「土匪」の帰順は信用できるか?~台北厦門間の経済活動の中断をめぐって


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「土匪」の帰順は信用できるか?
~台北厦門間の経済活動の一時中断をめぐって

厦門領事から届いた電文

「福建省」の画像検索結果

中国福建省は台湾の対岸にある中国大陸南部の省である。台湾に住む漢人の大多数はルーツはこの地域にあり、言語や生活様式・文化・風俗などさまざまな面で共通点を持ち、祖先崇拝などを通じても深いつながりがある。
日本が、1900年前後には活発化する列強の中国分割のなかで、日本が勢力圏を設定としようとした地域*でもある。

*「居留民保護」を名目に出兵、福建省を日本の勢力圏としようとした。その中心が台湾総督児玉源太郎でありその手法は柳条湖事件と類似するとの指摘もある。(小林道彦『児玉源太郎』参照)

福建省南部の厦門(アモイ)は南京条約で開港地となり、イギリス人居留地が設けられ、1902年以降は共同租界が設定された国際港湾都市であり、福建省と台湾の間の両岸貿易の中心であった。
このため、明治29年、日本は「台湾トノ交通最頻繁タル」地としてここに日本領事館を設置する。このように厦門は中国大陸からの台湾への窓口であり、世界が台湾の事情を知る最前線でもあった。

1898(明治31)年9月29日、この地の日本領事、上野専一が外務省に次の電文(①)を送った。

電文① 九月二十九日付厦門上野一等領事発外務省宛電文

台湾ニ於ケル土匪ノ為メ清国商賈其他ノ輩ニシテ便舩毎ニ厦門ニ帰着スルモノ夥多ナリ。而シテ目下台北トニ商業ハ渾テ停止セラレ、諸銀行モ亦其取引ヲ休止セリ。右児玉総督ヘモ通報シ置キタリ
(意訳)台湾の匪賊の活動のため、清国の商人たちが船が着く毎に続々と引き上げてくる。このため厦門・台北間の商業はすべて停止し、銀行取引も休止している。この旨は台湾総督にも連絡した

台湾の「土匪」の活動を嫌った清国の商人たちが大挙として厦門に引き上げてきたため、台北厦門間の経済活動が途絶したというのである。
事態を重要視した外務省はこの電文を参謀本部や海軍軍令部など各方面に伝えた。

上野領事からの正式な報告

上野はさらに詳細な情報を伝えようと正式な文書(②)を外務省に送った。(十月一日付「機密第25号」)。かなり長文であり、次の電文とも重複する部分が多いので、ここでは部分的に引用し、他は趣旨のみを記す。(本ページの表題上の写真。テキスト版はここをクリックしてください)

(意訳)ここ二~三日、四~五〇人が台湾から厦門にやってくる。清国商人のみならず、厦門台湾間の貿易で財をなしている日本籍の林本源一家などもいる。かれらは、台北中で「土匪」が活動、物品を奪う事件が頻発、商業の安全が保障できない、警察は頼りにならないというのだ。(目下台北ハ各地到ル処ニ土匪横行シ、物品強奪之危難多リ。白昼ト雖トモ人家ニ闖入シテ掠奪ヲ為スコト多ク、到底商業之安固ヲ期スルコト不覚束
だから台湾との取引がほぼ停止、為替も中止している。本地人(清国人)口を極めて総督府の政治が威信がないと冷評し、土匪の頭目が帰順したとはいうが金目当ての偽装との声も高いという。(本地人ハ口ヲ極テ台政ノ威信ナキヲ冷評シ今回土匪頭目之降伏ハ真ノ投誠帰順ニアラス、全ク総督府ハ金力ヲ以テ彼等ニ降伏ヲ勧誘セシナリ云々
厦門領事館はこうした風説を打ち消すよう努力しているが、こうした事態が発生している以上何等かの原因があるはずだ。こうした事情を再度、前日(九月三〇日)午後、台湾総督府に打電した。

 この文書は厦門領事の印を押し領事館の用箋を用いた正式文書であり、係員が現物が海路・外務省まで持参したと考えられる。到着の期日は記されないが、船便で約一週間程度を要すること、外務省が貿易にかかわるとしてこの文章を添付した書類を一〇月一四日内務省に発送(起草は十月十二日)していることから逆算して、本文書の到達は十月十日前後であったと思われる。

児玉総督の反論

児玉源太郎 台湾総督として後藤新平とともに台湾統治の基礎をつくる。のち日露戦争の満州軍装参謀として戦争指揮にあたった。

上野の電文・文書から、上野は、九月二十九日前後に一回、三十日午後に一回の計二回、台湾総督府宛てに電文を打電したことがわかる。最初の電文は、電文①に記された内容で事実関係が中心と考えられるが、二本目は文書②にかかわるため、かなりふみこんだ内容と考えられる。また電文①の欄外には参謀本部や軍令部などにも伝達したことが記されており、責任上、陸軍側からも陸軍中将でもある児玉源太郎総督に問い合わせをしたであろうと予想しうる。
メンツをつぶされた形となる台湾総督・陸軍中将の児玉源太郎は陸軍省に怒りをあらわにした回答を送りつける。一〇月二日の電文(③)である。以下のような内容である。

③児玉源太郎台湾総督発陸軍省宛十月二日付電文

上野領事ハ直接ニ台湾ノ事情ヲ知ラサルト、総督ノ施政ニ反対ノ意見ヲ有スル内地人ノ流言ニ因リテ、報告シタルト認ム、台北ニ於テ帰順土匪ニ対シ疑惧ヲ抱クモノアリ、其ノ結果一時厦門ニ避難シタルモノアリト聞ク、然レトモ実際上帰順土匪ノ為メ禍ヲ受ケタルモノ一人モナシ、唯帰順土匪ノ風ヲ装ヒ徘徊スルモノアリ、目下捕縛着手中
(意訳)上野領事は直接には台湾の実情を知らない。総督府のやり方に反対の意見を持つ(清国)内地人の流言によって報告している。台北で降伏してきた「土匪」を疑うものがいる。その結果一時的に厦門に避難した者もいると聞く。しかし、実際のところ、降伏した「土匪」によって被害を受けた者は一人もいない。ただ、「土匪」のふりをして徘徊している者がおり、逮捕しようとしている。

 つまり帰順した「土匪」は信用に足り、治安の乱れにも対処している、上野は台湾の実情を知らないだけと強弁するが、「土匪」のふりをしている者の騒動も事実上認めている。
陸軍省用箋に記され、陸軍省が所蔵しているべきこの文書が外務省にあることは、陸軍省が外務省からうけとった電文①の回答として、外務省に持ち込んだと考えられる。なお文書②はまだ届いていないと考えられる。

台湾における「土匪」の横行

このように厦門領事と台湾総督府との認識には違いが見られる。台湾は安定に向かっているのか、混乱がいっそう深まっているのか。
まず当時の台湾の状態を見ておきたい。台湾は1895年の下関条約で日本に割譲されたが、台湾側の激しい反発を引き起こし、いったんは台湾民主国の成立が宣言された。6ヶ月にもわたる台湾攻略戦のなかで近衛師団長北白川宮を含む一万人を超える戦没者(その大半は戦病死)をだしつつ、台湾民主国は消滅、いったん平定が実現した。しかし、その後も全土で抗日ゲリラ戦が続いた。かれらは盗賊など本来の意味での匪賊と同様に「土匪」という言葉でひとくくりにして扱われていた。

陳秋菊  当初は対日協力者であったが、日本警察に疑われたことをきっかけに抗日ゲリラ戦(「土匪」)の首領となった。のち児玉等の「土匪招降策」によって「帰順」、樟脳で大きな財をなした。

台湾総督府が編纂した『台湾匪乱小史』には「南北僻陬に占拠する不逞の族の出没常なく」、台北地方も「台北の匪首陳秋菊、新竹の匪首胡阿錦など台北城を襲い(中略)北部一帯大いに乱れ物情騒然たり」(一八九六年一月)となり、後も五月には台北も総攻撃を受けるなど、日本軍の被害も大きくなっていた。この時期の抗日ゲリラは、1895年の台湾攻略戦での「日本軍の殺戮・狼藉・破壊等を契機として各地の土着勢力(土豪・下級士紳が農民をひきいる)が行った執拗なゲリラ的武装闘争」(若林正丈『台湾抗日運動史研究』)ととらえられており、こうした活動は1902年までつづく。
その指導者は清への忠誠心を持っていたもの「緑林の徒」とよばれた集団(≒「盗賊」)だけでなく、当初は傍観者的であったり対日協力的であったものが日本側のやり方に反発、参加したものいる。
「日本軍兵士たちが、言語不通あるいは風俗習慣の異なるため、さらに戦勝者あるいは植民地支配者として君臨していたために…多くの台湾人が誤解・侮蔑・乱暴をうけていた(中略)こうした迫害が抗日運動の契機となったのである」(許世楷『日本統治下の台湾』)
ゲリラ戦掃蕩作戦がさらに抵抗運動を活発化させる。宜蘭方面で20名の遺兵士などが殺害されたとき、日本軍は報復として約1500人を殺戮し家屋約一万戸が焼き払い「宜蘭平原の大半は灰燼」とする。このような「無差別報復討伐」作戦が、いっそう抗日ゲリラ(「土匪」)を活発化させた。(許前掲書)約40年後に中国本土で行ったような行為がすでにこの時期におこなわれ、同じような結果を引き起こした。

児玉総督・後藤民政長官の台湾統治

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後藤新平 児玉源太郎総督の下で台湾民政局長として台湾統治の基礎を作る。関東大震災直後の大規模な東京復興計画をたてるなど「大風呂敷」との評判をもった。

こうしたなか、一八九八年二月台湾総督に着任したのが陸軍中将児玉源太郎であり、彼がその実力を見込んで重用したのが医師であった民政長官後藤新平*である。このふたりが台湾統治の基礎をきずく。

*児玉は1900年第四次伊藤内閣以降、台湾総督のまま、陸軍大臣・内務大臣など政府の要職、さらには日露戦争の満州軍総参謀長を歴任したため、実際の台湾の統治は後藤に委ねられることとなる。二人が台湾の地位を去るのは1906年のことである。

かれらは、軍と警察が分担してきた治安対策を警察に一本化、軍の出動も後藤の要請に委ねた。警察は治安維持に当たるだけでなく、台湾民衆を「保甲制度」という「自治警備」の担い手とし、民衆の生活・風習「改善」の中心と位置づけた。

「匪徒」帰順策と「匪徒刑罰令」

また最大の問題であった「匪賊」対策としては、個々の「匪賊」について、反抗する理由・背景、出自などを調査・分析し、本来「良民」であり帰順した場合には、金を与えて道路工事などインフラ整備を担わせるといった正業を与え、帰順しない場合は徹底的に掃討した。後藤は1914年におこなった講演の中で1896年から1902年までの間、11,951人を(うち約9000人を裁判なしの一斉射撃で)殺戮したことを自ら語っている。(原田敬一『日清・日露戦争』

「電文」のやりとりがなされた約一ヶ月後の、十一月「匪徒刑罰令」実際の法令はここをクリックしてください)がだされる。それは台湾統治の過酷さ、非人道性を示すものでもある武装闘争の参加者はいうまでもなく、人々が集まることや、物を壊したり「露積みした柴草」を焼くこと、さらには関係者に宿や金銭、食事を提供することさえ死刑の対象とする。国内法ではまったく考えられない内容である。*ただし、帰順した場合は先に見たようにまったく異なった対応を行った。

*こうした法令(「律令」)は、台湾総督が明治憲法に縛られることな限定のない立法権を与えられ、「緊急」の場合は内地での手続きなしで事後承認で命令を出すことが認めるという台湾では法律六三号(台湾ニ施行スヘキ法令二関スル法律)によって「正統化」されていた。
この点については、別稿植民地の「文明化」と「『日本』化」~参政権問題と自治議会請願運動とかかわって~」を参照してください。

こうした結果、一八九八年七月以降「匪賊」の投降が相次ぎ、八月には台北の陳秋菊らも「帰順」した。『台湾匪乱小史』によると、陳は「石碇に製脳業を営み今や巨万の富を積」み、他の匪賊の首領等も「正業」についたと記している。しかし、同書には翌年一月にはいったん投降した簡大獅・盧錦春・徐録らが「誓いに背きて山地に拠る」とも記しており「偽装ではないか」(「真ノ投誠帰順ニアラス」)との清国商人らの危惧にも根拠があったことを示している。

台北で何が起こっていたのか?陸軍の影

児玉源太郎総督(右)と後藤新平民政長官(左)

この一連の電文が示す清国商人の大量引き上げと為替・貿易の途絶などがあったのは、まさに「土匪」の帰順がもっともすすんだ時期である。「目下台北ハ各地到ル処ニ土匪横行シ、物品強奪之危難多リ。白昼ト雖トモ人家ニ闖入シテ掠奪ヲ為スコト多ク、到底商業之安固ヲ期スルコト不覚束」(文書②)というが、「土匪」の活動はこれ以前の方がひどかったことは明らかである。

ただ、こうした話も全くのでたらめであったわけでもない。たとえば、「緑林」出身の「匪賊」盧錦春は投降を決意するが、それまでに蓄財しておこうと村々で掠奪を行い、さらにはすでに投降した「匪賊」陳秋菊の「地盤」にもはいりこみ、衝突するという事件を起こした。また『台湾日日新聞』は「どうも土匪側は台湾総督が土匪に降るものと解していたらしい」と記し、「土匪」の投降=帰順についてということをどれだけ認識していたかに疑問を呈している。(許・前掲書)こうしたことが清国商人の不安をかき立てた。

しかし、「土匪」の活動が活発だった時期でなく、なぜ「土匪」の帰順が進んだこの時期なのか。鶴見祐輔『後藤新平』に次の一節がある。

然るに不思議にも、前述せるごとく囂々たる新政非難の声が揚がったのは、この土匪招降策が、盛んに功を収めつつあるときであった。その主なるものは、新総督の軟弱政策を罵る声であった。名は土匪の招降と称するも、実は授産金を以て土匪の甘心を買ひ、これと妥協して僅かに治安を求める如きは、帝国の威信を傷くるの甚だしいものである、といふのである。(二巻P143)

 この理由について、鶴見は「『土匪政策の大変化』に対する陸軍側の反対である」との人物の意見を引用するにとどめている。

さらには鶴見は「土匪ノ招撫ハ良民ノ怨恨ヲ招キ、人心ノ離反ヲ致ス所以ナリ」との流説があり、それが「匪賊」調査に当たった「通訳探偵」から出ていたと記している。直接「匪賊」と対応しているため、彼らの恨みを受けていると考え「匪賊の招撫は、どんな返事を彼等の身上に惹起するかも知れないといふので、彼らが出来る限り、官辺と匪徒との関係を離隔しようとした」というのである。

ここに記された言葉は上野が厦門で聞き取った清国商人の言とほぼ一致しており、その出発点はこういったところにあると思われる。

林本源邸 林本源家は福建出身で台湾で米と塩の売買で巨万の富を得た一族。その邸宅は現在の台湾観光の中心でもある。

また文書②の「我カ警察ノ頼ム甲斐ナキヲ申触ラシ居候」から、児玉・後藤が治安対策の中心を軍隊から警察中心にゆだねたことに対する陸軍の影をみることも可能であろう。
鶴見の書では、後藤と陸軍幹部が酒の席で殴り合ったことも記されており、それを陸軍中将である児玉の威光で抑え込んだことが記されており、自分たちの仕事を奪われた現地陸軍側の強い反発があったことが背景にあることは明らかであろう。

植民地経済への移行をめぐる対立

また考えられるのは、後藤がすすめる急速な植民地経済の構築とのかかわりである。

福建省と台湾の関係地図

この時期、後藤は台湾銀行の設立に向けて貨幣・金融制度の整備をすすめ、これらの日本の制度と統一する政策をすすめていた。そのことは、それまで台湾および厦門などで行われてきた商品取引の慣行の変更を意味しており、これまで両岸貿易に従事してきた清国商人や開港以来影響力を伸ばしてきたイギリス・フランスといった外国資本との摩擦を招く政策であった。
さらには二ヶ月前の7月から土地調査事業が開始されている。これは土地所有制度の近代化をはかったもので、大租戸といわれた広い土地をもつ第一地主からわずかな金額で土地を買い取る内容も含んでいた。
このように児玉・後藤のもとであらたな経済システムが構築され、これまでの金融・貿易、さらには地域産業・経済構造が大きく変化させられはじめた。近代的植民地経済への移行が実質化しはじめたのである。こうした政策は、両岸貿易をになってきた清国商人から台湾経済の主導権を奪うことに他ならず、こうした政策を快く思っていなかったものが少なくないことは想像に難くない。
このように、外務省=上野領事が聞き取った清国商人のことばは、児玉と後藤が進める「土匪招降策」「警察中心の統治」「金融・経済改革」など諸政策への攻撃を含むものであり、同時に反発を強める現地陸軍の言い分でもあった。だからこそ「領事は台湾のことを知らない」と強く受け入れを拒絶したのである。

上野の反論

児玉の十月二日の回答③も厦門の上野に転送されたと思われる。さらに直接、厦門に向けての電文が発せられた可能性もある。反論の意味もこめて上野は一〇月六日電文④を発する。電文①の状況は改善されず、まだ届いていないであろう文書②の内容を敷衍しつつ、台湾の警察力の弱さを指摘する。

厦門ヨリ台北ニ対スル商業ノ現況ハ電信ヲ以テ報告シタル同様ナリ、清国銀行家ハ目下台北ヘ手形ノ振出ヲ為サズ、厦門ヘ帰リ来リタル者ハ資産ヲ有スル清国商人ニシテ、其中帰化人モ加ハリ居レリ、在留外国人ハ清国人程ニ利害ノ関係ナキモ台湾ニ於テ警察力ノ乏シキコトハ日々彼等ノ話頭ニ上ル問題ナリ、而シテ台湾ヨリ帰リ来リタル清国人ハ漳州及泉州等ノ内地ニ入リ同地方ニ於テ種々台湾ニ不利益ナル風説ヲ流布シ居レリ、厦門ニ於ケル輸出貿易ハ全ク同地方ヨリスルモノナルヲ以テ右等種々ノ悪評伝播スルニ於テハ貿易上ノ障害少ナカラザルヲ以テ曩ニ報告セシ如ク台湾ヘ電報シ清国商人ノ安心スヘキノ手段ヲ取ラレンコトヲ勧告セシナリ、吾ハ本邦ノ為メ最モ必要ノ処置ナリト信ズ
(意訳) 厦門台湾間の商業の状況は前回の電信と同様である。銀行家は台北への手形振出をしていない。引き上げてくるのは資産を持った清国商人で、日本国籍を取得した者もいる。台湾にあまり利害関係をもたない外国人の間でも台湾の警察力の乏しさが話題に上る。台湾からもどってきた清国人は漳州や泉州などの福建省各地で台湾に対するいろいろな悪評を伝えている。厦門からの輸出品はこうした福建省各地からくるものであり、このような悪評が広がることは少なからぬ貿易の障害となる。すでに報告したように、清国商人を安心させることを勧告したのだ。それが日本にとっても最も必要な処置と信じている。

 上野からの、さらに内地からの、厦門・台北間の経済活動回復を求める声は総督府においても何らかの対策の必要性を感じさせたと思われる。とくに在留外国人の間でも話題となっていること、台湾の治安が悪化しているという声が福建省全体に広がり、貿易に悪影響を及ぼしているとの指摘は、先のような強弁では済まないことを児玉らに認識させたと思われる。

商業の再開?

この電文の九日後、十月十五日厦門の上野領事は新たな電文⑥を外務省に発する。

清国諸銀行ハ本日ヨリ台北宛ノ為替ヲ実行シ商業ハ回復ノ模様ナリ

 こうして九月末からつづいた厦門・台北間の為替取引が再開し、経済活動が回復した。この背景には、児玉総督らによる何らかの働きかけがあったと思われる。それが警察主力の治安対策からの変更とそれによる台北の親日派・清国商人らの総督府への信頼の回復であったか、総督府による強圧的指導なのか。時間の短さを考えれば、後者であった可能性の方が強い。
こうして危機を脱した児玉・後藤は、より積極的な台湾経営をおしすすめていくことになる。

<参考文献>
外務省外交史料館「帝国二於ケル暴動関係雑件第一巻」アジア歴史資料センター(5-3-1-0-9_001) 写真版も同様
国立国会図書館「公文類聚・第20編明治29年第十二巻外事1・条約改正・国際・通商」アジア歴史資料センター(類00755100(所蔵館:国立公文書館))
台湾総督府法務部『台湾匪乱小史』(『現代史資料・台湾1』みすず書房1971)
鶴見祐輔『後藤新平第二巻』(勁草書房1965)
許世楷『日本統治下の台湾』(東大出版会1972)
若林正丈『台湾抗日運動史研究』(研文出版1983)
原田敬一『日清・日露戦争』(岩波書店2007)
小林道彦『児玉源太郎』(ミネルヴァ書房2012)

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