「日本の近代化」タグアーカイブ

幕末の人物へのアンケート調査

幕末の人々にアンケート調査をとると…

はじめに

幕末の人々の行動は、非常にわかりにくい。
昔ながらの
尊王vs佐幕攘夷vs開国
となどという基準で分類したら、?マークがそこら中にでてくる。
研究レベルで、こんな基準で分類する人はいないと思うが、時代劇などではいまでもよく使われる。そしてさっきの「?」のために訳がわからなくなる。
この基準でいけば、明治維新の指導者たちは、攘夷の理念を裏切ったものばかりである。
最初から最後まで幕府の中心として活動した一橋慶喜や松平春嶽は開国と攘夷の双方を行き来しているし、長州の周布政之助は条約締結のために攘夷を行うといった一見理解不能な議論を展開する。

旧来のやり方では分類不可能な人たち

人間はそんな単純なものでない。さまざまな思いを持ちつつ、それぞれの価値観・倫理観にもとづいて行動する。

井伊直弼 幕府権威の立て直しを図り、安政の大獄などを進めたが、桜田門外の変で殺害された。

具体的に、この時期に即して考えて見よう。
 尊王家井伊直弼
まず佐幕、開国派の代表とされる井伊直弼はどうか。
井伊は国学の素養があり、熱心な尊王家とされる。その井伊が朝廷関係者を次々と捕らえ、苦しめ、ときには命を奪う。
「攘夷」藩・長州
攘夷の拠点・長州藩では、外国公使館を焼き討ちの実行犯・井上馨(志道聞多)や伊藤博文(俊輔)が、その直後にイギリス船で留学にでる。列強の脅威を身をもって学んだ高杉は、日本を対外戦争に巻き込む行動をとる。
 一橋派と島津久光
尊王攘夷の総本山ともいえる徳川斉昭は外国の技術導入に熱心であった。尊攘派の代表選手である徳川斉昭・藤田東湖と蘭癖大名の島津斉彬や開国論者松平慶永・橋本左内が一橋派として同盟関係をくむ。
上記の図式では理解しがたいことだらけである。

尊王攘夷とは違う思惑で政局にかかわった人物も多い。島津久光は、尊王家であるより薩摩幕府を開きたいという野心があると、当時から思われていた。
 「二心殿」徳川慶喜
とくに理解困難なのがさきにみた「二心殿」として当時から呼ばれ、いまも非難され続ける徳川慶喜である。かれは尊王と佐幕の間で、開国と攘夷の間で、次々と態度をかえる。
もはや攘夷が不可能との意識が共有されかけた時期、慶喜は孝明天皇ののぞむ攘夷実現のため横浜の閉港を強硬に主張し、議論をぶちこわす。逆に、慶応3年には列強の代表を集め、洗練されたマナーで紅茶を振る舞う。
 実は一貫していた松平慶永
開国論者松平慶永は、政事総裁職についた文久2年、攘夷の方針をうちだし、文久3年春、京にやってくる。しかし攘夷が現実問題として日程に上ると難色をしめし引き籠もり、ついには幕命・朝命をふりきって帰国する。
しかし、攘夷・開国、尊王・佐幕といった議論をいったん下位の判断基準とみなし、公議政体論=オールジャパンの実現という基準を第一に考え、さらに「議論をすればみんなわかってくれるはず」という彼独自の楽観主義を組み合わせると、慶永の行動は一貫していたように見え始める。

人々は何を根拠に行動するのか?

人々は、自らの世界観・倫理観、本音とたてまえ、さらに深層心理などにさえ動かされて、一見すると極めて多様で矛盾とも見える行動をとる。
では幕末期、それぞれの人物の行動を律していた原理は何なのだろうか。
身分社会の中でのさまざまな立場、武士・豪農豪商としての身分的な使命感・信念であるかもしれないし、家名を上げたい立身出世という上昇志向もあるだろうし、怨恨かもしれない。憂国家・思想家としての矜持かもしれないし、組織を守るためという現在につながる悲しい習性かもしれない。家庭人としての生き方かもしれないし、ただただ面白さをもとめた愉快犯もいただろうし、サイコパスともいえる人物もいたであろう。
それぞれ各自、多様な価値観や倫理観の中、ときには矛盾した想念を持ちつつ、それぞれが重視する「理屈」、意識的・無意識的な感情にもとづいて、順位づけをし、ときには変化させつつ行動する
こうした人間個々の、判断の重層化の中で歴史は動いていった。ではこうした多様な判断の基準をどのようにして拾い出す事ができるのであろうか。

分析手法としてのアンケート調査

そこで考えて見たのがアンケート調査を行ったとすればどうなるのかというアイデアである。
当時生きていた人間にアンケート調査をしたと仮定し、さまざまな史料や行動経過からそれぞれの人物を多面的にとらえ、そのことを通じて、それぞれ大切と思った原理をさぐりつつ、その優先順位を考える事でその行動の合理性を考える事ができないかということである。

おもいつくままに作ったのが以下のアンケート項目である。
そしてさまざまな人物が、このアンケートに応えたとしたらどのような結果になるであろうかと「妄想」した。

専門的な研究が不足している筆者がこのような事をするのは力不足なのは明らかであり、丁寧に史料にあたって考えられておられる方からすれば、納得できない事も多いだろう。逆にそういった方が別の知見を打ち出す事も可能になるだろうし、さらにはアンケート項目で不十分な内容を付け加えてもらえればもっとおもしろくなるであろう。

こうして一見矛盾に満ちた人物の行動がそれなりの筋道をとって理解できるのではないかと考える。

昨夜、テレビを見ていて「他国に利権を供与してでも資金を獲得し、日本の近代化を図るべきである。」という選択肢を考えた。
今回挙げる人物でいえば、慶喜は賛成したし、提案した小栗忠順の先輩・水野忠徳もそうだろう。
逆に、孝明天皇をのぞき、明確に反対した人物は誰であろうと考える方が正しいアプローチかもしれない。自分たちのヘゲモニーを獲得するためには、このような事は下位レベルの判断基準とみなされたであろうから。
慶永は、あるいは高杉も、もっとうまい儲け方があるとの視点から批判をするかもしれないなどと妄想した。

歴史教育の教材として

また、私の昔の仕事でいえば、それぞれの生徒に一人ずつの人物を割り当てて「憑依」(=研究)させ、このアンケートを応えさせ、それをまとめ、発表させれば、歴史の多面性を考えさせる事ができるかもしれない。その際は、最後の記述欄は必須であるし、できればⅠ~Ⅵの大項目についても、その判断の基準についてのコメントをつけさせれば取り学習が深まるように考える。

※冒頭の写真は、一藩に高須四兄弟とよばれる尾張の支藩高須藩出身の四兄弟を撮影した写真です。明治14年のものです。
向かって右から 尾張徳川家14代当主慶勝、 尾張徳川家15代当主でのちに一橋徳川家10代当主となった茂栄(尾張藩主引退後、将軍家茂の補佐役もつとめた)、 会津松平家9代当主容保(京都守護職)、 桑名松平久松家4代当主定敬(京都所司代)です。いずれも幕末の日本の最重要人物で、戊辰戦争では敵味方に分かれたたかう事となりました。

*******************

アンケートと「回答」例

以下、「アンケート用紙」と、私が「妄想」した数人方の「回答」を示しておく。(ただし、記述「回答」は松平春嶽のみ)

アンケート~幕末期、活躍されたみなさまへ

<アンケートのお願い>

幽冥界にて、静かにお休みの処申し訳ありません。 
 みなさまがそちらに赴かれ、長い方では170年、短い方でも100年もの日々が経ちました。 
 当時、みなさまが考え、行動された結果は、2020年代の日の本にもさまざまな影響を与えていると感じます。
 ところが、長い時間がたち、研究が進んだにもかかわらず、みなさまの思いを曲解したり、お聞かせするのもはばかられるような物言いをするものや、ひいきの引き倒しをするものなどがひきもきらず、まことにお恥ずかしい次第でございます。
 つきましては、みなさまの真意を少しでも後生のものにつたえるべく、アンケート調査を企画してみました
 みなさま方の真意を理解していると思う人間に「憑依」し、お答えいただければ幸いと存じます。
 ご協力お願いします。

                 お名前(              )
Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)(  )賛成
2)(  )立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)(  )立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)(  )反対

Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつつけてもかまいません。とくに重視したものがあれば、一つに限り◎をつけてください。絶対許せないというものに×をつけてください。
(A)攘夷実現のためには
1)(  )こちらから戦争に訴えるべきである
2)(  )強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)(  )できるかぎり戦争は避けるべきである
4)(  )なにがあっても戦争は避けるべきである。
(B)攘夷実現の方法
5)(  )条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)(  )いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)(  )いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)(  )現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
(C)攘夷実現の交渉の理念について
9)(  )攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)(  )攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。

Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
○はいくつでもかまいません。できればもっとも重視するもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇の意志を尊重することが第一
2)(  )挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)(  )幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)(  )朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)(  )自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)(  )身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)(  )天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。

Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。でいればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。 

1)(  )すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)(  )朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)(  )幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など
 重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。

4)(  )国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が
政治や外交を
になうべき。

5)(  )これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)(  )幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。

Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
○はいくつつけてもかまいません。できればもっとも重視されるもの一つに◎をつけてください。これは許せないというものに×をつけていただいてもかまいません。

1)(  )天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)(  )幕府がすべてを決めれば問題はない
3)(  )幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)(  )天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)(  )中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)(  )朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)(  )天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)(  )幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。

Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。

 (   )開国・攘夷
 (   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
 (   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
 (   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
 (   )幕府の威信
 (   )諸列強に対しての日本としての威信
 (   )軍事・産業・技術の近代化
 (   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
 (   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
 (   )下級武士や草莽の志士の登用

Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

*************************

回答を妄想する

数人の方の回答を妄想した。
あくまでも筆者の狭い範囲の知識での判断なので、ご了承いただきたい。

<回答例 1>松平春嶽(慶永)
松平慶永(春嶽) 幕末から明治初年にかけて、改革派としてつねに政局の中心にいた。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)   立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)△立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2)△強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4)△なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5)×条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)△いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)○いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)△現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) ×攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)○攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)○自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)◎幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)△中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍を招くべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用
Ⅶ、このアンケートを書いた後で、考えられたこと、最も大切だと思っておられたこと、歴史に伝えられている自分の評価について、思っておられることなどをご自由にお答えください。

自分は、清国がアヘン戦争で敗れた事情から、欧米列強がいずれ我が国に開国を求めにくるだろうと思い、優秀な家臣橋本左内の助けも借り、清の轍を踏まないためには、挙国一致が第一だと考えた。
 私は、現実を虚心坦懐に学び、丁寧に説明し、心の底から真摯な話し合いを行えばわかり合えると愚かにも信じ続けている。したがって、条約勅許・開国こそが正しいということを、斉昭様のような攘夷論者にも、朝廷の方々も、かれらが心底から我が国の将来を考えておられる以上、今後日本が進むべき道を理解していただけると思っていた。
だから大切な事は話し合いの場というプラットホーム作りであると考えた。慶喜殿を将軍となっていただこうとかんがえたのもその一環である。
しかし、これまでの幕府のあり方を守ろうというある意味忠義第一の井伊直弼殿が大老になることで、左内は私の代わりに殺され、私も隠居と蟄居を余儀なくされた。

 文久年間になると、私は蟄居をとかれ、政事総裁職という重職についた。朝廷は和宮様降嫁の条件、攘夷決行を強く要求してきた。もとより私が攘夷に否定的なのはいうまでもない。しかし、本来楽天的な私は真摯な話し合いをすれば、朝廷の方々はわかっていただけると考えた。いったん攘夷決行を承認し、話し合いの場で開国にもっていけると考えた。その主張が通り、慶喜殿、私や山内容堂殿、有力諸大名、そして将軍家茂様までも京都に集結、話し合いを持つ事になった。
 しかし、京都にいった私はその誤りを知った。この地では、長州や土佐の支援を受けた狂犬のような尊攘派がテロを繰り返し、彼らと結ぶ公家たちが天皇の名をかたって勝手なことを繰り返した。彼らは、「勅命」といわれれば反論できない弱みを利用し、私たちに攘夷決行を強要した。私はなんとかそれを拒もうとしたが、尊王の思いの強い慶喜殿たちはそれを受け入れてしまった。さらに急進派の公家たちは本来幕府が委託されてきた軍事や諸藩への命令権まで奪おうとしてきた。いたたまれなくなった私はいったん京を離れ、福井に帰る事とした。
 それでも、私は諸侯同士、さらには天下の有志を加えた話し合いによって、日本のあるべき道を決めることができると工作を務めた。
しかし、薩摩など雄藩を疑い幕府中心の政治への回帰をめざす慶喜殿の態度などでうまくいかず、幕府中心の挙国一致にも協力的であった薩摩は次第に幕府打倒を考え始めるようになった。

 慶応3年の王政復古では、薩摩にしてやられたが、それでも尾張の慶勝殿や容堂殿と連携し、岩倉様も折れて、慶喜殿を議長とする形でおさまる寸前までいったのだが・・。慶喜殿は・・・。
 こうして心ならずも徳川宗家とそれを守ろうとする諸藩を賊軍としてたたかうこととなってしまった。そこでも私は話し合いによる政治運営を実現しようとした。その成果が我が藩士三岡八郎が草案をつくった「五か条の誓文」のなかの「広く会議を興し、万機公論に決すべし」という一文であったのかもしれない。
 時代は話し合いによる決定などという悠長な事を認めてくれなかった。大久保や木戸といった連中は、岩倉様や三条様の力を借りて、天皇様の名のもとに、相談もなしに新しい政策を決定、実施していった。あるいは、その内容は私や左内がぼんやりと思い浮かべていたものであったのかもしれない。小楠はこうした政治に参加しようとしたが、命を奪われた。
すでに私のいる場所はなかった。
コメント:幕末政治の最初から明治政権の成立期まで、つねに政権の中枢付近にいた春嶽です。
その考えも「妄想」してみました。つねに、話し合い(「公議世論」)によって合意が得られるという非常に楽天家でしたが、その理想主義はさまざまな欲望と思惑、価値観の対立によって跳ね返されていったといえそうです。
民主主義を実現するための困難という現在的な問題が、春嶽の理想主義をはね飛ばしたというところかもしれません。
<回答例 2>孝明天皇
孝明天皇 ある意味、天皇としての責任感が強い人物であったともいえる。

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1) 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対
3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)  ◎ 反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。
<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)◎できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)◎天皇の意志を尊重することが第一
2○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)△朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要
5) 自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1) すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2) 朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)◎幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)△これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)△天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(   )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(   )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:幕末の混乱の引き金を引く形になった孝明天皇。
 かれにとっては、「祖法=皇祖皇宗の道」に反しないか、さらに朝廷の権威を高めることが最大の関心事であったと考えました。こうした事情から摂関家や武家伝奏などによる朝廷統治への反発もあったでしょう。他方、そうして点が維持できれば、幕府への大政委任については、とくにこだわりがなかったという形で、回答を考えました。基本的に○は少なかったと考えて見ました。
<回答例 3>徳川(一橋)慶喜
徳川慶喜

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)○立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)○できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)○いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)△いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)△攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)○幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)◎朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8×)天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください
(○  )開国・攘夷
(○ )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(◎1 )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(△  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(◎1 )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(×  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:当時から「二心殿」と賞されていた慶喜、春嶽と同様、ほぼすべての項目になんらかの記号が付きそうなのが、特徴的かもしれません。(ただ春嶽の場合は○が多かったのに、慶喜は×も多い)
たしかに、かれは悩めるリーダーだったのでしょう。少し考えただけも、彼の判断の根拠となったものは、「日本全体の責任者としての自負」「徳川宗家を守る事」「天皇崇拝」「尊王攘夷のカリスマであった父斉昭への孝心」「出身藩としての水戸藩への配慮」あるいは「安政の大獄という愚かな判断を下した井伊直弼への反発」「薩摩=島津久光主従をはじめとする混乱に乗じて影響力拡大をはかる雄藩への反発」などなど、こうした意識・無意識の判断基準がかれを「二心殿」にしたと考えました。そのなかで、かれがもっとも重視したのは「徳川」「天皇」「日本」「自己都合」のいずれだったのでしょうか。ここでは「天皇」を選択してみましたが。
<回答例 4>島津久光
島津久光

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください
1)○ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください。

<A>攘夷実現のためには
1) こちらから戦争に訴えるべきである
2)○強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3)△できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6) いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1)○天皇の意志を尊重することが第一
2)○挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)○幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4)○朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)◎自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6) 身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7) 天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)△すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)△朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3) 幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)◎国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5) これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1) 天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)○幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)○天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)△朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(   )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(◎  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(   )幕府の威信
(   )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(   )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(○   )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(   )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:雄藩・薩摩の最高実力者代表です。○も◎も少なく、「自藩ファースト」との人物として回答してみました。こうした久光の思惑や行動力、兄斉彬への対抗心や虚栄心、それを大久保や西郷らが利用した面が大きかったように思います。
<回答例 5>高杉晋作
高杉晋作

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)  賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3)◎立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)◎こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4) なにがあっても戦争は避けるべきである。
<B>攘夷実現の方法
5) 条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)◎いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7) いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8) 現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9)○攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10) 攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)◎挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3) 幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)△自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)○身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)×天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)○すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)○朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)△幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4) 国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)×これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき。
6)×幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)△天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)×幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4) 天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5)○中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7) 朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8)○天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9) 幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(○  )開国・攘夷
(◎  )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(○  )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(○  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(×  )幕府の威信
(○  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(△  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(○  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:長州の尊王攘夷派の中心、高杉晋作です。挙国一致とそれによる列強に対する危機感と独立の確保をめざす急進的改革派という位置づけで回答してみました。そうした大きな戦略の下に、尊王攘夷・長州藩の軍国主義化といった戦術を位置づけてみました。しかし、同時に上士出身という面から、「藩」意識もときどき姿をみせた面も意識しています。
<回答例 5>水野忠徳
水野忠徳

Ⅰ,開国・開港についての態度について、お答えください。
1)◎ 賛成 
2)     立場上・戦略戦術上、賛成しているが、本心は反対

3) 立場上・戦略戦術上、反対しているが、本心は賛成
4)      反対
Ⅱ,攘夷についてのあなたのお考えをお聞かせください

<A>攘夷実現のためには
1)×こちらから戦争に訴えるべきである
2) 強硬に対応し、もし戦争になってもやむを得ない。
3) できるかぎり戦争は避けるべきである
4)◎なにがあっても戦争は避けるべきである
<B>攘夷実現の方法
5)条約は完全に破棄し「鎖国」状態に戻すべきである
6)いったん条約の破棄を通告・実現し、再交渉に望むべきである。
7)いちおう現行条約は維持しつつ、条約改正交渉を申し入れるべきである。
8)◎現行条約の維持を基本とし、必要に応じ改定を進めるべきである。
<C>攘夷実現の交渉の理念について
9) 攘夷を実現するためには、国際信義など無視すればよい。
10)◎攘夷という事態になったとしても、国際信義を守らねばならない。
Ⅲ,尊王についてのあなたのお考えをお聞かせください。
1) 天皇の意志を尊重することが第一
2)△挙国一致を実現するためには、尊王という政策が有効。
3)△幕府の威信を取り戻すには、天皇・朝廷との友好関係が不可欠。
4) 朝廷の威信を回復するには、幕府との友好関係も必要。
5)×自藩の立場を有利にするため天皇・朝廷との関係を強めることが有利。
6)×身分の低いものが注目をあびるため、天皇・貴族に近づくことが有利。 
7)◎天皇や朝廷などのいうことを聞く必要はない。有害である。
Ⅳ,今後の朝廷と幕府の関係はどうあるべきだと考えますか。
1)×すべての権力を天皇に集中し、将軍・幕府は廃止すべき。
2)×朝廷がすべてを決定、幕府はその命令を受け執行する役目に専念すべき。
3)×幕府がこれまで通り政治を行うが、京都守護・外交政策・宗教政策など重要な諸政策については、朝廷が直接諸藩や人民に命じる権利を保留すべきだ。
4)○国政の重要な政策については幕府と朝廷が相談するが、基本的には幕府が政治や外交をになうべき。
5)○これまで通り、朝廷が幕府に政治外交などの大権を委任すべき
6)◎幕府が、朝廷など気にせずに独裁権を行使すべき。
Ⅴ,挙国一致ということについてあなたはどう考えますか。
1)×天皇がすべてを決め、それに日本中が従えば挙国一致が実現する
2)◎幕府がすべてを決めれば問題はない
3)△幕府のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
4)×天皇のもとに、雄藩と呼ばれる大大名が相談をして決めるべき。
5) 中・下級武士や草莽と呼ばれる人々が発言できる場も設定すべき
6)○朝廷のもとで開催される大名たちの会議の議長は将軍が就くべき
7)×朝廷のもとで開催される大名たちの会議に将軍が招きべきでない。
8) 天皇の下、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
9)○幕府の下に、家柄などにかかわらず有能な人物が大きな力を持つべき。
Ⅵ,以下の諸政策についての重要だとおもうものに○をつけ、できれば優先順位も示してください。なお、逆に有害だと思うときは×をつけてください。
(◎  )開国・攘夷
(   )挙国一致(幕府・朝廷・諸大名などの協力体制確立)
(   )尊王(天皇中心の政治実現・天皇の意志尊重・朝廷の発言力拡大)  
(×  )諸大名の意思の尊重・諸藩の地位向上
(○  )幕府の威信
(◎  )諸列強に対しての日本としての威信
(○  )軍事・産業・技術の近代化
(○  )万国公法の遵守、法令の整備、統治機構の近代化
(△  )統一した軍隊(とくに海軍)創設  
(△  )下級武士や草莽の志士の登用

コメント:多くの人には知られていない水野忠徳。対外実務を担ってきた官僚たちの黒幕ともいえる人物であす。こうした官僚の代表として取り上げた。俗吏とみなされがちな幕府官僚であるが、近年、反攘夷派ナショナリストの側面が強調されてきた。国際的な信義こそ国益とする立場に立ち、朝廷や雄藩との協調によって対外危機をよびこむことに強く危機感を持つ、朝廷や一橋慶喜ら在京幕僚・公議政体派への批判勢力としての回答とした。
挙国一致のためには薩長を軍事的に屈服させるという別の選択肢もあった

 

「もやもや感」が・・映画「東京裁判」を観て

「もやもや感」が…映画「東京裁判」を観て

4時間半を超える映画「東京裁判(リンクへ)」を観ました。それについてFacebookに感想を書き込みました。
まずは、映画のあらすじです。

******
<映画のあらすじ 公式HPより>
1945年日本はポツダム宣言を受諾し、8月15日に全面降伏の旨を国民に伝えた。戦後の日本を統治する連合国軍最高司令官マッカーサー元帥は、戦争犯罪人の裁判を早急に開始するよう望み、1946年1月22日に極東国際軍事裁判所条例を発布した。通称“東京裁判”である。
満州事変に始まり、日中戦争の本格化や太平洋戦争に及ぶ17年8カ月の間、日本を支配した指導者の中から、太平洋戦争開戦時の首相・東條英機ら28名が訴追された。一方、国の内外から問われ、重要な争点となった天皇の戦争責任については、世界が東西両陣営に分かれつつあるなか米国政府の強い意志により回避の方向へと導かれていく。
同年5月3日より東京裁判は開廷。まずは「平和に対する罪」など55項目に及ぶ罪状が読み挙げられるが、被告は全員無罪を主張した。検察側は日本軍の非道の数々を告発。弁護側は「戦争は国家の行為であり、個人責任は問えない」と異議申し立てするが、「個人を罰しなければ、国際犯罪を実効的に阻止できない」と、裁判所はこれを却下した。1948年11月12日、病死した被告などをのぞく25名のうち東條ら7名に絞首刑、他18名は終身禁固刑もしくは有期刑が宣告が下された。
*****

そしてFacebookに書いたものが以下のような内容です。
かなり補足しており、元のものからはかなり変わっています。(とくに裁判の積極的側面の部分)

東條や広田などの肉声を聞くことができただけでも、面白かった。
とはいえ、「もやもや」感がのこる。

歴史屋の立場からすると、ここをもっと詰めてほしいし、
この解釈は違うやろ、といったところも多い。
なんでもかんでもナレーションでという手法も気になる。
史実の扱い方に、作られた時代(1983年公開)の限界も感じる。

しかし、「もやもや感」は映画の問題ではない
それ以上に、この裁判自体がもつ性格のせいだ。

キーナン検事は「天皇免責」のために裁判自体をねじ曲げ、
ウエッブ裁判長は、強引な裁判運営を行う。
原爆投下や本土空襲といったアメリカの戦争犯罪は問われず、
(このため、日本軍による重慶爆撃は免罪となる)
勝者による敗者への報復が表面化してくる。
(仕方ないことではあるが)
被告席の席の制限から、ソ連側の容疑者ごり押しのせいで、阿部信行ら二名が第一次訴追から免れ、結果として岸信介らは被告としての出廷は免れる。

法律上・国際法上の問題点を利用して、日本の戦犯たちは保身を図る。
犯罪事実の認否を問われ、全員が「無罪」を主張するシーンには不快感を感じたが、二者択一を問うような裁判のすすめかたについても問題もある。
たとえ良心的な被告がいたとしても、連合軍がもっていたであろう「ナチス流の共同謀議」との妄想にも似た検察側の冒頭陳述について聞かれるのだから。
当時は「田中上奏文(メモランダム)」なる偽書の存在を連合軍は信じており、それをもとに「ナチス流の共同謀議」という怪しげな議論を組み立てたといわれる。
これが偽書なしいことが明らかになるとそれにかわる「共同謀議」にかかわるものとして扱われたのが広田弘毅内閣の「国策の基準」である。陸軍と海軍の利害調整のなかでうまれたこの文書が「田中上奏文」にかわるものとみなされたふしがある。広田が処刑されたのはこの文書にかかわった面があったとも考えられる。

そして有罪か無罪か二者択一でいえといわれるのだから。
「どう答えたらいいね!」

本当はこう聞てほしかった。
「(あのハチャメチャな)冒頭陳述は置いといて、あなたたちはこの戦争に対して、本当には無罪だと思っているのですか」「罪はなかったのですか」と。

考えれば、「ナチス流の共同謀議」で日本の戦争責任を問うという図式自体にボタンの掛け違いがあったのかも知れない。分かりやすい図式は真実の追究から離れていく。ナチスはともかく、日本に対しこの切り口で戦争責任を問うたことで、被告たちは「自分は無罪」といいやすくなったことは確かだ。

裁判では、多くの事実が明らかになっていく。
このことの意味は大きい。
戦後を生きてきた我々にとっての常識は、当時は非常識であったことを我々は肝に銘じる必要がある。
張作霖は中国人に殺されたのであり、柳条湖事件も張学良側の起こした挑発行動であった。「東洋平和」のために戦う皇軍を中国の人たちは感謝している。悪いのはこの日本の好意をみとめない蒋介石やソ連の手先どもだ。ミッドウェーでの戦いも勝利し、ガダルカナルもある程度成功したから撤退したのだ。(とはいえ、それならなぜ戦線が日本に近づいてくるのかという当然の疑問はあったのだろうが、口には出せない)。こんな中で、庶民は生きてきたのだ。
軍部や政府のいうこと、新聞に書いてあることは、たとえ胡散臭いと思っていたとしても口に出せない。異論を加えれば、特高警察や憲兵につかまり、拷問をうけ、下手をすれば死体で返されてくる。そうでなくとも、地域の人から「主義者」などといって、自分だけでなく、家族や知人も嫌がらせをされる。ときには子どもたちすらも信用できない。人びとはこうした社会に生きていたのだ。だからこそ、敗戦と同時に人びとは、真実を知りたがったのだ。ときにはなけなしの食料とも引き換えに。
こうした中で、一応の証拠をそろえて、日本及び日本軍の悪行を暴露した東京裁判は、人びとの目を覚ます大きな力にもなった。東京裁判がもっていた成果は多い。
多くの日本人は、自分たちが騙されていたことを知り、
日本軍が行った悪行の数々を知った。
この重要さは、強調しても強調しすぎることはない。

裁判では戦前日本の病巣が十分追及されないまま、欧米風の組織のあり方を日本に当てはめるやり方、個人責任を追求する議論が中心となり、明治憲法体制下の日本の病巣に手をつけられなかった。
ニュルンベルグ国際法廷流のやり方はナチスには有効であったが、日本向きではなかった。戦犯指名されなかった石原莞爾向きではあったが、戦犯指定された大部分の被告向きではなかった。実際に指名された戦犯たちの多くは、小さな権力を振りかざす卑劣な軍人であり、小役人でしかなかった。被告席に並んだ凡庸な戦犯たちが日本に悲劇をもたらしたことの意味を、裁判官や検察官はどれだけ理解できたのだろうか。

さらに、マッカーサーそしてアメリカ政府の意を受けたキーナン検事は、当然審理されなければならないはずの天皇の戦争犯罪・戦争責任に話を及ぶことを全力で阻止し、ついには東条にまで偽証を強要した。
こうして裁判は、本来の戦争犯罪、戦争責任の追及からどんどんと離れていった。
その間、外の世界で冷戦の過程が深化すると、外の世界とくにアメリカはやる気を失い、裁判の早期決着を図る。そして7人を絞首台に送ると、そそくさと裁判の幕を引く。
ちなみに、唯一文官として処刑された広田弘毅を総理大臣に推薦し引き出したのが、彼を処刑したときの総理大臣吉田茂であったことは、事態の意味を考える上で示唆的である。

他方で、第一陣のはずだった戦犯全員が有罪ならば、当然有罪であると推測しうる第二陣で裁かれるはずの戦犯たちは、裁判に掛けられることもなく釈放される。彼らは、自分たちを裁くはずだった勢力に取り入って、その支持の下に政界に復帰する。そして開戦の勅書に副署した戦犯岸信介が総理大臣に上り詰める。

東京裁判における「もやもや感」は、戦後の日本の「もやもや感」につながっていく。

とはいえ、東京裁判はやはり重大なトピックだったことは明らかである。
だからこそ、右派の勢力はこれ以後も、裁判の形式上の問題をあげつらって、裁判の事実自体、戦争の責任自体を否定しようとする。パル判事の意見書をねじ曲げて賞賛し、裁判への不信を煽る。

残念なことに、私たちの先輩たちは、そして戦後に生まれた私たちも、
日本人の手で、二度と同じことを繰り返さないという立場からの、本来の意味の「東京裁判」をしなかった、できなかった。
その「屈辱」を心に留めなければならないのではないか、
そう思った。

以上のような趣旨をFacebookにのせた。
ある友人から
「戦勝国の勝手な裁判という人もいるが戦争責任を認めたがらない人の勝手の言い分。裏取引もあるだろう、このような大きなことに完璧はあり得ない。一定の歴史的意義はあった思っているのですが。」
とのコメントをいただきました。
このコメントの意見もうけいれながら、少し書き直したのが上の文章です。
そしてこのコメントに対しての私のコメントが以下のものです。

意義はたしかにあるのです。とても大きい。
しかし天皇の免罪という大きなテーマ、さらに連合国側の戦争犯罪の免責、とりあえず何人かを殺して方をつけるというやり方、最終的には勝者が敗者を裁くというところからくる限界がありました。
それに乗じて、戦争を起こした連中が、戦争責任をあいまいにし、さらに「正義の戦争」とさえいいつのる隙を与えました。
その結果、自分で戦争責任に向き合おうとしなかった以後の日本、反省しない日本という戦後の日本の問題が生み出したのでしょう。
そこに「もやもや感」の正体があったのかもしれません。そして、裁判で裁いた側(責任をあいまいにしようとした人でもあるのですが)と裁かれた側が手を握り、本気で戦争責任を追及する人たちを妨害したというのが戦後の姿だったのでしょう。
映画で感じた「もやもや感」の正体は戦後日本のあり方の「もやもや感」なのかなと思ったりします。

日比谷焼打事件の史料から(2)~なぜここに残ったのか?

日比谷焼打事件の史料から(2)
~なぜこの史料が陸軍に残ったのか?

「史料講読」の苦労談を書き、すこしだけ気にかかっていたことを書いていて、ふと先生の隠しテーマに気づいた。(実は違うのかも知れないが)
予定していた提出時間までわずかである。さっそくパート2を作ることにする。高校現場にいる頃から「やっつけ仕事」は得意である

今回の課題史料は、防衛省防衛研究所所蔵の日比谷焼き打ち事件の実態報告「明治38年自9月至12月暴徒に関する内報綴」(JACAR Ref.C06041160500)のなかの臨秘1・2・4・5号である。気にかかっていたのは、発信者と受信者の関係と、なぜ陸軍にこの史料がのこったのかということである。さらに、日比谷焼き打ち事件といいながら日比谷公園でのやりとりや、首相桂太郎の愛人宅が襲撃されたといった9月5日から6日未明の内容も記されていない。どうも中途半端にはじまった印象が拭えない。
その理由に、すでに示した文章を書いていてふと気づいた。これについて、記していく。

「暴徒に関する内報綴」臨秘第一号末尾 発信者安立綱之と受信者山県有朋の名が見える。

この史料、右の文書に見られるように発信者は警視総監・安立綱之、受信者は元帥・山県有朋である。警視総監は内務大臣直属の勅任官であり、この人物が得た各警察署での状況を赤裸々に伝えた文書をなぜ「元帥山県有朋」に送付しているのか。なぜ内務大臣芳川顕正ではなく山県有朋なのか。
たしかに山県は明治国家ナンバー1ないし2の実力を持つ元老ではある。この間でなぜこの文書がやりとりされたのか、これが疑問の第一である。
さらに山県が個人的に受け取ったとすれば、文書は山県関係文書にあるはずでありなぜ陸軍省の流れにある防衛省防衛研究所保管となったのかである。陸軍がどう関わるのか。
ここまでの内容を考えたところ、大きな見落としに気がついた。

ということで、ここからはトーンを変えて、B大学喫茶部での思考を再現します。



山県からすれば、首相は桂太郎だし、陸軍大臣もやはり長州閥の寺内正毅だし、どちらも子分だ。だから、恐れ多い大先輩で元老のところへも文書を送ったのかな、それなら別の元老のところにも関係書類がありそうだが。そもそも個人的な文書なら陸軍省にその文書が残るのは理屈に合わない。

元帥・山県有朋 当時は参謀総長でもあった。

よく考えると、明治国家は内閣だけに権力が集中していたわけではない。とくに軍の権限は大きい。統帥権には口出しができない。参謀本部だし、参謀総長は・・・。まだ形式的には日露戦争中。「坂の上の雲」に日露戦争の時の参謀総長のことが書いてあった。・・・山県だ。ネットで確認。たしかにそうだ。山県は日露戦争の遂行ということで参謀総長の地位にいた。軍隊が治安出動した以上、事実上の最高責任者山県に連絡が行ってもおかしくない。
 戒厳令が出されたのは9月6日。つまり騒動が最高潮だった一日目の9月5日は、警察が中心となって活動しており、どうしようもなくなって陸軍部隊が出動、後追いになって、6日に戒厳令が発せられた。

 ネットで「戒厳令」をみる。こう記される。
日本では,1882年に太政官布告として制定された。戒厳の宣告は天皇の権能(旧憲法14条)。戒厳が宣告されると,その地域における立法・司法・行政事務は戒厳司令官の権限に移され,住民の憲法上の自由・権利は制限されることが認められた。」(百科事典マイペディア)
何のことはない、戒厳令の布告によって、軍人である戒厳司令官の下に警察組織が組み込まれていたのだ。これにより、警視総監の上司は内務大臣ではなく、一時的に戒厳司令官である東京衛戌総督佐久間左馬太大将となる。しかし総督も参謀本部の指揮下に置かれることから、戒厳令下の最高実力者は山県となり、報告が集中したと考えられる。

 こう考えればこの簿冊の最初の文書が9月7日付けのものとなっていることも、9月5日の日比谷公園での衝突や新富座での混乱、内務省襲撃その他、日比谷焼き打ち事件で必ず取り上げられる事件の文書がないことも納得がいく。
 陸軍=戒厳司令官が治安回復に対し正式な責任を負うのは6日の戒厳令発布以降なのだ。したがって、戒厳令以前の文書は報告がないし、報告される公的な必要もなかった。それは、官僚制におけるルールにもとづき、正統な流れで発信・受信され、保管されたものだったのだ。
 ここまで書いてきてH先生の仕掛けたねらいが見えてきた。なぜ、この史料が陸軍に残ったのかだったのか。なぜ、宛先が山県だったのか。
ということで、レポートその2をさっそく作成することとしよう。事実上の締め切りまであと二時間。

実際に締め切りは翌日の午後でした。締め切りを過ぎたのでUPします。
ちなみにレポート現物はここから見てください。

「朝鮮米はうまくて高い! ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」  ~「産米増殖計画」異聞

「朝鮮米はうまくて高い!」

本格的な歴史研究をして来た人の話を聞くと、知識の浅さを実感させられることが多々あります。そんな話をしたいと思います。
講義で聞いた一つの話を紹介します。
「みんなは、朝鮮米というから、質が低く、安い。だから労働者など低所得者が食べたもの、そのように考えるでしょう。実は、朝鮮米を一番消費したのは、『グルメ』の町大阪。消費高は大阪全体の米消費量の70%を超え、国内産より値段も高値で取引されたのです。朝鮮米は、質がよく、関西人の口に合う米でした。1930年代、「朝鮮米」はうまいと評判で、高値で取引されていた米だったのです」。

%e7%94%a3%e7%b1%b3%e5%a2%97%e6%ae%96%e9%81%8b%e5%8b%95z224
帝国書院「図説日本史通覧」p224

戦前の「朝鮮米」は、高品質のわりに値段が安く、しかも品種がそろっていたため、人気が高く、他の国産米より高値で取引され、大阪市場では国産米を圧倒的にしのいでいたのです。
ちなみに、大阪市場における取扱高は1925(大正14)年以降、朝鮮米がつねに70~80%台を占め、10~20%台前半の「国産米」をはるかにしのいでいました
「日本が朝鮮の農業を改革し、近代化させてやったのだ」という声が聞こえてきそうです。たしかにそうした側面もあります。しかし話はそう簡単ではありません。「植民地農業」の姿がみごとに「刻印」され、日本内地の農業も苦しめたのです。

「産米増殖計画」とは

朝鮮での日本の農業政策としては、1910年代「武断政治」期の「土地調査事業」と、1920年代「文化政治」期の「産米増殖計画」が重要です。そしてこうした日本の農政によって押し出されるようにして日本や中国東北部(「満州」)への人口流出がみられる、いうのが一般的な説明です。私もそのように教えてきました。
一応、「産米増殖計画」についての私の説明を見てください。


産米増殖計画

「文化政治」を進めるとした日本・朝鮮総督府でしたが、実際には朝鮮の人をいっそう苦しめる政策をはじめています。

%e7%89%a9%e4%be%a1%e3%81%ae%e9%ab%98%e9%a8%b0%e3%81%a8%e8%b3%83%e9%87%91z250
物価の急騰と賃金の上昇 帝国書院「図説日本史通覧」P250

このころ、日本では都市化・工業化が急速に進行し、米の需要が急速に増えてきました。1918年には急激な米価上昇が引き金となって米騒動も起こりました。
このため、日本本土以外から米を買い集めようという動きが高まります。その最大のターゲットが朝鮮半島でした。
そこで朝鮮総督府がすすめたのが産米増殖政策です。朝鮮での米栽培を活発化させ、米の収量を増やし、それを本土に持ってこようと考えたのです。
中心となったのは、農業用水の整備と用地改良、さらに化学肥料などの利用です。しかし、こうした計画に総督府が金を出しますか?結局、計画は日本人がつくり、カネを払うのは地元の農民たち、できた米は日本人が持っていく。こうした負担は、没落しつつある朝鮮人農民の生活をいっそう苦しめました。
確かにこの政策によって朝鮮半島での米の生産量は増えました。ところが、もともと内地での米不足が出発点に始まったものであり、この政策で増えた分よりも日本に運び出す米の方が多かったのです。これにより米の値段が上がって、朝鮮の人は逆に米が食べにくくなりました。かわって中国東北部から大量の粟(あわ)を輸入されるようになりました。


あわせて、これにつづけ日本や「東北部」への人口流出についても触れています。一般的な内容は記したつもりです。

市民講座での話の中から

講義の数日前、市民講座で別の先生からも話を聞いました。
この先生の話をもとに、朝鮮での「日本式米作り」普及の話をしたいと思います。講座の中で先生は、産米増殖運動にかかわって、朝鮮での米づくりの指導にかかわった日本人の話を紹介されました。「美談」として扱われるたぐいの話です。
記憶とメモで再現しつつ、私が調べたことが考えたことを付け加えながら、見ていきたいと思います。

「脱穀や調整が『疎漏』」な朝鮮米

当初、朝鮮産の米は日本では売れ行きがよくありませんでした。なぜなら、質が不安定で、最初は小石なども混じっていて、商品化しても安値でしか取り扱われなかったからです。
資料でも、明治後期の朝鮮米について、品質は日本米と外米の「中間」、日本米の中等米に類似するが、「収穫後の脱穀や調整が『疎漏』であったため、三割の異物が混入していることすらあった」と記しています。(大豆生田稔「お米と食の近代史」)
日本への朝鮮米の輸出は日朝修好条規をうけた開国によってはじまります。凶作期に米などの穀物の流出を制限できるという防穀令が1889(明治22)年にだされたことで日本商人とのトラブルも発生しました。朝鮮米の流出が、朝鮮での飢えにもつながりました。
1882(明治15)年の壬午軍乱では、長い欠配の後、やっと支給された米に石が混じっていたことが軍人反乱の直接の原因となりました。(「朝鮮問題の深刻化と日清戦争」参照)日本との貿易開始に伴う米不足の中、支給されたのが安い「三割の異物が混入している」ような米であったという推測も成り立ちそうですね。
日本で、朝鮮米は、食用としてではなく、酒造用や家畜のエサ用として使用されることも多かったようです。

「日本式米つくり」の導入~「用水の整備」と肥料

朝鮮に渡った農業の日本人指導者が行ったことが、日本式米作りの導入でした。
朝鮮では、ため池や農業用水路が未整備で、天水(雨水など)に頼る水田も多く、畑で米を作る陸稲(おかぼ)も多いというように栽培の方法にばらつきがありました。そうした条件に合うような在来品種が用いられるため、米の品種・品質も雑多でした。こうした米を日本市場に送り出しても、低い評価しか得られないのはいうまでもありません。さらに、品質はよくても、脱穀や「石抜き」などの行程が不十分であったため、評価が低かったのは見てきたとおりです。
だから、日本における「高度な」農業技術を朝鮮に導入しようというのです
栽培の質を変えるため、日本式の水田が導入されます。まずため池や小規模な水利施設、王朝末の混乱で荒廃していた用水が整備されます。当初は日本人地主の土地が中心でした。さらに、水田を拡大するためには、降雨にかかわらず一定量の水が供給される必要があります。産米増殖計画がすすむなか、朝鮮人地主をもまきこむかたちで、水利組合が結成され、総督府の資金も借りながら、大規模な用水路が整備されていきます。

%e6%97%a5%e6%9c%ac%e4%ba%ba%e5%9c%b0%e4%b8%bb%e3%81%ae%e5%a2%97%e5%8a%a0z231
帝国書院「図説日本史通覧」P231

実は、朝鮮人地主所有の水田の多くは既存の用水でかなりフォローできていたのに対し、新たな用水の恩恵を受けることが多かったのは日本人地主の田でした。にもかかわらず、水利組合の拠出金は折半されたため、朝鮮人地主と比べ、恩恵の多くは日本人地主が得たという指摘もありました。(許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」)
総督府は早い時期から肥料の使用を進めています。1920年以前は自家製のものであったのですが、日本式の米作りには不十分であるということから1920年代以降は購入肥料が用いられ、朝鮮北部での化学肥料工場の発展と軌を一にして化学肥料も使用されるようになります。

「石抜き」と品質管理、品質検査

さらに指導者は朝鮮米の品質向上に努めます。
小石を取り除き、米の選別を厳しくチェックさせ、品質を一定させて売りに出すようにしたのです。
思わず「カムイ伝」の1シーン、江戸時代の百姓たちが、殿様に献上するため一粒一粒米を選ぶ場面を思い出しました。たしかに、初期は人力によるチェックもあったかもしれません。
しかし、それ以上に大きな役割をもったのが、大量に朝鮮米を扱った日本人米穀商人です。かれらは釜山の日本人が発明した「タービン式石抜唐箕」を導入するなどの技術改良で小石や不純物の混入を防止し、さらに最新鋭の精米装置なども導入して市場の評価を上げました。朝鮮総督府は厳格な品質検査を行ってこうした動きを援助します。こうして安い仕入れ値と、品質管理と品質検査を経た高品質の朝鮮産米が日本市場に持ち込まれ、シェアを伸ばしたのです。
この背景には、土地調査事業にかかわる強引な手段や朝鮮人農民からの購入によって獲得した安価な土地、必要経費の多くを朝鮮人側に転嫁したこと、労働力過剰からくる労働力の安さなど、コストの安さがありました。
こうした朝鮮米の流入によって日本産米は苦しいたたかいを強いられます。日本産米は、小規模農家でつくられるため米商人の監督が行き届きにくく、品質管理も検査も不十分であるため、品質も不揃いだったからです。九州産米はより高い品種の米を生産しようとし、北陸山陰産米では生産費を抑え、安さで勝負しようとしました。(この項、李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」など参照)
日本人商人が、規格化された「籾」を安く仕入れ総督府の厳しい基準に合格すべく高度な技術で商品化した植民地産の「朝鮮米」を内地市場にもちこむことで、従来の低い技術しか持たない零細な生産者中心の国産米の価格が引き下げられるという、多国籍企業と国内の中小零細企業の関係を彷彿させるような関係です。では、朝鮮の人の食べる米は、どうなってしまったのでしょうか。

日本種の「奨励」

先生はさらにつづけます。
日本の米作りをそのまま持ち込んだということは、日本の種籾も持ち込んだということです。それまでの朝鮮米は品種が雑多であることが、日本の米市場における朝鮮米の評価を下げ、安価で取引される結果となっていたからです。
そこで、日本から持って行った品種を蒔かせることにします。日本から持って行った品種の米をもちいることで朝鮮米の質を統一しようとしたのです。
こうして「優良」品種が日本から持ち込まれます。ただ1920年代に導入された「新品種」は、「産米増殖」という目的とは異なって、収量の減少をもたらすものだったという研究もあります。収穫を増やすよりも、内地の米市場での評価、価格の方が重視されていたことをよく示しています。なお、1930年代になって多収穫品種が日本から導入されることで、生産量が急増しました

朝鮮在来種の「絶滅」

ところがそのままでは困った問題が起こります。せっかく評価が高い日本の品種を持って行っても、しだいに周辺の朝鮮在来の米と交雑してしまい、品質を低下させるおそれがあるのです。そうした米が増えると、市場での評価は下がってしまいます。
だから、朝鮮在来種の米の栽培をやめさせようとしたのです。ときには官憲の力も使って!
この指導者からしたら、質のよい米を輸出して高値で取引された方が朝鮮の人の幸福につながると考えたのかもしれません。
この点について、資料的裏付けを得ようと調べたところ、こうした事実は1910年代の武断政治期によく見られたことでした。当時の関係者が語っています。
在来種の絶滅と改良種たる穀良都、早神力種の普及に全力を注ぐことになり、同地の東拓(*東洋拓殖株式会社のこと)移民に採種●(●は「水」の下に「田」という文字、「dab」とよみ水田のこと、「田」が日本の「畑」をさす)をやらせ、又在来種の苗代を踏み荒しなどして徹底的に乱暴な奨励方針を断行したが幸い身辺の危害もなく、きわめて順調に普及して行きました」(「山口賢三回顧録」李熒娘前掲書より)というように、やっている本人が「身辺の危害」があって当然というような手法で「優良種」とされた日本品種が強要されました。こうして、日本種の耕作率は0.7%(1911年)から52.8%(1919年)、生産量に占める割合は5%(1912年)から70%(1922年)と急増しています。(*この二つの数字については出典が別です)

「近代的」「植民地的」な米作の導入のもたらしたもの

植民地支配は、朝鮮の米作を資本主義経済に適合した農業に変えました。それにより朝鮮の農地と米作技術が「近代化」され、収穫高の多く味もよい品種を普及し、収穫高も増えました。すると内外の産米の地位が立場が逆転しました。品質が安定せず、とくには小石も混じる国内産米とは違い、朝鮮米は高品質で小石などの混入も少ない高評価な米です。朝鮮米は、同一品種の米を大量にそろえることができます。しっかりした検査を受けた安心安全かつ安定した高品質の米を、大企業が大量に供給したのです。グルメの大阪人をうならせた朝鮮米はこのようにしてつくられました。
それは、それまでの朝鮮の農業のあり方を否定し、朝鮮産の「米」種すらも否定し、帝国主義本国・日本の市場が求める米を供給する植民地農業への移行でもありました
こうした政策は、朝鮮の農業や農民のあり方を大きく変えました。その費用の多くは朝鮮の農民が負担し、増産された米が日本に持ち出されました。
産米増殖計画は名目的には、第一の目標を朝鮮における食糧不足解消でした。しかし、実際におこったのは朝鮮での食糧不足解消でなく、日本市場で高値で取引される米を生産することでした。朝鮮内部で流通したのは、日本に移出された残りの米でした。こうして米の生産量は増えても、朝鮮人の米消費量は減少しました。日本の米市場で高値で取引されるような質の高さが、朝鮮米を朝鮮に残さなかったのです。石が混じり品質も安定しなかった安価な朝鮮米にかわって高品質で高価な朝鮮米が生産されたため、朝鮮米は朝鮮の人々が食べるためには高価になりすぎたのです。
こうして朝鮮人の一人あたりの米の消費量は年0.75石(1912~16の平均)から、1932~36年には0.41石へと激減します。米の生産量は1230万石から1700万石と増加しているのに。そして、米を食べられなくなった朝鮮の人々の腹を満たしたのが、「満州」(中国東北部)産のアワやヒエでした。こうして「満州」においても、朝鮮向けのアワやヒエの商品生産が活発化します。

「昭和恐慌」と日本への渡航者の急増

%e8%be%b2%e7%94%a3%e7%89%a9%e4%be%a1%e6%a0%bc%e3%81%ae%e4%b8%8b%e8%90%bd

こうした朝鮮における米作りが、日本の米市場と密接に結びついて軌道に乗りはじめたのが1930年代です。この年号で何か気づきませんか。1930年といえば、昭和恐慌の発生です。このため、米価は暴落、朝鮮米の価格も一挙に暴落したのです。さらに日本国内では、朝鮮米の大量流入が米価を押し下げているとして、朝鮮米の移入制限を求める声が農村各地から起こり、政府もそれにおされます。
昭和恐慌による米価など農産物価格の暴落は朝鮮の農村に大きなダメージを与えました。なぜなら、植民地支配下では、農民の土地に対する権利ははるかに不安定であったし、産米増産計画は用水や肥料などで農民の負担増を強いていたからです。高利貸資本も農村に深く食い入っていました。

%e5%9c%a8%e6%97%a5%e6%9c%9d%e9%ae%ae%e4%ba%ba%e6%95%b0t110
東京書籍「日本史A」p110

米価急落は零細農の経営を破壊、1920年代に増加の兆しを見せていた日本への渡航者=「出稼ぎ」「移住」は激増します。日本本土に渡った朝鮮人たちは厳しい労働・生活環境の中、しだいにそこに生活基盤を築き、朝鮮から妻子など家族を呼び寄せます。貧しい状態がつづく農村からは、先に渡った人たちを頼って新たな人たちも移ってきます。各地の「朝鮮人部落」が形成されました。
土地調査事業、産米増殖計画による植民地的・資本主義的農業の朝鮮半島への導入と、それにつづく昭和恐慌は朝鮮の農村を疲弊させ、多くの人々が、日本などに押し出され、在日朝鮮人が急増していきました。

追記:授業中継「『朝鮮経営』と在日朝鮮人の形成」では、在日朝鮮人形成につながる朝鮮人移民の増加を産米増殖計画とかかわって記していましたが、より決定的であったのは世界恐慌=昭和恐慌というべきでした。こうした点を踏まえ、訂正することにします。

<参考文献>
大豆生田稔「お米と食の近代史」(吉川弘文館2007)
李熒娘「朝鮮植民地の米と日本」(中央大学出版部2015)
許粋烈「植民地朝鮮の開発と民衆」(明石書店2008)
鈴木讓二「日本の朝鮮統治」(学術出版会2006)
河合和男「朝鮮における産米増殖計画」(未来社1986)

’45年8月15日、なにが終わったのか?

45年8月15日に、なにが終わったのか?
~「授業中継」戦前・戦中編の完成によせて

この「授業中継」、58回目でやっと1945年8月15日まで来ることができました。見直せば問題だらけですが、一応の区切りがついたとほっとしています。ほぼ1年、玉音放送を聞いた「国民」のような虚脱感にとらわれています。
ここでは、これまでの内容を、総括する意味で8月15日の意味を考えてみたいと思います。

8月15日、「戦争」が終わった!

1945(昭和20)年8月15日、「戦争」がおわりました

東京書籍「新選日本史B」P27

なお、国際的な意味合いでの、戦争の終結は、ポツダム宣言の受諾を連合国に通告した8月10日、あるいは降伏文書に調印した9月2日ですが、「やっと終わった!」という気持ちは8月15日の方が強かったと思うので、象徴的な意味でこの日付を用います。
8月15日、いったい何が終わったのでしょうか。
多くの人はいうでしょう。
1941年12月8日に始まったアジア太平洋戦争だと。(ちなみに、私たちの世代がよく用いた「太平洋戦争」という言葉は、アメリカ主導で始まった名称で、1941年12月以後も、中国戦線が主要な戦場であり続けていたことや日本軍の東南アジア、さらにはインド進出という事実を組み込んだものといえないので、現在での歴史学界ではつかわれなくなっています。)
1939年9月1日ドイツのポーランド侵攻によって始まった第二次世界大戦もこの時に終わりました。
5400万人とも、それ以上とも言われる天文学的な死者をだし、アウシュビッツやヒロシマ・ナガサキに象徴される世界中の人びとを地獄においやった戦争、これがほぼ完全におわりました。世界中の大多数の人が、掛け値なしに、心の底から喜んだ日ではなかったでしょうか。

「解放記念日」としての8月15日

ジアの人びとにとって、8月15日は、日本による軍事占領や植民地支配が終わった解放記念日です。そしてあらたな時代が始まった日でした。

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。
東京書籍「日本史A」P152

インドネシアやベトナムでは、この直後に独立宣言が出され、あらたな独立運動、旧宗主国との戦いがスタートすることになります。
1910年以来、日本の植民地であった朝鮮半島では「独立万歳」の声が響きわたり、どこから現れたのか太極旗が町中にはためきました。夕刻には独立運動家・呂運亨を中心に朝鮮建国準備委員会が設置され、9月はじめ、これを母体とした朝鮮人民共和国の樹立が宣言されました。あたらしい朝鮮半島の歴史も生まれるはずでした。

苦しかった「戦争」の開始としての日中戦争

私は、小さい頃から、「戦争中はしんどかった」「大変だった」ということばを繰り返し聞かされ育ちました。昭和30年生まれというのは、そのような世代です。しかし、不思議に思ったことがあります。

中国との戦争によって多くの戦死者が発生した。写真は満州事変によるもの。東京書籍日本史AP132

しんどかった内容の多くが、戦争が始まった「昭和16年の12月8日」以前から始まっていたのです。召集令状の乱発も、戦没者や「傷痍軍人」の急増も、勤労動員も、切符や配給も、「贅沢は敵」というスローガンも、金物回収や木炭自動車も、戦場から聞こえてくる血なまぐさい事件の話も、「とんとんとんからりと隣組」の歌も、尋常小学校から国民学校への改称も。「苦しく、つらかった『戦争』」は12月8日以前に始まっていました。親たちの世代は、日中戦争、当時の言い方では「支那事変」のことは、あまり考えたくなかったように感じます。しかし生活実感としての「戦争」は1937年7月7日の盧溝橋事件に本格化しました。

日中戦争~総力戦の「戦争」、制御の聞かない「戦争」

日中戦争の開始とともに、総力戦体制(「国家総動員体制」)が本格化し始めます。

国民の生活が戦時色に染まっていく。東京書籍「日本史A」P131

徴兵や徴用の強化、戦時経済の導入、隣組・町内会を底辺とする国民の戦時体制への組織化などなど、「戦争」は一挙に本格化しました。人々の生活に深く「戦争」が入り込みます。自由は極端に失われていきます。
政府も軍部さえも「戦争」を制御できなくなっていきます。その暴走に軍中央もふくめたリーダーたちは手をこまねくしかなくなりました。
12月8日にはじまる戦争は、この戦争を終結させるための劇薬として処方されたものでもありました。
実感としての「戦争」が始まったのは1937年でした。12月8日を重視する背景には、日本が敗れたのはアメリカだと思い込みたい日本人の意識が隠れていると思えてなりません。日本が中国に負けたことを信じたくないために。
でも、日本はアメリカ以上に、中国に敗れたのです。
7月7日は七夕(たなばた)の日としてしか意識されていません。しかし、この日はとりかえしのつかない「戦争」へと足を踏み入れ、国民生活を破壊し、中国の人びとを塗炭の苦しみにあわせる始まりの日として記憶すべきなのでしょう。
そして、「苦しかった戦争」、「リーダーたちが制御できなくなった戦争」である日中戦争が、8月15日におわりました。

「昭和の戦争」としての十五年戦争

8月15日には中国との間の絶え間ない「戦争」、十五年戦争が終わりました。

十五年戦争は1931年9月18日の柳条湖事件によって開始された満州事変を出発点とする昭和の前期をほぼ覆い尽くす戦争、「昭和の戦争」そのものでした
この時代、人々は、強弱はあるものの、いつも何らかの形で「戦争」をしていました。
文字通りの「戦争の時代」でした。
満州事変は、軍隊の出先機関が勝手に、政府や軍の中央の命令すら無視して拡大した戦争です。それを、マスコミが、多くの国民が応援しました。その暴走を軍中央も政府も追認し、批判するものにはさまざまな暴力が加えました。国家、軍人や右翼による暴力が一般化、人々は暴力の前に萎縮し、ものが言えなくなりました。平和を主張したり、民主主義的な考え方は、「国体」に反するといわれるようになっていきます
この出発点となるのが、9月18日でした。

平和維持の国際秩序の破壊としての9月18日

9月18日は日本が世界からの孤立をすすめるきっかけでもありました。

国際連盟脱退を報じた新聞記事 帝国書院「図説日本史通覧」P269

第一次大戦後の国際秩序を無視した「満州国」建国は、当然のこととして世界の承認を得られませんでした。苦し紛れに、小手先の責任回避から国際連盟を脱退、軍縮条約からも離脱しました。これによって、なんとか平和を維持していこうという第一次大戦後の国際秩序は破綻し、ドイツやイタリアのファシストたちは安心して国際秩序を破壊しました。そのきっかけが、9月18日に始まる満州事変でした。

こうした国際秩序の破壊に終止符が打たれたのも8月15日でした。
8月15日は、二度と戦争を行わないという決意の日でしたが、すでに米ソを中心とする冷戦的な国際秩序がスタートを切っている日でもありました。

「『中国』との戦争」が本格化した日としての9月18日

9月18日以降、十五年戦争で日本軍が戦ったのは、目覚め始めた民衆に基盤にした『中国』そのものでした

日本の中国進出にともなって、中国の民族運動の対象は日本へと変わっていった。帝国書院「図説日本史通覧」P252

日本は『中国』など簡単に屈服できると考えていたのでしょう。たしかに、当時の中国国民政府は日本との戦争を避けようとしました。しかし立ち上がった民衆、民族運動、つまり『中国』は「国民政府」のそうした態度に納得しませんでした。そして『中国』の大きな力は国民政府に日本との戦いを決意させ、安易な妥協を許させませんでした。
このような『中国』を黙らせるため、日本軍は侵略をエスカレートせざるを得ませんでした。「功名心」にはやる軍人たちは『中国』との戦争をいっそう泥沼へと導きました。泥沼は、7月7日以降になっていっそう深くなります。『中国』はアメリカやイギリスの日本との妥協を許しませんでした。そして米英に対日強硬姿勢をとらせ、ついには日本に対米英戦争を余儀なくさせます。もちろん『中国』も抵抗をやめませんでした。
8月15日はこうした泥沼化した『中国』との十五年戦争の終結、そして敗北の日でもありました。

絶え間なく続く「五十年戦争」
~日本の帝国主義支配

満州事変は、中国東北部などの権益を取り返そうとする中国側と、権益を維持し続けようとする日本側との対立が背景にありました。当時、日本側がよく言ったことは「日露戦争の犠牲を無駄にするな」ということばです。日露戦争の大きな犠牲によって獲得した「満州」は「日本の生命線」だというのです。

満蒙の「特殊権益」を、「日本民族の血と汗の結晶」と表現している。帝国書院「図説日本史通覧」P269

日露戦争の勝利が、満州事変の原因となっていました。このように、近代の日本では、それぞれの戦争が、つぎの戦争の原因となり、「『戦争』で得たものを守り抜く」ことが、国内での「大義名分」でした。日露戦争は、日清戦争によって火ぶたを切ることになる中国をめぐる列強の中国分割競争、朝鮮半島への進出をめぐる日露の対立が原因でした。

帝国主義体制が世界を覆った20世紀初頭は、植民地支配に対する民族運動の時代でもありました。こうした民族運動の高まりが帝国主義体制を追い詰めていくのですが、遅れて帝国主義化し、時代遅れの19世紀的な手法でアジア進出をはかる日本にはとくに厳しいものがありました。

帝国主義は帝国主義本国の人々も苦しめる

帝国主義的支配=植民地経営は結局自国の民衆を苦しめる」といわれます。日本は、日清戦争で台湾と澎湖諸島、日露戦争で関東州や南樺太、そして朝鮮半島と植民地を拡大していきした。満州事変では中国東北部も事実上の植民地とします。これによって日本は大きな「コスト」を強いられます。

抗日義兵闘争。幼い少年の姿も見える(東京書籍「日本史A現代からの歴史」より

植民地化は必然的に植民地化された人々の公然・非公然の反対運動を引き起こしました。植民地の統治は、治安維持の必要から強力な統治機構を必要とします。総督府などがおかれ、憲兵や警察などの抑圧機関を肥大化させます。いつ発生するかわからない抵抗の恐怖は緊張状態を強い、準戦闘状態を恒常化させます。緊張状態は国内にも波及し、帝国主義本国自体の軍事国家化をつよめます。大正政変のきっかけとなった陸軍の二個師団増設問題が「韓国併合」にともなうものであったように、財政負担を拡大させ、政情不安にもつながりました。

「『戦後』が『戦前』である時代」

日本では1894年の日清戦争開始以来、戦後が次の戦争の戦前となる状態がつづきます。「この戦争が終われば・・・」という人々の願いは裏切られ続けます。
戦勝による軍事大国化は、大国にふさわしい軍備を必要とし、さらに大きな負担を強います。財政は膨張し、債務は膨大となり、国民生活を顧みることは困難となります。
10年ごとに大規模な戦争がおこる時代、それをある歴史家は「五十年戦争」といいます。五十年間つづく「戦後が戦前である時代」、この緊張から解き放されたのが、8月15日でした。

「内地」と「外地」~ダブルスタンダードの法治主義

植民地の獲得は統治のあり方を変化させました。
植民地=「外地」を獲得することで、大日本帝国は「内地」と「外地」という二つの領域を支配するになりました。「明治憲法」とそれに基盤を置いた法体系が適用される「内地」、これにたいし「外地」=植民地においては「内地」の法は部分的にしか適用しないというダブルスタンダードとなります。その矛盾が「帝国」日本を苦しめます。それともあいまって、フルスペックの権利を認められる内地のヤマト系日本人と、植民地人とされた朝鮮人や台湾人などとの間の明らかな差別も拡大します。こうしたダブルスタンダードの「国家」、ダブルスタンダードの「日本人」、これが解消されるきっかけが8月15日でした。

「富国強兵」としての「近代日本」

ペリーの来航以来の近代日本のあり方に「ノー」がだされたのも8月15日でした。
日本は欧米列強からの国際的なストレスや緊張、つまり『外圧』を感じながら、歴史を重ねてきました。外圧という感覚のなかには、リーダーたちの頭の中で増幅された強迫神経症的なものも一部あったでしょう。天皇制国家建設の「口実」という面もあったかもしれません。そうしたものも含め「外圧」が幕末以来の日本を規定しました。
「外圧」のストレスは、その反動として対外進出へと転化します

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。「東京書籍日本史A」

外圧のストレスは、日本の文化への極端な二つのまなざしを作り上げます。
日本が参加を余儀なくされた国際関係は、ヨーロッパ中心の主権国家体制=「万国公法」体制でした。参加資格は欧米的価値観の共有であり、それをもたない「未開」の地域は、欧米諸国による容赦ない「早い者勝ち」の植民地とされます。「不十分」と見なされた「半文明国」は「不平等条約」を強要されました。
「半文明国」である日本もこのルールに従って不平等条約を強要されました。こうした位置づけは、幕末から明治初年のリーダーたちにとっても不本意なものでした。その不本意さが、幕末には攘夷運動として表面化したのです。明治の新政府は「条約改正」という「攘夷実行」のために岩倉遣欧米使節団を送りました。かれらがそこでみたものは、日本と「万国公法クラブ」のグローバルスタンダードとの大きな隔たりでした。条約改正までの道のりの遠さを実感しました。こうして、明治のリーダーたちは「不平等条約」を強要されざるをえない日本を、「万国公法クラブ」への参加資格をみたす欧米基準に作り替えなければなりませんでした。ちょうど、EUへの加入をめざす諸国がその厳しい基準をクリアするため国内法を改正するなど血の汗を流すような苦労をするように。

「文明開化」と「未開」「非文明」

「万国公法クラブ」参加のための「欧米化」と、参加の前提となる国民国家建設手段でもあった天皇制の整備を併存させたものが「文明開化」でした。

廃仏毀釈 多くの寺院や仏像が破壊された。「図説日本史通覧」帝国書籍

この基準に適うものが「文明」であり、それに反するものは「未開」「非文明」としてみなし、排除の対象とされした。一時は、仏教さえもその対象となりました。「廃仏毀釈」はその典型です。そして「文明」に従わない人々、多くは一般民衆ですが、一方での暴力による抑圧と他方での「教化」をすすめました。「文明開化」によって日本が伝統的に作り出してきた多くのものが抑圧され、天皇制の関わりがない場合は排除の対象となり、「無知蒙昧」「非文明的」として侮蔑されました。
「文明化」は伝統世界で生きる民衆との緊張関係のなかですすみました。自由と民主主義という政府とは別に違う「文明化」の論理で迫る自由民権運動との緊張関係もうまれました。明治憲法と帝国議会などはこうした緊張関係の産物といえます。

「文明開化」に隠され「劣等感」と「独善」

「文明開化」の過程は、欧米文明に対する劣等感を蓄積していく側面をもっていましたが、他方で「文明化」しない人々への優越感と侮蔑をも作り上げるものでもありました。こうした優越感と侮蔑意識は国際関係にも応用され、日本がアジアを教化していくリーダーであるという意識を形作り、さらには日本のアジア進出は、アジアを「文明化」することであるという意識をつくりだすことになりました。こうして朝鮮や中国は非文明的な遅れた国、したがって日本というリーダーに従うべき国という論理に転換され、植民地化の、侵略の、理由にならない理由とされました。

欧化政策を皮肉したビゴーの戯画。鏡に映った着飾った高官の姿は「猿」

他方、文明開化の過程で国内におりのように蓄積されていった劣等感は、「文明化」=「欧米化」の一定の成功、さらに日清戦争に始まる帝国主義化、軍事大国化、つまり条約改正=「万国公法クラブ」加入によって、一挙に反転し始めます。日本文化への見直しが、国民国家建設のツールとして用いられた天皇制と結びついて、根拠のない優越感となっていき、ついには「八紘一宇」という形での独善的な思想へと変わっていきます。これは「外圧」と対峙するというなかでつくられてきた劣等感が暴力的な形で反転したものでした。
江戸時代末期から、国民生活をないがしろにして、軍事大国を目指す、植民地を獲得して帝国主義大国に上り詰める、そのなかで生まれた劣等感と裏返しの独善的な優越感、こうした幕末以来の日本のあり方が、清算された出来事、それも1945年8月15日の敗戦でした。

近代日本はこれでよかったのか?

8月15日は、これまで日本を動かしてきたもの、それに巨大な疑問符をつけるものでした。「日本は多くの誤りを犯してきた。なぜそんなことになったのか?」と。
多くの日本人は、信じてきたものを否定されました。だからこそ、虚脱感に襲われたのかもしれません。これまでの約90年近く信じ続けてきたもの、日本のあり方、それらが敗戦によって否定されたのです。

「戦争責任」の問い直しの機会を逸した日本

重層的な歴史、日本にかかわる歴史、そこで行われたさまざまな行動、考え方、そういったものがいったん否定され、一挙に問い直されていたのが8月15日の意味でした。日本の近代自体が、本当にそれでよかったの?どこで間違え、どこが間違いだったのか?これがと問い直されたのが、8月15日の意味でした。
こうした問いかけにどれだけ向き合ったか?

東京裁判 連合軍によって日本の戦争犯罪が裁かれ、東条英機や広田弘毅ら7名が絞首刑となった。

日本人は「戦争犯罪」という形での問いかけに自分の力で応じることができませんでした。それにかわって連合国が行ったのが東京裁判です。東京裁判は、問題山積ながら、曲がりなりにも軍国主義と侵略戦争を断罪する裁判でした。罪刑法定主義に反するという法手続き上の問題、勝者による敗者の裁きなどの疑問は当時からも出されており、こうした批判は、現在でも問題視され、これに乗じて戦争犯罪のみならず、日本の戦争さえも免罪しようという動きもあります。
もし日本人が、自らの手で、自らの身を切り裂いて、がん細胞を摘出するような裁判がなされたなら、この批判は通用するでしょう。しかしそれはなされませんでした。日本人は、自分たちで裁けなかったのです。このことをまず恥ずべきなのかもしれません。勝者による裁判だからといって東京裁判を否定するだけなら、それこそ、だれも責任をとらなかったことになります。東京裁判は、日本国民、アジア諸民族、そして世界を苦しめた戦争にないして何の責任もとらない、こうした事態を七人を「人身御供」とすることで回避させたのです。日本人自身ではなく、日本との新たな関係を求める連合軍とくにアメリカが「落とし前をつけた」という言葉がもっとも適切なような気がします。

2014年の安倍首相の靖国参拝は、中国や韓国などにとどまらず、アメリカ高官の「失望」との発言も生んだ。

世界が靖国神社への首相の公式参拝に反対するのは、45年8月15日に対する責任を象徴する責任者を免罪することで、日本政府は戦争の責任をとらないと宣言しているように見えるからです。慰安婦問題や歴史認識について中国や韓国・朝鮮から厳しい批判を受けることがあります。その批判の多くは、これまで見てきたような近代日本の課題にたいし向き合ってこなかった点を厳しくついていると思います。
しかし、日本人が、8月15日に終わったこれまでの日本の近代をまったく問い直さなかったかといえば、そうではないような気もします。

日本人は、8月15日を問わなかったのか?

10数年前、中国に行ったときのことです。道路のドライブインに、日本のコンビニにならんでいるエッチな本のような感じで、戦争中と現在を混同させた「これはちょっと」と思わざるをえない「日本批判本」が多数並べられていました。

売り場に殺到する訪日観光客

たしかに問題だとは思いました。しかし、私が思ったのは、このような「本」を書いたり、読んだりしている人に、「是非、日本に来て、いまの生きている日本人があなたたちが思うような人間なのか、その目で検証してください」という思いでした。
現在、中国や韓国から大量の人たちがやってきます。10数年前、思ったことが実現しつつあります。高度成長期、パリなどでの「ノウキョウさん」が、中国の人たちによっても日本の地で再現されました。しかしパリでの日本人がそうだったように、二度、三度というリピーターになるにつれて、かれらなりの日本を発見をしつつあります。中国国内にも、あたらしい冷静な「知日派」が生まれつつあります。表面上、あの「日本批判本」を信じているかに見える中国人も韓国人も、現実は大きく異なるという印象を持ち始めているように思えます。

文部省が編纂した副読本「新しい憲法のはなし」より(東京書籍「日本史A」P157)

10数年前の直感は、日本にすむ生活者の中に、普通の日本人の生き方の中に、8月15日への反省が隠れていると感じたからだったかもしれません。たしかに「日本」は、「戦争」へのきっちりとした向き合い方も、反省もできませんでした。とくに、政府レベルではまったく不十分でした。しかし、時代の中で生きていた多くの人は、様々なレベルで戦争に向き合い、「二度と戦争はしないでおこう」という思いをもちました。そうした象徴が、日本国憲法でした。憲法制定過程については、アメリカという自分の政策に都合のよく日本をもっていこうとする「助産師」さんの力も借りました。しかし、完成した憲法を感動を持って受け入れたのは戦争をくぐり抜けてきた日本人です。何度も出てきた憲法改正要求を挫折させ、憲法を大切にし骨肉化してきたのも日本人でした。戦争が続いた戦後七十年間、戦争で人を殺したり、殺されたりしないかった平和国家・日本にたいし、戦後の日本人は自信を持ってもよいとおもうのです。

2015年の安保法制反対デモ(©日刊ゲンダイ)

いろいろと問題があり、批判される点は山ほどありながらも、人々が平和的に生きている国、そうしたやり方で8月15日に向き合ってきた日本、それは誇ってよい、それが十数年前の私の直感でした。日本が軍を前に立てての侵略をおこなうということは思いもよらない、その日本を見てください。それがあのときの気持ちでした。(過去形で書いているのが残念でなりませんが・・)
戦後の日本、その背景には、それぞれの人の、いろいろなレベルで8月15日におわった戦争についての思いがあり、戦争とその時代への反省があり、それが戦後の日本の歩みの底流に流れているのです。

「あなたは8月15日にどのような感情を持ちましたか?」
   ~公開問題を出します。

こうした思いから、私は定期考査(多くの場合は年度末考査になります)の1問をあらかじめ生徒に知らせる公開問題をしました。以下の業務連絡のような感じです。
なかなかの名作揃いとなりますよ。

業務連絡:公開問題・・「戦後日本を作ったもの」

今度の考査では、公開問題を出します。10点分、ですからかなり大きいですよ。さらに、ぼくが「うーん」とうならされた解答にはプラスαをつけますので本来の満点10点にボーナス5点の15点満点とします。プラス5点を加えて100点を超える場合は、100点で打ち止めとしますから許してください。ただし手元の計算では100点を超えて計算しますので。
さて、その内容ですが。みなさんに1945(昭和20)年8月15日時点の「人間」「もと人間」あるいは「人間以外の何か」でもかまいません。とりあえず、8月15日の気持ちを、自分なりに考察して、「手紙」または「手記」の形で書いてもらいたいのです。
そのときに生きていた人間~日本の子ども、兵士、戦地に愛する人を送り出した女性、老人、朝鮮人、中国人、台湾人、東南アジアの人でも、戦争を戦ったアメリカ人やロシア(ソ連)人~でもかまいません。幽霊もおもしろそうですね。神、宇宙人でも、あるいは犬・猫でも、「アホーアホー」と鳴きながら飛ぶカラスでもかまいません。そういった何かの8月15日の気持ちを書いて欲しいのです。
配点基準は、それまでの日本や世界の歴史と矛盾なくそれらを踏まえているか、8月15日当時の状況を理解しているかなどを前提とし、なぜそういった感想や気持ちをもったのか、十分に説明しているかをもとに採点します。当時の人びとの気持ちを調べろという内容ではありませんので、間違えないでください。
もちろん解答はありません。字数は、A41枚分解答用紙をつけておきますが、全部を書けというわけでもありませんし、増えすぎて足りない時は裏を使ってもらってもかまいません。
みなさんに、そのときの気持ちになって欲しいと思うのです。そこから、戦後の日本が、世界が生まれてきたのですから。
以上、業務連絡です。

 

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

日本人はなぜ英語が苦手なのか?

~高度な学問に耐えられる言語としての「日本語」~

 またまた余談をします。
みんな、日本人は英語が苦手だというんだけど、なぜ苦手か、
分かるかな。教育制度とか、教え方とかいろいろ理由がいわれるけど、実は日本は英語(外国語)な しでもやっていける珍しい国だから。だから切実じゃない。
生活レベルだけじゃなくて、大学や大学院といった高等教育、さら には研究レベルにおいてもそうだから。
日本で普通に暮らし、学んでいくうえでは英語は、怪しげなジャパニーズイングリッシュというか、カタカナ英語を除いて、あまり必要ない。あまり使わないので、そんなに真剣にならない。だから、英語がうまくならない。こんな風に考えられないかな。
でも、英語(欧米語)なしで、何でもできるってすごいこと思わない?
自国語だけで高度な研究ができる国って、欧米語を母語としない国のなかでどのくらいあるんだろうね。
残念だけど、インドのヒンドゥー語だけで世界レベル の研究はできないだろうね。だからインドの高度な研究や高等教育は英語をつかう。高度な学問なんかで使えるほど洗練されていないから。大学などの高等教育が英語が行われるというのはその国の言葉で難しい研究をするのが不可能だから。植民地化された国では、そうさせなかったからといってもよい。
こうした結果、その国の中には、英語を使うエリートと、英語が使えず高度な内容を持った会話ができない一般人という二層構造ができてしまう
しかし日本にいれば、英語なしで高度なレベルの教育も高度な研究もほぼできる。普通の人もそれなりの質の話ができる。高度な知識にすべての日本人が触れることができる。これってすごいとおもわない?だったらなぜこんなことができたか、
最も大きな理由は日本が植民地にならなかったこと。そして啓蒙主義者、福沢諭吉や西周、森有礼といった連中、そして中江兆民や植木枝盛といったそれにつづく人たちが、なんとかして重要な用語などを日本語(じつは「漢語」)にしようと頑張ったから
世界の知識をなんとか日本人に伝えたいと思ったかれらは、重要な単語について、日本語(実際には中国語なんだけど)で近いニュアンスの言葉はないかと必死で探し、当てはめていった
freedomということばは、幕末の通訳が「わがまま、放蕩」という意味の「自由」ということばを当てていたのを、福沢が「西洋事情」という本で用い、広めたらしい。またfeudalismという英語は中国の周の時代の「封建制度」に似たシステムだということで「封建制」という訳語を当てはめた。
困ったのはeconomicという単語。ちょうどよい言葉が見つからない。そこで福沢諭吉か西周か、あるいは二人が相談したのか、「世の中をおさめ、人々をすくうこと」という意味の「経世済民」を略して「経済」という新しい言葉をつくったんだ。
こういう風にして、英語などの文章は日本語で読めるようになったんだ。彼らの使ったり作ったりした言葉は、日本だけじゃな
く漢字文化の国々にも影響を与えた。現在の中国では、そこら中で「経済」という言葉を使っている。
以上、余談でした。
(※以上の文章は、「明治維新(3)殖産興業・文明開化・国家神道」の一部にくみこんでいたものです。)

書いたあとで考えたこと

 ここまでは、以前から考えていた内容に、大学の授業で学んだ内容もまじえて書いていました。ほぼ同じ内容を、高校の授業の中でも話してきました。
ところが原田敬一氏の「日清・日露戦争」(岩波新書)を読んで大きな問題に気がつきました。ある意味で「ナショナリズム」に侵されていることに気がついたのです。このことを少し考えたいと思います。

「蘭学」はどのようにして始まったのか?

海禁政策(「鎖国」)の結果、ヨーロッパ文明と切り離される結果となった日本人が、どういう経過で再度ヨーロッパ文明と接触をしたのか。あるいは「蘭学」という名で呼ばれる西洋学問の研究がどのように始まったのか、私たちは、知っていながら、重要なポイントを見落としています。
蘭学がはじまったのはいつでしょうか?
出発点のひとつは前野良沢や杉田玄白たちによるターヘルアナトミア(「解体新書」)の翻訳です。この過程で、オランダ語の知識が蓄積され、その知識とスキルを用いて、オランダ語を翻訳する技術が身につき、そのオランダ語の力を借りて西洋の知識を学んでいったのです?
このころの「蘭学」で、必ず一人の人物の名前が出てきます。
「万能の天才」「日本のダビンチ」こと平賀源内です。
解体新書表紙 山川出版社「詳説日本史」P225
平賀源内は前野良沢や杉田玄白と同時代人です。狂気にとらわれて殺人を犯し獄死した源内の追悼文を杉田玄白が書いています。
源内は、オランダ語はできませんでした。オランダの本の図版を必死でながめていたということです。ちなみに、玄白もオランダ語の力はたいしたことなかったみたいですが?!
では、源内の西洋知識はどのように入手されたのでしょうか?

日本人は西洋を「漢文」で学んだ。

もう一つの出発点の話をします。
徳川吉宗、享保の改革の時代です。それは、吉宗が○○を解禁したため、サツマイモを日本に持ち込んだことで有名な青木昆陽という先生などが西洋の学問を学ぶようになったこと、これが蘭学のきっかけとなったという話です。
吉宗が、解禁したもの・・それは欧米人が書いた書物=洋書の輸入でした。でも、洋書にはキリスト教の書物が紛れ込む可能性がありますね。そこで、このとき輸入が認められた洋書は、欧米からワンステップおかれた洋書でした。前に何か付いていましたね・・・。
「漢訳」洋書。漢文に翻訳された西洋の書物でした。
これなら、キリシタンの書物かどうか、すぐわかりますね。
では西洋の言葉を漢文に訳したのはだれでしょうか?
考えればわかりますね中国人、正式にいうと中国人が、中国にやってきた西洋人(とくにイエズス会系の宣教師)の協力を得て翻訳していたのです。
このことの意味に、私たちは無頓着であったように思います。
まず、西洋知識を東アジアの人が分かることばに翻訳したのは中国人です。
西周

福沢や西が幕末から明治初年にかけて行った苦労、それを蘭学で前野良沢らがおこなったような基礎作業も含めて行ったのが、中国人の学者とそれに協力した西洋人の宣教師たちでした。

「蘭学」と呼ばれることになる西洋の知識の導入のきっかけは、中国人が翻訳した洋書を読むことからはじまりました。
中国の学者たちが、自然科学の用語をはじめ多くの欧米語を、宣教師たちとともに「あーでもない、こーでもない」と頭をひねりながら漢語に訳していったのです。
こうした人たちの努力の成果を青木昆陽が、そして平賀源内が学んだのです。前野良沢らの解体新書の翻訳も、こうした基礎作業のうえに立っていたのだろうと考えられます。
日本人は中国人が翻訳した洋書で、西洋文化を学びました。現在用いられる西洋の言葉の訳語は、まず中国の学者がまず考えたものでした。

東アジア共通語=「漢文」の実力

東アジアの知識人にとってありがたかったのは、漢文という共通語の存在です。中国の公式の文語である漢文は、そもそも話をすることができない国内の人びとや中国周辺の蛮族(日本人ももちろんその一つです)との間で意思疎通をするため、しゃべれなくとも意味が通じるという言語です。返り点をうってその内容を理解するという日本的な漢文の読み方は邪道でなく正当な漢文の読み方です。音声で通用させることなどは最初から期待していないのですから・・。
話が横道にそれました。このように、音声でなくとも意味が通じるという言語上に、まず中国の学者たちが西洋の知識を漢語でアップロードしました。東アジア文化圏の知識人はこれにより、東アジア共通語によって西洋の知識のアクセスできるようになったのです
幕末の日本において、蘭学者と並んで西洋への深い知識を持っていたのは、中国直系の学問であるため大義名分論に凝り固まったなどとの誤解を受けてきた朱子学を学んだ人びとでした。
高い国際的教養に裏付けられていたと近年評価される幕府の開明派官僚たちは、こうした朱子学の基礎の上で育てられました。

東アジア共通のデータベースの存在

では西洋の知識を翻訳した中国の学者たちは、どのようにして適切な漢語を選び出していったのでしょうか。
それは、中国文明のなかで蓄積された歴史・思想・学問などの膨大な知識、データベースからです。このデータベースの中から、西洋の言葉に最適な訳語を見いだし、当てはめていったのです。
注意しておきたいのは、このデータベースは東アジア世界全体で共有されていたということです。日本や朝鮮の知識人は、自国の歴史以上に中国の歴史についての深い知識を持っていました。「儒教」とくに「朱子学の知識は東アジア全土に共有されていました。やや衰退傾向にあった「仏教」ですが、それでもデータベース上にはしっかりと保存されていたのです。
こうした知識の多くが共有されていたため、個々の単語についてのニュアンスはかなり細かい部分まで共有可能であり、相互理解できたと思われます。言葉に対する日中朝の共通の知識のデータベースが存在したのです。これによって西洋の単語に対する訳語はそれほどのズレもなく、こまかいニュアンスも含めて共有できたのです。民族の枠を越えた討論なども行うことが可能なのです。
さらに、漢語にない言葉、例えば「経済」といった語も、なぜこの語を使ったのかという了解の上で利用できたのです。
西や福沢も、主にこのデータベースから適切な語を選び出してきました。だからこそ、彼らが用いた訳語が中国にも逆輸出可能だったのです。

「西洋知識の導入」という壮大なプロジェクト

こうして考えるならば、西や福沢に代表される欧米の思想や文明の導入自体、16世紀以来、続けられてきた東アジア文化圏全体で行われた西洋知識の導入という国際的共同作業の一環、巨大なプロジェクトの一環だったと考えることができます。東アジア諸民族の知識を結集し、適切な訳語を中国史・思想を中心とする巨大なデータベースから選び出し、吟味して、あてはめていく作業でした。
私たちは、英語の力がそれほどなくとも、世界の高度な知識にアクセスすることが可能です。それは東アジア文化圏、とくにインターナショナルな言語である漢文・漢語のもつ偉大な力、漢文とそこにつながる中華文明圏の巨大なデータベースの恩恵があったからこそでした
日本人が中国に漢語を逆輸出したというような浅薄でナショナリスティックないい方では、とらえきれない広がり、壮大なプロジェクトが、私たちがつかっている欧米起源の用語の翻訳の背景にあったのです。
最後に、最初に示した原田敬一氏の著書の一部を引用して、今回のまとめとします。
近代日本が、欧米文化の学習で優等生だったことが、1945年の破滅を呼ぶことになるが(中略)問題は、優等生だったことが一方的に強調されすぎることである。日本で欧米文化を消化し、翻訳語を作り、清国や韓国などの漢字文化圏に輸出していったことが語られすぎている。
15世紀から19世紀にかけての中国文明が、まずヨーロッパ文明を消化し、アジアに送り出していったことが、なぜこんなに簡単に忘れられたのであろうか。日本が、世界を把握できたのは、まずヨーロッパ語を中国で漢訳したものを通じてであった

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて

「追いつけ追い越せ」「開発独裁」「日本人の創出」~明治維新編によせて~

 明治維新編をアップしました。

今の研究環境はすごい!

大学で課されたレポートとかかわって、自分の先祖につながる人を調べていました。すると、つぎつぎと面白い事実が出てきて、先祖の戸籍をあつめ、市史や県史をよみ、ネット上から国会図書館や郷土資料館などのデータにアクセスし、大学図書館からも史料を探し、なんてことをしているうちに、しっかり一ヶ月使ってしまいました。
しかし、いまの研究環境の進歩はすごいですね明治や大正時代の官僚名簿や、昭和初年の業界史や郷土史が国会図書館のネット上で簡単に見られました。著作権の関係で見にくい国会図書館の書籍も、大学図書館の協力で閲覧・複写できました。
台湾総督府で働いていた人物の足取りを検索エンジンでつかまえることもできました。
おかげで、名前しか知らなかった私の曾祖父の写真ゲットすることもできました。
こうしたことで、先祖調べにはまってしまい、一区切りつくまでと調べている内に、六月をまるっぽ使ってしまい、HPの更新ができませんでした。

近代日本のテーマ「追いつけ、追い越せ」

さて、「明治維新」の範囲、こんな無茶苦茶を書いていいのかと思いながら、作ってみました。
昨年の授業でやった内容を元に書いているのですがどうも大胆な仮説ばかりで、生徒にそんないい加減なことを教えていたのかというご批判もいただきそうですが、ご容赦ください。
見ていただければ分かりますように、近代日本のテーマを「列強に追いつけ、追い越せ」とまとめてみました。
その中心は軍隊の近代化から、しだいに条約改正交渉の基礎となる広義のインフラ整備へと移っていきます。
それを実現するための強大な権限をもつために、天皇の権威を利用したこと。
天皇の権威をにぎりつづけた大久保や岩倉をはじめとする少数のリーダーが開発独裁的に強引な欧米化政策を進めたという流れを中心にまとめています。この言い方は、数年前から始めた言い方です。

「開発独裁」ということ

開発独裁」などという大胆ないい方をつかっていいのかとも思いましたが、大学時代に受けた先生の授業で聞いた話を思い出し、ネットでも授業の実践例があったので使ってみました。
ついついソ連や中国の「社会主義」の方が似てそうだと知ってて脱線させました。
こんなふうに、実際の授業では、かなり大胆な話をするのですが、さすがにそれをおこして、ネットに載せるのは躊躇しました。まあ、しがない元高校教師の思いつきということで、大胆ないいかたをしています。
というのは、歴史の授業というのは過去のことのみではなく、現在の世界を分析する手段を生徒たちに与えたいと思っているからです。過去のこの事例と、現在のこの事例、こういう面では共通しているところがある」といった目を養って欲しいからです。
ある意味、高校教師は楽です。研究者の皆さんがいいたくてのど元まででかかっていても、しっかりした論証がなくていえないことをいってしまいます。ただし、「こんな風に考えられないかな?」という形で。
居直った言い方をすると、かなり大胆にいわないと生徒には歴史の意味も含めて、生徒には伝わらないのですよ。きっと、批判があると思いますが・・・。

「開発独裁」、辞書によると

もとにもどして「開発独裁」の件、ネット上の辞書を見てみると、以下のような記述があったので、ある程度安心しました。
<以下、引用>
「開発独裁」
経済発展の途上にある国の政府が、国民の民主的な政治参加を抑制しつつ、急速な発展と近代化を目指す体制。福祉や自由の尊重などの政策は後回しにして、工業・資源開発・土木・軍事部門に経済資源を優先的に配分し、国力の底上げを図ろうとする。第二次世界大戦後の韓国やフィリピン・インドネシアなどに見られたが、政権内の腐敗を招くことが多かった。広義には第二次世界大戦前のドイツや日本の体制、ソ連など共産主義国家の体制をも含む。
「デジタル大辞泉」
<引用終わり>

「国民」(=「日本人」)の創出という視点

 また、近代国家を形成するという点に関しては、「国民(「日本人」)」の形成という視点を重視しました。
昨年度の授業から、おっかなびっくりだったのですが、幕藩制(「ヨコのカベ」)と身分制(「タテのカベ」)という「二つのカベ」を取り除くことが「日本人」を形成する大きな前提になるという風に説明してきました。
今回は、授業中継としてまとめる中で少し深めてみようと思いました。ちょうど、本年度前期にうけた大学の講義の中でネーション(「国民」「民族」)の形成の話があり、ネーションの形成には公教育が大きな意味を持つというゲルナー「民族とナショナリズム」の説が紹介されたこともあり、日本ではどうだったのだろうということで、教育にかかわる内容も触れてみました。

ネーションとしての日本人の成立を追求すると、さまざまな意味での江戸時代のユニークさ・面白さがもっと際立ってくるような気がしました。

とおもって近年の歴史の研究書を見ると、1990年代以降の歴史学の世界の人気のテーマが「国民国家」だったんですね。自分の不勉強さを暴露してしまいました。

また思いつきで使った「二つのカベ」ということも、言い方は別として、研究者も使っていたので、これまたほっとしました。
 よく考えれば、教科書や啓蒙書、あるいはテレビなどを通じて、新しい研究を学べていたのだということを身にしみて感じた次第です。
< 注記>
本来なら7月中に出すべき内容の文章だったのですが、放置していたため、あとから出した自由民権編と順番が逆になってしまいました。ちょっと不細工になったことをお詫びします。

いろんな手法を試してみたい~自由民権編UPしました

いろんな手法を試してみたい。

~自由民権編をUPしました。~

自由民権運動を中心とする明治一ケタから二十年前後までの授業案をUPしてみました。
わたしは、歴史の授業において、いろいろな歴史学や社会科学など諸科学の分析・叙述の方法を用いたいと、非力を顧みず考え、やってきたつもりです。
それは、生徒たちの将来にとって有効だと考えています。
生徒が、特定の立場や方法に固執するなく、複眼的な視点を持ち、いろいろな角度から、自分を取り巻く社会や世界を分析し、行動する指針として欲しいからです。
日本史でありながらも、東アジアや世界に開かれた汎用性のある学びを得て欲しいからです。
一つ一つの歴史事象について、いろいろな角度から見る力をつけて欲しいからです
こうした考えから、全体の流れからずれない程度で、時間を見ながら、いろんな歴史理論や社会科学などの方法を意識し、授業を進めきました。
「開国」のあたりではシステム論とはいえないまでも資本主義の成立がアジアにどのような影響を与えたのかを、明治維新では国民国家論を、外交の所では主権国家や華夷体制という国際関係論をそれぞれ意識し、文明開化のあたりでは民衆思想論にも触れられたかなと思っています。
今回の自由民権を中心とする明治一ケタから十年代の歴史については階級という視点を少し使って導入してみました。
明治維新、文明開化という大きな流れの中で、
士族・農民・豪農豪商というそれぞれの階級がどのような立場に置かれ、どのように考え、行動をしたのか。といった分析を基礎におきながら、政府の動きとのかかわり、西南戦争後のインフレと松方デフレという経済の激動がそれぞれのグループにどのような影響を与え、運動をどのように変革させたのかにも触れました。
最終的には、豪農が寄生地主化することで、自由民権運動、そして明治国家、戦前の経済がどのような事になっていくかも展望したつもりです。
階級を意識した分析は、世界史では、フランス革命のところでとくに有効でした。というか、これを使わないと、うまく説明できませんでした。
階級(闘争)論というマルクス主義的な手法は時代遅れという人も多いかもしれません。
しかし、階級ごとに分析し、それぞれの置かれた状況、願いや考え、そして具体的な行動をみていく、というやり方は、現在を分析する上でも有効な手段と思いますし、こうした分析方法を知ることは高校生にとっても意義があるものだとと思っています。

「治外法権」なしの通商条約なんて無理!~幕末編、UPしました。

「 幕末編をアップしました。」
と景気よく書くつもりが、アップしてから一か月以上たってしまいました。見ていただいたでしょうか。
大学時代に、少し時間を掛けてやったところなので、しゃべりすぎてしまいました。
「時間がない、時間がない」といいながら・・・。
言行不一致は教師の特徴?!(苦笑)。
幕末維新史は、かなり研究がすすんでおり、学生の頃のようにあっさりとしたものではなくなってきたように思えますし、逆にわかりやすくなったようにも思えますが。

「不平等条約」って言うけれど

内容紹介を兼ねて、
「不平等条約」と言うけれど、平等な条約なんてあり得たの?
ということを考えてみます。
かつて、「幕府の役人は無能」というステレオタイプで見られる傾向がありました。当時からもそんな風でした。
役人=公務員バッシングは今も昔も変わりませんね(苦笑)
いい加減な仕事しかしないとか、給料が高すぎるとか、お役所仕事とか、親方日の丸とか、ぼろくそに言われます。
教師もぼろくそに言われますから、公立高校の教員なんかは
まるで、「人間サンドバッグ」
大部分は、一生懸命やっていますよ。つつましい生活してますよ。
大金持ちは「セレブ」とかいって持ち上げるのに、なんで一生懸命やっている公務員や教師をひとまとめにしてバッシングしたがるのでしょうね。
役人にも教師にもいろいろな人がいます。そのヤバい人だけをみて、ひとまとめに叩くのはおかしいですよ。
叩きやすい者をたたくというのは、甘利さんや石原さんには触らずに、セコい舛添さんだけを袋にするというのとよく似てますね。
ついついグチをいってしまいました。

江戸末期の役人は優秀だった?!

ということで、江戸末期、一生懸命頑張ったのに、バッシングされまくった人たちについて見ていきたいと思います。
近年の研究の成果によると、和親条約や通商条約で外交折衝に当たった幕府役人の優秀さが強調されつつあります。
世界情勢をしっかりと冷静に把握したうえで、日本の国益を考え、列強の圧力に対しても、粘り強い交渉を繰り返し、かなりの成果を上げたと。

「治外法権」を認めず済みますか?

しかし「不平等条約を認めたではないか」という反論が聞こえてきそうです。
では、聞き返します。
幕末の時点で「治外法権」の条項をいれずにすみますか
当時の日本の裁判を考えてみてください。
「まず不衛生で、金がないといじめられ、人数が増えると数名が殺されるという牢獄に放り込まれ、
異様に発達したさまざまな拷問器具で自白を強要され、
お白洲という白砂利や土間の地面に座らされ、
未整備で人権などにはまったく配慮されない法律??で
弁護士もなく裁判され、
首を切られたり、自殺を強要されたりして
首をさらされる」
こんな裁判を受けたいですか?
逆に全然言葉も通じず、文化も法律も、そして価値観もちがう、「差別しない事の方が犯罪的」である当時の日本と、
「人間は平等である」西洋、
その間できっちりとした裁判なんてできますか
すぐ国際問題となってしまいます。
こんなリスクを侵してまで、当時の日本で裁判をしたいですか?
何事も、リアルに考える事が大切です。
ぼくなら、外国人の立場でも日本人の立場でも、御免蒙ります。
そう、この段階で「治外法権をいれない」なんて、あり得ないことなのです。

「治外法権」撤廃の条件は、日本の「近代化」

こうして考えれば、「条約改正」を実現する事の大変さが見えてくるでしょう。
明治新政府の連中は最初は甘く考えていたのでしょう。
その認識が大きく変わったのが、岩倉使節団の事です。
「治外法権」を撤廃するためには、
しっかりした国内法が必要ですし、裁判制度の整備も必要です、その法律も欧米人が「ま、いいか」という段階までいかねばだめです。
簡単に言うと「自分たちの仲間(国民)を、日本の法律・裁判の手にゆだねることができること、ゆだねても自国内で批判されないだけの国になっていること
これが治外法権の撤廃の条件だったのです。
だからこそ、条約改正には時間がかかったし、
条約改正をするためには、日本を近代的な、あるいは西洋的な国にしなければならなかったのです

当時の日本で関税率を決められた?

関税自主権がなかったではないか」たしかにそうです。
なら、当時の日本で、関税額をどのような基準で決めるのですか?決められたのですか?
結局は「外国に相談をして、言いくるめられて」というのが関の山です。
ですから、関税額を一定にするという協定関税という枠組みは、この時代では合理的なのです
そのなかで、幕府の役人たちは、できる限り高い関税率を守ろうとしました。
あとから条約を結んだイギリスなどは関税率の高さに強い不満を持ちます。
「ハリスの野郎、よくもこの率で妥協したな!」てな具合です。
ですから、長州が外国船を砲撃した事を理由に、協定関税率の引き下げを認めさせたのです。
関税でも、官僚たちは頑張りました。

役人たちが守ろうとした「国益」

では通商条約締結時、官僚たちが守ろうとしていたのは何か?
それは「外国人の国内旅行の制限」や「国内雑居を認めない
ことでした。
なぜなら、中国やベトナムの植民地化・半植民地化はこの条項を用いて進んだからです。
各地でトラブルが続発し、その処理に走り回る
攘夷派の連中が急速に力を伸ばしている、こうした状況でこれは認められないことでした。
幕府の外交官僚らはこれを守り抜きます。
これは評価に値する事だったと思います。
このように、幕府の外交担当の官僚たちは、
これまでの経過や列強間の力関係、他国の事例なども丹念に調べ上げて、粘り強く交渉し、条約を締結しようとしたのです
彼らが優秀だったからこそ、ハリスがヒステリックになっていた面もあるのでしょう。

「公務員は辛いよ!」

こんだけ頑張ったのに、ぼろくそ言われ、外国の手先みたいに云われ・・・。
「人間サンドバッグ状態!」
辛かったでしょうね。
Iwase Tadanari.jpg
岩瀬忠震https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Iwase_Tadanari.jpg
とくにかわいそうなのは、先頭に立ちがんばった岩瀬忠震さん。条約を結んだとたんにお払い箱。
ならいいんですが、井伊直弼さんから謹慎処分にされ、
「使うだけ使ってこの扱いか(怒)」って感じで死にます。
岩瀬さん、攘夷を唱える連中にも言いたかったでしょうね。
そんだけ言うんやったら自分でやってみろ!」
新政府で外交担当となった伊藤博文さんや大隈重信さん、あるいは井上馨さんなんかは、岩瀬さんたちの苦労、身にしみて分かったのでしょうね。
ひょっとしたら、「あの連中、よくやった。俺たちならここまでできなかったかも・・」なんていってほしかったな。
そういえば、彼らの親分、木戸孝允(桂小五郎)さんは、幕府の外交官僚中島三郎助の弟子です、その苦労も少しはわかっていたかもしれませんね。
 ちなみに中島三郎助は箱館戦争で戦死します。

こんな授業、していません?

 不平等な条項は「治外法権」(領事裁判権)と「関税自主権がない事」(協定関税)、そして和親条約に含まれていた「一方的最恵国待遇」、この3つ。
日本は、このような不当な扱いを受け、外国側はなかなか交渉に応じず条約改正が実現したのは明治末年であった。
なんて紋切り調の授業、していませんか?
ごめんなさい、実は、私もやっていました・・・。
(注記)この趣旨にもとづき、「内地雑居」について、「ペリー来航の来航と開国」大幅に書き直しました。(2016/08/06記)