90年代「政治改革」とその後

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日本における「権威主義的国家主義」の成立(2)~90年代「政治改革」とその後

  前編~「『五十五年体制』とその行き詰まり」はここから

バブル経済

レーガン政権の下ですすんだアメリカの「双子の赤字」は「西側」全体の問題でもあった。1985年のプラザ合意は、アメリカの巨額な対日貿易赤字を解消するため為替レートを円高ドル安に誘導することをめざした。これをうけ、大蔵省と日本銀行は円高誘導をすすめつつ、円高ドル安によって大きな打撃をうける輸出産業への打撃を弱めるべく資金供給をつづけた。
円高と、過剰に供給された円は生産拠点を国外へと移すきっかけをつくった。その中心となったのは中国や東南アジア諸国である。中国では1976年の毛沢東の死亡と四人組追放、鄧小平による改革開放政策の開始によって、東南アジアでは1976年のベトナム戦争終結、1989年のカンボジアからのベトナム軍撤退、1993年のカンボジア内戦の終結といった一連の流れの中で、長く続いた政治的混乱に区切りがつきつつあった。こうした政情の安定をうけ日本企業の海外進出、多国籍企業化は一挙に進んだ。「円」は世界各地を舞台に海外資産の買収をすすめる。さらに行き場を失った「円」は不動産や株式の取得へと流出、資産価値は急騰し、その値上がり益をめぐって日本中がマネーゲームに興じた。その結果、勤労とはかかわらない財テクによって膨大な利益が転がり込むバブル景気とよばれる異常な事態が発生した。
こうした金あまり現象、バブル経済は社会の緩みを際立たせた。財テク・マネーゲームは、企業に本業で得られる利益よりもはるかに巨額の収益をもたらした。うまく立ち回るものは巨額の富を得る一方、「勤勉に働いても一生家も買えない」との嘆きも聞こえた。銀行は競って融資先を探し、不十分な担保であっても高金利の金を供給しつづけた。巨額の資金を得た不動産業者は、土地を手に入れるため、反社会勢力をも引き入れ「地上げ」という手荒な手法も用いた。
好業績にわく企業は人材確保に狂奔し好条件を提示し、いったん内定した学生の引き抜き防止のために厚遇をあたえた。享楽的な空気が社会にあふれ、日本の高度経済成長を支えていた勤勉・倹約といった倫理観なども揺らいでいった。

五十五年体制の行き詰まりと新自由主義論の台頭

こうした空気の中、1988年にはリクルート事件が発覚、自民党・公明党の有力議員、高級官僚、財界トップの関与が次々と明らかになり、翌1989年4月には田中派の本流として長期政権を期待されてきた竹下首相も辞職に追い込まれた。自民党はこの年の参院選で大敗、参院では与野党逆転が実現した。相次ぐ汚職、消費税導入への反発、対米交渉での譲歩や農政改革に反発する農村の離反がその背景であった。とくにアメリカの厳しい要求に屈した農産物の自由化が自民党を支えてきた旧右派連合の離反を招き、参議院一人区での大敗を招いたことが大きかった。自民党の基盤は崩壊しつつあった。自民党は、旧右派連合の支持回復を図る一方、増加しつつある無党派層の中にその支持基盤を広げるという二つの課題が生まれた。ここに党内における旧右派連合と新右派連合の路線対立が激化する。
「改革派」=新右派連合は、旧右派連合を「守旧派」と呼び「既得権益」によって守られていると批判し、既得権益優先、国家主導の護送船団方式といった旧右派連合がすすめた手法を厳しく批判、政府機関や公共事業などにも民間の資金を導入、自由競争を活発化し歳出削減をはかるという新自由主義の導入で経済活動が活発化できると主張した。若手のリーダーの一人であった小泉純一郎は、郵貯・簡保といった郵政事業による潤沢な資金供給が無駄な公共事業の資金源となっており、その利益の一部が旧右派連合とくに旧田中派を潤し、同派による自民党支配を実現しているとして、郵政民営化を主張した。
新自由主義的政策は多国籍企業を中心とする大企業が、公共事業のみならず、政府がなすべき業務すら収益源に組み込もうという意味をも含んでいた。さらに不採算な部分を切り捨てることで「小さな政府」を実現し、法人税などの減税をもとめた。しかし第三セクターと呼ばれた公民連携の諸事業が不採算性のために膨大な赤字を残したことに示されたように、多くは公共の財産を食い潰すだけにおわった。そしてその「つけ」が政府や自治体、ひいては国民に回された。

政治改革論議の高まりと「小選挙区制」

相次ぐ汚職事件の発生のなか、政治改革論議は根本的な金権体質などの理由を問うこともなく、選挙制度にすり替えられつつあった。とくに強調されたのが、中選挙区制度による自民党(保守系)候補同士の争いが、多額の政治資金を必要とし、汚職の原因になっているということである。
他方、冷戦の終結にともなうグローバル化とIT環境の整備が政策決定プロセスの変化を求めていた。新たな事態に対処するには、スピーディーな政策決定と大胆な政策変更が必要であり、これまでのコンセンサス型の政治ではなく「多数決」型の民主主義、強力な「大統領」型による即断の政治が必要との声も高まっていた。そのためには、万年与党と万年野党に固定化され変化がおきにくくスピード感にかける政治を生んできた中選挙区制ではなく、小さな票差でも大きな議席差が生じ政権交代が可能になる小選挙区制によって、政権交代が可能な政党同士が政策を競い合う保守二党制を実現すべきだとの主張が高まった。
さらに小選挙区は各党の候補者が一名にしぼられるため、各候補者は自らの主張よりも党中央が示した公約を主張することを求められ、公約を政策として実行することが容易になるとの主張もあった。しかし、それは自民党同士での対決を背景とした党内の多様性をなくす方向にも働く。こうして自民党は「妥協と同盟を媒介としつつ、政策を党綱領にまとめ、選挙競争を媒介として国家権力を正統化するという伝統的機能を失い、行政決定の伝導ベルトという、より狭い役割に留めおかれる」(プーランザス)方向にすすむ。自民党から選挙民と選挙基盤を強く意識したリアルで闊達な議論が失われはじめる。
自民党自体にとって小選挙区制は結党以来の悲願であり、これによってつねに自党が圧倒的に有利になり、永久政権を実現できるようになるという狙いがあったのは言うまでもない。実際に、この選挙制度が導入されることで、中選挙区制という制度によってつねに1/3程度の議席を確保できた社会党は小選挙区での議席獲得が困難となり、冷戦終結という世界情勢の変化もあり、第二自民党ともいうべき保守政党に吸収され、消滅する。こうした結果がわかっていたからこそ、社会党を初めとする他の政党はながく小選挙区制に強く反対してきたし、コンセンサス政党としての自民党も強引な選挙法改正という方向は踏み出せなかったのである。
「小選挙区制」を始めとした政治改革は自民党自体をも腐敗させる「毒」であり、この「毒」が社会党を消滅させる。

冷戦構造の消滅と湾岸戦争

1980年代後半、世界も大きな変革期を迎えていた。東西対立の一方を担っていた東側・社会主義陣営は末期症状を呈していた。ソ連の書記長ゴルバチョフは「ペレストロイカ」「グラスノスチ」「新思考外交」といった新たな切り口を示し、1989年、マルタ会談で冷戦構造の解消に成功した。他方自由主義的な改革は、民族運動を活発化させ経済混乱をきたすなどソ連・東欧「社会主義」のなかで抑圧されてきた矛盾を一挙に噴出させた。東ヨーロッパでは民主化・自由化の動きが急速に高まり、「社会主義政権」が次々と崩壊、東西を隔てた「ベルリンの壁」し1990年にはドイツ統一が実現した。こうした「非社会主義化」の動きはソ連内部にも波及、1992年にはソビエト連邦自体も解体する。
冷戦構造の終結と東側陣営の崩壊・非社会主義化は、資本主義の勝利「アメリカの勝利」と考えられたが、実際には東西対立の枠内に押さえ込まれてきたナショナリズムの高まりによる混乱の出発点であった。
冷戦構造の消滅は西側陣営として協力体制にあったアメリカと日本や西ヨーロッパ諸国との関係も変化させた。1960年代以来の西欧や日本の経済成長は東側陣営に対抗するという世界戦略の中で実現していた。こうした条件が失われ、かつての西側陣営内部の対立が表面化する。
アメリカ国内では、多国籍化による生産拠点の海外への移動、残された工場での技術や施設の老朽化、相対的な賃金の高さなどからくる相対的な生産性の低さなどが原因となって、アメリカ国内から製造業が弱体化し、日独などの成長の前に国際競争力を落としていた。さらにベトナム戦争などによる多額の軍事支出はアメリカ財政を圧迫した。第一次大戦前後からアメリカ経済を支えてきた多くの製造業がおとろえ、切り捨てられ、失業者も増加した。しかし、衰えたのは国内産業であり、アメリカの企業の多くは多国籍化し、製造拠点を海外に移すことで巨額の富を得つづけようとした。多国籍企業は、国内の製造拠点、労働者を犠牲にすることで生き残りとさらなる発展を図ろうとしたのである。
そうしたなかで軍産複合体は国内に拠点を置く数少ない稼ぎ頭であった。ところが冷戦の終結は軍縮を促進させざるをえないものであり、この優良産業を不振においやり、失業者の拡大をさらに引き起こすことであった。
1960年代、アイゼンハワーが退任演説で嘆いたように、アメリカの産業は軍事と切っても切れない関係(「軍産複合体」)をつくり出していた。「戦争中毒」はベトナム戦争や軍備拡張、さらには製造業の不振などを通じていっそう深まっていた。アメリカ政府はこの「優良産業」を守るため新たな紛争を探して世界各地の紛争への介入を進める。財政的・人的被害はできるだけ抑え、アメリカ企業の利益を最大化するやりかたで。経費のつけは、西側諸国、とくに最も米軍に対しよい環境を準備する日本、対外赤字の元凶と見なされた日本に回される。流されるであろう兵士の「血」さえ、他の諸国、そして日本に負担させようとする。
最初に発生したのが湾岸戦争である。1990年、サダム=フセイン率いるイラクがクウェートへ侵攻すると、アメリカは直ちに国連安保理でイラク非難の決議を採択させ、翌年アメリカを主力とする多国籍軍は攻撃を開始、イラクを屈服させた。アメリカは、国連決議を根拠に日本に「カネだけでなくヒトもだせ」と強く求めた。自衛隊の海外派遣を嫌う海部政権はやむなくアメリカが要した費用の1/5に相当する約1兆円を拠出するが、アメリカによる圧力はつづき、ついに戦争終了後のペルシャ湾への自衛隊掃海艇派遣を行う。アメリカなどの日本のやり方への厳しい批判は政・財・官それぞれに「湾岸戦争のトラウマ」を生む。

小沢一郎と五十五年体制の崩壊へ

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小沢一郎

湾岸危機にたいし、自由主義体制を守るためには経済のみならず軍事面でも応分の負担をする「普通の国」となるべきだと強く主張したのが小沢一郎である。小沢は竹下派のプリンス「豪腕小沢」として田中角栄流の数の論理と恩顧主義という旧右派連合的な体質を持つとともに、「決められない政治」を批判し政権交代のある保守二党制を実現し緊張感のある政治「決められる政治」「スピード感のある政治」を実現しようとする「改革」派でもあった。外交面でも、アメリカの求めに積極的に応じて国連の下での自衛隊海外派遣が可能である「普通の国」として国際貢献を果たすべきと主張した。小沢は五十五年体制を支えた「旧右派連合」の後継者でありつつ、五十五年体制を否定する「新右派連合」の旗手でもあった。
中曽根時代、少数派であった「新右派連合」は小沢のもとで自民党主流派の一部と結合し、影響力を強めた。小沢のこうした行動は自民党主流派とくに竹下登ら竹下派(旧田中派)内部の「旧右派連合」の反発を買う。自民党内・竹下派内での抗争が激化し、竹下派会長・金丸信の金脈問題をきっかけに数の論理で自民党内を壟断していた旧田中派=竹下派が分裂する。党内第四グループへ追いやられた小沢らは自民党指導部への反発を強め、1993年野党が提出した宮沢内閣不信任案に賛成・可決させることで、衆議院解散に追い込んだ。小沢らは自民党を離党し「新生党」をたちあげる。政治改革による腐敗防止を唱えていた武村正義らのグループも離党し「新党さきがけ」を結成、自民党は分裂、過半数を失い、五十五年体制は崩壊の道を歩む

細川連立内閣下での「政治改革」実現

1993年の衆院選挙で「台風の目」となったのは、元熊本県知事細川護熙が政治刷新を唱え、保守系の新人たちを結集して結党した日本新党であった。日本新党や新生党など「新党ブーム」が起こる一方、惨敗が予想された自民党は善戦し改選前の議席を維持した。惨敗したのは社会党であった。善戦したものの自民党は衆議院の過半数を得ることが出来ず、世間の目は共産党を除く野党が結集できるかどうかに注がれた。

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細川護熙

細川ら日本新党は武村率いる「新党さきがけ」との合流をめざしており、細川にしても、武村にしても、急進的な改革をめざす小沢と距離を置こうと考え、連立内閣には消極的であった。しかし小沢は細川を首相にすえることで両党を引き込むことに成功、「連合」の仲介で社会党も参加、非自民八会派による細川連立政権が成立した。ここに一九五五年以来の自民党政権は途切れ、五十五年体制は終結した
五十五年体制に代わる新たな政権として期待された細川内閣であったが、しだいに政治経験に長けた小沢の影響力が拡大、細川は友好関係にあった武村との距離を広げる。連立内閣の中心となった小沢は連立政権最大の課題を「政治改革」であるとして強引に実現をはかった。その過程で、政治改革は小選挙区制を中心に小党に配慮し比例代表制を組み込んだ小選挙区比例代表並立制と政党助成金による選挙資金不足を補うという内容に矮小化されていった。
こうした内容の政治改革関連法案が社会党を与党第一党とする細川連立内閣のもとで提出される。法案が社会党の一部議員の造反によって参議院で否決されると、細川と小沢は小選挙区の比率を自民党案に近い内容に修正し自民党の賛成を得ることに成功、自民党一党支配の下ではけっして成立しなかった法案が社会党も参加する連立内閣の下で成立した。五十五年体制をささえた衆議院の選挙制度が変わることで日本の政治のあり方は激変を余儀なくされる。
しかし小沢の強烈な「改革」志向が皮肉にも自民党の復権への道を開く。小沢主導の内閣運営は連立政権内部の対立を激化させた。合意もないまま発表れた消費税を8%(当時は3%)に引き上げるとの方針や、社会党を外した統一会派結成の動きは政権与党内の反発を招いた。さらに、自民党による細川の政治資金疑惑へのしつような追及と連立与党内の対立の前に細川はあっさりと政権をなげだす。社会党とさきがけ2党が連立与党から離脱する中、少数与党の羽田孜(はたつとむ)内閣が成立した。政権から離脱した社会党とさきがけの去就が注目された。

「90年代政治改革」論の背景とその問題点

ここで、細川内閣で行われた「政治改革」とくに小選挙区比例代表並立制の意味について考えて見たい。
1990年代になって急速に進んだIT化、グローバル化、ネット社会の到来という事態は新たな可能性を開いた。国家予算をはるかに超えるグローバル企業が生まれ、一秒よりはるかに短い時間で国境を越えた大量の資金がやりとりされ、膨大な利益と損失を一瞬で生みだすマネーゲームが過熱する。他方、新たなアイデアをもとにネットで世界中の生産拠点をむすび消費市場を獲得することもかのうとなり、少人数で巨大な利益を生み出す起業が可能となった。自営業や中小企業がネット環境などを利用すればベンチャー企業として時代の寵児となることも可能となった。長い歴史を持つ優良企業が経営陣の判断ミスにより一瞬で崩壊する事態もおこる。
これまでは利用されなかったり破棄されていた資源や労働力、あるいは公共サービスまでも市場に組み込もうという動きが生まれる。こうした技術革新や商品化は旧来のシステムの中で利益を分け合ってきた諸勢力と摩擦を引き起こし、人々の生存や生活の基盤すら脅かす可能性をも持った。こうした動きは旧来の勢力と親密な関係にあった国家による規制の壁につきあたることも多い。こうして新たな動きは規制緩和を求める「新自由主義的」と親和的な面をもち、国家の新自由主義的改編を求める。国家のリーダーも、企業のリーダーと同様にトップダウンの決断とスピード感が求められる。「決められない政治」からの脱却が主張された。「熟議より拙速」という1990年代の改革の背景にはこのような社会・経済の変化にともなう新自由主義的な流れがあった。
IT化、グローバル化、ネット社会などの変化は、社会の多様化という別の流れをも生み出した。孤立していた少数者がネットを通じて全国的・世界的な規模で結びつくという新たなつながりが生まれ、新たな需要と供給が発生した。利益のみを求める旧来の資本主義とはことなり、多様な価値の形成・社会貢献などに重点を置く企業・NPOなども生まれた。経済的見地から見向きもされなかった研究も評価され、商品化もさるようになる。人種やジェンダーの多様性をみとめ、金銭的な豊かさよりも充実した生き方をもとめるというライフスタイルもひろがりをもった。こうした立場からすれば、多数決によって少数の意見を封じ込めるという流れは時代に逆行するものとなる。多様な意見、ひとりの人間のなかにすら存在する多様な要求をできるだけすくい上げ、凝集する国家システムこそがもとめられることになる。
同じ事態が逆の結果を引き起こす。ネット環境はある意味、あらゆる人間に平等に開かれているため、高度な専門性に裏付けられた権威ある研究が相対化され、思いつき・思い込みと同列に論じられ、嘲笑されるという事態も発生する。ネット上では自分の意見に反するものに対する小児病的な反発から罵詈雑言が浴びせかけることも多く、それが拡散されることで反知性主義が広がりを持つ。多様性とそれに規定された新しい労働や家族・コミュニティーのあり方、人々の生き方や価値観の多様性、あるべき国家観・世界観の多様さなどに対し、偏狭で非科学的な人種主義や偏見、不寛容な意見が対置される。社会ダーウィニズム的な国際政治論や「経済至上主義」がさぞ「現実」的であるかの如く語られる。こうした風潮は現実社会へも影響を与え、敵対する勢力に対してさまざまな「力」が行使されはじめる。あらゆる場面で断絶が生まれ対立が広がる。こうした中で「多数決」こそが民主主義であり、少数意見は「多数」に従うべきであり、少数意見への配慮こそがスピーディーな決断を求める現代に有害であるといった声も高まる。
IT化、グローバル化、ネット社会という事態は一方では「トップダウンの決断」によるスピード感のある政治、あらゆる場面での「規制緩和」による商品化の拡大という新自由主義、他方で社会への多様化ヘの反発と旧秩序崩壊への懸念から生まれ「多様であることを拒む」新保守主義を生み出す。こうした新自由主義と新保守主義の結合こそ、中野晃一が「新右派連合」として指摘したものである。
しかし、実際にあらたな事態に、90年代に本格化した「新右派連合」主導の政治改革が適合的であったのだろうか。プーランザスがいうように国家は社会関係の凝集であり、階級闘争を始めとする対立の反映である。ところが多数決のみに、一方の意見にのみ偏する民主主義は公的な存在でなければならないという国家の建前を破壊することになる。構成員の支持を失い、国家をさらによそよそしい他者としての存在と感じさせ、国家の存立自体に対する疑念を生じさせる。
こうした面から見れば小選挙区制を基本とした政治改革は、多様化という時代の流れにまったく反する。「熟議より拙速」の政治は、多様だからこそ人々の思いに寄り添った意見も、「古くさい」けれども優しい意見も、「画期的な」意見も、「血が吹き出るような切実な」意見も、多数の力によって切り捨てる。取り上げられたとしても数あるリストの一項目、あじけなく人間味を感じない並列的な政策リストにひとつとなる。小選挙区では選択肢がないという理由で一つの政党・候補を選び投票せざるを得ない。自分が投票した政党でも納得できない政策も多くつねに欲求不満が生じさせ政治不信がたかまる。少数派が事態を転換させるには「まだましな政党」に「鼻をつまんで」投票するしかない。「戦略的投票」をよしとしない人たちは投票に行かなくなる。自分の思いが反映させる手段が中選挙区制時代以上に封じられ、投票率はさらに低下、わずかな得票率で勝利した政党、人々の意に沿わない政党による政府がうまれる。
新しい時代に必要なのは、多数が少数を封じ込めありかたではなく、多様な集団・志向・利害を反映し、熟議をこらすなかで、あるべき国家の方向を考えうるというような「国家」の制度設計、「拙速よりも熟議」のあり方である。
細川政権のもとで生まれた選挙制度は様々な階級関係や階級闘争などを凝集するという国家のあり方を破壊し、資本階級のなかの特定の少数者の利害のみを反映した「権威主義的国家主義」への道を開いた。「はじめに」で述べた「代表制民主政の意外な強さ」へのプーランザスの説明をもじっていうならば、「社会内部のさまざまな対立が議会の場に引き出されることがなくなり、議論されなくなり、政策に反映されることがなくなり、社会の分断や破綻が露出する」ようになる。プーランザスが指摘したように、ここにこそ「権威主義的国家主義」の「意外な弱さ」がある

村山自社さ内閣の成立と自民党の復権

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村山富市

五十五年体制以来のもと、多様な考えや志向をもつ議員・グループをもつ自民党が圧倒的な力をもっていたのは政権与党としての求心力であった。与党として分け前にあずかれることが求心力の源泉であった。野党転落は求心力を失うことであり、官僚たちへの影響力も発揮できなくなる。こうして野党・自民党内部では結党以来内在していた意見対立が顕在化した。与党であることを追求する議員はさまざまな口実で離党し小沢らに接近していった。これが小沢の狙いであった。自民党の自壊は時間の問題であったのかもしれない。しかし、小沢は性急すぎた。
政権復帰しか生き残りの道がないと考えた自民党指導部はいかなる手段を用いても政権に復帰しようと工作する。細川の政治資金ヘの集中的な攻撃を行い、さらに小沢の権力をささえる公明党への攻撃を強化した。その支持母体・創価学会の池田会長の証人喚問をちらつかせたのである。そして社会党委員長村山富市を総理大臣に据えることで政権復帰を実現した。自民党は、政権与党でなければ自らの存在理由がないことを身をもってさとっていたのである。
1994年の選挙で大敗し、連立政権内での存在感も失ったタイミングで、社会党委員長村山富市を首班とする自社さ連立政権が誕生した。村山は首相就任に当たり、自衛隊合憲・安保条約の容認といった社会党結党以来の方針を放棄する。これは公党としての信頼感、存在意義すら疑わせた。さらに党内対立をかかえていたこともあり、政策面で主体性を出すことは難しく、多くは自民党の方針に沿う形となった。戦後五十年談話や水俣病患者への救済などで独自性をみせ、阪神淡路大震災などでも個人補償の道を開くなど自民党政権では困難であった課題に独自性を見せるなど戦後史上ではめずらしい「ハト派」的な政権であったことは確かである。しかしそれが社会党らしさを発揮したとは到底いえない。
付け加えておくならば、しかしこうしたハト派政権ができたことは復古的勢力の強い危機感を生み出した。「日本会議」や「新しい教科書を作る会」など現代につながる強硬な国家主義勢力は村山政権成立にたいする反発が大きなきっかけとなっている。こうした勢力は次第に拡大し、「予備的な準抑圧的国家装置の生成。ブルジョア的ヘゲモニーに対する民衆の闘争などの脅威を取り締まり得る先制力の役割を果たす」(プーランザス)役割を果たす。

「新右派連合」路線の本格化

橋本龍太郎

こうして自壊寸前であった自民党は、五十五年体制のパートナーであった社会党の助けを借りて、息を吹き返す。そして野党に下野した経験は政権の座への固執につながる。小選挙区制で勝利するには、弱体化し離反しつつある農村や土建・特定郵便局といった旧来の支持地盤を固めるだけでは不十分であった。そのため旧来型の政治に批判的で新自由主義などにも親和的な都市無党派層の支持を得ることが課題となった。党への投票という小選挙区制においては、党のリーダーの善悪とその姿勢が投票行動に大きな影響を与えると考えられた。
そのシンボルとされたのが橋本龍太郎である。端整な顔立ちとソフトな口調、政策通としての姿勢は、小沢と対抗して「改革」を担う「選挙の顏」として格好の存在であった。橋本は「旧右派連合」の直系田中・竹下派の流れを引く小渕派に属していたが領袖ではない。にもかかわらず国民の人気が高く、都市部での要望が強い「改革」にも積極的な橋本が総裁に選ばれた劇場型選挙の傾向が新たな選挙制度の下に生まれつつあった。
村山内閣で通産大臣を務めていた橋本は、河野洋平の後を受け自民党総裁となり、1996年村山の辞職にともないその禅譲を受けて連立内閣の首相となった。橋本は「火だるまになっても行政改革に取り組む」と述べ、首相直属の「行政改革会議」のもとで中央省庁等改革基本法を制定、中央省庁改編への道をつけるなど「改革」を表に出した政策を展開した。この改革をきっかけに「立法部から行政部への権力の移行、典型的には、内閣ないし大統領に集中するなかで個人主義的支配」という方向がすすむ。(中央官庁の再編は、2001年、森内閣下、橋本行税制担当大臣のもとで完成する)。
自民党が「改革」を旗印とすることで野党側は「攻め手」を失う。こうして小沢ら野党側も、自民党側も、ともに、行財政改革・構造改革・規制緩和といった新自由主義的改革を唱え、「改革」の旗を取り合う状況が続く。
こうした点で双方の差異を明確化するために用いられたのが外交である。1998年自社さの枠組みが壊れると、少数与党を余儀なくされた自民党はあらたな連立相手を探った。そこで、目をつけたのが公明党であり、仲介役として目をつけたのが小沢率いる自由党であった。
政権から離れると求心力が下がり、意見対立が表面化するという事態は旧連立政権側でも同様であった。小沢らは小選挙区選挙をにらみ新進党という政党を立ち上げたが意見対立が表面化、1997年に新進党は解党、小沢は自由党という少数政党を率いることとなる。こうしたタイミングで自民党は公明党とのパイプを持つ小沢を連立に引き入れようとした。これにたいし小沢はその条件として国家主義的色彩の強い政策を要求、小渕内閣はこれを受け入れる形で周辺事態法(日米ガイドライン)、憲法調査会設置、国旗・国歌法といった国家主義的な法案や、通信傍受法、住民票コード付加法(国民総背番号制)といった重要法案を次々に成立させた。「ブルジョア的ヘゲモニーに対する民衆の闘争などの脅威を取り締まり得る先制力の役割を果たす」法案が成立し、「予備的な準抑圧的国家装置の生成」につながる流れもすすんだ。こうして新自由主義と国家主義の結合という「新右派連合」はいっそう影響力を増していく。

小泉純一郎内閣の誕生

本改革によって強化された首相・行政権力を最大限利用し、日本政治をいっきょに権威主義型国家主義の方向に進めたのが2001年首相に就任した小泉純一郎である。小泉は早い時期から構造改革を唱え、経世会(竹下派)による自民党支配に反対していた加藤紘一・山崎拓とともにYKKとよばれる協力体制をつくっていた。小泉が構造改革の最重要課題と考えていたのは郵政改革である。郵便貯金・簡易保険によって得られる巨大な資金こそが日本の政治・経済をゆがめる既得権益の温床であり、特定郵便局制度が経世会の集票マシンであるとして目の敵にしていた。そして「郵政改革」を旗印に、旧福田派やYKKとも結びながら、総裁選に挑戦しつづけてきた。
2001年の自民党総裁選は異様な盛り上がりを見せた。ときの総理総裁であった森喜朗は、小渕の急死による数人のボスの談合で生まれたため当初から正統性に疑問がもたれ、さらに度重なる失言から首相としての資質も疑われ内閣支持率も低迷、ついには10%を下回る。長く続く不況と相まって日本社会全体に閉塞感と沈滞ムードがただよった。これにたいし2000年末、加藤派(旧宮沢派)の領袖の加藤紘一は盟友山崎拓とともに森降ろしを画策、野党提出の内閣不信任案への賛成の意向を示し、世間の喝采を浴びた。(「加藤の乱」)しかし野中広務ら自民党首脳部は激しい切り崩し工作で対抗、加藤派は分裂、加藤の乱は失敗におわる。保守本流のリベラル派で、野中らも首相候補と考えていた加藤が自滅したことで、新右派連合への流れはいっそう強まる。
森の辞職にともなって行われた総裁選に出馬を表明したのは橋本龍太郎と小泉であった。不利とみられた小泉は、徹底して自らを「改革派」として国民のまえに押し出し、「改革派」である自分に敵対するものは既得権益にしがみつく「抵抗勢力」という敵・味方の単純な構図として描き、さらに「自民党をぶっこわす」といった過激なことば、単純でわかりやすい「ワンフレーズ」を多用して、学者風に数字を羅列し政策を説明する橋本を圧倒、国民的人気のあった田中真紀子の協力も得て、閉塞感の中にいた国民の熱狂的な支持を得た。マスコミはその選挙運動を「小泉劇場」ともちあげ、党員内外を問わず小泉旋風が吹き荒れた。この「風」は、自民党内に消費税増税で不況を長期化させた橋本よりも「選挙の顏」として有利であるとの声をひきだし、小泉が総裁選に圧勝した。擬似的な「プレビシット(*人民投票)的で、ポピュリスト型の同意導出」と「マスコミ」によって小泉が首相の座についたのである。

「小泉劇場」と新自由主義的改革、ポピュリズムの台頭

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小泉純一郎

この総裁選で見えてきたのは、小選挙区制導入をきっかけにしておこった自民党の変化である。小泉は土建業・農協・特定郵便局・医師会といった「旧右派連合」をささえてきた組織を敵に回しても、国民的人気を持つリーダーが「風」を巻き起こせば勝利できるということが明らかにした。「風」は総裁選を「守旧派」と「改革派」という二元論の単純な図式に当てはめるポピュリズム的手法がもたらしたものであり、ポピュリスト型の同意導出の有益性を再確認させた。こうした手法はこれ以後、社会の各レベルで用いられる。選挙はもちろん言論・報道の分野などでも用いられ、「敵」と見なしたものに対しては卑劣な手段も含め攻撃を集中するという手法が用いられ、社会の分断がすすむ。ネット社会がこうした手法を増幅する。同時にこうした手法は「風」が「逆風」になれば、一挙に立場を逆転させる面も持つ。
総裁選での圧倒的支持を背景に、自民党総裁・総理大臣となった小泉は独裁的手法をもちい、新自由主義的な改革を推し進める。道路公団の分割民営化、そして郵政民営化がそれである。とくに2005年郵政民営化法案が参議院の自民党の一部議員の造反もあって否決されると、小泉は「国民に信を問う」として突如衆議院を解散(「郵政解散」)、民営化法案に反対した議員を公認しないどころか、その選挙区に「刺客」を送り、その当選を妨害し、大勝する。
小泉が、郵政民営化に反対したのは「敵」=「抵抗勢力」とみなして攻撃したのは多くは同じ自民党のなかの「旧右派連合」であり、みずからの選挙地盤と見識を持った政治家たちであった。こうした有力政治家たちを党から放逐し、落選を図ったことで、党中央の指示に従わないものを許さないという姿勢を示した。小泉が「敵」として叩き潰したものは、さまざまな階級・分派・諸階層の利害関係を凝集することで「政治的階級支配のシステムにおける重大な破砕や挫折が阻止」してきた「自民党のしたたかさ」そのものであった。かわって新たに当選した議員たちは地域とのつながりも薄く、選挙区や支持母体の要求を凝集するという役割も弱い「小泉チルドレン」とよばれる者たちであった。議員としての資質を欠くものもいた。こうして「政治改革」以来、数回の衆議院選挙とりわけ2005年の郵政解散・選挙を経て自民党は総理総裁をトップにすえた垂直的な組織へと変化し、「政党は行政の特別の媒介環としてのヘゲモニーの組織化の指導的勢力としての役割を弱め」、「行政決定の伝導ベルトという、より狭い役割に留めおかれる」(プーランザス)存在へと変身していった。

「権威主義的国家主義」の完成~第二次安倍政権

「政治的民主主義の諸制度の決定的衰退」「《形式的》諸自由に対する厳格かつ多様な制限と連結した国家による経済=社会活動の諸領域全体に対する独占の進行」「民主政の諸制度の急激な衰退といわゆる”形式的”諸自由の劇的で多面的縮減と結びついて社会経済生活のあらゆる領域に国家のコントロ一ルが及ぶ」といったプーランザスが権威主義的国家主義の定義として述べた諸点は第二次安倍政権のもとで完成する。「9つの指標」はIT化、ネット社会、グローバル化の影響をうけ、その特徴をさらに際立たせる。
こうした動きは、1970年代末にはじまり、中曽根内閣の下で本格化し、1993年の「政治改革法案」によって成立した。小選挙区選挙制度と政党助成金という「改革」は小泉改革、とりわけ「郵政選挙」によって本来持っていた「毒」の正体を明らかにする。この選挙以後、自民党の議員たちは党中央の公認を得ることに汲々とする。もし党中央の指示に従わねば、たとえ現職であっても公認を取り消され、選挙資金も交付されず、対立候補を出され、結果として議員資格を奪われる。こうして公認が得られなければ、よほど強固な基盤がなければ当選は不可能となる。こうした動きは第二次安倍内閣の下で頂点に達する。党内に「物言えば唇寒し」といった恐怖政治が強まり、議員の多くは党中央の命をうけて行動する物言わぬ投票マシンとの性格を強める。さらにすすんで党中央の意向を忖度して、先回りに行動する。
こうして五五年体制にみられた自民党らしさ、独自の「見識」と支持基盤、「資金源」などをもった派閥・議員が「闊達」に議論を重ね、政策を決定する、決定に背いたり問題を起こしても選挙という「みそぎ」をうけ、議会における一票を増しさえすれば不問に帰されるといった融通無碍な性格を自民党から失われる。
首相とその周辺でまとめられた法案が、党内で論議されることないまま国会に提出され、法案の内容を十分に理解していない主務大臣が「わけのわからない説明」をし、「聞く耳をもたない」政府や大臣らの聞くに堪えない「駄弁」で形式的に時間を消化し、「物言わぬ」投票マシンと化した議員による圧倒的多数で可決・成立するスタイルが生まれる。他方、国会審議が自分に都合が悪くなりそうだと考えると憲法に示された国会開催要求すら無視する。このように憲法や立法権を侵害するような行動をとる人物が自分は「立法府の長」であると語る。一連の行動は、「国会=立法府は不要であり、無駄である」と国民にアピールしているとしか思えない。
橋本行革以降本格化した官邸主導の政治は、2009年に成立し「政治主導」を主張し官僚からの権限奪取をすすめた民主党政権下のもとでいっそう促進されていた。2014年第二次安倍内閣が成立すると、官僚たちは民主党時代に奪われた権限の多くを回復したが、同時に新たに設置された内閣人事局によって人事権を奪われ、その矜持を失ったものも多く内閣への屈服を余儀なくされた。
こうして強化された官邸の権力が「森友学園」問題や加計学園問題など、首相の私的な目的で行使された。この事実が判明し国民の批判が強まると、問題隠蔽のために「党」や「官僚」が動員され、犯罪行為に手を染めさせられるものも現れた。国民の財産「公文書」も改編され破棄される。こうして政治は、私物化され、堕落し、民主主義も、立憲主義すらが足蹴にされる。
こうして「社会的凝集性における政治的階級支配のシステムにおける重大な破砕や挫折」を阻止するという国家機能は不全化を余儀なくされる。社会内部に多くの分断と対立が生じ、その独裁的な手法の前に「無力感」が広がる。それが、さらなる政治への不信感を引き起こし、選挙では大量の棄権票を生じ、わずかな得票で政権を維持できる条件をつくり出した。

現代日本社会と「権威主義的国家主義」

プーランザスの死後、資本主義は急激な変化を遂げる。世界人口の1%に満たない人々が世界の富を独占し、一国の国家予算をはるかにしのぐ規模を誇る多国籍企業が世界の政治・経済に大きな影響を与えつつ、タックスヘイブンなどを利用して税金などの負担を避ける。
九〇年代の改革とそれにつづく時期、日本は「失われた○○年」という言葉で表現される長期低迷の時代であった。バブル崩壊をきっかけに、特需景気以来続いた右肩上がり傾向の経済成長は失速し、不況が日本全体を覆った。多くの企業は世界的な新自由主義的潮流と結びつくことで、なりふり構わない手段で生き残り策ですすめる。「終身雇用」「年功序列」「企業別組合」を三本柱のもと家族的経営を標榜してきた日本的経営はグローバルスタンダードとはかけ離れた時代遅れとみなされ、アメリカ流の成果主義や能力給が導入され、給料に見合う働き方をしないとみなされたものはリストラの対象とされた。とくに高給取りの中堅・ベテラン社員や非効率と見なされた部門が標的とされた。バブル期の大量採用の反動もあって新規学卒の採用は控えられ、大学などは就職氷河期といわれ、多くの若者が就職の機会を奪われ、非正規雇用への道を余儀なくされた。
こうした流れを決定づけたのが、1995年日経連が発表した「新時代の『日本的経営』」という文書である。

労働力は「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」の三タイプに分けられ、これまで通りの正規雇用を「長期蓄積能力活用型」に限定することで人件費を抑え、多くの業務を「高度専門能力活用型」の契約社員や「雇用柔軟型」の非正規社員に委託することを提言した。これをきっかけに多くの企業は業務の多くを外注、正社員を派遣社員などに代替しはじめた。退職した正社員の後は非正規社員や派遣社員で埋められ、正社員にはその分の過剰な負担が求められた。こうして正規労働者が非正規労働者へと置き換えられ、正社員の業務は増した。
これまで非正規雇用の職場は、正社員である夫の収入を厚生年金の枠内の収入を得る形で補完する立場におかれていた専業主婦のパート労働、学生バイト、さらに農業収入や地域の援助を期待しうる兼業農家などを対象として考えられてきた。このため、この分野の労働は、低賃金で、雇用条件も社会保障も不十分なままで放置されてきた。日本では、こうした非正規雇用を前提に経済大国を維持し、安上がりの社会福祉で済ませてきた。企業社会や地域社会を背景にして、低廉な非正規労働の市場を維持してきたともいえる。
ところがこのような非正規雇用の市場に、新規学卒での就職が不調であったり、過酷な労働や不況・リストラによって職場を奪われた人々、自分や家族の生活をまるごと担わねばならない人々が流入したのである。これまで企業社会の中枢を担ってきた正社員市場を収縮させたにもかかわらず、そこから排除された人々への受け入れ先とセーフティーネットを準備しないまま、企業社会の構造改革を進めたのである。
こうして若年層を中心に、低所得層で雇用環境と生活基盤がきわめて不安定な人々が、セーフティーネットも整備されないまま大量に出現した。そのなかには、奨学金や学資ローンといった負債を背負わされたものも多数含まれていた。不景気は非正規の現場ですら十分な仕事を準備せず、住まいを追われたネットカフェ難民なども出現、話題となった。労働者派遣業が急速な発展を遂げたが、その多くが不当な労働実態が明らかになって消滅した。非正規現場では労働者としての権利が不当に侵害されることも多かった。正社員採用をうたうことでをそれを希望する人々に過酷な労働を強いるブラック企業も現れた。身体的精神的に追い込まれる人々も増えた。

2008年のリーマンショックでは、景気後退を恐れた企業が大量の派遣労働者の雇用を打ち切ったことにより大量の労働者が仕事と住まいを失い、行き場を失った人々が「年越し派遣村」に殺到し、日本社会の危機的状況を示した。若者たちは生活不安と将来設計をもてないことから、結婚・出産などをためらい、自家用車購入など高額消費を控えることによって消費は抑制され、社会のデフレ傾向はいっそう加速した。
正社員となった人々も、経済活動のスピード化、正社員への仕事の集中、IT化グローバル化による24時間対応などでいっそうの責任を負わせられ、さらには成果主義の導入やリストラの恐怖にさらされるなか、長時間で過密・過酷な労働を強いられることも多く、心身の不調を訴えることも増えた。社会は神経症的傾向を強めていく。
新自由主義的な経済と社会政策自体に問題があるにもかかわらず、こうした現象は、正社員と非正社員、公務員と民間、高齢者と若者、既得権を持つ人と排除された人間、さらには経済発展の著しい中国・韓国とそれに地位を奪われた日本、など敵味方という単純な図式にねじ曲げられがちであった。そして、それは「改革」の不十分さとして、いっそうの新自由主義的改革へ誘導されたり、なんらかの「敵」がつくり出され、それへ敵意が醸成される。社会的なストレスは排外主義・人種主義などとも結びつき、ポピュリズムの熱狂に動員される。ネット社会がそれを助長する。
90年代にはじまる政治改革=「権威主義的国家主義」の成立・発展・完成はこうしたバブル崩壊以降の社会の変化、社会的なストレスを背景に広がりを見せたポピュリズムを基盤としている。しかし、多国籍企業の利害を第一とする世界・日本の政治のあり方が国民生活を圧迫し、新自由主義な諸改革が人々の生活基盤を破壊し、新保守主義が社会の分断を進めていく以上、こうした動きへの反発もさまざまな場面で広がっていかざるをえない。

おわりに~代表民主主義と直接民主主義の接合

グローバリズムの進展とIT化、ネット環境の広がりはまた新たな動きを引き出す。これまでは、子育てや介護、持病や障害などさまざまな事情で経済や社会への参加を困難にされていた人々の社会参加にも道を開いた。農村部に在宅しながら会議に参加することも可能となり、都市に住み、長時間通勤を余儀なくされるという勤務形態にも風穴があいた。農水産物・工業製品・さらには文化的芸術的諸成果も、これまでの流通経路とはまったく別のルートで結びつくようになった。これをビジネスチャンスとして捉えベンチャービジネスとしての成長の機会を見いだす中小企業や一人企業も生まれた。プラットフォーム作りなどで膨大な利益を上げるものも現れる。ネット環境を利用した資金調達で社会にとって有用な貸付に資金を調達するといった「志ある金融」をめざすクラウドファンディングなどの手法が広がる。企業利益だけでなく従業員・消費者・地域や地球環境を優先すべきと考え、平和的人間的で持続可能な資本主義をめざすべきとの企業を選別して資金提供をすることで、資本主義のあり方に一石を投じようとの考えにも共感がすすむ。
このように資本も労働も流通も、社会そのものも、変化しつつある。こうした変化は必然的に「今の状態をよりよくしたい」との要求や運動(「闘争」)を生みだす。生産様式・生産関係の変革、労働条件、難民問題、医療や保育・介護などの福祉、教育、文化・芸術、多様な生き方の承認など様々な分野で力関係の組み替えがなされていく。そして、ひとびとの属するさまざまなレベルで「よりよいあり方」をめざす「陣地戦」(グラムシ)ともいうべき直接民主主義的な運動が繰り広げられる。現在における「闘争」はあらたな形態で、労働現場で、流通や消費の現場で、ネット上で、ジャーナリズムで、学問・文化・芸術で、さまざまな場面で展開され、国家は対応を求められる。そして、それに対応できない「権威主義的国家主義」は「国家」の役割を果たしていない実態がさらに明白になっていく。
プーランザスがいうように、国家は社会関係(生産関係・権力関係など)の凝集体であり、階級闘争をはじめとする諸闘争(=「さまざまな願いを実現させようとの営み」)を反映したものであり、それが公的・一般的な形態をとっている以上、国家はさまざまなレベルでおこる取り組み(「闘争」)を反映せざるを得ない。ところが、小選挙区制を背景として進められてきた諸改革のなかで形成されてきた「権威主義的国家主義」はこうした国家的課題には背を向けている。社会的力関係の「物質的凝縮」を集中する機能を微弱化させ、国民国家の利益や国際協力に反するような資本主義の一分派の特殊な利益、1%の富者などの利害に適合的な存在である。それは、様々な形で表明される人々の直接民主主義的な願い・動きと相反し、国民的統合という国民国家の機能を低下させる。国民の中の断絶が広がり、対立が激化させた。

問題は、こうした日常社会での「直接民主主義」的な動きを、代表民主主義の場、つまり社会的力関係の「物質的凝縮」を集中的に表現する特権的な場である国家にいかに反映させていくかという課題である。こうしたなかで、教訓的なのは2015年の安倍内閣が集団的自衛権行使を可能にする安保法制成立をはかろうとした動きに反対した人々の行動である。

「安保法案 野党共闘」の画像検索結果

国会前には立場の違いを超えた広範な人々が、法案成立阻止のため連日結集した。そこで人々が異口同音に叫んだのが「野党は団結」ということばであった。その声に押され、その場の野党の党首たちは選挙協力を約束し、翌年の参議院選挙でそれを実現させた。草の根の力に押された統一候補が出馬、多くが当選を果たした。
プーランザスの研究者・柏崎正憲は、プーランザスは「代表民主主義と直接民主主義の接合」に将来の展望を見いだそうとしていたと主張する。様々な場面で広範にとりくまれている動き(直接民主主義)を政治の場面に代表させ反映させる取り組みが今求められている。「権威主義的国家主義」は人々のさまざまな願いを凝集することを避け、現状の選挙制度が「社会的力関係の物質的凝縮」を妨げるものである以上、それを取り除くべき力関係が形成されなければならない。そうした点で直接民主主義的手法で安保法制に反対した人々が、各政党にまず自分たちの代表であることを要求したということは重要である。そして、選挙制度にみられる社会的力関係を立法府に反映することを妨げている障害を除去し、国家の「物質的凝縮」の機能を回復し、それぞれの場面で進んでいる「直接民主主義」を「代表民主主義」の場にもちだす回路を開き、「拙速から熟議」へという政治の流れを打ち立てることが求められている。

<参考文献>

ニコス・プーランザス『国家・権力・社会主義』(田中・柳内訳ユニテ1985原著は1978)
ボブ・ジェソップ『国家権力』(中谷義和訳、御茶の水書房2009 原著は2008)
柏崎正憲『ニコス・プーランザス 力の位相論』(吉田書店2015)
飯尾 潤『日本の統治構造―官僚内閣制から議院内閣制へ』 (中公新書2007)
石川真澄・山口 二郎『戦後政治史 第三版』 (岩波新書2010)
小熊英二編著『平成史(増補新版)』(河出書房新社2014)
佐々木隆爾『新安保体制下の日米関係』(山川出版社2007)
清水真人『平成デモクラシー史 』(ちくま新書2018)
中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』 (岩波新書)
中北浩爾『自民党政治の変容』 (NHKブックス2014)
中北浩爾『自民党ー「一強」の実像』(中公新書 2017)
中野晃一『右傾化する日本政治』(岩波新書2015)
渡辺治『講座現代日本(1)現代日本の帝国主義化・形成と構造』(大月書店1996)
渡辺治『現代史の中の安倍政権』(かもがわ出版2016)

前編~「『五十五年体制』とその行き詰まり」はここから

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