陸海軍記念日を「国家的記念日」に

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陸海軍記念日を「国家的記念日」に

 

陸海軍記念日における天皇行幸

昭和3(1928)年5月29日、陸軍省は、陸軍記念日に天皇が偕行社(帝国陸軍の現役・OB将校准士官の親睦・互助・学術研究組織)を訪問する内意があるとの「通牒」を伝達した。陸軍省-大日記乙輯-S3-5-29・防衛省防衛研究所所蔵)。実際に、翌年3月10日、天皇は靖国神社で陸軍記念日の宴会に臨み、さらに偕行社を訪問、陸軍大将柴五郎の日露戦争での回顧談を聞き、刀の試し切りなども見学した。(「昭和天皇実録5巻」(以下「実録」)P314)
この「通牒」提出の2日前、5月27日の海軍記念日、天皇は水交社(海軍における「偕行社」にあたる組織)を訪問、「実録」は「天皇の海軍記念日に際しての水交社行幸は今回を嚆矢とする。(P97)と記している。宮内省は両軍のバランスをとるため、あらかじめ陸軍にも「行幸の内意」を示していた。
一年前、即位した裕仁天皇は、軍隊部隊などへの訪問を活発化させており、そうした一環として陸海軍記念日の偕行社・水交社への訪問を行うこととしたと思われる。
こうした内意は瀬川章友侍従武官から陸軍省にも伝えられ、5月25日、陸軍省高級副官松浦淳六郎はこうした「天皇の内意」を通知したい旨、侍従武官あてに問い合わせをおこない、その許可を得て、この「通牒」がだされた。

陸海軍記念日を「国家行事」に

昭和8年の陸軍記念日のポスター 陸軍記念日は日露戦争の奉天会戦の記念日である。

陸軍記念日は日露戦争の奉天会戦海軍記念日は同じく日本海海戦、それぞれの日をあて、1906年、陸軍省・海軍省によって定められた。原田敬一によると、その内容は偕行社や水交社に現役・OBの将校がおもに上流階級の人々も交えて祝賀会をもつといった内輪の内容にとどまり、「独リ陸海軍ノ記念日二止」まる状況がつづいていた。(原田P299)
 新たな動きが生まれたのは大正15(1926)年12月のことである。在郷軍人会の評議会が、陸軍・海軍大臣宛に「陸軍記念日及海軍記念日ノ名称ヲ改メ国家ノ記念日トナシ国民挙ツテ祝意ヲ表スル如クソノ実現ヲ望ム」との建議書を提出したのである。これまでは「陸(海)軍一般祝意を表す」としていた陸(海)軍の記念日を国家的な祝日としてほしいというのである。しかし、陸軍省の保管文書には「趣旨は可とするも経費上困難」との陸軍省の付箋が付けられており、このときは陸軍省(海軍省は不明)によって却下されたことがわかる。(陸軍省-大日記甲輯-S1-6-11・防衛省防衛研究所所蔵)。この時点において、軍の行事であった「陸(海)軍記念日」を国家的なものとしようとする流れが存在したことを確認できる。そして、陸軍省からの要望というかたちを避けるため、在郷軍人会という軍OBの名を借りて現れたものと考えることができる。
陸軍は、陸海軍記念日への「行幸」を機に、一挙に陸海軍記念日の国家行事化をはかった。5月25日の問い合わせにおいて松浦は「(※天皇の偕行社などへの行幸)ハ該記念日カ単二陸海軍ノミニ限ラス国家的記念日ナル意味ニ於イテ御内定アラセラレタルヤニ漏レ承ル」との一節を付した。単なる記念日の祝賀会への参加だけでなく「陸海軍記念日を国家的記念日に」という意味であると確認しようとしる。

田中義一と「漏れ承る」という手法

原田は、この趣旨も含めて「天皇の内意」であるとの見解に立っている。しかし、この時期、天皇や天皇側近が主体的にこうした記念日を国家的記念日とする方向に動いたとは考えにくい。なんらかの形で陸軍省(あるいは海軍省も)の意向が反映していると考える方が自然ではないか。「天皇「行幸」に行幸していただけるのだから、きっと陸海軍記念日を国家的記念日と認めていただけたのだ」と「忖度」し、「漏レ承ル」という形で問い合わせ、天皇が国家記念日にゴーサインをだしたとして国家記念日化を実現しようとしたと考えた方がありうるシナリオと考える。
しかし宮内省はこの一節を「通牒」に記すことを認めず、陸軍記念日の「国家行事」化は却下された。偕行社への行幸という「形式」は実現したが、国家記念日としての位置づけは挫折する
茶谷誠一は、当時の田中首相が天皇や元老の意思を公表することによって内閣の政治の正統性を保証するという手法を採ることを天皇や宮中勢力が嫌っていたことを、ちょうどこの時期の侍従次長のことばをもとに記している。陸軍による「漏れ承る」といった形式をとっての陸軍記念日の「国家行事」化はこういった田中の手法を連想させた可能性がある。
「実録」や牧野の日記などをみても、当時の宮中でこの問題が議論された形跡はない。裕仁天皇や側近の田中不信を背景として窓口で却下されたということかもしれない。

「総力戦体制」構築と陸海軍記念日

1944(昭和14)年の海軍記念日における海軍兵士の行進。ちなみに表紙の写真は同年の陸軍記念日のもの

第一次世界大戦以後、戦争は総力戦の形式をとる。戦争遂行には国家・国民の協力が不可欠とされ、国民の組織化もすすめられる。宇垣軍縮のなかですすんだ学校での軍事教練や、在郷軍人会の整備などもこうした一環である。大正デモクラシーの潮流の一方で、軍は着々と総力戦体制の準備を進めていた。陸軍出身の田中義一内閣の成立は、こうした画期となる。陸海軍記念日への天皇「行幸」は軍隊行事を国家行事とし「国民生活の軍隊化」を目指す性格を持っていた。
昭和3(1928)年5月は、中国では第三次山東出兵がすすみ、国内では久原房之助入閣をめぐる閣内混乱で田中首相が進退伺いをだし牧野内大臣らは対策に追われている。(「牧野伸顕日記」)さらに6月4日には張作霖爆殺事件が発生する。

陸海軍記念日の国家行事化の結末

陸海軍記念日をめぐるエピソードは、陸軍を中心にすすむ「国家・国民生活の軍隊化」のなかでの出来事であり、これをすすめようとする陸軍側と、行幸は認めつつ国家行事化には消極的な天皇・宮中勢力との間のできごとであった。

陸軍記念日のポスター 1943(昭和18年)

これから3年後には満州事変が、10年後には日中戦争が始まる。国家も国民も総力戦体制(戦時体制)のなかに組み込まれる。陸海軍記念日はとくに重要な日となり、軍の作戦行動もこの記念日を意識して立案される。原田は、陸軍記念日、更に海軍記念日が国民をすくい取っていく様子を丁寧に記す。そして「太平洋戦争開始以後は、勝利した『戦争記念日』として3月10日と5月27日が、また勝利しつつある『戦争記念日』として12月8日が、人々の意思を統合する『国家的記念日』としての位置を占めた」とまとめている(P307)。
 だからこそ、日本の戦意を挫くべくアメリカもこの日を重視した。東京大空襲は1945(昭和20)年3月10日陸軍記念日のことである。これが陸海軍記念日の国家行事化の結末である。

<参考文献>

「陸軍省-大日記乙輯-S3-5-29」テキスト版はここをクリック)
「陸軍省-大日記甲輯-S1-6-11」防衛省防衛研究所所蔵

『昭和天皇実録第5巻』
『牧野伸顕日記』(中央公論社1990)
『宇垣一成日記』(みすず書房1968)
『西園寺公望伝』(岩波書店1990~97)

原田敬一「慰霊と追悼」
(『岩波講座アジア・太平洋戦争2戦争の政治学』岩波書店2005)
茶谷誠一『昭和戦前期の宮中勢力と政治』(吉川弘文館2009)

この文章は「日本近代史史料講読」で書いたレポートを元にしたものです。

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