【史料】橋本左内の日本改革論(村田氏寿宛書簡)

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【史料】橋本左内の日本改革論

村田氏寿宛 安政4年11月28日付書簡

※歴史学研究会編『日本史史料4近代』p23

 依之交易ミニストル指置之ニケ条相許、其中交易は矢張官府交易ニ致度候間、勝手交易は相断申度候事。阿片並借地之事は断り、港は堺・神奈川・箱館•長崎之四個所位ニ極置申度事。何分亜をーケ之東藩卜見、西洋を我所属と思ひ、魯を兄弟唇歯となし、近国を掠略する事、緊要第一と奉レ存候。
 偖右様大変革相始候ニ就ては、内地之御処置、此迄之旧套ニては不相済 第一建儲、第二我公•水老公•薩公位を国内事務宰相の専権にして、肥前公を外国事務宰相の専権にし、夫に川路・永井・岩瀬位を指添、其外天下有名達識之士を、御儒者と申名目ニて、陪臣処士ニ不拘撰挙致し、此も右専権之宰相ニ派別ニ致し附置、尾張・因州を京師之守護ニ、其指添ニ彦根•戸田位、蝦夷へは伊達遠州•土州侯位相遣し、其外小名有志之向を挙用候はは、今之勢ニても随分ー芝居出来候半歟卜奉存候。
其上魯西亜•亜墨利加より、諸芸術之師範役五十人計借受、諸国ニ学術稽古所相起、物産之道を手広に始め、内地之乞児・雲介之類ニ頭を立、相応之賄遣し蝦夷へ遣し、山海之営為致、往来は重に海路より致し候はは、蝦夷も忽開墾可ニ相成ハ航海術も直ニ可熟奉存候
(出典)滋賀貞編『橋本景岳全集』上巻、岩波書店、1939年、554ペ—ジ

 

<現代語訳>

更にまた目下アメリカが要求しております「貿易」と「外交官常駐」のニカ条を許し、そのうちの貿易はやはり政府の手によるにしたいので、勝手な貿易は断りたくおもいます。阿片の持ち込みと、土地の貨与は拒否し、港は堺・神奈川・箱館・長崎の四カ所くらいに定めておきたいものです。いずれにせよ、アメリカを東方の一藩と見、西洋諸国を我が国に属する地域と思い、ロシヤ帝国を我が兄弟、唇と歯の関係のように密接な関係を有する友好国と、近隣地域に勢力を拡張することが、今の日本にとつて、最も緊急重要な問題と考えております
さて、以上のような対外関係の大変革に着手するには、国内の政治体制が従来通りでは済みません。そこで第一に、国政の中心たるにふさわしいすぐれた将軍の世嗣を決定し、第二に、我が殿春嶽公・水戸の徳川斉昭公•薩摩の島津斉彬公あたりを国内事務宰相の地位に任じてその方面の専権を与え、肥前佐賀の鍋島直正公を外国事務宰相の専権とし、それに川路聖謨・永井尚志・岩瀬忠震らを差し添え、その以外にも、日本中の有名達識の人物を選び御儒者といった名目で、諸藩臣・民間人の別を問わず登用し、こうした人々も専権の宰相のグループごとに付属させ、尾張の徳川慶恕公・因州鳥取の池田慶徳公を京都守護とし、補助として彦根の井伊・大垣の戸田両藩あたりをつけ、蝦夷地には、四国宇和島の伊達宗城公・土佐の山内容堂公あたりを派遣、その外全国の小名や有志の人々を挙用して、国政に参加させたならば、今の日本の国力でも、相当のこと(「芝居」)が出来ると思われます。
その上でロシヤ・アメリカから各分野の師範役を五十人ほど借り受け、全国各地に学術稽古所をおこし、諸物産の生産や交易流通を手広く盛とし、さらに、リーダーを立てて内地の乞食・雲助などに統率させ、相応の生活費を給付して蝦夷地へ送って農林水産の業に従事させ、蝦夷との交通も主として海運を利用することとすれば、蝦夷地もたちまち開墾され、、航海術にも瞬く間に慣れて、一挙両得の成果を納めることと存じます。
(伴五十嗣郎『啓発録』(講談社学術文庫)の訳を参照した)

<解説より>

橋本左内(1834~59)

「有志大名の代表者である福井藩主松平慶永の腹心橋本左内(1834~59)は、この改革構想を誰よりも明示的な形で提示しえた人物であった。ここに示す同藩士村田氏寿宛書翰がそれである。彼は、対英警戒論の立場から米露との提携を説き、内政改革としては慶喜の継嗣化と、譜代中小藩藩主からなる老中制度にかえて、親藩・外様大名も含みこんだ有志大名を政権のトップに据え、その下に有能な幕臣と全国からの優れた陪
臣・処士を登庸するというラディカルな構想を仕立て、京都をふくめ関係各方面に精力的に入説するのであった。だが井伊直弼の大老就任によって、改革構想は破綻し、安政6年10月7日、安政大獄に連座して斬罪に処せられた。

※歴史学研究会編『日本史史料4近代史』

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