内務省の二通の文書~「国体明徴」期の「穏当を欠く」事象から

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内務省の二通の文書から
~「国体明徴」期の「穏当を欠く」事象から

 

内務省に提出された2通の照会文

福井市の小学校が昭和11(1936)年、一昨年の皇太子(現:明仁天皇)を誕生記念して二宮金次郎の銅像を建て、絵はがきも作った。下に掲げた写真がこの絵はがきである。これにたいし福井県はこの碑は「不穏当」ではないかと上部機関である内務省に照会した。
似た出来事が、数ヶ月前に香川県でもおこっている。一人の人物が、生前墓をつくりたいと申し出てきた。その計画を見て、県は判断に迷い、本省へ照会をする。
現在でも、多くの組織は、下級機関は些細なことでも上級機関に報告をあげ、判断を仰ぐ傾向がある。(いわゆる「ホウレンソウ」報告・連絡・相談)。もし問題事例を見落とせば責任を問われるからだ。このため、とりあえず何でも報告すれば、責任のがれができる。学校や役所、会社などあらゆる組織でこうした対応がなされる。何らかの事情で緊張が高まるにつれてこの傾向も強まる。

問題視された二宮金次郎像

どういう事例なのか。まず福井の例をみよう。

右の写真がそうだ。台座の上にたきぎを担いで本を読む二宮金次郎の銅像が立つ。
そして台座に「皇太子殿下御降誕記念」の文字と誕生日の日付が刻まれる。何の問題もなさそうな銅像だ。学校関係者がとりあえず何か記念になるものをと思ってつくったものに間違いない。なのになぜ?
ついついなにか別の「ヤバい」ものがあるのではと見直したくなる。しかし、何もない。
なぜ、これが問題となったのか。県が神経質となったのか。わかるだろうか?一番上にある写真と見比べてもらいたい。
この文書の件名は「皇室文字使用位置ニ關スル件」である。どういった位置が問題だろうか。

元旦の新聞紙は扱いに注意すること

昭和18(1943)年1月1日新聞(「読売報知」)の一面

私が教師の時代、よくこんな話をした。「元旦などの新聞の扱いは気を遣う必要があった。というのは、天皇の写真が載っていたからだ。なぜかわかる?もし、子ども達が何の気なしに、その新聞を踏むとどうなるか。『不敬罪』に問われる可能性も考えられたからだ。だから、おおくのひとは写真を丁寧に切り取って仏壇や神棚にあげた」と
もうわかるだろう。問題となったのは二宮金次郎の足の下にある文字だ。臣下である二宮金次郎が、恐れ多くも「皇太子殿下」という文字を踏みつけている。このことを県は文字の位置が「穏当ヲ欠ク」のでは、と感じたのである。
何でもないことがたいそうになるプロセス、会社なり、役所なり、なんらかの官僚組織にいるものはわかるだろう。照会に対し「問題なし」とはいいにくいものだ。照会された内務省警保局も、心の奥では「馬鹿馬鹿しい」と思ったかも知れない。しかし「問題なくはない」と見なし「穏当ヲ欠ク嫌アル」として「シカルベキ御措置相成ルヨウ」との回答を行う。(昭和11年8月23日・警保局警発乙474号

あとのことはわからない。台石から文字が削られてトップの写真のように銅板などがはめこまれたか、べつのものに変えられたか、ほぼ確実なことは数年後には、銅像は金属回収によってとりさられ、溶かされ弾丸などに姿を変えて「出征」したことである。

昭和11年~国体明徴声明と二二六事件

この出来事があった昭和11(1936)年に注目してみよう。実はこの前年、「天皇」の位置づけが大きく変った。それまでは統治権は「日本」という有機的共同体にあり、天皇は中心的な「機関」であるとする天皇機関説が通説となっていた。そして、この説に依拠する形で政党政治なども行われた。ところが、こうした考えは不敬であるとして、陸軍や右翼勢力さらには政友会までが攻撃をはじめたのである。昭和10(1935)年当時の岡田啓介内閣はついにこれに屈服、「天皇が統治権の主体であることを明示し、日本が天皇の統治する国家である」との国体明徴声明を出す。こうして天皇の統治に対し疑問を持つことは、非難されるべき事となったのである。
この年、昭和11(1936)年2月、陸軍青年将校らがクーデタ未遂事件(226事件)をおこす。これを利用し陸軍統制派はカウンタークーデターとも言われる動きに出る。岡田内閣に変わった広田弘毅内閣にたいし過剰なまでの介入をおこない、内閣は軍部の要望を全面的に受け入れ、「広義国防国家」建設をめざす方針をとる。
こうした流れは、社会全体に対し緊張感を高めた。とくに警察・治安維持と地方統治などを役割とする内務省においても慎重さがましていく。とくに「天皇の尊厳」にかかわる事象には神経質となり、些細な内容であっても本省に照会するようになってきたと考えられる。福井県の事例はこうした流れの中で起こった出来事と考えられる。

たいそうな生前墓・・・

香川県の事例は、ひとりの人物が、生きているうちに自分ら夫婦の墓を建てようとしたことから始まる。写真がその見取り図である。

見ての通り、えらく仰々しいもので、一番上に日の丸と陸軍旗、その下にその人物がもらった勲章にそえられた「勲記」(卒業証書のような体裁)の全文を、さらに下には自分の台湾掃討戦と日露戦争における「戦功」を刻むというのである。それを共同墓地の、道路に面した場所に立てたいと申請したのである。
香川県もやはり内務省に照会する。その眼目は2つである。①「勲記」には皇室にかかわる文字が多く用いられていること、②「国旗」を個人的な目的で使っていることである。「聊(いささ)カ疑義、相生ジ」として内務省警保局に照会する。やはり、天皇にかかわる部分であり、さらには「国旗」の扱いである。
これをうけた警保局は他の政府機関とも相談の上、「穏当ナラズ」として、県側に取りやめを指示した。(昭和11年6月17日・警保局警発乙339号

鶴身が刻もうと考えた「勲記」。「日本国皇帝」や「勅命」「神武天皇」といった文字が見える。

これも、数ヶ月後の福井の事例と同様のケースと考えられるが、いくつかの他の要素も考えられる。実は、この人物は「農民組合ノ幹部」という経歴をもち、「小作調停委員」にも就任している。
彼にどのような意図があったのか、単なる自己顕示欲だけだったのかも知れないが、こうした経歴が県側を神経質にしたと思われる。地域社会においても、公的な権威に対しても、従軍と叙勲という国家からの栄誉を得ているという「伝賛の文章ヲ表」すことで自らを権威づけようとする可能性を疑ったのではないか。

「穏当ヲ欠ク嫌アル」~官僚的保身行動?

準戦時体制への移行は権力の末端まで緊張感を伝える。権力側はさまざまな事象に抵抗の暗喩を感じ、過剰反応を起こす。とくに天皇制との関わりには神経質である。福井県は天皇家への権威を軽視するきっかけにならないかと疑い、香川県は天皇の権威に依存しようとする旧農民組合関係者への作為を疑った。実際は内務官僚自体が勝手に作り上げた虚像であった可能性が高い。
翌昭和12(1937)年、文部省は「国体の本義」を出版する。そこでは、大正以降広がりつつあった身近な天皇、それは「天皇機関説」を体現するものであったのだが、は否定され、現人神として絶対的服従を要求する天皇が示される。こうしたなか、天皇や「日の丸」を個人の権威付けに利用したり、「臣下」の足下に「皇太子」の文字を置くことは「穏当ヲ欠ク」との忖度がはじまる。
とくに天皇の権威にかかわる行為は、たとえ福井県の事例のような素朴な天皇への尊敬からはじまったものであも問題視されるのではないかという風潮が広がっていく。他方、地方官僚をはじめとする内務官僚などは、さらに監視の目を光らせる。この史料の簿冊には同様の照会がまだ数件存在している。
翌年、昭和12(1937)年7月、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まり、全面戦争のなか、社会は戦時体制へ移行する。行政は民衆のなかのかすかな「芽」を恐れ、天皇制にかかわる言動のなかに「不敬」の匂いを感じる。こうした過剰反応は、国民精神総動員運動などともあいまって、社会の硬直化をさらに進め、人々の闊達な行動を規制する。
この二つの事例は、こうした時代の入り口に見られ、これ以後、一挙に進んでいく時代のさきがけとういうべき出来事であった。

※この文章は、大学の「日本近代史料演習」で提示された史料にもとづいて提出したレポートをもとに作成しました。

※トップ二宮尊徳像は愛媛県松野町のもの。(HP「森の国の風たより~松野町の今をここに」から借用しました。)

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