レイテの戦跡でかんがえたこと~タクロバン・パロ

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フィリピンの戦跡をめぐりかんがえたこと③
上陸する米軍、迎え撃つ日本軍、フィリピンは

レイテで一兵卒として死んだ伯父

レイテ島は、日本人にとって、ルソン島と並んで知られた島の名前です。もはや過去形かもしれません。僕らの世代で「レイテ沖海戦」という名を知らないものはいませんでしたし、陸軍でも私が育った京都では(ひょっとすれば東京も) 戦死者に占めるレイテ島の割合が非常に高いのです。私の母の次兄も第16師団(きっと第9聯隊)の一兵卒としてレイテでの戦いに参加、戦死しています。

ブラウエン郊外にある「平和の塔」 第16師団の生存者と遺族が建立した慰霊碑。

伯父は、祖父の血を引き明朗快活、おっちょこちょいで入試に寝坊しボツにした人物です。末の妹である母をとてもかわいがり、母もこの兄が大好きでした。長兄がソロモン諸島ブーゲンビル島で戦死すると、その仇をとるといって軍隊に志願します。
「あと半年後なら学徒出陣で士官として出征できたのに、「兵」として入ったからかわいそうだった」と母は話していました。「兵」として参加したということは、安易な「消耗品」として扱われたことです。死亡率も圧倒的に違います。
「戦後、かつての戦友とはほとんど会わないし、戦友会にも行かない。なぜなら、集まるのは上官ばかり」「自分たちのような位の低い兵隊はほとんど現地で死んでしまっている」と語られた話が、前回引用した北上田さんの本にありました。

「突撃を命じられ帰ってこなかった」伯父

 

伯父の死の詳細はわかりません。
生き残った人から「突撃を命じられそのまま帰ってこなかった」と聞いただけだといいます。叔父も「よくわからない」といっていました。
16師団約一万8千人で生きて帰った人は1割を大きく割り込んでいます。レイテからの帰還者はさらに少ないでしょう。レイテでの伯父の姿を見た人がいるだけで僥倖なのです。
とはいえ、信憑性はどうでしょうか。実際に見たのか、聞いただけでないのか、実際、知っているとしても「本当のこと」を話したのか、疑問はつきません。
「艦砲射撃で吹き飛ばされた」「艦艇が沈んで溺死した」でも辛いのに、餓死やマラリアやアメーバ赤痢での戦病死となればどうか。傷を負ってあるいは体力が尽きて自決した、青酸カリで処分されたと話すと「なぜ助けてくれなかったのか」と問い詰められそうです。部隊から脱走した。ジャングルの中を逃げ回っているうちに人知れず斃れたなどという話も聞きたくないでしょう。
そこで暗黙の「合意」ができます。
「お国のために、勇敢にたたかって死んだ」という神話を信じ、「無慘な死でも、無駄な死でもなかった」と思い込む、思い込もうとするのです。

第16師団第9歩兵連隊主力が陣を構築したカトモン山付近

軍人墓には「敢闘奮戦」「壮烈なる戦死」「玉砕」といった文字が躍っています。戦病死や海沒死はあるとしても、「自決」(将官はのぞく)「餓死」はまずみられず、「刑死」にいたっては絶無でしょう。「無慘な死」は凝視されず、「名誉の戦死」とみなされます。仮に実際の「無慘な死」の現実を知っても口に出す遺族は少なく、胸中にしまいこむことが多かったでしょう。
「神話」はあらたな「神話」を生み出します。その「名誉の戦死」が繁栄の礎になったという「神話」を。
「彼らの死は無駄死でなかった」そう信じなければ多くの遺族は耐えられなかったのです。「無駄な死」であったことはみんなうすうす感じていても、口には出しにくい構造になっていました。

母たちのもとに現れた生存者も、実際の「死」を秘して、「勇敢に戦って死んだ」という祖父母らの「期待」にあわせた可能性もあります。斬り込み隊に選ばれ帰ってこないという死はレイテではあまりにも一般的な死に方でした。だから、そういったのかもしれません。今風に言えば「フツウ」の死に方をしたと。
結局、その死は「わからない」でしかありえません。
レイテはこうした「無慘で無意味な死」という現実と、「名誉ある死、将来の礎となった死」とのフィクションが交錯している場所です。

巨大台風ヨランダ

ヨランダの被害を伝えるために、打ち上げられた船を残している。

日本の戦後賠償によって架けられたサン・ファニーコ橋を渡って、私たちはレイテ島に入りました。わたし(たち)の過剰な思い入れとは別に、レイテではごく普通の日常が広がっていました。

レイテの人たちは、東日本大震災の二年後、震災と似た体験をしました。巨大台風と高潮がレイテを襲ったのです。
2013年11月8日、巨大台風ヨランダは900hPa前後の強い勢力のままサマール島・レイテ島に上陸、この地を横断していきました。フィリピン全土では死者6,268人不明者1061人、レイテでは死者5,370人行方不明931人という膨大な犠牲者をだしました。レイテでとくに被害が大きかったのは北東部の州都・タクロバンです。

記念施設から海側をのぞむ。高潮で壊滅した場所に再び家屋が密集する。

私たちが訪れたタクロバン北部の地区には5.65メートルの高潮が押し寄せ、50メートルをこえる貨物船が何隻も陸地の打ち上げられました。そこは海岸線に面した小規模住宅の密集地であったため被害が拡大しました。
(この部分など台風ヨランダの被害については、柴山知也他「2013年台風Yolanda(Haiyan)による高潮被害の調査と分析」土木学会論文集B3(海洋開発)Vol70,No.2 2014を参照しました。)

私たちが訪れたのは、うちあげられた貨物船の一部を使ったモニュメントです。「船」上から見えるのは、「三陸」のような「空き地」ではなく、小規模住宅のなにもなかったような密集です。これといった高潮対策がとられたようにはみえないまま。

こうした姿は、レイテ島の各地で見られました。レイテ島はサマール島についでフィリピンの中でも貧しい地域なのです。

「平和記念碑」~沖縄の「慰霊碑」との違いは

私たちはいったんホテルにチェックインし、タクロバン付近の慰霊碑などをめぐりました。

タクロバンの平和記念碑

州都タクロバンには、レイテでもっとも公的といえる慰霊施設があります。市役所の東斜面、海岸に面した場所には、広い平和公園(The Philippine-Japan Commemorative Peace Park)があり、市役所からつづく丘の上に平和記念碑があります。レイテを訪れた日本政府関係者などが花輪を捧げるもっとも公的な慰霊碑です。
碑は台座に大理石の板を張り付けた構造です。大理石の角が少し欠けており時代の経過を感じます。
碑自体に碑文はなく、階段下、公園入り口にありました。ある意味で典型的なので、引用します。

この平和記念碑は、第二次世界大戦で母国のため勇敢に戦って戦死した日本とフィリピン両国の軍人、軍属、ならびに戦火によってこの地で尊い生命を失われたすべての人々の御霊を鎮めると共に永遠の平和を祈念して建設した。
またフィリピンと日本の平和記念公園は平和を愛する日本とフィリピン両国民の相互理解を願いレイテ住民のいこいの場所として建園した。(以下略)
<沖縄にある「ある慰霊碑」の碑文>
第2次世界大戦中、太平洋方面の戦場における本県出身者の戦死者は実に2万8000余柱の多きに及んだ。
今これらの英霊をなぐさめるために最後の決戦場であったこの摩文仁の丘にはるかに郷土の貞石を運んではがくれの塔を建てながくその忠勇を顕彰する。
(以下略)

レイテ島、そしてフィリピン全土には、多数の慰霊碑があります。その碑文をみていくと、この碑と同様に「第二次世界大戦で母国のため勇敢に戦って戦死した」という記述が基本です。この部分は、同様に多数の慰霊碑が建てられる沖縄、さらには国内に多く建てられた碑と同様でしょう。
しかし、フィリピンの碑文は、沖縄の多くとは少し異なります。沖縄などの慰霊碑(とくに戦友会・遺族会・自治体などのもの)を見て暗然たる思いをするのは、「英霊」「忠勇」といった「美化された死」と「繁栄の礎」という神話に結びついた碑文のみに終始していることが多いのです。

<碑文>昭和二十年春沖縄島の戦いに際して
京都府下出身の将兵に二千五百三十有余の人びとが遠く郷土に想いをはせひたすら祖国の奥陸を念じつつついに
砲煙褌雨の中に倒れた
 また多くの沖縄住民も運命を倶にされたことは誠に哀惜に絶へない

戦場となり、戦闘に巻き込まれ、犠牲とされた人々、沖縄住民などへの配慮が欠けるものも多いのです。自分たちの悲しみや苦しみのみに固執し、ときには自己正当化に終始し、慰霊の対象たる兵士たちがそこで行った「悲しく残念な出来事」や住民の苦しさなどに目が向けられないのです。そのことは現在の沖縄に対する「目」にもつながっているように思えます。

住民への「目」をもった嘉数高地の「京都の碑」が沖縄で高く評価されるのは、他の慰霊碑のある種の「無神経さ」のためでもあります。

慰霊碑から戦後の日比関係史を学ぶ

フィリピンの慰霊碑はすこし異なります。

パロの「比島戦歿者供養塔」 <碑文> This is the tower erected for the repose of many war deads souls on the fields in the Philippines during World War Ⅱ.We pray sincerely for the worlds eternal peace.September,1978 発願者 日本国曹洞宗三重県第一宗務所 建立

多くはフィリピンの人々、さらに他国の兵士への「配慮」が書き込まれ、「平和と友好」がうたわれます。英語や現地の言葉の銘文を付け加えます。日本語の銘文がないものさえあります。
日本の占領はフィリピンの人々に苦しみを与えました。そこで行われた残虐な所行は敵意を増し、命を賭して日本軍とたたかうゲリラへの参加は増えていきました。フィリピンの人の中で生まれた、反日意識は戦後になってもなかなか拭えませんでした。
しかし、こうした感情は戦後変化していきました。

 

 

ここでは「シノドス」(「信頼性の高い知識と情報を提供するのを目的」とのコンセプトで運営されるサイト)のなかの「フィリピンで日本軍は何をしたのか?」という対談から、戦後の日比関係を学びたいと思います。対談するのはフィリピン近代史研究の第一人者・一橋大学の中野聡教授と荻上チキ氏です。これがフィリピンの慰霊碑に特徴を与えたと考えるからです。(論旨を越えて、私が行ったコメントは[ ]で示します)

中野教授は、日本とフィリピンは、他の国々との関係と違い、「勝って、罰して、罰したうえで赦すというプロセスをわりあい順序よく踏むことができた」ことに注目しています。
まず①フィリピンをめぐる戦争は「加害と被害の関係がはっきり」した「謝るしかない、お詫びするしかない」戦争でした。
②日本がフィリピンに敗れたことも明白でした[サンフランシスコ平和条約でフィリピンは「戦勝国」として署名します]
また③問題はあったとしても、フィリピン側が戦争犯罪者を[現地で、さらには東京で]裁判にかけ処罰、のち現地の多くの受刑者に特赦を与え帰国を認めたこと[東京裁判にはフィリピン人判事も参加しています]
最後に④賠償協定が結ばれ、日本が戦時賠償を支払ったこと。しかもその額は日本が支払った賠償金でも最高額であったこと。
フィリピン側からすれば主体的に戦争の問題を処理したという思いがあるでしょう。こうした手続きをふんで、フィリピンでは公的には「赦す」という方向がうちだされたのでしょう。
対する日本でも、自民党議員が賠償額が「この程度の金額ですんだことに対して「敬意を表すべきだ」」と述べたように「謝罪」の気持ちがあったのも重要です。
[さらにいえば、フィリピンが西側陣営にぞくし、アメリカと密接な関係があったことも「お詫び」しやすかった、という事情があるのかもしれません。]

ともあれ、こうした手続きをふむなかで日本とフィリピンの公的なレベルでの関係が好転しました。
1964年に自由な海外旅行が許可され、多くの人たちが慰霊のためにフィリピンを訪れるようになり、この時期から、慰霊碑も建ち始めます。早い時期に訪問した日本人はフィリピン人に与えた被害をふまえて行動しました。(「シノドス」2016.03.01 )

慰霊碑の建立~フィリピン人の「目」を意識して

少なくとも公的には謝罪と赦しという経過をへることで日本兵の遺骨収集・さらには慰霊事業が本格化します。

ドラグの「垣兵団・遺族・生存者建立の碑」題字は記されず、日本語と英語の碑文があわせて記されている。1976年建立

この時期、レイテはもちろん、ルソンなど他の島々にも多くの遺骨が残されていました。元兵士や遺族が、未回収の遺骨を収集し、慰霊を行うためには、フィリピン側の許可と協力なしには不可能です。

政府間の関係が改善したといっても、家族を殺されたり略奪・暴行の被害をうけるなど、戦争中、辛い思いをしたフィリピン人は多数に上ります。政府の側の「赦し」と実際に傷を受けた人の感情は当然異なります。収骨と慰霊の事業はつねにフィリピンの人々の「目」を気にしながらすすめられざるをえませんでした。
この結果、この地の慰霊碑はフィリピンの人々が「赦す」ものでなければならなかったのです。
碑文は、日本語だけでなく英語や現地の言葉で刻まれ、「友好」「平和」といった文字が多く用いられ、一方的な印象をうける「英霊」「忠魂」といった文字も抑えられがちでした。そもそもフィリピンの人に配慮しなければ、慰霊碑は維持できませんでした。相手に理解され共感を得ないような慰霊碑は、管理の費用の納入が滞れば撤去の対象にしかならないでしょうから。
中野教授はいいます。「フィリピン人はとても寛容な態度をとって、暖かく迎えてくれました。日本人から見ると意外なほどに歓迎してくれるわけです。そうすると日本人は感謝します。ここに良い循環が生まれ」た、と。こうしたことが日本とフィリピンの関係に好影響を与えたとされます。
しかし、戦争を知る人間が減るにつれて、日本語だけの慰霊碑、さらには「英霊碑」などがふえていったと思われます。双方とも戦争の記憶がうすれるなかでこうした傾向が高まったのではないかと考えています。

「マドンナ オブ ジャパン」

タクロバンの観音像(”マドンナ オブ ジャパン”)当地の観光名所でもある。

公園の北側、坂を下ったところにタクロバンの人々にとっても親しみ深い慰霊碑があります。観光名所としても知られる観音像「マドンナ オブ ジャパン(Madonna Of Japan)」です。かなりの大きさです。
ここもヨランダの被害を受けたように見えます。観音自体は大丈夫ですが、台座の日本語碑文は割れており、英文のものは別の場所にかためてありました。日本庭園は荒れ、そこに置かれた石の不動明王も1/4が欠けています。このあたりの高潮は6.2メートルということですから、よく残ったというべきかもしれません。

「日豪米比の慰霊碑」

日比米豪合同慰霊碑(四カ国の兵士の慰霊碑が並ぶ)

タクロバンの南にパロという町があります。この町の中央にあるパロメトロモポリタン大聖堂の西隣の公園の北側に四本のクリーム色の塗料で塗られた角を取った三角柱の各面に文字が刻まれるという形の管理の行き届いたきれいな慰霊塔があります。

日本兵の慰霊碑(日本語で示されたのはこの一面のみ)

一般には「日豪米比の慰霊碑」とよばれ、四本それぞれが、オーストラリア、アメリカ、フィリピン、日本の兵士の慰霊碑となっています。オーストラリア兵ももレイテ戦に参加していました。最初、見たときは英文のみで、「日本の慰霊碑」はないのかとおもいました。しかしよく見ると一番右側の柱の一面にのみ、「第二次世界大戦時レイテ島に散った日本兵勇士の霊に合掌する。古兵より」と記されていました。さまざまな配慮のもと、この碑が建てられていることを感じました。

荒廃しつつある慰霊碑。「比島戦殁者供養塔」

このパロは、マッカーサーがフィリピンに復帰の第一歩を示した場所として有名です。
西に向かえば、島北部のカリガラ平原・リモン峠をへて中部オルモック平原につながります。
この地には三重県出身者を中心とした第16師団歩兵第33連隊主力がおかれ、上陸してきた米軍と激戦を繰り返します。とくに激しい戦いとなったのがパロから川を隔てた北側にある通称「十字架山」の攻防戦でした。虚をついてこの山を占拠した米軍と奪還をめざす日本軍が激戦を繰り返しました。三十三連隊は遂に敗れ、連隊長を含め多くが戦死、この地を突破した米軍は一挙にカリガラ平原へと進出していきます。

パロの「戦歿者慰霊塔」 藪に覆われて近づかないと姿が見えない。

十字架山の南西麓に三重県の曹洞宗関係者によって建てられた「比島戦殁者供養塔」があります。この碑が事実上、三十三連隊の慰霊碑の役割をしているようです。
この碑をみつけるのは苦労しました。道路から、道といえるかどうかわからないあぜ道をすすみ、山際の藪の中、倒木を越え、階段を上がった場所にあるのです。道路からはまったく見えません。実は、途中で道を聞いた人が、あとからバイクで追いかけてきて道案内をしてくれたのでやっとみつかったのです。彼の案内なしでは見つけることは不可能だったでしょう。
碑は、題字を記した四角い碑の上に屋根をつけた塔で碑文は英文のみです。碑は漆喰状の塗料が塗られていますが、がかなり剥げ落ちており、碑自体は残ったとしても早晩藪に覆われて荒廃していくと思われます。
さらにフィリピンでは山下財宝がどこかに隠されているという都市伝説がささやかれており、この碑のまわりも掘り起こされたあとがあるとのことでした。

マッカーサーメモリアルパーク

米軍の上陸地点の一つであったパロには、フィリピン全体の観光名所ともいえる大きな像があります。

マッカーサーを中心とした6名の群像です。公園が整備されています(MACARTHUR LANDING MEMORIAL PARK)。群像は、マッカーサーが先頭に立ち、他の幕僚たちをしたがえるという構図です。横に立つ一人はフィリピン自治政府(コモンウェルス)大統領オスメーニャだとおもうのですが、資料が見つかりません。
砂浜では足下に水でつからないので、あえて浅い池をつくり、つねに足下に水がくるようにつくられています。
マッカーサーという人物は自己顕示欲の強い人なので、実際の上陸したときもこうした像になることを意識していたのでしょう。

「群像」をどの角度から見るのか

日本軍からすれば、すさまじい艦砲射撃と空軍による爆撃と機銃掃射、その炎の中から現れる「大魔王」がマッカーサーというイメージでしょう。夕暮れで暗くなり始めたこともあって、いっそう威圧的な印象を受けました。

米兵の位置からみた群像

この角度が日本軍の視点なら、アメリカ軍はどうかと思い、像のうしろ海側にまわってもみました。
そこで気になったのはフィリピン人はどこにいるのかということです。フィリピン人はどちら側に立っていたのだろうか、と考えて見ました。急にやってきて支配者面をし時には残虐な行為を行う日本軍をこらしめるためにやってきたのですから、事実とすれば海岸側でしょう。
しかし、別の思いがありました。上陸してくるのは、かつての支配者であり、独立寸前だったフィリピンを再び植民地として統治したアメリカです。マッカーサーは、日本軍とたたかうのと同時に、再び自分たちを統治(支配?)しにやって来たという性格も持っているのです。その意味では、フィリピンにとっても「大魔王」の顔ももっていたのでしょう。
この像を見ているフィリピンの人たちの思いはどうだろうかと思います。
さきの中野聡さんは1994年「レイテ湾上陸50周年記念式典」に参加しました。その体験を文章として残しています。式典では比米豪軍をつかったショーも行われ、そのクライマックスで司会者は例の言葉、「アイ シャル リターン」と叫んだそうです。しかし「観衆の何処からも拍手が沸かなかった」と記しています。アメリカ・マッカーサーへの複雑な心境をしめしているようです。(「レイテ湾上陸50周年記念式典参加記」同氏HPよりhttp://www.ne.jp/asahi/stnakano/welcome/apwar/leyte.html)

“Japanese Pillbox” 戦死した日本兵の「目」

マッカーサーの威圧的な像が上陸してきたアメリカを象徴するものなら、その巨大な力の前に投げ出された日本人を象徴する戦争遺跡が残っています。日本軍がつくったトーチカです。
最初は違う場所を探していたのですが、私が使っていたタブレット用の地図に“Japanese Pillbox”という名があり、”pillbox”に「トーチカ」という意味があることに気づきました。それは、タクロバン空港がある小さな半島の付け根(北サンホセ)の海岸、高級リゾートホテルの敷地にあることがわかりました。

タクロバン(北サンホセ)のトーチカ跡

ホテルにつながる道路の入り口で、警備員に事情を話し、入れていただきました。たしかに、ホテルの庭に、沖縄・嘉数高地でみたようなトーチカがありました。
Wikipediaによるとトーチカとは「鉄筋コンクリート製の防御陣地」をさし「円形や方形などの単純な外形で、全長が数メートルから十数メートル程度、銃眼となる開口部を除いて壁でよく保護された防御施設」と定義されます。
この地のトーチカは大部分は埋まっていたらしいのですが、ホテルの観光資源でもあるので、きれいに整備されていました。
内部は暗く、海側に向いた縦20センチ位、横1メートル弱の長方形の穴から光が入ってきます。数名の人間がここにこもり、艦砲射撃を耐え、この穴から上陸してくる敵にむかって砲撃する、それはこちらの砲撃に数倍、数十倍、あるいは数百倍の砲撃を受けることを意味しています。にもかかわらず銃撃する。その思いと恐怖を感じました。

野砲兵第22連隊第二中隊

トーチカの内部(ストロボ撮影)

このトーチカにいたのは野砲兵第22連隊第二中隊でこの地(北サンホセ)の海岸線に7.5センチ野砲3門を配していたといいます。前日に偵察に来た船に砲火を浴びせたため米軍に存在を知られることになり、上陸当日には集中的に砲弾が撃ち込まれました。その結果、観測機器を含めて、砲1門をのこしすべて破壊されました。にもかかわらず「一門だけ残留する砲座からの火力とは到底、考えられないほどの射弾をおくり続けた」といいます。その砲撃は、このトーチカを米軍によるロケット弾搭載砲艦の絶好の標的にしました。

別の場所で米軍と向き合っていたトーチカの生き残りの証言によると、「自分たちの周囲一帯があたかも灰黒色の煙幕を張りめぐらしたような猛煙に包まれるのを感じた」といいます。この砲弾は十メートル四方に、正確に九発ずつの弾着炸裂の破孔をつくり出しました。
私たちが見ていたトーチカにいた第二中隊は「砲三門を全壊され、中隊全体が水際陣地内で全滅」しました。(参照と引用は『防人の歌・レイテ編』(京都新聞社1981)P131~133)

なお、この本では、こうした状態をうけ撤退した残り二つの中隊に対し連隊長が激高、「なぜ勝手に退却してきたのか。当地において玉砕を命ず」と面罵、さらには「中隊長の指の一本も持って帰っていないのか、ただちに骨を拾いに行け」と命令、無駄に兵士たちの命を奪うシーンがつづきます。

他方、「レイテ戦記」は簡潔に記します。
大隊は半島頸部の三つのトーチカから散発的抵抗を受けただけで、一時間後には飛行場に達した」「第二大隊は上陸地点で二つのトーチカを処理し、十三名の日本兵を殺した(『レイテ戦記(上)』P81)

ホテルの庭園の一部となった日本軍トーチカ跡

かれらがどのように「処理」されたのだろうか。穴から砲弾の破片が飛び込んだのか、銃撃されか、手榴弾を投げ込まれたか、あるいは火炎放射器を浴びたか、いずれにしてもその攻撃によって「処理」されたのでしょう。
大量に兵士が「処理」されるのが戦争です。こうした出来事の積み重ねの上に戦争は行われるのです。

ふと気がつくと、二人のドライバーがなんともいえない表情でトーチカを見ていました。何か、感じる所があったのかもしれません。
トーチカについた時間、すでに夕刻でした。日没と争いながら、それをみていたことになります。

アルハンドロホテル~戦争の記憶を伝える

ホテルはアルハンドロホテルです。

アルハンドロホテル入り口。

このホテルには、戦争にかかわる写真が「デザイン性さえ無視して」所狭しと展示されています。フィリピンの日本語新聞「マニラ新聞」は、経営者の戦争に対する思いを伝えています。以下紹介します。
(「マニラ新聞」2005.6.20「戦後60年 慰霊碑巡礼第2部レイテ編第6回戦地のピアニスト」藤岡順吉執筆)

このホテルはもともと、1932年に建ててられた医師の住居でした。戦争前は市の上流階級や米軍将校も集まる社交場でもあったそうです。
1942年日本軍が侵攻すると、部屋の一部を日本人将校が接収しました。一人の将校はすぐれたピアニストで「家内コンサート」も開いてくれました。次にやってきたのがレイテ高校の日本人教師「ハヤシ」「スズキ」です。ホテル経営者(※2006年当時)はいまでも彼らを「センセイ」とよびます。「センセイたちは戦争を嫌っていた。それをわたしたちフィリピン人に公言」していました。かれらが軍服を着て出て行ったときは「悲しくなった」そうです。

ホテル=アレハンドロの内部

米軍がやってきて以降、この邸宅を連合国側の記者らが宿としました。
経営者が自邸敷地をホテルとしたのは1998年のことです。
戦争とともに生きたこの邸宅をサービスを通じて伝えたいと考え、自分たちが収集してきた450点の写真をホテル内に展示しました。
アレックスさんは幼いころ、戦争と一緒にやってきた日本人と共有した時間を忘れない。確かに『占領』といえるが、友情があったし、笑いもあった。ピアノの演奏で感動することもあった」と語る。古い建物のどこかからピアノの音色が聞こえてくるような気がした。」と記事は結ばれます。

戦争はいろいろなドラマを飲み込んでいきました。本来ならじっくりと写真を見てまわりたかったのですが、時間がなくて十分見られなかったのが残念です。
翌日は、レイテ各地の戦争遺跡をめぐります。

<つづく>

<フィリピン・レイテで考えたこと:メニューとリンク>
1:フィリピン・ビコール地方の戦争
2:「フィリピン・幸せの島・サマール」~サマールの戦争
3:上陸する米軍,迎え撃つ日本軍,フィリピンは~タクロバン・パロ
4:米軍の上陸とハンサムな中尉~ドラグをめぐる話
5:慰霊碑巡り
6:ドライバーの問い

◎私たちが訪れた慰霊碑の一覧:Excel版:PDF版

 

 

元高校教師の近現代史の授業と講座を公開します