フィリピン・レイテで考えたこと②ドラグをめぐる話

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フィリピンの戦跡をめぐりかんがえたこと④

米軍上陸と、気さくでハンサムな中尉
~ドラクで考えた話~

水平線上に「真っ黒な棒」が出現!

1944(昭和19)年10月19日朝、レイテ島の観測班は水平線上に不思議なものを見ました。

彼は、レイテ湾の水平線が、なぜか、太い真っ黒な棒のようなものでさえぎられているのに気づいたのだった。それは、ちょうど、たっぷりと墨を含ませた太筆を横一文字に走らせたような真っ黒な線がレイテ湾の沖合・・・はるか、水平線のあたりに描かれていたのだった。(中略)
それは、まぎれもなく無数の大小艦艇群がレイテ湾を埋め尽くしている光景であった。(中略)
これほどの大艦隊は、彼自身も初めて目にする情景であった。同時に、艦と艦との間に隙間があれば沖合の艦船数をかぞえることもできたが、それらが一本の太い黒線となるまで密集した艦船列をみせるにおよんで、彼は、隻数の算定も出来ない・・・」(後略)
京都新聞社『防人の詩レイテ編』P107~108)

※今回も、同書および大岡昇平『レイテ戦記』を主たる参考文献として記述します。

水平線上の「太い真っ黒な棒」、それが上陸作戦に参加する700隻をこえるアメリカ軍の艦船の姿でした。(直接参加したのが420隻、護衛するのが300隻の大艦隊)あまりにも多くの艦艇が海を埋め尽くしていたのでこのように見えたのです。
いくら日本軍でも、これだけの船、すぐわかりそうですが、直前に台風がレイテを襲ったため、その動きををつかむことが出来ず、さらに数日前に日本航空機が台湾沖でアメリカ海軍に大打撃を与えたという「世紀の大誤報」(!)が日本側の判断を大きく誤らせました。(すぐ誤報と分かったのに身内の恥を隠そうという「日本人の美意識」(!)のため情報は共有されませんでした)
そうしたなか、レイテ東方の小島から命がけの打電がありました。米艦隊の近接と米軍上陸を知らすものです。とはいえ、偵察機からの情報も台風で不十分、司令部は扱いに困っていました。
そして10月19日の朝を迎えました。戦艦や巡洋艦などからの艦砲射撃もはじまります。接近した小型の艦艇に砲撃を加え「撃退」したのが前日私たちが見たトーチカです。しかし砲の存在を米軍に知らせることでした。

艦砲射撃の地獄の中で

1944(昭和19)年10月19日午前6時戦艦から、8時には湾内に侵入した巡洋艦や駆逐艦から、猛烈な艦砲射撃がはじまります。対象は、昨日見たトーチカがあった北サンホセからドラクまでの30キロ、水際から内陸に2キロ、そこに海戦用以外のあらゆる種類の砲弾が打ち込まれました。兵士以外にも、そこにあるさまざまなもの、人間を、陣地を、森を、田畑を、破壊し、燃やします。さらに空母から飛び立った艦載機が日本軍がこもると思われる場所を中心に重爆撃を加え、機銃掃射を行います。

HILL120上に残されたコンクリートで固められた跡

師団参謀から、「『物量』に頼る絨毯(じゅうたん)爆撃でも、全員がやられるわけではないから安心しろ」という不思議な、変に真実味のある説諭がされたと『レイテ戦記』には記されています。
たしかに4時間にわたる猛烈な艦砲射撃で「全員がやられたわけではありませんでした」。でもほとんどが、立ち直れないほどのダメージを受けていましたが・・・。
しかし立場を変えると、米軍兵士は「この程度の砲撃で上陸させられた」「それが苦戦の原因だった」と大岡さんは指摘します。

海岸では地獄図絵が展開されていました。大岡さんの話を聞きましょう。

歩兵第九聯隊第二大隊有志建立の地蔵尊(HILL120)

彼等はヤシの丸太の粘土で固めた砲台が、土台ごと吹き飛ぶのを見た。ヤシの並木が根元から燃え、梢から仕掛け花火のように焔を吹き上げるのを見た。隣にいた戦友が全然いなくなり、気がつくと彼自身も大腿の肉がそがれていたりした。ある者は胸に手を当てて眠るような格好で横たわっていた。頬をくだかれ、眼球が枕元に転がっている死体もあった。首がない者もいた。手のない者、腸が溢れて出ている者、想像を絶したこわれ方、ねじれ方をした人間の肉体がそこにあった。
空中には掘り返された土の匂い、火薬の匂いがまじって、異様にツンとする匂いが漂っていた。いつもの大言壮語に似ず目を吊り上げて、ふるえている下士官がいた。両手をだらりと下げて、壕の外へ歩き出す見習士官がいた。土に顔を埋めて泣きじゃくっている補充兵がいた。最もよく訓練された下士官でも、自分の身体がこのまま空中に飛び上がり、ずっと後ろの林の中へ、ふわりと着陸する奇跡は起こらないものかな、ということを考えた。(『レイテ戦記・上』P79)
数多くの人々の手記をもとに、大岡さんはこの「地獄」をこう描写しました。この日、こうした「地獄」が三十キロにわたって展開されていたのです。

「なすすべなく」上陸を許す

米軍上陸関係地図(『防人の詩・レイテ編』P130)

9時45分300隻の上陸用舟艇が出発、そして約十五分後、パロ海岸から北サンホセ間に2個師団、中部のドラク付近に2個師団の合計4個師団約7万5千人がレイテ島に上陸します。この段階、レイテ島で対峙したのは16師団(しかも1個大隊はサマール島)のほぼ1個師団のみでした。台風と艦砲射撃によって防護施設の多くが破壊された状態で、アメリカなど連合軍の上陸を迎えたのです。

いきのびた兵士は、目の前に鉄材でつくられた2階建ての家屋のようなものが出現したことに驚きます。それが動きだしたのです。M4型戦車でした。次に出現したブルドーザーは四カ月かけてつくった深さ7メートルの戦車壕をわずか12~3分で埋めてしまいます。そして対戦車壕に潜む日本兵は火炎放射器の攻撃を受け、焼かれてました。
こうして日本軍は「なすすべなく」米軍の上陸を許します。
レイテ島の上陸は他の戦線と比べ、よほど楽だった」とマッカーサーは回想しているそうです。

水際作戦の不利は日本軍でもすでに指摘されていました。サイパン島などの経験から学んではいました。しかし「海岸近くにつくった2つ飛行場を守る」という目的が、水際陣地も置くという中途半端な作戦をとらせ、16師団の壊滅を早めました。

なお上陸した米軍の中で最も苦しんだのが、前回にみたパロ付近十字架山を中心とした戦いでした。

「砕け散った」のは日本兵だけでない!

さて、タクロバンを出発した私たちはパロの三叉路を南にとり、海岸に沿って南に延びる国道をドラグへ向かいました。この道沿いも台風ヨランダの高潮で大きな被害をうけた場所です。
同時に、かつて多くの日本兵が砲弾に砕け散った場所でもあります。
第9聯隊がたてこもったカトモン山はどれかなどと話したりしながら、海岸線を南下していきました。
砲弾で砕け散ったのは日本兵だけでもありません。レイテは人口の多い島です。フィリピン人はどうなったのだろう。戦闘はだれもいないグランドや山林で行われるのでなく、人々が生活している町や村で、丹精込めた田畑で、逃げ込んだ山林で、あらゆるところで起こるのです。古今とも戦争を描いた書物はこうした当然のことを見ないことが多すぎました。

「レイテイ島戦没者慰霊碑」

国道沿いにあるHILL120のモニュメント 米兵の像が配置されている

最初の慰霊碑は比較的わかりやすいところにありました。ドラグの町の少し手前、国道沿いの丘の斜面に2~3名のアメリカ兵の人形を配した碑が建てられ、一帯がアメリカ軍の記念公園のようになっていました。
フィリピン在住の日本人が発刊する「マニラ新聞」(2005.6.13)によると、国道沿いのモニュメント付近アメリカ兵の像は「飛来する銃弾を避けて地面に張り付く米兵や勝利して星条旗を掲げようとする米兵のコンクリート像」とのことです。
車を降りて、そのモニュメントの横の道をはいると、薄暗い広場の一角に「レイテイ島戦没者慰霊碑」としるした碑があります。その奥には棺の形をした米軍の無名戦士の墓、斜面にマリア像があり、広場の入り口付近に2つの石の地蔵がありました。

レイテイ島戦没者慰霊碑(HILL 120)

慰霊碑は秋田県出身の二人の方が建立されたもので、碑文には、日本語で「比島に眠る勇者たちに捧ぐ」と記され、他は英文で記載されていました。アメリカ軍の記念公園に、いわば場所を借りたような形になっているため、その点を配慮したのかもしれません。ある程度の広さをもつ敷地に屋根付きの記念碑がおかれたもので、正面に銅板で題字が記され、側面にも銅板で碑文などが記されています。最近、ペンキを塗り直したと見えました。2004(平成16)年建立の比較的新しいものです。

それにたいし、地蔵はもっと古いもので歩兵第9連隊第二大隊有志の銘が刻まれたものと、野砲第26連隊UR有志會の2基がありました。

HILL 120

HILL120の丘上にある、上陸部隊を示すと思われる碑

その広場から入り口のモニュメントの上をのぼる階段がありました。丘の上には国旗掲揚塔、ヘルメットをかたどったモニュメントとその後に各部隊を示す記章を描いたコンクリートの壁、さらに奥には展望台もありました。
展望台からは東に太平洋、西にレイテ平原につながる丘陵が見えました。1944年10月20日、この丘の上から見えた風景を思いました。このページのはじめに示した写真は、この展望台から太平洋を見た写真です。水平線に太筆で書いたような一本線が出現したのです。

HILL120の会談からレイテイ島戦没者慰霊碑のある広場を撮影

丘の地面にはコンクリートで固められた場所がいくつかあり、日本軍の陣地として構築されていたのかもしれないと考えました。
さらにレイテ守備を命じられた牧野第十六師団長が陣形を検討した場所がこの丘ではないか、さらに「レイテ戦記」に記された、上陸地点から「500メートル内陸」にあり上陸した米兵に砲弾を浴びせかけた小丘もこの丘ではないかと考えました。この砲撃に対しアメリカは再度の艦砲射撃で応じ、日本軍は去ったと記されています。「野砲第26連隊UR有志會」の地蔵はこうした関係があるのではないかと考えました。

砲兵第26聯隊UR有志会設置の地蔵尊

丘の一帯には雑草が生い茂り、階段なども痛みが目立ち、アメリカ側からしても戦争は風化しつつあると感じます。

居心地悪そうな「慰霊碑」

ドラグ市民の慰霊碑

ドラグは海岸の平地の上に小さな庭のある家々が集まっていてる感じの、僕たちが幼かった昭和3~40年ころを思わせるような町というか集落でした。国道から離れ、細い道を海岸の方に進むと、住宅に囲まれた四角い公園がありました。「ドラグ市民の慰霊碑」という5メートルほどのコンクリートの塔を中心に、その東、海岸の方向に米軍、フィリピン軍、野戦病院の慰霊碑が並び、一番右に居心地悪そうに日本軍の慰霊碑が並んでいました。
三段の台座の上にやや上のせばまった四角柱を立て、上に屋根、擬宝珠をつけた塔で、擬宝珠以外はペンキで白く塗られています。「碑」の名前は記されず、前面上に英文、下に日文の「碑文」が埋め込まれています。1970年代に建てられたもので、建立者は「京都 垣兵団遺族・生存者」と記されています。この時期には、まだ多くの生存者がいたのだといまさらながら思います。京都の遺族会の役職をしていた私の祖父も設立に携わり、ここにも来たのではないかと思います。祖父は私とは異なって非常に行動的な人間でした。

ドラグの「垣兵団慰霊碑」題字は記されず、日本語と英語の碑文があわせて記されている。

参考までに、碑文を記します。
ここは太平洋戦争に於いて、比・日・米の多くの戦士達が祖国の為に激しい攻防戦の中で無残に散り果てた痛恨の地である。再びあの愚かにして悲惨な殺戮を繰り返さぬ為に、ドラグ市長F.ヤフノ氏の御協力を得て、不戦の誓いを込めて、弔魂の誠を捧げる共に悠久の平和を祈念してこの碑を建立するものである。

このあとも16師団関係の慰霊碑を見ましたが、碑の形はほぼ同じで、碑文も謝辞をのぞき同文でした。前回記した碑文の特徴がよく現れていると思います。

レイテ平原への米軍の「浸透」

「レイテ戦記」は、艦砲射撃と水際での戦闘で16師団はすでに5割を失っていたと記しています。水際で「幾分の抵抗」をし、それから縦深抵抗にはいるという戦法は、最も現実的でない作戦でした。
米軍にとっては、艦砲射撃という「安全」で「科学的」な方法で敵兵力を損耗(殺戮!)させることのできる日本軍の戦術は「とてもありがたい」ものでした。水際作戦は、制海権・制空権を握り、最新鋭の兵器で武装された四倍以上の兵力をもつ米軍の前では全く通用しませんでした。

レイテ東部における米軍の進出関係地図(『レイテ戦記(上)』P127)

ドラグ周辺に上陸したアメリカは、一挙にレイテ平原に進出します。この平原は水田や湿地帯が多く、アメリカ軍はこうした地形に苦しみ、日本軍の待ち伏せ攻撃や夜間の斬り込み攻撃などにも悩まされながら、進んでいきました。
他方、平原は日本側にとっても守りにくく、墓に潜んで反撃を試みた日本兵もいました。(フィリピンでは墓に金をかけることが多く、家と見まがうような墓も多いのです)。

ドラグに上陸した米軍は、第九連隊の大隊のこもるカトモン山を放置して兵力をレイテ平原に浸透していき、23日には三つの飛行場が集中する内陸のブラウエンへ到達しました。さらに米軍はカトモン山の裏面に回り込む動きを見せたため、カトモン山に陣地を構築していた第9連隊主力はこれを捨て、第16師団本部が移ってきたダガミ方面へ移動しました。こうしてレイテ島東部はアメリカ軍の影響下に置かれるようになっていきました。

追い詰められる十六師団司令部

タクロバンの司令部跡にあるマッカーサーとオスメニャフィリピン自治領大統領の像

島の東北方面に上陸した米軍は十六師団の司令部のあったタクロバンを占領、マッカーサーはここに司令部を置きます。十字架山の激戦を制した米軍は一挙に北部カリガラ平原へと進出、この地を占拠します。もしそのままリモン峠からオルモックに向かえば、レイテでの戦いはアメリカの圧勝におわっていたはずでした。しかし、そうはしませんでした。

タクロバンの第十六師団司令部は、予想していない北サンホセ~パロ方面への上陸という事態をうけ、この地を捨て内陸部へ移りました。その際、動かしにくい高性能の無線を放棄したため、師団司令部と各部隊、軍司令部の連絡はつきにくい状態となりました。こうして各部隊はそれぞれバラバラに、統制がとれない状態で米軍と戦闘をつづけることになりました。

第16師団(「垣」兵団)の主幹連隊とされるのは、師団本部と同じ京都伏見に置かれた歩兵第九連隊、京都府北部福知山に置かれた歩兵二〇連隊、三重県津に置かれた歩兵三十三連隊の三個連隊です。
前回見たように、上陸後、もっとも激戦がつづいたのがタクロバンの南、パロとくに町の北西にある十字架山でした。ここを守っていたのが歩兵第三十三連隊などでした。しかし米軍の猛攻の前に激しく消耗、早くも上陸4日後には連隊長鈴木大佐は連隊旗を焼き、斬り込みを敢行、全滅します。

ホリタにあった20連隊の慰霊碑は撤去され、写真のような庭園に姿を変えていました。

またドラグに上陸した米軍の急速な進撃の前に、この方面にいた歩兵第二十連隊主力も「いかんともしがたい」状況となります。
最初の1日だけで、日本軍の損耗率は八割を超えていたと記されます。連隊長鉾田大佐も、ドラグからブラウエンに向かう中間点にあるJurita(ホリタ・フリタ・ジュリータなどいろいろな名で記載されている)で上陸当日の10月20日、戦死しました。

かつてホリタにあった歩兵20聯隊の慰霊碑(地蔵像)。撤去されたとおもわれる

圧倒的に不利な状態となった日本軍にのこされた手段は、日露戦争以来の白兵による斬り込みです。六~七名を単位とするグループが夜を期して米軍野営地に突入しようとしたのです。将校らの「俺についてこい」という声をもとに突撃するのです。
ところが、動きを察知した米軍は照明弾を打ち上げ、昼間のような明るさとなります。周囲を戦車によって守られた米軍の陣を破ることは困難で、日本軍は兵力をどんどん消耗させていきました。私の伯父もこうした死に方をしたのではないかと思っています。
こうして師団本部との連絡が取れないなか、十六師団の各部隊はそれぞれ別々な場所で連絡が取れないまま戦い、兵士たちはさまざまな形で死んでいきました。

第16師団第9歩兵連隊主力が陣を構築したカトモン山付近

もう一つの基幹部隊、歩兵第九連隊主力は包囲されつつある状態を察知し、要塞化されたカトモン山の陣地を捨てて移動を開始しました。その際、「重傷を負い独歩不能に陥ったるものは同行を認めず」という非情な命令が出され、多くのものが「自決」をせまられました。
移動を開始しても、米軍の浸透は早く、それを避けた迂回を迫られます。しかも豪雨でゆかるむ道です。制空権を握る米軍偵察機はかれらの動きを捉え、その位置を地上軍やゲリラに伝え、かれらは空と地上からの攻撃を受けます。生き残った第九連隊の兵士たちが十六師団本部がおかれたダガミへ到着したのは十月三十一日のことでした。
このように米軍の上陸からわずか数日で16師団は壊滅的状況に陥ります。「16師団はふがいなかった」という言い方をする人もいます。しかし、稚拙な作戦で多くの戦友を失った元一六師団の兵士は、こうした言動に怒りを隠せないようです。

この間にも、米軍のレイテ平原への浸透がすすむなか、師団本部はレイテ平原の最奥部にあたるダガミからさらに西部山中へと移し、自存体制の構築を図ります。しかし食糧も、武器弾薬も尽きつつありました。

第16師団司令部のあったダガミに残る英霊碑

また各地の戦闘で生き残った部隊やさまざまな理由から部隊を離れた日本兵たちも、三々五々、西へと逃れ、多くがレイテ島中央の険しい脊梁山地の中に逃げこみました。
軍隊組織を維持し軍の統制下に置かれたものもほか、孤立してさまようものも多く、各地で食糧をもとめフィリピン人を襲う事件が頻発します。他方、アメリカから武器などを補給されたフィリピン人ゲリラの動きも活発化、日本兵を襲撃します。こうして命を失った日本兵は多数に上ります。米軍は日本兵を捕虜にすれば報奨金をだすといっていましたが、それにもかかわらず、多くの兵士が殺害されました。
フィリピンの人々、レイテの人々にとって、日本兵は招かれざる客どころか、禍をもたらす存在以外の何ものでもなかったのです。

ドラグ飛行場跡地を発見

私たちがドラグからブラウエンに向かう途上で、ある「記念碑」を訪ねていると、この「碑」を管理していると自称する「トライシクル(※バイクに客席を取り付けた「三輪タクシー」)の運転手がやって来て「すぐそばに戦争にかかわる碑がある。行けばどうか」と話したそうです。私が使っていた地図にもそれらしい碑の記載があり、「それなら」とそこに向かいました。そこはバスケットコートくらいの広さの公園の両脇にコンクリート製の碑があり、フィリピン空軍の戦闘機で飾られ、遊園地のようなたたずまいを見せていました。
碑文をみると、ここがドラグ飛行場の跡であることがわかりました。
碑文を示します。

WORLD WAR Ⅱ AIRFIELD
BRGY  RAWIS
DULAG LEYTE
CONSTRACTED BY JAPANESE IMPERIAL ARMY SUPPORTED BY FREE LEBOR FROM THE DULAGNONS。
TEKEN OVER BY THE ALLIED LIBERATION FORCES IN 1944 IMPROVING AND WIDENING THE AREA WITH STEEL MATEING RUN WAYS
FIGHTER AND BOMBER PLANES WERE STATIONED HERE THROUGH THE WAR DAYS

ここにあった飛行場は日本軍がドラグ市民による無償の労務提供を用いてつくった。1944年に解放軍(アメリカ・フィリピン軍)に奪取され、修理と拡張が行われ戦争に使用された。
大意はこういうところでしょう。(英語能力が欠落していて申し訳ない)
この飛行場の建設について「防人の詩・レイテ編」にも記述があります。(元の記述は「福知山聯隊史」です)
「一方、北部レイテのタクロバン、ドラグ、さらにはブラウエンなどに進駐していた連隊主力の駐屯地区には、島内南部に見られたようなゲリラの跳梁はなかった。(中略)大戦初期に体験した悲運の痛苦(中略)を比島の民衆に愛情をそそぐことによっていやそうとしていた。このため、彼らは島内北部に風水害の被害を見るや、自らの糧秣をわかち与え、また、傷病者には医療を施し、その結果は急速に住民の信頼を集めつつあった。
そして部隊がドラグ周辺に飛行場を造成をはじめるや、付近の老若婦女子に至るまで嬉々として飛行場造成の使役を引き受け、牧野師団長がドラグ飛行場の造成状況を視察に来られたときなど、町長のホセ・カイン他二千二百人の町民男女が飛行場の造成に奉仕していたほどであった」

戦記にありがちな自己正当化を感じる文章です。もとになった「福知山聯隊史」にはこの文書と矛盾したことも書かれています。その点は後に触れたいと思います。

一般には、日本占領下の飛行場建設のための住民動員が住民の反発を買い人心の離反を招くことが多くありました。しかしドラグは違う。それまでの日本軍の「善政」で住民の支持を得られ、その協力をえて飛行場建設が順調に進んだといういい方です。

ドラグの子供たち。慰霊碑をさがしていたら、興味をもって集まってきた。写真を撮ろうかというと大喜びでポーズをとってくれた。

たしかに、さきの「マニラ新聞」は
カタリナ・アシス(74)は戦時中、両親が家を日本軍に貸していたという。カタリナさん一家を含めた集落の人々は『(占領されていたのだが)日本軍と平和に共存していた』と話してくれた」「娘が日本人と結婚し、一緒に住むことになったことについて、カタリナさんは『違和感はない。昔も村で日本人と一緒に住んでいたから』と微笑した。」と紹介しています。他の地域のような反日感情は少ないのかもしれません。
ともあれ、1943(昭和18)年の年末にはじまる飛行場の建設でドラグ市民が無償の労務提供に動員されたということが確認できます。問題は「嬉々として」なされた自発的なものかどうかです。「碑」が”SUPPORTED BY FREE LABOR(無償の労務提供)”と記したのには強制的な側面があったことを示唆しているようにも感じました。

「親日派」町長とハンサムな中尉

文中に気になる人物がでてきます。ドラグ町長(市長)のホセ・カインです。
かれは1942年10月ごろから翌43年4月まで日本軍のドラグ守備隊長をつとめた山添勇夫中尉(戦死後、大尉となる)と「肝胆を共にした」と記されるほど仲がよかったといいます。町長(毎日新聞は「市長」と表現)の娘の証言によると、山添は、市内パトロール後、毎晩のようにやってきては家族とともに夕食をし、食後はチェスやダンスを楽しんだといいます(「毎日新聞」2015.8.16、末尾に全文引用)

ドラグの中心の公園に立つフィリピンの英雄ホセ=リサール像

その山添中尉の戦死に、ホセ・カインはかかわっています。
「防人の詩」の記載の典拠は「福知山聯隊史」です。山添中尉は日中戦争における「優秀な将校」であり、バターン攻略戦さなかに「再応召」でフィリピンに来ました。その後、新たに編成された独立第三十六大隊に転出、レイテ島において「同地のカングレオン大佐シンコ少佐の率いるゲリラと、戦力伯仲のため彼我とも侵し得ず、また侵すを許さずともいえる状況で」たたかっていました。
手記は中尉の戦死を次のように記します。1943(昭和18)年4月18日のことです。
聯隊が来るまでの大森部隊当時、タクロバン南方25キロのドラグ守備隊長であった山添大尉(岩滝町)は、町長ホセ・カインと肝胆を共であった。ある夜カインの密偵が、ドラグ南方三キロの地点に敵ゲリラ隊長 シンコ少佐の率いる約三十名が部落を荒らしにきておるとの報告を受け、手兵五〇名と軽機関銃で直ちに出動した。所があにはからんや敵兵力二〇〇をくだらず、完全な待ち伏せを受けて、山添大尉自ら軽機で猛射したが、衆寡敵せず、身に数発の弾丸を受けて壮烈な戦死を遂げた。と聞くにいたり、町長と雖も、昨年までは米比軍の少尉で白とも黒とも思える人物。(下略)

多少の表現、大尉と中尉と階級の違い(戦死による特進で大尉となる)はあるものの、「防人の詩」とほぼ同一内容です。注目すべきは最後の部分の町長への不信感です。下略の部分は、それまでと全く別の記述がつづいたので省略しました。その内容は親密をよそおいながら日本軍を襲ったゲリラの例です。段落さえ変えずに、なぜこのような記述に引き継がれたのか。

まとめてみます。
元米比軍少尉であったとされる町長ホセ・カインは、ここに赴任してきたドラグ守備隊長山添勇夫中尉(それはほかならぬ日本軍)と親密な関係をむすび、山添のためにゲリラの動向を探る密偵を放つほどの「親日派」となります。
ところが町長の放った密偵の報告によって出動した山添は待ち伏せにあって戦死します。親近感を持った現地住民によって裏切られたという経験をもつ日本軍は町長にも「ゲリラと関係があるのではないか」との不信感を抱きました。

山添の死後、半年がたった11月、レイテ戦が現実化する中、山添がかつて所属していた歩兵第二十連隊がレイテに進出、「果敢な討伐をドラグ南方に集中し」ます。
第二十聯隊のもう一つの役割は「ドラグ飛行場」建設でした。町長は住民を動員し協力、その姿を師団長にも見せつけました。

ただ、町長が協力したからといっても、他の住民がどう感じたかは別の話だということも付け加えておきたいと思います。さらに飛行場建設で引用したように日本軍に信頼感を持っていたかどうかも。

“CAPT. ISAIO YAMAZOE SHRINE”
~奇妙な記念碑

ここにでてくる山添勇夫中尉(大尉)はフィリピンの人に尊敬される日本人としてあつかわれる人物です。
ドラグからブラウエンに向かう道路の途中に山添大尉の記念碑”CAPT. ISAO  YAMAZOE SHRINE”があります。正面に3メートルほどの鳥居をもうけた間口5メートルくらいの区画が設けられ、その真ん中に銅板と石版の2枚の碑文と写真を埋め込んだ碑があります。区画はある程度の清掃と整備はなされています。
よくみるとこの碑は奇妙です。碑文は二枚とも日本語でほぼ同一の碑文が刻まれます。さらに「住民の尊敬を浴びている」というのに、英語や現地語の碑文も説明文もありません。建てられた経緯も、時期も明記されていません。
とりあえず碑文(上部・銅板)を紹介します。

記念碑
第二次大戦の傷跡が今なお残り住民の反日感情も根強いレイテ島ドラグ市を日本軍が占領中に公平で友好的な態度を貫き市民の信頼を集めた日本兵山添勇夫陸軍大尉並びに勇士達の威徳を偲び記念碑を地元の人々の手で建立された
1943年4月18日この地点で戦死された
   出身地 京都府与謝郡岩滝町石田
   寄贈者 坂本㐂計
       河野フメリフ

日本語としてはちょっと変ですね。下にあるもうひとつの石板に記された碑文と比べてみると、階級などの順番が「陸軍大尉 日本兵 山添勇夫」、寄贈者の「㐂」の文字が常用漢字の「喜」に変わっているだけでした。

ところがネット上の記事にはこの碑には英文の碑文があることになっています。しかし、他の訪問者の訪問記に英文の碑文についての記載はありません。
※ちなみに、慰霊碑をまわると碑文だけが失われた慰霊碑はかなり多いことがわかります。碑文は銅板でつくられ、高く引き取られるので、金目当ての盗難に遭いやすいのです。また、日本への反発から傷つけられたり破棄されることも考えられます。

しかし同一内容の日本語碑文が2枚というのはどうみても不自然です。かつて日本文(きっと銅板の方)と英文の碑文の2種類があったと考える方が自然です。ところが何らかの理由で英文の碑文がなくなり(あるいは飾ることができなくなり)、その部分に銅板と同一内容の日本語の碑文がはめ込まれたと考えるのが妥当とおもわれます。

では英文の碑文にはどのような碑文が書かれていたのでしょうか。山添大尉の一族にあたる与謝野町長・山添藤真氏のブログ(リンクはここに英文の碑文が引用されていました。出典として1989年の京都新聞の名が記されていました。(日付がないのでなかなかみつかりません)それを引用します。

『士官でありかつ紳士であった山添勇夫大尉への賛辞』
この地において、1943年4月18日午前8時頃、日本陸軍山添勇夫大尉はホセ・ナザレ中尉指揮官下のフィリピノ・ゲリラ隊との遭遇戦を戦い戦死された。彼は厳格な軍規の遂奉者でありながら親切かつ思いやりの深い人柄で、単に彼の部下の信頼と尊敬を受けただけでなく、地域の住民からも本当の士官であり、かつ紳士として尊敬を受けました。彼の英雄的な死は人々の為、男達の兄弟愛が国や統治権を超えて、この碑の建設となりました。ードラグ市民ー

しかし、山添藤真町長が2013年5月7日実際に現地をたずねたときの記事をみると、英文の碑文のことは記されておらず、この時点では失われていたとおもわれます。

ネット上の文献に描かれる山添勇夫

山添藤真町長はつづけて、京都新聞の抜粋として、次のような文章を記しています。
住民の半(ママ)日感情が強いフィリピン・レイテ島に、旧日本軍の占領中、公平で友好的な態度を貫き、信望を集めた日本兵士の威徳をしのぶ記念碑が地元の人たちの手で建てられていたことが、京都出身で同島の戦いを体験した人や遺族でつくるビサヤ会の調べで分かった。第二次世界大戦中、日本兵と同島住民との関係はあまり良くなく、しかも経済進出から再び日本への反感が強まっている昨今、「わざわざ地元民が碑を建ててくれるなんて、他に例がないのではないかと関係者を驚かせている。」ドラグ市長は「紳士として、地元民の信頼を集め、キャプテンヤマゾエの亡くなった日は彼の死を悼み、町の教会が終日鐘を鳴らし続けました。」とエピソードに触れながら紹介した。
ー1989年京都新聞より抜粋ー

氏はこれにつづき、家族から聞いた勇夫氏の思い出や墓地、彼への思いを記します。

2015年、毎日新聞(2015.08.16北海道版朝刊)は山添大尉の話と碑のことを記しています。(末尾に全文引用)
 他方、いろいろなブログや新聞・雑誌などでの山添大尉の話は誇張気味となって流布されます。興味深いのが「ニコニコ大百科(仮)」(リンクはここの記事です。

山添勇夫中尉(戦死後、大尉となる)

山添勇夫(やまぞえ いさお)」とは、フィリピンのレイテ島ドラグ市にて英雄として祀られている大日本帝国陸軍の軍人である。
京都府岩滝町(現・与謝野町)にて、天保4年(1833年)創業の丹後ちりめんの製造を生業とする家(現在の山藤織物工場)の末子として誕生。
昭和12年に召集され、飛行場があったレイテ島ドラグ市の守備隊長を務めた。
その際、地元のフィリピン人と親睦を深めようと、ラジオ体操・テニス・ショーやダンス・映画の上映を行い、食料不足の改善の為の地元住民による野菜作りや、地元の子供達に日本軍が設立した学校で勉学に励む事を奨励し、自身は地元住民に対して常に公正・中立で偏見なく紳士的に接した事から、キャプテン・ヤマゾエと言われて地元住民からの信望を集めた。
しかし、運命の日…昭和18年4月18日。ホセ・ナザレ率いるフィリピンゲリラとの戦いの際に戦死した。
ゲリラとの戦闘にあたり、地元住民が巻き添えをうけないようにとゲリラ側と交渉して戦闘地域を制限し、多くの地元住民の命を守ったと言われている。
戦死後、教会の鐘を鳴らし続けて悼んだ地元住民により、その威徳を偲ぶ為の小さな記念碑が建立され、後にドラグ市により鳥居の様な入り口を備えた大きな記念碑が建立された。
(中略)
レイテでは、現在でも学校教育の中で山添勇夫の事を教え、記念碑は地元住民達によって清掃されている。
なお、家業の4代目を継いだ実兄の子孫が、与謝野町長の山添藤真である。

ドラグ守備隊長としての業績や「市民が教会の鐘を鳴らして死を悼んだ」ことは毎日新聞の記事とも矛盾がなく、誇張気味ではあれ大尉が現地である程度の好意をもって受け入れられていたことがわかると思います。
とはいえ、あえて慰霊碑をたてるまでの人物であったかというと疑問を持たざるを得ません。多くの人もそのことを感じたのでしょう。そのことが中段にある「ゲリラとの戦闘にあたって」以後の無理な「神話」を必要としたと感じます。
また「現在でも学校教育の中で…教え」との記述も誇張気味と感じますが、時期と場所(たとえば、ある時期の「ドラグ」など)を限定すれば可能性がなくはないでしょう。

「慰霊碑」はいつ、だれが建てたのか

さて「ニコニコ大百科(仮)」には気になる一文があります。戦死後、教会の鐘を鳴らし続けて悼んだ地元住民により、その威徳を偲ぶ為の小さな記念碑が建立され」との一文です。記念碑が建てられたのは、みんながなんとなく思い込んでいるように戦後なのでしょうか。
この一文から考えると、碑は日本占領下のドラグで建てられたとよめるのです。この文の流れでいえば

ドラグのこどもたち。

①山添中尉の戦死
②地元住民は「教会の鐘を鳴らし続けて悼」んだ
③彼らが「小さな記念碑」を建立
④「ドラグ市により鳥居の様な入り口を備えた大きな記念碑が建立された」

という順序となり、「小さな記念碑」を建立したのが戦後とは記されていないのです。
他の記述も、最初の記念碑が日本占領下・戦争中に建設されたという事実を否定するものはありません。
毎日新聞の記事も、中尉の戦死→慰霊碑建立→空爆による市長(ホセ・カイン)の死→米軍上陸、という順序です。山添町長による京都新聞の抜粋の記述とも矛盾しません。
こうして考えれば、この「記念碑」は、戦争中、日本統治下に建られ、戦後に現在見るようなものに変わった可能性が高いのです。
これなら、戦後の強い反日感情にもかかわらず「なぜ記念碑が建てられたのか」という疑問は解消されます。「ゲリラ側と交渉して」云々の無理な想定も不要です。
たしかに山添大尉は市民の記憶に残る「よい人」だったのでしょう。反日感情の高まった時期、レイテ各地で「親日派」フィリピン人が大量に殺害されていた時期にも破棄されず、残ったのですから。
慰霊碑を建てた人物もほぼ特定できそうですね。ドラグ町長(市長)ホセ・カイン。かれは友人であった山添中尉の死を悼み記念碑をたてることもできますし、教会の鐘を鳴らすように命じることもできます。

誰が、なぜ碑をたてたのか。ある仮説

ドラグ飛行場跡にたてられた記念碑

しかし現実は甘くないと思われます。
すでにみたように、山添の戦死はホセ・カインの放った密偵の報告のためであり、そのことは日本軍も承知しています。日本軍はかつて米比軍の少尉であったとの「過去」もつかんでおり、疑惑の目をむけていました。「ゲリラと通じているのではないか」と。
町長ホセ・カインには潔白を証明する「何か」が必要でした。
ホセの娘はいみじくもいっています。「ほかの日本兵は高圧的で怖かった。でも、キャプテン・ヤマゾエだけは優しくてハンサム」だったと。ならば、「高圧的で怖い態度」で町長に迫った日本兵はだれだったのでしょうか。
そこである仮説が浮かんできます。
山添中尉の死後、町長ホセ・カインは、日本軍の協力者であることを示し、そしてゲリラの協力者という疑いをはらすために、山添大(中)尉との親交が深かったことを強調・哀悼の意をしめすための碑をたてた。
さらに20連隊がすすめるドラク飛行場の建設にも全面的に協力、住民を仕事にかりだし、師団長が視察に来ると知るとみずからも作業に参加、日本への協力することで「親日派ぶり」をアピールした、と。

その後、彼は娘のアディライダ・フィラモアさんらをのこし、上陸に先立つ10月17日、米軍による空爆で死亡します。もし生き残っていれば、さらに悲惨な運命が待っていたとおもわれます。

”CAPT. ISAO YAMAZOE SHRINE”の誕生
 戦争は、日本とフィリピンとくにレイテ住民との関係を険悪にしました。しかし「高圧的で怖かった」日本兵とは違う山添大尉のことは住民の記憶に残っていました。そのため記念碑を破棄することなく、時には人目を避けながら守ろうとする人もいたのでしょう。
その後、遺骨収集や慰霊などの目的でフィリピンを訪問する日本人が増え、フィリピン側もそれに対応するようになります。こうしたなかで、フィリピンとの友好を重視する日本人、日本との友好をアピールしたいフィリピン人(たとえば16師団の慰霊碑建設に協力したドラグ市長F.ヤフノ氏のような人たち)は、ひそかにまつられていた記念碑に注目、友好のシンボルとして、現在のような立派な施設としたと考えたと考えることはできないでしょうか。慰霊という形で訪れる日本人を意識したドラグ市側の動きもあったでしょう。

“WWⅡ VETERANS”の碑(ドラグの記念公園)

とはいえ、激しい艦砲射撃で大きな被害を出した上陸地点・ドラグの人々の感情は複雑だったでしょう。その感情が日本人将校を称える「ドラグ市民」という英語の碑文を認めたくない人もいたとおもわれます。
こうして英語の碑文は撤去され、かわりに銅板と同内容の石版の碑文が碑にはめこまれた。このように考えることができるのではと考えられます。

「公平かつ友好的」な日本兵は、たくさんいた・・・はず。

「キャプテン・ヤマゾエだけは優しくてハンサム。みんなからも愛されていた。さっそうと馬にまたがる姿が昨日のように脳裏に浮かぶ」「気さくで優しい人柄で、フィリピン人にも公平かつ友好的だった」と当時十五歳だった町長(市長)の娘の記憶にあざやかに残る山添勇夫、たしかにかれは当時の日本兵では珍しい「よい人」だったのでしょう。守備隊長という立場がその人柄を引き立てたと思われます。
しかしそれは、「ほかの日本兵は高圧的で怖かった」という記憶の裏返しでありました
この「碑」の建立は「高圧的で怖かった」日本軍の目を意識した可能性もあるからです

ドラグのこどもたち②

ふと考えるのです。
「公平かつ友好的」な人、「気さくで優しい」ハンサムな日本兵はたくさんいました。いたはずです。
しかしそういった人も、そうした姿を見せる機会もなく戦場で斃れていきました。
ゲリラに撃ち殺されたものも多くいたでしょう。
それこそがフィリピンに招かれざる侵略者としてやって来た宿命でした。
かれらに、残酷な行為を強い、悲惨で無意味な死を強要したもの、私たちはそこに目を向けていかねばならないと思います。

(つづく)

<目次とリンク>

1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:
「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:
上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:
米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:
慰霊碑巡り
6:
ドライバーの問い

◎私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版

参考:千の証言:戦後70年 戦死、贈り物は幻に 友好的大尉しのぶ レイテ島、現地交流 (毎日新聞2015.08.16北海道版朝刊)

「誕生日、びっくりするプレゼントをあげる」
1943年4月、フィリピン・レイテ島中部の都市ドゥラグで、日本軍の将校は地元市長の娘にほほ笑んだ。約束の日の1週間前。将校は戦死し、二度と家に現れなかった。プレゼントは何だったのだろう。70年以上たつ今も、ふと心をよぎる時がある。【袴田貴行、写真も】
旧日本軍は当時、フィリピンを占領下に置いていた。ドゥラグ市長の娘だったアディライダ・フィラモアさん(88)は、同地区の警備隊長を務めていた陸軍の山添勇夫(いさお)大尉をよく覚えている。気さくで優しい人柄で、フィリピン人にも公平かつ友好的だった。

山添勇夫大尉(山添藤真氏のブログより

「キャプテン・ヤマゾエ」と呼ばれ、地元住民の信頼も厚い。父と親しくなり、市内パトロール後には毎晩のようにフィラモアさん宅に通ってきて夕食をともにした。滑らかな英語を話し、食後はチェスやダンスを楽しんだ。日本酒を持参し、酔うと、軍歌「海ゆかば」をよく歌っていた。
山添大尉は京都府出身。丹後ちりめんの製造業を営む旧家に生まれ、37年に召集された。当時15歳だったフィラモアさんとプレゼントの約束を交わし、誕生日まであと1週間に迫った43年4月18日、山添大尉は戦死する。享年32。旧日本軍への反発がある中、地元住民は珍しい慰霊碑建立に踏み切り、キャプテンの死を悼んだ。
フィラモアさんは44年10月17日、米軍の空爆で、父と妹を亡くした。戦後は医師と結ばれ、11人の子宝に恵まれた。今はレイテ島の中心都市タクロバンで、娘や孫に囲まれて暮らしている。「ほかの日本兵は高圧的で怖かった。でも、キャプテン・ヤマゾエだけは優しくてハンサム。みんなからも愛されていた。さっそうと馬にまたがる姿が昨日のように脳裏に浮かぶ」
慰霊碑の出入り口は日本の鳥居のような形をしており、石碑には山添大尉の顔写真が掲げられている。慰霊碑のあるドゥラグは、タクロバンから南へ約35キロ離れている。高齢のためフィラモアさんは何度も参拝できないが、改めて献花したいと思っている。

追記:セブ島通信vol.155(2016年11月号)にも山添大尉記念碑の記事があることがわかった。内容的には「ニコニコ大百科(仮)」の記載とほぼ同様で「ゲリラと交渉して」云々という「神話」も記している。しかし、死を悲しんで鐘を鳴らし続けた人が「小さな慰霊碑をたてた」と読める記述をしており、やはりこの碑の原型が戦時中に建てられたという推測には誤りがないように思われる。
興味を持たれた方は以下のサイトへ。

http://www.ja-cebu.com/magazine_page/page?id=315

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