朝鮮近代史を学ぶ(5)
Contents
甲午・乙未改革と開化派の敗北
李朝末期、朝鮮における二つの課題
朝鮮末期、朝鮮王国には二つの大きな課題があった。
ひとつは朝鮮王朝の宿弊を除去する課題である。「反封建」という言い方がなされてきた。開化派グループなどにとっては「欧米化」あるいは「文明化」という形をとり、東学などから見れば苛斂誅求を強いる支配体制の変革や身分制からの解放という形となる。一般的には「近代化」としてくくられ、前者は「上からの近代化」、後者は「下からの近代化」ということばで示される。旧来のマルクス主義史学風に、改革派と革命派と分類したいところだが、ことはそれほど単純ではない。
二つ目の課題は、「世界=経済」の脅威に対し民族的自立を守るというナショナルな課題である。この課題は日本を含む多くの非欧米諸国と共通する。伝統的な言い方をすれば「民族的抵抗」となる。
「世界=経済」は、経済的従属と欧米文明の優位性の承認をもとめ、さらにヨーロッパ起源の主権国家体制(=「国境できっちりと区切られた領土をもち、その中ではほかの国に口出しされることなく独占的に統治を行う国家であり、それぞれの国同士は互いに平等である」という世界のあり方)の受容を強要する
李朝末期の諸課題と近代化運動
李朝末期、朝鮮の社会にはさまざまな矛盾が山積していた。
現実の課題と乖離した科挙による官吏登用と朱子学的な形式主義の広がり、王后一族による勢道政治、身分制とくに未亡人や庶子などへの差別、白丁とよばれる被差別民の存在、近代的教育機関の未発達、縁坐制などにみられる遅れた司法制度、科学技術など実学の軽視、さらには勤労への軽視など、こうしたさまざまな矛盾が東学農民戦争を引き起こし、各国の介入を招く原因となっていた。隣国の日本さらには清も急速に「近代化」をすすめている19世紀末期、こうした遅れは致命的であった。
さらに、大院君政府の政財政改革の挫折以来の財政破綻もあった。これにたいし売位売官が横行し、これによって官位を得た地方官は費用回収のため、さらに民衆収奪をすすめた。こうした地方官のありかたは儒教国家の根源である「撫恤」=再分配の機能を破壊していった。さらに軍備増強やつまみ食い的な「開化」政策、壬午・甲申事変などの賠償金などが財政困難をさらに深刻にした。李朝末期の社会は、政治・経済・社会・財政などあらゆる面で、根本的な改革を必要としていた。
こうした状態にもかかわらず、こうした矛盾を解決しようという動きはまだ弱く、改革を進める主体は未成熟のままであった。こうした所にこそ最大の問題があったともいえる。
これにたいし、欧米や日本さらには清朝との遅れを自覚する開化派はこの段階でも、いまだに一握りの知識人・官僚にすぎず、民衆とのむすびつきも薄かった。こうした事情から、彼らは、甲申事変にみられるクーデター、国王の権威への依存、あるいは外国勢力への依存といった手段をとらざるを得なかった。
朝鮮王朝末期の矛盾は民衆の間から東学という反封建運動を生み出した。東学は、没落両班などによって理論化され、同時代の民衆運動のなかでもすすんだ内容であったが、神秘主義的傾向と伝統的な朱子学の枠組みは国王幻想を強める結果ともなり、成立当初に存在した「易姓革命」志向は弱まっていた。
幕末の日本では、社会の矛盾を背景に、国政を中心的に運営する幕府打倒をめざす擬似「革命」的な運動がすすんだと比較して、朝鮮では王政=国王の支配を廃絶しようという「革命」的な運動は少なくとも表面化しなかった。立憲君主政への移行がもっとも現実的であったかもしれないが、高宗(夫妻)の権力への固執や、日本の強引な介入がさらなる混迷を招くことになる。
「王政」廃止は結局日本の植民地化によって実現する。そして、高宗の死去をもきっかけとした1919年の三一運動を最後に、憑きものが落ちたかのように王政の存在感は低下した。
ナショナリズム運動としての衛正斥邪派と東学
この時期のナショナリズムの中心となったのは衛正斥邪派であり、今ひとつはやはり東学であった。前者は開国にもとづく秩序破壊に恐怖を感じる保守層を、後者は日本などの経済進出によって生活と生産に強い脅威を感じた民衆などを背景にしていた。
衛正斥邪派は伝統的な「小中華」的な朱子学の枠組みに依拠しており、東学もこの枠組みの影響下にあった。
日本にしても、朝鮮にしても、「世界=経済」によって触発された危機意識は儒教的名分論(「国学」もこの影響下にある)をもととした攘夷論を生み出した。しかし日本での攘夷論(「尊王攘夷」論)は、「世界=経済」への危機感を民族統一の実現と条約改正(=主権国家体制のレギュラー入り)という国家的課題へと昇華させ、その課題に対応できない幕府を打倒し幕藩制を否定、近代的中央集権国家を実現した。民族的危機を国家統一と近代化という課題に結合し、幕府を打倒するという疑似「革命」を実現した。
これにたいし、朝鮮における攘夷論である衛正斥邪思想は、原田環が指摘するように「対外的危機に際して朝鮮王朝の支配体制を固守し、国内外の情勢の変化に即応する一切の変革を拒否するもの」であり「抵抗の思想ではあったが変革の思想ではなかった」(平凡社86)近代化の課題と民族独立の課題は、別ものとして扱われた。さらには金弘集がもちかえった「朝鮮策略」への対応や、壬午軍乱にみられるように、多くの場合二つの課題は対立・衝突した。
また尊王攘夷論が支配階級としての武士にとどまらず村落指導層、豪農・豪商といった旧来の社会秩序に飽き足らない被支配身分の上層部をもまきこみ、そのエネルギーを組み込むことで「国民」的広がりを得たのに対し、衛正斥邪思想は両班地主・知識人層という旧来の支配層を主たる基盤としており、開港によって傷つけられた民衆との結びつきも弱く、別ものとして展開された。
幕末期の日本との比較にかかわって
しかし、日朝の違いを発展段階の違いなどに単純化すべきではない。国王の下に中央集権的な政治構造であった朝鮮と、天皇・将軍を頂点に大名領等の小独立国家が分立するという多元的な政治構造をとっていた日本、幕府にかわる天皇という対案があった日本と対案を得にくかった朝鮮、国家イデオロギーとして定着し教条化・形式化がすすんだ朝鮮・朱子学と武士などの教養の一つにすぎなくさらに革新が進んだ日本・朱子学、兵農分離によって「百姓」の自治組織としての村落が確立していた日本と在村両班地主による地方支配が行われた朝鮮の違い、様々な要素をていねいに見ていく必要がある。
民族独立の課題となれば、朝鮮の置かれた位置は日本よりもさらに複雑である。
日本の主権国家体制への接合の特徴
近世東アジア世界において日本は独特の地位にあった。他の東アジア諸国が清を頂点とする華夷体制の枠内にあったのに対し、日本は枠外にあった。そのため欧米諸国中心の主権国家体制という枠組みへの移行は比較的容易であった。
こうした地位を可能にしたのは、島国という地理的条件であり、「倭寇」や秀吉の朝鮮侵略という歴史的記憶であった。また科挙にもとづく文治主義をとらず、「武威」の国という異なる国家原理の上に立っていたことも大きい。
こうして東アジア法文明圏の引力圏にありつつ、日本は清帝国とは正式な国交なしに経済的関係のみを持つという「互市」という「通商」関係にあり、また朝鮮とは「結果的に対等な」交隣関係をもっていた。
さらに日本を「世界=経済」と接合させ、「主権国家体制」に組みいれたのはアメリカさらにヨーロッパ諸国という東アジア外の勢力であった。これによって「世界=経済」との対決・対応は欧米諸国(「世界=経済」)との関係となり、隣国への配慮なしに国内のみで処理できた。(逆に、隣国へは大きな迷惑をかけるが)
朝鮮の「民族の自立」をめぐる複雑な事情
それに比べ朝鮮における「世界=経済」との対決・対応という課題ははるかに複雑である。
まず朝鮮に「世界=経済」への接合と「主権国家体制」の導入を強要したのが欧米列強でなく隣国・日本であった。
江華島条約をきっかけに、地理的な近さは、日本人による強引で粗雑な侵入を可能にし、米穀をはじめとする朝鮮の財をもちだし、さらに流通を作り替えた。
日本はかつて無法にも自国を侵略し荒廃させた張本人であり、200年以上警戒をおこならなかった隣国である。国内には朝鮮を「目下」「従属国」とみなす傾向もあり、さらに開国以後の「欧米化」は朝鮮を「遅れた国」とみなす優越感を生み出している危険な存在であった。
とはいえ、朝鮮の開明的な知識人にとって、日本がアジアでもっとも「文明化」に成功しているように見えたのも事実である。さらに日本と朝鮮は「宗属関係」のない「対等」な交隣関係にあった。文明開化が進む日本をどのように評価するか、朝鮮内部で意見対立が生まれる。
朝鮮は清の服属国である。宗主国(「大国」)につかえる「小国」として「事大関係」にある。かりに朝鮮が完全な独立国として主権国家体制の一角を占めようとすれば、清との宗属関係を清算する必要があった。しかし、清にとっても朝鮮は地政学上重要な場所にあり、その廃絶は困難であった。
したがって宗属関係を清算するためには軍事力の強化か、いずれかの国家の援助が必要であった。こうした援助に積極的であったのが日本である。主権国家(=「大国」)をめざす金玉均ら急進開化派(「独立党」)は日本に期待した。これにたいし、「小国」「服属国」であることを甘受しつつ近代化を図ろうとした金弘集ら穏健開化派(「事大党」)は洋務運動をすすめつつある宗主国・清に期待した。
しかし洋務運動は古い政治体制を維持しつつ「近代化」をはかろうとする不徹底さをもっていた。さらに清が「近代化」をめざすことは主権国家体制の原理を部分的にせよ受容することを意味していた。こうして清は朝鮮との関係の再定義を始める。清が派遣した袁世凱はこうした変化を体現していた。袁は、欧米が保護国に対する対応を、皇帝代理という伝統的な形式で朝鮮に持ち込んだ。こうした宗属関係の一方的な変更は朝鮮側の反発を招き、国王はロシアに期待し、親清派であった穏健開化派は日本へ期待するようになる。
清の強圧的態度が、第三国を朝鮮に引き込むことになる。高宗はドイツ人顧問メレンドルフと相談し強大な隣国ロシアへの接近をはかり、保護国となることをロシアに依頼する。
政府にも諮らず秘密裡にすすめるという国王の稚拙なやり方は、日清両国の強い反発を買う。清は朝鮮への介入を強化し、日本は国王への強い不信感を抱くようになる。さらにロシアを最大のライバルと考えていたイギリスも反発する。イギリスは朝鮮へのロシアの基地獲得に先んじるかたちで、朝鮮海峡の巨文島を占拠する。こうして国際関係はさらに複雑化し、朝鮮は窮地に追い込まれる。
朝鮮中立化論について
こうした困難な国際環境に置かれていた朝鮮のもっとも有効な対応策は列強間の勢力均衡を利用した「永世中立国」化であったのかもしれない。
しかし、朝鮮の中立化構想の多くは、朝鮮での劣勢におかれた諸国が勢力拡大や勢力均衡の手段として持ち出されることが多く、朝鮮側の意向を無視して検討される事が多かった。
最も早い例は、1882年日清米英独の五カ国の保護による中立国化を提起した井上毅の意見書である。井上は中立化によってロシアの影響力浸透を防ぎさらに清との宗属関係を形骸化しようとした。お雇外国人のボアソナードもスイスやベルギーをモデルに、日清露などの認定による「永世中立案」を提案、各国に国際会議開催の打診を行なう。実際、日清間で協議も行われる。
朝鮮側からは、外交顧問のメレンドルフが、露清日の共同保障による中立化、つづいて英露日の共同保護といった案をだし、各国に働きかけている。(しかし、高宗とメレンドルフが最終的に選択したのはロシアによる朝鮮の保護国化である。)
駐朝ドイツ副領事のブドラーは先のメレンドルフの構想を発展させ「スイスをモデルに朝鮮をロシア・清・日本の要衝地帯とみて、三国間の条約締結によって朝鮮を永久に保護すること」を朝鮮、および日・清両国およびイギリスに呼びかけた。日本は肯定的であったが、清・英は否定的であり、朝鮮の外交を担当していた金允植は「朝鮮を取り巻く状況は明るい」と事実上拒否した。なお、イギリスの駐清公使パークス自身は日清両国による保護を望んでいたとされる。(長谷川12)
さらに日米の留学体験を持つ愈吉濬は、1885年『中立論』で清の属邦であることを認めた上で清英日仏露との条約による朝鮮の中立化をめざす案をだし、日本亡命中の金玉均も中立化を提案する。ブドラーの案をいったん斥けた穏健開化派の金允植も巨文島事件をうけて朝鮮の中立化をドイツに打診する。
長谷川はこうして金允植の変化を「帝国主義体制の矛盾の焦点となりつつある朝鮮の現実を前に、儒者の立場から国際法を肯定し信義を重んじつつ伝統的な東アジア秩序を前提とすることにとどまらず、西欧において『小国』の自立の方法と見なされていた中立の概念を取り入れ、伝統と融合させたうえで朝鮮の独立維持を図ろうとしたことを意味するものであったと考えられる。」と主権国家体制に依拠した永世中立国への動きと評価する。しかし、こうした議論はすすまなかった。
タイの改革と朝鮮の中立論の弱点
中立化は、該当国家の改革による国力の充実を背景とする。この点では東南アジアで独立を維持したタイの改革が参考になる。
東南アジアのタイは英仏の勢力圏の緩衝地帯にあるという国際関係を利用する形で独立を保った。国際的緊張という意味では朝鮮はさらに複雑であり、日本が中立化を提起したように、こうした緊張を利用する機会もあったと思われる。
しかしタイが国際対立を独立維持に利用したのに対し、朝鮮では植民地化を引き寄せる。タイが独立を保つ背景には、高宗や明治天皇より1歳年少のチュラロンコン王が主導した改革の存在があるともいえる。
15歳で即位したかれは近隣諸国を視察、その経験をもとに、20歳で二度目の即位式を実施してのちは強いイニシアチブを発揮、欧米諸国などにも学んだ幅広い分野にわたる改革にとりくんだ。これによって国王の権力基盤は強化され、身分制度と中間的権力で分断されていた国民は「新たに設置された地方行政機構を通じて国家に直接把握」され、「一律的な人頭税の支払いと、徴兵義務を果たす存在へと変」えられた。「国民化」の方向がすすんだともいえる。こうしてタイは「国王を頂点とした領域的な『王国』」を形成された。
このような財政、司法、中央・地方行政制度、教育など幅広い分野で国際社会に通用する国づくりをすすめる姿勢と結果としてもたらされた国力の増強が、植民地化を免れた今ひとつの要因となった。(小泉1995)
これにたいし、朝鮮は、元来国王の権力が強く中央集権化のシステムがあったにもかかわらず、それを生かすことができなかった。地方には両班地主の勢力が維持され、中央・地方官僚の中間略取が当然視されていた。財政困難が恒常化するなか、そのつけは民衆に転嫁され矛盾をさらに深刻化し、国家の統一と近代化の方向の足かせとなった。
非生産的で不毛な政争と朱子学の形式主義の伝統から脱却できない官僚組織は改革に消極的でありつづけた。こうした内政改革の遅れは、その弱体が清やロシアの影響力拡大に利用されることを恐れる日本を苛立たせた。朝鮮の改革の遅れは、関係国による「中立」という名の共同保護を引き込む可能性を強めていった。
そして改革を先延ばしにしたまま、妥協を繰り返していく。
甲午改革~「開化派」政権の成立
話を1894年7月にもどす。
7月23日、日本による内政改革の要求を朝鮮政府が拒絶すると、日本軍は景福宮を占領、高宗の身柄を拘束し、閔氏政権が追われ大院君を摂政とする親日派政権を樹立させる。(「7月23日戦争」)そして、その政府からの要請を受けたと称して清への攻撃を開始、日清戦争がはじまる。
この「7月23日戦争」自体は朝鮮の主権を踏みにじる暴挙であった。さらに日清戦争が始まると、日本軍は朝鮮の地で戦闘を開始、大地は荒らされ、食料などの物資などが徴発され、人びとは軍夫や工夫などとして徴用され、民衆は困難を強いられる。
「7月23日戦争」は新たな事態を生み出した。強圧的な介入をつづけた清が漢城を去り、閔氏政権も力を失う。そして漢城に軍を置く日本は政府に内政改革を要求する。
開化派にとっては「上からの近代化」を推し進める絶好のチャンスが到来したともいえる。かれらは「民族的な危機」には目をふさぎ、「政治・社会の革新」を実現すべく日本に協力する。
7月23日戦争の結果、大院君が摂政に任命されたが、閔妃の廃妃は拒絶され、衛正斥邪的な姿勢は政府内で浮いた状態となる。
事件直後の7月27日、政府の首班・領議政(8月5日には総理大臣)に任命されたのは穏健開化派の金弘集であった。
そして改革をすすめる中心として設立されたのが軍国機務処である。ここには金弘集・魚允中・金允植ら穏健改革派、「新開化派」の愈吉濬・尹致昊ら在朝の開化派がほぼ網羅された。(森山87)こうして「朝鮮王朝初の本格的な『開化派』政権が誕生」し、甲午改革といわれる改革がはじまった。(木村)
改革すべきとされた内容は政治・財政・経済・司法・教育・社会など多岐にわたる。それほどまでに課題が山積していたともいえる。
これ以後、開化派による改革は、日清戦争・三国干渉・閔妃殺害事件といった出来事をはさみつつ続き甲午・乙未改革とよばれる。
この改革は1895年の高宗のロシア公使館への亡命(露館播遷)による開化派政権崩壊で挫折するが、科挙の廃止、身分制度や賤民身分の廃止、司法制度など近代化の出発点をなしたと評価され、官僚制の改革などは開化派政権の崩壊後もつづき、土地制度改革などは高宗による光武改革を経て植民地下での土地調査事業へとつながっていく。(森山92)朝鮮の近代化にとって、この改革のもつ影響は大きい。
ここでは改革で取り上げられた内容を海野の整理にしたがって項目のみ掲げる。この項目の多さに、当時の朝鮮が抱えていた問題と、金弘集内閣に結集した開化派のあせりも感じることができる。
<政治>宮中と府中(※宮中に対し君主が国政をとり行う公の場所、具体的には内閣など行政機関など)の分離、清朝宗属関係の廃止、近代的内閣制度の導入と官庁機構改正、科挙制度(※科挙試験による官吏登用制度)の廃止、教学としての儒教の排除、軍隊・警察制度の改革、郵便制度の確立、地方制度改革
<財政・経済>財政の度支衙門たくしがもんへの一元化、予算制度の採用、幣制改革、租税金納化、度量衡の統一
<司法>司法権の独立、近代的裁判制度の導入、縁坐制の廃止
<教育>近代的学校制度の導入、実業教育の重視、外国語学校の設立、留学生の海外派遣
<社会>封建的身分制度の廃止、太陽暦の採用、女子の再婚自由、早婚禁止、断髪令
項目の中には、清朝宗属関係の廃止や宮中と府中の分離(これは高宗による秘密外交の排除なども意味している)など清朝からの独立と立憲君主制実現を求める日本側の要望の強いものもあるが、科挙制度の廃止や儒教教学の排除、縁坐制など前近代的な司法制度の改革など朝鮮王国・社会の長年の宿弊ともいえる問題に深くメスをいれているものも多い。
さらに封建的身分制度の廃止(とくに賤民身分の廃止)、女子の再婚自由・早婚禁止といった内容は、東学農民戦争で掲げられ、全州和約によって受け入れられた内容からくるといわれる。
甲午乙未改革には東学農民戦争に蜂起した民衆との約束を実現するという性格も持っていた。
開化派=金弘集らの歴史的悲劇性
改革はざまざまな困難の中で進められた。
第一次金弘集内閣は日本の手で成立はしたものの戦争で日本が勝つ保障はなく、日本軍にも余力はなかった。このため、政権は日本の意向をそれほど気にせず自主的に進めることは可能であった。こうして、軍国機務処では日・米両国の留学体験を持つ愈吉濬を中心に次々と新しい提案がだされた。しかし清国の優位を疑わない大院君派や保守派官僚など軍国機務処内外の消極姿勢や妨害によって実現したものは少なく、机上の空論という批判は否めなかった。
さらに、日本が最も強く求める宮中と府中(=行政権力)の分離、つまり立憲君主制にたいしては高宗夫妻が強く反発していた。多くの官僚たちにとって改革の必要性はさほどは認識されておらず、清の勝利によって「嵐」がさることを信じていたものが多かった。
こうしたなか開化派内閣は日本軍の「暴力」を背景に改革をすすめるしかなかった。さもなくば朝鮮の長く宿弊を正し、近代化・文明化改革が不可能であろうとの判断も可能である。
清による改革に期待することで金玉均ら急進開化派と袂を分かった金弘集ら穏健派であるが、清による強引な保護国化がすすみ、多くのものが袁世凱によって排除され、清を期待することも困難となってきた。
開化派は、朝鮮の内政改革を唱え、反対派を沈黙させ改革を主張する賭けてみなければ改革を行うチャンスはないと考えた。こうしたなか、強者に依存することでその場しのぎをつづけてきた高宗が彼らに組閣を命じたのである。たとえ国王夫妻が都合が悪くなると臣下に責任を押しつけてきたことはわかっていたとしても、改革に賭けようと考えたと思われる。
「日本の傀儡」としての開化派政権
改革は、一方で日本軍の脅威とそれに怯える高宗夫妻など支配層の恐怖によって、他方は旧体制を維持したままでは朝鮮という国は維持できないという開化派の国家および国王への義務感に支えられてすすめられた。
日本軍によるクーデタで成立し、その援助で維持している開化派政府は日本の要求を受け入れなければならなかった。こうして政府は、日本との間で「暫定合同条款」および「日朝両国盟約」を締結する。
前者では①内政改革の施行②漢城・釜山、漢城・仁川間の鉄道の早期敷設③開戦前に日本軍が無断で敷設した軍用電信の条約化④全羅道での新たな貿易港開港⑤景福宮襲撃(7月23日戦争)を不問とする⑥朝鮮の「自主独立」のための合同会議開催⑦王宮警備の日本軍の撤退が定められた。
後者は日本の清国との戦いにかかわる攻守同盟であり、朝鮮は「日兵の進退および其糧食準備の為、及ぶだけ便宜をあたうべし」として、日本の軍事行動への協力を義務づけられた。これによって「日本軍は朝鮮で思いのまま人馬・糧食の徴発をおこない、朝鮮民衆の反発をかう」ことになる。日本軍の粗暴なやり方は、このような条約を結び、日本軍の下請け機関となった金弘集内閣への不信感をかき立てた。こうしたなか、東学勢力が再び蜂起する。(海野95)
第二次東学農民戦争
全州和議によって解散された東学農民軍は日清戦争下の日本軍に抵抗し、協力を拒否し、自らを「忠君愛国」の義兵と称して、再度蜂起した。大院君も国王の「偽密書」を発して東学の指導者に働きかけたとも言われている。
前回は、平和主義をとって蜂起に加わらなかった東学の第二代教主崔時亨の影響が強かった地域でも蜂起が発生、その範囲は朝鮮の半分程度にまで広がり、北部では「偽東学党」も現れた。蜂起に参加したものは原田敬一はのべ13万4750人(原田07)、趙景達は数十万に及ぶとする。
他方、鎮圧に動員された日本軍は2000人、これに朝鮮政府軍3000人、さらに両班らからなる義勇軍が参加した。
参謀次長の川上操六は「悉く殺戮すべし」との命令を出した。主力となった全羅道方面の農民軍はしだいに南西部の島嶼部に追い詰められ、殲滅される。趙は少なくとも5万人ほどが死亡したとしている。
この結果、「上からの近代化」は、民衆との結びつきを失い、「下からの近代化」は、侵略者である日本軍と開化派政府傘下の朝鮮軍、さらに伝統的な支配層・両班地主らの義勇軍に鎮圧された。義勇軍の中には、伊藤博文を暗殺することになる安重根もいた。
近代化をめざす人々同士が敵対する。それが金弘集らの悲劇につながっていく。
日本の介入の強化
94年9月、平壌の戦いは日清戦争での日本軍の優勢を確実とした。
この結果、日本の介入が本格化する。日本側では第一次金弘集内閣での改革の遅れが問題視されていた。その責任を取る形で公使大鳥圭介は解任され、井上馨が公使として赴任してくる。井上は朝鮮に対する圧力を強め、改革を本格化させようとする。明治国家をつくりあげた一人であり、元外相の井上が、はるか格下の朝鮮公使として赴任してくる以上それなりの自負があったはずである。
1884年8月の閣議で、外相の陸奥宗光は、朝鮮をいかなる国際的地位に位置づけるかについて図る。そこで提示されたのは①朝鮮の完全独立、②保護国化、③日清両国による共同保護、④多国間での中立国化の4案であり、閣議で採用されたのが以下の案である
「朝鮮を名義上独立国と公認するも、帝国より間接に直接に永遠もしくは長時間その独立を保翼扶持し他の侮りを禦ぐの労を取ること」という朝鮮を事実上の保護国化を基本とするという②の政策である。
これによって日本が日清戦争の大義としてきたはずの①朝鮮の自主・独立はもちろん、③二国での共同保護や④多国間の条約にもとづく中立国化も放棄される。(岡本08)
井上はこの方針を実現すべく朝鮮にやってきた。井上の対韓政策は①宮中を非政治化すること、②近代的法治国家体制を創出し、そのために日本人顧問官により朝鮮政務を監督すること、③借款供与と利権獲得とによって朝鮮を日本に対して経済的に従属させること、という三つの要素から構成された。(森山92)
そしてとくに重視したのは、改革をすすめる過程で多額の借款を与え、それを梃子にして保護国化をはかろうという第三の要素であった。かれはこれを「エジプト化」ということばで表していた。イギリスが大量の借款を債権をもとにエジプトを保護国化した手法を指している。(岡本08)しかし、鉄道敷設や移民を重視する山県、利権獲得を重視する松方、戦争遂行に有利な条件を得る陸奥らとは一致していなかった。(森山92)
こうして井上公使の登場により、日本による保護国化をめざすという色彩が強められる。井上は大院君を引退させ、日本生活の長い急進改革派の朴泳孝らを帰国させ政権に参加させる。さらに政府内に大量の日本人顧問官を送り込む。また、高宗らが内閣を無視した人事を行うと報復措置に出て、屈服・謝罪させる。
こうして内閣制度の創設、裁判所設置、軍制改革、地方制度の改革などが本格化する。それは日本の影響力をつよめるとともに、立憲君主制的な性格をもっており、高宗・閔妃は不満を蓄積させていく。
この間、井上は高宗や閔妃となんども直接、面会している。井上は明治天皇にみられる君主像、すなわち政治の表舞台には出ずに権力を行使するという要求するが、高宗や閔妃は受け入れようとはせず、改革を進めようとする開化派との対決姿勢を強める。
三国干渉
1895年、戦争は日本側の圧勝に終わり、下関条約が締結された。条約の第一条は「清国は朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する」と規定され、清国は朝鮮から完全に手を引き、宗属関係は解消され、名目的には自主独立が実現することになる。こうして、日本は朝鮮における影響力を強化する、できるはずであった。
しかし、日清戦争での大勝のおごりは、大きなしっぺ返しを食う。この条約の第二条で日本は清から遼東半島、台湾、澎湖諸島を割譲される。しかし、日本がこのような過大な領土を獲得するは東アジアの国際関係を大きく変化することになる。これに対しロシア・ドイツ・フランスの三国は猛然と抗議、戦争も辞さない姿勢を見せた。これにより日本は遼東半島を清に還付する。(「三国干渉」)
この事態は、親ロシア派の高宗夫妻を驚喜させた。三国干渉は事実上日本が大国ロシアに屈服したことであった。朝鮮をめぐる状況は一変する。
高宗や閔妃らはロシアへの接近を公然化し、意に沿わぬ改革の否定を始める。日本政府も「対韓不干渉政策」を決定、井上も一時帰国する。これまでの朝鮮政策がいきづまる。井上は朝鮮に借款を与えることで、朝鮮との関係を回復しようとするが、陸奥ら政府関係者は借款供与に消極的であり、借款は行うとされたが量的に減少し、さらに厳しすぎる条件がつけられたことで、朝鮮側の反発を買う。
他方、王権の回復をめざす閔妃らは日本に近い金弘集らを追い落とすべく金と対立する朴泳孝らの取り込みを図り、金弘集らはいったん総理大臣を辞職する。彼らが辞職すると、今度は朴も排除した。高宗や閔妃は露骨にロシアへの接近をはかり、ロシアの朝鮮進出の動きも加速する。他方、戦争終結に伴い、列強諸国は利権を日本のみに供与することに対して強い抗議を行い、利権の開放を要求するようにもなる。
朴泳孝らが去った後、第三次金弘集内閣が成立するが、そこには李完用ら親露派や親米派が多く、日本側はさらに守勢に立たされる。高宗や閔妃はロシアの力を借りて金弘集らを殺害、閔氏政権を復活させるといった話もささやかれるようになる。
閔妃殺害事件(「乙未事変」)
失意の中、公使を辞職、帰国した井上に代わって朝鮮公使となったのが自ら「外交の素人」と語る武断派の軍人三浦梧楼であった。この三浦が劣勢を挽回すべく行った蛮行が閔妃殺害事件(「乙未事変」)である。
その概要を『国史大辞典』により示す。
日清戦争中から見られた朝鮮の反日気運は、三国干渉後一層大きくなった。これに対し、新任の日本公使三浦梧楼(予備役陸軍中将)は、閔妃を反日の元凶と考え、閔妃と敵対していた大院君をかつぎだすとともに、閔妃の暗殺を謀った。明治二十八年十月七日夜半から八日早朝にかけて、日本軍に指導された朝鮮の訓練隊・日本軍守備隊・日本人警察官・大陸浪人らが景福宮に入り、王宮護衛の侍衛隊を撃破し、王妃の寝室に乱入、閔妃を惨殺、死体を凌辱、石油をかけて焼いた。この凶行は、ロシア人やアメリカ人に目撃され、ソウル市内はたちまち騒然となった。(中塚明「閔妃殺害事件」『国史大辞典』)
なお、木村幹は事件の発案者を閔妃らのロシア接近と閔氏一族の復活に危機感を抱いた軍の一部や開化派内閣などに近い人物と考え、それに三浦が乗ったとの見解を示す。かりにそうであるとしても、結局は日本人「壮士」が殺害を行ったことには変わらない。
またしても、大院君が政権の中央に引き出される。高宗の名で閔妃の廃妃が発表され、大院君中心の政府がいったん作られる。閔妃関係者や親露派が罷免され、日本に近い勢力が政権に復帰し、第四次金弘集内閣が成立、改革が再開される。しかし、こうした凶行の結果成立した政権が支持を得ることは困難であることはいうまでもない。
しかも引用に見られたように、凶行は外国人に目撃されており、犯行が日本人の手によることは誰の目にも明らかであった。こうした事実は、ソウル駐在の外国人記者によって世界に発信される。日本政府は事件調査に乗り出さざるを得なくなり、三浦は解任され、関係者は日本への帰国させられ裁判をうけた。領事裁判権が彼らを朝鮮で裁くことを不可能にしていた。
露館播遷と開化派の崩壊
三浦らによる蛮行は、国際的非難の対象となり、朝鮮国内における反日感情を一挙に激化させた。ところが、朝鮮政府は三人の朝鮮人(うち二人は明らかに無実と考えられる)を犯人として処刑した。このことは金弘集内閣が日本人の犯罪の隠蔽に協力したことを意味しており、さらなる反発をうけることとなる。
こうした朝鮮政府の対応もあり、日本の法廷は、三浦ら全員を証拠不十分として無罪とする。なお7月23日戦争以来、日本の謀略にかかわってきた公使館一等書記官の杉村濬すぎむらふかしはこの事件を問題視するなら7月23日戦争以来の行動すべてが問題視されねばならず政府の責任となると裁判でうそぶいてみせた。(中島12)(なお、多くの日本国民は三浦らを英雄視しその釈放を歓迎する。)
このように開化派政府に対する反発が高まる中、政府は近代化政策の一環として断髪令を発し、国王自体も断髪に応じるなど厳しい態度でこれに臨んだ。これによって、政府に対する不満が爆発する。儒教的習俗にとらわれていた人々にとって、髷をきることは肉体を傷つけることであり「孝」に反する行為と考えられていた。断髪は朝鮮の伝統をすて「夷狄」の風習を受け入れることと見なされた。激しい反発がおこった。
1896年1月、朱子学原理主義者である衛正斥邪派の在地両班らが、「国母復讐」と「断髪令」反対をかかげて、開化派政権打倒にむけて武装蜂起に立ち上がる。蜂起は朝鮮全土へと広がり、地方都市を占拠、各地で親日開化派の官吏が殺害され、軍用電信は破壊され、日本人が襲撃された。(初期義兵・乙未義兵)
親衛隊さらには日本軍の一部が鎮圧のため派遣され、全土は騒然となり、漢城では防備体制が手薄となった。この間隙を縫って、高宗がロシア兵の援助のもとに、王宮を脱出、ロシア公使館に逃れる。(露館播遷)なお、これ以降、約1年間、高宗と王太子、その一家はロシア公使館に身を寄せることとなる。
ロシア公使館にのがれた高宗は、そこから政府打倒をよびかけ、漢城の人々がそれに呼応する。
これを聞いた総理大臣の金弘集は高宗との謁見を求めロシア公使館に向かうが、その途上で群衆に取り囲まれた。彼は救出しようとする日本人兵士を制し、自ら群衆に惨殺される運命を選んだ。こうして開化派内閣は崩壊、甲午・乙未改革はおわる。
甲午・乙未改革をどう見るか
日本の力で政権の座についた金弘集政権である。そうである以上、この政権が親日派政権であり、日本の傀儡という評価は当然である。
たとえば『漫画韓国の歴史⑯東学農民運動と甲午改革』(韓国版は1993)などでは、日本人(公使大鳥圭介やおなじみの「出っ歯の日本軍人」、さらには小村寿太郎が朝鮮側に命令をして、改革を進めたように描かれる。そして「一次改革の内容には近代的改革のための法案もあったが」(例としてあげられるのは科挙制の廃止や庶子の解放)「日本の朝鮮侵略を容易にすることが主目的であった」と説明し、第二次金弘集内閣成立のシーンで金弘集は大鳥の前で笑顔でVサインをさせられる。(ただ解説のニュアンスは少し違うが。)
1973年版の朝鮮史研究会編『朝鮮の歴史』(梶村秀樹執筆)では以下のように記す。
「開化派官僚がもともと構想してきたものであり、農民反乱をたたかった民衆の要求を色濃く反映したものであった」として「全面的な社会の改革が国民的課題となっていたかを示している」とこの改革の進歩性を承認する一方で、「これを享受すべき民衆の農業や商工業における保護と改革がすすめられ」ず、大きな「ひずみ」を生んだとして不十分さが強調される。そして「資本のために多くの封建的な制約が取り除かれたけれども、それはあくまで日本資本のためでしかありえなかった」ときびしく評価され、日本側のねらいが貫徹したされる。
日本軍の暴力に依存し、日本軍に協力して東学農民軍を鎮圧し、日本人による王妃殺害をも免罪しようとした改革である以上、厳しい評価は当然である。
しかし、改革によって実現したもの、しようとしたものの進歩性は明らかであるため、評価は分かれる。
1990年度版の韓国の国定教科書は「政治、経済、社会の各分野にわたる近代的改革がなされた」と高く評価する。そして「甲午、乙未改革は日本帝国主義によって強要された面もあったが、封建的伝統秩序を打ち破ろうとする、制度面における近代的改革であったことには違いはない。さらには、朝鮮の開化人士と東学農民層の改革の意思が反映された、主体的な近代化の努力のたまものでもあった」とされる。そして注釈において、「日本の朝鮮侵略に道を開く体制改編に過ぎなかったという、改革の他律性を理由にした否定的な評価もある」と紹介しつつも、甲申事変や東学農民運動、実際の担い手が「朝鮮の開化派官僚によって推進され、改革の結果も近代化過程において非常に重要な政治、経済、社会にわたる一大改革であったという点でにおいて、限界はあるが改革の自律性が認められ、改革の方向性が肯定的に評価されている」という立場を取っている。
近年の論者は、さらに肯定的、同情的である。
たとえば、岡本隆司はその著書『世界の中の日清韓関係史』を、この本を金弘集の死のエピソードから書き始める。そして文中では次のように記す。
「かれらはかれらなりに朝鮮の自立をもとめて、改革を念願した人々である。閔氏政権でその素志が果たせず、しかも朝鮮が未曾有の危機にあっては、いかに不本意であっても、意を曲げてでも、日本の支持のもと、時局に当たるほかなかった。」
「内政面では、政府機構の改革、科挙を中心とした官吏登用法の改革、近代的な学校制度の導入、徴税制度の改革、幣制・度量衡の統一、軍隊・警察の改革、地方自治制度の導入、奴婢廃止・賤民開放など身分制の改革があり、行政組織から社会制度に及んでいる。対外的には、中朝商民水陸貿易章程など諸規定の廃止、清国の年号の使用禁止など、清国の「属国」であることを公然と否定する措置がとられた。」
海野福寿もこの改革を高く評価する。
これらのなかには農民軍が求めた弊政改革を吸収、反映させたものも見られ、封建社会を制度的に否定する近代的改革内容にあふれていた。そのような意味で画期的な『上からの』ブルジョワ革命を志向していた、ということができる。この改革は朝鮮民衆の支持を得ることができたとすれば、改革は成功し近代国家としての朝鮮は日本の侵略をはねのけることができたはずである。
しかし、政府と民衆のよじれた関係のもとでは、改革派民衆の支持を取り付けることができなかった。その理由の一つは前述のように開化派政権の自主的基盤の欠如であり、もう一つは、日本軍の朝鮮軍事占領下で行われたことである。
それに対し、趙景達は『近代朝鮮と日本』で梶村の評価をひきついだ叙述をする。
「甲午農民戦争における農民的諸要求に対して、国政全般にわたる近代的な諸改革によって応えようとするものであった」と評価しつつ、「政治・税制基盤が脆弱であったため、その実現は部分的にしか達成されなかった。」と改革の限界を述べ、梶村と同様に零細な農民や商工業への改革・保護がなかったこと、さらに地主擁護の姿勢や租税の金納化が農民を商品貨幣経済にまきこみ没落の道を加速させたと批判、「かえって民衆の反発をよびおこした」点を重視する。そして最後に「改革が日本の干渉下で行われたことは、近代化と侵略をオーバーラップさせ、反日=反開化の機運を一層増長させた」と日本との関係を記す。
趙は、梶村の評価を受け継ぎつつも、梶村が日本資本主義に有利であったと「買弁」的であるともとれる評価をしたのにたいし、やはりこの改革の自律性も認めているようにみえる。
金弘集内閣がすすめた甲午・乙未改革は朝鮮の歴史の中では、画期的な内容を持ち、朝鮮史にとって大きな画期をなすものであったことは確かである。これまでは構想のみがあってあまり進んでいなかった改革が現実的にすすみはじめたという意味は大きかった。しかし朝鮮を従属させようとする日本、とくにその軍事力に依存して進められた改革であることは否定できない。
しかし、各論者がのべるような民衆との距離の広さ、民衆保護の観点の弱さがあった。それはすでにみた開化派がエリート層にとどまり広がりを持たなかったという結果である。さらに衛正斥邪派にみられる変化を嫌う思想が社会の多くを占める中、日本軍の「暴力」と信頼できない国王の権威に頼って改革を進めざるを得なかったことから、日本の傀儡政権としても評価される。東学戦争への鎮圧への協力、人馬・糧食の徴発などにかかわる日本軍の凶行も開化派政権に結びつけられた。そして日本軍の権威に陰りが見え、王の信任が薄らぐ中、かれらはヤケともいえるような「断髪令」をだし、敗れ去る。
金弘集ら開化派に見られる悲劇の中に朝鮮の「近代化」をめぐる苦闘を見ることができる。
<朝鮮近代史を学ぶ~目次とリンク>
1:朝鮮王国の中で
2:大院君の政治と朝鮮の開国
3:開化派の苦悩と壬午軍乱と甲申事変
4:東学農民戦争と日清戦争の発生
5:甲午・乙未改革と開化派の敗北
6:
<参考文献>
木村幹『高宗・閔妃』ミネルヴァ書房2007
和田春樹『日露戦争 起源と開戦上・下』岩波書店2009
岡本隆司『世界の中の日清韓関係史』講談社2008
糟谷憲一『朝鮮の近代』岩波ブックレット1996
海野福寿『韓国併合』岩波新書1995
趙景達『近代朝鮮と日本』岩波新書2012
趙景達『近代朝鮮の政治文化と民衆運動』有志舎2020
中塚明他『東学農民戦争と日本』高文研2013
山田朗『軍備拡張の近代史』吉川弘文館1997
檜山幸夫『日清戦争』講談社1997
大谷正『日清戦争』中公新書2014
原田敬一『日清・日露戦争』岩波新書2007
森山茂徳『近代日韓関係史研究』東大出版会1987
同 上『日韓併合』吉川弘文館1992
柳永益『日清戦争期の韓国改革運動』法政大学出版局2000(原著1991)
吉野誠「開港後の社会変動」(中村哲他編『朝鮮近代の歴史像』日本評論社1988)
吉野誠「朝鮮における民族運動の形成」(歴史学研究会編『講座世界史3民族と国家』1995東京大学出版会)
中島久人「日清戦争と朝鮮」長谷川直子「朝鮮中立化構想と日本」(趙景達編『近代日朝関係史』有志舎2012)
糟谷憲一「朝鮮の開国と開化」(李・宮嶋・糟谷編『世界歴史大系 朝鮮史2』2017山川出版社)
小泉順子「タイにおける国家改革と民衆」(前掲『講座世界史3』1995)
『国史大辞典』『大日本百科全書』『朝鮮を知る事典』