公議政体論と立憲政体の模索~憲法と帝国議会(1)

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憲法と帝国議会(1)

 公議政体論と立憲政体の模索
    ~1850年代から1880年代前半へ

Ⅰ,「公議政体」論の勝利と敗北

     ~「オールジャパン」実現のために~

今回のテーマは「憲法と帝国議会」です。
法治主義によって国家が運営され、「国民」の意見を「議会」を通して集約してすすめる政治が始まる、今回のテーマはこの過程を考えることです。
しかし「憲法」にも「議会」にも「大日本帝国」・「帝国」がついています。憲法は天皇から与えられ欽定憲法であり、議会は天皇を協賛する存在と位置づけられていました。そのことで憲法も、議会も大きな制約をうけます。
このように今回のテーマには、こうした日本近代史の性格を示すテーマであることを頭に置きながら、考えていきたいと思います。その際に、日本が主権国家として世界=経済と向き合うために議会の存在が課題になった幕末から、憲法・議会が制定・開設され、実際に機能し始めた日清戦争後までを見ていきたいと思います。

(1)公議政体論の勝利?!
  ~主権国家体制への包摂とオールジャパン構想

封建社会は、実際の運用はともあれ、基本的には領主同士の閉ざされた「私的な関係」=人間関係を基礎とする人治が原則となっていました。(実際の江戸幕府の運営は組織化されていましたが)19世紀になり、日本が世界を意識しはじめる、さらに開国を余儀なくされると、法治と公議輿論に基づく政治への移行は逃れられないテーマとなりました。「世界=経済」に対抗するためには、日本全体を主権国家として再構築する必要が生まれたからです。
いくつかの課題がありました。とくに重要なのは、幕藩体制という封建的分裂状態を支えていた「二つの壁」をこわすことでした。「二つの壁」とは、封建諸侯が分立するという「ヨコの壁」と、人間が身分制的に分断されているという「タテの壁」です。
完全に撤去せずとも「先進」諸国に対抗できる程度には低くする必要がありました。別の言い方をすれば、日本列島に住む人間を主権国家の「国民」(「臣民」)へ、「国」の形も主権国家体制に対応したように作り替える必要があったのです

橋本 左内(1834~1859)
幕末の志士・思想家、福井藩主松平慶永のブレイン一橋派の理論的指導者。西郷隆盛らとともに一橋慶喜擁立工作をすすめる。
安政の大獄で処刑された。

こうしたナショナルな課題、国作りに対し、先駆的な議論を展開したのが越前藩の若き俊才橋本左内でした。蘭学をまなんだ左内は「将軍のもと、親藩・譜代・外様にかかわらず諸雄藩・明君たちを中央政府に参加させ、諸藩士・浪士・学者さらには乞食・雲助に至るまで有用の人物を適所に配置した幕府の規模における統一国家体制の樹立をめざす」(史料)との国家像をうちだし、西郷隆盛らにも大きな影響を与えました。
緒方洪庵のもとで世界の有り様を学んだ左内は、ペリー来航は「国民的合意」が必要な危機であると理解、それに対応すべき政治のあり方としてこうした国家像を示したのでした。しかし左内が進めようとした改革運動は失敗に終わり、安政の大獄の中、わずか25才で命を奪われました。
しかし天皇と幕府の協調を基本に、藩主=諸藩代表、さらには身分を超えた有用な人材が参加・協力するという国家像は幕末政治の大きな潮流を生み出しました。その後、有能な藩主らによる賢侯会議、諸侯会議、藩代表からなる列藩会議、藩代表を上院とし一般武士・草莽(豪農商)なども参加する下院との二院制などさまざ構想が生まれ、「合意」の対象は、大藩の藩主から藩エリート、一般の武士、さらには草莽へと広がって行きました。

薩土盟約「約定書」前文(青山『明治維新』) https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013750

こうしてさまざまな「合意」をめざす構想=「公議政体論」が生まれました。さらに福沢諭吉『西洋事情』などで西洋知識が伝わる中で広がりを見せ、1867年の「薩土盟約」(史料】薩土盟約)で定式化されました。
こうした議論の中で共通点と対立点が明らかになっていきました。天皇を元首とすることでは一致できても、これまで通り幕府が中心に運営するのか、否かがと対立点となり、幕府を中心とする立場、旧幕府を排除しようとする立場、中間的な立場が生まれ、対立しあいました。
1867年、将軍慶喜による大政奉還によって徳川慶喜中心の国作りが進められることを嫌った薩長を中心とする勢力は、中間派も巻き込み幕府抜きの「公議政体」実現をはかりました。それが王政復古でした。中間派の努力にかかわらず鳥羽伏見の戦いが勃発、旧幕府抜きの「公議政体論」の方向が勝利、戊辰戦争を経て確定しました。

(2)「公議政体」論の実現~「五か条の誓文」

このように1868年時点における国家構想の基本は、幕府抜きで天皇の下に諸藩が結集するとの「公議政体」の樹立でした。

王政復古でめざされた政権自体、皇族である総裁のもとに、有力諸侯と高位の公卿からなる議定会議(上院)と、諸藩の藩士と中位以下の公家からなる参与会議(下院)が設けられるという二院制を彷彿させる姿であり、その以後も藩主たちはつぎつぎと議定に任命され、諸藩からも藩代表(貢士)と中央政府への出仕(徴士)という形で人材が集められました。

「五か条の誓文」誓文発布儀式(青山『明治維新』)

五か条の誓文も、公議政体論を藩論とする越前藩出身の由利公正が公議政体を運営するためにつくった「議事之体大意(史料」が原型です。公議政体論の盛んであった土佐出身の福岡孝弟が手を入れ、最終的には木戸孝允が新政府の国論として完成させたものであり、公議輿論の尊重と(列侯)会議開催という「公議政体」論にもとづくものです。
発表形式も、1868年4月、天皇(実際はその代理の三条実美)が公家・諸侯を率いて神に誓うという「公議政体」論にしたがったものでした。(なお最初は天皇と諸侯・公家が対面して誓約を結ぶ形式です。)

(3)「公議政体」論の挫折

このように王政復古によって成立し、戊辰戦争の中で確立した維新政府は天皇を中心とする諸藩の連邦国家であり、それを天皇の権威、薩長をはじめとする軍事力によって結びつけているものでしたが、それだけでは不十分であり、なんらかの形での各藩の参加を保障することが必要であり、「公議輿論」を反映する機関、とくに諸藩の代表の参加のうらづけが必要でした。

公議所の座席表(青山『明治維新』)

議事所、議定官下局、公議所、集議院と名称とあり方は組織は次々と変わるもののこうした機関は設置され、藩代表による「公議政体」という枠組みを維持しようとしました。
実際に、版籍奉還をはじめとする多くの議事が公議所などに諮問されました。しかし、藩代表という自覚のうすい武士たちが、多人数での議論というルールもないまま議事を進めることは極端に困難でした。罵詈雑言が交わされ、議事が紛糾すると収拾は困難でした。公議所議員の森有礼が廃刀を提案したところ激高した議員たちに詰め寄られ、命の危険を感じて逃げ出すといったこともありました。

『明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料』

このように「公議政体」論にもとづく国作りは困難であり、建設的な議論になるどころか、障害となることが多かったのです。
さらに新政府が新たに設けられた役所は太政官制度という古代律令制に準拠する制度であったこともあり非効率的なものとなりがちでした。
そしてこの時期に、戊辰戦争、農民反乱や士族らの暴動など不穏な情勢がつづいていたのです。
こうした事態のなか、「攘夷」の理念を引き継いだ「条約改正」を実現するには、中央政府への求心力を強め、「富国強兵」と文明開化による世界基準の近代国家の方向をめざす必要があったのです。
こうした「開発独裁」ともいえる改革を推進したのが「維新官僚」たちでした。かれらも徴士として各藩から集められるはずでした。諸藩が人材を出し渋ったこともありますが、多くは政権中枢に近く西洋事情や実務、経験に長けた人材を多くもつ薩摩・長州・土佐、肥前などの出身者が中心となりました。あわせて行政能力に長けた旧幕臣も採用されました。
「非常」の事態に対処するためには強力な「革命」的な権力が必要でした。合法性よりも刻々と変化する状況に即応する判断力が、組織的・民主的な検討よりも独裁者(グループ)の判断が重視されました。ともすれば保守的・頑迷固陋になりがちな民主的ありかたよりも、啓蒙主義的で効率的でスピード感のある専制権力が幅をきかせたのです。
こうした事態のなかで、幕藩体制における身分や宮廷での立場などによって地位を得ることになった諸侯・公家らは改革の障害と見なされるようになっていきました。そこで大久保利通は一種の無血クーデタを敢行します。1869年三等官以上の官僚による入れ札(選挙)による官吏の削減を行ったのです。その結果、岩倉や三条、春嶽らをのぞき多くの公家や諸侯、守旧派らが去り、政権はスリム化されました。
こうして新たな時代に対応できないものたち、かつての身分や地位だけで役職に就いていたものたち、当時の政府の方針に反するものたちが排除されていきました。他方、残ったものはさらにスキルを身につけ国家官僚としての性格を強めていきました。こうした過程を経て、「公議政体」論に基づく国家像は後景に退き、有司専制がすすみ、公議輿論にかわって一部のリーダーによる人治へと置き換えられていきました。逆にいえば、実力と知識を持つリーダーたちの創意工夫が大きな影響力をもつようになったともいえます。頑迷固陋な公議所などに意見を下問する機会も減少します。とはいえ、公議政体にもとづくというたてまえも排除できず、廃藩置県後の「左院」へとつながっていきます。

(4)廃藩置県~「公議政体」論の敗北

王政復古によって成立した政権は天皇の下での公議政体に基づく国家実現をめざしていました。五か条の誓文もその方向で打ち出されました。
しかし度重なる困難と「条約改正」(それは幕末以来の悲願である「攘夷」が姿を変えた者に他ならない)実現のためにはつよい求心性をもった「強力な政権」であることが要請され「公議政体に基づく政府」との方針は薄らいでいきました。
さらに諸藩による連邦国家というあり方も重荷となります。各藩からしても、次々と押しつけられる政策と新たな事態に対処できないまま財政破綻が深刻化、藩の維持が困難となり、廃藩を願いでる藩もでてきました。逆に、和歌山藩や土佐藩などの急進的な藩政改革は政府からの自立を感じさせるものでした。
こうしたなか、おもに軍事に携わる官僚の間から近代的な中央集権国家を作るため、いまこそ廃藩すべきとの声が高まり、消極的であった大久保らもやむなしとの判断します。
こうして1871年、廃藩置県が実施されました。
廃藩置県の結果、封建諸侯が分立する幕藩制的地方分権体制は消滅し、天皇を中心とする中央集権的な国家が生まれました。このことは諸藩の割拠を前提とする「公議政体論」の基盤を喪失させることでもありました
藩の割拠という「ヨコの壁」の破壊と並行して、「四民平等」=身分制の解消という「タテの壁」の破壊も進みす。こうして「主権国家」形成と「国民国家」の基盤形成、近代国家の基礎が作られました。
 廃藩置県と「四民平等」という政策を通じて、日本列島に住んでいた人々は、日本という主権国家の「国民」(「臣民」)とされました。こうして主権国家の枠組みが成立し、そこに住むものを「日本人」とみなす意味でのオールジャパンが実現しましたが、主体的にその運営に参加するというオールジャパンは逆に後景に退きました。
中央集権化は中央政府を牛耳る「維新官僚」の権力を強化させました。出身藩への配慮という縛りが弱まることで、維新官僚は自藩出身者など個人的なつながりで人材を求めやすくなり藩閥色がさらに強まり、特権官僚が勝手な政治を行っているという「有司専制」批判も強まりました。
 こうしたなか、政府は「国家」を代表するという正統性、国民の統合=統治の正当性確保のため、新たな「公議政体」の枠組みがより必要となりました。新たな「公議政体」は欧米「文明」国に準拠した「立憲政体」の樹立でした。
立憲政体の樹立という課題は「文明国家」となることで条約改正を実現するうえでも大切なテーマでした。

Ⅱ,立憲政体の模索=「創成の時代」
  ~「オールジャパン」の漸進的実現のために

(1)遣欧米使節~立憲政体の漸進的導入という合意

岩倉使節団の出発
岩倉使節団の出発 欧米の文明が導入される大きなきっかけとなった。
「東京書籍日本史A」

新しい政治・社会創出というさしせまった課題の前で、幕末以来の「公議政体」論は追いやられ、ついに消滅します。とはいえ「公議輿論の尊重」という理念は正統性確保という意味から必要であり、当面は立法機関としての「左院」が残りました。
木戸孝允や大久保利通、伊藤博文ら指導者にとってもこの時期の政権のあり方は暫定的というもあり、新たな「公議政体」が求められました。
1871年にはじまる岩倉遣欧使節団のテーマの一つがここにありました。かれらは憲法や議会制度の調査を最大の課題の一つとして精力的にすすめます。憲法制定・国会設置という立憲政体移行では一致します。問題はどういう順番で、どのように実現するかでした。拙速な導入は混迷と反動への再発を招きかねないません。そこでもうひとつの合意が漸進的な実施でした。
維新官僚第一・第二世代にとって、国内情勢が不安定であり、内政改革も不十分な中、改革を強力に進める推進体としての維新政府を手離すことは、改革を遅らせ、失敗に終わらせかねず、時期尚早と考えました。彼らには自分たちが新しい国家を創っているという強烈な自意識がありました。使命感とともに自分たちの権力を手放したくないという権力者のエゴもあったのでしょう。
近代国家としての必須アイテムとしての憲法や議会は必要だが、ただちにそれを導入するのはまだ早い、国民が「国民」として成長をまってからというエリートとしての判断は立憲制の実現の課題を先送りにし、権力を手放すことを避けさせました。

(2)「民撰議院設立建白書」
   ~メディアを通した「公議輿論」の形成へ

政争に敗れた権力者がそれまでの態度を豹変させ「人民の声を聞け」と「正義」を主張する場面は現在でもよく見る風景です。1874年、板垣退助ら征韓派参議の主張もこうした側面を持っていました。
しかし、彼らが突きつけた挑戦状は重要な論点を抱えていました。古沢滋・小室信夫らがもちかえった西洋思想をもとに幕末以来のコンセンサスとしての公議政体論と五箇条の誓文の趣旨を語ったのです。それが「民撰議院設立建白書(史料)」でした。それを「公議政体」の忘れ形見ともいうべき左院に提出したのです。
 民意の尊重・民選議院の即時開会いう要求は、それまでの国是からしても、政府が準拠している欧米流の価値観からみても正統性があるとともに、征韓論を支持する士族、藩閥主導の政治、国民の声を聞かず急進的な政策のまえで困惑する人々にアピールするものでした。

民撰議院設立建白書を報じた「日新真事誌」「左院御用」が売り物

そしてこの建白書が、左院御用達を掲げる新聞「日新真事誌」に掲載されたことが重要でした。
建白書が公表されると、政府の御用学者であった明六社加藤弘之がさっそく他の新聞に「民選議院は時期尚早である」とも反論を発表、これをきっかけに新聞・雑誌紙、つまり公衆の面前で国家のあり方が公然と議論されたのです。
投稿者たちはしだいにジャーナリスト、あるいは政治家・思想家としてとして言論の場で活躍、そのまわりにさまざまな結社も生まれました。
こうして「公議輿論」はメディアという新しい媒体を介して形成される時代となりました
この点については「大新聞と小新聞~マスメディアの発展1」をご覧ください。

(3)大阪会議と「立憲政体樹立の詔」

この間、農民反乱が激化とともに、士族の不満も高まり大久保の元主君島津久光が改革を強く批判、全国の士族の支持を得るようになっていました。士族の不満は民権運動という形も取り始めました。政府はそうした動きにくさびを打ち込む必要がありました。条約改正の実現のためには民権派の主張にも配慮する必要もありました。

大阪会議跡地にあるレリーフ
(右上から)大久保・木戸・板垣・(右下から)伊藤・井上馨

大久保利通の独裁という非難のなか、事態の打開をはかろうとしたのが長州出身の伊藤博文でした。伊藤は盟友の井上馨と外交政策に反発した木戸孝允の政権復帰を画策したのです。
かれらはこれを機会に、木戸の年来の主張であり、かれらも望んでいた立憲政体導入への道筋をつけようと考えたのです。
かれらは木戸と接触するだけでなく民権運動の領袖で土佐派の首領でも板垣退助にも声をかけ、三者会議を実現します。これが1874年に開催された大阪会議です。立憲政体の漸次導入には大久保も異論なく、木戸・板垣は参議として政権に復帰しました。

大阪会議の合意に基づき、消極的であった岩倉らをおさえて発せられたのが「漸次立憲政体樹立の詔史料」です。こうして立憲政体樹立が国是として定められました
ここでは、
立法機関としての元老院、司法機関としての大審院、地方の情勢を聴取する地方官会議の設置が決定し、最終目標としての憲法制定・国会開設の方向が打ち出されますが、その時期は明示されず、ゆっくりと立憲政体を実現するというにとどめられました。
この内容の多くは木戸の持論にもとづくものでした。
政府内の意見対立から元老院は立法府というよりも政府の諮問機関とされます。元老院は天皇の命を受け憲法案の作成を進めましたが、完成した草案は各国の憲法の寄せ集めという性格が強く、伊藤や岩倉ら当時の指導者の支持を得られず日の目を見ないまま、消えていきました。
しかし江華島事件をきっかけに板垣や木戸、さらには右大臣となっていた島津久光らも政府を去り、ふたたび大久保専制となりました。そのもとで政府は、反政府的な言論を封じ込めるため、新聞紙条例讒謗律という命令がだします。

Ⅲ、「建設の時代」~民権運動との対決の中で

(1)維新三傑の死

大久保が「創成の時代」といった時代がおわり、第二段階「建設の時代」に変わるきっかけとなったのが1876年の西南戦争終結でした。最強を誇った鹿児島士族軍が国民皆兵の原則にたつ政府軍に敗れ、政府側の軍事的優位が確立、軌を一にするように各地の農民反乱もおさまっていきます。近代的な警察組織なども確立、武力によって明治国家に立ち向かうことは不可能な時代となりました。こうして言論の時代が本格化します。
1877年「建設の時代」にもつよい意欲を持っていた大久保利通が暗殺され、カリスマ性の強い第一世代の指導者は岩倉を残し去って行きました。政権は岩倉と、伊藤・井上馨・大隈重信ら第二世代が担うことになります。
政府が崩壊しかねないといった緊張感が薄らぎ、カリスマ性のつよい指導者も去り、また明治天皇が成長し天皇親政論もたかまるなかで、政府内の求心力も失われつつありました。

(2)インフレと「大学習時代」

西南戦争は政府に大きな財政負担を与えました。「西郷札」とよばれた不換紙幣の大量発行が発行され、これにより激しいインフレが発生します。インフレは、貨幣にもとづく財政運営をはじめた政府を直撃しました。
他方、農村ではまったく別の風景が広がっていました。農産物価格が高騰、1874年の地租減免ともあいまって時ならぬ好景気が出現していたのです。豪農はもとより自作農にとっても新時代の恩恵が得られたようにみえました。好景気は農民の政治・社会・あらたな農業などさまざまなものへの関心を高めました。色川大吉が「大学習時代」と名付けた時代が到来、「豪農民権」の経済的・社会的背景を形成しました。
しかしインフレは士族をはじめとする都市住民を苦しめます。待遇改善がなされないことに腹を立てた天皇直属の近衛師団の軍人による反乱事件=竹橋事件が発生、政府はつよいショックをうけました。

(3)1880年代の三層構造

この時期の日本を考えるには三つのグループを中心に考えると分かりやすいように思われます。牧原憲夫に学びつつ考えたいと思います。

1)政府と政府を支える勢力
~藩閥政治家・官僚・エリート知識人・華族

一つ目は政府とそれを取り巻くグループです。社会階層でいうと華族・官僚・エリート知識人・政商などがあげられるでしょう。
天皇を中心に近代国家を実現するという強いエリート意識をもって、富国強兵・殖産興業・文明開化といったスローガンで示される改革を上から啓蒙主義的にすすめようとした人々です
○積極的な近代化と、消極的な近代化
こうした改革のためには自分たちのもとに権力が集中されている方が効率的です。かれらは自分たちは必要な、あるいは都合のよい近代化を選択しながらすすめていきます。資本主義化や軍事化には積極的であり、目的のためには身分も軽視した能力主義的な対応をします。他方で、憲法や立憲政体・法治主義、自由や人権の付与となどの優先順位は後回しとする傾向があり、与えるとしても上から恩恵的に与えるべきという意識がありました。
その背景には、かれらのエリート意識と表裏一体となっている愚民観があり、権力を失う事への不安がありました。
○藩閥政治家と開明派・保守派知識人たち
政府内には、大隈・伊藤ら開明派とともに、軍備拡張を優先する山県有朋ら、天皇制を第一に考える岩倉具視、天皇親政論を唱える佐々木高行ら天皇側近、薩摩閥の利害を重視する黒田清隆など、互いに重点の置き方に違いをもつリーダー・グループが併存し、合従連衡を繰り返していました。さらに西洋事情に詳しい知識人でも、福沢諭吉ら英米的・リベラルなグループと、井上毅や加藤弘之らドイツ的・絶対主義的なグループがあり、元田永孚のような保守派もいました。かれらが出身藩や学閥、組織などの人間関係やセクショナリズムによって結合したり、敵対したりしていました。
とはいえ、「創成の時代」がおわり「建設の時代」となり、「条約改正」の実現がスケジュールに上ってくるなか、「文明国の一員」となり、自らの権力基盤をより強固なものにするためには立憲政体への移行が不可欠であることは多くが理解していました。1874年の「立憲政体樹立の詔」は単なる弥縫策ではありませんでした。
○権力基盤拡大のために
かれらが権力基盤拡大の対象として考えていたのが、自由民権運動の最大の担い手でもある農村や都市のリーダーや士族といった中間層でした。1874年以降進められた地方制度の改革(「三新法」体制は国家を人的・資金的に支えるべき地方有力者を配基盤に取り込んでいく方向をめざすものであり、教育制度の整備は能力主義を導入することで新たなエリート層をすくい上げる役割を果たしました。
他方、多くの民衆は兵役・義務教育などによって「国民」化され、「上向」の可能性は与えられたものの、実際には支配すべき被治者、労働や軍事力の対象として認識されており、政治の主体的な担い手との位置づけは希薄でした

2)自由民権運動と中間層
~士族、農村支配層・都市富裕層

二つ目のグループは自由民権派を支える中間層ともいうべき階層です。そこには士族、農村支配層など富裕農民や裕福な自作農など、土地や家などの資産を持った都市有力者などがはいるでしょう。前者はそれまでの支配階級としての文化知識とノウハウをもち、後者は近世とくに後期以降の経済発展の中で資産と教養を身につけてきた、いずれも知的な環境にあったひとびとであり、政府の藩閥政治・有司専制や諸政策に対しては強い不満を持つ一方、「文明開化」の機会を生かして成功をめざし、第一のグループにも参加しようとする存在でもありました。
士族
士族は、幕末・維新の変革を支えた身分ではあったものの、その多く、とくに非藩閥の士族の多くは新たな機会を生かすこともないまま、支配階級としての地位と名誉、経済基盤を失います。その怒りと絶望のなか、一部のものは士族反乱に向かい、他のものは民権運動や言論の世界に身を投じました。西南戦争は政府に対する暴力での抵抗の無力をさとらせ、さらにそれにつづくインフレは困窮と職業難を加速させました。
彼らは自らのプライドを生かす機会を求めつつ、あるものは残された資産をあてに引きこもり、あるものは意に沿わぬ仕事にも向かいました。
とはいえ新しい時代は、学問と知識をもつ人材への需要を急速に拡大していく時代であり、江戸時代以来の基本的な学問・教養と官僚としての適性、学びに対するエトスを持ち合わせていた士族に可能性が広がっていく時代でもありました。急速に拡大していく知識社会を背景に、士族のなかから多くの成功者も生まれるようになっていきました。第一グループへ参加するものも増えていったのです。
この点については「武士はどこにいったのか(3)」を参照のこと
○農村・都市中間層と民権運動・三新法体制
富裕農や都市商工業者たちは、近世社会のなかで蓄えられた経済力と知識・ネットワーク、地域における実績と名望をもち、ながくつづいた身分制的な抑圧から解放されるべき時代に期待をもっていました。
双方のグループとも、新しい時代に乗じうる資格をもっているのもかかわらず、それが実現されないのは藩閥など不当な支配によるものと考えるものも多く、それが民権運動のエネルギー源となっていました。彼らの政府への批判・攻撃性はこうした可能性と期待の裏返しという側面ももっていました。
西南戦争後のインフレは、富裕農にとって豊かさを実感し、新しい時代への期待をふくらませるました。三新法によって地方政治への参加が可能となったことは、あらたな期待をも高めました。
一方における不満と他方での期待がかれらの自由民権運動への参加を後押ししていました。そして公議政体論などの理念や西洋における自由・民主主義・人権思想なども吸収、政府がめざす近代とは異なる説得的な近代像を提示するものもあらわれはじめました。
たしかに自由民権運動は中間層の一部の運動に過ぎなかったでしょう。しかし、その背後には、新しい時代に適合し、その担い手となろうとする幅広い勢力の動きがありました。そのため、政府は一方ではこの波頭ともいえる民権運動は弾圧して従順にしつつ、この層を自分たちの支持基盤へと組み込もうとしたのです。○民権運動家と地方名望家
1881年にはじまる松方デフレはとくに農村の様相を一変させました。農村危機のなか自作農は一挙に没落のペースを速め一部は急進化、困民党運動や激化事件を引き起こしました。他方、富裕農は土地の買収をすすめて地主の性格を強化、その資産を銀行や鉄道などに投資、地方における有力者「地方名望家」として、地方政界さらには中央政界への進出をめざすものも現れます。
こうして民権運動の担い手であった政党は反体制的な性格をうすめ、政府とは緊張関係を保ちつつ、政治参加によって公的な権利と階級的・地域的・個人的な利益をもとめるようになります。
この変化が政党のあり方を変え、明治後半の政治のあり方を変えていくことになりました。

3)民衆、「客分」とされた人々
~農民・都市住民・底辺のひとびと

三つ目のグループは民衆ともいうべき階層、農村の多数を占める自作農や小作農などの貧農、都市の一般住民といった人々です。
幕末は「世直し」を期待して一揆や打ちこわし、ええじゃないかなどにかかわり、明治以降は自分たちの世界を破壊し敵対していると感じる新政府に血税一揆や地租改正反対一揆などで立ち向かった人々です。現状の社会に不満を持ち「世直し」を求めたとしても、あくまでも政治は「お上」の仕事で、自分たちは「客分」であるという意識の強い人々でした。
〇資本主義を下支えするひとびと
自作農の一部は、西南戦争以後の好景気の中、あらたな時代への期待から民権運動に参加したものもいましたが、政府のデフレ政策(「松方デフレ」)によって苦しみ秩父事件を頂点とする困民党運動(「農民の民権」)を引き起こしたものの、農村では小作率が上昇、農村に残った者は小作の割合を増したりしながら、あるものは農村を捨てて都市雑業層などとして、生きていくことになります。かれらのなかから、新たな産業革命以後の工場労働者や炭鉱・鉱山、土木現場などの労働者が供給され、日本資本主義を下支えしました。
〇「国民」とされていく民衆
とはいえ、まったく放置されたわけでもなく、兵士として、工場や農業の担い手として、なによりも文明国の「国民」であることが求められ、義務教育なども課されました。そうした機会を生かして上昇する人も生まれました。

(4)大隈の即時国会開設論と岩倉・藩閥勢力

不換紙幣はインフレを深刻化させ、実質的な政府歳入の減少をもたらし、地租米納化復活も話題に上ります。財政担当の大隈が検討した外債募集(「赤字国債の発行」)は政府内のつよい反発を招き、明治天皇の名で挫折します。大隈は筆頭参議の立場ではあったものの非薩長閥という出自もあり孤立し厳しい立場に追い込まれていきました。

大隈 重信(1838~ 1922) 元佐賀藩士、明治初年より参議・大蔵卿として新政府の中心として活躍した。この時期は伊藤と並ぶ最有力の参議であった。

こうしたなか、大隈は左大臣有栖川宮熾仁親王を通して明治天皇に立憲政体樹立にかかわる意見書を内奏しました。それは年内に憲法大綱をまとめて議員を召集、翌年には国会を開設するという急進的な国会開設案でした。
この案を起草したのは福沢諭吉門下の矢野文雄です。矢野らはこの直前、極めて完成度の高い「交詢社私擬憲法案(史料)」を発表しており、その内容が大隈案にも反映していました。
交詢社案は天皇の軍事外交大権や行政・司法権を認めつつ、議会多数党の首領に内閣組閣を命じるという政党政治を前提としたイギリス流の議院内閣制を導入するといった内容であり、藩閥政治家による政権の独占を困難とし、政権交代の可能性を認めるものでした。
ことの重要性を察した岩倉は、その内容を伊藤に伝えるとともに、保守派の理論家井上毅に対案作成を命じ、それを岩倉の意見書「大綱領」として提出します。
「大綱領」は、「交詢社」案の章立てや、「神聖不可侵」という文言、天皇大権との考えなどを利用しつつ、最終的には議院内閣制を否定し選挙による政権交代を不可能にするというドイツ憲法に近い正反対の憲法とするものであり、これこそが明治憲法の骨格との指摘も多いものです。
他方、岩倉を通じて大隈案を知った伊藤は激怒しました。
伊藤はこの年の正月、井上馨も交え、保守派と対抗し、福沢らの力もかりながら、漸進的に立憲政体をめざす方向で合意したと思っていたからです。伊藤は藩閥政治家という立場からも大隈の排除に向けて動き始めました。
なお大隈は伊藤は賛成してくれると思っていたため驚き、さっそく伊藤のもとを訪ね、関係修復を働きかけました。

(5)開拓使官有物払下げ問題

こうしたなかで発生したのが開拓使官有物払下げ問題です。インフレにともなう歳入の減少は、これまでのような開発独裁型の諸政策を困難にしていました。
こうしたなか、大隈もこれまでの官主導の殖産興業政策を改め官営工場を民間に払い下げる方針(「工場払下概則」)を出しました。
このように大量の税金を投入した成果をきわめて安価で民間に払い下げることに批判の声が上がるのは当然でした。しかし、払い下げをうけるにはそれまでの成果を引き継いで発展するだけの企業でなければなりませんでした。そうしたものの多くは政府と癒着した企業人=「政商でした。

黒田清隆 薩摩閥の中心人物。長年開拓使長官を続けた。

こうした中、薩摩派のボスである開拓使長官の黒田清隆は、巨額の公費を投入してきた開拓使官有物の払い下げを計画しました。黒田からすれば、このプロジェクトを引き受けさせるには気心のしれたものである必要があり、さらなる追加負担が必要な事業を継承させるためにはできる限り安価である必要がありました。黒田が依頼したのが薩摩出身の政商五代友厚でした。
多額に税金を投入して得た財産を、同じ薩摩藩出身の政商に極端に安い価格と条件で売却する……。政治の私物化を批判していた勢力から見ると、これは藩閥政府批判の格好の材料でした。大隈もこの案には大反対でした。
問題は、このスクープを報じたのが福沢系の新聞だったことです。藩閥政府内に基盤を持たない大隈が頼りとしていたのは矢野文雄ら慶応義塾出身などの開明派官僚やブレインでした。西洋文明などへの深い知識を持ちつつ、藩閥政治には疎外されるということで両者は近い立場にありました。
藩閥派は問題が表面化したのは大隈のリークと疑いました。
こうして、国会開設問題と開拓使官有物払下げ問題が結びつきました。
なお、大隈と福沢の結びつきとの噂は、福沢らイギリス流の憲法論に反発する井上毅が意図的に流したとも言われます。

(6)明治14年の政変と国会開設の詔~伊藤の勝利

政府内では大隈の排除が画策されます。大隈が天皇の随行で旅行をしている間に、薩長両派の参議があつまり、藩閥の力が拡大することを嫌う岩倉の難色を押し切って大隈排除を決定しました。これが明治14年の政変です。
開拓使官有物払下げは中止され、反発した黒田は政府中枢から離れます。大隈も、大隈派の開明派官僚たちとともに罷免されました。
これだけなら単なる政変ですが、あわせて政府は大きな決断をしました。10年後の国会開設を公約するという「国会開設の詔」です。国会の即時開設を拒否しつつ、十年後に開設すると公約することで国会開設問題にけりをつけることで、国会開設をめざす進歩的な民権派と拒否する頑迷な藩閥政府という図式が成立しなくなりました。民権運動の「錦の御旗」が奪われたのです。

井上毅(1844~1895年) 熊本藩出身の官僚・政治家 抜群の学識で岩倉・伊藤の ブレインとなる。明治憲法 ・教育勅語起草の中心人物

この命令を起草した井上毅は、そのねらいを
①内閣の一致とくに薩長の一致を示す
②天皇の命令(勅諭)でなければ事態を鎮静できない
③急進派はムリでも中立派の士族は味方にできる
④反対するものは急進派と見なすことができる
と語りました。
この原案に伊藤は「ことさらに躁急を争い、事変を煽し、国安を害するものあらば処するに国典をもってすべし」というすごみのある語を可加えました。佐々木克は「民権運動に押されて出された側面もあるが、民権派の要望を先取りして具体的な形で示し、民権陣営の構想する憲法や議会にはまけないものをつくるという政府の自信の表明でもある」と論じました。
自由党を結成することになるこれまで国会期成同盟に結集していた旧来の民権派の主張は迫力を失い、大隈が都市知識人たちとともに地方議会などでの合法的活動を重視する立憲改進党を結成したこと、政府が集会条例をさらに強化したとあいまって守勢にまわらざるえなくなりました。
この詔勅のもう一つの意味は、岩倉や黒田といった消極派の同意も取り付けたことです。
こうして、明治14年の政変は漸進的立憲主義をめざす伊藤の勝利に終わりました。

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1:公議政体論と立憲政体の模索 (1850代~1880代前半)
2:明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)
3:憲法体制の整備と初期議会(1889~1894)
4:明治憲法体制の成立と展開(1894~ )

<参考文献>

稲田正次『明治憲法成立史(上)』(有斐閣1962)
三谷 博『維新史再考』(NHK出版2017)
青山忠正『明治維新』(吉川弘文館2012)

宮地正人『幕末維新期の社会的政治的研究』(東京大学出版会1999)
色川大吉『自由民権』(岩波新書1981)
久保田哲『帝国議会』(中公新書2018)
大石 眞『日本憲法史』(講談社学術文庫2020)
鳥海 靖『日本近代史講義』(東京大学出版会1988)
ジョージ=アキタ『明治立憲制と伊藤博文』(東京大学出版会1971)
牧原憲夫『客分と国民のあいだ』(吉川弘文館1998)
『民権と憲法』(岩波新書2006)『文明国をめざして』(小学館2008)
坂野潤治『近代日本の出発』(小学館1989)
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)
『明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料』(衆議院憲法調査局事務局2003)

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