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だれが、なぜ教会堂を襲ったのか
~日比谷焼打事件での教会堂襲撃~
戦勝祝賀会とポーツマス講和条約
1905年9月、日露戦争が終結した。戦争は多くの兵士の命を奪い傷つけ、重税や国債発行などによって銃後の国民にも重い負担を強いた。生活苦から自殺する留守家族もあった。厳しい戦闘をくりかえしながら陸軍は北上、奉天会戦では惨勝ともいえる勝利をえた。さらに海軍は日本海海戦で大勝利をおさめる。こうした折々、日比谷公園などで戦勝祝賀会が開催され、食事もふるまわれ、提灯行列がおこなわれ、花火も打ち上げられた。重苦しい戦争の時代の中の「祭り」であった。
重苦しい時代に、互いに勝利を喜びあうことで、人々は自由にふるまい主体性を発揮できる実感を得た。こうした場を通して、互いの苦しみと喜びを共有、「同じ日本人である」といった国民意識を育てていった。(櫻井良樹「日露戦時における民衆運動の一端」参照)
新聞は連日「日露の戦争大勝利」を伝えていた。人々は思った。下関条約ほどでないにしても、領土を獲得し、賠償金もえられるだろう。賠償金によって、税金は元の水準に戻り、政府が国内外から調達した借金にもめどがつく・・・はずであった。しかし、ポーツマス講和条約の結果はまったく異なっていた。獲得した領地はかつては日本領でもあった樺太、しかも南半部のみ。「満州」でも租借地は三国干渉で返却を迫られた遼東半島の先端部のみ。しかも賠償金が得られなかった。実際の戦争と国力に即した講和であることを、人々は信じたくなかった。
講和条約反対国民大会と警察
「大勝利」であったはずの日露戦争で、なぜ日清戦争の時とは比べものにならない「見返り」しか得られないのか。「臥薪嘗胆」の果実がこれなのか。
賠償金が得られなかったことは「もうからなかった」ということではない。戦争に際して国内外から調達した借金がそのまま引き継がれることである。戦時下の臨時的な増税が恒常化され、さらなる増税も予測させる。
講和条約により、戦争の勝利は重苦しい現実と暗い未来予測にかわった。「明るい未来」と生活向上は夢物語として消え去った。これこそが戦争の勝利の『実像』であった。そのことに人々はなかなか気づかないし、未だに気づいていない。
当然、不満がまきおこる。国民新聞を除く新聞は講和内容を厳しく非難、河野広中や大竹貫二ら一部の政治家たちは右翼勢力と結び「講和条約反対」を唱え「国民」大会の開催を計画した。(事件の概要については司法局刑事部(松本武裕)編「所謂日比谷焼打事件の研究」以後「研究」を参照)
実際は、講和に反対する「国民」の前で、主催者が挨拶し、「宣言文」を発表し参加者が確認しあう。あと「君が代」演奏の後、万歳を三唱、最後に「花火」を上げるという約三〇分程度のシンプルなものである。実際には、宣言文などは聞こえないし、何を言っているかわからない。しかし、屋外の公園に集まり、参加者全員が「宣言」を確認しあう高揚感がある。戦勝祝賀会では軍や政府にエールを送ることで「国民」としての一体感を感じた人々が、こんどは「講和条約反対」をつきつけることで「国民」の「意見表明」を行おうとしたのである。こうした行為はこれまでに見られなかったことである。
こうした動きは治安当局を刺激した。内務省・警察は主催者に中止を迫り、不可能とわかると公園の入り口にバリケードを築き、実力で集会開催を阻止しようとした。しかしこうした手法は時代遅れになっていた。ぞくぞくと日比谷公園に集まってきた人々は3万人を超えたといわれる。彼らは警察の行動に怒り、入場を阻止しようとする警察を圧倒し、バリケードを撤去し公園内に乱入、河野や大竹らも登壇し、集会は予定通り開催された。
日比谷焼き打ち事件の発生
集会終了後、人々は演説会会場の新富座に殺到するが入場できず、規制しようとする警察との衝突を繰り返す。他方、公園への入場を阻止されたことをきっかけに、群衆の一部はすでに公園に隣接する内務大臣官邸を襲撃していた。さらに「講和賛成」の国民新聞社を破壊、さらにいくつかのグループに分かれつつ、皇居、外務省や首相官邸やその愛人宅、アメリカ大使館などに殺到した。そして、東京市内各地の警察署・分署、派出所や交番を焼き打ちにする。この日焼失・破壊されたのは警察署2、警察分署7、派出所・交番203カ所におよぶ。
外務省は数百人に襲撃されたが警察と軍によって追われ、アメリカ公使館も約千名の群衆に包囲されたが大事に至らなかった。(「研究」P71)
さらに「明治38年時9月至12月暴徒に関する内報綴 大本営陸軍副官部」2-8(以後「綴」)には山県邸をうかがう不審な人物の記録も残される。こうした「不穏行動」もみられたが「研究」は「何らの損害も生じなかった」としるす。(P71)
なお、このように群衆の行動がエスカレートしているにもかかわらず、大会を主催した河野や大竹らは全国から上京した代表との間で宴席に興じていた。そして「暴動」との関係を否定する。
集会にたいする警察の妨害は戦争の中で蓄積されてきた民衆とくに下層民衆のストレスと怒りを爆発させた。そして「大勝利」にもかかわらず賠償金や植民地という「成果」を得られない政府の「弱腰」を攻撃、政府を攻撃する新聞の論調に励まされるかたちで、自らを「正義」と考え、行動した。圧倒的な群衆の前に軍隊も出動、警察隊は抜刀しその過剰な警備によって死者も発生した。
こうした事件の激化をうけ、翌9月6日政府は戒厳令を発し、警察は戒厳司令官の管轄下におかれ、軍隊が鎮圧行動の先頭に立つ。
しかし暴動は収まらない。二日目になって本格化したのが電車の焼き打ちと、キリスト教教会堂襲撃である。電車の破壊の背景には、電車網の整備によって乗客を奪われた人力車夫らの関与が取り沙汰されている。後者は民衆の帝国主義的・排外主義的行動と捉えられがちな内容である。
教会堂襲撃事件の発生
被害に遭った教会等は下記の表の13カ所である(「研究」P68~69、「綴」3-5など)。なお、より詳細な表はリンク(日比谷焼打事件の教会堂等被害状況一覧)を参照されたい。
教会襲撃事件の出発点が浅草公園であることはほぼ確実である。まず「研究」の記述を記す。
教会堂が焼打されたる原因は斯かる場合起こりがちな排外思想の現れであるが、その直接の原因は、其の直接の動機は六日午後三時頃浅草公園に於いて基督教布教者(日本人某)が路傍伝道の際、前夜の暴動を非難したる上軽薄にも「露国は戦争に敗るるも樺太の一半を失ふに過ぎず且償金の支払を免れたるは畢竟露国が基督教を信ずるが故なり」との挑発的言辞を弄したるに依るものである。(P67)
また「植村正久と其の時代(5)」(以後「時代」)は浅草教会の永井直治牧師の談話を記す。
翌朝(5月6日)になって、乱暴した連中は、公園のロハ台で昼寝をしておった。
さて、コマガタ堂の近くにホリネスの教会があり、このホリネスの人々がよく公園で伝道をして居った。そして予てから博徒の連中から悪まれて居った。この日もホリネスの人々が公園で伝道をして、焼打騒ぎをした人々の乱暴を攻撃した。それで、之を聞いたロハ台で昼寝をして居る連中が大に怒り、また博徒の連中も加って、ホリネスの教会を襲撃して之を打ち壊し、ベンチは凡て電車線路のところへ持ち出して焼いてしまった。(P905)
ここでは、きっかけを牧師に「焼打騒ぎをした人々の乱暴」にたいする批判にみて、「償金の支払を免れたるは畢竟露国が基督教を信ずるが故なり」といった「挑発的言動」とはみていない。
藤野裕子「都市と暴動の民衆史」は、きっかけとなった牧師が「「法律に背馳せざれば何事を為すも可也と思ふは宜しからず」と説教したところ聴衆が不穏の挙動を示した」との予審調書をしめし、前日の国民大会を批判したと受け止められたことがきっかけであるとしている。しかし、説教の場にいた稲田志一の「露国は戦争に負けても付償金も出さず樺太は半分しか取られれざるは耶蘇教を信ずるが故なり」のことばも紹介しており、さらに、途中から参加した五十嵐大治は「此度の講和は好く出来て居る昨日の如き人民が乱暴を為すは野蛮の事なり」と説教したから乱暴するのだという話を聞き、参加することにしたとの供述も紹介する。(P45)
実際のところは、駒形福音教会の牧師が公園内で前日の暴動を批判したことが、講和条約締結への反発とそれへの怒りからくる昨日の暴動を支持する人々の怒りを引き起こし、ロシア由来のハリストス派キリスト教への不信感から来る「基督教徒を以て露探(ロシアのスパイ)と誤解せる」風潮)、さらには不利な講和を仲介したキリスト教国アメリカへの反発などが一体となり、ともすれば一方的となりがちな説教師の日頃からの言動と結びつき「償金の支払を免れたるは畢竟露国が基督教を信ずるが故なり」といったことばを発したと受け取ったのではないかと推測する。そして永田牧師がのべたように、牧師への襲撃を引き起こし、牧師を追って教会を焼き打ち、さらに次々と別の教会を襲ったと考えることが妥当と思われる。
教会への襲撃は、さきの表のように大体一時間間隔で行われており、同一グループがときには分かれながら、順番に教会を襲っていったことはほぼ確実である。藤野が示した地図も掲げておく。この襲撃は、同時多発的、自然発生的に起こったのではなく、広範に存在した民衆の帝国主義的・排外主義的意識の発露と単純にとらえるべきではない。
浅草での伝道
実際に行われ、トラブルをおこすきっかけとなったのはどのような伝道であったのであろうか。それを行っていたのは中田重治率いるホーリネスト教会のグループ、駒形伝道所の伝道師たちである。中田は1900(明治33)年メゾシスト教会から離脱し、アメリカで出会ったカウマン夫妻ら神田神保町の中央福音伝道館を拠点に積極的な伝道活動を行っていた。その伝道はかなり急進的だったようで、1904(明治37)年、栃木県鹿沼町の路傍伝道では、説教に腹を立てた人々から伝道師が激しい暴行をうけ、川に投げ込まれたこともあった。「時恰も日露戦争勃発後で(中略)基教が、ロシアの教だと誤解した為もあったが」こともあるだろうが、反発を招きやすい性格であったことを推測させる。
駒形伝道所が建てられたのはこの年の7月21日、ここを任されたのは、数奇な運命を持つ好地由太郎であった。好地らがこの伝道所を拠点に浅草公園内で路傍説教をつづけていた。「中田重治伝」は「これが9月5、6日の交番焼打の巻添えを食って、群集心理に駆られた暴徒に襲われ、民衆の放火に遭って、伝道館は荒され、好地は約千五百円ばかりの家財道具を焼かれた。」と記す。さらに好地の妻は追いかけられ、川に飛び込んで自殺を考える。
好地らの演説も強く反発を買う内容であったようで、さきの永井の談話にもそうした思いを感じることが出来る。
「中田重治伝」に次の一説がある。
この事件に対しては基督教会側では、中田に忠告するために、西洋人一名、日本人一名の忠告委員なるものを遣わした。
『中田君。君が浅草の観音堂の下で路傍演説などさせて、偶像を攻撃させるものだから、あんなことになったのだ。今後注意してもらいたい』と。
それに対し中田はこう反駁した。
『それなら、更にまされる伝道法を示してくれ給え』と。(P145~6)
多くの人の信仰を集める浅草観音のすぐそばで、「浅草観音への信仰を偶像崇拝である」という攻撃するような演説を行っていた。こうした伝道の手法が、単に「不正」の人々のみならず、多くの一般民衆の反発を買っていたことは想像に難くない。ただ、だからといって、伝道師を襲い、教会堂を焼打するのは別の話ではあるが。
襲撃の様子~襲撃を「指揮」する集団
教会襲撃の様子は「時代」が引用する「福音新報」に以下のように記される。
下谷教会及び浅草教会等の破壊された光景を聞くに、之を破壊する手並みより察するも素人とは思はれず、職人体の者数名先ず掛矢にて門扉を打破り、或る人は屋上に登りて破壊し或る者は講壇始め楽器腰掛けなど手当たり次第に粉砕し、両国教会は破壊の儘引き上げたるも、下谷教会其の他は之を街頭に携へ来たりて放火し万歳を叫んで引き上げたるなりぞとぞ、而して門前には二三十人の壮士体の者手に凶器を携へて之を指揮し且つ護衛し、更に野次馬の背後に数名の大将株(紋付きの羽織を着、口ひげを蓄へたる壮士体の男)陣取りて命令を下すが如く、又衛生員とも称すべき者人力車に包帯其の他応急の手当てに必要なる品を携へて之に従い居れりといふ。浅草美以教会にては牧師館より衣類を奪掠し去るを見たりとか。(P900)
この記述はあくまでも伝聞によるものであり、信頼度は検証困難である。しかし、この記述にもとづけば、この襲撃が自然発生的なものでなく、中心には一定の組織をもったグループが一定の意図を持って教会堂をすすめていったと考えられる。それは、どのようなグループか。もう少し、「福音新報」の記事を引用しよう。
是より先き福音伝道館よりは日々盛んに迷信を打破し、不義不徳を攻撃しつつありしが、観音に関係ある者若しくはその附近に住する不正の業を営む徒大いに之を含み、已に福音伝道館に押し懸けて談判せることすらありしという。而して下谷メソヂスト教会の暴行当時の有様を親しく見たる者の言ふ処に拠れば、之を指揮せる者の中にはその附近の質屋の某、若しくは浅草観音に関係ある某(皆なその顔も姓名をも知り居れる由)等加わりたる由。是等を総合して考えふれば其の辺りの消息を解するには難からず。(中略)商売敵とも云ふべき浅間しきものさへ加わりたる向きもありしやに聞く。(p900)
と記し、とくに福音伝道館が浅草公園で「迷信」と「不徳不正」打破の伝道活動を行ったが、それが浅草観音の関係者や観音と関係の深い「不正の業」をおこなう人々の反感を買い、つねづねトラブルの種となっていたことが記されている。宗教が自らにとっての正義を主張するあまり、他の宗教・宗派とトラブルを起こすことは枚挙のいとまがない。さらに、さまざまなやりかたで人々を導く信仰や見世物などもあり、非合理的・呪術的なものも少なくない。浅草観音の門前であり、江戸以来の大繁華街であった浅草にはこうした関係者も多く、そうした伝統や信仰を「迷信」として否定するキリスト教徒の存在は、地域でのトラブルを引き起こしていたことは想像に難くない。
ここに記す「不正の業を行う人々」とは、永井のいう「博徒」などを指すと考えられる。藤野も「不正の業」は「おそらく露天商や博徒」と推測している。疑似親子関係によって、親分子分といった形で結びついたこうした集団が背景にいたということは、「数名の大将格」と「壮士体の者」といった記述を裏付ける。さらに「その附近の質屋の某」や「浅草観音に関係ある某」らとこうした集団との関係やある種の「商売敵とも云ふべき」の存在がこの襲撃の背景に見え隠れする。
永井の談話にこのような一節がある。
両国教会も少しやられた。それは近所の平素から教会を邪魔者に思って居ったものがやったのであつた。
明星教会は、牧師は井上哲夫氏であつたが、地主の鷲津氏が機会があつたら早く立ち退いてもらいたかったので、早く白旗を立て、近所の者が寄つて打ち壊した。(P906)
さらに「本所吉岡町に住する信者某は何故か平常隣人の怨みを買い居りしとかにて其の家屋悉く焼き払われたり」(P901)との記載もある。
このように、地域内で教会となんらかのトラブルをかかえる人々が、前日からの暴動を利用して教会襲撃を先導していった面もあると考えられる。人々のなかにある排外主義的な意識が自然発生的に表出したと一般化することは妥当ではない。
藤野は「教会の焼打の範囲は発生地の隣接区までにとどまり、警察の焼打と比べると局地的であった」「警察の焼打と同様に、教会の焼打もその進行とともに、牧師の説教を知らず利害対立も共有しない新たな参加者が増えたと思われるが、新たな参加者は自ら集団を率いて焼打を続けるほどには教会に対して不満・反感を見いだせなかったのだろう。そのため発生当初の参加者の行動範囲がそのまま焼打の拡大範囲となったと考えられる」。したがって当初からの参加者が行動をやめ、「途中から参加した者が集団を率いた場合、襲撃対象が教会から警察へと転化した」と指摘し、教会堂襲撃事件の背景に浅草区を中心とする地域的な利害対立があったことを記している。(P46~7)
「惨澹」な被害の教会と被害を免れた教会
とはいえ、民衆の排外主義的傾向がまったくなかったかというと、そうともいえない。「綴」-4-5の史料には被害を受けた教会の監理人とその国籍が記されている。そして、「福音新報」が「最も惨澹」な被害をうけ「全部灰燼と化し了れり」としている3教会、浅草美以教会・小梅同盟教会・横川町天主教会の3教会こそが監理人が外国籍(アメリカ・スイス・フランス)の教会である(上記表参照)。
偶然とも考えられるが、そうともいえないことをうかがわせる史料がある。取り囲まれながらも破壊されなかった教会が存在する。浅草日本教会である。さきの永井の話のつづきを聞くことにしよう。
この日、煉瓦造りのヨハネ教会も打ち壊され、下谷の教会もうちこわされてしまった。浅草教会は門を閉ぢて置いたが、版の八時頃には群衆が遠巻きにして騒ぎ出した。その内に五六人書生帽をかぶった者がやって来たから、私はさつと門を開けて『浅草教会はここですが、何か御用ですか』と言ふと、一旦さつと引き退つが、また進んで来て『この教会はロシアか、アメリカかイギリスか』と言ふ。そこで、私は『この教会はロシアのものでもアメリカのものでもイギリスのものでもない。全く独立した貧しい私共の建てて居る教会だ。(中略)』と言った話をすると、彼らは『そんなら、この教会は日本のものだ。日本のものなら、また僕らのものだ。僕らのものなら打ち壊すに及ばない』かう言つて帰らうとする。(中略)こんな風で私は一ト晩中演説のしとほしでした。(P905~6)
襲撃側も教会が日本籍か外国籍か、確認し、「貧しい日本人信者が金を集め建設した」と答えると「この教会は日本のものだ。打ち壊すに及ばない」として立ち去る。逆に見れば、外国籍の教会は日本人が建てたものでない、日本のものでないからひどく破壊されたとも考え得る。教会破壊の背景に、排外主義的感情が存在し、たとえ気にくわないキリスト教会でも「日本のもの」なら破壊するに及ばないとの「国民」意識が存在したことがわかる。
さらに、下谷日本教会の牧師館は群衆が押しかけたにもかかわらず、「出征兵士の家族なれば此所には手を付けざる様と」頼んだところ何等の損害もでなかったと「時代」は記す。
国民国家形成と排外主義
日露戦争は国民国家成立上の重大な画期となった。
自分や周囲のものが兵士として戦闘に参加すること、納税の主体として重税にくるしむこと、戦死した家族を悼むこと、戦場からの情報に一喜一憂すること、ロシアへの敵対感を共有し戦勝集会で喜び合うこと、こうした一つ一つの過程が「国民」としての自己を意識させた。こうして国家によって作られた「国民」は、自らは国家の構成員としての「国民」であるという自己意識を育てた。こうした「国民」は納得のいかない講和条約に怒る。「国民」としての自覚は、さらなる政治的主体としての権利拡大をめざそうとするなかで大正デモクラシーへと進んでいく。
他方、「国民」としての自覚は、他の国民・民族との間の差別化の中で、ときには排外主義的な性格をもちながら形成される。西洋・キリスト教国の圧倒的な圧力の前に、屈辱的な形での開国・近代化を余儀なくされた日本、非キリスト教国日本にとってロシアという巨大な敵との戦いはさまざまな性格を持っていた。かつて圧倒的な国力の差があった欧米諸国との間での、自らが歩んできた近代化の成果を示す、ある意味で劣等感との戦いであった。だからこそ人々はひとつひとつの「勝利」は「国民」を熱狂させた。有色人種と白色人種の戦いでもあり、非キリスト教国とキリスト教国の戦いでもあった。幕末の「屈辱」をはらし、劣等感から解放されていく面も持っていた。ところが、最大限の感動を実現できるはずの最終的な勝利は「苦い」ものでしかなかった。そこで発生したのが日比谷焼き打ち事件である。
「国民」としてのアイデンティティーを形成する上で、キリスト教はきわめて微妙な存在であった。日露戦争がキリスト教国と非キリスト教国の戦争である以上、キリスト教は敵側の文化とみなされることもあった。とくにロシア発祥で、東北地方の旧「賊」藩出身の士族を中心に広がりを見せていたハリストス派キリスト教はロシアのスパイ(「露探」)として指弾されることもあった。
キリスト教はなかなか追いつけないあこがれの存在である「欧米文明」の基礎をなす文化であるが、近代合理主義や個人主義の立場から、さらに一神教的な厳しさで伝統的な日本の伝統や風俗・習慣をときには「文明」の名で容赦なく攻撃し脅かす存在でもあった。したがって伝統的な文化に依存し、利益を得ている人々にとってはきわめて不快な存在であった。欧米化・文明化への意欲は「国民」形成のエネルギーではあったが、同時に天皇制・家族主義的原理のもとに「国民」の統合をめざす立場からすれば困った存在でもあった。
こうした微妙な感覚を焼打事件で見いだすことが出来る。襲撃の中心にいたのは、自分たちのよってたつ信仰や慣習、収益源などを「迷信」「不義不正」であると攻撃されてきた人々(露天商や博徒など)であった。さらに「暴力」を批判する説教は、講和条約に反対する「正義」の「国民」を侮辱し「国民」の思いに反するものと見なされた。さらに外国人が監理人をつとめる教会、ロシア人やあの「不当」なポースマス条約を仲介したアメリカから資金援助をうけ教会を維持しているは「国民」とはみなせない西洋人の手先であると考えられた可能性がある。新聞が報道する「露探」の記事はこうした疑いを増幅した。
浅草公園で、説教中の牧師が発し、「研究」も襲撃の原因と見なした「償金の支払を免れたるは畢竟露国が基督教を信ずるが故なり」との発言は、こうした予断を通して聞き取られたものではなかったのか。キリスト教徒は「国民」の一体化に冷水をかける存在であり、罰を受けねばならない。牧師は襲撃され、教会は焼き討ちされた
しかし、キリスト教徒の多くは日本人である。実際に個々のキリスト教徒の姿が見えると、そこに迷いが生じる。日本人が金を出して作っている教会は「国民の敵」なのか、出征兵士を送り出している牧師家族は「国民の敵」なのか。襲撃における浅草教会や入谷牧師館のエピソードは、こうした襲撃側のブレを示している。
キリスト教は日本がめざすべき欧米文明を象徴する文化ではあるが、かつて屈辱的な形で非文明国である日本に「文明化」を迫った欧米の象徴でもある。とくにヨーロッパにおけるキリスト教の大国ロシアとの戦争は国民形成にさまざまな「乱反射」を引き起こした。日比谷焼き打ち事件における教会堂襲撃事件は、こうしたなかで発生したと考えられる。
<参考文献>
①「明治38年時9月至12月暴徒に関する内報綴 大本営陸軍副官部」(JACAR Ref.C06041160500)
「臨秘第一号一、」を「「綴」1-1」のように表記する
②司法局刑事部(松本武裕)編「所謂日比谷焼打事件の研究」1974東洋文化社(初版1939)
③佐波亘編「植村正久と其の時代(5)1938年教文館
④米田勇「中田重治伝」1996大空社(初版・1959福音宣教会)
⑤藤野裕子「都市と暴動の民衆史」2015有志舎
⑥櫻井良樹「日露戦時における民衆運動の一端」(『日本歴史』436・1984/9)
注:新しい文献の存在(上記④)に気がつきましたので、「浅草での伝道」の部分を増補しました。