植民地における「近代」

日本の敗戦は朝鮮半島に人々にとっては植民地支配からの解放そのものであった。 東京書籍「日本史A」P152
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植民地における「近代」

大学の授業のなかで

私が受けている授業のひとこまから始める。
前回課されたリフレクションシートに、台湾の戦後の発展には「日本植民地期の遺産が戦後の資本主義化の発展につながった面がある」旨の内容を記した。
それにたいし、講師の先生は、直接的な言及を避けつつ「植民地期のインフラ整備が戦後の台湾に資本主義化に影響を与えたという点に明確な因果関係があるかどうかは微妙である」「明確な論拠はない」との話され、さらに、台湾における日本が残したインフラが戦後の資本主義化の発展につながったという考えを日本の植民地化を賛美する議論と同一であるかのようなニュアンスでも語られた。「シート」の中では、広義の意味合いで「インフラ」という言葉を使ったが、それを1930年代の工業化を念頭に置いた発言であるかのようにとらえられた。
植民地時代の遺産を高く評価すること(「悪いこともやったが、よいこともやった」云々)で日本の植民地統治を肯定しようという政治的な勢力は古くは日韓会談での久保田発言(いわゆる「久保田妄言」)以来あいつぎ、現在の「嫌韓」の風潮の中でいっそう強まっている。
先生のいい方はこれを配慮し、それに加担したくないという思いからであるとおもうし、そのことは評価する。しかし植民地化によるさまざまな変化=「近代化」を客観的に評価しないことは、逆の意味で「悪しき政治主義」であり、科学的な姿勢ではないようにおもう。

植民地支配下ですすんだことは戦後発展の「初期条件」ではないのか?

私が念頭においていた「広義のインフラ」とは、植民地期にすすめられた、交通や港湾整備、用水、ダムなどの狭義のインフラ整備やおもに30年代以降に急増した日本資本による工場設立などにとどまらない。戸籍や土地所有権・法律といった法律上のインフラ、近代的教育制度(それはつまり使い勝手のよい労働力を供給することである)、官僚制度と実務能力を手に入れた官・民「官僚」の育成、情報・通信などの整備などなど、こうした「植民地支配下で進められた「資本主義育成政策」における遺産全体をさしており、敗戦時の台湾では客観的に見て、こうしたものが整備されていたと記したのである。事実上、台湾を占領下においた国民政府は、日本帝国が整備したこうした「インフラ」を、侵略や内戦によって荒廃させることなしに、ほぼ「無傷」で手に入れた。こうしたものが戦後台湾の「初期条件」となったという議論である。これが台湾の資本主義化にとって役に立ったとしたのである。
ついでにいえば、逆の意味の「初期条件」は、これまでの「貿易」相手国であった日本帝国ー日本・朝鮮・「満洲国」などが消滅し、新たな販路が必要となり、それに合わせた新たな産業育成が必要になったということである。この課題も、台湾及び日本帝国のもとに置かれた植民地等の「初期条件」となる。
「初期条件」とは、在来産業の発展や全国的・地方的流通網、寺子屋など教育機関の広範な発展に伴う識字率の上昇という幕末までの日本のあり方が、開国後の経済発展や中央集権化など日本の近代化のための大きな背景になったとなったというのと同様の意味で用いている。
台湾でいえば、1800年代後半の商品経済の発展や劉銘伝の改革が日本の台湾統治の「初期条件」であったのと同じ意味あいである。
日本植民地時代におこなわれた諸政策とその結果が、国民政府による「占領下」での諸政策と経済発展の「前提」となった。それが他の地域と比べ、資本主義発展にとって有利となったというのが私の立場である。それをあえて見ずにあいまいな言い方をすることは研究者の立場としていかがなものであろうか。

「植民地における近代」という議論

先生の言説は、韓国の歴史学界でよくなされる議論との類似点を感じさせる。
堀和生氏の『東アジア資本主義史論1』のはしがきに次のような一節がある。
植民地支配下の韓国における経済発展を認める堀氏の研究発表に、韓国の著名な研究者が「このような反動勢力に利用されるような研究は断じて許すことができない、と面罵された」

という記述である。こういった姿勢は、政治的立場、ナショナリズム的価値観を実証的な研究の成果の上に置き、理性より感情を優先させる研究姿勢に見える。

こうした物言いにつながる現政権の姿勢が、それに反発したこれまで実証的な研究を行ってきた研究者による日本国内での韓国朝鮮攻撃に協力するかのような本を出版したことで問題はさらに深刻化する。堀氏が引用されたようなナショナリズム重視の韓国側研究者とそれに寄り添おうとする日本側研究者との対立がうまれる。

「政治」が過剰となり、実証的な研究にもとづく冷静な議論が困難になる。講師の先生のまとめもこうしたなかでの発言ととらえることも出来る。
日本帝国主義が「朝鮮半島の人々を、悲惨な境遇においやり、自発的な発展を阻害し、収奪した」そのこと自体は正しい。
同時に、収奪のためにつくった鉄道や道路・用水路、工場や開発された鉱山といった狭義のインフラ(実際に作ったのは植民地の人々であり、資金の多くはかれらからの収奪によるのであるが)が、土地調査事業が完成させた近代的土地所有制度が、各レベルの法律が、戸籍や土地台帳などが、経済を、社会を、つまり植民地の人々を変化させた。
そうして生まれたものは、韓国・朝鮮の脱植民地化過程において負の遺産を残すとともに、大きな役割をもったことも確かである。天皇の民をつくる目的で整備された教育制度が戦後の人材を準備したように。
(朴正熙のような人物も準備したが)

日韓台三国の共同研究の成果から

日韓台三国の共同研究をもとに、堀和生は
解放後国民経済を建設する台湾と韓国は、戦前期東アジア資本主義の一部として成立していた資本主義の基盤と、戦後米国の資金的物的援助を結びつけることによって、1950年代国民市場を充足するだけの工業生産を確立することに成立した。」(前掲書P369)
として、戦後の資本主義において植民地期の経済発展が一定の役割を果たしたことを認める。さらにふみこんで、
通説的に日本との切断や軍事的政治的混乱によって経済が疲弊していると理解されていた1950年代の韓国や台湾が、その時点で他の後進国にはない特徴を持っていた(中略)他の後進国では見られないこの事態は、韓国と台湾が日本帝国のもとで、すでに工業生産の社会経済的な基盤を構築し、商品経済の最も発展した資本主義的生産様式が社会の規定的な要因になっていたからである」(P370)
とものべている。堀がのべたように「歴史の評価は、どこまでも確定できる事実にそって行われるべきである」(p376)と思われる。

戦後の「スタートライン」の比較研究

台湾と中国大陸、韓国、さらに他の国々における戦後資本主義発展の初期条件の比較は非常に興味深い観点である。
台湾で国民政府は植民地支配の中で獲得した条件をそれほどの苦でなく手に入れた。これが資本主義的な発展と結びついた。その支配地域のコンパクトさが、国内の偏差を小さくし、経済発展にとっての当面の優位さをもたらした。
それに対し、中国大陸の戦後の資本主義発展は、アヘン戦争以来の帝国主義諸国のきびしい収奪、とりわけ1931年ないし1937年以後の日本による侵略戦争とそれに対抗すべく抗日戦による国土荒廃という歴史的条件、海岸部と内陸部の経済の著しい不均等発展といった経済的条件、公教育の浸透度の遅れや中華帝国の伝統と近代化のあり方に規定された「国民」意識といった教育的・文化的条件、さらにはこうしたさまざまな困難のなかで本源的蓄積を完成させざるえないという中国大陸における近代化、両者は「初期条件」の面であきらかに異なっていた。そしてなんといっても世界最大の人口と第二位の面積という地理的条件、それは中国大陸の近代化を世界のどの地域と比べても困難な初期条件のもとにすすめられた。そうした「初期条件」の検討抜きに、中国共産党による一党独裁とそのもとにおける国家資本主義的経済政策導入は考えにくいだろう。
朝鮮半島の場合は国内分断の問題、朝鮮戦争という破壊などなど、「初期条件」をしっかりと吟味して、比較研究を進めることこそが科学的な研究姿勢であるとおもわれる。

植民地化が脱植民地化の「武器」を供給

もう少し、「植民地における近代」ということを考えたい。
植民地を獲得し、より大きな利益を得るためには、宗主国は植民地をより収奪しやすいように「近代化」をすすめる
たとえば、土地からの租税徴収を増やすためには錯綜した土地所有関係を近代的土地所有関係につくりかえ戸籍を整備していくことでより多くの租税徴収を可能にする。輸出品の運搬の必要は生産地から港湾まで鉄道を敷き、港湾を整備することを促進する。資本輸出による利益獲得のため、工場建設や鉱山開発それにつながる狭義のインフラ整備もすすめられる。植民地金融を保障するために金融制度が整備され、商品交換を円滑にし私有財産を保護するために民法も整備される。質の高い労働力と官僚制の維持、支配の協力者を準備すべく「教育」制度も整備される。
こうして植民地は宗主国にとって収奪に都合のよい場所にかえられる。とくに20世紀の帝国主義化しつつある世界においては、植民地を資本主義化し「近代」化することが宗主国により大きな利益を保障するようになってきた。こうして植民地において宗主国に都合のよい「近代化」「資本主義化」が進む。

自国の利益を得るために植民地を「近代化」するのだから、宗主国は自分たちに都合の悪い「近代」(近代的な人権意識や自由主義、民主主義など)は持ち込みたがらないし、自分たちの利益と競合するような工業化も邪魔する。場合によっては競合する在来産業を破壊する。
「上から目線」で持ち込まれる「近代文明」は植民地の人々のプライドをいちじるしく傷つける。しかしその中にはある種の普遍的なものを含んでおり、その言葉の多くは「世界共通語」で語られるため「近代文明」にたいしても説得力ももつ。こうして屈辱の中でおしつけられる「文明」は脱植民化のための「武器」も与える
植民地解放運動の多くが欧米流の(中国や朝鮮では日本流の場合もある)教育を受けた人々によってになわれてきたのは、この「植民地の近代化」という矛盾に満ちた過程の特徴である。

「親日派」~統治に組み入れられた韓国と排除された台湾

脱植民地の過程で、旧植民地は、「植民地的近代」の正と負の遺産を出発点に、解放後の近代化、脱植民地化を開始する。
まず最初に行わなければならない作業は、宗主国のルールによって作られた「植民地的近代」のシステムを脱植民地という新たな事態にあわせて調整することである。しかし、これまでのシステムを運用していったものの多くは追われるように帰国し、こうしたシステムに習熟していない、ときには敵意を向けていた・向けられていた人々が運用することとなる。
こうしたなかできわめて大きな役割をはたすのが、植民地体制のなかで積極的・消極的に協力をしてきた官民の「対日協力者」である。かれらは征服者の「手先」であり「民族の裏切り者」ともいえるが、まがりなりにもかつてのシステムを運用でき、再構築に役立つテクノクラートでもある。このため、韓国では強硬な反日派である李承晩政権において多くの「親日派」が主要な席を占めることになる。
この点についてみれば、朝鮮と台湾の事情は異なる。そもそも台湾人官僚は朝鮮と比べはるかに少なく、しかも脱植民地化の過程で公的部門やのこされた大工場などは国民政府に接収され、「親日派」の多くはそこから排除された。

さまざまな面での活躍を拒絶されたことで、本省人の人材が民間部門とくに中小輸出関連企業に集中したことで台湾の経済発展につながった」との台湾のサクセスストーリーにリアリティを与える。

政治的課題と歴史の実証研究

少し歴史研究者と「政治的立場」についても考えたい。

戦後歴史学は、平泉澄らの皇国史観など歴史研究⁈が国民の戦争動員に加担したことの反省と贖罪意識をバネに、歴史の中に「正義」や「倫理」そして「進歩」を見出そうとする側面をもっていた。それは、なんらかの形での「転向」や「戦争協力」を余儀なくされた知識人の意識を反映したものであった。それは正しい視点ではあり、そのなかから家永三郎の『太平洋戦争』にみられるような戦後歴史学のすぐれた成果をも生み出した。
しかし、そこには副作用もあった。「転向の痛み」は「非転向」の日本共産党幹部を特別視し、かれらが率いる当時の共産党の路線への批判を困難にする結果にもつながった。こうした風潮は、歴史研究者の政治への従属の傾向を作り出し、史実を客観的に見る目を曇らせた。こうした政治的方針を研究のなかにもちこむことで生じた混乱が「歴史における民族」をめぐる一連の事態であった。

その結果、政治的課題に研究を拝跪させる傾向は実証という面から批判を受けることとなる。
「正義」や「倫理」を見据えつつ研究を進めること、ここでいうなら、台湾併合=植民地化、朝鮮の植民地化、その過程と支配のなかでの悪行のかずかずを掘り起こし、指弾することは重要な研究テーマであり、今後とも深めていく課題である。
しかし、植民地支配は悪なのだからそこに少しでも「積極的な要素」をみとめることは許されないという頑なな姿勢とは別問題である。歴史学が学問である以上、客観的な研究を経たものでなければならない。政治的課題に研究を従属させることは多くの危険性を持つ。それは戦後歴史学の経験から学ぶことができる。

逆に実証をもとに研ぎ澄まされた理論の方が、政治的実践にとって有用となることが多い。より「政治」的立場といえるのかもしれない。

「近代」をトータルにとらえるために

もうひとつ考えるべきは「近代」の捉え方である。
これまでの議論の背景に、近代を「善」「進歩」としてとらえる近代主義的、進歩主義的な考え方があるようにもおもわれる。
戦後歴史学はその出発点において、戦前社会を自由や民主主義の欠落、近代的自我の未確立という視点からその前近代性・半封建制を厳しく糾弾することからはじまった。中心となったのは講座派の伝統の影響を強く受けた大塚久雄や丸山真男ら古典的近代主義者であった。しかし、こうした主張は、戦前の問題点を否定することに急で、結果として「近代」を美化しがちであった。とくに大塚はマルクスの「原蓄論」も引用しながら、資本主義の成立の中に歴史発展と自由の拡大を見いだそうとした。近代はめざすべき目標であった。
他方、農民を土地から暴力的に無慈悲に引き離した過程や奴隷貿易などが資本主義=近代成立の大きなテコとなり、資本主義が「あらゆる毛穴から血と汚物を垂れ流しながら」生まれてきたというマルクスの正当な指摘は軽視されていた。
近代は善悪の二面性をその存在のなかにあわせもっている。一方で巨大な生産力を解放して経済を発展させ、病など自然の脅威から人間の解放をすすめ、迷妄や狭量な精神を打ち破って「人間の尊重」などの精神をひろげ、自由と民主主義にもとづく政治体制を生み出した。しかし、他方では、すべてのものを貨幣価値におきかえ・置き換えていこうとし、利益をうるためには自然や様々な文明・文化を破壊することもためらわない。ついには巨大な生産力をこれまで視たこともないような殺戮兵器生産へと利用し、人類の破滅を可能にした。利益のために他民族を支配し、植民地化し、殺戮する。

ただ、近代の問題点だけを言いつのり、前近代にロマンを求めるような立場も、同様に誤りでいることは言うまでもない。

植民地における近代~二つの「悲惨」の相乗

「近代」のもつ二面性の一方だけを切り取ることは不可能である。
このように考えるなら、植民地における近代は、近代の持つ二つの悲惨を相乗したものとしてとらえるべきであろう。
一つは、他民族による支配・抑圧・収奪という「悲惨」、今ひとつはほぼすべての国が資本主義成立期に経過せざるを得ない資本の原始的蓄積過程という「悲惨」である。
後者は旧宗主国が収奪をより徹底するために暴力的に導入するのであり導入された民族にとっては前者と似た様に見える。この二つの「悲惨」がからみあい、相乗効果となって植民地住民を苦しめた。そして、この後者に注目することで、宗主国の中での抑圧された人々と植民地支配に苦しめられる人々との連帯の視座をうることができると考える。
後者は先進資本主義国を含め、資本主義化していくほぼすべての地域で近代化・資本主義化するうえで進められる段階である以上、脱植民地化ののち若干の調整で資本主義発展に利用することも可能であった。

おわりに

マルクスだったか、エンゲルスだったかが、「人間は歴史を作る。ただし与えられた条件でもとで」といういい方をしていた。われわれは、現実に私たちの前に提示された、歴史的に形成された条件の中でしか歴史を作る=行動するしかない。
高校の授業で、「歴史のなかで生きてきた人々は、歴史から〇〇というような『宿題』を与えられた。君たちがこの人物ならどのように行動するか?」という問いかけをよくした。
日本帝国が敗北したなかで、それまで植民地支配のもとに置かれていた人々は、新しい歴史を作ること、行動することを迫られたいた。そのための「初期条件」=『宿題』こそが、日本統治下で作られた「植民地的近代」の結果であった。現実に生きていた人たちは、日本帝国が残していった条件を良かれ悪しかれ主要な「初期条件」として考え、行動せざるをえなかった。
自分の立つ政治的立場にもとづきあらかじめ結論を定めておき、検討を拒否する姿勢は正しいとは思われない。
私は、変な言い方だが歴史を見ていく場合、起こってしまったことはそれとして、一時的に価値観を保留して凝視する姿勢、それを勝手に「歴史的ニヒリズム」といっているが、こうした姿勢も必要なのだと思う。そうした中でこそ、善悪二元論ではない、歴史の弁証法が見えてくるように思われる。

補論:日韓台における「農地改革」

国民政府という台湾の新たな「支配者」は、冷戦構造を利用して、アメリカ(および従属下の日本)からの資金と市場参入の便宜を払うという特権を与えられた。さらに支配を軍事力とアメリカの信認によって支えられる国民政府は旧植民地下の有力層である台湾人地主の意向を忖度する必要がなかった。このことが、一般にはリスクが高いと思われる農地改革という政策実現を可能にした。
授業の中では、台湾での農地改革の評価は低かったが、アジアにおける農業の小経営的発展を重視する中村哲は
日本、韓国、台湾の農地改革は世界の中で相対的に徹底したものであり、その経済的・社会的効果も大きい」とのべ、「小農的経営の発展の近代的発展の重要な条件を作り出し、農村の所得水準を高めて国内市場に貢献する。経済発展の障害となっている地主勢力を排除するか、少なくともその力を相対化し、階層的所得格差を縮小する、農業余剰や農業余剰労働力の都市や非農業部門への移転を促進する、等の大きな効果がある」として、台湾も日本や韓国と同様こうした面で「かなりの成功を収めた」(『近代東アジア史像の再構成』P155~6)
と評価している。
いまでに地主制の残存と、そこから派生したゲリラとのたたかいに苦しんだフィリピンなどとの比較の視点も必要なのかも知れない。

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