プーランツァスの国家論と現在

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プーランツァスの国家論と現在

 

はじめに

ニコス=プーランツァス(1936~1979)

プーランツァスは20世紀後半、ギリシア出身のマルクス主義哲学者で、主にフランスで活躍した。フランスのマルクス主義哲学者アルチュセールの影響をうけつつ、1968年、五月革命の高揚の中、『政治権力と社会階級』(「資本主義国家の構造」)を発表、70年代にはイギリスのミリバンドとの間で論争などを行い、「国家論のルネサンス」と呼ばれた。1970年代後半、西ヨーロッパで、議会を通して多数者を獲得し平和的に社会主義をめざすというユーロコミュニズムが生まれると、左派的立場からそれを支える立場で議論を展開したが、1979年、自ら命を絶った。
今回、機会を得て、プーランツァスの遺著「国家・権力・社会主義」に接する機会をもつなか、現代資本主義国家を分析する上で、多くの示唆を得るものと考え、その内容を理解するための手段として、自分なりのスケッチを描くこととした。
グローバリズムの下、移民排斥・人種主義などポピュリズムが世界に広がりつつある。それに対し、それに対抗する勢力の現在版の「反ファシズム統一戦線」が求められている。日本でも、急速な右傾化に反対するリベラル保守が市民運動の期待をうけながら日本共産党の強い支援を受けて躍進した。こうした情勢で、ユーロコミュニズムの可能性を追求したプーランツァスの理論が求まられているように感じる。
未熟ながら、自分が理解した範囲でプーランツァスの国家論を紹介し、現在の日本に当てはめればどのようなことがいえるかをスケッチ程度にまとめたいと思う。
なお、プーランツァスの言説は、一方で論争的・政治的でありつつ、他方で哲学的であるため、言い回しなどはきわめて難解で、十分な理解ができているのか自信がない。さらに、引用においても、理解しがたいことも多いため、私はこのように理解したという以上のものでないことは、あらかじめ告白しておきたい。また、事情により、一部の紹介にとどまっていることもお詫びしたい。

史的唯物論の「定式」批判

マルクス主義の国家論は、長くエンゲルス=レーニン的な「支配階級が力量・好みに合わせ、自分自身の国家を作り、思いのままに操作する。いかなる国家も階級独裁でしかない」という道具主義的理解が長く主流とされてきた。そして現在の国家がブルジョワ独裁であるとの考えから、社会主義を打ち立てるためには、プロレタリアートが革命で国家権力を掌握し、プロレタリア独裁(執権・ディクタトーラ)を実現しブルジョワジーを抑圧し、しだいに無階級社会=共産主義へ向かうという考えが主流となってきた。他方、こうした階級独裁という考えだけでは、社会保険や労働者保護など国家の公共的側面を捉えることができないと考え 「独自の国家=権力が存在し、それを支配的諸階級が利用する」とした理解も生まれた。プーランツァスは双方の立場とも、疑問を呈する。
史的唯物論は、「土台=下部構造(経済的諸関係)の上にイデオロギー的上部構造」がそそり立つという建築物の類推で考えることが定式化されてきたが、プーランツァスはこの定式を、経済的空間と政治=イデオロギー的上部構造という二元論的形式主義的理解であると批判し、「政治的なるもの=国家(イデオロギーについても同じなのだが)は、生産諸関係のうちに、生産諸関係の再生産の構成要素として存在している。」とのべる。生産諸関係(資本と労働者といった階級の存在とそれを再生産するシステム、階級闘争など)は政治・イデオロギー的諸関係に影響を与え、国家やイデオロギー自身も生産諸関係のなかに組み込まれていると考えたのである。

資本の原始的蓄積~国家と経済の分離

前近代、農民など生産者は土地などの「労働対象および生産諸手段」を保有しており、生産過程をほぼ自らの手に納めていた。前近代国家は、こうした「直接的生産者から剰余労働を強奪すること」(「略取」)によって支えられてきた。国家自体が生産諸関係の中心的な装置として組み込まれていたのである。
近代化が進む、いわゆる資本の原始的蓄積がすすむなか、生産者(おもに農民)は身分的の緊縛(経済外強制)から解放される(「身分からの自由」)一方、土地などの「労働対象および生産諸手段」をも失っていく(「土地からの自由」)。こうして「二つの自由」をもった「生産手段からの脱領有化された《自由な》《裸の》労働者」が生まれる。こうした労働者は、「自己の労働力しか持たず、また、所有者の雇い入れ、法的には労働力の売買契約として表現される契約なしには労働過程を始動させえない」存在であり、こうした労働者の存在を前提に資本主義的生産様式が確立する。
前近代において剰余価値収奪は「年貢」など生産者からの直接的な収奪(「略取」)であったのに対し、資本主義においての剰余価値の収奪は、生産現場における生産過程のなかでの賃労働者の剰余労働力「搾取」という形になり、国家は表面的な収奪の場面からは姿を消す。これによって国家は、これまでの「生産関係の有機的な構成要素」から、「生産関係から相対的に分離した存在」へと変わる。

資本主義生産関係の一環としての「資本主義国家」

しかし、こうした<国家と経済の>分離は、国家が経済の外にあることを示すものではない、とプーランツァスはいう。「この分離は、資本主義のもとで、生産諸関係のうちに、またしたがって生産諸関係の再生産のうちに、政治的なるものが構成要素として存在していることがまとう特定の形態以外のなにものでもない」として、近代国家が資本主義的生産関係の主要な構成要素として組み込まれていると主張する。
政治=イデオロギー的諸関係が生産諸関係の構成のなかに存在しているからこそ、生産諸関係が再生産できるのであり、生産・搾取関係の過程の中で、同時に政治的かつイデオロギー的な支配と従属の諸関係の再生産されているというのである。
具体的に考えてみよう。資本主義経済の血液ともいうべき貨幣が国家によって鋳造されることにはじまり、所有権や契約制度(労働契約も含む)、売買のシステムをはじめとする資本主義生産に必須の諸制度などが法律などとして国家によって定められ、その他諸政策で保護されることでブルジョワジーは安心して経済活動に従事できるようになる。生産活動に不可欠の原材料の海外からの確保や工業製品の海外輸出は国家の力なしには考えられない。これなくしては原材料が調達できず、大量の生産物は山積みのままのこり、ついには倒産の憂き目を見る羽目となる。
さらに、資本=賃労働関係を基礎とする資本主義のシステムのもとで働くことを、積極的であれ消極的であれ人々に承認させる。こうしたシステムになじまないもの、異議を唱えるものは、まず会社内など資本などの側で、つぎに法で、さらには法律に従わないとして警察・軍隊といった暴力装置をつかって、「鎮圧」することで資本主義的秩序を安定させる。こうして、資本主義的生産様式は安定して機能し、再生産される。

支配的イデオロギーが資本主義を「再生産」させる

国家は人々を近代=資本主義に適合した身体と精神を持った人間に作り替える。前近代社会の中、「無学」で「太陽が昇れば働き、沈めばやめる」「必要以上のものもつくらず今の生活を維持すること」を是とした生活を送っていた人たちは、学校教育や社会教育、軍隊生活などを通じて「近代的人間」に改造されるのだ。人々は共通語(「国語」)を学び、時間にしたがって行動し、集団的に行動する力を身につけ、リーダーの指示にしたがって行動するようになる。なじめない人間は「排除」される
肉体面にとどまらず、ものの考え方も「近代化」させられる。「誠実」に働けばきっと成功するといった「神話」(「アメリカンドリーム」などが典型)が信じられ、国家や会社など自分の参加する組織のためその義務を全うするという道徳が当然とされ時には命すら投げ出すことが求められる。生活の向上(特に収入の増加)と事業の成功(立身出世)や家族の平安などが「幸福」として追求される。能力主義が導入され、すぐれた能力や知識などをもつものが「偉い」とみなされて国家や資本の官僚制の枠組みの中で「出世」し、能力や特性、忠誠心が不十分なものが「出世」できないことは仕方がないとされ、とくにこういった力が不足するものが「おちこぼれる」ことはやむを得ないことと了承する。こうしたルートに乗らないものは「規格」外とされて排除される。多くの場合、そうしたものは、自己責任と見なされて、顧みられない。
このような考え方が国家の「装置」である学校やマスコミ、芸能・文化、宗教、社会教育などありとあらゆる場で喧伝され、それらが互いに響き合うことで、こうした考え方を「再生産」し、ひいては近代資本主義社会、資本主義国家支配を「再生産」する。
他の生産様式をも、その構造の中に組み込んで成立している近代資本主義生産様式は、こうした国家の存在とそれを支える支配的イデオロギーなくしては「再生産」できない。このようにして、資本主義においても、国家が生産関係の再生産にとって必須の役割を果たしているのだ。

抑圧装置と法

こうした内容を、プーランツァスにそって見ていこう
プーランツァスに大きな影響を与えたフランスのマルクス主義哲学者アルチュセールは、国家を抑圧装置とイデオロギー装置の組み合わせという形でとらえている。
抑圧装置とは、先の例によれば、警察や軍隊がこれに当たり、イデオロギー装置とは、学校など教育機関などがこれに当たり、マスコミ、宗教、社会教育などがこれを支えている。ただプーランツァスはアルチュセールと異なり、このような単純な組み合わせで国家を捉えるやり方には批判的であり、軍や警察にイデオロギー装置の役割を、学校の中に抑圧機関を見ている。
近代国家は、国境で囲い込まれた枠の内部で、人々を武装解除し、暴力を監獄、軍隊、警察といった国家の暴力装置に集約する。(「国家における軍事力の集中と私的領域の武装解除・非武装化」)。そして正統化された物理的暴力独占を背景に、制定された法を基礎づける。これにより、所有権の不可侵や労働契約など契約の自由といった資本主義生産関係の枠組みをつくる。プーランツァスは学校などの諸機関も、人々の身体を訓育し、服従させ、型にはめ、諸制度のうちに囲い込むことによって、資本主義=近代に適合した「臣下」の身体をつくりあげる国家の抑圧装置としても捉えている。
国家組織やイデオロギー的=文化的諸制度(普通選挙による議会や学校など)などもこうした国家の物理的暴力の独占を前提としている。
国家は、こうした暴力を独占し続けているが、一般的に「暴力」は「法の支配」という言葉の後ろに隠され、近代国家=法治主義という姿が表面的には姿を見せる。「法の支配」が制度として定着するにつれて、物理的暴力行使の機会は減少する。人々は法律にしたがって行動することが求められる。しかし、それに背いた場合には拘束され、投獄されるなど行動の自由が奪われ、国家権力によって「死刑」などの形で生命を奪うことも肯定されている。このように、国家が暴力=テロルを独占するという決定的な役割は変わらず、「常に権力の諸技術と同意のメカニズムとの基礎を構成」しているが、法律のみで階級支配が困難になったときには、法を越えて、暴力が行使される。暴力が国家を支配する事態も発生する。
法にはもう一つの側面、法が同意を作り出すという機構をもつ。法は支配的イデオロギーを物質化しているものであるが、同時に被支配諸階級の同意を形成するためのものでもある。このため、法の中には、被支配身分権利を組織し容認するという民衆闘争が支配的諸階級に課した妥協を明記しているものでもある。

イデオロギー諸装置

近代政治学は、国家の暴力的と同時に、国家による支配の正当性・正統性(「合意」)の側面を重視する。こうした「合意」をつくりだすのいが支配的イデオロギーの役割である。支配的イデオロギーは、国家諸装置(イデオロギー的国家諸装置)の中で作り上げられ、練り上げられ、人々の中に注入され、さらに再生産される。こうして支配イデオロギーは、被支配階級の合意をも取り付け、生産関係を安定化させ、その再生産を保障する。
マルクス主義者は、こうした合意を「単なる欺瞞」と退けることが多い。しかし、実際の国家はある程度の真実を語り、政治的諸戦術の立案・定式化を担う。
国家が打ち出す言説は画一的ではない。対立するかに見えるさまざまな言説が、さまざまの機関などからさまざまの形で、さまざまの階級に向けて発せられる。ときには支配階級の利害に反すると思われる政策すら「国家的利益」などの名の下に打ち出される。社会保険などの社会福祉政策、労働者保護政策、環境保護政策など、それを単に欺瞞と考えることは妥当でない。

「権力」と国家


「権力」というと、国家権力と一体化されることがおおい。プーランツァスによると、これは正しくない。資本主義生産様式において、「他人を強制し服従させる力」である権力は、資本が労働者の剰余価値を搾取するという生産諸関係およびそれらを構成する諸関係(経済的所有関係および領有関係)のなかこそ、第一義的に存在する。
かといって、国家権力は第二義的なもので無視してよいというものでは。先に見たように、生産諸関係のうちに国家も存在しており、国家がそれを維持していく上で主要な構成要素となっているからである。
階級的諸関係とは別の権力関係も存在する。例として挙げられるのは男女間の「性」であるが、部落問題や民族問題なども組み込めるであろう。「階級的諸関係とは確かに異質な男性=女性間の性的諸関係の中に存在する権力は、とりわけ国家によって(国家だけではなく企業=工場によっても)階級的諸関係として取り込まれ、間接的に用いられ再生産される。」とする。性差や旧身分に基づく差別が、企業内などでの賃金や待遇の格差につながり、権利面においても差異をつけられ、分断に利用されることを我々は数多く見ている。

「国家」=精神労働の結晶化と、人民大衆=肉体労働の永続的排除

資本主義成立の過程のなかで「身分からの自由」が進展し、前近代的身分共同体が解体される。この結果、中世社会の下で、人格的・身分的・地縁的な絆といった網の目に絡み取られていた労働者はその絆から切り離される。他方、土地所有者である領主が裁判官、行政者、軍隊の長の役割を独りで果たし、その人格的な結びつきによって位階制的に結びつけられていた封建制国家も解体する。こうして、一人の人間があわせもっている肉体労働と精神労働が分化させられ、肉体労働をもっぱらとする人間と、精神労働も専門的に担う人間が分離し、それぞれ自立していく。
精神労働の分離によって、たとえば科学者はそのことに全精力を費やすことが可能となり、科学は画期的な発展を遂げ、技術革新などによって資本に大きな利益をもたらす。さらに、こうした科学=知は、国家権力の維持・発展にも利用されるようになる。こうして政治権力の行使は、科学にうらづけられ、その合理性により正統性を得る。こうして国家の諸装置のもとで「精神労働の結晶化」がすすめられ、肉体労働に偏在する傾向をもつ人民大衆の前に立ちはだかる。専門的な法律家、政治や経済の専門家の前に、日々の仕事や生活に追われるアマチュアたちは太刀打ちできず、圧倒される。無力感から、自らの得た力すら行使しなくなる。
間接的代議制民主主義の一連の諸制度(政党、議会など)のメカニズムは、精神労働を集約し知の永続的な独占を行う国家権力と、こうした機能から排除され主に肉体労働に従事する人々とのこうした関係に依存している。
労働力の資格付与=再生産に介入している特殊な諸装置(学校、家庭、職業養成のさまざまな組織網)および国家諸装置総体(ブルジョワ政党や小ブルジョワ政党、議会制度、文化的諸装置、出版、マス・メディア)の双方を通じて、国家は肉体労働と精神労働というの分業の再生産をめざして働きかける。こうした過程を通して、国家は広く、かつ多彩な知識人をその支配下に獲得することが可能となるのである。

「個人化」と代議制民主主義の形成、憲法の制定

資本主義が成立するなか、前近代的な身分共同体が解体し、人々は「中世社会の下での労働者を構成していた絆(人格的・身分的・地縁的な絆)の網の目から切り離」されることで、身分集団の中に包摂されていた人々は「個人化」(「単子」化・アトム化)され、近代的生産関係の枠組みの中の一断片として埋め込まれる。こうして労働者は生産諸関係によって課せられた枠組みの中で相互に独立して労働する(私的労働)。
こうして細分化された個人を、「法律的・政治的な個人=人格=主体」として位置づけ、国家の下に統合したものが代議制国民国家である。また官僚制的、位階制中央集権主義という形をとった諸部分として組織化、「規制」化される。国家は、このようにして構成された総体に対して権力を行使する。
こうした法律的=政治的主体として位置づけられた個人も、実は国家によって位置づけられ創出されたものである。資本主義的生産関係によって生み出された「個人化」を裏付けとして、「政治的個人」が形成され、位置づけられ、服従させることで、国家が構成される。
それぞれの人間は、国家によって私的領域と、公的領域(公人・勤労者)の二領域を与えられる。私的領域は近代的家族に割り当てられる部分から構成されるのだが、その領域は必要において国家が移動しうるものである。個人的=私的領域は、公的空間としての社会からの相対的分離してはいるが、同時的に国家によって創り出されたのであり、個人的=私的領域における国家の活動や侵害に対してはいかなる法的かつ原理的制約もあり得ないのではある。
戦前の日本においては、「教育勅語」に示された、「国体」があらゆる価値観の中心に置かれ、私的領域の中心ともいえる精神の自由は「治安維持法」によって制約され、それに反すると国家の一組織たる特高警察や憲兵が判断すれば検挙し、闇のうちに生命を奪うことすら可能であった。

「個人的=私的領域」への介入~「共謀法」と「愛国者法」

一般に、近代化が進むにつれて減少すらかと思われがちな「精神の自由」への介入は、近年「テロリズム」対策という形で急速にすすみ、アメリカでは「愛国者法」が、日本では「共謀法」が人々の個人的=私的領域に介入し、罪刑法定主義に反する領域までも法で規制したり、監視するようになってきた。プーランツァスがいうように、国家にとって、個人的=私的領域における国家の活動や侵害に対してはいかなる法的かつ原理的制約もあり得ない。
「代議制民主主義は、おそらく絶対的な意義を有してはいないであろう。しかし、」とプーランツァスはつづける「それは権力に対する障壁であり続けており、国家及び諸階級が存続する限り、重要な意味を持つであろう。被抑圧階級の獲得成果たる人権や市民権についても同様である。」こうしたものは、階級闘争の成果として国家権力を制限しつづけている。代議制民主主義は国家に対する唯一の制限事項でないとしても、国家の物質的中枢に民衆の闘争や抵抗を刻みつけており、権力に対する障壁であり続けている。
まさに憲法、とくにそこにおける基本的人権の規定はこのような存在なのであり、憲法にしたがって政治を行うことを要求する立憲主義は、こうした民衆運動、階級闘争の成果なのである。

また個人化の過程によって、資本主義の下における諸階級は、《開かれた》階級となり、学校だけでなく、軍隊、刑務所や行政機関によって、階級を越えて振りわけ=分配する役割を、血統・門地および出生とは無関係ないずれかの階級的位置を占めるように、彼らを形成し、訓練し、資格を与え、服従させる役割を導き出くようにする。

関係の凝縮としての国家

現在の資本主義生産諸関係においては、ブルジョワはいくつかの階級分派から構成されている。規模で見れば、多国籍企業、独占企業、大企業、中小企業(旧来のものとベンチャー系)、家族経営など、業種でいえば、金融、製造(金属、自動車、機械、電機、…、精密、食料品、)、運輸、サービスなどなど、このような分派は、ブルジョワジーとしての共通の要求を持ちつつ、それぞれの業態などによってその要求は千差万別であり、互いに対立する部分もおおい。さらに他の生産様式にかかわる支配的階級(例えば大地主)なども存在する。
プーランツァスは、さまざまなブルジョワジーなど支配階級のさまざまな要求を組織化し、妥協的均衡を図り、統一していくところに国家の大きな役割をみている。このような役割が可能なのは、すでに見てきた資本主義国家と生産諸関係の相対的分離によって生まれた相対的自律性のためだ。そして、国家の中核にはブルジョワジーの諸分派の一つ、現在では独占資本がヘゲモニーをにぎり、ブルジョワジー総体(観念上の総資本家)の長期的利害を代表している。資本主義国家は、諸階級および階級的諸分派間の力関係の物質的凝縮という性格をもつ。
諸階級および階級的諸分派間と国家の関係は、一方が他方に影響を与えるというような外在的なものではない。国家は一枚岩ではなく、国家の構造そのものの中に階級的矛盾の産物が反映している。先の例でいえば、国家の中には独占資本の要求も、従来型の中小企業のものも、ITベンチャーのものなどさまざまな要求が流れ込むことで、階級諸分派間などの矛盾も流れ込み、それによって分裂していることを意味している。国家の政治はこうした矛盾をはらんだものとなる。

支配階級内部の諸対立を抱え込む資本主義国家

こうした分裂は、ブルジョワジーの分派や権力同盟と国家諸部門・国家装置との結びつきなどで示されることがおおい。日本を例にとって見てみよう。銀行など金融の利害は財務省や金融庁に、重工業は経産省や防衛省さらには自衛隊あるいは外務省へ、通信は総務省へ、とそれぞれ親密な関係になりやすく、それぞれに対応する自民党内の部会とも結びつく。
プーランツァスのいい方を聞くことにする。
「執行府と議会、軍隊、司法府、さまざまな省、市町村、地方あるいは中央の諸装置、イデオロギー的諸装置はしばしばさまざまな社会構成体に応じて、権力ブロックの一つ一つあるいはいくつかの構成要素、大土地所有者、非独占資本、独占資本、国際化されたブルジョワジーあるいは国内ブルジョワジー、のそれぞれの違った利害を特に代表している」
こうして国家は支配階級内部の諸対立を内部に抱え込んだものとして存在することになる。したがって国家政治も国内の諸矛盾の現実を反映したものとなる。したがって、政治はぶれるし、短期的には不統一で無秩序にみえることにもなる。
このように矛盾を抱え、時には分裂しているかに見えながらも、実際の発動される国家権力は中央集権的な装置としての統一性を持っている。これを独占資本の一貫した意志とみる人もいる。しかし、そうではなくて資本主義国家のシステム、「位階制的かつ官僚制的組織化」という形式によるものとプーランツァスはいう。

国家内の分裂と統合~現在の自民党政治の実態から

さきの例でいうならば、ブルジョワジーのそれぞれの要望が、国家の各機関などに届けられ、法案や予算要求としてまとめられ、日本では財務省や自民党の各部会政調会などで調整され、予算や法律となって、国家の意思として示される。
具体的にいうと、各省庁でつくられた法案や予算案は、自民党内で各議員が自由に参加できる部会。あるいは審議会などにもちこまれる。部会は、省庁割りを基本に、さまざまな業種などにもかかわりながら設定されており、議員たちは自由に議論を戦わせる。そこには、官僚が参加し、関係者も呼び出される。これをしきるのが族議員だ。彼らは、場合によっては官僚よりも博識である。そこでもまれた法案や予算要求が政調会・総務会などを経て、法案となる。また財務省に届けられ、まとめられた予算原案は、再び自民党内でもまれて予算化され、国会に提出される。 現状では、国会は多数を占める自民党が多数を占めているので、この時点でほぼ決まっている。あとは国会審議で若干の修正をする。
野党の激しい反対を受けたり、自民党の都合で形の上だけ提出するだけで、廃案される法案もある。逆に野党などの提案の大部分は、棚ざらしにされ、審議不十分で廃案となる。
プーランツァスに即してまとめるならば、国家機構や装置、政党(日本では自由民主党)は、ブルジョワ階級の諸分派、さらに他の支配階級、権力諸組織、中間層、さらには一部労働組合(たとえば「連合」)などの意見を、多様なルートで、多様なセンサーを通して受け、それをまた多様な国家機関や諸装置で調整しながら、国家意思としてまとめていくことになる。たしかに独占資本の力が強いのは確かではあるが、他のブルジョワジー分派や他の諸階級の要望も政府内に反映され、さらには被支配階級の運動も反映されていく。
このように、複雑なメカニズムで、ときには矛盾に満ちた形で決定される国家意思ではあるが、多くの場合は中央集権的に整備された国家機関=官僚制を通して、統一的に行使される。このようにプーランツァスのとらえ方は、現在の国家意思がどのように形成され、運用されるかについて、そのダイナミズムを捉えることを可能とするものと考えられる。

国家諸機関・装置内の分裂~民主党政権の混乱にみる

国家内部にはさまざまな支配階級の意向が反映し、内部矛盾を調整しつつ国家が運営されるのが普通であるが、ときに、そうした形が崩れることがある。われわれは、こうした例を、2009~12年の民主党政権にみることができる。
2009年の総選挙で圧倒的多数を獲得して政権を樹立した民主党は、それまでの自民党政権の弊害を打破しようと、新たな政策を進めようとした。沖縄基地軽減を公約に掲げ首相となった鳩山由紀夫は「普天間基地」を少なくとも県外に移すことをめざした。本来なら、国家機関とくに外務省や防衛省はシステム上、こうした方向で動くはずであった。ところが、これまで対米従属の方針を貫いてきたこうした省庁は、その指示を一切無視したどころか、アメリカ側にあったグァム島への米軍基地移転の動きをも押さえ込むように働きかけた。また、「コンクリートから人へ」をスローガンにして、無駄な土木工事などを縮小したとすると国土交通省はそれを妨害する。
プーランツァスは、「国家は一枚岩でないため、権力のなかの支配的役割を持つ装置を変えることが可能となる」ことを指摘している。民主党政権でみるならば、国会と内閣を民主党がおさえたにもかかわらず、権力の支配的役割は「面従腹背」の各省庁などに隠れたと考えることもできる。これがいっそうひどくなると、かつてのチリ・アジェンデ政権の時のようなクーデタとなる。正統な選挙によって確立された社共連合政権のもとづく国家を、国家の暴力装置である軍部がクーデタを起こし、アジェンデらを殺害、さらにそれに抗議した人々を鎮圧(、殺害した?)事件である。正統な権力を国家装置の一つが暴力的に非合法で奪い取ったのである。
さらにプーランツァスは、左翼による平和的な社会主義への移行にかかわって、国家諸装置・諸部門の連接が複雑であるため、政府を占有しても、実際の国家諸装置を統御できるとは限らない。さらに国家諸装置内部においても、同様の分裂が存在しており、実質的権力の所在が捉えにくいことも指摘している。権力の所在を一カ所に特定することは難しい。現代の日本においても各省庁のトップであるはずの大臣の権限は限られており、実際には事務次官がトップで省内の実権を掌握している。実際の政策立案で見るならば課長補佐級の若手の官僚である。こうしたことが、権力の所在をわかりにくくしている。

おわりに

1968年のフランス五月革命、同時並行的に起こった世界の学園紛争は、「プラハの春」の暴力的圧殺などに見られるスターリン亡きスターリン主義、ソ連共産党支配を典型とする東欧社会主義への失望と批判を背景としていた。しかし、この高揚が消え、中国の文化大革命への実態が明らかになるなかでの失望のなか、西ヨーロッパのマルクス主義者たちは、全体主義ではない民主主義的な社会主義を、暴力革命でない議会での多数派を形成という方法で、交代可能な社会主義をいかに実現するかという、実践的な課題に立ち向かっていた。
プーランツァスの研究は、時代がかった革命=プロレタリアート独裁(執権)の実現という戦術の前提となっていた静的な土台=上部構成論、国家=階級独裁論にもとづく形式主義的なマルクス主義、現実の分析には不向きであった形式主義的教条主義的なマルクス主義にもとずく国家論研究を、近代政治学の成果をも批判的に吸収しうるものに変えた。そして、自分たちの現前にある資本主義国家は、決して一枚岩でなく、分裂と統一のなかで存在していること。だからこそ柔軟に貪欲に多くの人々を引き込めるという柔構造な構造を明らかにした。
したがって、このような形で存在している資本主義国家を、平和的で民主的な方法で、いかに全体主義に陥らない社会主義を実現するかの考察を進めた。こうした意味でユーロコミュニズムの理論を打ち立てようとした。しかし、その試みは厳しいものであり、課題を残したまま、1979年、「国家・権力・社会主義」を著した直後、自ら命を絶った。
現在、グローバリズムの進行と軌を一にして、移民排斥などを求める過激なナショナリズムと人種主義が世界各地で猛威を振るっている。日本でも、2017年の選挙で、立憲主義や法治主義、議会の尊重や自由主義といった近代国家の支配イデオロギーすら守らないファシズム化しつつあるかつての保守政党・自由民主党が圧勝した。しかし他方では、政治の急速な右傾化に反対しリベラルな保守を唱えて急遽結党された立憲民主党が市民運動のあつい支持のもと、マルクス主義政党である日本共産党の強い支援を受けて躍進、ユーロコミュニズムの中で語られた「オリーブの木」が小規模ながら実現した。こうしたなか、平和的な変革をめざしたプーランツァスの国家論はあらたな輝きを放ちうるものである。

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