明治維新と日本の近代化~大学時代に考えたこと

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明治維新と日本の近代化~大学時代に考えたこと~

自生的な近代化と国際的契機について

大学時代、幕末・維新期を中心に学んだ。一九七〇年代中後期のことである。ソ連をモデルとする社会主義像が信頼を完全に失い、文革後期の中国もニクソン訪中をきっかけに評判をおとしていた。ソ連の問題点は気づき嫌ってはいたが、文革にはまだ幻想をもっていた。
講座派マルクス主義歴史学が勢力を持ち続けてはいたが、しだいに単型発展論は力を失い、多元的な発展論、さらには世界史規模で近代を捉える方法論が力を増していた。ウォーラーステインはまだあまり知られていなかったが、A・G・フランクやS・アミンといった従属理論も話題に上っていた。芝原拓自の歴研報告「明治維新の国際的契機」以降、明治維新においても国際的契機を重視する動きが高まっていた。この論文は、芝原の「所有と生産様式の歴史理論」とともに世界史を全体として捉える視座をあたえてくれ、安丸良夫の「日本近代化と民衆思想」とともに私の大学時代のバイブルとなった。
「近代化」については、単型発展論的な唯物史観に立脚したドッブ=大塚久雄の影響も残り、その基準から近代と明治維新をみる傾向は残っていた。その内容は重要ではあるものの、国際的契機を重視する芝原の考えが重要だと感じた。しかし、国際的環境のみによって明治維新を説明しようという方法は納得できなかった。両者のかかわりをどう考えるかが重要だと思った。
日本においても資本主義的な自生的な発展があった以上、マックスウェーバーが示した「資本主義の精神」としてのプロテスタンティズムのような思想が広範に形成されつつあるのではないかと考え、安丸良夫による「通俗道徳論」は日本の中に自生的な近代化をみるものである以上、納得のいくものであった。とくに60年代後半の学園紛争が沈静された「遅れてきた世代」として「変革主体を生活者としての民衆の中に見いださねばならない」という思いが、安丸の民衆思想論に深い共感を持たせた。変革は外から起こるのではなく、民衆の中、とくにその生活の中から生まれるのでなければならないと考えたのである。

明治維新における国内的要因と国際的要因

卒業論文では、創始期において自生的な近代化をめざすプロテスタンティズム的要素を持つ民衆思想の典型として金光教を扱った。ただ、それがヨーロッパのような宗教改革の形をとらず、創始宗教の形をとらざる得ない点に近世日本の宗教環境を考える必要もあると考えたが。
日本では、自生的な近代化は完成しなかった。考えてみれば、どこの国でも、資本主義の祖国イギリスでさえも、自生的な近代化はあり得ず、それは「理念型」としてしかあり得なかった。
実際の歴史過程では、自生的な発展の流れのうえに、国際的環境(イギリスにおいては奴隷貿易を基礎とした三角貿易)が作用することで資本主義化がすすむのが実際の姿であり、旧来の経済・社会・思想そして政治のあり方と争いを繰り返しながらすすんでいくのが「近代化」するのが本来のあり方である。
歴史的・伝統的諸資源に規定されつつ伸長していく生産力が生産様式、さらには生産諸関係を変化させていくという内的・自生的な近代化(これ自身、「理念型」でしかないと思うが)と、世界資本主義と主権国家体制への包摂、その時期や地政学的諸関係という国際環境との双方の働き、さらにそれに対応すべき主体の形成と「戦略」などによって、各国の「近代化」の性格が規定される。
このことは日本の「近代化」においても変わらない。しかし、日本においては自生的発展と、当時の国際的環境の間に大きな隔たりがあった。その差をうめるため、明治政府は主に下級領主階級(武士)出身者を中心とする強力な執行権力に独裁な権力を集中させ、「欧米型の近代化」を「上から」選択的に移植した。こうして「自発的な発展」をまつことなく十九世紀後半の最新の資本主義と近代国家のシステムを強引に導入しようとした。
こうした階級的基盤の不十分さは、天皇という古代的な権威の信任にもとづく開発独裁的政府が代位することとなった。そのことは、日本の近代化に、多く前近代的な要素と、それを利用したり誇張することで新たに創出さられた「伝統」を持ち込むこととなった。
しかし、十九世紀中期・幕末期の日本資本主義の自生的発展は、「国民経済」の最適な規模であったこともあいまって、欧米諸国以外では特筆すべきものであったことも事実だと思われる。開港と同時に急速な発展を遂げたのも、製糸業のように欧米諸国の需要をわずかな期間でまかないうる生産力基盤を準備していたし、開港と同時に横浜に全国から商品が集まり、拡散できるだけの流通網も整備されていた。インドで行われた鉄道の整備も、中国での戦争による開港場増加の必要性も少なかった。日本においては、自由経済の諸原則に任せれば、最低限の欧米資本主義の要求には対処できたのである。日本の近代化においても産業・経済の自生的発達が大きな役割を果たしていた。
文化においても、十九世紀「読み書き算」という技術は身分・階層を超えて「国民的広がり」をみせていた。仕事に全力をつくせば「成功」できるという通俗道徳によるインセンティブもあり、庶民教育は急速に整備され識字率も急速に伸びていた。
また、十八世紀末以来の国際関係の緊張は、一方では小中華的な「尊王攘夷」思想を生み出したが、他方で蘭学の発展とあいまって国際感覚豊かな知識人を広範に生み出し、双方とも身分を超えた受容層を産み出していた。こうした基盤を背景に、日本的な近代化がすすめられたと考えることもできる。

ブルジョワ民主主義革命という考え方

明治維新をどう捉えるべきか、いずれの考え方も納得できなかった。つきつめていうと、マルクス主義史学が当然の前提としていたブルジョワ革命が民主主義を実現するという「ブルジョワ民主主義革命」というモデルを納得できなかったためだ。単型発展論というか、基底還元論という時代がかった論の立て方に疑問があった。明治維新をブルジョワ民主主義革命とする労農派的な評価は納得できなかったが、明治政府は天皇制的絶対主義的であり、絶対主義だから土台も半封建制であるという議論も変だと思った。そもそも、「資本主義化がすすめば民主主義化がすすむ」という「予定調和論」的な考え方自体が、一九七〇年代、GNP世界第二位の工業国で生きている自分たちを納得させなかった。
一九七五年頃になっても日本は、丸山真男や大塚がめざしていたような欧米的な近代にはなっていなかった。(丸山らへの誤解があったことも事実であるが。)逆に、家族的会社経営などの前近代的な経営思想や民主主義化の不十分さこそが、日本をGNP世界第二位に押し上げたのではないかという意識があった。(こうした考えは約十年後「ジャパン=アズ=ナンバーワン」などとして賞賛されるようになる)
資本主義と民主主義は矛盾するし、公害反対運動に見られるように民主主義が資本主義の暴力的な進行に「まった」をかけることができる。資本主義と民主主義という近代の二つの思想は互いに矛盾し、対立しつつ、影響し合って「近代」を発展させると考えた方が妥当ではないかとも思った。
そもそも、民主主義を「ブルジョワ民主主義」と「真の民主主義」と分けるいい方にも納得ができなかった。資本主義化のため、なぜ・どの程度の民主主義が必要なのか、もう少し丁寧な議論が必要と考えた。
とりあえず、明治維新をブルジョワ革命と考えるか、それとも封建制の絶対主義的改変と考えるかなど、こうした規定はあまり生産的でないと考え、自分の中で保留することにした。現在でいえば、丸山のいう「永久革命としての民主主義」という考えに最も共感できる。
なお、当時、もっとも納得できた明治政府の規定が、「明治政府は、戦後の東南アジアなどに多く見られる開発独裁政権のようなもの」という山崎隆三の論であった。授業の中で先生がいわれたこの規定は非常に納得ができた。
卒業論文で扱ったのは、「自生的・ブルジョワ的近代」の性格を萌芽としてもっていた金光教が、「欧米的近代化」と「天皇制下における近代化」が融合した「文明開化」、さらに確立していく天皇制国家の中で、どのように変形させられていったかについて研究することで、日本の民衆にとっての「日本の近代」を考えようとした。
その後、就職をし、約四〇年間、主に世界史を、サブとして日本史などを教える日々を送った。世界や日本の歴史を全体として捉える提示する授業は、生活者、教師、教育労働者として生きる日々の中で学んだこととともに、さまざまな発見をした。
幕末・維新史においても、大学で学んだ内容をもとに、わかりやすく整理しながら、さらに近代日本の方向性を示すような授業を行ったつもりである。しかしその政治過程をきっちりと教えきったとはいえない。

高校教師を退職して

二〇一六年、定年で高校教育から完全に手を引いた。大学の研究生・聴講生として学びながら、高校で教えていた内容をまとめることをはじめた。四〇年という長い時間が経ったなかで、歴史学は精緻とはなっていたが、かつて私が興味をもっていた内容については、追いつけないと実感させるような変化ではなかった。この間の歴史学の変化が、全体像を語るよりも、個別の論点を深める方向で進んだからであろう。
大きな変化を感じた面もある。薩長史観ともいうべき尊王攘夷派→倒幕派→維新官僚という予定調和的な流れが通用しないこと、列藩同盟=公議政体論の持つ意味の深さ、大久保・木戸ら薩長の指導者ら自身もこれといったビジョンを持たず暗中模索の中で明治政権を作り出してきたことなどである。

もう一つは正統派マルクス主義の衰退を背景に、単型発展論にもとづく史的唯物論が崩壊し、ウォーラーステインや柄谷行人に代表される世界史の構造の中で歴史を位置づける方法論の広がりであった。さらに、東アジアを「帝国」=華夷秩序の枠組みの中で近世日本を位置づけ、さらに開国・開港を主権国家体制へ組み込み、「主権国家」「国民国家」の原理を強要されるという図式が定着、日本近代史を位置づけるようになっていた。
ここでは、四〇年前に学び考えた内容を、現在の新たな知見と現在の歴史学の成果を自分なりに学び、整理したいと考え、日本近代史のおおまかなスケッチをまとめたいとおもう。

※「日本近代史をどう捉えるか、そのスケッチとして」のまえがきとして記したものですが、あまりにたいそうなのと、まえがきが二つあるのはおかしいと思い、別個に独立させました。

 

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