マルクス主義史学と「世界システム論」

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マルクス主義史学と「世界システム論」

はじめに

近年、歴史学におけるマルクス主義の退潮が指摘され、「戦後歴史学はマルクス主義の影響がつよかったのですが」というネガティブな枕詞をつける人が多い。ところが、そういう方に限ってその理解は「基底還元論」と「一国発展段階論」という単純で安易なものであったり、「土台・上部構造論」の「土台」(これを「下部構造」という言い方をする人も多いのだが)を古典経済学流の「経済」と同一なように限定してとらえるもの、帝国主義的「近代化論」の意図的にゆがめられた理解に立つものなどであることがおおい。「せめて『共産党宣言』(ついでにいえば『資本論』の「本源的蓄積」の章も)くらい読みなよ」と助言したくなる。史料批判や個々の研究史には厳密であるのにこの程度の浅い理解で研究を進めているのかと愕然とすることがある。もうすこし勉強してから批判すべきではないか。こうした研究者が行う史学史や研究史とは一体何であるのだろうか。
筆者はマルクス主義およびマルクス主義史学の可能性を信じているし、マルクス訓詁学ではない批判的継承が必要と考えるものである。現代歴史学におけるマルクスの影響は大きい。ナショナリズム論の必読文献『想像の共同体』を著したベネディクト=アンダーソンはマルクス主義者であり、世界システム論もマルクス主義の影響下に生まれた。
ここでは、主に「世界史の基本法則」という名で呼ばれた一国的単型発展論の問題と、世界史像の再構築の問題を中心にマルクス主義歴史学の発展について記していきたい。そして、そのかかわりのなかイギリス史研究についても触れていきたい。

史的唯物論の「定式」~マルクスの歴史観(1)

マルクスの歴史観(史的唯物論・唯物史観)を説明するとき、マルクスの著書『経済学批判』の序文で定式化された一文(以下「定式」)で説明するのが一般的である。まずこれをもとに概要をつかみたい。

①「土台=上部構造」論
マルクスは、社会全体を建築のイメージでとらえている。これを「社会構成体」という。その土台は経済的諸関係であり、その土台の上に立つ「建物」が国家、法律などの上部構造である。宗教や哲学なども社会意識などもこの土台に対応すると考える。しかし、土台がどのように法律的・政治的上部構造に影響を与えるのか、社会的意識諸構造に対応するのか、記述はない。なお、エンゲルスには『家族私有財産国家の起源』という著作があるが、マルクスの考えとはずれがあると指摘する声もある。
なお「土台」を「下部構造」とよんで、二階建てのイメージでとらえる人もいるが、すくなくとも「定式」においてはそのような記述はない。

人間は、その生活の社会的生産において、自分の意志から独立した特定の、必然的な諸関係を、すなわち、かれらの物質的生産諸力の特定の発展段階に対応する生産諸関係を取り結ぶ。この生産諸関係の総体が社会の経済的構造をかたちづくる。この経済的構造は、法律的ならびに政治的上部構造がよって立つ現実的な土台であって、特定の社会的意識諸形態もこの経済的構造に対応するのである。

②「社会革命の時期」
「土台」がぐらつけば「建物」は崩壊する。こうした過程が「社会革命」として捉えられる。経済の発展という「土台」の変化に伴い、上に立っている上部構造は、場合によっては劇的に、場合によってはゆっくりと見えにくい形で変化する。建物が崩壊するというよりも昆虫などが古い外皮を脱ぎ捨て、新たな姿を現すという方が近いのかもしれない。生産諸力の発展とそれにともなう生産関係の変化という土台の変化がこれまでの上部構造とずれが生じ、古い上部構造にかわって変化した土台=経済的基礎に適合した上部構造が生まれる。これが「社会革命」である。
以下の文からもわかるように変化がつねに劇的に起こるとは限らないことを注意する必要がある。

社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階に達すると、自分がそれまでそのなかで動いていた現存の生産諸関係と、あるいは、その法律的表現にすぎないが、所有諸関係と矛盾におちいる。これらの諸関係は、生産諸力の発展の形態であったのに、それをしばりつけるものに変る。 こうして社会革命の時期がはじまる。経済的基礎が変化すると、それとともに、巨大な上部構造全体が、ゆっくりと、またはすみやかに変革される。

③「発展段階論」
こうした社会構成体の変化は、「土台」となる生産諸力の発展に合致した生産様式の変化を出発点にしておこる。そして、マルクスはこのような生産様式として「アジア的、古代的、封建的、近代市民的生産様式」の4つを示す。それに適合した社会構成体が存在したと考える。
さらにこうした生産様式は、それが十分に発展しその中に新たな生産様式が十分に成長しなければ次の段階に進まないと記す。「アジア的」が何を指すのかを含め、さまざまな見解が生まれた部分である。

ある社会構成は、すべての生産諸力が発展して、その社会構成が生産諸力にとって十分の広さをもたなくなるまでは、没落することは決してない。また、新しい、より高い生産諸関係は、その物質的生存諸条件が古い社会そのものの胎内で孵化してしまわないうちは、かわってあらわれることは決してない。だから、人類はつねに、自分の解決できる課題だけを提出する。というのは、もっと正確に考えると、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに存在しているか、あるいは、少くともその生成の過程にあるばあいにのみ生ずるということが、つねに存するであろうから。
大づかみにいえば、アジア的、古代的、封建的、および近代市民(ブルジョワ)的生産様式を、経済的社会構成の前進する諸時代ということができる。

「階級闘争」と「世界史の変革」~マルクスの歴史観(2)

ここまでは「定式」に記された内容である。しかし、マルクスの歴史観を、これのみ説明することは大きなあやまりを引き起こす。
とくに「共産党宣言」、さらにはマルクスの主著「資本論」には「定式」のみでは不十分な重要な論点が提示されている。

④「階級闘争」
1848年に発表された『共産党宣言』の本文は「すべてこれまでの歴史は階級闘争である」ということばから始まる。生産関係内部で発生する諸階級のあいだのさまざまな(政治的・経済的・イデオロギー的)階級闘争こそが歴史の原動力であったのだというのである。これによって生産諸関係の変化、それをきっかけにした上部構造の変化、「社会革命」による社会構成体の変化という一見静的な概念は一挙に動的な様相をしめす。
まずは、『共産党宣言』の根本精神としてエンゲルスが後年記した文章を引用したい。階級闘争の意義を「定式」を補う形で記した点では評価できるが、二元論的に単純化したことでマルクスの考えを誤解させる面もあるようにもおもわれるが。

 歴史上の各時代における経済的生産と、それから必然的にうまれる社会の構造とが、その時代の政治史ならびに精神史の土台となっていること、したがって(太古の土地の共有が解体して以来)全歴史は、階級闘争の歴史、すなわち、社会発展の様々な段階における、搾取される階級と搾取する階級、支配される階級と支配する階級の闘争の歴史であったということ、しかしこの闘争は、いまや搾取され抑圧される階級(プロレタリアート)が、同時に全社会を搾取と抑圧する階級(ブルジョワジー)から自己を解決できない段階に達したこと(国民文庫版『共産党宣言』p10)

⑤資本主義と世界の変革
『定式』ではまったく触れられないが、『共産党宣言』などで展開されている論点がある。それは資本主義が世界を変革する・せざるを得ないという論点である。
まずは『共産党宣言』の引用である。

ブルジョワジーは、すべての生産用具の急速な改善によって、また無限に容易になった交通によって、あらゆる民族を、最も未開な民族までも、文明に引き入れる。彼らの商品の安い価格は、中国の城壁をもことごとくうちくずし、未開人の頑固きわまる外国人ぎらいをも降伏させる。ブルジョワジーはすべての民族に、滅亡したくなければブルジョワジーの生産様式を採用するように強制する。彼らはすべての民族に、いわゆる文明を自国にとりいれること、すなわちブルジョワになることを、強制する。一言でいえば、ブルジョワジーは、自分の姿に似せて一つの世界をつくりだすのである。(国民文庫版『共産党宣言』p32)

『資本論』は、資本主義の形成期(原始的蓄積過程)における植民地支配などのもつ役割を以下のようにしるす。

アメリカにおける金銀産地の発見、原住民の奴隷化、かれらの鉱山への埋没、すなわちかれらの皆殺し、東インドの征服と略奪の開始、アフリカを黒人狩りのための一種の猟場と変えること、これらが資本主義時代の曙を特徴づける本源的蓄積の牧歌的な手段なのである。(林直道訳『資本論第一巻フランス語版』P182~183)

世界史規模で資本主義をとらえる視点は、帝国主義時代のマルクス主義者レーニンらよって深められる。レーニンは次のヒルファーディングの文章に同意する。

「新たに開発された国々についていえば、そこに輸入された資本は、もろもろの矛盾を増大させ、民族的自覚に目覚めつつある諸民族の侵入者に対する抵抗をたえず増大させる。そしてこの抵抗は容易に成長して、外国資本に対して向けられる危険な手段になりうる。古い社会的諸関係は根本的に革命され『歴史なき民族』の数千年来の農業的孤立は破壊され、彼らは資本主義的渦巻きの中に巻き込まれる」
こうして民族運動が高まり、独立運動を引き起こす。そのことで
「もっとも輝かしい将来の見通しを約束している最も貴重な搾取領域で、ヨーロッパの資本を脅かす。そしてヨーロッパの資本は、ただ軍事力を不断に強化することによってだけ、その支配を維持できるに過ぎなくなる」(岩波文庫版『帝国主義』p196)

資本主義の広がり・帝国主義化は、旧来の農業社会など古い社会的諸関係を破壊し、民族運動→独立運動を引き起こす。そのことが帝国主義諸国へ反作用として働くというのである。
レーニンはこれに次のように付け加える。

古い国々でも、帝国主義は併呑を、民族的抑圧の強化を、したがってまた抵抗の激化をもたらしている」と付け加える。(岩波文庫版『帝国主義』p196~197)

現在の世界システム論につながる論点はすでにマルクス、そしてレーニンらによって打ち出されていた。

マルクス主義の形式化・単純化とその強要

マルクスが『定式』によって史的唯物論をわかりやすく説明したことは非常に便利ではあったが、階級闘争の役割は見えにくくなるし資本主義による世界変革にも言及していないなど安易にしたという問題もあった。さらに「経済的構造」などの用語はマルクスが伝えようとした豊饒な内容を単純化させ教条化され思考停止を招く原因ともなる。
こうしたマルクス主義の教条主義化はスターリン体制下のソビエト共産党で拡大される。1924年のレーニンの死前後の党内闘争によってマルクス主義は権力的にゆがめられる。そしてスターリンが気に入らない考えには「トロツキスト」「ブハーリン主義者」といった悪罵が投げつけられ、「反革命派」「人民の敵」として生命さえ奪われる。正統派「マルクス主義」者は「思考停止」を余儀なくされ、マルクス主義理論の自由な発展は困難となる。こうしてマルクスともレーニンとも異なる「マルクス=レーニン」主義がつくりだされ、レーニンの遺骸と同様に「祭壇」に祭り上げられる。さらにそれはコミンテルンを利用し世界各国そして日本の共産党・知識人に押しつけられ、教条化された「マルクス=レーニン主義」の許す枠内での研究を進めざるを得なくした。
その特徴を記す・
①「基底還元論」
上部構造である政治も法も芸術や宗教などは、すべて社会の下部構造たる経済構造によってストレートに規定されるとする傾向が強まる。たとえば「下部構造」において封建的地主が力を持っていれば政治も地主中心のものとなるという具合に。
極端な例をあげると「思想や運動もすべてこうした経済構造によって規定され、労働者階級出身者こそが革命の担い手であり、他の階級出身者は追随者であり、ブルジョワ出身者は敵となる可能性が強い」という極論になる。こうした極論が悲劇を生んだのが、文化大革命であり、その影響を強く受けたカンボジア・クメールルージュによる大虐殺であった。現在にあっても、中国共産党では労働者階級出身ということが共産党入党の重要な条件であったり、北朝鮮では階級など「出身成分」が社会での地位を決めているという。
 「定式」におけるマルクスやエンゲルスの用語の使用法の影響もあって、「下部構造」(土台)としての「経済」構造は、古典派経済学がいう「経済」と同様に狭義に理解され、生産関係が含意する内容(マルクスのいう生産関係には人間同士の「交通」としての階級関係なども含んでいる)を狭くとらえる傾向を強める。

歴史学にかかわる論点をあげる。政治学的な特徴からこの国家体制は絶対主義であるという結論が出る。となれば絶対主義は封建制最終段階の上部構造であるので、その時期の土台の中に封建的な特徴を探すことになり、それは封建貴族と特権ブルジョワの上に立つ権力であり、マニュファクチュア段階という資本主義の発展段階に即したものでなければならないという議論になっていく。逆に下部構造として資本主義経済が確立しているならば、封建的上部構造である絶対主義はありえないとの論議となる。当然起こりうる両者のずれは許されない。
こうしたなかで、次の「ブルジョワ民主主義革命」という捉え方ができてくる。

②「ブルジョワ民主主義革命」
生産力の発展は生産関係という「下部構造」を変化させ、その結果、革命が起こらざるを得ないと考える。つまり、近代初期において封建的生産様式から資本主義的生産様式へと「下部構造」が変化していくと、資本主義に不適合な絶対主義という上部構造が打倒され資本主義的上部構造へと置き換える。それが市民(ブルジョワ)革命である。
ところが、資本主義に適合する思想は自由主義や民主主義であるのだから、市民(ブルジョワ)革命はブルジョワ民主主義革命という形式をとる。そしてブルジョワに都合がいいはずの社会、身分が解消され、基本的人権と法的平等が実現し、自由が尊重される社会になるはずだとの予定調和が主張される。
基底還元論のなかには、このような「予定調和」説がくみこまれている。自由の拡大や民主主義が確立しないのならブルジョワ革命ではない、という逆の論理も生まれる。また「国家は支配階級が自らの利益を追求するための組織である」というエンゲルス流の国家論とのかかわりから、支配階級の革命の担い手や成立した政権の中にブルジョワの姿が見えなければ、いかに資本主義社会に適合した政治を行ってもブルジョワ革命でないとの主張も生まれる。
なお市民革命で達成すべき自由は契約の自由、搾取の自由でもあり、平等は法の下の平等であり対等にみえる労働契約を結びうる主体としての平等、人権は私有財産権である。したがってこうしたブルジョワ民主主義は、社会主義革命を経て真の自由・平等が社会主義的民主主義の中で実現する。
「ブルジョワ民主主義革命」といういい方には、資本主義化が進めば、ブルジョワ的な自由や民主主義が実現するはずだという土台上部構造論の安易な適用がある。そのわりに、資本主義がどのようにブルジョワ民主主義を必要とするのか、そうした国家論の深化は進まないままであり、実際の市民革命はどうであったのかとの実証研究も不十分ないし参照されないまま、図式のみが一人歩きする。

③「単型発展論」
さきの「定式」が「祭壇」に掲げられたことによって、世界は「アジア的、古代(奴隷制)的、封建的、および近代市民的」という一段ずつ高度となっていく生産様式の発展段階を経ていく必要があるということばが自明の真実とみなされる。そして近代市民的発展段階に到達してはじめて社会主義を実現できると考えられるようになった。社会主義を実現するにはすべての地域でこうした段階を経る必要があるとも暴論もあらわれる。
とくに問題となったのは「アジア的(生産様式)」という用語である。あるものは、中国などアジア諸国は奴隷的生産様式に移行できないまま「アジア的生産様式」が延々とつづいたとして「アジア的停滞」を論じ、「すすんだ欧米、おくれたアジア」との議論がなされる。マルクスが「資本論」のなかで「日本には純粋な封建制の姿」があると述べたため「すすんだ日本、おくれたアジア」といった言説にもつながる。
そうしたなか、革命の実践的課題ともあいまって「発展の飛び越え」論や各生産様式の並立論などがさまざまな議論が出されることとなる。

④「一国発展論」
「単型発展論」はスターリン支配下のソ連の都合でさらにゆがめられる。ソ連の指導者スターリンは「世界革命」の必要性をとく政敵トロツキーとの対抗上、「ロシアは優れた国であり一国でも社会主義に移行できる」(一国社会主義論)と訴え、ロシアの人々のナショナリズムに働きかけた。
その結果、一国社会主義論の枠組みは、それぞれの各地域・民族がさきにみた発展段階を経ていく必要があるかという珍妙なものとなった。この結果、各国のマルクス主義者は自国・地域の歴史の中に「発展段階」を探そうとする。
しかし、ここに利点もあったことも付け加えたい。すなわち自国の歴史を特別視するのではなく、世界の他の地域とも同様の過程を経ながら合法則的に、徐々に発展していくいう視座を与えたのである。自国の歴史を世界史的・客観的に把握する対称軸を打ち出すことでどのような課題があるかを考えることを可能にした。
たしかにこの段階で各文明圏・地域が双方向的に影響をあたえあうといった世界規模で発展段階論を考えるという「世界システム論」的なダイナミズムを求めることは困難であった。しかし、資本主義経済による世界の変革との視点を示した『共産党宣言』、植民地化と資本輸出による世界の変革や反動化を説いたレーニン『帝国主義』などがもつ一国発展論にはとどまらない論理、こうしたものを軽視し、つまみ食い的に利用することは大きな問題があった。

⑤「マルクス訓詁学」的傾向
すでにみてきたように、議論は実証や課題という点よりもマルクスやエンゲルス、レーニンといった先人の一言一句に注目し、全体としての構成や課題意識が希薄になる傾向をみせはじめてくる。

戦前の日本社会とマルクス主義史学の成立

日本におけるマルクス主義史学は、天皇制下の絶対主義的天皇制国家との対決の中で発達した。
日本では19世紀末に産業革命がおこり、大戦景気によって一挙に資本主義化・工業化がすすみ、20世紀初頭の大戦景気のなかで資本主義は主要な生産様式としての地位を確立した。にもかかわらず、政治や社会のあり方は資本主義社会=「近代」という図式からはまったくかけ離れたものであった。「万世一系」を正統性の根拠とする天皇制国家のもと、執行権力は「天皇の信任」を口実に巨大な権限をもち、とくに軍部は「統帥権」を根拠として独走を容認しうる国家であった。個人の自由や権利は限定的にしか認められず、国民の政治参加はきわめて限定的であった。半封建的な家族制度、華族などの身分も存在、女性や未解放部落住民などにたいする差別と偏見が存在した。製糸工場や紡績工場などではたらく女工たちは奴隷的拘束下に「インド以下的賃金」で働かされ、炭鉱夫は日常的に生命の危険を感じる状態にあった。狭小な土地を耕作する小作農が自分たちが収穫した米を食べることはまれであった。
思想の自由、学問の自由も制限されていた。歴史教育の現場では史実や学問的研究を一切無視した「国史」が教えられ、歴史研究は、日本の特殊性を強調するいっぽう、個別的な実証に終始するものが中心であった。
こうした戦前の政治・社会情勢はマルクス主義者の歴史研究にいくつかの役割を与えた。一つは、日本の歴史を万世一系の皇国史観などを排し、世界史との比較の中でとらえるという役割であった。歴史を社会構成体の変化から発展段階論的にとらえるマルクス主義的歴史観は非常に魅力的であった。とくに渡部義通のもとに集まったおもに前近代史の研究者たちは、史的唯物論がしめす発展段階を日本史のなかで、実証的に見いだすことで、日本を特殊化する皇国史観とは異なり、日本にも世界史と共通の歴史的法則が存在することを見いだそうとし、戦時下においても研究を進めた。その最大の成果が奴隷制から封建制への移行を伊賀国黒田荘での在地の動きに見いだそうとした石母田正の「中世的世界の形成」である。
マルクス主義の発展段階論は、日本社会の前近代性の問題を追及し欧米的な近代化を実現しようとする近代主義者たちにとっても、刺激的であった。こうしたなかから戦後の丸山政治学や大塚史学が生まれることとなる。

「日本資本主義論争」と歴史学

日本の変革をめざすマルクス主義者にとっては、資本主義的生産様式が経済の中心になっているもかかわらず、国家・政治・社会といった上部構造のなかに前近代性が厳然として残存する事実をどのように統一的にとらえるかが最大の課題であった。資本主義社会の土台の上に、前近代的な「上部構造」が乗っかっていることはあきらかに奇妙であった。
「土台=上部構造」論は革命論と密接に結びついていた。土台に注目して日本を「資本主義」国と考えれば来たるべき革命は「社会主義革命」となるし、上部構造の前近代性に注目すれば来たるべき革命は「ブルジョワ民主主義革命」となる。前者の立場に立ったのが、非共産党系マルキストを中心とする「労農派」であり、後者の立場に立ったのが共産党の影響下にあった「講座派」である。
講座派は、当時の国家を絶対主義と規定した。絶対主義は封建制最終段階の上部構造である。そこで、フランス革命における絶対主義などの知見から、日本の絶対主義は特権ブルジョワジーである財閥と、封建制下の経済外強制をうけつぐ寄生地主制に依拠する封建国家の最終段階と位置づけ、来たるべき革命をブルジョワ民主主義革命とした。しかし、この規定は前近代性の象徴であり、絶対君主とひそかに位置づけていた天皇制との対決を含意したものであったため、激しい弾圧を受けることになった。
講座派理論の代表的な論者が山田盛太郎である。山田は、資本論のなかの再生産論を当時の日本に適用することで、農村の寄生地主制が製糸・紡織工場などの女工などの無権利・低賃金労働の源泉となっており、こうした工場で生産された安価な製品が日本資本主義発展を支えたこと、しかしこの構造自体が国内市場の狭隘さをうみだし、強引な対外進出を余儀なくしていると結論づけた。このように日本の経済構造のなかに日本軍国主義とブルジョワ民主主義の未発達の原因をみいだしたのである。たしかに山田の理論は画期的ではあるが、静的・図式的という批判は免れないようにも思われる。実際、論争がすすめられていた1930年代には、重化学工業が発展、熟練労働者や都市中間層も厚みをおびるなど経済発展が進んだ時代であり、労働運動や農民運動など人民闘争のたかまりがみられた時代であった。山田がとらえた日本はすでに過去のものとなりつつあったことも事実である。しかし山田の理論は日本資本主義は構造的にとらえることを可能にし、その展開の中でさまざまな社会科学を発展させた。
明治維新の捉え方は、日本資本主義論争のもうひとつの重要な論点であった。羽仁五郎ら講座派の主流派は、対外的な半植民地化の危機と人民闘争としての百姓一揆の高揚に対抗する下級武士を中心とする封建領主層の反革命的変革として明治維新をとらえ、その結果としての絶対主義的天皇制を見いだし、自由民権運動の中にブルジョワ民主主義革命を見ようとした。こうしてマルクス主義史学のなかに人民闘争と、列強資本主義とそれに対峙する民族という観点が位置づけられる。羽仁のもとには井上清ら日本史の研究者のほかに、鈴木正四・小此木真三郎といった西洋史研究者も集まった。鈴木は世界史的な広がりのなかでアジアの変革を論じ、小此木は帝国主義とファシズム研究をすすめるなど、人民闘争の視点と世界史的広がりから、歴史をとらえようという視点が明白であった。
他方、同じ講座派の服部之総は、絶対主義が実現し日本が独立を維持した背景には江戸末期の日本が厳密な意味におけるマニュファクチュア段階であったはずであると考え、実証研究をすすめた。講座派内部でも、発展段階論を強調する服部らと、国際条件に注目し半植民地化に反対した民族運動や人民闘争を強調する羽仁らという戦後歴史学につながる二つの流れが姿を見せていた。
資本主義論争は政治色が強く、かつ実証研究も不十分であったが、明治以来の軍国主義の背景を社会・経済構造から分析したことによってマルクス主義のみならず近代主義者らにも大きな影響を与え、日本の社会科学の基礎を作った。さらにカナダ人歴史家H.ノーマンらによって海外でも紹介され、戦後改革を進める指針ともなった。

戦後改革と社会科学

1945年、敗戦によって絶対主義的天皇制国家は崩壊した。戦火で傷ついた人々、とくの知識人の中では「なぜあのような無謀な戦争に突き進んだのか」「それを可能にした戦前の日本とは何であったのか」そして「二度とあのような戦争を繰り返さないためにはどうすべきか」といった連続的な問いが生まれた。こうした反省と悔恨、そして問いかけのなかから戦後歴史学は生まれた。こうした問いかけは日本軍国主義を完全に排除するという占領軍(そして反ファシズムの立場でたちあがった世界の人々)の意図とも響き合うものであった。
軍国主義排除をめざした占領軍は、その基盤となった半封建的地主小作関係を解消し、財閥を解体し、国家神道・封建的家族制度・華族制度など絶対主義的天皇制を支えたイデオロギー諸装置の排除を求めた。敗戦直後、日本共産党がアメリカ占領軍を「解放軍」と規定した背景には方向性の一致があった。
侵略戦争とそれを許した「日本」を徹底的に変えるには、政治的・経済的変革のみでは不十分であり、日本人自体が「民主主義の主体」としてのみずからを変革させていく必要であると考えたのが丸山真男や大塚久雄ら近代主義者であった。かれらは、マルクス主義にも造詣が深く、その理論を取り入れる形で議論を展開した。それは、ブルジョワ民主主義を実現した上で社会主義革命の展望を開こうという講座派の流れを引く二段階革命論とも合致していた。前近代的な日本を欧米的古典的な「近代」に変えようという思いは共通したものがあった。
一般にこの時期の歴史学はマルクス主義全盛期といわれるが、この時期の中心となった丸山や大塚がマルクス主義者でなかったことは興味深い。

大塚史学の隆盛とドッブ=スウィージー論争

典型的な「近代」とはなにか。大塚らにとってもマルクス主義者にとっても、そのモデルはブルジョワ民主主義と産業革命を達成したイギリス・フランスであった。こうしてイギリス史のなかに資本主義の成立理論とそれを担った近代的人間類型を、フランス革命史のなかに市民革命が獲得したブルジョワ民主主義のあるべき姿を、それぞれ探し求めることになる。
大塚が依拠したひとつがマルクス主義である。大塚は、小経営が「社会的生産の苗床であり、そこで労働者の手の熟練や、工夫の才や、自由な個性が磨かれる学校(『フランス語版資本論』P196)との『資本論』の一節に注目、小経営農民のなかに資本主義の担い手を想定した。
依拠した今ひとつがマックス=ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」であった。ウェーバーは封建的人間類型のなかにいた人々の中からどのようにして資本主義的な精神と近代的人間像が生まれたかを探り、近代形成期、倹約と勤勉によって蓄財と事業拡大を可能とした自営業者や独立自営農民などの間に禁欲的生活スタイルが生まれたことに注目した。このいい方は先の「資本論」の記述と似ていたこともたしかである。
こうした禁欲的生活スタイルをカルヴァン派の教説と結びつけて考えた。こうして個人主義的、功利主義的な近代的人間類型が構築され、「利潤の肯定」「利潤の追求の正当化」する「資本主義の精神」が生まれ、「共同体」に依存し「時間にルーズ」「成功や向上をめざさない」といった封建的人間類型が否定されたと考えた。しかしそのことがかれらを支えてきた基盤を破壊し、「没落の自由」=プロレタリアート化を肯定するものであったこと、職業上の「失敗」は「神の恩寵」がなかったとして見捨てるような残酷な倫理あることも触れてはいた。
一定の段階に達すると、それは、自己の分解の物質的動因をみずから生み出す。(中略)個人的で分散的な生産手段を社会的に集積された生産手段に転化させ、多数の人間のわずかずつの所有をいく人かの人間の巨大な所有に変えながらすすむところの、この制度の排除の過程、この痛ましくも恐ろしい労働者大衆の収奪」というかれらの将来こそが「資本の起源であり、資本の生成」という『資本論』の記述をも大塚は見逃してはいない。
プロテスタントの信者でもあった大塚久雄はこのように近代資本主義の担い手を独立自営農民(ヨーマンリ)ら小経営主のなかに見いだそうとした。かれらがマニュファクチュア工場主や大借地農、新興地主(ジェントリ)などの新興ブルジョワジーへと成長し、ついには産業革命を担うという形でイギリス資本主義を描き出した。かれらは市民革命としてのイギリス革命においても活躍した。かれらが経済においても、政治においてもイギリスをブルジョワ的な近代国家と変えていったと考えたのである。
すでにみたように大塚はプロテスタンティズムの虚偽意識(イデオロギー)性も指摘、資本主義の形成をバラ色に描いたわけではなかったが、マルクスが『資本論』の別の場所で触れていた、奴隷貿易での非人道性の告発やイギリスの海上権の覇権など国際的条件を描いた部分は、副次的として、あまり注意を払おうとはしなかった。
内発的な資本主義の誕生と成長、イデオロギー闘争、ついにはブルジョワ民主主義革命によって上部構造たる国家権力を握るという大塚の図式は「基底還元論」と「単型発展論」という立場に立つ当時のマルクス主義と適合的であった。
独立自営農民(ヨーマンリ)に注目した研究は、国外の研究の進展とも呼応していた。イギリスのマルクス主義者M・ドッブは「封建制の解体と資本主義の形成の歴史的起点が、外部からの商業の作用にあるのではなくて封建社会の内部での独立自営農民層(小商品生産者)の成立と同時にその両極分解による資本・賃労働関係の形成にある」と大塚らと同様の主張をした。これにたいし、アメリカのマルクス主義者P・スウィージーは「封建制の解体と資本主義の形成をもっぱら外来的な商人による市場のための生産の組織化(いわゆる商業資本の産業資本への転化)」と反論、いわゆるドップ=スウィージー論争へと発展、高橋幸八郎も論争に参加した。(※この論争については遅塚忠躬「移行論争」日本大百科全書(ニッポニカ)参照)
この時期のヨーロッパ史研究は進展したかに見えたが、その実は近代化のモデルをイギリスやフランスに探るという理念先行型の研究であり、実態としてのイギリス史とはほど遠いものであったといわれる。ドップや大塚・高橋に見られる内発的な近代化を重視する視点は、経済史の法則性を叙述する経済史原論としては有効であっても、さまざまな条件や要因によって左右される歴史的な事実としてみるには無理があった。その後、イギリス資本主義の形成期における奴隷貿易の影響の役割などが明らかになると、大塚=ドッブ説は支持を失い、スウィージーらの説の正しさが明らかになる。
大塚のように封建制から資本制への移行を人間類型の変化としてとらえる視点は「社会的意識諸形態」と土台との間の相互規定性をしめすものであり、それが政治や社会などへも影響を与えるという点で大きな示唆を与えた。前近代的な道徳として顧みられなかった通俗道徳に近代的人間類型の芽生えを指摘し、そしてそれが天皇制国家において民衆の意識を支配したと主張する安丸良夫の理論などにも大きな影響を与えることとなる。

「世界史の基本法則」と「歴史における民族の問題」

1949年の歴史学研究会は統一テーマをもうけた。それが「世界史の基本法則」であった。それは「一方では戦前・戦中の非合理的な歴史観・歴史解釈を否定して科学的歴史認識を確立せねばならないとの要請に支えられ、他方では戦後変革への歴史的道筋を明らかにする実践的課題意識に立つもの」(永原慶二『歴史学序説』)であった。そこで課題となったのは、「アジア的生産様式」とかかわって日本や中国などにおける発展の法則をどう考えるかであった。
このように「世界史の基本法則」をもとめるなかで「すべての民族は、それぞれ特殊性を持つとはいえ、基本的には、(…)社会構成体の継起的交替をなす普遍的な発展法則を持つ」という考え方が定着した。また「アジア的停滞論」は否定され、歴史教育の分野でも社会構成体の移行という了解の下に原始・古代・中世・近世・近代という時代区分を考えることが定着していく。
しかし「『西欧』基準の理念型を指標とする一国史的視角と単線的把握に終始する傾向が強く、その限りでなお公式性を克服しておらず、二つにはその社会構造の特質を規定する要因として意識・思想、階級論争、民族などの主体的契機や国際的契機をその論理と視野の中に統一的にくみこめていない」と永原が指摘するように静的・図式的な傾向は否めなかった。
この時期、冷戦がいっきょに深刻化していた。ついに1950年には朝鮮戦争が発生、戦後改革の否定の動き(「逆コース」)がすすんでいた。こうした風潮は、アメリカやイギリスのような欧米的古典的な「近代」への失望を生み、社会主義革命を展望に入れるべきとの声が高まっていた。また中華人民共和国の誕生やアジアアフリカの民族運動の高まりは帝国主義とたたかう「民族」という視点が注目されるようになった。それはアメリカ帝国主義の従属下にある日本において、いかに真の独立を達成するかという実践的課題にうらづけられていた。
こうして「世界史の基本法則」といった静的な歴史認識に変わって、人民闘争や世界史像の再構築といった動的な歴史認識がかつての羽仁グループ中心にわきおこってきた。1950年歴研大会では、戦前から帝国主義研究に取り組んできたマルクス主義者江口朴郎が「権力として、あるいは経済制度として封建的なものが残存しているのが現実であり」「そのような封建的なものの残存する理由を、たんにその地域の市民革命の段階が遅れていることのみに期すことができないこと、したがってこの時代における半封建的な意義を持つ運動が、同時に帝国主義に対してどのような意味を持ってきたかということが問題になると思います。」(「帝国主義の諸問題」『歴史科学大系34』所収)と一国主義的な発展段階論の限界を批判し、封建制や半封建制の残存といった現象を世界的な構造の中でとらえる視点を主張した。
そして翌1951年の統一テーマが「歴史における民族の問題」であった。それは「社会発展の客観的・構造論的分析に力点を置く歴史研究から、歴史を変革する主体的要因=人民大衆の運動をとらえようとする」ことに力点が置かれはじめたことを示している。実際の議論は、政治的対立もあり十分な成果は得られなかったが、「①歴史変革の主体的要因をどのように位置づけるか、②ヨーロッパ中心史観の克服=アジア的停滞論の再検討、③歴史における民族と階級の問題、④最終的な目標としての新しい世界史認識、世界史像の形成」といった方向を打ち出すきっかけとなったと板東宏は総括する。(「歴史における民族の問題について」『歴史科学大系15』)

イギリス史の自立とE.ウィリアムズ

朝鮮戦争は、他方で日本に特需景気をもたらし、それをきっかけに終戦以来の不況を脱し高度経済成長につながる経済発展をはじめた。戦後改革のなかで日本国憲法を獲得したことで自由と民主主義の社会への一歩を手にしたことも事実であった。こうした日本からみて、身分制度が厳然と残り、「イギリス病」とよばれる停滞に悩むイギリスは本当にめざすべき「近代」なのかという疑問も生まれる。
こうしてイギリスやフランスの「近代」に幻想をいだき、都合のよい理想像「理念型」をその歴史にもとめる姿勢は力を失い、かわって実証研究にもとづく研究が参照されるようになっていった。こうしてリアルな西ヨーロッパ史像が提供されることで大塚史学や一国主義的単型発展論は力をうしなっていく。
越智武臣はトーニーの研究に依拠して次のようにいう。

「全体としてヨーマンを論ずるのであれば、それは未来の《captain of industry》であるどころか、むしろ近代社会の底辺に沈殿を余儀なくされてゆく未来の労働者の系譜としてこそ位置づけなければならない」し、清教主義(ピューリタニズム)も「積極的に資本主義精神の培養器として近代を志向する思想であるというより、巨視的に見ればこうして解体を遂げてゆくヨーマンたちの吐息であり絶叫ではなかっただろうか」と(「近代化問題とイギリス史研究」『近代イギリス史の再検討』)

大塚が描いたヨーマンもピューリタニズムも現実の姿ではない。こうしていわゆる「再検討派」が生まれる。実証研究によって描き出されたイギリス史は、フィクションともいえるような「世界史の基本法則」にかわって、よりリアルな世界史像を組み立てる上で大きな力となっていく。

第二次世界大戦は植民地独立戦争という側面ももっていた。このようにとらえるならば、第二次大戦は大戦終了後も「終わらなかった。」大戦終了と共に、フランスやオランダ・イギリスといった西欧の旧宗主国は植民地の回復をめざし、アジアアフリカ諸民族との戦争を始めた。しかし旧宗主国はつぎつぎと敗れ、アジア・アフリカであらたな独立国があいついで生まれた。さらにこうした国々は、平和五原則の提唱からバンドン会議開催という形で自己主張を始める。
こうした動きは欧米と中国などを研究すること、東洋史と西洋史の二分論で事足れりという古い歴史認識を問い直した。あたらしい世界のあり方に適合した歴史学が求められるようになった。さらに第三世界出身であったり、その地で生活する人々からの問いかけも生まれた。
こうした第三世界からの問いかけを代表するのがカリブ海域出身のE.ウィリアムズである。かれは第二次大戦前から奴隷貿易について研究し、17世紀に始まるイギリス・西アフリカ・カリブ海を結ぶ三角貿易、つまり奴隷・砂糖貿易がイギリスの奴隷商人たちに莫大な利潤の獲得させたこと、交易品としての綿織物の需要などが産業革命成立に決定的な意味を持ったことなどを明らかにした。
こうした研究は、ドッブ=大塚史学的な「牧歌的な」内的発展論に異議を唱えるものであった。こうしてマルクスがすでに「資本論」で指摘していたにもかかわらず、十分に位置づけられてこなかった視点が、俄然脚光を浴び始める。

帝国主義的「近代化」論と「明治百年」

第二次大戦後のフランスなど旧帝国主義諸国の敗北とバンドン会議に見られる第三勢力の独立と自己主張は、それに対抗する理論的枠組みを覇者アメリカに求めた。そこでアメリカがうちだしたのが「新植民地主義」であり、その戦略的イデオロギーとしての「ロストウ路線」=帝国主義的「近代化」論であった。
大塚らの「近代化」論が人権・自由・民主主義といった欧米的な価値観をも重視したのに対し、ロストウやライシャワーらは「生産力の発展」を価値観の中心においた。マルクス主義を経済至上主義と意図的に曲解し、それまで克服の対象と考えられた慣習なども含め伝統的価値観や家族制度、教育、社会制度などを生産力向上の観点から再評価し日本は非欧米世界で唯一「近代化」を実現した成功例であり、発展途上国が学ぶべきモデルと位置づけ、生産力が低位にある旧植民地国など後進地域は、日本などをモデルに改革をすすめることで「テイクオフ(離陸)」を実現し工業化を達成できるとした。それは、資本主義・帝国主義の相互規定性を無視した一国主義的なものであった。また経済発展がもたらすであろうデメリット、自由や民主主義の欠如、住民の貧困、環境破壊など、を度外視しそうしたものを見ないことで工業化をすすめることを求めた。さらに旧植民地国などが低開発とされてきた理由を不問に付すことで旧帝国主義国家の責任を不問にする議論でもあった。
そして、この方向を進める諸国には、アメリカや日本などが援助を与え、その影響下におくことで第三世界への社会主義の影響を減じるという意味も持っていた。こうした国では明治以降の日本が採用した「開発独裁」の手法が用いられた。韓国の朴正熙政権が自らの独裁体制を「維新」体制と名乗り、マレーシアのマハティールが「ルックイースト」を説いたことはこうした象徴である。この理論にそって「近代化」した国々では、近代日本と同様な人権問題や自由や民主主義の未発達、そして近代的人間類型の未発達という問題がうまれることになり、民主主義革命が課題となった。それは20世紀末のアジア経済危機の中で一挙に吹き出す。
こうした「近代化」論は、高度経済成長のなかにある日本にとってはナショナリズムを鼓舞する意味を持っていた。一時なりを潜めていた「日本人の美点をみつめよう」「誇りを取り戻そう」といった保守的な意識が復活し、「家族主義」的な伝統が肯定され「古き良き日本」といういい方で戦前社会などへの郷愁を誘った。
そのなかで生まれてきたのが、1968年を明治百年として位置づけ、日本の近代を成功の歴史として描き出そうという動きであり、アジア太平洋戦争に至る戦前日本が犯した国内外に対する罪悪を「成功物語」として覆い隠すものであった。

芝原報告と『所有と生産様式の歴史理論』

帝国主義的近代化論の出現は戦後歴史学に反省を求めた。なぜなら、それまでの歴史学は、①欧米の近代を理想化しそこへ接近することを歴史の発展と考える傾向があったこと、②その反面、アジアアフリカなど旧植民地国を視野に入れた議論が不十分であり、その独自性や資本主義・帝国主義の世界史的性格の枠組みでとらえる視点がうすかったこと。③「アジア的停滞」といった誤った議論を克服する理論をなかなか打ち立てられなかったこと。④歴史の発展を一国史的にとらえ、すべての民族・地域が発展段階論的進化をとげるという誤った議論をなかなか克服できなかったこと。こうした議論は「近代化論」と似た構造を持っていた。⑤生産力の向上という経済的発展と自由主義・民主主義といった「上部構造」のあいだの予定調和説自身が問われなかったこと、よりリアルな「近代とは何か」と再度問い直す必要があったこと、などなど。
「近代化」論に対抗しあらたな歴史学の方向を模索する研究がもとめられた。50年歴研大会の江口報告や「歴史における民族の問題」をめぐる議論のなかにこうした動きを見いだすこともできたが、この課題を意識的に追求しようとしたのが芝原拓自や安丸、鈴木良ら京都の若手研究者たちであった。1961年歴研大会の芝原報告はこうした流れの中で生み出された。
芝原は前年の「安保闘争」の衝撃をもとに、植民地ですすむ独立運動を念頭において世界史のなかでの明治維新の意味、さらには「アジアの近代化」を問い直す意欲的なものであった。
芝原は、戦後歴史学の主流が「単型発展段階論とでもいうべき方法に拘束され」「有機的世界史の矛盾を無視し」「副次問題・派生的な問題」として扱ったと厳しく批判、あらたな研究の方向を、日本資本主義の矛盾が「現状のインターナショナルな矛盾の一環であることを片時も忘れなかった」野呂栄太郎・羽仁五郎・井上清らに求めた。(「明治維新の世界史的位置」『歴史科学大系・8巻』)
その後、芝原は世界史的観点を重視した幕末・維新研究を進める一方、『所有と生産様式の歴史理論』(1972)を著し、日本前近代史をも包括しうる全的な「基本法則」構築をめざした。同書の最終章「資本による世界の構造的変革」では資本主義が世界をどのように変えたかを『資本論』などに即して解明しようとし、歴史を学ぶ学生たちに大きな影響を与えた。しかし、そこで用いられた文献はマルクス・レーニンの古典や主流派マルクス主義の文献、さらに日本人研究者の成果が中心であり、次に見る従属論や世界システム論などがまだ参照しにくい状態で著されたことから、マルクス主義史学の退潮とともにしだいに参照されなくなっていく。

『従属論』の登場

E.ウィリアムズの研究に代表される世界史像の問い直しの機運は、アジア・アフリカ・ラテンアメリカという周縁部を組み込んだ形の研究を活発化させた。またロストウらの帝国主義的な『近代化』論は世界でも深刻に受けとめられ、これに対抗する理論を求めさせた。「近代化」論は「一国史的視角と単線的把握」という旧来のマルクス主義的世界史像の不十分さを突くものでもあったから。
また1960年代後半になると、ベトナム反戦を共通項に、学生を中心とした「若者の反乱」が世界的広がりを見せた。このうねりにおいて各国共産党を中心とする旧左翼はあまり影響力を行使できず、かわってトロツキスト・毛沢東主義者をも含む新左翼と呼ばれた勢力が大きな役割を果たした。その背景には1956年のハンガリー動乱、1967年の「人間の顔をした社会主義」(「プラハの春」)を暴力的に圧殺したソ連流の「共産主義」への絶望があり、それに追随したり組織原理や運動方針のなかのスターリン的体質を克服できない旧左翼への反発があった。
こうして「新しい歴史像の創出」はスウィージーらが主宰するアメリカの「マンスリーレヴュー」誌やペリ・アンダーソンが創刊したイギリスの「ニュー・レフト・レビュー」誌等に依拠する「新マルクス派」とよばれる人々を中心に担われることになる。国家論においてもプーランザス・ミリバンドらが論争がたたかわせ「国家論ルネサンス」とよばれた。
こうしたなか、ラテンアメリカで研究を進めていたA.G.フランクは『世界資本主義と低開発』(原著1969)を出版、「中枢・衛星構造」というモデルで世界史を把握する方向性を示した。これによれば、欧米日といった世界資本主義の「中枢」の工業化は、ラテンアメリカなどの「衛星」からの収奪によってなりたっているのであり、「低開発」は本源的なものでなく歴史的に作られた構造的なものであると主張した。こうした立場は「従属論」とよばれ、エジプト生まれのS・アミンらも研究を深化させた。
従属論の影響は学問にとどまらず、国際政治の舞台へも影響力を与えた。国連資源特別総会が1974年に樹立を宣言した「新国際経済秩序」はこの理論を背景としていた。

『世界システム論』の衝撃

従属論にみられた世界史を構造としてとらえるやり方を、ブローデルの研究に学びつつ確固たるものとしたのがウォーラーステインである。彼は「資本主義をひとつの歴史システムとして~つまりその全史をひとまとめにして、その具体的で個性的な実態を~みることである。(中略)この実在物全体」を資本主義的世界システムとよんだ。(川北訳『史的システムとしての資本主義』pⅷ)1974年の出版された『世界システム』の第一巻で15世紀末から17世紀初頭に至る「ながい16世紀」を叙述、その後もかきつづけ、現在は第4巻1914年までが出版されている。
山下範久は彼の理論の要点を6点にまとめている。

①現在の世界における不平等は、個々の国家や社会の近代化の進度の遅速の帰結ではなく、世界経済全体の中での個々の主体の位置と関係によるものである。
②世界経済をひとつのシステムとして結びつけているメカニズムは(…)垂直的かつ自己拡大的な分業体制、すなわち資本主義の論理である。
③資本主義世界経済としての世界経済システムは15世紀の末から17世紀のはじめごろ にかけて、北西ヨーロッパにまず成立した後、次第にその地理的範囲を拡大しつつ、19世紀ごろには、地球全体を覆うようになった。 
④資本主義世界経済としての世界経済システムは、不平等を解消するというよりは、むしろ拡大してしまう傾向を持っており、システムが持続するためには、継起的にシステムの外部にあるものを内部に取り込んで、不平等の負担の行き先を縁辺へと送り出さなければならない。地理的な拡大もそのひとつあらわれであった。 
⑤不平等や送り出しの先送りには限界があり、そう遠くない時期に、根本的に異なるシステムへの転換を余儀なくされる。それは資本主義とは異なる論理によるシステムに違いない。
⑥その際に個々の国民国家を分析単位とし、政治学・経済学・社会学などにディシプリン化されてきた社会科学は、その転換の過程においては無力であり、世界システム概念を基礎として、知のあり方を根本的に見直す必要がある。 
(川北稔編『知の教科書・ウォーラーステイン』講談社2001P17~18)

ウォーラーステインの世界システム論の影響力は絶大であった。彼は「世界システム」を「帝国」と「世界=経済」に分類してとらえるという視座を提供、「帝国」史は各地域史の研究の対象とされた。また世界を「中核~(半周辺)~周辺」という構造でとらえる手法は、国民国家内部や国民国家を超えた関係における分析にも応用される。また中核における国際関係はオランダ(17世紀中期)・イギリス(19世紀中期)・アメリカ(20世紀中期)というヘゲモニー(「覇権」)国家との争いという形で描き出すことを可能にした。
こうして一国主義的発展段階論は完全に否定され、発展段階はグローバルな形から描き出さざるを得ない状況を作り出した。また階級闘争や人民闘争は生産点での運動にとどまらず消費者運動や反ジェンダー、環境保護など、さまざまな運動を包括した反システム運動として位置づけられた。

「世界システム論」とマルクス主義史学

世界システム論は旧来のマルクス主義をふくめ社会科学全般の「知のあり方を根本的に見直す」ものとなった。マルクス主義・史学のありかたを根本から問い直すものであったが、同時にマルクス主義史学のなかで問われてきた問題を壮大なスケールで再構築したものであり、その発展形という性格も持っている。
他方、「世界システム論」のなかでは抜け落ちる可能性である論点についても指摘しておきたい。
一つは、史的唯物論の基礎である生産諸力によって規定された土台としての生産的諸関係がいかに上部構造を規定するのかという「土台=上部構造」論である。この両者がどのような関係にあるか、単純な「基底還元論」は論外として、国家は究極的には支配階級の道具であるといった単純な説明が跡を絶たない。私自身は「国家とは『階級的力関係の物質的凝集』であり、この力関係は『つねに特別な仕方で国家の内部に表現される』」(プーランザス『国家・権力・社会主義』)といった捉え方がもっとも説得力があると考えている。そしてこの土台のなかに、世界システムをいかに組み込むかが課題であろう。

なお、階級的力関係というものをエンゲルスが用いたような二元論的な対立構造で捉えるのではなく、経済的・世界史的発展と危機などによって規定された諸階級・階層、各種利益・関係諸グループの対立と協力・同盟というより広い物質的諸関係という意味での「土台」とみなすべきではないかと考える。さらにいえば、物質的に凝縮されるのは「国家」には止まらないとではという展望もかんじている。
二つは、「世界システム」を過大評価すべきでないとも考える。別の言い方をすれば一国主義的単型発展論を単純に否定すべきではないということである。『定式』がいうように、生産力は、個々の人間が他の人間と様々な関係(生産関係)をつくりながら自然に働きかけてこれを上昇させる。このことは、より生産力の向上が望める、より人々の幸福が増大する、自然の脅威から自由になるといったさまざまな発展をもたらしうるものであり、一人一人を起点とした変化が生活を生産を変化させ、考え方や文化、思想や信仰を変えていくという基本線は変わらないと考えている。
また地道で内的な発展が社会や歴史を動かすという基本線は変わらないと考えている。具体的な歴史とは、こうした内的な発展と世界システム(それはさらに派生的なシステムも有するのだが)とがスパークし火花を散らすことではないかと考える。内発的な発展は、世界システムにかかわる外的要因とかかわり、発展を阻害されたり破壊されたりもするが、時にはそれによって発展を促進されたりする。古い生産様式や生産関係が残存したり、逆に原始から現代資本制へと「飛び越え」をも誘発する。文明国が低開発国へと押し戻される例をすでにマルクスは指摘していた。
システム論者は世界システムのみで歴史を語りがちであるが、それはかつての「基本法則」の裏返しでしかない。羽仁五郎や江口朴郎、芝原拓自、スウィージーらがめざした世界史像とともに、服部之総や大塚久雄、ドッブらの視点も忘れるべきでない。

マルクス主義史学の作り出した成果は豊饒である。単純で、誤ったレッテルを貼って論破した気になったり、克服したつもりになっている研究者はかわいそうとしか思えない。

おわりに~マルクスは「自分はマルクス主義ではない」といった。

最後にウォーラーステインのマルクス評を掲げて、本稿を終えたい。

マルクスは自称マルクス主義者とは違って、自分が19世紀の人間であり、したがって 彼の描くヴィジョンが、必然的にその社会の現実によって制約されていることをよく知っていた。かれはまた、一つの理論的公式は、あからさまにせよ、暗黙のうちにせよ、それが攻撃しようとしているもう一つの公式と対比してこそ、理解もでき、利用もできるのだという事実を熟知していた。(中略)さらにマルクス自身は自分の著作の中に、歴史上、現実には一度も存在したことのない完全なシステムとしての資本主義の解釈と、そのときどきの具体的な資本主義世界の現状分析にとの緊張関係があることを承知もしていた(中略)したがってマルクスの著作を利用するにあたっては、唯一の賢明なやり方~闘争における一人の同志として、かれが本当に知っていたことだけを取り出すつもりで~するように心がけよう。(川北訳『史的システムとしての資本主義』pⅹ~ⅺ)

ウォーラーステインは、19世紀に生きたマルクスを、20~21世紀における「闘争におけるひとりの同志」として大著『世界システム』を書き継いでいる。

《参考文献》文中で示したもの以外で、とくに参照したもののみを記す。
柴田三千雄・松浦高嶺編『近代イギリス史の再検討』(お茶の水書房1972)
遠山茂樹『戦後の歴史学と歴史意識』(岩波書店1968)
『永原慶二著作選集』(吉川弘文館2008)
柏崎正憲『ニコス・プーランザス力の位相論』(吉田書店2016)
歴史科学協議会『歴史科学大系第8巻』『歴史科学大系第15巻』『歴史科学大系第34巻』(校倉書店)各所収論文
永原慶二編『講座マルクス主義研究入門第4巻歴史学』(青木書店1974)

追記:この文章は、「近代イギリス史学史」をテーマとした講義のレポートとして提出しており、記述のそうした経緯を物語る内容がある。いくつかの文献については参照したが、多くは時間の都合上、手元にあるものに頼ったり、かなり昔の記憶に頼っているものも少なくない。また思い込みも少なくない。お許しをいただきたいと思う。

 

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