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日本における「権威主義的国家主義」の成立(1)~「五十五年体制」とその行き詰まり
はじめに~「権威主義的国家主義」について
ソビエト型社会主義のいきづまりが明かになり、従来型のマルクス主義が支持を失い、他方、福祉国家モデルへの批判も高まり、新自由主義が全面展開の時をまっていた1978年、マルクス主義思想家プ-ランザスはその著書『国家・権力・社会主義』で、ボナパルティズムやファシズムなど例外国家とは異なる権威主義的国家主義が先進資本主義国において到来しつつあることを指摘した。
「社会的力関係の『物質的凝縮』」として国家を捉えるプーランザスは、一見弱体に見える「資本主義国家の通常形態」である代表制民主政の意外な強さを説明する。それは、議会などが「公然たる階級対立や分派対立の場となるだけに、ヘゲモニーの有機的循環と再編を呼ぶ」ことで「社会的凝集性における政治的階級支配のシステムにおける重大な破砕や挫折が阻止されている。」
簡単に言うと、社会内部のさまざまな対立が議会の場に引き出され、議論されることで、さまざまな形で政策に反映され、社会の分断や破綻が予防されている。そして「諸階級の力関係をその内部に反映する限りで、階級的バイアスを帯びる」(柏崎)という風に読むことができる。
このような「資本主義国家の通常形態」は、日本では実現しなかったともいえるが、議会を支配政党=自民党とよみかえると五十五年体制における自民党支配そのものともみえる。
プーランザスがこの書を著した1978年ごろから、日本も世界もこの「通常形態」からの逸脱をすすめる。プーランザスがいう権威主義的国家主義の広がりである。1960年代後半以来のベトナム戦争の泥沼化をきっかけに、西側世界に「共産主義」陣営と対抗すべき軍事的・経済的インフラを提供してきたアメリカ=ブレトンウッズ体制がいきづまりをみせ、資源ナショナリズムの台頭は二度にわたる石油ショックを引き起こす。高度経済成長の前提は世界規模で破壊され、それを前提としていた先進国の「福祉国家モデル」は実現困難となる。他方、ソ連「社会主義」路線も行き詰まり、中国は改革開放路線というかたちで市場経済にハンドルを切る。社会主義は新たなあり方を模索し始め、ユーロコミュニズムが広がりを見せていた。
「資本主義国家の通常形態」である代表制民主政が行き詰まり、「政治的民主政の諸制度の急激な衰退といわゆる”形式的”諸自由の劇的で多面的縮減と結びついて、社会経済生活のあらゆる領域に国家のコントロ一ルが及ぶ」権威主義的国家主義が、例外的でなく全体的傾向として浮上しているとプーランザスが記したのはこうした時期であった。
プーランザスの後継者を自認するイギリスの政治学者ボブジェソップは著書『国家権力』でプーランザスの権威主義的国家主義を以下の9つの指標にまとめた。
(1)権力は立法部から行政部へと移行し、とりわけ、後者に集中する。
典型的には、内閣ないし大統領に集中するなかで個人主義的支配の印象が強まる。
(2)立法・行政・司法の各部門の融合。個別主義的・裁量的調整のなかで法の支配が衰退する。
(3)政党は行政の特別の媒介環としてのヘゲモニーの組織化の指導的勢力としての役割を弱める。
(4)政党は、妥協と同盟を媒介としつつ、政策を党綱領にまとめ、選挙競争を媒介として国家権力を正統化するという伝統的機能を失い、行政決定の伝導ベルトという、より狭い役割に留めおかれる。
(5)イデオロギー的国家装置の支配的形態はマスメディアへ移行。政治的正統化と動員の鍵的役割を担い、自らのアジェンダやシンボル使用を行政部から引き出し、多様なコントロールを自らの手中に握る。
(6)新しくテクノクラート型の、新自由主義的な正統化の形態が、あるいは、いずれかの形態が浮上するだけでなく、新しく、プレビシット(*人民投票)的で、ポピュリスト型の同意導出の諸形態も登場する。
(7)パラレルな権力ネットワークの生成。民衆の諸勢力を犠牲にし国家装置外の支配的利益層と内部の諸勢力とを結びつける。
(8)予備的な準抑圧的国家装置の生成。ブルジョア的ヘゲモニーに対する民衆の闘争などの脅威を取り締まり得る先制力の役割を果たす。
(9)1960年代以降、支配的イデオロギーは、いくつかの自由主義的・自由至上主義的テーゼを統合することで再編される。一般意思や民主政といった観念に替わって、道具主義的合理性やテクノクラート型の論理が浮上する。
ここに記された9つの特徴は、その後の世界、日本の政治の特徴を姿を示しているようにみえる。こうした特徴が日本においてどのように形成されてきたのか、歴史過程に即して見ていきたい。
「五十五年体制」=自民党と社会党
五十五年体制とは、東西冷戦体制を背景に、1955年結成された改憲派保守政党・自由民主党(以下・自民党)が、やはり同年結成された護憲政党・日本社会党(以下・社会党)との間で、疑似二大政党制を維持させ続けた政治体制をいう。
しかし、戦前からの伝統を引き継ぐ最左派の日本共産党が一定の影響力を持って存在しており、体制成立後も、社会党右派の一部が社会党から離脱して民主社会党(のち民社党)を結成、宗教団体・創価学会を基盤とした公明党といった中道政党も誕生するなか、日本社会党の勢力はつねに自由民主党の議席の半数程度にとどまり、1.5大政党と揶揄される。
対米従属と自由経済を中心とする自由党と改憲・協同主義・対米自立をめざす民主党が、社会党の影響拡大をおそれるアメリカと財界の強い要請を受けるなかで「いやいやながら」自民党は成立する。合同に至るまでの両党・各グループ(派閥)の激しい対立は「自民党の将来は短く分裂は必至である」との観測をもたらした。しかし自民党は分裂することなく1993年まで長期政権を維持しつづけ、一時政権を離れた時期があったものの、政権政党であり続ける。
自民党が分裂せず持続したことは、政権政党としての優位さを生かしたことにある。政権政党であることは、自らの支持基盤と考えているさまざまタイプの人々、ブルジョワジの各分派、農民、自営業者、さらには一部労働者などさまざまな階級的階層的利害に応え、租税などの国家の資源を自らのヘゲモニーの下に分配し、要望に応える政策をうちだすことで、諸階級・分派・グループの利害を「凝集」することができたからに他ならない。政権党としての実績は、票の獲得につながり、議席につながる。このメカニズムで自民党は安定政権を維持した。「青臭い」政権抗争で分裂し政権を失うことは、取り返せないダメージを得ることであった。
高度経済成長により急増した税収がこうした自民党政治を支えていた。他方、戦時体制のなかで形成され、占領下における占領軍の庇護もうけた官僚主導の産業・経済政策は安定した政権政党の存在によって支えられており、こうした政策とアメリカの冷戦戦略の庇護の下に産業・経済界も驚異的な発展を遂げた。政権政党であることは官僚への影響力も強め、産業・経済界に大きな影響力を持つことも可能にした。こうして自民党(系)の各レベルの議員・関係者たちは豊富な財源を公共事業や補助金などという形で選挙区や支持基盤にふりわけ、国家の諸機関・装置に自らの政治力を行使した。自らの支持基盤の要望を優先的に行政指導・優遇政策などの形で実現したのである。
他方、その見返りとして財界・業界からは多額の公的・非公的な資金などが提供された。財界の要求を政治家たちがうけとり、官僚に政策化させる、さらに官僚はそのOBを各企業に天下りさせる政官業の「鉄の三角形」が形成される。こうして自民党は長期安定政権を実現し、五十五年体制が維持され続けた。
他方、左右両派の合同によって統一を回復した社会党は、合同以後もマルクス主義・階級闘争史観にたつ左派と、社会民主主義を指向する右派の間で戦前の無産政党以来の路線対立がつづいていた。1959年には早くも右派の一部が離脱、翌年には民主社会党(のち民社党に改名)を結成、それ以後も右派の離脱がつづき、左派の優勢が際立っていく。その間も、ほぼ国会議席の約1/3を維持しつづけ、労働組合の全国組織・総評とともに改憲や再軍備に対抗する護憲勢力の要ともなった。
しかし疑似二大政党の一角をえる社会党の地位は、各選挙区から3ないし5人の議員を選出するという衆議院の中選挙区制を背景としたものであり、共倒れを恐れ、過半数を制しうる候補者を擁立しないやり方は社会党が万年野党に甘んじることも意味しており、政権交代は最初から諦められていた。このように社会党は政権につかない万年野党・批判政党でありつづけ、現実的な政策能力に欠落があるとの批判を浴びつづけた。
こうして自民党は政権を失うリスクを感じることがないまま、疑似政権交代ともいえる党内抗争に終始しておればよかったのである。
高度経済成長下の五十五年体制
1955年1月、「鳩山ブーム」のさなか、「憲法改正」を正面に掲げで総選挙に望んだ鳩山内閣は国民投票発議に必要な両院2/3の議席を得られず、さらに改憲を展望に入れていた岸政権も1960年安保闘争で国民の厳しい批判をあび崩壊した。こうして明らかになったことは、戦後改革の中で新憲法が一定の地歩を獲得していることであり、明文改憲は困難であることであった。さらに敗戦以来の「政治の時代」が、社会分断を押し広げたことであった。
こうしたなか、首相となった池田勇人は「低姿勢」「寛容と忍耐」を強く打ち出し、憲法改正(「明文改憲」)の動きを封印することで「分断」の修復を図る方針をめざす。そして対立を激化させる岸時代の改憲・再軍備という政治重視から、経済発展に注力し国民生活の向上を図る「所得倍増計画」をうちだした。
この方向は、明治初年以来、軍事的な方向で外へ外へと向ってきたナショナリズムの方向を経済成長へと転換させた。経済発展と生活向上を最優先に進めるという目標は敗戦によって目標を失っていた人々に、あらたな目標を与え、人々を「企業戦士」へもかえていった。「日本の繁栄」=経済発展のために頑張るという生き方は政治的立場に違いはあってもある程度まで共有され、あらたなナショナリズムとして人々を捉えていった。その努力は、多くの人に「所得倍増」=アメリカ的豊かさを実現させる形へと結実した。日本経済は順調に発展、1970年代には世界のGNPの一割を占める世界第二位の経済大国へと成長、明治以来の「世界の一等国」へという目標を経済面で実現した。
しかし、日本の経済成長は冷戦の存在、朝鮮戦争からベトナム戦争へとつづく東アジアの緊張関係を背景としたものでもあった。さらに、対米従属という吉田の流れを引く池田は明文改憲を避けただけであり、解釈改憲という手法へと目先を変えたに過ぎない。すなわち、実質的な軍隊である自衛隊を維持しつつも専守防衛の枠をはめて軽武装とし、アメリカの「核の傘」に国家安全保障を依存する政策、すなわち護憲(解釈改憲)・軽武装・安保維持を維持する。いわゆる「吉田ドクトリン」を定着させたのである。この間、軍事費も急速に伸びをみせ、軍事力の増強も著しいものがあった。ただGNPの伸びから見て目立たなかったにすぎない。
「よりよい世界」をもとめる流れと革新自治体
高度経済成長で増え続ける税収は政府=自民党にばらまき政策の膨大な財源を与えた。しかし、その政策は国家の調和ある発達をめざすというより、戦前以来の選挙目当ての場当たり的性格も強く、農村や各種業界の意向を受けた生産者保護や成長政策に偏し、環境保護・整備あるいは消費者保護は二の次とされ、労働環境の改善もすすまなかった。
高度成長下の日本には問題が山積していた。ところが政権政党である自民党と官僚はこうした問題解消のための優先順位を伝統的・組織的な「票田」(主に農村部中心に広がっていた)と結びつく形で取り組み、「票」と結びつきにくく、組織されにくく革新勢力の影響力も強い都市部(そこは急激な人口増加によって生活環境が急速に劣化していた)の人々の要求は見落とされがちであり、そこにおいても特定の業種などの利害を優先しがちであった。この結果、環境破壊が進行し公害も多発、国土の荒廃が進んだ。健康維持や福祉は企業任せとされ、その恩恵を受けられないものは放置された。教育環境なども劣悪なままであった。
他方、「右肩上がりの経済」がもたらした生活の向上は、人々のなかに「未来はどんどんよくなる」という「右肩上がりの神話」を産み出した。激しい闘争ではなく、経済発展や科学技術の発展などによって「よりよい未来が実現できる」という「進歩への神話」が生まれた。それは上から与えられるものではなく、自らが努力して手にいれるものと考えられた。そうした楽観的な未来志向は自分や家族を豊かにすることにとどまらない広がりをもち、社会や世界を豊かに出来ると考えた。当時の日本にも、世界にも問題は山積していた。だからこそ「よりよい未来」のために何をすべきか、何ができるのか、どのように参加するのか、単なる個人的な欲望だけではなく、社会全体、日本、そして世界に目を向ける人々も現れはじめた。
1970年代になると、消費者運動や環境保護運動が高まりをみせ、革新自治体が各地で誕生した。危機感を持った政府は革新自治体の諸政策にも学んだ諸政策を導入しはじめる。田中角栄政権は1973年を「福祉元年」とよび、福祉政策の充実を打ち出す。しかしその政策は右肩上がりの経済成長を当てにした給付中心のばらまきの性格が強く、直後に起こった石油ショック後の不況と税収減の中でただちに修正を余儀なくされるものであった。
旧右派連合~「開発主義」と「恩顧主義」の結合
中野晃一は、55年体制下の自由民主党の主流派を旧右派連合と位置づけている。官僚が国家目標・計画を定め、財界とともに経済成長戦略をすすめる「開発主義」と、農協を典型とするような各種業界・地方政界を優遇政策や補助金の分配などで組織し、引き替えに票を得る「恩顧主義」を結合させたものと説明される。
与党自民党の議員たちは、多額の献金と引き換えに輸出企業としての独占資本などの展開を後押ししつつ、他方で中小企業、農業、地方議員・名望家層を業種別・個人別の後援会などに組織、いろいろな階級・階層・グループ、地域の利害を吸収した。いわゆる「族議員」となることで党内の政調各部会に要求を持ち込み、各省庁などの官僚への影響力を行使した。さらに、国会内の本会議や委員会での発言などを通じても政策化する。こうして55年体制下の自民党は影響下にある諸勢力の利害を「凝集」することで、政権基盤を維持し続けた。逆のいい方をすれば、支持基盤から遠い人々の要求は軽視されがちとなる。
55年体制の全期間を通じて長期政権による政治の保守化・停滞化がすすむ。しかし、中選挙区制をとる以上、同一選挙区に複数の自民党候補が出馬することとなり、まず選挙区における自民党内の争いが、党内の世代交代・派閥間の消長、それにともなう政策の優先順位づけにもつながった。二大政党における政党の交代を首相交代が代行したとの指摘も見られる。各候補は自派閥の長や有力者を総理・総裁ないし主要ポストに就けること、自分自身が主要ポストにつくことが支持基盤の要望に沿う近道でもあったため、選挙区における自民党候補間の争いは激烈となった。また複数の候補の出馬が可能であることは、無所属で出馬して自民党議員を落選させ、自民党に入党するという形での新陳代謝も可能としていた。
なお、こうした枠組みには組み込まれにくく軽視されやすい労働者や消費者、中間層などの要求は、疑似二大政党制のもう一方である社会党など野党を通じて、さらには自治体を通じて反映された。とくに1970年代各地で生まれた革新自治体の成立は自分たちがくみ取れていない要求の存在を自民党に自覚させた。こうした要求は、一方では国会内外の論戦を通じ、あるいは陳情を通じ、ときには国会運営や予算案や重要法案成立などとの「裏取引」の材料(「国対政治」)として国家の政策へと凝集させた。
しかし、社会党、さらには共産党が高度成長下の、「未来志向」の新たな動きの「社会的凝縮」に成功していたとは言いがたい。古典的マルクス主義の図式のなかで党派的に理解したり、旧来の支持基盤を中心に党派的な利害を重視するなど、自民党と同様の枠組みの中で動いていたようにも見える。こうした意味では、左派政党においても55年体制が続いていた。
ともあれ、社会における生産関係などの諸関係はそこにおける階級闘争などとともに国家の中に凝集され、「重大な破砕や挫折が阻止され」曲がりなりにも安定した政権運営がなされていた。
高度経済成長の行き詰まり~「ばらまき」型政治の限界へ
経済成長の世界的な流れは1970年代にはいって一挙にトーンダウンする。
旧右派連合主導の「ばらまき」政策は、右肩上がりの高度経済成長による税収の伸び、1ドル360円という実態とかけ離れた為替レートとそれを容認するブレトンウッズ体制、「水よりも安い」といわれた原油安、さらにはアメリカ占領後半以後本格化した戦闘的な労働組合への弾圧と労使協調にもとづく企業別労働組合を柱とする日本型経営を背景に実現されていた。
1972年のドルショックと変動相場制への移行の過程はブレトンウッズ体制を崩壊させることで円安のメリットを、1973年・1980年の二度にわたるオイルショックは原油安のメリットを奪い去った。こうして高度成長は低成長へのシフトチェンジを余儀なくされる。企業は、日本型経営を表におしだして賃上げを抑制、「高コスト体質の改善」が叫ばれ、省エネ・合理化をすすめる一方、ジャストインタイム制などで下請けなどに矛盾をしわ寄せ、減量経営をすすめた。1974年以来の不況の深刻化のなかで、経営側の賃上げ自粛論をうちだすと、多くの企業別組合が「企業防衛」に追随、春闘によって生活改善を目指すというモデルは失速した。さらに、大企業が福利厚生を担うという日本型福祉社会のありかたもコスト面から見直しを迫られた。高度成長のなかで急速に進んでいた階級的な労働組合の弱体化は資本の論理をむき出しの形で労働者におしつけることを可能にしていた。人々は「スト迷惑」論「親方日の丸」論など資本の論理を受け入れ、労働組合は労働運動をつうじて労働条件の改善をめざそうという気概を失ないつつあった。社会運動によって社会をよくするという意識は低下しつつあった。高度成長から低成長へのシフトチェンジは、組織化をされることの少なくなった人々を政治革新よりも「生活保守」にむかわせた。これと並行する形で燎原の火のように広がった革新自治体運動も急速に沈静化していった。
高度成長の終焉は政府においても大問題となった。1975年には税収の前年度割れが発生、赤字国債が発行され、歳出の削減が求められる。これまでのような「ばらまき」ではなく、メリハリをつけた歳出が求められ、「族議員」の間の財源をめぐる奪い合いも熾烈となった。特定の利益団体・省庁と結びついた族議員・政調会各部会による既得権益維持をめざす力は強く、しかもそれは旧来の経済構造を背景とするものであり、首相・内閣の意向すら通用しがたい構造となっていた。
そのため、これまでの農村部などを優先する政策は急速な経済・社会変化に柔軟に対応できないといった批判も高まる。高度経済成長を経ることで急増した都市中間層から、自分たちの税金が都市の環境改善には使われず、高米価や補助金農政など自民党の勢力基盤に供されているといった批判も高まった。こうして都市中間層を中心に大量の無党派層が形成される。
増加した無党派層は70年代の革新自治体成立の背景となったし、「生活保守」の動きが自民党の大勝にもつながった。「一票の格差」など農村部に有利な選挙制度への批判がたかまり、「開発主義」と「恩顧主義」の結合を背景とする旧右派連合の基盤は不安定化した。
改革を求める勢力と既存の権力構造を維持しようとする勢力は、自民党内での派閥抗争と結合、70年代には二年ごとに政権が変わり、保革伯仲という事態も発生した。
政策決定システム改編~大平内閣から中曽根内閣へ
世界規模での不況と低成長への移行は、高度経済成長の下、伸び続ける税収を背景に、方針もないまま「ばらまき」ともいえる財政政策を進めてきた政府・自民党に、優先順位をともなうメリハリを持った財政政策の必要性を求めた。
1978年に成立した大平政権は、自民党政調会を経て利権を分け取りするといった旧右派連合を支えてきた政策決定システムを、国家目標のもとに財政を組み立てるという財政政策へ改編する方向を探りはじめる。内閣を中心に国家戦略を策定、それに基づいた政策を推し進めるべく財界や学界代表などからなる審議会を設置、党外において新たな国家の枠組みを検討させた。最初に「戦後の総決算」をかたったのは大平である。
党内のコンセンサスよりも審議会で練り上げた国家戦略をもとにトップダウンで政策決定を目指す方向は1980年代中期の中曽根内閣の下で一挙にすすむ。本来、大平のめざした方向は保守本流の流れを引く旧右派連合的方向での再編であったと考えられるが、保守傍流の民主党の流れを引く中曽根は「新自由主義」と「国家主義」という「新右派連合」の色彩を強めた。
NIEs諸国などの工業化がすすみ、グローバリズムとIT化が本格化し始めた世界は、社会・政治の素早い変化に対応したスピーディーで強力な政策判断を求めるようになってきた。そのためにこれまでの政治のあり方は通用せず、こうした判断が可能な強力な指導者とそれを支えるシステム、権力の集中が求められるようになった。レーガン・サッチャーといった強力で権威主義的な指導者が登場はこうした国際的な流れに沿うものでもあった。「権威主義的国家主義」への動きは日本でも始っていた。プーランザスは1979年自死するが、現在にいたる日本や世界は、その呪いにかかったかのように権威主義的国家主義の方向に引き寄せられていく。
「アメリカの覇権」の揺らぎ~日米摩擦の高まりと「グローバルスタンダード」の強要
「戦後の総決算」ということばをはじめて用いたのは大平であり、決算すべき内容には日米関係も含まれていた。日米関係を「日米同盟」と最初に定義したのも大平であった。アメリカがベトナム戦争でつまずくなか、西側陣営の再構築と日米関係の再定義も課題であった。
戦後、西側陣営の経済発展はアメリカの覇権に多くを依存していた。アメリカは圧倒的な経済的・軍事的パワーを背景に、西側諸国をその影響下に置き、ソ連を中心とする東側陣営と対峙していた。しかしその覇権は1960年代後半に本格化したベトナム戦争で揺らぎ、二度にわたる石油危機がアメリカ一強体制を困難にした。西側諸国は新たな枠組みを模索していた。1975年フランス大統領の提唱ではじまった先進国首脳会議(サミット)はこうしたあたらしい国際秩序への模索を示すものであった。
膨大な軍事予算はアメリカに財政危機をもたらし、大量生産・大量消費にもとづくアメリカ工業は賃金の高騰や設備の老朽化もあって、まだ比較的低賃金の労働力が得られ最新鋭の技術導入が結果として進んだ日本やドイツなどの台頭の前に競争力を失いつつあった。アメリカ内部からは「貿易摩擦解消」の名の下に日本製品の輸入制限とアメリカ国内生産などを求める声が高まっていた。1970年代初頭の日米繊維交渉はその初期のものであり、これ以後、次々と日本製品の輸出規制などが求められる。1980年代の自動車摩擦は日本の自動車産業のアメリカ進出を余儀なくし、日本企業の多国籍化を本格化させた。オレンジや牛肉、さらに米国産米など農産物自由化への声は旧右派勢力の力の源泉である農業部門をも聖域とはしなかった。
冷戦が終結へと向かう中、アメリカの感じる脅威の対象は、ソ連など東側諸国よりも自らの経済覇権を脅かす諸国、とりわけ日本ヘと向かいはじめた。日本の輸出超過が自国経済を苦しめている、他方、日本への輸入が伸びない、それを解消しなければならないという問題意識が生まれ、アメリカでの現地生産と閉鎖的と考えた日本市場の開放を声高に求める声がにわかに高まりはじめた。
日米構造協議からTPP
以後、先回りをして、その動きを見ておきたい。一九八五年のプラザ合意(円高ドル安進行の容認)にもかかわらず対日赤字が解消しないことにいらだったアメリカは、その原因を個別の産品よりも日本市場の閉鎖性(「非関税障壁」)に見るようになっていった。アメリカ流の経済ルールをグローバルスタンダードと称し、その導入を世界に、とくに日本に求めはじめる。その背景にはグローバル化の進展にともなう資本の多国籍化があった。
1989年日米構造協議がはじまると、アメリカは土地税制や大店法の見直しなど日本の法律や規制、経済構造自体を問題視し「改善」を要求する。その要求はますます高度化するとともに一方的となり、日本でのオペレーションシステム開発など競争相手となり得る新たな技術革新すら「不公正」などといったいい方で妨害し、技術の独占を図る。さらに消費者や国内産業・伝統文化を保護する法律や規制を一方的に「非関税障壁」とみなし攻撃した。こうした流れの総決算が2010年にはじまる環太平洋パートナーシップ協定(TPP)協議である。
しかし、皮肉なことにTPPが求める多国籍企業=グローバリズムの論理は、ローカルなアメリカの経済や社会への多大な影響を与えるものとの認識が広がり、アメリカ第一主義を唱えるトランプ大統領はTPP協議を脱退した。しかし、それは、多国籍企業の要求だけでなく、TPP協議の枠を超えたローカルなアメリカ側の過酷な要求を予想させる可能性をもっている。
アメリカがときに非道ともみえる要求をおしつける口実の一つが、日本など西側諸国がアメリカの「核の傘」という軍事的な「インフラ」提供に対して「応分の負担を担っていない」とのいい方であり、日本に対しては「安保ただ乗り」論として現れる。1970年代のロッキード事件の背景となったアメリカ兵器の売り込みなどもこうした文脈で見ることができる。さらにこのいい方は日米防衛協力への要請という形で具体化する。日米ガイドラインが制定され、米軍への「思いやり予算」が開始されたのも1978年である。鈴木内閣・中曽根内閣で問題化する「日米同盟」「日米運命共同体」という言葉は、大平内閣が初めて用いた。
レーガン=中曽根路線の登場~「旧右派連合」から「新右派連合」へ
1980年、アメリカの威信回復を掲げて大統領に当選したレーガンは、軍需予算を一気に拡大(SDI計画など)、「応分の負担」、安全保障のインフラのコストを日本などにより強く求める姿勢を強めた。さらにレーガンは、大幅減税、軍事費を除く歳出の大幅削減、規制緩和、通貨供給の削減を骨子としたレーガノミクスと言われる新自由主義政策を一挙に推し進めた。しかし、この政策は軍事費の膨張と相まって、貿易赤字と財政赤字といういわゆる「双子の赤字」を拡大させた。
こうしたアメリカ側の要求にたいし、1981年日米首脳会談で「日米同盟」と位置づけに難色を示し対応できなかった鈴木首相は退陣を余儀なくされる。
世界的な右派勢力・新自由主義の台頭という流れの中で、旧右派連合の中心・田中派の支援を受け首相となったのが中曽根康弘である。
中野晃一は、中曽根に始まり現在の安倍晋三に連なる潮流を、五五年体制の主流派(旧右派連合)と対比する形で、「新右派連合」と位置づけている。それは、「新自由主義」と「国家主義」を「利己的な行動を是認するリアリズム」「利害上の適合性・一致」「改革を実現しうる『強い国家』の要請」といったもので結合したものと定義づける。
自民党反主流派・タカ派の論客で、憲法改正を主張しつづけてきたナショナリスト中曽根は日本を西側軍事同盟の一環として、「日米同盟」「運命共同体」という用語を用い、さらには日本を「不沈空母」と形容、「ロン・ヤス」の個人的信頼関係をもとに日米関係の緊密化を演出した。
臨調行革路線と国鉄解体
中曽根は内閣機能の強化などによって「個人主義的支配」を強化、大統領的手法で「旧右派連合」の合意形成のシステムにくさびを打ち込み、既得権益にメスを入れようと強いリーダーを演出した。その主要な旗印となったのが「増税なき財政改革」を旗印にした「臨調・行革」路線と一括される一連の改革であり、もっとも重要なのが「三公社五現業」とくに「国鉄分割・民営化」である。
国鉄は、長年「我田引鉄」と揶揄される「旧右派連合」のばらまきの対象として採算性を無視した新線建設を余儀なくされる一方、官僚的体質を脱却できないまま赤字体質をつづけていた。この国鉄がスケープゴートとされる。マスコミは「国鉄」を既得権益にあぐらをかく非効率体質であると批判しながらも、その元凶を自民党政治家による「我田引鉄」や官僚的体質に求めずに、国鉄労働組合(「国労」)などの労働組合、国鉄労働者に求め、攻撃を集中した。
国鉄の分割民営化攻撃は、採算性の悪い公的分野を切り捨てる一方で採算の見込める分野を民間に委ねるという新自由主義的な政策であると同時に、政府に批判的な労働組合の多くが所属する総評の主力である公務員など公的分野に従事する労働者・組合への攻撃であった。マスコミは、民間は厳しいノルマを課され労働環境でも諸権利でも低位に置かれているのに、公的部門の労働者は高賃金・高待遇の「親方日の丸」であるとの攻撃を集中する。マスメディアが政府と一体となって「政治的正統化と動員の鍵的役割を担い、自らのアジェンダやシンボル使用を行政部から引き出し、多様なコントロールを自らの手中に握る。」(プ-ランザス)動きが強まっていく。
こうした流れと軌を一に民間・企業別組合主導での労働戦線の統一がすすめられ、総評系・公的部門の労働組合も飲み込まれていく。国労攻撃はこうした一環でもあった。1985年には総評は解散し、多くの組合は労使協調路線をとる日本労働組合総連合(「連合」)に吸収され、参加を拒んだ労組は全労連などを結成する。集中的な攻撃を受けた国労組合員の多くは新会社への採用を拒否されたり、強制配転といった不当な処遇を余儀なくされ、階級的労働組合は弱体化し、それを基盤としてきた革新勢力の力は削がれる。総評系労働組合を主要な基盤としてきた五十五年体制の他方の極である社会党左派は地盤を切り崩されていく。
「権威主義的国家主義」の本格化~中曽根政権の性格と限界
すでに1981年、生産者米価と消費者米価の「逆ざや」解消に向けた食管制度改正も実施されていたが、中曽根の「臨調・行革」路線は、新たな情勢に対応しきれない「旧右派連合」による地方優先・既得権益擁護と膠着化した政治のあり方に批判的な大資本・都市住民などの支持も引きつけていく。こうして都市中間層に影響力を拡大した中曽根は1986年の衆参同日選挙で衆院で300超の議席を確保する。しかし中曽根が進めた新自由主義的改革は自民党の従来の支持層の反発を買い、さらに大型間接税(「売上税」)の導入を図ったことで都市中間層の離反をも招いた。中曽根の手法は都市無党派層という移ろいやすい「風」を頼りとするものであり、風向きによって一挙に逆風に変わるという不安定なものでもあった。その一方、「旧右派連合」の地盤である農村などは離反の動きを見せ始めていた。
中曽根政権は、「大統領」的手法、党内や国会内の議論にかえて学者・マスコミ関係者・資本代表などからなる審議会への依存、マスコミを巻き込んだ世論操作、「道具主義的合理性やテクノクラート型の論理」など多くの面でプーランザスの九つの指標に接近、「権威主義的国家主義」へすすんでいることを示す。こうした方向は、冷戦構造の消滅とグローバリズムの本格化、80年代後半からのバブル経済と90年代バブル崩壊につづく長期的な経済不振のなかでいっそう強化される。
中曽根はあくまでも旧右派勢力・田中派の協力を背景に政権を維持しており、党の要である幹事長も内閣の要である内閣官房長官も田中派から起用、「田中曽根」内閣と揶揄されることもあるように田中派に支えられていた。当初、中曽根は靖国神社公式参拝などの国家主義的方向を進めようとしたが、教科書問題で東アジア諸国の批判を浴びると一転、国際協調へと舵をきり、胡耀邦・趙紫陽ら日本との良好な関係をめざす中国側リーダーの存在もあり良好な東アジア情勢を作り出した。
このように、中曽根内閣は、新右派連合の性格を強くもちつつも、旧来型の旧右派連合を配慮せざるを得なかった。
(つづく 後編~「90年代「政治改革」とその後」はここから)
<参考文献>
ニコス・プーランザス『国家・権力・社会主義』(田中・柳内訳ユニテ1985原著は1978)
ボブ・ジェソップ『国家権力』(中谷義和訳、御茶の水書房2009原著2008)
柏崎正憲『ニコス・プーランザス 力の位相論』(吉田書店2015)
飯尾 潤『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』 (中公新書2007)
石川真澄・山口 二郎『戦後政治史 第三版』 (岩波新書2010)
北岡伸一『自民党―政権党の38年』(中公文庫2008)
白井聡『永続敗戦論―戦後日本の核心―』(太田出版2013)
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』 (岩波新書)
中北浩爾『自民党政治の変容』 (NHKブックス2014)
中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書2015)
渡辺治『現代日本の支配構造分析ー基軸と周辺』(花伝社1988)
渡辺治『講座現代日本(1)現代日本の帝国主義化・形成と構造』(大月書店1996)