【史料】大隈重信国会開設奏議(矢野文雄)

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大隈重信国会開設奏議

(出典:江村栄一『日本近代思想大系 憲法構想』p217~223)
※参照:国立国会図書館デジタルコレクション大隈重信の上奏文(写)」

解題<江村栄一『憲法構想』より>

左大臣有栖川宮熾仁親王が立憲政体に関する意見を諸参議に求めたとき、大隈重信はやや遅く明治14年(1881)3月、彼の見解を密奏した。欽定憲法、永久官設置など保守的な構想を含んでいるが、主要な論点は国会の早期開設と藩閥政治を批判する英国流議院内閣制の主張に置かれていた。この上奏はやがて伊藤博文の知るところとなり、結局明治十四年政変の大隈罷免へと帰結し、憲法制定は岩倉具視・伊藤博文・井上毅が担うことになる。その意味で大隈奏議の問題は、明治政府内において英国的立憲制を排し、プロシア的立憲制を採る決定的な画期になった。この上奏文はトッドの「英国議院政治」を参考にした矢野文雄によって起草され、小野梓によって修正が加えられたものとされている。

矢野文雄(龍渓)1851*-1931 明治-大正時代のジャーナリスト,新聞経営者

奏議の原本は知られていないが、伊藤博文手写本の複製を底本とする「大隈参議国会開設奏議」(「明治文化全集」正史篇下)、「大隈重信奏議書」(「大隈重信関係文書」第四巻)などがある。ここでは、伊藤博文の毛筆手写本(小型七行麝紙和綴一冊)を新たに底本とした。伊藤筆写本の大隈奏議には、表題が付されていない。また、奏文の次の目次第五と本文の題目に小異があるが、凡例によりすべて底本に従った。この底本により、明治文化全集本の若干の箇所を訂正することができる。すでに知られていることであるが、この写本の末尾には「右明治十四年六月二十七日三條太政大臣ニ乞テ 陛下ノ御手元ヨリ内借一読ノ上自写之博文」と記されている。
(吉野作造「大隈参議国会開設奏議解題」「明治文化全集」正史篇下)、大久保利謙「明治一四年の政変」(明治史料研究連絡会編「明治政権の確立過程」)、稲田正次「明治憲法成立史」上巻参照。)p217

本文

臣謹テ按ズルニ、根本立テ而テ枝葉栄へ、大綱ヲ挙テ而テ細目定<さだま>ル。今日ノ政務二於ケル、応<まさ>二立ツべキノ根本有リ、応ニ挙グべキノ大綱有リ。今ヤ廟議方<まさ>ニ明治八年ノ聖勅国議院設立ノ事ニ及ブ。則チ意見ヲ論述シテ以テ進ム。垂鑒採納ヲ賜ラバ、何ノ幸カ是ニ若<し>カン。臣重信誠惶誠恐頓首謹言。

明治十四年三月       参議  大隈重信

大隈重信意見書(伊藤博文文書)国立国会図書館https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3860372

第一 国議院開立ノ年月ヲ公布セラルベキ事
第二 国人ノ輿望ヲ察シテ政府ノ顕官ヲ任用セラルベキ事
第三 政党官卜永久官トヲ分別スル事
第四 宸裁ヲ以テ憲法ヲ制定セラルベキ事
第五 明治十五年末ニ議員ヲ撰挙シ十六年首<はじめ>ヲ以テ議院ヲ開クベキ事
第六 施政ノ主義ヲ定ムベキ事
第七 総論

第一 国議院開立ノ年月ヲ公布セラルベキ事

人心大ニ進テ而テ法制太ダ後<おく>ルゝトキハ、其弊ヤ法制ヲ暴壊ス。人心猶ホ後レテ而テ法制太ダ進ムトキハ、法制国ヲ益セズ。故ニ其進ム者未ダ甚ダ多カラズ、其後ルゝ者稍<ようや>ク少キノ時ニ当リ、法制ヲ改進シテ以テ人心ニ称<かな>フハ則チ治国ノ良図ナリ。

大隈重信(1838~1922)佐賀出身。維新後,明治政府で重職を歴任、秩禄処分,地租改正などを推進した。明治十四年の政変で官職を辞し,翌年立憲改進党を結成し,総裁。

去歳以来国議院ノ設立ヲ請願スル者少カラズ。其人品素行ニ至テハ種々ノ品評アリト雖ドモ、要スルニ是等ノ人民ヲシテ斯<かく>ノ如キ請願ヲ為スニ至ラシ厶者ハ、則チ是レ人心稍<ようや>ク将ニ進マントスルノ兆候ニシテ、自余一般ノ人心ヲ察スルニ、其後<おく>ルゝ者亦タ甚ダ稀少ナラントス。然ラバ則チ、法制ヲ改進シテ以テ国議院ヲ開立セラルゝノ時機、稍<ようや>ク方<まさ>ニ熟スト云フモ可ナリ。

又人心稍ク進ミ法制稍ク後ルゝトキハ、人心ノ注著スル所一ニ法制ノ改進ニ在ルガ為メニ、夫<か>ノ人民ニ緊要ナル外国ニ対峙スルノ思想卜内国ヲ改良スルノ思想トハ殆ンド其ノ胸裏ヨリ放離シ去リ、唯<ただ>制法改革ノー辺ニ熱中セシムルニ至ラントス。是亦国家ノ不利ナリ。

故ニ民智ノ度位ヲ察シ、国内ノ清平ヲ謀リ、制法ヲ改進シテ以テ漸次立憲ノ政ヲ布<し>カセラルベキ聖勅ヲ決行アラセラレン事、是則今日応<まさ>ニ挙グべキノ大綱、応ニ立ツベキノ根本ナリ。請フ、速<すみやか>ニ議院開立ノ年月ヲ布告セラレ、憲法制定ノ委員ヲ定メラレ、議事堂ノ創築ニ着手セラレン事ヲ。
(開立ノ年月八第五条ニ詳記ス。)

第二 国人ノ輿望ヲ察シテ政府ノ顕官ヲ任用セラルベキ事

君主ノ人物ヲ任用抜擢セラルゝハ固ヨリ国人ノ輿望ヲ察セラルベキ事ナレドモ、独裁ノ治体ニ於テハ国人ノ輿望ヲ表示セシムルノ地所ナキガ故ニ、或ハ功績ニ察シ或ハ履行ニ求メ、其最モ国人ノ為ニ属望<しょくぼう>セラルベシト叡鑒[鑑]<えいかん>アルノ人物ヲ延用シテ政務ノ顧問ニ備へラルゝモ、是レ已<や>ムヲ得ザルニ出ル者ナリ。若シ政体ニ於テ国人ノ輿望<よぼう>ヲ表示セシムルノ地所アランニハ、其輿望ヲ察シテ以テ人物ヲ任用セラルベキハ無論ナリ。斯<か>クノ如クセバ則チ撰抜明ニ其ノ人ヲ得テ皇室益々尊カルベシ。

立憲ノ政治ニ於テ輿望ヲ表示スルノ地所ハ何ゾ、国議院是ナリ。何ヲカ輿望と謂フ、議員過半数ノ属望是ナリ。何人ヲカ輿望ノ帰スル人卜謂フ、過半数ヲ形<かたちづく>ル政党ノ首領是ナリ。
<そもそも>国議員ハ国人ノ推撰スル者ニシテ其ノ思想ヲ表示スル所ナルガ故ニ、其推撰ヲ被リタル議員ノ望ハ則チ国民ノ望ナリ。国民過半数ノ保持崇敬スル政党ニシテ其領袖卜仰慕<ぎょうぼ>スルノ人物ハ、是豈<あに>輿望ノ帰スル所ニアラズヤ。然<しからば>則チ立憲ノ治体ハ是レ聖主ガ恰当<こうとう>ノ人物ヲ容易ニ叡鑒[鑑]アラセ玉フベキ好地所ヲ生ズル者ニシテ、独リ鑒[鑑]識抜撰ノ労ヲ免レ玉フノミナラズ、国家ヲシテ常ニ康寧<こうねい>ノ慶福<けいふく>ヲ享有セシムルヲ得べキナリ。何トナレバ、斯クシテ撰用セラレタル人物ハ人民参政ノ地所ナル国議院ニ於テ過半数ヲ占有スルガ故ニ、外ニハ則チ立法部ヲ左右スルノ権ヲ握リ、又聖主ノ恩寵<おんちょう>ヲ得テ政府ニ立チ自党ノ人物ヲ顕要ノ地ニ配布スルガ故ニ、内ニハ則チ行政ノ実権ヲ操ルヲ得ベシ。是ヲ以テ内外戻ラズ、庶政一源ヨリ発シ、事務始テ整頓スベケレバナリ。

其治体ハ立憲ニシテ、其国康寧ノ慶福ヲ享<う>ケズ、或ハ時卜シテ紊擾<ぶんじょう>紛乱ノ勢態ニ至ル列国治乱ノ迹<じゅつ>ヲ按ズルニ、是等ノ不幸ニ陥入スルノ病源ハ、常ニ執政者ガ其地位ヲ眷恋愛惜シテ捨テ難キト、当時ノ君主ガ其寵遇<ちょうぐん>ノ顕官ヲ罷免シ能ハザルトヨリ、立法部ニ於テ輿望ノ帰シタル政党ノ首領卜行政顕官トノ間ニ軋轢<あつれき>ヲ生ズルニ因ラザル者ナシ。夫ノ有名ノ立憲国ナル英国ノ如キモ、千七百八十二年以前ハ則是ノ如キ状勢ナリシナリ。然レドモ積年累歳ノ経験ヨリ、同年以降ハ君主モ輿望ヲ察シテ顕官ヲ撰用シ、国議院中多数政党ノ首領タル諸人ニ重職ヲ授与スルニ至レリ。然シヨリ以来ハ、政府議院ノ間ニ於テ復<ま>タ軋礫ノ迹ヲ見ル事能ハズ。同国政党ノ争ハ常ニ議院ニ於テスルモ、復タ政府ニ於テセザルニ至レリ。

立憲政体ノ妙用ハ其実ニ在テ其形ニ存セズ。立法、行政、司法ノ三権ヲ分離シ、人民ニ参政ノ権理ヲ付与スルハ是其形ナリ。議院最盛政党ノ領袖タル人物ヲ延用シテ之ヲ顕要ノ地位ニ置キ、庶政ヲ一源ニ帰セシムル者ハ是其実ナリ。
若シ其形ヲ取テ而テ其実ヲ捨テバ、立憲ノ治体ハ徒<いたずら>ニ国家紛乱ノ端緒ヲ啓<ひら>クニ足ルノミ。然<しからば> 則 前述セル君主ガ人材登庸ノ責任ヨリ論ズルモ、一国康寧ノ政理ヨリ論ズルモ、列国治乱ノ実例ニ鑑照スルモ、政府ノ顕官ニハ議院中ナル多数最盛政党ノ領袖タル人物ヲ任用アラセラレザル可ラズ。

然レドモ人智ノ薄弱ナルガ為メニ、一回ハ国民ノ輿望ヲ得タル政党モ其施政ノ巧拙ニ因テ又衆望ヲ失ヒ、議院中ノ多数勢力却<かえっ>テ他ノ政党ニ移転スル事アルベシ。

是等ノ場合ニ於テハ、聖主亦タ衆望ヲ察セラレ、新勢ヲ得タル政党中ノ人物ヨリ更ニ顕官ヲ抜撰セラレザルベカラズ。議院政党ノ盛衰ヨリ生ズル斯ノ如キ顕官ノ更迭ハ、尤モ整然タル秩序アルヲ緊要トス。其新陳交代ノ間ニ存スベキ順序ハ左ノ如クナラン事ヲ要ス。

内閣ヲ新ニ組織スルニ当テハ、聖主ノ御親裁ヲ以テ議院中ニ多数ヲ占メタリト鑒[鑑]<かんしき>セラルゝ政党ノ首領ヲ召サセラレ、内閣ヲ組立ツベキ旨ヲ御委任アラセラルベシ。然ルトキハ是ノ内勅ヲ得タル首領ハ、其政党中ノ領袖タル人物ヲ顕要ノ諸官ニ配置スル組立ヲ為シ、然ル後チ公然奉勅シテ内閣ニ入ルベシ(内閣ノ組立ヲ委任セラルゝハ通例政党ノ首領ヲ可トスレドモ、時トシテ其党中自余
ノ人ニ命ゼラルゝモ可ナリ。但斯ノ如キ場合卜雖ドモ行政長ハ猶其首領ナラザルベカラズ。英国ニモ時トシテ此例アルヲ見ルナリ)。

斯ク最盛政党ヲ鑒[鑑]識セラルゝノ時ニ於テハ、政党ニ関係セザル宮方或ハ三大臣ニ顧問アラセラレンコソ可ナルベシ。

内閣ヲ組立ル所ノ政党稍<ようや>ク議院ニ失勢スルトキハ、政府ヨリ下附スル重大ナル議案ハ反対党ノ為メニ攻撃セラレテ屢々<しばしば>議院中ニ廃案卜為ルベシ。是則チ内閣政党失勢ノ兆候ナリ。斯ノ如キトキハ庶政一源ニ出ル事能ハザルガ故ニ、失勢政党ハ是時ヲ以テ退職スルヲ常トスベシ。

斯ク失勢ノ兆候既ニ現然タル時ニ於テ、其政党勢威ニ眷恋<けんれん>シ猶ホ行政部ヲ去ラザルトキハ、得勢ノ反対党ヨリ議院ニ於テ「内閣行政ノ顕官ハ議院ニ於テ信用ヲ失ハザルヤ否」ノ決議ヲ為サン事ヲ動議スベシ。是ノ動議ニ従ヒ取決シテ而テ失信用ナリト決スルトキハ、議院ヨリ聖主ニ奉書シ、内閣已ニ信用ヲ議院ニ失フ、速ニ親裁更撰アルベキ旨ヲ請願スベシ。失勢政党猶ホ退職セザルトキハ、聖主ハ議院ノ求ニ応ゼラレ之ヲ罷免セラルベシ(英国等ノ例ニ因リ、失勢ノ兆候現ハレシト同時ニ退職スルヲ常トスベシ)。

然レドモ執政々党既ニ議院ニ失勢ノ兆ヲ現ハシ失信用ノ議決ヲ受ケント欲スルニ臨ムトモ、若シ広ク国人ノ意想ヲ察シ其実ニ我政党ニ多数ノ属望アルヲ洞識シ、現在ノ国議員ハ誤撰ナリト認ムルトキハ、聖主ノ允許<いんきょ>ヲ蒙<こうむ>リ、聖主ニ特有シ玉フ議院解散ノ権ヲ以テ直ニ之ヲ散解シ、其改撰議員ニ於テ我ガ政党ノ多数タラン事ヲ望ムベシ。若シ多数タラバ内閣ヲ永続セン、若シ少数タランニハ則退職セザルベカラズ。是ノ解散権ハ則各政党ガ最後ノ依頼卜云フモ可ナリ(是權ハ最モ濫用ヲ慎ムベシ、常用スレバ大害ヲ醸ス。英国ノ如キモ是例ハ両三回ニ過ギズ)。以上政党更迭ノ順序ハ大抵英国ノ例ニ依ル者ナリ。

第三 政党官卜永久官ヲ分別スル事

前述スルガ如ク政党ノ盛衰ヨリ顕官ノ更迭ヲ生ズルノ時ニ方<あた>リ、其更迭ハ全部ニ及ブべキヤ将<は>タ幾分ニ止ルベキヤハ、則チ重要ナル疑問ナリ。
凡ソ諸般ノ事務ハ最モ習熟ヲ要ス。加ルニ官衙<かんが>ノ事ノ如キ其細瑣<さいさ>ノ条件ハ多ク旧法古例ヲ参照スルガ故ニ、最少ノ費額ヲ以テ淹滞<えんたい>ナク最多ノ事務ヲ弁ゼント欲スルニハ、属僚下吏ノ永続勤務ヲ以テ最モ緊要ナリトス。然ルニ是等ノ官吏ヲシテ常ニ政党卜更迭ヲ与<とも>ニセシメバ、其不利不便、蓋シ言フ可ラザル者アラン。且ツ幾万ノ官吏其進退ヲ政党ノ盛衰ニ繋<つな>ゲバ、各派軋轢ノ勢転<うた>タ暴激ヲ極ムルニ至ラン。故ニ官吏中ニ於テ其職指命ヲ司<つかさどり>テ細務ヲ親執セザル者卜、指命ニ服事シテ細務ヲ親執スル者トヲ区別シ、甲ヲ政党官トシテ政党卜与ニ進退シ、乙ヲ永久官(則チ非政党官)トシテ終身勤続ノ者タラシムベシ。又上等官人ノ中ニ於テ、其地位重職ニ在リト雖ドモ一国ノ治安公平ヲ保持スルガ為メニ政党ニ関与セシムべカラザル者有リ。是等ヲバ中立永久官卜為シ、一種ノ終身官トスベシ(英国ノ例ニ依ル)。

政党官ノ種類ヲ略記スレバ、参議、各省卿輔、及諸局長、侍講、侍従長等是レナリ。以上ノ政党官ハ大概ネ議員トシテ上下院ニ列席スルヲ得ル者トス(大抵英国ノ例ニ依ル。政党官及ビ非政党官ノ別ハ憲法制定ノ時ニ於テ猶ホ詳議ヲ要スルガ故ニ、今唯大要ヲ掲グ。以下亦同ジ)

永久官ノ種類ハ、各官庁ノ長次官局長ヲ除テ、以下ノ奏任及ビ属官等是ナリ。是等ノ官人ハ議員タルヲ得ザル者トス(同例)

中立永久官ハ、三大臣(政党ニ関与セズ、聖主ヲ輔佐シ奉リ、内閣組立ノ為メ最盛政党ニ内勅ヲ下サルゝ時等ニ於テ顧問ニ備<そなわ>リ公平ニ国益ヲ慮<おもんぱか>ラレンガ為メ、其非政党官タラン事ヲ望ム。且ツ大臣三位ハ与ニ無人則欠ノ官卜定メラレテ可ナルベシ)、及ビ軍官、警視官是レナリ。以上三種ノ職ハ皆国内ノ治安公平ヲ保持スルニ在ルガ故ニ、其最モ不偏中正ノ令徳ヲ備へン事ヲ欲スベシ。若シ是等ノ官人ニシテ熱心政党ニ関与セバ、他党ヲ圧スルガ為メニ、或ハ兵力或ハ裁判権ヲ用ヒ国内ノ治安ヲ妨ゲ、或ハ其公平ヲ失シ社会ノ騒乱ヲ醸生<じょうせい>スルニ至ル。是其中立不偏ヲ以テ令徳卜見做<みな>スノ所以<ゆえん>ナリ。以上ノ官人モ亦議員タルヲ許サヾル者トス(同例)

又永久官則チ非政党官ニシテ政党ニ干与スルノ迹<じゅつ>アレバ、其主長タル者之ヲ退職セシメテ可ナリ。何トナレバ政党官タル主長トノ關係ニ於テ公事ニ不利アル事多ケレバナリ(同例)

第四 宸裁ヲ以テ憲法ヲ制定セラルベキ事

法規已ニ立テ而テ人之ニ依ルトキハ事輙<たやす>ク定ル。法規未ダ立タズシテ而テ人先ヅ集ルトキハ事動テ定ラズ。今ヤ無前ノ治体ヲ天下ニ施サレント欲スルニ当リ、其完成ニ緊要ナルハ社会康寧ノ秩序ナリ。轡索一タビ絶ユルトキハ、六馬奔逸シテ秩序容易ニ収復スベカラズ。故ニ先ヅ宸裁<しんさい>ヲ以テ憲法ヲ制定セラレ、是ニ依テ以テ国議員ヲ召集セラレン事ヲ欲ス。右憲法ノ制定ニ付テハ、内閣ニ於テ委員ヲ定メラレ速ニ着手セラレン事ヲ冀望<きぼう>ス。

憲法ノ制定ハ重要ナル条件ニシテ、就中<なかんずく>上院ノ組織、下議員ノ撰挙權、被撰権等ニ至テハ最モ深密ノ用意ヲ要ス。是等ノ諸件ハ憲法制定ノ日ニ上陳スベキガ故ニ、今是処ニ贅言<ぜいげん>セズ。前述スル如ク立憲治体ノ妙用ハ多ク其実ニ存スルガ故ニ、憲法ハ極テ簡短ニシテ大綱ニ止ラン事ヲ要ス。又憲法ハ二様ノ性質ヲ具備セン事ヲ要ス。二様トハ何ゾ。其第一種ハ治国政権ノ帰スル所ヲ明<あきらか>ニスル者ナリ、其第二種ハ人民各自ノ人権ヲ明ニスル者ナリ。政党ノ政行ハレテ而テ人権ヲ堅固ニスルノ憲章アラズンバ、其間言フ可ラザルノ敝害<へいがい>アラン。是レ則チ人権ヲ詳明スルノ憲章、憲法ニ添附セント欲スル所以ナリ。

第五 明治十五年末ニ議員ヲ撰挙セシメ十六年首ヲ以テ国議院ヲ開カルベキ事

立憲政治ノ真体ハ政党ノ政タルガ故ニ、立法行政ノ両部ヲ一体タラシメ、庶政一源ニ帰スルノ好結果ヲ得ルニ至ルハ、已ニ前述スル所ナリ。之ヲ畢竟ズルニ、立憲ノ政ハ社会ノ秩序ヲ紊<みだ>ラズシテ国民ノ志想ヲ平穏ニ表示セシムルニ在リ。然ルニ今国内政党無キノ時ニ於テ卒然国議院ヲ開立セバ、仮令<たと>ヒ一朝幾多ノ政党ヲ生出スベキモ、其根本堅固ナラズ、一般人民モ亦タ何レノ政党ハ如何ナル主義ヲ持張スルヤヲ知ル能ハズシテ、政党ノ勢威頻々<ひんぴん>浮沈スル事多カラン。果シテ然ラバ其混乱紛擾ノ惨態ヲ政治上ニ現出シ、夫ノ社会ノ秩序ヲ保持スルノ治具ニ因テ却テ之ヲ紊乱スルノ恐レアリ、戒慎セザルベケンヤ。

政党ノ峙立<じりつ>セザルハ、蓋シ之ヲ生ズルノ地所ナケレバナリ。然レドモ立憲ノ治体ヲ定メラルゝヲ公示セバ、政党ノ萌芽ヲ発生スル事応<まさ>ニ速ナルベシ。斯クシテ一歳若クハ一歳半ノ年月ヲ経過スルヲ許ルサバ、各政党ノ持説大ニ世間ニ現ハレ、国人モ亦タ甲乙彼此ノ得失ヲ判定シテ各自ニ其流派ヲ立ルニ至ラン。是ノ時ニ於テ議員ヲ撰挙シ議院ヲ開立セバ、能ク社会ノ秩序ヲ保持シテ以テ立憲治体ノ真利ヲ収メ得ベシ。

故ニ議院開立ノ布告ハ太<はなは>ダ速力ナラン事ヲ要ス、開立ノ時期ハ卒然急遽ナルベカラズ。是等ノ事理ニ因テ考察スレバ、本年ヲ以テ憲法ヲ制定セラレ、十五年首<はじめ>若クハ本年末ニ於テ之ヲ公布シ、十五年末ニ議員ヲ召集シ、十六年首ヲ以テ始メテ開立ノ期卜定メラレン事ヲ冀望ス。斯ノ如クンバ、以テ大過ナカルベキヲ信ズルナリ。

第六  施政ノ主義ヲ定メラルベキ事

凡ソ政党ハ幾多ノ源因ヨリ成立スト雖、亦タ専ラ施政主義ノ大体ヲ同クスルヲ以テ相結集スル者ナリ。而テ政党ノ盛衰ヲ致ス所以ノ者ハ、則チ其施政主義ガ人心ヲ得ルト否ヤトニ在リ。又各政党ガ互ニ人心ヲ得ン事ヲ望テ相攻撃スル所ノ点モ亦タ各自ノ主張スル施政主義ニ在リ。故ニ政党ノ争ハ則チ施政主義ノ争ニシテ、其勝敗ハ則チ施政主義ノ勝敗ナリ。前述スルガ如ク、立憲ノ治体ヲ
定立セラレ国人ノ輿望ヲ察シテ政府ノ顕官ヲ任用セラルゝニ至ルトキハ、則チ政党ヲ成立セザルベカラズ。政党ヲ成立セント欲スルトキハ、則チ其持張スル施政ノ主義ヲ定メザルベカラズ。故ニ現在内閣ヲシテ一派ノ政党ヲ形<かたちづ>クル者タラシメント欲セバ、其成立ニ最モ緊要ナルハ則チ施政主義ヲ定ルノ一事是ナリ。然ルガ故ニ国議院設立ノ年月ヲ公布セラルゝノ後ニ於テ、直ニ現在内閣ノ施政主義ヲ定メラレン事ヲ切望ス。施政主義ニ就テハ重信所見ノ在ルアリ、他日別ニ之ヲ具陳スベシ。

第七 総 論

立憲ノ政ハ政党ノ政ナリ、政党ノ争ハ主義ノ争ナリ。故ニ其主義国民過半数ノ保持スル所卜為レバ其政党政柄ヲ得べク、之ニ反〔ス〕レバ政柄ヲ失フベシ。是則チ立憲ノ真政ニシテ又真利ノ在ル所ナリ。若シ其形体ニ則テ而テ其真精ヲ捨テバ、独リ国土ノ不幸ノミナラズ、蓋シ又執政者ノ禍患ナリ。啻<ただ>ニ執政者当時ノ禍患ナルノミナラズ、其恋権ノ汚名ヲ後世ニ遺伝スルニ至ラン。

仮令<たと>ヒ潔清明白ノ心事ヲ以テ政ヲ天下ニ行フモ、尚ホ或ハ恋権自利ノ心アルヲ疑ハルゝハ、是レ執政者ノ通患ナリ。然ルニ今ヤ立憲ノ政ヲ施コサレントスルノ時ニ当リ、立憲国現行ノ通則ニ反シ其真利ヲ捨テ、而テ却<かれっ>テ恋権ノ痕<あと>ヲ現ハサバ、執政者ニシテ焉<なん>ゾ国人ノ為メニ厭忌<えんき>セラレザルヲ得ンヤ。況<いわ>ンヤ其ノ恋権ハ却テ急速失権ノ種子タルオヤ。

然リト雖ドモ、権勢ヲ棄却スルハ古ヨリ人情ノ難ズル所ニシテ、唯国家ヲ利スルニ熱渇スル者独リ能ク之ヲ為ス。政府ニ強大ノ威力ヲ蓄フル今日ノ執政者ニシテ、勢威ニ眷恋セズ立憲政治ノ真体ヲ固定セバ、其徳ヲ後昆<こうこん>ニ表示スルニ足ラン。又仮令ヒ社会ノ毀誉<きよ>ニ関セザルモ、亦タ自ラ顧テ以テ中心ニ快然タルヲ得ズ。世人常ニ曰フ、邦国ノ治乱ハ多ク政治ノ慣習ニ生ズト。果シテ然ラバ、社会ノ秩序ヲ紊<みだ>サズシテ静穏ナル政党更迭ノ新例ヲ定立シ、政治上ニ於テ国人ニ康寧ノ慶福ヲ享有セシムルノ端緒ヲ啓<ひら>カン事、是豈<あに>今日ノ執政者ガ応為ノ急務ニアラズヤ。右謹テ議ス。

〔国立国会図書館蔵「伊藤博文関係文書」〕

解説(江村栄一):『日本近代思想大系 憲法構想』

江村栄一「日本近代思想大系9 憲法構想」(岩波書店1989)

 <1884>年10月には明治十四年の政変が引き起こされる。その内容は勅諭をもって10年後の明治23年に国会開設を約束して欽定憲法を公布するとし、大隈重信を罷免、開拓使官有物払い下げを中止するというものであった。
大隈が政府を追われる原因になったのは、同年3月に提出した国会開設奏議<本史料>であった。起草者は大隈のブレイン矢野文雄で、意見書ではあるが国会構想を提示している。
岩倉や伊藤に衝撃を与えたのは、英国をモデルとする政党内閣
論と、明治14年中に憲法を欽定し同年末か翌年初めに公布し、明治15年末に議員を招集して翌16年初めに国会を開くという急進的見解であった。

政党官ノ種類ヲ略記スレバ、参議、各省卿輔、及諸局長、侍講、侍従長等、是レナリ。以上ノ政党官ハ大概ネ議員トシテ上下院二列席スルヲ得ル者トス(大抵英国ノ例二依ル。政党官及非政党官ノ別ハ憲法制定ノ時二於テ猶 ホ評議ヲ要スルガ故二今唯大要ヲ掲グ、以下同ジ)。
永久官ノ種類ハ 各官庁ノ長次官局長ヲ除テ以下ノ奏任及ビ属官等、是ナリ。是等ノ官人ハ議員タルヲ得ザル者卜ス(同例)。

浅井清氏は、この一節こそ当時の有司連をもっとも驚かしたもので、「之に従へば、国務大臣各省大臣次官局長は勿論、君側に在る侍従長侍講の如きに至るまで、皆政党員の占む・るところと成り、唯奏任及び属官等の下級官職のみが、官僚に提供せらる、ことに成る。若しかゝる制度が『大抵英国ノ例二依ル』ものとせば、英国流の憲法は当時の官僚主義者にとって、最も憎む可きものであったらう」(『明治立憲思想史に於ける英国議会制度の影響』)
とされている。これまでに言及がないと思われる重要な指摘である。こうして権力闘争に敗れた大隈の追放とともに、英国流立憲制論も明治政府内から追放されたのである。(p482~3)

 

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