明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)~憲法と帝国議会(2)

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憲法と帝国議会(2)明治憲法の制定と憲法体制

Contents

Ⅳ、伊藤の訪欧と憲法体制の整備

(1)伊藤の訪欧~執行権力の独立

明治十四年政変は、伊藤が今後に責任を負うことでもありました。

ビコー画 伊藤は「東洋のビスマルク」とよばれ、ドイツの崇拝者のように思われていた。

かれが憲法制定をすすめるうえでいくつもの前提がありました。
①十年間という限られた期間で国会開設・憲法制定を実現することです。天皇が約束したことを違えるわけにはいきません。
②幕末以来の挙国一致という理念、五か条の誓文、さらに先輩の木戸・大久保から託された課題、こうしたものに応える内容であること。
③岩倉たちがもとめる「天皇中心の日本」のあり方を表現できること。君主個人が絶対的な権力をもつドイツ型でも、イギリス流の立憲君主制でもないこと。
④薩長中心の政治の枠組を温存すること。国会開設によって民党などに政権を奪われる事態をさけること。
⑤新たなる憲法、開設される国会は「文明国」=立憲国家として水準に達する内容であること。
また知識では勝てない井上毅や慶応義塾出身の知識人らも脱帽させたい野心もあったでしょう。プレッシャーの重さは伊藤の酒量を増やし、心配した寺島宗則のすすめもあって伊藤は3度目の訪欧に旅立ちました。

(2)「条文」よりも憲法「体制」
  ~伊藤がシュタインから学んだもの~

伊藤は既定路線に従い、ドイツ憲法を学ぶべくベルリンで法学者グナイストや弟子のモッセに学びます。しかし皇帝権限強化、議会に予算決定権を与えるべきでないなどの指摘に伊藤は納得できなかったようです。
「非欧米人に憲法や議会の運営は無理だ」との意識が見え隠れすることに気づいたことや、英語ではなく通訳を使う不慣れなドイツ語の講義をきらったという面もあったといわれます。しかし、なによりも伊藤自身ドイツ=プロイセン流の憲法理論では不十分と考えたからでしょう。

シュタイン(1815~1890)ウィーン大学国家学教授。ヘーゲル法哲学とフランス社会主義の影響のもとに,階級対立をはらんだ市民社会に君主の行政が介入することによって労働者階級を保護するという独特の社会君主論を唱えた

伊藤の目を開かせたのはオーストリアの行政学者シュタインでした。かれは個々の条文よりも、憲法体制ともいうべき国家システムとその運用の重要性を語ります。行政機関に国会や君主と対抗できるだけの自立性と力をもたせるような「執行権力の独立」を説いたのです。これをうけ伊藤は憲法の条文と同時に行政のあり方も重視するようになりました。
ドイツ留学後、伊藤はイギリスに向かいます。皇帝専制のドイツに物足りなさを感じた伊藤は、君主権にも対抗しうる執行権力のあり方をイギリス立憲君主制に求めたともいわれます。
こうして伊藤は、民権派や慶応グループはもちろん、井上毅にも対抗できる最新の知識を身につけて、帰国しました。

(3)あらたな「天皇」像の創出
~「生身の天皇」は宮中の奥に

帰国した伊藤の初仕事は宮中改革です。

明治天皇(1852-1912)

それは、壮年期を迎え自らの信念を政治に生かそうと考え始めた明治天皇、天皇親政をめざす元田永孚や佐々木高行ら天皇側近勢力との対決でした。
宮内卿を兼務した伊藤がすすめたのは、天皇が政治に口出しにくいシステムづくり、天皇の権威を尊重しつつ責任を問われることのない体制作りでした。
当初、明治天皇は反発、不快感を表明して面会を拒絶、ひきこもりました。しかし最終的に天皇は伊藤を選びました。
こうして明治憲法体制下の「天皇」像が創出されます。
天皇は個々の政局などからは相対的に独立し、権力を行使せざるをえない場合も、幾重にも張り巡らしたシステムが天皇を補佐しました。こうして「生身の天皇」は直接責任を問われず、皇居の奥深くで国家権力を聖別する神聖な存在となりました。
具体的には
①皇室の規則(「皇室典範」)は国家の規則である憲法とは別立て。
②「宮中」(宮廷の事務・家政)と「府中」(行政府)を分離、「宮中」は内大臣・宮内大臣・宮中顧問官などが天皇を補佐する。
③巨額の皇室財産を設定し皇室財産を独立採算化。国会や内閣からの財政的独立。
④公的な天皇の意思(=詔勅)は「枢密院」の協議を経る。
こうして天皇の個人的な見解や判断を封じ、天皇制の信頼を損なわないよう、天皇個人が責任が問われないよう、さまざまな仕掛けが施されました。
(江戸時代の将軍家や大名家の多くでも似たシステムになっていたようにも見ますね)

天皇は政治に関与しなかったのか?

御前会議の様子(1943年のもの)

しかし、天皇が政治に関与し、政治的発言をしなかったというわけではありません。
明治・大正・昭和の各天皇は、時期と個性に応じ、主体的に、ときには積極的に、政治に、大戦中には軍事作戦にも関与しました
実際、教育勅語は明治天皇が主体的にかかわって発表されたことがわかってきています。
武士はどこへいったのか4」)参照

多くのばあい、天皇は内奏御進講への対応のなかで、みずからに意思を反映させました。総理大臣など各大臣や軍人などの説明にたいし同意したり、反問したり、あるいは話題になっていることを聞くなどの形で、天皇の意見や指示が伝えられました。こうした場で天皇が納得することがGOサインでした。
こうした手続きがあったからこそ、天皇臨席の御前会議などでも直接的な発言をせず、天皇は政治に直接かかわっていないという「神話」を生み出すことが出来たのです。
(なお、こうした場でさえ、不快感を和歌などで匂わせることがありました。臣下は聞かないふりをすることが多かったようです。)

(4)内閣制度の導入~第一次伊藤内閣

並行して、執行機関の整備が始まります。
1885年12月、明治初年以来つづいた太政官制度が廃止され、内閣制度が導入されます。こうして公家・皇族などが執行機関の長となって、天皇との間をつなぐという縛りがなくなりました。
そして、伊藤博文が初代内閣主宰者=総理大臣に就任、第一次伊藤博文内閣が成立しました。各省長官としての国務大臣の大半を薩長の有力者で占められました。(この内閣の閣僚のうちの薩長出身者の大部分がのちに「元老」として指名させます。)

第一次伊藤博文内閣

政務は内閣が責任を負い、国務大臣が各省にたいする責任を持って国政にあたり、天皇は個別の政策にはかかわらなくなりました
当初、内閣は総理大臣が行政全体を統括するという大宰相制を取りましたが、内閣制度は「幕府」の復活につながるとの指摘もあり、憲法上では国務大臣のみ記され、内閣について明記されませんでした。
最初の内閣、第一次伊藤内閣は、以後の基礎となるさまざまなルールをつくります。法律・勅令など種別、立法過程のルール、文書形式の統一など、さらに文官試験改正など官僚登用システムなどが整備され、人材育成のための帝国大学令もだされました。
こうして行政にかかわる制度の多くが整備されました。

(5)帝国大学と学歴社会
~藩閥と融合する学歴エリートたち

明治14年の政変は伊藤に別の課題も痛感させました。
ライバル大隈の周りには高い専門性をもったブレーンがいるのに、自分の周りには人材が乏しく、岩倉とも近い井上毅らに頼り切らざるを得なかったことです。
さらに「執行権力の独立」のためには高度な専門知識を身につけた人材が多数必要でした。しかし高等教育機関の整備は不十分で、慶応義塾など民間の機関は政論の場になりがちでした。

(東京)帝国大学 1903~4年頃撮影 Wikipedia「帝国大学」より

明治初年以来、作り上げてきた執行機関を受け継ぎ、発展させるためには、人材を組織的に育成する組織が必要でした。そのために設置されたのが帝国大学(現:東京大学)です。
欧米から教授陣を招き、学生に学術的・専門的な知識を身につけさせ、学術の移植、定着をはかりました。卒業生を無試験で官僚に採用しました。エリートをめざす若者たちは帝国大学に殺到、多くのエリートが明治憲法体制下の行政・外交・司法、さらには経済界などに供給されました。
そしてこれまでから国家権力を掌握してきた藩閥勢力・官僚・政商などと婚姻などさまざまな形で結びつきました。こうして強固なエリート集団が形成され、継承され、行政・官僚機構、さらには財界などを人的に支えました。

学歴社会の成立

「武士はどこにいったのか(4)国民教育の定着と学歴エリート」より

官僚採用の窓口は私立の高等教育機関などにも広げられ、帝国大学(のち東京帝国大学)を頂点とする高等教育機関のピラミッドが形成されます。さらに中等教育機関などの整備もすすみました。
こうした制度が整備されたことで、帝国大学などに入学すれば族籍・藩閥・貧富などで不利であっても、能力でエリート入りできるようになりました。一般士族・地方名望層など中間層の子弟からも支配層に加わることが増え始めていきます。こうして政府に反発していた中間層も、学歴社会への参入というルートをへて明治国家の枠内に組み込まれるようになりました。
官吏登用のシステムの整備は、これまでの有力者との個人的な関係など多様な形で行われてきた人材登用が、学歴中心に一元化し、官僚となった後も年功序列などのルールで左右されるようになってきたことでもありました。
立身出世の「英雄時代」はおわり、学歴・卒業年などが大きな意味を持つ「退屈な」時代へ変わっていきました。明治20年代になると、政治運動も体制化がすすみ、一部の若者の間に閉塞感が生じ始めました。
この点については「武士はどこへいったのか4」でまとめてみました

(6)地方行政制度の整備
~「中間層」=地方名望家のとりこみ

大区・小区制~村の自治の喪失

中央と並行して新たな地方行政制度も整備されました。
江戸時代、諸藩や幕領など各種の領主の下で村落は、村請制の縛りのもとで一定の自治を認められていました。
しかし、近代になると、名主庄屋は廃止され、村の自治は失われ、旧来の村をいくつか併せた小区と、いくつかの小区からなる大区が置かれ、上から任命された戸長などのもと、戸籍の作成や徴税などの国家行政機構の末端を担わされました
その結果、本来自分たちのための「住民サービス」などに充当する経費村入用などは地方税に姿を変え、使えなくなりました。こうした地域社会を無視した強引な手法が、地租改正や文明開化などへの反発とあいまって、各地の農民反乱にとつながっていたのです。

地方三新法

こうした事態に直面した政府は、地方行政への村落指導層の参加、さらに地方税への住民の関与をみとめる手直しを行います。大久保時代の1878年の地方三新法です。これにより①地方税の額と使途の協議、②住民の選挙による府県会設置、③地方税の種類と限度額決定といった権限の地方委譲などが実現しました。

地方議会と民権運動

自治の一部は回復されましたが、これに参加できたのはやはり一定程度の土地を所有する成年男子、とくに地方有力者であり、「民衆」の多くは「客分」のままでした。
自由民権運動を支えたのは地方有力者であり、かれらが三新法体制の担い手とされていました。したがって、地方議会には民権派が進出、開発独裁を進めようとする県令と民権派支配下の県議会が衝突した福島事件なども発生しました。
自由党系が政府との対決の姿勢がつよかったのに対し、大隈率いる立憲改進党は三新法の仕組みを利用することで影響力を拡大するという戦術をとりました。

 

 

 

 

地方行政制度の見直しは憲法体制構築のなかですすめられました。

明治地方自治制度と地方名望家

1888年には市制・町村制が、1890年府県制・郡制が実施され、これとあわせて明治の大合併がすすみ、1888年71314を数えていた市町村数は、翌1889年になると、15859へと劇的な減少となりました。こうして市町村の規模は一挙に拡大、自然村とのズレはいっそう拡大していきました。
徴兵や教育など政府の諸政策をすすめるには、地主など地方名望家を取り込みと協力が必須であり、地域社会の課題を自主的に解決させる枠組みと規模が必要だったのです。そして名望家に選挙権を与えたり、町村長とすることで、地方行政に彼らを取り込もうとしました。
帝国議会が制定されると、こうした名望家も帝国議会にも進出、政府との関係を深めることで自らの権利拡張や利権などにつながることを実感しはじめます。こうして地方名望家のなかから、自らの要望実現や利権獲得のために政府に協力するという構図が広がります。
こうして地方名望家による地方支配の定着によって明治憲法体制が定着、政治の安定化もすすみました

(7)華族制度と貴族院~新たな身分制の創出

国会開設が近づくにつれて国会の準備もすすみます。
国会開設は「国民」代表に発言力を与え参加意識を高めることで、権力基盤を拡大し、立憲制を機能させることです。他方、権力側からすれば、新たな勢力が国会を通して影響力を拡大し、自らの地位を脅かすことは許しがたいことでした。
かれらの関心は「国民」代表の発言力をいかに制限するかでした。そのため帝国議会内部にも、「国民」代表=衆議院を牽制する議院としての上院=貴族院を設置しようとしたのです
伊藤は欧州各地で「士族は解体すべきではなかった」との意見を聞いたといいます。ヨーロッパには貴族代表らによる上院が存在する国も多く、それが議会の急進化をチェックしてきた、日本はその機会を放棄したというのでした。
しかし「上院」の母体としての「士族」は事実上解体しており、またかれらを集めたところでプラスとならないことは明らかで、また当時の貴族身分である華族(かつての公家と藩主、427家)に期待するにも力量不足でした。
そこで伊藤らが考えたのは、天皇制の藩屏としての貴族(華族)の拡大です。それが1884年の華族令です。
これにより、華族は、維新等での功労者・官僚などで国家二貢献した者とその子孫にも広げ、新たに公爵以下5段階の爵位をあたえました。またその生活を安定させるべく、政治的・社会的・経済的特権も与えました。
特権の一つが貴族院の議席でした。公爵・侯爵家は全員、伯爵以下は互選で華族議員になることができました。伯爵議員以下は歳費も得られたことから、かれらの収入源という意味もありました。(なお爵位をもつことは衆議院議員の権利喪失につながるため、原敬は叙爵を拒み、高橋是清は隠居して、爵位を譲り衆議院に出馬しました。)

誰か華族となったのか?

徳川宗家と五摂家にくわえ、三条(実美)・岩倉(具視)・島津・毛利など維新に功績のあった一族を最高位の公爵とし、大久保・木戸らの子孫は侯爵(のちには西郷隆盛の子孫も)、薩長出身の伊藤や黒田、山県だけでなく大隈や板垣・後藤など土・肥出身の民権派も、旧幕臣の勝らも伯爵とし、戊辰戦争で賊軍となった榎本武揚も子爵とするなど、反藩閥意識にも配慮して爵位を与え、従来の華族と合わせ509人の有爵者が生まれました。
その後も華族は増加し続け、伊藤や山県らは最上位の公爵へと登り詰めました。創設から廃止までの間に存在した華族の総数は1011家となります。

こうして明治維新の四民平等の理念は後景に退き、上流身分が整備され、身分制が強化されました。なお叙爵には政治家や官僚たちのお手盛りともいえる姿をみることもできます。

Ⅴ、明治憲法の制定へ~立憲政治とは

(1)夏島会議~憲法草案の準備

制度上の準備と並行して憲法案の検討が始まりました。
憲法案の検討に際して、伊藤は次の七点を指示しました。
皇室に関する綱領は皇室典範として憲法より分離する。
②憲法は日本の国体及歴史に基き起草する。
③憲法は帝国の政治に関する大項目のみに止め、簡単明瞭とし、将来にそなえ伸縮自在にする。
④議院法、衆議院議員選挙法は憲法には加えず、法律で定める。
⑤貴族院の組織は勅令を以て定め、その改正は貴族院の同意を必要とする。
⑥日本帝国の領土区域は憲法には掲げない。
⑦大臣弾劾の件を廃し、上奏権を議員に付与する。

(衆議院憲法審査会資料)

夏島会議を記念した絵はがき。写真左から井上毅、金子堅太郎。伊東巳代治、伊藤博文

憲法の第一次草案を作ったのは、大隈の国会即時開設案に対抗し、岩倉具視の命を受けて「大綱領」を記した井上毅です。井上は最初に甲・乙の二案を作り伊藤に提出します。
顧問役の御雇外国人のドイツ人ロエスレルも別の草案を提出しました。
この3つの草案をもとに、伊藤が原案(第二次案)を作成、これをたたき台に、伊藤・井上に金子堅太郎伊東巳代治を加えたメンバーが、神奈川県横須賀の夏島にあった伊藤の別荘で検討しました。ここでの議論をへて、いわゆる「夏島原案」を作成しました。
ドイツ流の皇帝権の強化を主張する立場と、立憲君主制の枠を守ろうとする立場が対立しとくに予算審議権を議会に与える、与えた場合の対策が焦点となりました。

(2)枢密院での審議
~立憲政治の本質をめぐって

夏島でまとめられた原案が枢密院で審議されました。枢密院は、1888年の勅令により、大日本帝国憲法および皇室典範の草案審議のために新たに設置されました

枢密院会議の列席者(衆議院憲法審査会資料)

この審議のため、伊藤は総理大臣の職を辞して枢密院議長となります。ここにもこの審議の重要性が見えてきます。
伊藤に代わって薩摩閥の総帥・黒田清隆が第二代内閣総理大臣となりました。

会議に参加したのは、五人の成人親王、内大臣三条実美、黒田清隆首相など全閣僚、そして枢密顧問官です。枢密顧問官には本来は憲法を審議する役割であった元老院から寺島宗則・佐野常民ら、佐々木や元田などの天皇側近、土佐・肥前のリーダー、勝海舟など。のちの元老も、井上馨以外は顔をそろえました。政党関係でも大隈重信が外相として、同じく立憲改進党副総理であった河野敏鎌もいます。(しかし大隈は条約改正交渉のため欠席気味で、出席してもこれといった発言はしていません。)なお夏島会議のメンバーは書記官として参加しました。

最大の争点は「天皇は帝国議会の承認を経て立法権を施行す」との一文でした。これを真っ向から批判したのが森有礼は「天皇と議会が同等の権力を持つということは認めがたく、議会は天皇の諮問(相談)機関であるべき」と主張、ドイツ人法律学者らも同意見でした。ドイツ流でよしとするもので、多くの藩閥政治家たちも同意見だったでしょう。
ところが、伊藤は強く反論します。立憲政体を採用する以上は、議会の承認なしで法律なり予算なりを決定すべきでない。これが立憲政治であり、これなしでは近代的な憲法とはいえないと主張したのです。伊藤はさらに議会からの法案提出権を条文化した一条も挿入、議会の権限を更に強化しました。
伊藤は「立憲政治の根本の意味は君主権の制限にあること、天皇の国家を統治する大権は憲法の規定する範囲内にのみあること、行政の中心は天皇ではなく総理大臣である(佐々木克)という立憲政治の本質を理解していました。
枢密院で、憲法草案は第一審(10日)から第二審(3日)・第三審(3日)・最終調整会議まで、計18日間にわたり逐条的に審議され、さらに皇室典範や議院法、選挙法などもあわせて検討、決定しました。

(3)大日本国憲法の発布~欽定憲法と万歳三唱

明治22(1889)年2月11日(紀元節の日)、大日本帝国憲法史料」が、天皇が定め「国民」(代表・内閣総理大臣黒田清隆)に授ける欽定憲法」として成立しました。

憲法発布の様子を描いた当時の錦絵

憲法は、国民とはまったく関わりのないところで作られ、審議され、与えられました
祝賀ムードをあおるため、東京市民に酒を振る舞われ、神輿もくりだす大騒ぎとなりました。
このなかで文部大臣の森有礼が行った演出が帝国大学生による万歳三唱でした。
『明治事物起源』は次のように記しています。「近年、万歳を高唱することは、明治22年2月11日、帝国憲法発布の盛典あり。主上観兵の式を行わせらる。時に大学生、卥簿を拝して『万歳』を歓呼せしに始まる。

憲法発布の式典の様子を描いた錦絵

憲法制定を人々はどのように見ていたのか?

ドイツ人ベルツは日記に次のように記します。「東京全市は、11日の憲法発布をひかえてその準備のため、言語に絶した騒ぎを演じている。到るところ、奉祝門、照明、行列の計画。だが、こっけいなことには、誰も憲法の内容をご存じないのだ
民権運動の活動家たちは憲法をどう見ていたのでしょうか。
ああ憲法よ、汝すでに生まれたり、われこれを祝す…成長するを祈らざるべからず」と記したのは日本国憲法にも影響を与えた私擬憲法をつくった植木枝盛でした。
民権活動家の多くは思いのほか、国会・国民の権利が認められていると感じたといいます。
ただ、辛口で有名な中江兆民は「憲法一読、苦笑あるのみ」と記しました。
国民をおいてけぼりに憲法が制定された事実自身が耐えがたかったのです。

Ⅵ、大日本帝国憲法とは何か
  ~人治主義と隠された「時限爆弾」

(1)明治憲法の特徴~基本的な見方

憲法制定は日本が「国際的水準の文明国」に到達したことを示すものでした。同時にかつての薩長の志士と後継者が権力を維持しつづけることができる、その妥協点が明治憲法でした。
その特徴としては
①国会は予算審議権(しかも衆議院の先議権)と立法権が承認され、
②「法律の範囲内」との制限付きながらも「人権」が認められました。
しかし
③国会内には、「国民代表」の機関としての衆議院とともに、同等の権限を持つ貴族院が存在し
④国会の権限が及ばない多くの「天皇大権」が設けられました。
あわせてこれまでの弾圧法も形を変えて継続されるなど、国民の権利は限定的であり、これまでの権力が脅かされないように巧妙につくられていました。

三つの顔をもつ天皇

これまでの明治政府が権力を行使できた正統性は天皇の信任でした。そのことをいかに表現するかが大きな課題でした。
明治憲法において天皇は三つの顔をもっています。
①一つ目は、第一条の「万世一系の天皇これを統治す」という神話によって聖別化された神聖な存在としての天皇像です。
②二つ目は第三条の「神聖にして侵すべからず」という文言で示された絶対君主としての天皇の姿です。これにより「天皇は責任を問われることはない天皇無答責の原則)」「神聖不可侵」な存在として示されます。
だからといって、天皇は何をしてもいい存在なのかといえばそうではありませんでした。
③第四条は一変して立憲君主としての天皇像を示します。天皇は「元首」「統治権」という学術用語で説明され「憲法の条項に依り之<統治>を行う」と記されます。あえて「主権」との用語も用いませんでした。

明治憲法の通説的な解釈となった天皇機関説はこの第4条を基礎にうちたてられます。「何をしても許される」との第三条の天皇像は第四条では天皇も憲法に従って統治するものとされました。「統治権」という用語は、国家人格論や国家有機体論を配慮してのこととおもわれます。
なお、昭和の右翼・軍部などは第1・3条をもとに「神聖不可侵」としての天皇像を打ち出し、こうした天皇像こそ正統であるとの「国体明徴」を政府に迫り、天皇機関説は「不敬」とされました。

久野収(1910-1999) 哲学者。一貫して市民主義の立場にたち,行動と理論活動を展開した。

明治憲法が描く「天皇」にはもともとこのようなブレが存在しました。伊藤らはこうしたブレを承知の上で、こうした条文を並べたのでしょう。

のちに哲学者久野収は明治憲法下の「天皇」像についてエリート達に共有されていた天皇機関説を「密教」、民衆が教えこまれた「神聖な天皇」を「顕教」と表現、軍国主義の進行の中で密教が顕教に飲みこんでいったとの秀逸な説明をしました。こうした解釈の違いは憲法の条文自体に由来するものでした。

(2)天皇大権と内閣
 ~国会から政府を守るブラックボックス

明治憲法には、議会が行政権に踏み込まないようにいろいろな手を打ちました。その一つがさまざまな天皇大権です。
それは
①編制大権(12条)……軍隊の編成・常備兵額にかかわるもので、内閣の一員である陸海軍大臣が所管
②外交大権(13条)……開戦・講和・条約締結にかかわるもので外務大臣が閣議の同意を得て行使
③行政大権(10条)……官僚の人事権は予算審議の対象とさせない
④緊急勅令権(8条)……国会閉会中、緊急に立法が必要な場合に限定。内閣と枢密院の審議が必要。
⑤統帥大権(11条)……軍隊の最高司令官としての大元帥たる天皇の権限。内閣の権限は及ばない
このように、統帥大権を除く天皇大権はいずれかの国務大臣・内閣がかかわっており、国会に干渉されたくない権限を天皇大権として囲い込んだものでした。

内閣は憲法では規定されていない

内閣の話をしてきましたが、明治憲法には国務大臣についての規定(55条)はあっても、「内閣」の規定は存在しません。
したがって憲法の条文だけをみれば、国務大臣それぞれが単独で天皇に対し責任を負うという単独輔弼制となり、総理大臣による他の大臣への命令権や連帯責任制は存在しないように見えます。
昭和になると、この憲法の条文を利用して軍部大臣などが天皇に直接上奏したり、辞任することが頻発、倒閣の手段として用います
しかし内閣制度を定めた勅令内閣官制(史料」では内閣総理大臣は内閣を構成する各国務大臣の首班と定め、さらに法律・予算・条約など大部分の重要な国務は閣議の決定を経ること、法律や勅令には担当大臣とともに総理大臣の副署がもとめられるなど、閣議の主宰者総理大臣の地位は大きさがわかります。
明治憲法自体は天皇が与えた法令の一つであり、皇室典範や内閣官制、さらには教育勅語など憲法同様の法令や勅語などが併存しているのが明治憲法体制であり、憲法を最上位法とする日本国憲法とは異なる原理で動いていたのです。

(3)憲法上の「天皇の意思」創出と元老
~「天皇の意思」を創り出す人々

明治憲法の中心には、権力中枢に政党、ある意味では「国民」の力を入れないとの倒幕以来の指導者たちの意思がありました。
明治憲法体制下の明治国家には「天皇」が制御する諸機関が置かれました。
統帥大権をのぞく天皇大権を所管するなど天皇の行政権を協同して補弼している内閣、天皇の名によって司法権を行使して「臣民」を裁く裁判所・裁判官、天皇が選任し天皇の命で天皇のために働く官僚(公務員)、大元帥たる天皇のためにたたかい死んでいく「皇軍」としての軍隊・軍人。帝国議会も天皇大権である立法権を協賛する機関とされ天皇の裁可が執行を命じる必要がありました
明治憲法体制は「天皇」なしには作動しないように設計されていました。
他方、「生身の天皇」はできる限り権力を行使しないのも明治憲法体制の基本構造でした。「天皇」の命令である勅令は枢密院の審議が必要とされ、内大臣・宮中大臣・宮内省などの諸機関は「生身の天皇」の暴走を制御していました。
問題は、実際にこうした諸機関を制御するべき公的な「天皇」の権限は誰が行使したのかということです。
キーとなるのは実行機関の中枢である内閣です。
まず確認しておくことは、内閣を構成する各国務大臣は現在と同様に内閣総理大臣(首相)が指名し、天皇が任命します。
では内閣の主宰者・内閣総理大臣は誰が選ぶのか。もちろん任命は天皇です。とはいえ天皇が決めることはありません。
では天皇に次期総理大臣を推薦するのはだれか?
どこにも書かれていませんが、誰もが知っている常識でした。
明治国家創業者たる維新官僚の生き残り、薩長出身の「元老」(元勲)、以下のメンバーです。
長州出身が 伊藤博文・山県有朋・井上馨
薩摩出身が 黒田清隆・松方正義・西郷従道・大山巌
および大正期に追加された公家出身の西園寺公望、あと桂太郎大隈重信を加えることもあります)
明治も20年以上すぎ、明治国家の創建にかかわった人々が次々と去って行く中、この段階で権力中枢に残った人物がこの人たちでした。

「元老」はどのようにして生まれ、補充されたのか?

実際の過程では、黒田内閣の辞職に際し元首相の立場を保障するため伊藤と黒田が「元勲優遇」の詔勅を得て、さらに首相を降りた山県・松方も同様に詔勅を受け、さらに松方内閣崩壊後の首相候補となった井上・西郷・大山らも同様の詔勅を受けました。その後、第二次伊藤内閣結成の際、新内閣を強固なものにするため、伊藤が「黒幕会議」と称してかれらを集めた会議を開いたことでルール化され、新首相の互選・推薦、重要事項の決定などにおける諮問機関という性格が生じました。
天皇は、元老が推薦する首相候補に難色を示したこともありましたが、決定を覆すことはありませんでした。

なお、メンバーの多くが死亡し、元老入りが予想されていた人物が次々と死んでいく中、大正期に公家の西園寺公望が補充され、「最後の元老」と呼ばれました。
桂太郎を加えることもあります。また大隈重信は第二次政権後、元老と自称していたようです。

公的な「天皇の意思」を創出した人々

再び、「国家の一機関としての『天皇』の意思」を最終的にまとめ上げていたのはだれかという点をみていきましょう。別の言い方をすれば、明治憲法体制は、成立段階で、だれが、どのように制御・運営する建て付けになっていたのでしょうか。
政務を担当する内閣(首相は「元老」の一員で、さらに数人の「元老」も参加)が、「生身の天皇」や内閣に入っていない「元老」の意見をきき、さらに軍の長老(「元老」が多い)などと協議、「憲法上の天皇の意思」として決定、運営していたとかんがえることができると考えます。
(※ここで「元老」と記したのは、のちに元老とされた一群の指導者という意味であり、山田顕義のようにもう少し生きれば元老となった人物も含めることが可能でしょう。)
「国民」代表である国会とくに衆議院には国家の意思を決定させたり、明治憲法体制を制御・運営させない、踏み込ませない、これがめざしていたあり方でした。
黒田清隆や伊藤博文が「超然主義」と称していたのはこうしたあり方でした。
「国民」代表の権利をこれ以上無視することはできない。一定の力を与えることが国家の正統性をたかめ、国民の意欲も拡大させることにつながるが、しかし国家の中枢には口出しをさせず、できるかぎりこれまでのやり方を維持したい。
これが明治憲法体制でした。

(4)「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」~統帥大権とは

明治憲法のなかで、とくに問題であったのは「統帥大権」の条項です。これが軍部の暴走を許したとされます。
しかし軍隊の暴走の責任を明治憲法に負わせるのは酷でしょう。なぜなら明治憲法は以前から進んできた軍部のあり方を憲法内に書き込んだに過ぎなかったのですから。

明治憲法で軍隊は二つの側面から位置づけられます。
一つは、大量の軍人と膨大な装備を抱える組織としての軍隊
今ひとつは、作戦を遂行する軍事集団としての軍隊です。
前者は編成権として位置づけられ、軍部大臣(陸軍大臣・海軍大臣)が所管する編制大権として内閣の管轄下におかれます。
後者の戦闘の指揮・命令権は、統帥権として位置づけられ、「大元帥」たる天皇の下、輔弼の任に当たる参謀本部・海軍軍令部の指揮監督下におかれます内閣が口出しできないとされたのはこの権利です。これが「統帥大権」として強調され、軍の暴走の根拠を与えました。
また実際には編成権と統帥権を明確に区別することが困難であるため、従来編成権とされてきた内容までも統帥権であるとの主張がうまれ、議会制度崩壊と軍部暴走につながりました。

すでにみたように天皇大権は、編制大権も含め、内閣の仕事に国会が口出しさせないためのからくりでした。ではなぜ、統帥大権だけが内閣の制御もうけないような立て付けになっていたのでしょうか。

「軍人勅諭」~「天皇の股肱」としての軍隊像

竹橋事件 1878年に発生した近衛兵士の反乱。写真はこの事件を取材した澤地久江のノンフィクション

それは1878年の竹橋事件をきっかけとした軍に対する危機感から生まれました。陸軍のエリート部隊・近衛師団が引き起した反乱事件は、山県有朋ら軍指導部に衝撃を与え、軍隊の位置づけを考えさせました。そこで導入されたのが軍隊は「天皇の軍隊(皇軍)である」という考えです。
まず事件直後に制定された「軍人訓戒」では、天皇の絶対神聖性と軍隊の中立化が説かれ、1882年の「軍人勅諭史料)」は、天皇が軍人の直接語りかける形式で、「朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰きてぞその親は特に深かるべきき」と説きました。こうして軍隊は天皇の直接支配下にあること。天皇への絶対服従と率先して天皇のためにたたかうことが求めました。
この軍人勅諭の趣旨が「統帥権」に組み込まれたのです。

山県有朋と参謀本部

山県有朋(1838〜1922)明治・大正時代の軍人・政治家 長州藩出身。徴兵令制定,参謀本部設置,軍人勅諭発布など陸軍基礎を確立の中心となる。

竹橋事件をきっかけに、陸軍省の下に置かれていた参謀局が独立し天皇に直属する参謀本部が設置され、天皇の直接支配の下、陸軍の指揮命令権を支える機関と位置づけました。
鳥海靖は、竹橋事件の責任をとることになった山県がこの地位に就いたことで政治のバランスを変化したことに注目します。山県が総長となったため陸軍における参謀本部の地位が上昇、参謀本部による軍の輔弼機能が強調され、「天皇の軍隊」には政府が介入できないという力関係が生まれたといいます。
明治憲法の条文はこうした経過を追認したに過ぎないのです。

(5)明治憲法は「最高法規」だったのか

日本国憲法が憲法に反する法律などは「その効力を有しない」とされた「国の最高法規」であるのにたいし、明治憲法はあくまでも天皇の命令によって制定された欽定憲法でした。皇室の規則である「皇室典範」とは同格であり、天皇が国民に示した命令「教育勅語」なども同様の存在といえました
統帥権の経緯からもわかるように、明治憲法には、先行するさまざまな命令や規則、慣行などがあり、憲法に矛盾しない以上は有効でした。とくに人権にかかわる条文などで「法律ノ定ムル所ニヨリ」「法律ニ定メタル場合」といったことばを多用することは保安条例などの弾圧法などを有効とする意味を含んでいました。憲法制定以前からの法令は法律に適合する形で改変されます。
また憲法発布に並行する形で、本来なら国会で議論し制定されるべき議院法や貴族院令、選挙法、会計法などの基本法令を憲法同様の手続きで憲法草案と調整しながら整備しました。国会はこうした法令の多くを改定する権限を持ってはいたものの、貴族院を通過させることは極めて困難であり、憲法と合わせて明治憲法下の政治を規定していました。

(6)条約改正と憲法制定

憲法義解
1889年、伊藤博文名義で出版された憲法の公的な解説書。井上毅が執筆し伊藤が加除修正した。

憲法制定は日本が文明国の一員であり、先進国クラブの一員として不平等条約を解消し、主権国家体制の正式な構成員となるための重要なメルクマールでした。
明治憲法が完成すると、伊藤は公的な解説書である『憲法義解』を伊東巳代治に英訳させ、訪欧する金子堅太郎に託して欧米の学者に寄贈、批評をもとめました。
鳥海靖は、伊藤や金子らは、憲法調査の過程で、黄色人種・アジア人が欧米並みの憲法を制定し運用することは不可能であるとの意識を感じたといい、その鼻を明かすつもりもあったのいでしょう。
その評判は、上々でした。伊藤をはじめとする指導者たちは、これを知り条約改正のための、「文明国」の仲間入りするための、大きな関門をクリアしたと感じたのでしょう。

<つづく>

<メニューとリンク>『憲法と帝国議会』

1:公議政体論と立憲政体の模索 (1850代~1880代前半)
2:明治憲法の制定と憲法体制(1980年代後半~1889)
3:憲法体制の整備と初期議会(1889~1894)
4:明治憲法体制の成立と展開(1894~ )

<参考文献>

稲田正次『明治憲法成立史(下)』(有斐閣1962)
坂野潤治『近代日本の出発』(小学館1989)『日本近代史』(ちくま新書2012)『明治憲法史』(ちくま新書2020)
大石 眞『日本憲法史』(講談社学術文庫2020)
鳥海 靖『日本近代史講義』(東京大学出版会1988)
ジョージ=アキタ『明治立憲制と伊藤博文』(東京大学出版会1971)
牧原憲夫『民権と憲法』(岩波新書2006)
文明国をめざして』(小学館2008)
佐々木克『日本近代の出発』(集英社1992)
松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(講談社2013)
伊藤之雄『伊藤博文』(講談社学術文庫2015)
    『元老―近代日本の真の指導者たち』(中公新書2016)           『愚直な権力者の生涯 山県有朋』(文春新書2009)
佐々木隆『明治人の力量』(講談社2002)
伊藤博文『憲法義解』(岩波文庫)
明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料(明治憲法の制定過程について)』(衆議院憲法調査局事務局2003)

元高校教師が学んだ近現代史像を提示します。

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