十九世紀前半の農村支配政策と村・地域

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十九世紀前半の農村支配政策と村・地域

商品経済の進展がもたらした変化

十九世紀にはいると農政の矛盾は限界に達する。その背景にあったのは資本主義的な商品経済の進展であった。それは米作中心の農業から綿作や養蚕など商品作物栽培への本格的移行であり、金肥の大量使用など貨幣経済のさらなる浸透であり、酒造や織物など農村工業の発展であり、在郷町の拡大であり、さらには労働力市場拡大による人口の流動化であった。「百姓」身分を農民とを同一視することはもはや正しくなく、農業の中心は米作ではなくなりつつあった。農民たちの関心はリスクは高いが高収益も得られる商品作物へ移り、様々な形態をとる農村工業が普及し、百姓たちは多様な稼業へと移りつつあった。兼業農家がメインとなり、農業に従事しない百姓も増加していった。貢納も銭納がひろがり、畿内や瀬戸内など先進農業地帯では獲得した貨幣で、年貢米を購入し納入する例もみられるようになる。

本年貢=「米」中心から脱却できない農政

18世紀前期と19世紀中期の幕府財政の比較
天保14年の歳入で年貢収入は40%弱にとどまり、貨幣鋳造益金、公金貸付、御用金3種類の臨時収入で約半分を得ていることがわかる。
帝国書院「図録日本史総覧」P178

こうした社会・経済の変化にもかかわらず、領主側は本年貢=「米」作中心の農政から脱却できなかった。十八世紀後期、貨幣経済の進展に対応した変革を志向した田沼の政治が失敗におわり、松平定信らの本年貢依存・農村復興への復帰すると、幕府は歳入の多くを貨幣改鋳による差益や公金の貸出などの金融政策へと依存するようになり、さらには御用金などへの依存度をたかめるようになる。
これにたいし、農村指導層と結び殖産興業にとりくみ、さらには流通過程からの収益を確保しようとしたのが薩摩・長州などの雄藩であった。

「百姓成立」と「仁政」

「米」作依存の背景には、固定化された村高に応じて課される本年貢を村が責任を持って皆済するかわりに、領主たちは百姓の生活を保障すべく「仁政」を実施するという双務契約的な「百姓成立」の原理があった。さらに「米」重視政策は、「米」が年貢の対象であって領主が受け取るもの、裏作など米以外の作物は生活維持のため原則として百姓が取るものという原理は、「米」以外の作物や手工業製品などへの課税を著しく困難にした。実際に米以外への課税は米とは比べものにならない程低い。
しかし、特産物の自由販売を禁止して「藩」や特権商人が安価で特産物を獲得するといった専売制の導入などこの原則に反した政策の導入は「仁政」に反するとして、各レベルでの訴願や一揆(強訴)という強い抵抗を覚悟せねばならなかった。こうした社会契約と百姓側の運動が領主側の手を縛った。しかし、訴願や一揆も「百姓成立」というシステムの中の一要素という面も持っていた。
こうした状況からの脱却は幕藩体制の解体、近世「村」制度の分解、新たな税制の導入といった根底的な変革を必要とした。幕末の動乱、幕藩体制の崩壊、明治政権の成立はこうした近世社会の難問にたいする一つの回答であるともいえる。

「百姓」「村」の変化と社会の動揺

資本主義的な商品経済は、百姓のあり方を激変させ、「百姓成立」の基礎となる村の秩序を弛緩させた。商品作物生産は経済活動を活発化させた。利益率の高さはあらたな豪農層を生み出し、リスクは貧農を増加させた。格差の拡大は地主小作関係を拡大させ、欲望を拡大させた。百姓たちは経済合理性とときには自らの欲望にしたがって動きはじめる。村への復帰という余地を残しつつ離農化するものも増加、生産性の低い土地を放棄し生産効率を重視する動きも出現する。土地の流動化は、村外地主の出現を拡大する。村は荒廃する耕地の借主をたとえ村外であってもみつける必要を感じつつ、村の土地が村外の地主に移ることへの危機感ももつ。土地所有とその変更に対する「村」の関与も目立ちはじめる。
経済の活性化は村外に新たな収益の場をつくり出し、労賃も上昇し、村内の余剰労働力に依存していた農業サイクルに異変を与え、農業生産を圧迫する。文字や計算などが学ばれ、寺子屋などが激増、識字率は一挙にたかまる。このことは村政への関心を高め、「村」の民主化の圧力を増し、村役人の指導性が問われる。村方騒動が増加し、若者組などの動きも活発化する。「入れ札」(選挙)によって村役人を決定する村なども出現する。
収入不足を補い、あるいは新たな稼ぎのため村を去ったり、兼業を拡大する百姓が増加、富農も村内外での金融・商・工業などの規模を拡大したり起業したりする。農村部に都市化した「村」(在郷町)が出現し、百姓あるいは水呑身分の「町人」が出現、周辺の「村」から人々が集まってくる。凶作と人口流動化は大量の無宿人などをも生み出した。

「一揆」の変化と村落指導層の苦闘

このように19世紀になると、農村社会は不安定化し、これまでのような「村」の秩序を維持することが困難となる。「仁政」イデオロギーの枠組みの中、秩序だって行われてきた一揆(強訴)は19世紀にはいるころから激変していく。掠奪と放火が自己目的化し、鎌や鍬といった農具だけでなく、刀や竹槍など殺傷能力をもつ武器も使用される。村内の若者組なども巻き込まれる。
一揆の過激化に対応しきれなくなった領主は、百姓に一揆鎮圧を命じ、百姓の武器の使用、鎮圧に際しての殺害なども認める。暴動化する一揆などに対抗するための武器の供給は、「村」の武装化をすすめる。剣術道場は農村の有力農民の中にあらたな顧客をみいだす。農兵隊が組織される。「暴力」を領主が独占するという「刀狩り」以来の近世社会の秩序が解体しはじめる。
農村では崩壊していく「村」の秩序を維持すべく農村指導者を中心とした苦闘がおこなわれる。江戸や関東などの農村社会を不安定化し、広域での「村」の連合がいっそう強まり、関東や大坂近郊などでは領地の枠を超えた広域な対応が求められる。幕藩体制の枠組みは農村からも崩れはじめていた。

この文章は、「日本近世史」の授業内レポートの下書きとして書いたものです

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