終戦工作における「国体」をめぐる攻防

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終戦工作における「国体」をめぐる攻防
~戦前・戦中・戦後の一体的理解のために(1)

「(2)アメリカの占領政策と日本の諸政策」ここから

さまざまな「国体」

アジア太平洋戦争末期、すでに敗戦を覚悟していた指導層の最大の関心事は「国体は護持できるか?」という点にあった。「国体」とは、「天皇を中心とした戦前の日本の国家のあり方」と定義するのが普通である。「国体護持」ということばには自分たちに都合のよい国家・政治のあり方を敗戦後も引き継ぎたいとの願望が隠れていた。中心には天皇制がおかれているものの、支配者・グループ間で認識ずれがあったであろうし、「天皇制」理解も同様であろう。それぞれのアクターが、守るべき核心をどこにおいたのか、切り捨て可能なもの、切り捨てるべきと判断したものは何か、戦中・戦後の歴史過程の中で考えてみたい。
さらに、それぞれが考えていた「国体」は、アメリカ占領軍による日本の国家主権を奪取にともない、占領軍との距離感の保ち方で異なった様相をみせる。しかも、アメリカの対日政策は戦後の世界情勢により大きく変化する。それにより力関係も変化していく。そして主権を奪い取ったアメリカの諸政策と対立と協力、さらに融合しながら、現在の「国体」を産み出していく。
こうした過程を雨宮昭一の論や総力戦体制論などにも学びながら、検討していきたい。

雨宮昭一による四潮流とその問題点

前提として、二つの点を確認しておく必要があろう。一つは、敗戦という決定に関わった諸勢力、あるいは敗戦によって「国体護持」の中心となる諸勢力のグループ分けであり、今ひとつはそのグループの敗戦時の位置取りである。
まずグループ分けについての作業仮説を示す。この点については雨宮昭一の見解が参考となる。雨宮は戦時期の政治手法などから、
(A)国防国家派 (B)社会国民主義派 (C)自由主義派 (D)反動派
の四つの潮流を導きだし、この四潮流の絡み合いの中から戦前・戦中・戦後をトータルに捉えようとする。戦時体制は、国防国家派と社会国民主義派がリードする形ですすめられるが、敗色濃厚になるにつれて自由主義派と反動派の連合が戦争終結に向かい、それに社会国民主義派ついには国防国家派の官僚グループもが参加していき、国防国家派の中核である陸軍などが孤立し敗戦を迎えるという図式で捉える。そして、戦争終結の中心であり、戦前からアメリカともパイプを持っていた自由主義派が社会国民主義派や国防国家派の官僚などとも結ぶ形で戦後政治を担う。
雨宮の手法は、戦時期の諸潮流をその政策と結び、その対立の中で捉えるという方法で、戦後とのつながりを考える上でも有効な手法である。しかし、四潮流の図式化に急なあまり、その分類に無理が生じている。また分析の中心を政策面に置き、戦争・ファシズムへの姿勢、めざす国家像などを捨象したかのような分類には多くの人が違和感を感じざるをえない。
敗戦・日本軍国主義の崩壊によって戦時体制の前提が崩壊したこと、「非軍国化・民主化」という目標を表に出して日本を占領したアメリカ軍が日本の主権を奪取した事実が軽視される。こうした「開闢以来」の大事件を経る中で、戦前・戦中の四潮流がどのように変わったのか変わらなかったのかというあまりに当然な問いかけが不十分と思われる。たとえば(A)戦時中の国防国家派として描かれる和田博雄が、都留重人らとともに戦後経済の復興の中心となり、さらには社会党左派の闘士と変わっていく過程など、和田を突き動かした原理などに即してもっと丁寧に分析すべではなかったのか。
そもそも人間を動かすのは自由や基本的人権、平和と民主主義、貧困の撲滅と幸福の実現、あるいは国際正義の実現、国家の理想追求、民族解放、場合によっては世界支配といった「大文字」の理念であり、その理念を実現するために最適の手段=政策・手法が検討されるというのが一般的と思われる。ところが雨宮は、理念よりも手段=政策・手法を重視している。多くの読者が雨宮の叙述に、強い違和感を感じるのは、戦争に対する立ち位置・思いなどを軽視して二次的な点で図式化していることにある。
また戦時期と戦後の連続面を強調しすぎる論旨にも強引さを感じる。日本が連合国に無条件降伏したということは国家主権を連合国、とくにアメリカに委ねたことである。そのことの決定的な意味を理解しておられない。戦時体制の下、「革命」的といってよい画期的な変革が進められたのは、軍という巨大化・凶暴化した暴力の存在と「聖戦遂行」という国家目標であった。その前に他の勢力はひれ伏し、沈黙を余儀なくされる。大財閥も地主も表だった抵抗は困難となり、議会もその存在意義を失い、天皇すら「クーデタの影」におびえる。
本来の「革命」なら、暴力の担い手が没落し目標が喪失する中で、旧支配勢力が復活し「反革命」がすすむ中で、革命の理念の一部が定着するという過程を経ることが多い。ポツダム宣言受諾を主導した勢力(自由主義派・反動派)もそれを期待した。吉田茂は「大いなる誤り」が是正されれば、五箇条の誓文以来の「自由主義」「民権主義」が回復されると考えていた。
ところが、戦時下の「暴力」にかわってあらたな「暴力」が登場した。アメリカ占領軍である。占領軍はファシズムや軍国主義とたたかった世界の人々による信任と、日本軍国主義を撃破した圧倒的な軍事力を背景に日本に進駐、その「主権」を奪い、日本政府を従属させる。その圧倒的な権威の前に、旧支配層も被支配層も、アメリカ軍との間で距離を図りつつ対応を迫られる。あるものはアメリカの中に自らの理想を見てアメリカこそ自分たちの目標(「解放軍」)と考え、あるものは当面はみずからの利害をアメリカと一致させることで延命を図り(「傀儡(かいらい)」化)、あるものはアメリカの権威で自分たちが進めてきたさまざまなレベルの「革命」を継続しようとし、あるものは面従腹背の姿勢をたもって嵐が過ぎるのをまとうとし、あるものは戦犯や公職追放に指定されたり、裁きを待ったり、沈黙を強いられる。自ら命を絶ったものも多い。
たとえアメリカが準備不足で、日本の現状をつかんでいないと仮定しても、彼らの持つ権威と暴力はそれを利用して変革を進めようとする際の後ろ盾にもなるし、変化を嫌う人々への壁にもなった。あるものにとっては戦後改革は戦前・戦時期からの「革命」を占領軍と結んで継続しようとしたものであるし、あるものにとっては軍国主義の退場によって回復されるはずの戦前への復活を拒絶される。

作業仮説としてのグループ分け

雨宮の方法は、多くの疑問点を持つとはいえ、政治をめぐる諸潮流を政策などで分類し、降伏にむかう政争をこれによって解明し、その対立の流れの中で戦後の政治を叙述する有効な手法でもある。
雨宮に学び、戦時体制下の諸勢力を析出し、戦時体制下の行動を分析したい。とくに降伏条件と「国体護持」をめぐる政争、占領下での立場・行動などについて、戦前からの連続面にも目を配りつつ、敗戦のもつ決定的な変化や世界情勢に左右されるアメリカの政策、そして暴力の中心が米軍に代わった意味も把握しつつ検討したい。
雨宮とは異なり、「国体護持」を出発点に考えるため、裕仁天皇個人の意思や、宮廷勢力の動きも独自の「勢力」として見ていくことにする。
こうしたこともふまえ、ここでは1945年6月以降の降伏条件にたいする立場でまず三分類し、さらにそれにかかわった七グループ(+1)に分けて考えていきたい。

(一)降伏にさいし「国体護持」のみを求めたグループ
 ①裕仁天皇(昭和天皇)、
 ②近衛・木戸ら宮廷・華族グループ
 ③自由主義派(親米英派グループ)+財閥
 ④反動派(従来型右翼・皇道派など)+寄生地主

(二)降伏に際し「国体護持」以外の条件も掲げたグループ
 ⑤陸軍・軍部グループ

(三)降伏に直接にはかかわらなかったり表だった動きをみせなかったグループ
 ⑥戦時官僚グループ+新興財閥
 ⑦社会主義・社会ファシズム派(社会国民主義派)

 さらに、戦争に振りまわされつづけた庶民たちがいた。彼らは積極的あるいは消極的に戦争に協力したが、多くは戦争の終結を待ちわびており、ひそかに軍や政府の悪口を言うことで憂さを晴らしたり、意識的・無意識的に反抗したり、沈黙を守りつづけるといった対応もしていた。少なくとも「本土決戦」「一億玉砕」を心底から望んでいるものがいたとは思えない。違和感を持ちながらも大勢に流されるというのが実際であったとおもわれる。軍人として戦争に携わっているものたちも、同様ではなかったのではないか。戦争がおわり、自分たちを戦争に導いたものの姿が見え、さらに生活苦がさらにすすむなか、生命と生活を守らねばならないという中で、巨大な力を発揮し、戦後民主主義を実体化させていく。

雨宮との関わりでいうと(D)反動派は④とほぼ重なり、国防国家派のうちの軍部の多くは⑤に、そこに含まれる官僚が⑥に分類され、社会国民主義派の多くは⑦に分類する。自由主義派は②③に分け、独自に裕仁天皇個人を①として示した。
つぎに彼らの分析と、戦争末期の位置取りなどについて見ていくこととする。

裕仁天皇にとっての「国体」

最初に取り上げるのは裕仁天皇という個人である。最終的な決断を下したのが裕仁天皇本人であったことから、その個人としての考えは重要である。明治憲法は「天皇」を大日本帝国の主権者という「機関」という位置に置いた。参謀本部などの輔弼(ほひつ)により大元帥として軍隊の指揮にあたる立場にあり、宮中機関や枢密院などの輔弼より「緊急勅令」をだし、「勅語」などによって臣民の忠誠と徳性を涵養する「国家機関」として作動していた。「天皇の意思」は実際には輔弼すべきものたちが用いる命令であった。「天皇の肉声」は数重の障壁の奥にしまい込まれ、外部に漏れ出ることはまれであった。なぜならその「声」が、「天皇の意思」を国家の正統化のたてまえとする明治憲法体制自体を危うくするからである。
ところがそもそも相互の機関を牽制しあう機能を欠落させるという欠陥を有する明治憲法体制は、元老の死によって調整能力を低下させ、機能不全の傾向を強めた。さらに強大な暴力を有する軍部が独走し、自らの意に反する天皇側近を「君側の奸」として攻撃したため「機関としての天皇制」すら機能不全になっていった。こうして、軍部に対抗しうるものはそれまでは国家権力の奥に潜んでいた「個人としての天皇」に限られるようになってきたのである。
個人としての裕仁天皇は、自由主義的な傾向を持つ西園寺公望らの薫陶や欧州訪問を通して、イギリス王室などヨーロッパ王室に親近感をもち、欧米への敵意は少なかったといわれる。他方、原武史の「昭和天皇」は、天皇が「万世一系」の神話にもとづく長い伝統を持つ(と教え込まれた)「天皇家の家長」としての家庭内の悩みを抱えていたことを指摘している。弟たちを溺愛し狂信的な神秘主義的傾向を強めエキセントリックな言動をくりかえす母、貞明(ていめい)皇太后。陸軍皇道派のシンパの好戦派でありながら戦争末期には一転自分への批判を繰り返す弟・秩父(ちちぶ)宮や高松宮。和平派との関係があるとされる弟・三笠宮。こうした家族内部の不和がその決断にも大きな影響を与えていた。とくに皇太后の存在は戦況とともに最大の悩みであった。
「天皇家の家長」としての裕仁天皇の関心事は、「天皇」という地位を次代に引き継ぐことであり、天皇制廃止という事態を何としても阻止することであった。天皇は、短波放送などを通じて米軍の動きなどを逐一把握していたと言われ、米軍が中部地方に上陸するという事態となれば熱田神宮や伊勢神宮に祀られている三種の神器が奪われることを強く心配していた。そのことが本土決戦回避の大きな動機付けになった。
こうして天皇は木戸幸一内大臣ら側近との間で戦争終結の道を模索する主体的な行動を開始する。一九四五年四月、戦争終結に消極的な小磯国昭にかえて、かつての側近で自由主義派の海軍大将鈴木貫太郎を首相につけ戦争終結へと舵をきる。とくに六月、自らも作戦に介入した沖縄戦での敗勢が濃厚になり「アメリカに一撃を加えてから講和を結ぶ」という思惑が潰えるなか、天皇は「国体護持」のみを講和の条件とする「一条件派」に鞍替えし、自らの意思で御前会議を開催する。
裕仁天皇にとっての「国体」とは第一義的に、自分が当主をつとめる「老舗」である天皇家の永続であり、「三種の神器」をまもることであった。「一億玉砕」や「共和制」を避けることが必須条件であり、「国破れて『天皇』あり」との状態をめざす。家長として不和が絶えない家族一人一人の顔を思い浮かべながらの対応も必要であった。このような「天皇家ファースト」の立場は戦後になってつづき、それは象徴天皇制下でも変化しない。こうした立場が象徴天皇制に結実したともいえる。

宮廷・華族グループにとっての「天皇制」

次に取り上げるのは木戸幸一や近衛文麿に代表される宮廷・華族グループである。
木戸幸一は内大臣として天皇側近として天皇の意を受けて、近衛さらには自由主義派③とひそかに連絡を取り合い、さらには陸軍主流と対抗しうる勢力として軍部内反主流派である旧皇道派など④とも接触を持ち、和平派の勢力の拡大をはかっていた
他方、近衛は日中戦争開戦時の首相として軍隊の派兵を容認、さらに「蒋介石政権は対手とせず」「東亜新秩序建設」といった耳障りのよいことばで日本を泥沼のような日中戦争に導き、新体制運動で戦時体制への流れを作った。さらに一九四〇年には陸軍と組んで大戦への不干渉政策をとる米内(よない)内閣を打倒、第二次内閣を結成して三国同盟締結や仏印進駐といった米英との対立をあおる政策に積極的に関与し、御前会議でも対米英戦争への道を開きながら、開戦直前に陸軍主流派と対立、内閣を投げ出した。このように戦争責任を免れえない人物であった。
ところが、近衛は自らが道を付けた対米英戦争が始まるやいなや、戦争に否定的な姿勢を強め、自由主義派や反動派からなる和平派の結節点となる。そうした姿勢は天皇からみれば無責任な態度ととみえ、両者の関係は悪化する。しかし、戦況が逼迫(ひっぱく)し天皇から意見を求められると、近衛は一九四五年二月吉田茂ら自由主義派の力も借り「敗戦は必至」「最も警戒すべきは共産革命」との「近衛上奏文を提出する。しかし「沖縄決戦」などに期待をつないでいた天皇は「ある程度戦果を上げてからでなければ難しいと思う」と却下したものの、戦争終結にむけて重要な役割を果たすべき存在と見なされることになる。
近衛上表文はこの時期の最もまとまった戦争終結論であった。たしかに近衛は戦争末期から敗戦直後の支配層の中では事態を深刻に捉えた人物であった。戦後にはいち早く天皇制を守るために憲法改正の必要を説き占領軍とも折衝をする。こうしたリアルな認識は裕仁天皇のそれと一致する。ただ不思議なことは、こうしたリアルな認識・対応と、自らの責任への認識のギャップである。こうした近衛の生き方は、戦前の指導層のある種の性格を示しているように思われる。
その後、近衛は「昭和天皇は退位して仁和寺へ隠居し、秩父宮ないし高松宮が即位する、あるいは皇太子が即位し、彼らあるいは皇太后が摂政となる」という前時代的な落としどころを模索する。戦争責任を裕仁天皇に押しつけ、人身御供とすることで「天皇制」というシステムを守ろうとした。近衛にとっての「国体」とは天皇制という制度であり、裕仁天皇個人の扱いは第二義的な問題であったし、極端に言えば天皇は誰でもよかった。それが皇室の藩屏(はんぺい)、公家系華族筆頭の公爵近衛文麿の役割と考えていた。こうした志向は木戸にも見ることができる。近衛も木戸も、裕仁天皇が戦争責任を持つことは明らかと考えており、しかるべき時期の退位を天皇に進言している。こうした近衛に裕仁天皇が不快の念を抱いたことは言うまでもない。
天皇や側近・華族にとって護持すべき「国体」=天皇制とは、幕末・明治以降作り上げられた近代天皇制よりも、「万世一系」という「神話」に彩られ、子々孫々続くべき伝統的な天皇制、家元であり老舗である天皇制であった。しかし、この「神話」自体、江戸後期以降とくに近代に形成されたものであることを押さえておく必要がある。

近代天皇制としての「国体」

明治維新以来、近代日本の政治権力は天皇によって正統性を付与されることで成り立っていた。徳川幕府から政権を奪った維新政府が開発独裁政権としての絶対的権力を発揮できたのは「天皇の信任」を根拠としていたし、明治憲法下でも、主権者としての天皇のもと、国民は天皇に奉仕すべき「臣民」として位置づけられ、すべての権力の根源はすべて天皇に有するように定義された。それにより執行権力は維新政府以来の独自の権力を保持しつづけたし、軍隊は大元帥としての天皇の命令(「統帥権」)をたてに他の機関の介入を拒んだ。このように、国家の諸機関・諸装置は、天皇制との関わりによって正統化された。「国体」つまり「天皇の信任」こそが正統性の原点であり、国家権力の根源であった。「天皇の信任」にもとづく支配のあり方そのものが「国体」といえる。
しかし、明治憲法体制が破綻し、その結果であり原因でもある軍国主義の挫折と侵略戦争の敗北は、維新以来の国家のあり方を、旧支配者なりに問い直さねばならなかった。かれらにとって処分する「不良資産」と残すべき「財産」の仕訳が必要となった。そうした際、天皇制国家の運営にかかわってきた諸勢力は自らを残すべき「財産」のリストに残そうとした。護持すべき「国体」の中に自らの「名」を組み込もうとした。
敗戦がそれまでの政治のあり方を問い直す以上、それまでの日本の指導者はなんらかの形で責任が問われる。各国家機関・装置は戦争責任を「正しい国体」に反する勢力の仕業として押しつけることで生き残ろうとする。護持されるべき「正しい国体」に自らをリンクすることで戦後にも生き残ろうというサバイバル競争が繰り広げられた。

陸軍の「和平四条件」と、海軍の「生き残り」戦略

だれもが「正しい国体」に反したとして戦争責任を問われ処罰・排除の対象となるべき存在として指弾したのが、軍部とくに陸軍である。だからこそ陸軍は、戦争終結の条件に「①国体護持」だけでなく、「②連合軍による占領は小規模・短期間にすること、③武装解除は日本が自主的に行うこと、④戦争犯罪人の処分は日本が自主的に行う」の三つを加えた「和平四条件」を強く主張し、承認されなければ終戦に応じるべきではないと主張しつづけた。それは開戦までの経緯や戦争における行為自体、どうしても正当化できず、戦争責任の多くを負わされことが明白であることへの予防的な抵抗であった。陸軍中枢すら敗戦は必至と考えているのもかかわらず、自らの保身のために「本土決戦」「一億玉砕」を唱えたのである。
こうした主張は、相手国にとっても、日本の支配層にとっても、もはや受け入れる余地はなかった。しかし、問題は陸軍自体が巨大な「暴力」をもつことである。陸軍が自らの利害を守るため、クーデターに訴えることは容易に予想しうることであり、二二六事件の記憶が支配層の心底に刻み込まれていた。したがって、いかに陸軍を刺激せず戦争を終わらせるかが難問であった。近衛上奏文への天皇の回答にはこうした意味が含まれていた。陸軍を納得させるために、ソ連を仲介とした無駄な交渉が繰り返され、その間に多くの人命が無駄に失われた。陸軍にとっての「国体」は、陸軍組織の保身と責任逃れであった。
他方、海軍は、終戦にさいして、一部に強硬派を抱えていたものの、大勢はポツダム宣言受け入れに前向きであった。そして、戦争終了後の対米工作に生き残りの道を探る。アメリカ軍に自らの存在価値を売りこむという「傀儡(かいらい)」の道である。海軍も、陸軍など他の組織と同様に関係書類の焼却による証拠隠滅を図る。そしてソ連など共産主義陣営との対立が深刻化するとの展望の下に、アメリカの国益にとって旧日本海軍が有益であることを説く。こうして海軍はA級戦犯容疑者を出すこともなく占領期を乗り切り、海上自衛隊としての復活を果たす。
個々の軍人たちも同様の手法で延命を図る。七三一部隊の石井四郎は、人体実験を用いたその研究成果を米軍が注目していると考え、それを秘密裏に譲り渡すことで戦犯指定を逃れ、稚拙な作戦で多くの将兵の命を奪った参謀・服部卓四郎は自分の体験を売り米軍のエージェントとなることで生き延びる。
同様な人物として岸信介を上げることができる。岸はA級戦犯に指定され巣鴨に収監されるが、東西冷戦が深刻化しつつあることを知り、反共主義の指導者として占領軍に自らの存在感を示し、吉田茂らとは異なったタイプの「傀儡」となることで政治家としての生き残りに成功する。

吉田茂と自由主義派、既成財閥にとっての「国体」

和平実現の過程を経て戦後もっとも利益を得ることになるのが、③自由主義派、とくに親英米派グループであった。かれらは一九二〇年代から三〇年代初頭、大正デモクラシーと政党政治を担ってきた勢力であり、戦時体制成立以前の支配階層・政党政治の関係者、協調外交をすすめた外交官の多くを含む。その時期、経済を掌握していた伝統的財閥資本などとも近しい位置にある。協調外交やアメリカ企業との合弁なども進んでいたため、アメリカに知己も多く、グルーらアメリカの保守的知識人と関係も深い。また同じ軍部でも戦争の熱狂から一歩引いていた(ようにみせかけた)米内光政や海軍軍人などもその中に数えられる。
戦時体制形勢以前の主流派であった彼らは、戦時体制が近づくにつれ活動を制限され、ときにはパージされた。中心の一人吉田茂らは「近衛上奏文」にかかわったとして一時逮捕される。自由主義派にとって、戦時体制下ですすめられた統制経済は明治国家以来のシステムの破壊であり、「国体」を損ねたことであり、自由経済の破壊であり、ひそかに進められる「共産革命」であった。国家主導の重化学工業化は財閥にも利益をもたらしたが、生産・流通・販売の主導権を官僚らに奪われることでもあった。財閥などの枠を越えた業種ごとの一方的な合併を強いられることはこれまでの財閥による垂直的な統合に反することであり、経営の主導権を奪われることでもあった。戦時経済は伝統的な財閥の基盤も破壊しつつあった。
このように戦争・戦時経済の継続は、財閥やかれらとつながりの深い「自由主義派」にとっては「国体」の破壊に他ならなかった。「本土決戦」「一億玉砕」などもってのほかである。かれらの多くは、戦時体制以前の国際協調の時代、大正デモクラシー期こそが正統であるべき「国体」の姿であるとみなし、その段階への復帰をめざした。満州事変にはじまる中国さらには対米英戦争と軍国主義化、統制経済といった事態はあるべき「国体」からの逸脱であった。さらにいえば、知己の多いアメリカやイギリス、とくにその保守派は「話のできる『友人』」であるはずであった。
戦争が終結すれば、英米派・自由主義派と見なされ戦時体制下でパージされた幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)や吉田茂らは、逆に「(対米英)戦争に反対してきた」「米英とのチャンネルを持っている」として有利な立場を得ることになった。しかしかれらはけっして潔白ではない。吉田は一九二七年の東方会議においては対中最強硬派としてのちの満州事変につながる構想を主張していたし、鳩山一郎は統帥権干犯を声高に叫んで政党政治を破壊し文部大臣として滝川事件で思想統制をすすめた。なお、鳩山は当時発表したファシズム礼賛の書物が動かぬ証拠となり、首相就任直前に「公職追放」の憂き目を見る。
二二六事件直後、広田弘毅を首相に引き出したのは吉田であったが、西園寺に次ぐ実力者の岳父牧野伸顕(大久保利通の子息)との関係やドイツ接近に消極的と陸軍にみなされ外相就任を拒否されたことで二人の運命がかわる。首相となった広田は軍部に屈服、準戦時体制への移行において重要な役割を果たす。吉田はイギリス大使を最後に外交官を引退するが、対米開戦後も幽閉中の駐日大使グルーらと接触し、さらに近衛らとともに戦争終結をめざす運動の中心となった。近衛上奏文にも深く関わり、一時逮捕される。このことが、「戦争に反対し、戦争終結に努力した勇気ある外交官」との称号・免罪符を与えることとなり、戦後の地位が保障された。広田は戦犯として絞首刑に処され、吉田は戦後保守政治の担い手として国葬で送られる。
自由主義派にとっては「日本国国民における民主主義的傾向の復活を強化し、これを妨げるあらゆる障碍(しょうがい)は排除するべき」ととくポツダム宣言は、戦時体制以前の大正デモクラシー・政党政治期を想起され歓迎すべきものであった。かれらにとっての「国体」は、天皇機関説にもとづく天皇制国家であった。近衛上奏文では、米英以上に危険なものは総動員体制下で進められた諸政策としている。戦時体制は否定すべきであり、「一部共産分子に操られた」暴挙であった。
しかし、かれらの誤算は、やってきたアメリカ軍のめざす「民主主義的傾向の復活」が政党政治期・大正デモクラシー期への復帰にとどまらなかったことである。かれらが期待する親交の深いグルーら保守派・親日派は力を失っていた。

反動派・寄生地主にとっての国体

自由主義派とともに、戦争終結にかかわったのが④反動派である。雨宮によると、反動派は寄生地主や観念右翼、陸軍皇道派など明治の絶対主義的・権威主義的な国家体制への復帰を目指す勢力をさすとされる。その中でも、寄生地主は戦時体制の中ですすめられた自作農創出政策や食糧管理令、米穀供出体制などによって経済的基盤を脅かされ、地方名望家としての農村における政治的・社会的地位も低下、さらに国会の翼賛化によって政治的発言力も失いつつあった。かれらは単に戦時体制への反発だけでなく、小作争議や地方の民主化の動きを生み出した大正期の自由主義的潮流にも反発をもっていた。戦争がつづくことは、かれらの存立基盤をも危うくすることであった。かれらにとっての「国体」とは明治憲法に示された絶対主義的な天皇制そのものであった。近衛や吉田らは、とくに真崎甚三郎ら陸軍皇道派が東条ら統制派から陸軍の実権を掌握できるよう宮廷クーデターを画策していた。しかし皇道派(かれらと近しい関係にあった秩父宮への不信感もある)に嫌悪感を持つ天皇に拒否される。
こうした勢力は占領後、いったん占領軍によって否定される。しかし、冷戦の進行の中で、寄生地主を除いて息を吹き返し、戦後保守政治の中で一定の勢力を占め、戦前回帰をめざすような時代錯誤的な言動を繰り返す。

戦前日本の行き詰まりと戦時官僚

「聖戦遂行」という要求を実務的に引き受け、総力戦体制構築を実質的に担い、戦時体制下で急速に力を伸ばしたのが⑥戦時官僚グループである。かれらは一方では軍備拡張を強く主張する軍部に呼応し、軍部とくに陸軍などの暴力、「聖戦遂行」という大義名分、「戦争への同意」をもとめる社会的強制力を背景に、政党・地主・財閥ブルジョワジーといった旧勢力・「抵抗勢力」をおさえこみ、総力戦体制に合致した「現代国家」建設をめざした。かれらは単に戦時体制の確立というにとどまらず、地主や財閥、藩閥・政党といった勢力によって発展を妨げられていた戦前日本の社会・経済等の懸案事項を一挙に解決したい、との目的も隠し持っていた。ヒトラーらのファシズム体制やソ連の計画経済の成功がそのモデルとされた。
総力戦体制は、国民国家の理念をおしすすめることで、社会の平準化をすすめる傾向がある。一九三〇年代前半までの日本は、「講座派」マルキストが明らかにしたように寄生地主と財閥ブルジョワジーの社会支配が農村の貧困と都市の低賃金構造を規定し、工業も紡績と製糸といった分野に偏り、重化学工業の発達はおくれ、機械製造の多くは欧米に依存するという偏った経済構造であった。こうした日本の構造が国民の間の格差や貧困を生み出し、小作争議や労働争議を引き起こし、相次ぐ恐慌の被害をさらに厳しいものとした。国民としての一体化が阻害され、兵士の体格の貧弱にした。こうした事態にたいし無策とみえる政府・政党への不満がたかまり、政治不信や政情不安を引き起こした。軍部からは第一次世界大戦によって明らかにされた戦争の総力戦化をいかに構築するかとの提起もなされていた。
日本の行き詰まりを解消するためには社会経済構造に手をつけねばならないことは、いろいろな立場・場面で提起されていた。大正デモクラシーの風潮の中、マルクス主義に触れ、ソビエトの社会主義的計画経済の「成功」を知り、ヒトラーらのファシズム体制にも学んだ官僚たちは、より効率的な社会経済システム構築を総力戦時体制構築の中で追求した。彼らの多くは、台湾・朝鮮や「満州国」など議会や政党の影響力の少ない「外地」での「実験」を背景に、総動員体制づくりを本土にももちこんだ。
革新官僚の代表ともいえる岸信介は帝大在学中に北一輝(きたいっき)の「日本改造法案大綱」に感動、全文を筆写するなど強い影響を受けている。マルクス主義など社会主義思想が北一輝の国家社会主義を経由して岸にも影響を与えていた。国家改造の野心を抱いた岸は既存権力の中枢であるが組織が硬直化している内務省や大蔵省を避け、統制経済の担い手としての商工省に入省する。敗戦による経済混乱を統制経済で乗り切るドイツに強い感銘を受け、計画経済の導入計画をすすめる。「満州国」政府にうつり陸軍や右翼勢力との結びつきを背景に計画経済の実験を進める。その経験と人脈をもとに内地に戻り戦時体制の構築をすすめる。

「聖戦遂行」=戦時体制下の日本社会

総力戦体制は、軍事目的達成のため限られた資源・労働力・設備などをより有効活用しようとして、非効率な生産様式・生産関係を解体し、より効率的なものに再構築する。紡績など軽工業の多くは不要不急の産業とされ、国家の援助軍需産業・製鉄・機械など重化学工業への移行される。企業や銀行は、ときには財閥の壁を越えて合併を命じられる。巨大企業が生まれ、その運営のイニシアチブは財閥から官僚に移されていく。

軽工業や自営業の勤労者は徴用され重化学工業での労働を余儀なくされる。他業種の熟練の職人も、勤労動員の生徒・女学生・女子挺身隊たちとともに慣れない単純作業に従事させられる。彼らに与えられる賃金では家族を養うことができないことから、能力給よりも生活給が導入される。高給取りの職員と一般工員の賃金の差も平準化し、産業報国会の中、「聖戦遂行」の仲間となる。
 食糧確保の必要は、直接生産を行う自作・小作人からの米穀などの購入というシステムを産み出し、補助金もだすことで、かれらの収入を増加させ、土地への権利も拡大させる。そのことはこれまで農村を支配してきた地主らの影響力を低下させる。
食糧不足からくる体格の貧弱化と病気の蔓延(まんえん)は健康保険などの福利厚生の必要性を増す。銃後を守る家族ための年金制度が設計される。女性たちは社会の各分野に進出、その地位を向上させた。
このように戦時体制は社会の中の階級的階層的な格差を平準化する傾向を持っていた。しかし、それは「聖戦遂行」という至上命令から導き出されたものであり、戦局が困難になるにつれて、とくに福祉国家的政策は実施困難となる。だからこそ、より強力な政策が求められる要因ともなる。
きびしい戦局は、戦時経済の破綻、国民生活の崩壊、国民の不満の高まりといった事態を招き、戦争の継続が不可能であることを明白としてきた。戦時官僚の代表岸信介は、早い段階での米英戦争終結を望んでいたといい、実際その離反が東条内閣の崩壊に結びついたように、戦時官僚らもしだいに戦時体制から離反していく。戦時官僚にとっての「国体護持」とは日本の国家のシステムを動かす権限を戦争終了後にもひきつづき維持することであった。彼らの悪夢は本土決戦が実施され、国土と産業が破壊され、米軍の直接占領下に置かれ、権限が失われることであった。

戦時体制下の変革と社会「ファシズム」運動

戦時体制=総力戦体制構築は、戦前の日本を支配してきた寄生地主や財閥の力を弱体化させ、社会秩序を変化させるものであった。そこでなされる諸政策は、戦前の社会において、財閥や寄生地主、前近代的な文化や思想と争ってきたさまざまな社会運動の要求に「結果」として合致する側面をもっていた。

治安維持法などで多くの社会運動が弾圧、転向を余儀なくされる中、社会主義運動、農民運動や労働運動などさまざまな社会運動家などは、総力戦体制に協力することで、自らの要求を貫徹しようという傾向をすすめ、社会ファシズム化を強めるものもあらわれた。社会主義の実現を戦時体制の中に見いだそうとして勢力もいる。雨宮のいう「(2)社会国民主義派」⑦である。彼らの一部は戦時官僚やそのブレインとして、あるいは産業報国会や農村改良運動などの担い手として戦時体制を支えた。近衛らが、戦時体制の進行に恐れを抱き戦時官僚に共産主義の影を見たことは、まんざら誤解とはいえない。実際に近衛のブレイン「昭和研究会」に結集した官僚・知識人が「赤化分子」として検挙されもした。戦時体制推進の「美名」のもとにすすめられる変革が日本社会に不可逆的な影響を与えることを嫌ったからこそ、近衛や吉田らは、これ以上戦争が続くことを嫌ったといえる。
総力戦体制の下ですすんだ諸改革の多くは中小農民や労働者の地位を拡大させ、企業従業員の地位向上につながる面をもっていたが、あくまでも戦争遂行が第一目的であり、戦局の深刻さの中、未完成のまま放置されることになる。
戦争終結によってこうした変化は戦前に引き戻されうるものであった。これにたいし、戦時官僚と結び、その中に埋没していた社会国民主義派は戦時体制下ですすんだ平準化・福祉国家的諸改革を平和の中で再定義し、進展させることを求めた。こうして、敗戦前後から、再び「社会主義者」など社会運動家が活動を再開する。
戦争や敗戦への思いは、一般国民の思いと重なる面が強い。かれらにとっての課題は、戦前の社会運動の再開と戦時期に獲得された有利な条件の確保であり、戦争終結にともなう「反動化」の阻止であった。

それぞれの「国体護持」

以上のように、戦争末期において、「国体護持」はそれぞれの勢力によって狙いを異にしていた。

「家元」としての天皇家・天皇制を守ろうという裕仁天皇や近衛ら公家系の華族ら。彼らは敗戦によって天皇制という制度廃止、共和制の導入という事態を避けることに主眼が置かれており、とくに近衛にとっては裕仁天皇個人を犠牲にすることもやぶさかでなかった。明治憲法やそれによって定義づけられた「絶対主義的な天皇制」の維持は第二義的な課題であった。
維新政府・「五箇条の誓文」にはじまり、明治憲法によって定義づけられた戦前の国家体制を「国体」の実態と意識していたものもいた。その維持をはかったのが英米派・自由主義派と反動派である。前者は政党政治期の日本のあり方を正統と見なし、戦時体制はあるべき「国体」からの逸脱と見なしていたし、後者は大正デモクラシー以前の絶対主義的なあり方への回帰をめざしていた。軍部の専横と戦時体制は「がん細胞」であり、「国体」に反するものであった。それを切除すればよいと考えていた。それが、明治維新にはじまり、明治憲法に基礎づけられた戦前の社会・国家のあり方を栄養素として成長したものであるとの意識は薄弱であった。敗勢がつづく中、裕仁天皇や側近が親近感を持つかれらがしだいに政府内の多数を占めるようになっていた。
それにたいし、軍部と結び「聖戦遂行」という目標の下、総力戦体制構築をめざした戦時官僚らは、天皇制維持以上に、戦争終結以後も自らの権限を保持することに尽力した。それが「日本の将来」のためとの自覚もあれば、行き詰まりを見せていた戦前の社会・国家のあり方を変革しようとした戦時体制下の改革=「現代国家」化をひきつぐことであったし、セクショナリズムからくる権限の保持・拡大という官僚のDNAからくるものでもあった。
戦時官僚らと結び、戦争に協力しつつ「社会民主主義的」要求実現をめざした勢力(社会国民主義派)も戦争終結にともなう反動化、財閥ブルジョワと地主勢力の復活との対応が課題であり、そのためにも、戦時体制で逼塞を余儀なくされた大衆運動の再開を課題としていた。
戦争責任の多くを負わされることが明らかであったのが陸軍である。したがって、彼らは保身のために「国体護持」に三条件を加えた四条件を強くもとめた。そのことが不可能であることが明らかであるにもかかわらず、彼らが持つ圧倒的な暴力が戦争を長引かせ、膨大な犠牲者を産み出した。しかし、かれらが暴力により抑圧をすすめても孤立、主張は空虚となった。和平派は海軍内にも広がっていた。海軍は米軍に接近することで生き残ろうとする。

「国体護持」とポツダム宣言受諾

戦争終結に際して最大の争点となったのは「国体護持」であった。「国体」は「天皇をやめさせない、やめさせられても天皇制は残したい」程度の共通認識をもとに、それぞれが自分に都合がよいように理解していた。近衛上奏文提出時は「敵に一撃を与えて有利な条件で講和する」として「和平四条件」をめざした天皇も、沖縄戦敗北によって「国体護持」のみをめざす「和平一条件」の立場を明確化、早期終戦、本土決戦回避という動きをひそかに形成した。問題は四条件に固執する陸軍をいかに説得するかであった。「戦争はやめたいが、陸軍は納得しない」ということである。敗戦にともなう混乱と自分たちが戦争犯罪者として指弾される恐怖もあった。
こうした中、一九四五年七月に発せられたのがポツダム宣言である。そのなかの「日本国国民が自由に表明した意思による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める」との一文をどうみるのか、政府内でも動揺が見られた。しかし鈴木首相が不用意に発した「黙殺あるのみ」ということばが世界中に報道されると、アメリカは二度の原爆投下を行い、ソ連も参戦する。
これにより、和平派が裕仁天皇とともに「決起」、八月十日の御前会議で鈴木らは天皇の「聖断」を引き出すことでポツダム宣言受諾を受け入れるに成功する。ただし「天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラサルコトノ了解ノ下ニ受諾ス」との条件つきで。
しかし、連合国の回答は「日本国の最終的の政治形態は『ポツダム宣言』にしたがい、日本国国民が自由に表明した意思により決定されるべきである」と「国体護持」の明言を避けていた。しかし、戦争終結に動く流れの中、アメリカ側の新聞など様々なチャンネルを通して示される情報をアメリカ側が「国体護持」を容認したとの示唆とうけとめ、和平派は「国体護持」が実現したと強弁、再度の「聖断」で陸軍などの反対を押し切り、宣言の正式受諾と戦争終結を決定した。
そして八月十五日、ラジオ放送(「玉音放送」)を通じて示された降伏詔書には「国体を護持し得て」との文言が加えられていた。

※第二部「(2)アメリカの占領政策と日本の諸政策」ここから

<参考文献>

雨宮昭一『戦時戦後体制論』(岩波書店1997)
    『占領と改革』(岩波新書2008)
原武史『昭和天皇』(岩波新書2008)
   『「昭和天皇実録」を読む』(岩波新書2015)
山之内靖他編『総力戦と現代化』(柏書房1995)
山之内靖『総力戦体制』(筑摩書房2015)
ジョン=ダワー『吉田茂とその時代(上・下)』大窪訳(TBSブリタニカ1981)
   『昭和ー戦争と平和の日本』(みすず書房2010年)
原彬久『吉田茂』(岩波新書2005)
   『岸信介』(岩波新書1995年)
野口悠紀雄『一九四〇年体制論』(東洋経済新報社1995)
吉田裕『アジア・太平洋戦争』(岩波新書2007)
   『昭和天皇の終戦史』(岩波新書1992)
吉田裕他編『アジア太平洋戦争2戦争の政治学』(岩波書店2005)
吉田裕他編『岩波講座日本歴史18近現代4』(岩波書店2015)
タカシ・フジタニ「ライシャワー元米国大使の傀儡天皇制構想」(『世界』2000年3月)

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