新潟県村上市における戊辰戦争の追悼について

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新潟県村上市における戊辰戦争の追悼について
~村上市「邨上藩士殉難碑」ならびに鳥居三十郎「追悼碑」にかかわって~

はじめに

村(邨)上藩士殉難碑

村上市は新潟県最北にあり、内藤家五万九十石の城下町である。村上藩は、慶応4(1868・明治元)年の戊辰戦争(北越戦争)では奥羽越列藩同盟に参加、新政府軍とたたかい、敗れた。
村上市三の丸町、藤基神社境内にはこの戊辰戦争にかかわる二つの石碑がある。これについて研究することとした。一つは明治22(1889)年建立の鳥居三十郎「追悼碑」であり、今一つは明治43(1910)年建立の「邨上藩士殉難碑」である。

戊辰戦争前後の村上藩について

幕末の越後~十一の小藩と五藩の飛び地

村上藩は、享保5(1720)年譜代大名内藤氏が転封され、それ以降、この地を支配した。東を会津藩(松平氏)と米沢藩(上杉氏)、北を庄内藩(酒井氏)という大藩に囲まれている。
越後は十一の藩(十五万石の高田藩以外はすべて十万石以下)と、五藩の飛び地、三十万石の幕府領に、寺社領が分立、それぞれの領地は分散、モザイク状に組み合わされていた。
村上藩領も、城のある岩船郡の所領は約一万石にとどまり、他は蒲原郡を中心とする新潟平野などに点在している。(「四万石領」)
一方、会津藩は越後の主要部分を藩領とし、会津藩とともに幕末の京都の政局を動かした桑名藩も六万石、越後の旧国主上杉家の米沢藩も領地を岩船郡などにもつ。このように越後に城をもたない「越後の大藩」が存在しており、幕末になると三十万石の幕領が会津・米沢・桑名・高田の四藩に預けられ、その影響力がいっそう強まっていた。

幕末の村上藩

内藤氏は藩祖が家康の兄弟とされており、19世紀以降、藩主が老中など幕府の要職に就いている。プライドが高く、保守的で佐幕の風潮が強い。幕末期、緊張が高まるなか、藩主信思(信親)のあつい信任を受けた側用人江坂与兵衛が改革をすすめるが、守旧派の反発が強く、改革は進まない。
戊辰戦争時の藩主は信州・岩村田藩から養子として入った信民であるが19歳と年少(慶応4年時)で、前藩主信思(信親・福翁)が実権を握っている。井伊大老以来老中の地位を続けていた信思は、文久二(1862)年の隠居後も幕政とかかわり、鳥羽伏見の敗戦で慶喜がすると江戸城留守居に任ぜられた。村上藩主父子はこれを理由に江戸にとどまる。

藩内対立の激化、奥羽越列藩同盟への加盟

この間、強硬姿勢をとり続ける新政府と東北地方諸藩との対立は激化していた。村上藩でも、新政府側につくべきと考える帰順派と、東北諸藩と結び薩長中心の新政府と戦うべきであるという抗戦派の対立が激化していた。これをうけ、年少の家老鳥居三十郎が江戸に派遣され、三十郎は藩主父子を説得、信民を帰国させた。しかし対立は一向におさまらなかった。
この間、新政府の鎮撫使が2月越後に入国、その使者が村上に来訪、村上藩は家老脇田蔵人の名で恭順を誓う書状を提出した。しかし、東北諸藩の圧力が強まると、4月13日に藩士総登城を命じ、その場で会津への協力を表明、5月6日奥羽越列藩同盟に加盟、 5月9日150人の兵が三条の警備に派遣されたのをきっかけに、長岡・会津・米沢藩などとともに、越後各地で戦闘を繰り返し、戦死者も出た。
しかし、7月末には新政府軍の新潟港制圧、長岡城の再落城など新政府が明らかとなり、新政府軍は村上へと迫り、新政府軍は最終通牒ともいえる文書を送るが、藩は正式な返答ができず猶予を願う文書を一般藩士の名前で送るしかできなくなっている。
そのころ、村上では、6月末に帰順派家老久永惣右衛門の蟄居謹慎を命じるなど抗戦派に権力が集中していた。そして7月16日藩主信民が急死し、藩政は鳥居三十郎らにゆだねられた。
7月29日、村上藩に助力するとして庄内藩士が城内に入り藩兵を動かそうとしたため、帰順派は登城を見合わせ、藩内の分裂がすすんだ。

村上城の落城・焼失と村上藩の分裂

帰順派・牧大助の墓側面 戊辰戦争で官軍の先鋒として戦死したことが刻まれる

8月10日、新政府軍が村上に接近すると、藩内不一致をみた庄内藩は村上城から撤退、翌11日城内に残った藩士らも籠城をあきらめ、家老鳥居三十郎・脇田隼人・内藤鍠吉郎らに率いられて家族とともに羽越国境に移動、その地で9月末まで戦闘をつづけた。なお、藩士らの撤退と前後し、城内で火災が発生、おおくの建物が焼失した。
他方、抗戦派が去った村上では、帰順派の久永惣右衛門や江坂与兵衛、江坂衛守らがあいついで新政府に降伏、久永や家老島田直枝を中心に、新政府と結んで事態収拾につとめている。

鳥居三十郎への死刑宣告

9月末、庄内藩の降伏により羽越国境での戦闘が終結すると新政府と戦った藩士とその家族は、10月ごろから次々と村上に帰還、寺院での謹慎生活にはいった。当初は双方が一堂に会して会議をしたり、家族のもとを訪ねたり、新発田へいくなど、かなり自由に活動を行っていたが、10月25日、鳥居三十郎ら首謀者16人の取り調べを命じられると扱いも厳しくなった。翌明治2(1869)年3月家老鳥居三十郎が東京への出頭を命じられ、5月14日には「斬首・村上における執行」という宣告をうける。
なぜ鳥居が主犯として指名・処刑される事になったのか。「村上市史」を執筆した大場喜代司氏は「戦闘の指揮をとったのは三十郎である。政府は三十郎を処罰の対象に指名してきた。」と記しているが、必ずしもそのようには思えない。新政府は形式的に一人に責任を押しつけ処刑すればよかったので、簡単にいえば、責任ある立場のものなら誰でもよかったのである。上席家老であり、勅使に対し恭順の書状を出した脇田蔵人が選ばれるのが順当であったかもしれない。『鳥居三十郎伝』(新版)の記述のように鳥居自身が自ら望んで責任をとろうと申し出たという方が真実に近いと思われる。鳥居には個人的にそうせざるをえない事情があったのだと考える。

江坂與兵衞殺害事件と三十郎の処刑

鳥居三十郎の切腹場所となった安泰寺

帰国した鳥居の処刑の執行は遅れた。しかし、新政府からの督促を受け執行を急いだが、6月20日、帰順派の江阪與兵衛が、旧抗戦派とおもわれる者数名によって殺害されたためいったん延期となり、明治2年6月25日に処刑された。処刑は新政府から命じられた斬首(死罪)ではなく、切腹という形式をとった。
しかし、帰順派中心の藩政に反発する鳥居与一左衛門(鳥居家の分家で三十郎の義弟)や島田丹治らは盂蘭盆会で鳥居三十郎ら戊辰戦争戦没者の施餓鬼供養を強行する。これをみた政府は鳥居与一左衛門らを江戸に召喚するとともに、執政の江坂衛守と久永惣右衛門をも江戸に召喚、厳しくその姿勢を追求した。
捜査がすすむなか、明治3(1870)年1月、島田鐵弥が「江坂与兵衛暗殺は自分の単独犯行」との遺書を残し割腹自殺した。これをうけ藩は江坂與兵衞殺害は島田鐵弥の単独犯、施餓鬼供養は島田鐵弥の兄・島田丹治らが行った、羽越国境の戦いで新政府側で戦死した牧大助と關菊太郎には祭粢米を、政府に反抗して斬られた浅井土左衛門家は家督を没収するといったとの回答をし、政府もこれを了承、脇田蔵人らの謹慎も解かれた。

その後の村上

こうした経過を経て、村上藩では、藩士内に抗戦派と帰順派という亀裂を残したまま、廃藩置県・秩禄処分・自由民権運動といった歴史の流れの中に翻弄されていく。
廃藩置県をうけて、あらたに成立した新潟県は、村上の責任者である三三区長に、かつての村上町大年寄で町人の伊与部助次郎が指名されると、士族たちは反発、士族の町村上本町を打ち立てようとする。こうしたことは、士族たちの再統合を促す契機ともなる。
こうして、村上は、平民を中心とする村上町と、士族中心に村上本町という二つの町となり、複雑な境界線で区切られながら敗戦まで続くこととなる。

邨上藩士殉難碑について(その1)

「村上藩士殉難の碑」の説明文

「邨上藩士殉難碑」は表面には「邨上藩戊辰殉難者」とのみ記されており、裏面の最初の行に「邨上藩戊辰殉難者  邨上藩士建」として記され、つづいて縦に三名横に六名、計十八名の名前が並んで刻され、最後に「明治四十三年十一月 島田正忠書」記され、それ以外の文字はない。
碑の前には観光地でよくあるような説明板が立っている。
今回、研究しようとおもったきっかけとなる説明板なので、全文と写真を示すことにする。

村上藩士殉難の碑 
戊辰の役において奥羽越列藩同盟の一員として新政府軍と勇敢に戦い殉難した家老である鳥居三十郎以下村上藩士十八名の名を刻した追悼の碑

この説明文だけを見ると、この18名は戊辰戦争において新政府と戦って死亡した人物のように見える。

ここに一つの疑問が生じる。戊辰戦争の最終局面において、村上藩は分裂し、羽越国境で庄内藩とともに新政府軍と戦った鳥居三十郎らがいた一方、新政府に帰順し新政府側で戦った藩士もおり、戦死者もいたと聞いている。ならば、この碑にはかれら新政府側の戦死者の名は刻まれているのかと。
裏面に刻まれた人物名は以下の18名である。整理の都合で
番号をつけておく.

①鳥居三十郎  ②小田部重蔵  ③菅三子次郎
④浅井土左衛門  ⑤牧大助       ⑥依田錬次郎
⑦中島大蔵       ⑧柴田耕治            ⑨大栗峰右衛門
⑩江阪與兵衛  ⑪加茂敬吉   ⑫梅澤 喜齋
⑬佐藤文吉       ⑭進藤多吉    ⑮關 菊太郎
⑯中根勘之丞   ⑰島田鐵弥       ⑱八幡萬里之助

なお、この碑の由来は「村上郷土史」に以下のような簡潔な記述があるのみである。

邨上藩戊辰殉難碑は藤基神社の境内に在り、邨上藩士相圖り殉難諸士の英霊を慰めんため、明治四十三年建設す。島田正忠の書なり

 他方、「村上郷土史」はこの18名全員の略伝を掲載、事実上、この碑の解説をおこなっている。

18名の「殉難者」について

18名の殉難者について、「村上郷土史」「村上市史」「鳥居三十郎伝」(新版)などの記載をもとに整理してみた。日付だけのものは慶応4・明治元(1868)年を示し、丸数字は上記の整理番号である。

1、戦闘によって死亡したもの 13名

(1)藩命で、列藩同盟と協力して戦い、死亡したもの
⑯中根勘之丞 5月27日 与板攻防戦で銃撃を受け歩行困難となり割腹
⑦中島大蔵  5月28日 与板攻防戦で銃弾を受け死亡(小隊長)
⑧柴田耕治  5月28日 与板攻防戦で銃弾を受け死亡
②小田部重蔵 6月18日 与板寺泊間の戦いで軍艦からの砲撃を受け負傷、死亡
③菅三子次郎 8月2日 三条五十嵐川の戦いで戦死
⑪加茂 敬吉 8月7日 中条への夜襲戦で銃撃をうけ戦死
⑭進藤 多吉 8月7日 中条への夜襲時に銃撃で戦死

(2)8月11日の落城後、羽越国境での新政府軍との戦闘に参加、死亡したもの
④浅井土左衛門 8月26日山熊田または9月11日雷峠で戦死。捕えられ斬殺された。
⑫梅澤喜齋(喜三郎?)9月11日、雷峠で銃撃で足に負傷、介錯をしてもらう。
⑬佐藤 文吉  8月~9月 関川村をめぐる戦いで戦死
⑱八幡萬里之助 9月16日関川口奪回作戦で銃弾で負傷、さらに銃弾を浴び戦死

(3)落城後、新政府軍の先導として羽越国境での戦闘に参加、死亡したもの

牧大助の墓

⑤牧 大助  8月26日新政府軍先導として堀切峠の戦いで村上兵らの銃撃をうけ死亡
⑮關 菊太郎 8月26日新政府軍の先導として堀切峠の戦いで村上兵らの銃撃により死亡

2,戦闘以外で死亡したもの 5名

(4)落城をめぐる混乱の中で死亡したもの
⑨大栗峰右衛門 8月11日 落城に際し、二之丸に立てこもり焼死したと思われる
⑥依田錬次郎  8月11日 眼病のため状況を誤認して割腹

(5)江坂与兵衛暗殺事件関係者
⑩江坂与兵衛 明治2年6月20日 鳥居三十郎処刑の直前、暗殺される。
⑰島田 鐵弥 明治3年1月19日 江阪與兵衛暗殺にかかわったとの遺書を残し割腹。

(6)戦争の責任者
①鳥居三十郎  明治2年6月25日 新政府軍に反逆した首謀者として処刑される。

殉難碑の死者から見えてくるもの

こうして、この碑には、(1)(2)の列藩同盟の一員として戦った戦死者11名の他、(3)新政府側にたって戦死したもの2名、(4)落城後の混乱で命を落とした2名、さらに(6)の鳥居三十郎のように戦闘とは異なる死者、そして(5)江阪與兵衞殺害事件の被害者と犯人がともに刻されている。
とくに(5)の暗殺事件は、直接的には戊辰戦争の殉難とは言い難く、しかも同じ藩士を殺害した犯人を殉難者として扱っていることは、この碑の性格の何かを示しているように考えられる。

逆に、本来ならここに記されてもおかしくないはずだが、刻まれない死者も存在している。
①落城に際して、自殺した、または殺害された二人。

(前略)
戦争中討留生捕、分捕左之通 
自殺 村上藩青山豊松  
討留 兵卒一人 
生捕 番頭石田九蔵  徒頭 浜野磯之丞   
   平士森田謙蔵  水野薪平 
降伏 徒目付松永文左衛門
生捕 足軽六名
   庄内藩酒井庄太郎家来一人  
(後略) │
「越前藩届 村上落城」『村上市史 資料編6』

村上城落城に際して、自殺および斬られたものが各1名ずつ存在する。生け捕られたり降伏したものは、積極的な帰順論者とみなされる人物であることから新政府軍を迎えるつもりが何らかのトラブルによって命を失った可能性もある。

②金革隊とのトラブルによって死亡したもの。
明治元年11月になると、新政府側の村上での治安維持活動は新発田の農兵隊である金革隊に任される。このことは村上藩士のプライドを傷つけるものであった。そうしたなか、明治2年2月、抗戦派で謹慎中の山脇鉉四郎が彼らに暴言を吐いて斬殺される事件が発生した。
それに対して、4月6日鉉四郎の養子小一らが犯人の金革隊士篠村勇を討ち取っている。しかし、篠村にも問題があったのか、不問に付されている。しかし、敵討ちに参加した若林準之丞も負傷し、ついには死亡している。このエピソードはいろいろな史料にも記されており、当時から有名な出来事であったことが分かる。

③藩士以外の犠牲者
さらに、薩摩藩士の棺に無礼を働いた町人が処刑された記事『村上市史 資料編2』に記され、村上から逃れてきた抗戦派に無礼な態度をとった板屋沢村の庄屋が抗戦派の降伏、村上への帰還に際し後難をおそれ切腹したとの記事が聞き取りによって村上の歴史を記した山口重松の『我が郷土を語る』にみられる。

なぜこの18名なのか、ここでは課題を提示するにとどめておく。

④戦闘死にかかわって
 なお、死因の分析でそれ以外に気になったことを感想として示しておく。
①戦死者の大部分が銃弾、さらには艦砲射撃や砲撃による負傷・戦死であり、刀や槍、弓といった伝統的な武器はこの戦死者を見る限りは見られない。
刀が使われたのは、捕らえられた隊長である浅井を斬り殺しただけである。戊辰戦争において新政府が各藩から兵を徴集するにあたって「銃隊・砲隊以外用捨の事」として弓や槍を一掃したことが保谷徹「戊辰戦争」に見られるが、この死因にもよく現れている。戊辰戦争がすでに近代戦争の性格を強く持っていることが死因の面からもうかがえる。

②つぎに致命傷とはとうてい思えない負傷で命を絶ったものが⑫⑯の二名、⑱についても負傷し退却を進められたにもかかわらず、それを拒んで戦死したなど、今から考えると安易に命を捨てていることである。とくに⑫梅沢などは16歳という若さである。
しかし「戊辰戦争」によると、当時の銃は現在と比べて「極めて残虐な兵器」であり、「まともに命中した場合は手足を切り取るような大がかりな外科手術が必要であり、これは西洋医と必要な機材なしには不可能であった」と記されており、負傷の様子は、はるかに厳しかったのかもしれない。

鳥居三十郎「顕彰碑」について

鳥居三十郎について、まず碑の説明文を引用しよう。

鳥居三十郎碑
村上藩は奥羽越列藩同盟に参加し、新政府軍と戦うが、藩論は抗戦派と恭順派に二分され対立のまま戊辰
戦争の終結となった。
そのときの家老で、二九歳の若さで戊辰戦争の責任を一心に背負い自決した鳥居三十郎の追悼碑。
今日の村上市を戦火から守った功績は大きい。
鳥居三十郎「顕彰碑」

村上において、鳥居三十郎は村上を戦火から守った偉人である。村上市郷土資料館には一コーナーが与えられ、史跡においてもその功績が触れられている。平成2(1990)年には中島欽也氏が鳥居三十郎らを主人公に「武士道残照」(恒文社)という小説も著されるなど、一部の人には知られた存在である。
この顕彰碑が建てられたのは明治22(1889)年のことである。明治16年、鳥居家の家名再興が太政官から認められ、江坂忠正の次男二郎を養子に迎え、三十郎の一人娘光(てる)と結婚することで村上士族鳥居三十郎家が再興される。これをきっかけに、三十郎の名誉回復と顕彰運動が新しい段階を迎えることとなる。
『鳥居三十郎伝(旧版)』におもしろい記述がある。

明治17年4月6日 村上鮭産育養所より資本として、金四三〇余円寄贈せらる。
 7月11日 旧藩主内藤信任公より家名再興を祝し、金弐百円下し置かる。

村上鮭産育養所とは、村上の士族が株を持ち合って運営している鮭の管理組合であり、村上士族の共有財産である。学校の建設・運営費や村上出身者への奨学金などが支出されることで村上の発展の中心となった組織である。ここから多額の「資本」が寄贈されたことは、村上の士族の三十郎への思いを読み取ることができる。さらに旧藩主からの多額の祝い金も目を引く。
このように、これまで抑え込まれていた鳥居三十郎への思いが、急速に表面化していることがわかる。こうした中ですすめられたのが、明治22(1889)年4月21日の藤基神社における鳥居三十郎顕彰碑の建立である。

顕彰碑の碑文について

顕彰碑の碑文について検討していこう。写真を基に碑の文字をそのまま写しており、字の位置関係は碑面のままである。
ただ、分析の都合上、下に行数を丸文字で示し、行をわかりやすくしている
写真から文字を起こしたが、後に碑文を引用した書籍をみつけて正確を期した。赤字の部分は碑面に傷がついている部分である。(読み取りは可能である)

篆額の文字は旧藩主の後継者である内藤六十麿(信任)が書き、漢学者で東京大学教授島田重礼(篁村)が文を撰した。
島田は内藤信思が「賓師」として100石で迎え入れた人物で、明治2年、取り調べと刑の宣告をうけるため上京した鳥居三十郎に面会している。こうした人選は、抗戦派・帰順派双方から中立的な存在と考えられた面もある。
碑文は、最初から3行目まで建立の由来を記している。2行目の下の方に、建立運動の中心となった一人の名が刻されている。「脇田某」、かつての上席家老脇田蔵人の関係者とおもわれる人物の名前が記されている。
すでにみたように、鳥居にかわって処刑されてもおかしくなかった人物である。自分が責任を負うべき立場であることは脇田自身も認識していたようで、『鳥居三十郎伝(旧版)』は次のようなエピソードを伝えている。

朝廷首謀者を徴す。執政脇田蔵人上位にあり、然かも君奮然責を負ふて首謀となる。君切腹の後蔵人悄然遺族に謝して曰く、余当然罪を負うべきに三十郎殿をしてここに至らしむ実に面目なし云々と。            (『鳥居三十郎伝(旧版)』)

さらに、脇田の耳には次のような声も入っていたであろう。

本来ならば家老上席久永惣右衛門が自首すべきであるが、彼は臆病且つ卑怯の男で、青年家老の鳥居をして自首するに至らしめた、と後の後まで噂が残って居た。  (『我が郷土を語る』)

謝罪と鎮魂の気持ちなのか、自分に対する攻撃をかわすためなのか、脇田は自分の名を顕彰碑に刻んでいる。
3行目から4行目にかけて鳥居家の家系が記され、4行目の末尾あたりから9行目まで三十郎が処刑されるに至った経過が記される。この部分については、のちほど検討する。
9~11行目の処刑の様子や三十郎の人となりをはさみ、11行目の前半の途中から15行目にかけて三十郎の行為の評価と顕彰がなされる。島田はこの部分でなぜ三十郎が顕彰されなければならないかを説き、この碑の最も重要な部分となる。そして最後の2行と漢詩で島田と三十郎の関わりや思いを述べている。

顕彰碑文の論理構成と事実関係について

どのようにして三十郎を顕彰したのか

島田はどのような論理で、これまでは国家から逆賊とされてきた三十郎を顕彰すべきものと位置づけたのか、その論理を整理してみる。

鳥居三十郎「顕彰碑」碑面

(1)前提として、大義は政府の側にあったことをのべる。(「若戊辰之変、仗順敵愾、大義固当然也」)これにより、当時村上藩がとった行動は誤りで、三十郎の行動も大義のない行為であったということになる。

(2)しかし大義であっても、時勢はそのとおりにはならないことがある。状況の中で正しい行動をとれないこともあると、現実の厳しさを伝えている。(「嗚呼天下之事、有理當然而勢不得然者

(3)正しい行動をとれなかった理由として、村上は辺境の地にあって情報に乏しく、誤った考えなども生まれてきて藩論がまとまらなかったことがあげられる。(「然村上僻處北陬、與京師懸隔、訛言紛興、国是不定」)

(4)また藩主信民が死亡し、前藩主信思の帰国が遅れて藩論を取り仕切ることができなかったこと。(「時藤翁公在東京、最勝公病暴卒」)
家老たちが用事で走り回っていたため、三十郎と内藤鍠吉郎しか城内におらず、三十郎に権限が集中してしまい、(「老臣數人、奔命四方、其在城者、惟君及内藤某、而君尤任事主機要、闔藩倚以為重」)、十分な話し合いができないまま、事態が進展していったことも理由としてあげられる。

(5)さらに重要なことは、村上藩の周囲は、会津、米沢、庄内という強藩に囲まれている(「加之東接会津、北與荘内隣、以区区孤城、攝于強藩之間」)。そのため、大藩からいくどとなく同盟への参加と出兵を迫られ (「而会津亦屡遣使發兵助己」「既而会津勢建甚、急促村上発兵」)、さらには自分たちの要求を聞かなければ城も社稷も破壊するという脅迫的な言動もうけた。(「威駆勢脅、進退不得自主、異議一発、城社□粉矣」)

(6)こうして、三十郎はやむをえず同盟側に立ち、正義に反する行動をとった。(「於是君決策與会津合、以拒 王師」「於是君冐大不韙」)

(7)しかし、戦いにやぶれたとき三十郎が責任をとって刑をうけることで数千という村上の人々の命が救われた。(「以當禍難之衝、以一死代闈藩数千人之命」)

(8)三十郎の行いは、やむなく大義に反することを行わざるをえなかった中国の偉人たちにも似た行為である。(「其事頗與衛孔達晉董安于相類、而時事之難処、更有甚焉」)
このような論理構成といえるだろう。

 大藩に囲まれた小藩という論理

(5)からみていこう。島田がとくに強調しているのは村上藩の地政学的リスクである。すでにみたように、村上藩は周囲を大藩に包囲され、脅迫ともいえるような発言を何度もされている。
「村上市史」など多くの史書に引用されているのが、『我が郷土を語る』の次のエピソードである。
村上には3月下旬に会米庄の三藩から使者として三名の奥州侍がやってきた。其の態度たるや甚だ暴慢無礼を極めたものであった」としてつぎのような記述がある。

御当藩は三百年以来の徳川の恩顧を蒙り居りながら、(中略)徳川家存亡の危機に際し何を危惧しての愚図り方でござる。早く決心して奥羽諸藩に味方しゃツしゃい。ご返答如何でござらう。若し不服とあらば明日にも会、米、庄連合軍は当城を踏潰すことでござらう、サア如何御返答を承ろう

このエピソードにひきつづき、藩の重臣たちが会津などの演説を根拠に列藩同盟参加を決めようとした様子が記されている。
実際、会津など奥羽の大藩の傲慢な態度は越後の他の藩に対しても同様であった。
とくに、「新政府寄り」と疑われていた新発田藩に対しては、帰国する途上、会津を通った藩主たちを押しとどめて監視し、さらには前藩主に詰問するといった侮辱を与えた。5月になると、仙台・米沢両藩の重臣が新発田藩に乗り込み、「越後諸藩中独り新発田藩のみ加盟しないのは、いかなる理由なのかお聞かせ願いたい。若し異論があるなら手始めに事に及ぶであろう」といった圧力をかけ、新発田藩の同盟加入を強要した。
新政府側に立った与板藩は列藩同盟軍に実際に攻撃され、落城の憂き目を見ている。越後とくに村上の地政学的リスクは思われている以上に大きい。(この部分は渡辺れい氏「最後の決断」を参照した。)
「新政府が長岡藩の局外中立を認めなかったため戦争となった」などの説がある。実際に新政府は、帰順して銃兵・砲兵や金や兵糧を出すか、戦うかという選択肢しか認めておらず、各藩による嘆願などは受け付けていない。したがって、長岡藩の姿勢が通説が唱えるようなものだったとしても、このような選択が受け入れられる余地はなかった。
しかしこうした姿勢は列藩同盟側も同様であり、こうした戦争のリアリズムの中で、村上藩も選択を迫られていたのであり、主体性を貫く事は事実上不可能であった。

意見の対立と藩内不一致

(3)がしめすように藩内の意見対立も激しかった。『我が郷土を語る』ではさきの重臣の発言に対して、尊王派の藩医今村玄長が「藩が朝廷に答えた回答と異なっている。義に反するのではないか」と反論し、怒った強硬派が刀を抜いたり、暴言を吐いたりする様子がいきいきと記されている。
このように抗戦派と帰順派の対立が激化していた。「列藩同盟側の大藩の圧力が強すぎるので仕方がない」「日本全体をみた場合新政府につく方が有利」といった利害にもとづく対立もあったであろうし、現実を無視した原則論、王政復古のクーデタに見られる新政府軍の中核である薩摩藩の強引なやりかたへの反発、譜代藩としての自尊心、さらには会津藩への同情、今村らの尊王攘夷論、「新政府に抵抗すべきでない」という前藩主信思の意向をうけた議論、こういったさまざまな立場の発言で議論は紛糾し、藩論がまとまらない状態が続いたと考えられる。

 事実関係の意図的?なごまかし

(4)には、意図的とも思えるごまかしがある。
碑文では「藩主が死亡し、前藩主はまだ帰ってこない。さらに老臣たちは各地にでかけており、城内にいたのは三十郎と内藤某(鍠吉郎?)しかいない、そこで三十郎が中心とならざるをえなかった。」こうしたなかで同盟参加を決めたと読める構成になっている。
しかし村上藩が会津と同盟することを決めたのは4月13日であり、同盟参加も5月6日、老臣たちが国元を離れる始めるのは5月8日の出陣以後のことで、時間的に逆である。当然4~5月段階では藩主信民は存命であった。碑文を単純化させることで事実を混同させ、時間的なごまかしを行っている。
また、重臣は二人しかおらず、相談できない情勢にあったというが、三十郎らは6月に帰順派の中心人物久永惣右衛門をあえて謹慎・蟄居とし、政権を抗戦派で固めている。6月段階で三十郎らはすでに藩論をまとめる気はなくしていたようにも思える。
なお、この碑文で異様な感じを受けるのは、「城に重臣を三十郎と内藤某(内藤鍠吉郎とおもわれる)だけしかいない」とあえて名指しで記しているところである。(「其在城者、惟君及内藤某而君」)事実関係のごまかしも含め、当時の重臣の責任逃れがあるように思えてならない。

鳥居三十郎は「抗戦派」だったのか

さて(6)の三十郎は、やむなく同盟に加盟し抗戦派として行動したのかという論点である。
これは三十郎を顕彰するためやむなく用いた論理というのが多くの人の印象であろう。
奥羽越列藩同盟に加盟し、北越戦線に兵を派遣し、帰順派家老を排除し、落城後は羽越国境で新政府軍と戦い、戦争の責任を負って処刑される。どう考えても抗戦派である。
しかし、三十郎の最大の関心事が、会津などの大藩の攻撃を避けることと仮定すると、その行動は藩の存続のための意に反した選択と評価できなくもない。自身の心情は別として、家老としての行動に責任を負い、首尾一貫性をもたせようとするなかで、抗戦派の旗頭として見なされていったとも思える。資料に丁寧に当たって著された歴史小説「武士道残照」では、心情的には抗戦派であるが、それ以上に誠実に事態に対処しようとしたため、抗戦派の武士たちが深い信頼を置くようになっていったという展開になっている。
よくみると、三十郎の家系は帰順派に囲まれている。母の実家は早い時期から自覚的な帰順派である鳥居杢左衛門家である。
(「村上市史」で郷土史家の大場喜代司氏は、杢左衛門が帰順派であるのをさして、「鳥居一族がこうして敵味方に分かれたことは、血脈の継続を考慮したものと思われる」と記しているが、杢左衛門は村上落城後、すぐ嘆願書をだすなるなどかなり自覚的な動きをしている。なぜこのような記述をされたのか、疑問である。)
妻の実家で義父の久永惣右衛門は帰順派の中心で、三十郎の死後も含めて抗戦派の非難の的であった。かれの血縁で抗戦派であったのは義弟の鳥居与一左衛門くらいである。
さらに前藩主信思は新政府との戦いを望んでおらず、養子信民や三十郎の帰国についても、十分な話し合う時間があったはずである。信民も信思の意向を十分に理解して村上に向かっている。信民は、三十郎に自筆の信任状や家督相続の許しを与えるなど強く信任しており、その意向も分かっていたはずである。隣国や藩論分裂の中、やむを得ない行動というとらえ方もできなくはない。
ついでにいえば、三十郎が自ら申し出て、戦争の責任者としての死を選んだ理由について、信民との関係が大きいと思われる。自らが説得してかなり強引に村上に連れてきた信民、自分を深く信頼していた信民が不幸な死を迎える。無理を言って連れてきたにもかかわらず、信頼に応えられず、このような死に方をさせた段階で、こうした結末を考えていたとも思われる。
なお、信民の死について、「村上市史」は自殺説を採っており、切腹ではなく縊死したという説もある。しかし「新潟県史」は病死説をとっている。たとえ、病死であったとしても帰国以後おかれた厳しい状況からくるストレスが大きく影を落としている事は明らかである。
三十郎の行動のなかには、信民の死後、いっそう責任感が強まったと思われる。こうした感情は、「昨年の秋去りにし君のあと追ふて なかく彼の世に事ふまつらん」といった辞世にも見ることができる。

「鳥居三十郎神話」と実際

(7)がのちに「鳥居三十郎の神話」となっていく部分である。「三十郎のおかげで数千人もの村上藩の人々が救われた」と記される。事実として村上藩の被害は少ない方である。
戦闘員の死者を「復古記」からひろってみると、正面から新政府軍と戦った長岡藩が312人と飛び抜けているが、地政学的理由もあって新政府の先鋒を命じられた高田藩が65人、強引に同盟に加えられのちに新政府側に立ちその先鋒を命じられた新発田藩は官軍としての死者が34人、賊軍としての死者が22人と辛い数字となっている。これと比べると、賊軍としての死者が12人(殉難碑と1名食い違っている)、官軍としての死者が2人と少ない犠牲者ですんでいる。しかし、落城させられた与板藩でも死者は5名にとどまるなど、極端に少ないともいえない。
しかし、復古記にかかげられた死者の数字は、戦闘員だけであり、長岡をはじめ戦場となった場所では町や村が焼かれ、さらに命を奪われた多くの民衆もいたはずであり、そうした死者や被害はカウントされていない。それに比べて、村上の城下ではほぼ被害はない。そのことは事実である。しかし、それを三十郎の功績とするのは安易である。
実際は越後最北端という位置が、今回は地政学的メリットに転じたことが大きい。攻撃が最も最後となり、新政府軍の兵力も圧倒的であり、記録上は、新政府軍として322名の村上藩兵が動員されたとなっているが、期間も短くすんだこと。村上落城後、三十郎らが身を寄せた庄内藩が落城という形をとらずに戦争を終えたことなどの僥倖がこのような結果となった。

安泰寺の説明文。「三十郎神話」が記される。

写真の安泰寺の説明文にみられるように「鳥居三十郎は、村上城下を戦下(ママ)から守るために羽越国境へ兵を卒(ママ)いて戦った」といった「神話」がよく用いられる。しかし、落城の危機に際し、帰順派をはじめ藩士の多くが集まらなかったため、抗戦派だけで五万石という石高には不似合いの巨大な村上城に籠城することが不可能であったことが最大の理由である。
「村上市史」は、城門前に集まっていた「抗戦派」を中心とする約100名の藩士たちが、城内から火の手が上がったのを見てわれさきに羽越国境方面に移動し始めたというの叙述をおこなっている。
三十郎が村上を守るためにあえて籠城を避け、北に去ったとはいいにくい。

顕彰碑の論理と実際

このようにこの顕彰碑は、会津をはじめとする東北諸藩の圧力の元、藩論もまとまらず、藩主は急死し前藩主も戻ってこないなか、三十郎がやむを得ず同盟に参加し、自らを犠牲にすることで、村上の人々をまもったという形で、一部のごまかしと誇張を交えつつ三十郎を顕彰しているものである。
なお、顕彰碑で用いられた論理の多くは、明治二年段階で帰順派が新政府に対して提出した嘆願書で用いられたものである。

鳥居三十郎「顕彰碑」と士族たち

三十郎の顕彰碑はどのような状況で建てられたのか考えていきたい。
新政府に反抗し戦ったにもかかわらず、会津のように領土を奪われたり、仙台のように減封されることなく、政府からの処罰も受けず、これまでの生活が維持でき、戊辰戦争という苦しい時代を終わらせた、三十郎はそのために犠牲になってくれたという感情は、早い時期からあったように思われる。その感謝を形にしたいという気持ちは抗戦派も帰順派にもあったように思われる。村上鮭産育養所からの多額の寄贈はそうした村上の士族の思いを示している。
秩禄処分によって士族が没落していくなか、村上の士族たちは強引なやり方で三面川の漁業権などを獲得、そこから得られる収益で学校を維持し奨学金を作るなど利益共同体を形成するようになっていた。さらに村上の町政が平民中心になる事を嫌って、士族町を独立させようと活動してきた。三十郎の甥にあたる鳥居和邦らも三区にわかれていた士族の行政区の合体などにも取り組んでいる。士族町村上本町の成立が明治18年である。このように平民たちと対抗し、士族が協力して士族だけの町をつくろうという動きが高まって来た時期、三十郎家の家督相続が許されたのである。この顕彰碑には建立は村上士族をまとめていく狙いがあったのではないか。
さらに三十郎の養子として家督を継いだ二郎は、帰順派の中心であった江坂家の出身である。三十郎家の復活自身、抗戦派・帰順派の歩み寄りの象徴とみることができる。

三十郎に対する思いは一致できるとしても、この碑文に対して一致できるかどうかは別問題である。碑文は、あの時代の傷を思い出し、耐えがたいものであったのかもしれない。
自分たちの行動は「北部のへんぴな場所にあり、京都からは遠くはなれていたために生じた間違った考え」だったのか、自分たちの戦いは会津・米沢・庄内に脅されてやむを得ずおこなった戦いだったのか、会津や庄内を支持したことは間違っていたのか、おかしいのは恭順を唱えているにもかかわらず強引に兵を進めた薩摩など新政府側ではないのか、そもそも「新政府の行動は大義といえるものだったのか」。そして「いまだに薩長の藩閥勢力が実権を握っている今の政府は、真に正統なものといえるのか」。
しかし、列藩同盟を破り、鳥居三十郎を処刑した政府が眼前に厳然として権力の座に就き、「正義」を独占している。三十郎の顕彰のため、受け入れざるをえなかったであろう。
この受け入れ難さはどこへ向かったのか。何らいうべき史料は持たない。抗戦派の鳥居与一左衛門の長男和邦は村上本町の士族の結束を図る一方、自由民権運動も参加、一時は自由党の遊説委員として県内を遊説、弟録三郎は、他の東北士族の子弟と同様、ロシア正教に接近している。政府の正統性、父や伯父たちの生き方を問い直そうとしたと考えるのはうがち過ぎであろうか。

「顕彰碑」の破損箇所

なお、碑文を文字に起こす過程で気になったことを記しておきたい。この碑の碑面は痛みがすくないのであるが、数カ所傷がついている場所がある。それが図の赤字で示した部分である。下の傷は丸い傷の一部分なので、意図的ではないかもしれないが、上の一カ所は傷の形も違い、独立している。それが「王師入越後命村上討会津」の「討」の文字である。偶然かもしれないが、気になったので写真とともに記しておく。

邨上藩士殉難碑について(その2)

再び「邨上藩士殉難碑」に戻ることにしよう。
この碑が建立された明治43(1910)年は日露戦争が終結して五年後である。日露戦争での大量の死者の発生をうけ、政府は「戦死者は国家のために身を捧げたのだ、神として天皇陛下から祀ってもらえるようになるのだ」というイデオロギーを植え付け、国民精神を動員する方向を政府は強めていた。そのためのイデオロギー装置が靖国神社であり、この年以降、各地で建てられることになる忠魂碑であった。明治43年という年は、戦いで死んだものへの慰霊と鎮魂という考えが全国化させられ始めた時期であった。
村上においては、日清・日露戦争で戦没した兵士たちと、郷土のために命を捧げたと考える鳥居三十郎ら戊辰戦争での死者が二重写しになってきたとおもわれる。こうしたなか、戊辰戦争のための殉難碑が計画されたと考えられる。

 では、だれを、どのような形で祀るのか。

まず祀り方であるが、明らかに政府背いて処刑された鳥居三十郎や戦場で斬られた浅井土左衛門らを神として祀るのは政府との関係上難しい。したがって靖国・忠魂碑方式はとりにくい。そこで考えられたのが、死者は戦争の被害者であるとして、その追悼をするという方法である。「それぞれ立場や状況は違ったが、同じ戊辰戦争という苦しい事件に巻き込まれ、命を失った被害者・殉難者なのだ、その悲しみを共有するという追悼ならば問題はあるまい」という考え方であったとおもわれる。
こうすれば、藩命で戦い亡くなったものも、羽越国境で抗戦派として戦った死者も、政府側で戦った牧や關も同じ論理で葬ることができ、そして最も追悼したい鳥居三十郎も含めることができる。
戦争の中で不幸にも命を失ったという理屈ならば、あらたな対象も浮かんでくる。落城当日に命を失った大栗や依田の二人も該当する。そして、落城後の村上を立て直そうとして命を奪われた江坂与兵衛も対象となる。
江坂与兵衛が対象となるのであれば、江坂与兵衛暗殺事件の犯人と告白して自殺した島田鐵弥はどうなるのか。本来なら、あきらかな犯罪者であり、この対象とはならない人物である。しかしなんとしても島田を含めたい人々がいた。

江坂與兵衛暗殺事件と島田鐵弥

明治も末年となり、抗戦派と帰順派、両者の対立は過去のものとなりつつあったが、いまだに決着のついていない問題が江坂与兵衛暗殺事件であった。
『我が郷土を語る』の著者山口重松は自分の祖母が隣の与兵衛宅でおこった事件の体験談を記している。

 犬の遠吠にフト眼を覚ました筆者の祖母は、何となく外方が物騒がしい気配に耳をそばだてて聞けば、いかにも五六人の足音でバタバタと行きつ戻りつといった具合に聞える。何事?と思って静かに流しの窓を細目に開いて様子を窺うと、何ンでも抜き身をもって裸足で駆け廻りなにやら密々騒いでいるらしかった。「をかしいな」とは思ったが、まさか刺客団とは思はないから、そのまま誰にも話しをせずにゐた、ところが朝になると「與兵衞はんが暗殺された」といふことであった。

このようにこの事件は島田鐵弥の単独犯行とは思えない。島田以外の犯人たちもいた。彼らは島田の犠牲の上に、表面上は安穏とした生活を続けていた。

「殉難碑」 殺害された江坂與兵衛の名と、単独犯とされた島田鐵弥の名がともに刻まれている。

暗殺を快挙と考えたものはさらに多くいたとおもわれる。かれらは、名誉回復は難しくともいつかは島田の名前を表に出して鎮魂を果したいと考えたであろうことは想像に難くない。こうした人々にとって、殉難碑建立は重要な、そして最後のチャンスであったと思われる。逆に、島田の名を刻む目的で殉難碑建立の話を持ち出した可能性さえもある。
そしてどのような話し合いがなされたのかは不明であるが、島田鐵弥の名前は、江坂与兵衛の名と並んで、殉難碑に刻みつけられたのである。細かな説明はなしで。
ある意味で、この碑の建立は明治の初年に発生した村上藩内部の抗戦派と帰順派の対立を克服するためのモニュメントであったのかもしれない。
なお、この碑を書いたのは、戊辰戦争時は家老でありながら、戦争までは一切存在感を示さず、戦争が終わると同時に姿を現し、長く村上の地方政治に長く携わった島田直枝こと島田正忠である。

おわりに~「村上郷土史」にみる江坂與兵衞殺害事件

「村上郷土史」は昭和六年一月に村上本町教育会が編纂・出版したもので、調査委員には三十郎の養子鳥居二郎も名を連ねている。編纂・出版が村上町でなく、村上本町であることに注目してほしい。村上本町は村上藩士族の町であり、その教育予算は士族たちが株を持つ三面川の鮭からの収益でまかなわれている。この本にもその資金が用いられていると思われる。この本には村上の士族の意識が投影したものであろう。
この本には「戊辰殉難諸士略伝」という部分があり、殉難碑の18人全員の略伝が記されている。先に見た殉難碑の分析はこの記述も参考したし、鳥居三十郎追悼碑の碑面の書き起こしも「略伝」所載のものを参照した。
この「略伝」は進藤養素氏が、若林安静氏や長尾右門氏らの談話も聞きながら作成したであり、「郷土史」に加える際、一部加除したと記されている。もとの「略伝」の成立時期は不明であるが、殉難碑と同じ18人であることから、殉難碑にかかわって作られた事は間違いない。
ここでは、江坂與兵衛暗殺事件についてのみ記述を見ながら、このレポートをまとめたいと思う。
まず島田鐵弥についての該当部分を記す。

兵乱定まりて後、藩内二派に分かれ、軋轢して止まず。明治二年六月朝廷鳥居三十郎に死を給ふ。氏之を以て江坂與兵衞の所為に起因するものと誤認し、竟に意を決して之を暗殺す。後官、弾正台巡察使を遣はし、犯人を捜査せしむ。乃ち前非を悔い、自刃して其の罪を謝す。之明治三年一月一九日の夜なりき。享年二十一、宝光寺に葬る。

「江坂が鳥居を処刑させる原因を作った」ということは「誤認」であり、江坂の暗殺についても「前非を悔い、自刃してその罪を謝す」としている。しかし島田は遺書のなかで「江坂は国賊」であると主張し、その殺害についても「無拠(よんどころなく)」と記し、「前非を悔いて其の罪を謝」しているとはみえない。あるとすれば、すぐに出頭しなかった事、家(島田家)に迷惑をかけた事だけである。ここにもごまかしがある。
江坂與兵衞についてみる。江坂の略伝は鳥居三十郎についで長文であり、引用を除くと、鳥居以上である。側用人としてさまざまな功績、洋式兵制の導入とその成果、その過程での重臣ら藩士との確執などを記した後、落城後の行動を次のように記す。

西軍来り攻む。藩兵庄内に走りしも、與兵衞は職を罷めて國におり、老臣久永某等と留まって帰順し、且つ兵を出して先鋒たらしむ。此に於いて國人之を悪むこと益々甚し。
亂定まって後朝廷首として兵を起せるものを徴す。藩執政鳥居三十郎をして徴に応ぜしむ。翌年三十郎令ぜられて國に帰り、死を賜ふ。某々の族最も之を悼惜し、密かに相謀りて怨を與兵衞に報ぜんとし、三十郎の処刑に先立つ事五日の夜、與兵衞遂にその族のために暗殺せらる。実に明治二年六月二十日なり。時に徒に四十七。宝光寺に葬り、後東京青山青原寺の先塋に移す。
與兵衞人と為り方正、沈毅、才幹あり、常に事を為すに遂げざれば已まず。事公家に関すれば輙ち身を忘れて力を尽くし、事を処するに最も慎密、常人の及ばざる所ありき と。
鳥居三十郎の墓

新政府軍の先鋒に藩士を従軍させた事や鳥居三十郎を罪をおしつけたのは與兵衞と久永(惣右衛門)であると見える書き方である。島田のときは「誤認」としていた所が「鳥居三十郎をして徴に応ぜしむ」と認めるような書き方になっている。
一読して感じるのは、與兵衞や久永惣右衛門への筆者、その背後にいる村上の旧藩士の敵意である。新政府に対する不快感のはけ口を彼らにおしつけ、暗殺者に同情を感じるという当時の感情がほとばしり出てきたようにも感じられる。

鳥居三十郎の墓
側面には処刑(切腹)の日時が記されている。

此に於いて國人之を悪むこと益々甚し」と記している。書く場所を間違っただけかもしれないが、そのまま読むならば、この時期は明治元年8~9月のことである。したがって「國人」とは国境に向かわず帰順した人たちである。自分たちが、三十郎たちを見捨てたという罪悪感を、與兵衞や久永惣右衛門を悪む事で晴らしているようにも見える。
與兵衞の墓が、いったんは三十郎や島田鐵弥らの眠る宝光寺に葬られながらも、のちに東京に移された事になにか裏事情を考えるのは考えすぎであろうか。
與兵衞をにくんだ「國人」たちの姿は、明治以降の村上の旧藩士の姿に重なってくる。意識的な帰順派は別として三十郎とともに羽越国境に向かわず新政府に降伏したという罪悪感。藩として参加を決め新政府軍と戦い敗れたにもかかわらず誠実な鳥居三十郎一人に戦争責任を押しつけ生き延びた罪悪感。新政府と結託し新政府の一員として藩士の命を奪い三十郎に責任を押しつけた「悪人」江坂與兵衞をともに殺害したのもかかわらず罪を島田鐵弥一人ににおしつけた罪悪感、この殺害に快哉を叫んだ罪悪感。あるいは、汚れ役を引き受けさせたあげく命を奪ってしまった江坂與兵衞への罪悪感、こうした複雑な心理はそれぞれの旧藩士たちの中に残され続けてきたようにおもう。
こうした罪悪感が戊辰戦争をめぐる二つの碑に隠された意味であったし、殉難碑に江坂與兵衞・島田鐵弥両名の名を刻んだ理由でもあると考えることもできそうである。こののち、昭和6(1931)年には「村上郷土史」出版され、昭和13(1938)年には「鳥居三十郎殿七十年追悼会」が行われる。

アジア太平洋戦争の敗北によって、士族の町村上本町と平民の町村上町は統合された。また天皇制国家の正統性が失われることで、戊辰戦争における新政府軍の「大義」も、「官軍」「逆賊」という関係も意味を失い、戊辰戦争、とくに北越戦争の意味を問うことが可能となり、鳥居三十郎についても「逆賊」という制約はなくなり、郷土の偉人、武士道に殉じた人物として評価され、歴史小説の主人公にもなった。
昭和43(1968)年には鳥居三十郎先生百年忌が開催され、このときに作成された「鳥居三十郎伝」は現在、村上市立中央図書館のホームページ上に郷土資料としてアップされる。鳥居三十郎によって村上は戦場にならないですんだ」という「神話」も広がった。
他方、江坂與兵衞ら「帰順派」の果たした役割も新政府側で戦った人々の存在も希薄化、村上藩は新政府と勇敢に戦ったという認識の方がひろがっていったのである。

明治に建てられた戊辰戦争にかかわる2つの石碑は、戊辰戦争において賊軍とされ、何人かの犠牲のうえに歴史を綴ってきた村上士族の苦い思いの中から生まれてきたものであったといえよう。

<参考文献>

「村上市史」村上市
通史編2近世(平成11年)
3近代(平成11年)、
資料編3近世2町・村・戊辰戦争編(平成6年)・
6近現代三・行政資料編上巻(平成2年)
「新潟県史」通史編6 新潟県

「村上郷土史」村上町教育会 昭和49年 歴史図書社
「我が郷土を語る」山口重松 昭和11年 水工会事務所
「鳥居三十郎伝」旧版  昭和13年 鳥居三十郎殿七十年追悼会
「鳥居三十郎伝」新版 昭和43年 鳥居三十郎先生百年忌会
「村上藩」大場喜代司 2008 現代書館

「戊辰戦争」保谷徹 2007  吉川弘文館
「戊辰戦争」佐々木克 1969  中公新書
「最後の決断 戊辰戦争越後四藩の苦悩」 渡辺れい 2012 (株)新潟日報事業社
「武士道残照~鳥居三十郎と伴百悦の死」 1990 恒文社

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