期、戦いの帰趨すらはっきりしない、ライシャワー自身が「本当に戦争自体に勝利できるか自信がなかった」と述べている時期だからです。しかし『覚書』が書かれた時期から三年弱、日本人は戦争の苦しみを味わいます。しかもそれは口には出せなかった。口に出せなかったからこそ、次々と国民に犠牲を強いてくる軍への怒りを沈殿させていったのでしょう。

アメリカにとって最良の「傀儡」は?・・

スケープゴート作戦がうまくいかない日本でどのようにして、敗戦後、「日本の人民の協力」をえるのか。「注意深く計画された戦略を通じて思想戦を勝ち取ることが我々には期待されるでしょう」と「思想戦」という用語を使い、もったいぶった言い方で論を展開します。内容は過激さを増していきます。

当然のことながら、第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させることであります。そのような集団が少数派しか代表しない場合には、我々に喜んで協力する集団は、いわば傀儡政権ということになるでしょう。
日本は何度も傀儡政府の戦略に訴えてきましたが、たいした成功を収めることはできませんでした。というのも、彼らが用いた傀儡が役不足だったからであります。

たしかに満州国の溥儀も、南京政府の汪兆銘も、中国の人々の支持を取り付けるためには役不足でした。しかし、日本には、最高の、これ以上ないという傀儡がいるとライシャワーは言います。この『覚書』ももっとも過激で、衝撃的な部分に入りましょう。

ところが、日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれております。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、中国での日本の傀儡が常に欠いていた素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っています。もちろん、私が言おうとしているのは、日本の天皇のことであります。

アメリカが日本を統治するのに最適な「傀儡」として天皇がいるとライシャワーは主張します天皇を「傀儡」として利用し、占領統治を行えばうまくいくというのです。「協力」とか「利用」といったことばでなく、「傀儡」(puppet regime)という最大限の刺激的なことばをつかっています。天皇を占領政策に利用すべきという政策のはしりであり、だからこそ、むき出しの政策意図が見える気がします。
このようにライシャワーは、きわめて冷徹に敗戦後、日本をアメリカに従属させるための方法を提案しています。かれが、よく口にする「日本の友人たち」という言葉ですが、心の中では「友人」ではなく「傀儡」と思っていたのではと邪推したくなります。
つづいて、天皇の「傀儡」としての資質について触れます。

日本の基準からいって、天皇は自由主義者であり、内心は平和主義者であると考えてもよい理由があります。天皇を国際連合(the United Nations)と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しいことであるというのは、大いにありそうなことです。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせることができるのであります。

日米合意としての「国体護持」

ライシャワーは、みずからの体験と交友関係、さらにはこの約1ヶ月前に帰国した元駐日大使グルーらの意見も踏まえたかもしれませんが、裕仁天皇を「自由主義者」「平和主義者」と分析し、アメリカ戦略のため「傀儡」として「転向」させうる、最高・最適の人物と評価しました。「天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」という一節は、裕仁天皇と側近グループが、本土決戦を主張する軍部を押さえ込んだという敗戦に至る経過を見通していたかのようです。

JosephGrew
ジョセフ=グルー 戦前、十年以上にわたりアメリカの駐日大使をつとめ、日本の占領政策に大きな影響を与えた。

敗戦に際して、1945年6月の沖縄陥落以降、戦争終結をめざすようになった裕仁天皇らがもっとも重視したのは「国体護持」=天皇制の維持でした。
他方、アメリカでは国務次官となった国務省内「日本派」の代表ともいうべきグルーが「立憲君主制を含めて」という一言を連合軍の文書に組み込むいれるべく全力を尽くし、省内の「中国派」と暗闘を繰り返していました。グルーら国務省内の「日本派」はこの言葉こそ天皇グループがもっともほしがっている「国体護持」の実態だということを知っていたからです。吉田茂ら「和平派」(「傀儡」?!)と何らかの接触があったのかもしれません。
そして、「国体護持が可能である」というなんらかの見通しを得たなか「和平派」であった裕仁天皇と側近たちは行動に移しました。彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍事指導層を弾劾するに至らせる」力をフルに生かして。
そして、この実績をひっさげて、天皇はみごとに「転向」し、アメリカ占領政策の「傀儡」の役割を積極的に果たします。たぶんライシャワーやグルーが思った以上に。

「傀儡」としての天皇の役割

天皇による「玉音」放送と武装解除命令の「臣民に与える影響力」は絶大でした。
実態としての厭戦気分が満ちあふれていたこともあり極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民」である日本臣民はみごとに「転向」しました。アメリカ軍はこれといった抵抗もなく占領を開始、軍隊の武装解除も約1ヶ月という短期間で完了しました。
天皇制、とくに裕仁天皇の存在は多くの連合国側が思いもつかないほど効果をしめし、『覚書』の見通しはおどろくべきの正しさをもって証明されました。

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1945年9月のマッカーサーとの会見以後、裕仁天皇はGHQとの関係を強化、アメリカ側とくにマッカーサーの意向を受け入れた行動をとります。マッカーサーはその華麗な「転向」ぶりに目を見張ったのでしょう。
こうして戦前の万世一系の神話の上に立っていた絶対主義天皇制は「傀儡天皇制」へと姿をかえました。
マッカーサーはこれ以降、有能な「傀儡」である裕仁天皇を最大限利用するため、強引ともいえるようなやり方で天皇制の維持を図ります。アメリカ国民や連合国の意見を無視して、天皇の戦争犯罪人としての起訴を拒みます。さらに戦争放棄・軍隊の非所有という衝撃的なまでに平和を前面に打ち出した日本国憲法の制定をすすめていることで日本の軍国主義が克服されつつあると世界にアピールします。世界が廃絶を求める天皇制を維持するためには、過激なまでの平和憲法が必要だったのです。だからこそ、極東委員会で天皇の処罰を厳しく求めるソ連やオーストラリアも、明治憲法を残したい日本政府も、憲法9条をもつ日本国憲法と象徴天皇制のセットを認めざるを得なかったのです。
他方、裕仁天皇は1946年正月の人間宣言をだし、さらに全国巡幸を積極的に行うことなどで「愛される天皇」を演出、GHQの期待どおりの「傀儡」の役割を演じます。裕仁天皇からすれば「国体護持」=天皇制存続のための必死の工作だったのでしょう。双方の利害が、憲法上の「象徴天皇制」で一致したのです。

裕仁天皇は憲法制定後もアメリカのエージェントともいえる役割を演じます。
1947年9月「米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む」という内容のメッセージを側近経由でGHQに伝え、日本国内の米軍基地の自由使用などの問題では、吉田首相やマッカーサーの頭越しにダレスと結んでアメリカ政府につながり、豊下楢彦氏が「二重外交」と指摘するような行動をとります。それは、米軍基地の存続に制約をつけようとする吉田や外務省の意向とも異なる、アメリカにとっては心強い動きでした。
裕仁天皇は、天皇制維持という目的から憲法の規定をも超えて「自発的」に「傀儡」の役割を果たしつづけました。

天皇の「利用価値」を高めるために・・

さて、『覚書』にもどりましょう。

もし、天皇が、彼の祖父(明治天皇のこと:訳者)のような真の指導者としての資質をもっていることにでもなれば、我々にとってはますます都合の良いことになります。たとえ、彼の半気違いの父親(大正天皇のこと:訳者)程度の能力さえないことが判明したとしても、それでも、協力と善意の象徴としての彼の価値はきわめて貴重であります。

この文章はあくまでもライシャワーの言葉です。疑問の方は、英文テキストで確認してください。大正天皇を「半気違い(his half-demented father)」と呼ぶなど、紳士的でハト派の親日家として知られるライシャワーとは思えない書きぶりです。アメリカの政策遂行上の利用価値という点から、冷酷に天皇を見ていることをよく示しています。
このように利用価値の高い天皇です。このため、天皇がヒトラーやムッソリーニと同様の「邪悪な日本の体制を象徴するもの」といったアメリカでの報道を控えて「貴重な同盟者あるいは傀儡」として天皇を日本においても、アメリカにおいても「使用可能な状態に温存する」ことが必要だと考えました。

戦後に日本人が(敗戦によって受けるであろう)精神的な傷から回復するために天皇が演じることができる役割は、現在の状況と確実に関係しております。戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我々は彼を隔離しておかなければならないのであります。(中略)新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねません。このような政策をとるかぎり、我々の道具として、天皇に協力したり、あるいは極端な場合には、天皇を受け入れたりする心の準備をアメリカの人びとから奪い取ってしまうことになるでありましょう。当然その結果として、天皇自身と天皇周辺の人びとはわが政府に協力する気持ちが弱まるでありましよう。(中略)戦後問題を考慮して、政府におかれましては、本邦の報道波及機関に対しまして、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するよう、ご指導されるべきかと考える次第であります。

この部分でやっと『自伝』で紹介した内容がでてきます。『回顧録』でも、このあたりの内容が紹介されています。「自分は、アメリカでの天皇批判から彼を守ろうとしたのだ」というふうにいいたいのでしょう。しかし、見ての通り有益な「傀儡」の価値を減じるから批判を控えるべきだというのです。『覚書』での天皇への目は非常に現実的かつ政治的です。
なお、この提言を考慮してかどうかはわかりませんが、国務省は日本向けの放送での「天皇批判を避け」つづけます。

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ミスター=モト ジョン・P・マーカンド原作の小説の主人公。微笑を絶やさず「アイム・ソーリー」を連発する冴えない人物。しかし物怖じしない度胸と鋭い頭脳を隠し、小柄な体の下に大男もねじ伏せる怪力と鮮やかに敵を倒す柔術の業を極めた秘密情報部員。日米関係の悪化とともに悪役として描かれるようになる。(http://www.aga-search.com/)より

しかしアメリカ国内やオーストラリアなど他の連合国の反天皇報道をおさえることは困難でした。1944年グルーが天皇を免罪するかのような内容の講演を行ったときにはアメリカ内外から激しい反発がまき起こり、グルーは一時沈黙を強いられました。国務省内部にも、天皇の責任を厳しく追及する「中国派」がおり、天皇制維持をめざすグルーら「日本派」の間で対立がつづきました。
この間、ライシャワーは陸軍で暗号解読に全力を挙げていたことになっていますが、国務省内でも何らかの影響力を持っていたことは考えうるのであり、従来、グルーの主導とされてきた政策のいくつかにはライシャワーの影響があったことも考えられます。
ちなみに、『自叙伝』で自分の同級生であり「平和を欲していたはずだ」と持ち上げている山本五十六を『覚書』では東条と並ぶ「敵国日本の人格的具現」としてマスコミの批判対象として掲げるように誘導していることも興味を引きます。
日本では、英雄視されることの多い山本五十六ですが、アメリカでは東条英機や「謎の日本人ミスター=モト」とならぶ、真珠湾に卑劣な奇襲作戦を行った「悪役」だったことがわかります。

「アメリカにとって都合のよい日本」という視点

アメリカ内外の天皇批判をやめさせ、非人道的な日系アメリカ人への迫害をなんとかやめさせようと思っていたが、普通の言い方では通用しないため、あえて政策提案者が受け入れやすい露骨な、偽悪的な書き方をした、その方が正しいのかもしれません。かりに、そうであっても、この文書は現在に至るアメリカの対日政策の基本構図をあまりにリアルに描き出してしまいました。

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裕仁天皇(昭和天皇) 日本国憲法に署名しているときの写真

この『覚書』の重要さはアメリカにとって都合のよい日本を作り出すという点に焦点をあてて論じているところです。
こうしたアメリカの世界戦略のもと、戦後日本は、アメリカの「政策に誠実に協力するような日本人を十分な頭数」を現在に至るまでうみだしつづけ、「日本の人民の協力」によって「この地域に健全な政治的・経済的状況」を作り出し、「友好的で協力的な国家の仲間」でありつづけています 。こうした日米関係をつくりあげる、「戦争終結の後の思想戦のため」のアメリカの「目標に最も適った傀儡」こそが天皇でした。
このようなアメリカにとって都合のよい日本は、サンフランシスコ平和条約による「独立」後もつづきます。いっそう強まったというべきかもしれません。その核心となったのが日米安保体制です。その核心ともいうべき米軍基地の自由使用、沖縄の分離と占領継続において、裕仁天皇はアメリカの利害を援護する「傀儡」としての役割をみごとに発揮しました。こうして成立した「日米安保体制」は現在の日本のあり方を大きく規定しています。
この『覚書』は、日本をアメリカに従属する「都合のよい日本」に変えていくというアメリカの『本音』を見事に描き出しました。そして「都合のよい日本」は、現在、いっそう「都合のよい」存在となっています。この「都合のよい日本」への「転向」の「てこ」として使われたのが、アメリカの「目標に最も適った傀儡」としてライシャワーらに見いだされたのが天皇制であり、裕仁天皇個人でした。

 

’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。