独裁者槙村前府知事、疏水建設を批判

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独裁者槙村府知事、疏水建設を批判
~「開発独裁」型地方政策の終焉と疏水計画~

前知事の疏水計画批判

当時のインクライン 当初の疏水計画のもっとも重要な目的は琵琶湖と京都市内を結ぶ水運にあった。

一八八三(明治十六)年、元老院議官となっていた前京都府知事槙村正直は西日本巡視のなかで京都府を訪れ、槙村の伝記をかいた明田鉄男が「少々見苦しい」と評する報告書「元老院議官槙村正直申報京都府下巡視ノ景況及琵琶湖疏水ニ係ル事情ノ件」以下「報告」を内閣に提出、後任の知事北垣国道の琵琶湖疏水建設に反対し、府政の方針変更を「見苦しく」批判する。
批判は、疏水計画の①琵琶湖・京都間の水運②水車利用③用水利用の三点に対して、整備が進む鉄道・道路との比較、加茂川の水運整備計画の欠如、水門や水車器械における技術面の課題、不確かな経費の算定基準などをあげて反対し、さらに水量の増加が淀・八幡地区の洪水を激化する危険性にも触れる。こうした点は聞くべきものも少なくない。そして、別紙で北垣府政が自由民権運動の風潮に毒されていると批判する。

槙村知事の京都復興策

槙村正直 明治初年から10年以上にわたり京都府政の実権を掌握、衰退しつつあった京都復興につとめた。しかしその独裁的手法は多くの反発を引き起こした。

槙村は長州の下級武士出身で、「横目」という情報収集の仕事に従事、職務を通して民情にも通じていた。一八六八(明治元)年京都府に出仕、大参事や権知事をへて一八七七(明治十)年京都府知事となる。長州閥で、木戸孝允との強いパイプを武器に奠都によって荒廃した京都の近代化を強引に促進した。会津出身の開明的思想家・山本覚馬を参謀役とし、産業振興策、欧米技術の導入、学校や病院の整備、社会政策、都市計画など広範な分野で改革をすすめた。それは先進的で福祉国家的色彩ももち、他の地方行政のモデルケースとなることも多かった。盲唖学校設立など現在に引き継がれるすぐれた業績も多い。しかしその手法は強引で、最初は司法省と、新たに設置された府会などと衝突、しだいに府民の支持を失なう。さらに産業振興策などは採算性などから批判も多く、市民に下賜された資金を流用するなど不満も強まっていた。
一八八一(明治十四)年、槙村にかわった北垣は「内地整理の根本は民心の帰向にあり」と主張、自由民権運動にも寛容で「地方分権」「住民自治」を重視した。槙村がはじめた産業振興策のほぼすべてが中止され、その経費は蓄積されてきた諸資金とともに疏水建設に投入された。

なぜ槙村知事は疏水計画を断念したのか

かつて黒谷にあった槙村の頌功碑には「疏湖水於東山亦在心算中」との一節があった。槙村は疏水開削を計画していた。「先年府庁二於テ実地ノ利害研究シ、度々功者ノ外国人二迄見分セシメ」と「報告」にあるように槙村は実際に疏水開削のための調査を命じており、調査結果は北垣府政に継承されたという。だからこそ槙村の「報告」は詳細なのである。にもかかわらず、槙村は「報告」で開削に反対する。
『京都の歴史』(京都市編)は「多方面に近代技術の啓蒙・育成をはかった諸施設の運営に出資していた」ことで「工事費の目途がたたなかった」、したがって「諸施設の運営」方針の変更が「疏水実現の端緒」となったと記す。(P152)
明田も「予断を許さな」いさまざまな諸事業を「安定軌道にのせること」を優先し、「自分の意志で、疏水をすべて後回し」とし、「その心に『疏水』を残しつつ東京に向かった」(P173)と記す。
槙村は経済合理性などを重視した。「報告」のなかの「琵琶湖加茂川ノ疏水、右ノ如クナレハ、深ク其利害得失ヲ商量思考セサル可カラス」という一節は、調査結果を聞いた槙村が自分に言い聞かせた思いのようにも思われる。

「開発独裁」型地方政策の終焉

北垣国道 但馬の農家に生まれ、草莽の士として生野挙兵などにも参加した。維新後は高知県令など地方官を歴任、1881年、槙村の後を受け京都府知事となる。琵琶湖疏水を完成させるなど府政にすぐれた実績を残した。

槇村が北垣に知事の席を譲った年、中央では黒田清隆の開拓使官有物払い下げ事件をきっかけに政変が発生、積極財政で殖産興業政策をリードした大隈重信が、財政引き締めをめざす松方正義に席を譲る。松方は、大久保らがすすめた「上から」の産業振興策を打ち切り、事業の多くを民間に払い下げた。官主導の「文明開化」「殖産興業」政策は、その庇護のもと成長した「民」に席を譲る形となる
北垣による産業振興策や社会事業の打ち切りはこうした流れの中で実施された。「民」との協調なしに地方行政はすすまない時代ともなっていた。北垣は疏水計画に際して、資金の使用もふくめ、府会や連合区会などに諮り、支持をえて事業をすすめる。事実上の増税も認められる。北垣の府政はこうしたあらたな時代に対応したものであった。

山本覚馬 会津藩出身の思想家のち同志社の臨時総長も務める。槙村の計画の多くを立案したが、のち府会議長として対立した。大河ドラマ「八重の桜」の新島八重の兄

槙村は「報告」でこうした北垣の手法を、
旧令廃止旧規変換シテ、新令屢出、自由民権ノ説之ニ乗シテ進入シ、官吏ハ旧令ヲ破毀スルコトヲ是レ務メ、人民ハ旧弊ヲ提出スルコトヲ是レ競ヒ、干渉ノ煩ヲ脱シテ放縦ノ自由ヲ唱ル声一時囂々タリ。
と記し、自由民権の影響を「進入させた」ものと批判する。槙村の手法は「開明的」な政策に府民を従わせる「啓蒙絶対君主」的「開発独裁」的手法であり、市民参加の視点は薄い。そうした手法は、山本覚馬ら槙村を支えた人々をも離反させ、槙村の思いは府民とかけ離れていく。
これにたいし、北垣は府会などとの連携を密にしながら琵琶湖疏水開削という大事業をすすめる。その姿勢は、部分的ながらも、ブルジョワジーや地主の力を政治に反映させようとする立憲政治への流れと適合的なものであった。
中央も・地方も新しい時代に移りつつあった。明治0年代には効果を発揮した「開発独裁」の手法は、近代化が軌道にのるなかで時代遅れとなりつつあった。こうして、かつての「啓蒙絶対君主」槙村の「報告」は、伝記作家の眉をひそめさせることになる。

初代京都市長内貴甚三郎の府政論

夷川発電所 琵琶湖疏水は水力発電にも利用され、日本初の市電も実現させた。

最後に初代京都市長内貴甚三郎の槙村への評価を引用しておく。

彼ノ槙村氏ノ事業ハ必ズシモ失敗ニオワラザリキ。北垣氏ノ事業勿論然リ。要スルニ京都ノ今日在ル所以ノモノハ両氏ノ事業相須ツテ其効果ヲ奏シタルモノ少シトセズ。槙村氏ハ重ニ人ヲ作ルノ目的ヲ立テ、即チ仏国ニ留学生ヲ派遣シタルガ如キ、専ラ勧業上ノ必要ナル知能ヲ修得セシメ、傍ラ自ラ勧業策ニ手ヲ下シ、以テ産業振興ノ基ヲ作ルノ方針ヲトレリ。故ニ金額ニ於イテ幾拾万円ノ損失ヲ招キタルモ、一方ニハ是ヨリ新知識ヲ注入シタルモノ少シトセズ。又タ北垣氏ハ民業ノ発達ヲ計ルニ留意シ、其結果、続々本市ニ会社組織ノ続出スルニ至レリ。乃チ槙村氏ノ計画ハ北垣氏ニテ成功セラレ、北垣氏ノ事業ハ槙村氏ノ扶植セシ多クノ原素ニ関連シテ、其好果ヲ収ムルニ至リタルナリ。(『京都の歴史8』P43)

 この文章を引用した『京都の歴史8』は「槙村時代の京都復興施策については最も正鵠を得た評価であり、また槙村時代の要を的確に表現した」と評価している。「負け犬の遠吠え」のような北垣府政批判を行い、あらたな時代への「目」をもてなかったことは、槙村にとって残念であったと言わざるを得ない。

<参考文献>

京都市「京都の歴史8」1975学芸書林
明田鉄男「維新京都を救った豪腕知事」2004小学館
京都市水道局「琵琶湖疏水の一〇〇年」2003

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