フィリピン・ビコール地方の戦争

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フィリピンの戦跡をめぐりかんがえたこと(1)
ルソン島南部・ビコールの戦争

なぜフィリピン・レイテなのか

二月にフィリピンの戦跡巡りに行ってきました。
わたしの教師時代の同僚、友人I氏は定年退職と共に、奥さんと子どもさんの住むフィリピン・ルソン島南部ビコール地方に移り住みました。しかし、昨年末日本に帰ってきたとき、「なかなか日本語を話すできなくてつらい。ぜひ、遊びに来てほしい。二月頃は気候もよいので最適だ」といわれ、二月は授業もない時期なので行く気になりました。

リガオの街角

行くことを決意したのはいいのですが、貧乏性なのでしょう。せっかくなら、何か別の目的も加えたいと考えました。
そうしたなか思い出したのが母方の伯父のことでした。母の二人の兄のうち、上の兄はソロモン諸島のブーゲンビル島で、下の兄はレイテ島で戦死しています。祖父も、その関係から長く地域の遺族会の役をしていました。
私は母に連れられて、よく伯父の法要にいきました。軍服を着た伯父たちの写真、その話、いつのまにか私も戦争を間近に感じるようになりました。常に続いていたベトナム戦争も影響を与えたのでしょう。二人の伯父に代表される「戦争における死」、それをどう考えるのか、私を歴史にむかわせたきっかけでもありました。

レイテ島・カンギポット山 この山の周囲に残された日本軍が集結、壊滅していった。

レイテ島は、私が生まれ育った京都の部隊(16師団、歩兵第9連隊など)が中心となって戦い、壊滅した場所です。墓地にある軍人墓を見ると、戦没地の多くがフィリピン(「比島」)「レイテ」との記載が多く、さらに「ドラグ」「ブラウエン」「カンギポット」「タクロバン」といったレイテの地名も散見できます。祖父が慰霊の旅に参加したという話を聞いたこともありました。歴史を学ぶという以上、是非、自分の目で見て、足で確かめたいと思っていました。そのことを思い出したのです。

フィリピンの旅の始まり

最初は、友人の家にいき、そのあと一人で、あるいは友人とレイテをまわろうと考え、旅行社のHPなどもチェックしていました。そうしたことを友人に伝えたところ、やはり日本史を教えたいた友人です。彼も乗り気になり、いつのまにか「自分の家から車でいこう。フェリーも使い、間にあるサマール島を経由し、レイテに向かおう。妻を通訳代わりにして、ドライバーも雇って、日程を考えると2人体制で…」と、話がどんどんすすんでいきました。私としては、あれよあれよという間に話が進むのを呆然としてみている感じでした。「必要経費は僕が払うから」というのがやっとでした。本音で言うとすこしびびっていました。
もともとすぐれた日本史の教師・研究者であった友人は、私の申し出をきっかけにフィリピンにおける日本軍の行動について研究をはじめたみたいでした。図書館に行って、現地の歴史の本を調べ、日本語に訳したり、話を聞いたりしたみたいです。

関空に到着したセブ=パシフィック航空機

そうこうするうちに、出発日となりました。ちなみに、飛行機代は非常に安いです。私が使ったのはセブ=パシフィック航空というLCCで、関空~マニラ、マニラ~レガスピ、タクロバン(レイテ島)~マニラ、マニラ~関空というコースで約45000円(手荷物二十キロ、座席指定、食事なしを選択)でした。ときどき実施されるバーゲンを使えばもっと安くなります。とりあえず、飛行機にはあまり問題はありません。困ったことといえば、マニラ空港の国内線の待合の混雑ぶりと、いつまでたってもゲートに出発便の掲示が出ないことぐらいです。

リガオの町に到着

リガオの市場にて

レガスピの空港に着くと、友人が迎えに来てくれ、その家にお邪魔になりました。彼の家は、レガスピから約一時間くらい離れたリガオという町にあります。この地方は、富士山そっくりの(形だけではこちらの方が美しいかもしれません)マヨン山という活火山があります。戦前の切手にも描かれた美しい山です。リガオもマヨン山がよくみえる場所にあります。庭と二階建ての離れ(その二階を使わせてもらいました)のある一軒家です。マヨン山を眺めながらビールを飲みたいということで、新しい建物の建設もすすめています。本当にいろいろと世話になりました。

1814年のマヨン山の大噴火の結果、溶岩で半分が埋まり、教会に逃れていた多くの人が命を失ったカグサワ教会跡。

その日の午後は彼の住むリガオの町を、翌日は地方の中心レガスピと近隣の町を案内してもらいました。リガオの町の市場やマヨン山の大噴火による溶岩で大量の人がなくなった埋もれた教会堂など興味ある場所も多いのですが、それは写真程度にして戦争にかかわる遺産を中心に記したいと思います。

ビコールに日本軍がやって来た

マヨン山を描いた戦時期、比島郵便の切手

ルソン島南部のビコール地方に日本軍がやって来たのは開戦直後の1941年12月12日のことです。レガスピに第十六師団(「垣」兵団・京都)の別働隊(33(津)連隊木村支隊2500人)が上陸、その後、北に向かって侵攻していきました。この地にある飛行場の確保も大きな役割でした。
バタン半島およびコレヒドール要塞が陥落し、日本軍のフィリピン支配が本格化しても、この地ではゲリラ戦がつづきました。戦後防衛庁がまとめた『戦史叢書002巻』では、コレヒドール陥落後、16師団が「南部ルソンの戡定(※かんてい・「勝利して乱を鎮める、平定する」との意味)」という任務を続行したという記事をみることもできます。また「レガスピー付近、イサログ山(レガスピー北西約70粁)付近、ダエト付近の各地区に少なくとも数百人の敗残兵、不穏分子があって匪賊化し、治安を乱している」(P542)と記され、日本軍とゲリラとの間の戦闘がくりひろげられたことがわかります。

「リガオの息子たち」のモニュメント

さらに昭和17年8月以降になると「各所で匪賊が続々活動を開始」し、九月末には「治安確立を目途とした治安戦を開始」しますが、「軍司令官も自ら討伐状況の視察に席の暖まる暇もない有様であった」と記されます。
ついには第九連隊の聯隊長もゲリラとの戦いで戦死します。「昭和17年11月上旬、歩兵第九聯隊長武智慚大佐は、ビコール地方の治安作戦の際ナガにおいて匪賊襲撃の犠牲になった」とのことです。(※京都新聞社『防人の詩・レイテ編』P11~15に詳細な記述があります)という事件も発生するなど、この地方はゲリラ戦が激しく展開された場所でした。
こうした激しいゲリラ戦のあとは、今回の旅行でもぼんやりと姿を見せます。

「リガオの息子たち」と「首のない男」

「リガオの息子たち」のモニュメントより

リガオの町の中心に、「The Fallen Son’s of Ligao」(「THE SONS OF LIGEO WHO FIGHT AND DIED FOR FREEDOM」)という像があります。「自由のために戦い、命を失ったレガオの子どもたち」(「リガオの息子たち」と記す)とでも訳せばいいのでしょうか。岩の上らしき場所に、黄色い服、傘をかぶった人物が、銃らしきものをかかえて体をよじって立ち、足下には同じような服を着た人物がうつぶせで倒れています。台座には約百名の名前(一部はCAPT. CPL. といった軍隊の階級も)も刻まれています。

その段階で、友人が聞いていたのはアメリカとの戦いで戦死したリガオ市民を記念した碑だということでした。しかし、「どうもおかしい」「きっと日本との戦いではないか」と話しあっていましたが、あとで友人からメールが来てやはり日本軍とたたかったフィピン人ゲリラの碑だったとのことでした。

レガスピ中心部にある「首のない男」の像

またレガスピの市中心部には不思議な像がたっています。碑文が失われた2メートル弱の台座の上にひざまづかされ、後ろ手に縛られた首のない男の像です。地図にはHeadless Monumentと記されています。
友人の調べによると、これをつくったのはレガスピ大学(現UST-LEGZPI校)の創設者のDon Buenaventura de Erquiagaという人物で、戦時中の日本軍の所行を示そう建てられたものだそうです。レガスピ港の近くにあったものより目立ちやすい場所に、ということで移されたとのことです。

「治安戦」ということと友人の聞き書き

「首のない男の像」より

日本軍が「治安戦」と記すのは対ゲリラ戦争のことです。中国では、日本軍の行った最悪の所行の多くが「治安戦」にかかわって発生しています。三光(「焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くす」)作戦、「無人区」建設、こうしたものが「治安戦」の名でおこなわれます。民間人・女性への暴行・乳幼児殺害・毒ガスなどさまざまな「所行」がこの過程で発生しました。フィリピンの「治安戦」でも似たことが起こった可能性が高いと思われました。
友人は調査を続け、以下のようなメールを送ってきました。

昨日、隣町のギノバタンで、祖父がゲリラとして、スペイン・アメリカ・日本と闘ったという人に話を伺いました。
如何せん、英語が苦手ですので、聴きたいことの1割も聞けませんでした。
その中でショックを受けたのは、産後間もない叔母さんが、日本軍につかまり、国旗掲揚柱に縛られて殺され、乳児も、上に放り投げられ、銃剣で刺殺されたという話でした。
中国戦線で同じような話を本で見た覚えがありますが、同様なことがフィリピンでも行われていたのです。
いつの出来事か、わからないので、京都師団がやったのかどうかははっきりしません。

「やはり」という思いです。日本軍の「所行」が中国でのゲリラをいっそう活発化させたのと同様、フィリピンでもゲリラ活動のいっそうの活発化をもたらしました。そのことは日本軍のさらなる残虐行為につながったのでしょう。「首なし男(Headless Monument)」の像はそうした日本兵の「所行」を伝えようとしたものです。

ビコールにおける日本軍の壊滅

レガスピの町並み 中央にモニュメントがある

先も見たようにこの地に日本軍は拠点を置きました。この地にいた第16師団の諸部隊が「レイテ決戦」に向けて移動した後、この地方はナガに拠点を置く105師団(勤兵団・津田兵団)が担当します。
1945年1月9日米軍がリンガエン湾に上陸、「ルソン決戦」がはじまると、この師団はルソン島北部への移動、この地方にはレガスピの海軍部隊2000人と、少し北のナガの陸軍部隊400人が残されます。ゲリラの活動もいっそう活発化します。
レガスピーに米軍が上陸したのは、沖縄本島に米軍が上陸したのと同じ1945年4月1日です。3月23日から米軍は本格爆撃を開始し「一木一草もとどめないほど爆撃した上」で、艦砲射撃の援護下に下に上陸作戦を開始します。レガスピの部隊のうち陸軍の200名がダラガ陣地に、海軍部隊がカマリグ地区に複郭的な陣地を構築し、抵抗します。ダラガの陸軍部隊は8日間戦い、生き残った兵たちはカマリグの海軍部隊に合流、カマリグの陣地に対しての攻撃は12日から始まります。17日以降は「馬乗り攻撃」をうけるようになります。そして27日日本軍は全兵力で斬り込み攻撃を行いました。アメリカの戦記は29日に「全抵抗を粉砕した」と記しています。
その後、米軍はナガに向かいます。日本軍はイサロク山の陣地に立てこもりますが、米軍は彼らを放置しました。この地の日本軍が降伏したのは11月初旬のことです。故障していた無線機が直って、始めて日本軍の敗北を知ったからでした。(この項は戦史叢書60巻P594~597をもとに記述した)

「馬乗り攻撃」をうけた地下壕

この戦闘の名残を見ることが出来ました。この地域には二つの日本軍の壕の跡があります。ひとつはカマリグ郊外、いまひとつはレガスピです。

カマリグの地下壕①

カマリグにある地下壕はフィリピンの国道一号線(アジアハイウェー26号線)に「Japanese Tunnel」との看板があり、それにそって坂を上るとマヨン山が一望できる草原・キャンプ場が広がります。いっしょにいった女性たちは一挙にハイテンションになり、写真を撮りまくります。(表題の写真もここでとったものです)
観光案内所でガイドを頼むと、キャンプ場の反対側の暗い森の中に私たちを案内、川に沿って少し進むと暗い穴が口を開いています。その道のまわりも不自然な穴がいくつかあったので「砲弾の跡かもしれない、赤外線カメラで見れば、そうした姿も捉えられるかもしれない」などと話しながら進みました。

カマリグの地下壕②

地下壕の入り口付近は、ある程度の高さがあるのですが、少し奥に入ると匍匐前進してやっとすすめるくらいの穴となり、それが多方向に広がり、また広い場所があるという形です。本来は、こうした穴が縦横につながっていたと思います。
このような穴に潜んで、先ほどみたような戦いが17日間にわたって続けたのです。そこに「馬乗り攻撃」で爆薬やガソリンが投げ込まれました。毒ガスなどの化学物質なども投げこまれた可能性があります。ガイドさんは危険だから壁には触らないようにといっていたのですが、そんなことは不可能です。
もし行かれる場合は、汚れてもかまわない服装でいくこと。懐中電灯は必携、出来ればヘルメットも持参すべきでしょう。私も何度か頭をぶつけました。
友人によると、以前は入り口から数メートルしか入れなかったのが、今回はかなり奥まで入れるようになったとのことです。発掘が進み、下なり奥まで入ることが出来ました。いろいろなものが出てきたみたいですが、どこに保管されているか聞きましたが、分かりませんでした。

”JAP _ANESE TUNNEL”

 

レガスピ、リニョンヒルからレガスピ空港とレガスピ湾を望む。

もう一つの地下壕はレガスピの観光名所リニョン=ヒルにあります。頂上のドライブインからは一方にはマヨン山の全景を真っ正面に見ることが出来、反対側にはかつてのレガスピ飛行場であるレガスピ空港とレガスピ湾を見下ろせるという景勝の地です。この丘への入場は有料であり、麓で料金を取られます。その料金所からすぐの場所に「Jap  anese Tunnel」という看板(この看板JAPとANESEの間に改行があり、ひょっとしたら意図的?と邪推しました)があり、数メートルほど段を上ったところに地下壕があります。

レガスピ地下壕跡

入ろうとしていたら、「ヨボヨボ」という形容詞がぴったりのおばあさんが登場し、ガイドをしてくれました。
壕の入り口には日本兵の姿をした人形があり、少し奥に入ると英文タイプライターと飯ごうや武器らしき遺品があり、やはり日本兵の人形がありました。飛行場との位置関係や丘の重要性から司令部にかかわる壕ではないかと推測しました。
この丘のいろいろなところにもこうした壕があると思われます。外に出てるとコンクリート製でほぼ実寸大のゼロ戦の像が造りかけられており、観光名所として、人を集めようとしているとも思われました。

朝方はよい天気で、マヨン山もきれいに見えていたのですが、昼頃から天気は雨模様となり、残念ながらマヨン山はみえなくなりました。

さて3日目からはサマール島、そしてレイテへと向かいます。

<つづく>

<目次とリンク>

1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:
「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:
上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:
米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:
慰霊碑巡り
6:
ドライバーの問い

◎私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版

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