日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(2)

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日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦(2)
第二次世界大戦の勃発と三国同盟

Ⅳ、日中戦争と世界
    ~道義的支援から実質的支援へ

持久戦への移行と国際摩擦の広がり

1938年になっても日本の攻勢はつづきました。とはいえ中国軍の包囲殲滅をめざした4月に始まる徐州作戦では主力を取り逃します。10月には、長江中流の大都市・武漢、南方の広東を占領しますが決定的な勝利とはなりませんでした。国民政府は首都を内陸部の四川省重慶に移し、四川省を中心とする西南部を基盤に、諸外国からの援助もうけ戦争をつづけます。
日本軍は、もはや占領地域の維持で精一杯となり、戦線拡大は困難となりました。こうして戦局は第二段階、持久戦へと移っていきます。

山川出版社「詳説日本史」P353

また陝西省延安に拠点をおく共産党軍(「八路軍」「新四軍」)は日本軍占領地域を中心にゲリラ戦を展開しました
ただし国民政府・軍との関係は良好とはいえず、のちに華中では国民党軍と共産党軍(「新四軍」)の衝突も発生します。
中国側が日本軍の攻勢に屈することなく抵抗を続ける中、胡適が指摘したような変化も起こりはじめました。
1937年12月、南京攻略戦のさなか、日本機が停泊中のアメリカ船を爆撃・沈没させるパネー号事件が発生、南京大虐殺の報道は、世界とくにアメリカの世論に衝撃をあたえます。米英の間で軍事協議が行われるなど共同行動も強化されました。
戦争が続き、戦線が拡大するなか、列強の権益が損なわれる事態も多発、各国は抗議の声をあげます。そうした声は日本側をいらだたせ、中国から欧米勢力の排除を求める声も強まりました。

ファシズムの台頭と「世界新秩序」

この時期、世界とくに英仏はファシズムの急速な台頭をまえに、対応に追われていました。
第一次大戦直後イタリアで生まれたファシズムは、1933年ドイツでのナチス党政権誕生によってさらに緊張の度合いを増します。ナチスはユダヤ人への迫害だけでなく、共産主義者も敵視、そしてドイツ系住民の生存圏をロシア・東ヨーロッパに求めました。

東京書籍「日本史A」P1278

人種主義にたつヒトラーは、当初から領土を東方に拡大し東方に生存圏をもとめる東方植民地帝国建設をめざしていました。
この計画は、1942年までに「東部総合計画」としてまとめられました。
この計画では、大戦後、ポーランドからソ連西部にかけての住民3100万人をシベリアに追放して死に至らしめ、「ドイツ化」できない残された住民1400万人はゲルマン植民者のために奴隷労働に従事させるとしました。

 ドイツ系住民の生存権拡大は、「劣等民族」とみなした人々の土地を奪い、奴隷化し、シベリアに追い出し、死に至らしめることでした。
 独ソ戦のなかでも、ドイツは支配の障害となる人間を容赦なく殺害しました。そのための専門部隊である絶滅部隊がつくられ、この地のユダヤ人をはじめ、多く人々が組織的に殺害されていきました。こうしたやり方が2000万人(最近の研究では2700万人)という信じがたいほどのソ連人犠牲者の数になったのです。
 ちなみに、こうした残虐なやり方はソ連人のドイツ人への強い復讐心を生み出し、ソ連兵のドイツ人捕虜の大量殺害やドイツ系住民への暴行などにつながりました。(大木毅『独ソ戦』など参照)

ドイツは、1935年再軍備宣言を行い軍備拡張につとめ、一挙に軍国主義大国化します。そして1936年には地中海帝国復活をめざすイタリア=ムッソリーニとの間で独伊協定(「ベルリン=ローマ枢軸」)を締結しましたす。
 彼らは、これまでの世界は、英仏など「持てる国」が形成した世界であり、これにたいし自民族のための「生存圏」を要求しました。
しかし、彼らが否定していたのは19世紀的な古い帝国主義的秩序にとどまりませんでした。
国際協調に基づく「小国」も含めた集団的安全保障、「人権尊重」を基本とした世界秩序、「戦争の違法化」、このような第一次大戦後に生まれた新たな世界のあり方、こうしたものこそ否定しようとしたのです
かれらのめざしたのは、弱肉強食の世界分割と、むきだしの暴力の支配を、強烈な人種主義にもとづき実現する世界でした。
ファシズム諸国同士、まず反ソ・反共というテーマで接近しました。1936年に日独防共協定が締結され、1937年にはイタリアも加わました。第二段階として世界再分割が視野に入ります。
こうした中、1938年11月近衛首相が「東亜新秩序」建設を宣言したのです。この意味を近衛はどれだけ意識していたのでしょうか。
世界とくにアメリカは態度を硬化させます。

反ファシズム統一戦線と張鼓峰事件~ソ連の立場

スターリン(1879‐1953)ソ連邦共産党の指導者・政治家。

ファシズムの台頭に強い危機意識を持ったのがソ連の独裁者スターリンです。
スターリンの最大の関心事はソ連の存立でした。したがったソ連を敵視するファシズムの動向を注視、彼らと対立関係にあった米英仏などとの協調をめざしました。
1934年には国際連盟に加盟、1935年には反ファシズム統一戦線を提唱、中国共産党に八一宣言を出させ抗日民族統一戦線構築をすすめることで東方の脅威・日本を牽制しました。1936年に始まるスペイン内戦では、腰の引けた米英仏とは異なり人民政府政府を積極的に援助しました。
スターリンは米英仏といった諸国や世界の反ファシズム勢力と結ぶことでソ連を守ろうとしたのです。中国への援助もこの戦略に従ったものです。そして、1937年日中戦争が始まると中ソ不可侵条約を締結、中国への軍事経済援助をすすめました。

他方、日本とくに陸軍にとって、ソ連は仮想敵国でありつづけました。参謀本部が中国との早期和平をめざしたのもこの戦略によります。日中戦争中も、日本軍はソ連との戦争を意識し続けていました。
そして1938年ソ・「満」・朝の複雑な国境地帯にある張鼓峰で日ソ間で軍事衝突が発生、武力偵察に出た日本軍は優勢なソ連軍の前に苦杯を喫します。(張鼓峰事件)
この体験が1939年5月のノモンハン事件が発生につながりました。

ミュンヘン会談と東アジア
~イギリスの「宥和政策」と挫折

ソ連と比べ、イギリスなどの諸国の、ファシズムへの対応は妥協的でした。強硬な要求を打ち出すドイツなどに対し、ある程度の領土・支配権の変更も容認・調整することで旧来の秩序の維持を図ったのです。こうした政策を宥和政策といい、その典型がミュンヘン会談でした。

ミュンヘン会談(1938年)

ミュンヘン会談は、1938年ドイツが東方拡大をすすめるなかで開催されます。
3月オーストリア併合に成功したドイツは、チェコスロバキアにドイツ人居住地域ズデーテン地方の割譲を求め、武力での解決を示唆しました。
こうした事態を憂慮したフランスとイギリスが、イタリアのムッソリーニとともに調停に乗りだしたのがミュンヘン会談です。英米両首脳はヒトラーの「領土要求はこれが最後である」との言明を信じ、ズデーテン併合を容認、チェコの犠牲の上に従来の秩序維持を図りました。
帰国したチェンバレン英首相は国民の大歓迎をうけ、戦争を回避したと自画自賛します。しかし、半年後、ヒトラーはチェコスロバキアを解体、西部を併合、東部を保護国とし、宥和政策は挫折しました
宥和政策は、戦争を回避し平和を維持したいという人々の思いを代弁したものでした。同時に、英仏とドイツの間の帝国主義としての利害の共通性や、ナチスの矛先を東欧とくにソ連に向けたいとの隠れた意図があったとの指摘もあります。
宥和政策は、1931年の満州事変以来の日本に対する列強の政策とも共通します。破綻しつつあるワシントン体制を中国の犠牲の下に維持し、凶暴化する日本軍国主義をつなぎ止めようとしたのですから。
イギリスにはかつての勢いはなく、東アジアではアメリカに依存する傾向をみせていました。イギリスの関心事は、自国の市場・権益保護が中心であり、それを保障する国際秩序としてのワシントン体制の維持でした。
日中戦争が始まると、イギリスはいったん日中間の調停を検討したもののはアメリカの消極策にひきづられ断念、その後も日本の強硬姿勢のまえに妥協的な対応をつづけました。
ミュンヘン会談と同様の対応が東アジアでも見られたのです。

近衛第二次声明とアメリカの対中政策変化

東アジアに最も影響力をもっていた欧米列強はアメリカでした。
日中両国がいったんは検討した宣戦に踏み切らなかった理由の一つはアメリカへの配慮です。
アメリカには、交戦国への兵器類の禁輸・輸出制限を定めた中立法1935年成立)があり、交戦団体と見なされると軍事関連物資が入手できなくなり戦争遂行が困難になるからです。日中双方とも、アメリカからの輸入なしには戦争できなかったのです。また不況に悩むアメリカにとっても、輸出できなくなることは避けたかったのです。
日中戦争が始まると、アメリカの対日輸出額は急激に増加、他方、対中援助額も増加しました。このことは、アメリカの対応次第では戦争を早期に終わらせることも可能だったのかもしれません。アメリカは双方に対し大きな影響力を持っていました。
日中戦争が始まって三ヶ月後の10月、ローズヴェルト米大統領は反ファシズムの姿勢を示す「隔離宣言」を行います。しかし孤立主義志向の強い議会、恐慌対策を重視する国内世論に配慮、再び消極的な態度にもどりました
こうした消極策は日中間の調停や九カ国条約会議の席上でも見られ、中国や中国を支持する国々を失望させました。戦争が長引き、戦争の実態がつたわるにつれ、米国内世論も変化、政府の姿勢もしだいに強硬となっていきます。
1938年11月にだされた「第二次近衛声明」では、国民政府との交渉にも応じる姿勢を見せつつ、他方で戦争の目的を「東亜新秩序」建設におき、「日満「支」の善隣友好・共同防共・経済提携」という「近衛三原則」を示しました。外相も「支那の処理の鍵は日本の手中にある」として列強から中国を解放する方向性をだします。

汪兆銘(1883~1944)孫文の側近、蒋介石と並ぶ中国国民党の指導者。1938年重慶を脱出、日本側と接触、1940年日本の「傀儡」政権を樹立

これに呼応し国民政府の実力者・汪兆銘が重慶を脱出、和平実現をめざしました。しかし、彼の行動を支持する人々は現れず、中国内部に基盤を持てないまま、日本占領地域におけて和平活動を進めたため、結局は日本への協力的姿勢のみが際立ち、「漢奸」(売国奴)、「傀儡」政権といった非難を浴びることになりました。

汪兆銘は「満州国承認」や東亜新秩序への協力などを承認する代償として日本軍の撤退や治外法権の撤廃などを実現、侵略によって荒廃した中国を立て直すべく和平実現をめざしました。しかし、中国側の支持は得られず、日本側からは日本に都合のよい条件を押しつけられ、さらに蒋介石政権との和平の交換条件に用いられました。戦後、汪政権にかかわった人々は民族の裏切り者(「漢奸」)として裁判にかけられ、その評価は現在にも引き継がれています。
ただ、現在の視点から見た場合、和平拒否・徹底抗戦が「正義」という立場を持ち込み、その行動を全否定することは妥当なのか
、いかに戦争を止め犠牲をなくそうという取り組みなども評価するような多面的な再検討が必要ではないでしょうか。中国共産党史観や中国国民党史観などから自由になることが求められています。

一連の日本の動きにたいし、英米仏は近衛声明と汪兆銘「政府」樹立を承認しないとの声明を発します。
米英などにとって、第二次近衛声明はワシントン体制の全面否定であるにとどまらずアヘン戦争に始まる列強の権益の枠組みを否定、ナチスドイツ「欧州における新秩序建設」と呼応するものでした。実際、美辞麗句を並べたものの、「列強の影響排除」とは日本による中国独占の同義語に過ぎませんでした。
これに対抗するため、アメリカは中国への経済借款を拡大と、日本への航空機・部品の輸出禁止に踏み切ります。
米英などによる対中経済援助が本格化するにつれ、援助物資の搬入ルート(「援蒋ルート」)の重要性は増していきます。

三国同盟加盟問題と天津租界封鎖

開戦当時は日中両国と良好な関係であったドイツも、1938年になると中国との関係を清算、日本に接近「満州国」も承認します。
ドイツの狙いは防共協定を軍事同盟へと発展させることでした。イギリスやフランスとの対立が深刻になってきたドイツにとっての最大の懸念は、アメリカの動きでした。日本との同盟関係を結ぶことでこれを牽制しようとしました
陸軍や外務省内の親独派も同盟締結に動きました。ドイツと結ぶことが米英の対中援助を抑えられると考えたからです。
これに対し海軍の米内や山本五十六らいわゆる「米英派」は、国力で圧倒的な差があり、経済的にも依存関係にあるアメリカとの関係悪化を恐れ、条約締結に強く反対しました。このため、山本は生命の危機を感じたとも言われます。
なお近衛はファシズムに対する親近感をもっており、対ソ同盟としては異存なかったのですが、米英を対象とすることは躊躇しました。
こうして三国同盟締結の課題は次の平沼内閣に持ち越されました。

この間、陸軍はより強硬となっていました。1939年4月,親日派中国人が天津のイギリス租界で暗殺されると、陸軍は天津のイギリス租界を封鎖しました。日本に敵対的と見えるイギリスに圧力を加える目的でした。イギリスはこれに対抗できないまま、7月屈服を余儀なくされました。
しかしこの事件はもう一つの重要な結果をもたらしました。日本の乱暴なやり方に怒ったアメリカが日米間の基本条約である日米通商航海条約の打ち切りを通告したのです。
その後、あらたな枠組みが作れないまま、条約は翌年1月失効、両国は無条約状態となり、日米間の貿易・通商は極めて不安定になりました。
米英との対立はいっそう深刻となっていきました。

ノモンハン事件と独ソ不可侵条約

ノモンハン戦争関係地図と辻政信参謀

1939年5月、「満州国」とソ連の衛星国であるモンゴルとの国境地帯で大規模な衝突が発生しました。ノモンハン事件ノモンハン戦争です。
ソ連の攻勢の前に、いったん撤退した日本軍ですが、関東軍は独断でさらなる軍隊を派遣します。
これに対し、ソ連は挑発を繰り返す日本に大打撃を与える好機ととらえ、戦車・航空機など最新鋭兵器を含む大軍を派遣、日本軍は一個師団壊滅という大惨敗を蒙りました。
現地ではさらなる増派も要請しましたが、さすがに認められず、無謀な作戦計画を立てた両参謀も更迭されました。
なお、この作戦を指導した関東軍の二人の参謀はその後も参謀としてアジア太平洋戦争における無謀な作戦として知られる主要な作戦に次々参画し、大きな被害を与えることになります

こうしたさなか、一つのニュースが飛び込みました。防共協定をむすび、新たな同盟も模索していたはずのドイツが、共通の敵ソ連と不可侵条約を結んだというのです。
ドイツとの関係を中心に外交政策を組み立てようとしていた平沼内閣は「欧州情勢奇々怪々」という日本内閣史上最大の迷言を残して崩壊しました。

Ⅴ、第二次世界大戦の発生

第二次世界大戦の発生とソ連

1939年9月さらなる大ニュースが飛び込みました。ドイツ軍がポーランドに侵攻したのです。「宥和政策は限界」と考えていたイギリス・フランスはドイツに宣戦を布告、ヨーロッパ戦争としての第二次世界大戦が始まりました。

第二次世界大戦(欧州戦線)関連地図

衝撃は更に続きます。ドイツに続きソ連軍もポーランドに侵攻したのです。不可侵条約には秘密協定が付属していました。
こうして第一次大戦以前の領土をポーランドから「回復」したソ連は、次にフィンランドを攻撃します。(フィンランド戦争)。
国際連盟はこうしたソ連の行為を侵略と断定、連盟から除名しました。しかし、その後も、ソ連の侵略はやまず、翌40年にはリトアニア・エストニア・ラトビアのバルト三国に侵攻、武力で併合します。
いったんは反ファシズム統一戦線で米英仏とも結ぼうとしたソ連ですが、ミュンヘン会議での英仏の宥和策をみて独力でソ連を守らなければならないと覚悟しました。英仏両国のヒトラーへの妥協はドイツを東方・ソ連への侵攻・拡大に誘導していると感じたからです。スターリンは、西欧諸国に期待すり、ソ連はソ連自身の手でドイツに対抗するしかないと考えたのでした。
その答えがドイツとの不可侵条約(+秘密議定書)締結であり、両国の緩衝地帯ともいうべき諸国の占領と、それによる防衛体制構築でした。
英仏の宥和政策がソ連をドイツ側に押しやったのです。

その一方で、猜疑心にとらわれていた独裁者スターリンは、赤軍の再編と近代化を推進し「赤いナポレオン」と呼ばれたトハチェフスキー元帥を、さらには軍指導部・将校を、次々とスパイ容疑で殺害(「粛清」)することでソ連軍を弱体化させており、独ソ戦での大苦戦の原因を自ら作っていました。

ドイツのヨーロッパ大陸制圧とアメリカ

ドイツのポーランド侵攻と英仏の宣戦布告で第二次大戦は始まりました。
しかし活発な動きを見せたのはソ連だけで、ドイツは不気味な沈黙をつづけました。国境を接するフランスもイギリス軍の支援を受けつつ、国境の要塞地帯に兵力を集中、守備に徹しました。この時期、「奇妙な戦争」といいます。
この状態を打ち破ったのもドイツでした。ドイツは4月デンマーク・ノルウェーを攻撃、5月にはオランダ・ベルギーのふたつの両中立国を踏みつけてフランス領内に侵入、わずか半月でフランス全土を占領しました。4月にはイタリアも参戦、ヨーロッパ大陸はファシズムの支配下におかれました。ヨーロッパ諸国で抵抗しているのはイギリスだけという状態となりました。そしてドイツはイギリスに連日の空爆を繰り返しました。イギリス上陸作戦と降伏も時間の問題といった観測も見られるようになります。

「民主主義の兵器廠」アメリカ

F=ローズヴェルト(1882~1945) 第32代米大統領・民主党

こうした事態に危機感を感じたのがアメリカでした。
世界がファシズムに蹂躙され、アメリカだけが孤立する悪夢が予測されたからです。
アメリカは参戦しないものの反ファシズム勢力とりわけイギリスの全力での援助に踏み切ります。大統領・フランクリン=ルーズベルトは、アメリカを「民主主義の兵器廠」とよび、大規模な軍事援助を本格化、40年9月には選抜徴兵制を実施、参戦への意欲も見せました。
41年3月には財源のない反ファシズム国にも武器供給できるようにするため武器貸与法を制定しました。

また41年1月の一般教書では、
(1) 表現の自由,(2) 信仰の自由,(3) 欠乏からの自由 (平和的生活を保障する経済上の相互理解) ,(4) 恐怖からの自由 (軍縮による侵略手段の除去) 」の「4つの自由を強調、
41年8月には大西洋の戦艦上でイギリス首相チャーチルと会談、大西洋宣言を発表、アメリカは反ファシズム側の後ろ盾であることを鮮明にしました。
日本とドイツの接近、日本軍の南方進出(とくに米領フィリピンへの攻撃)にも危機感をもち、米海軍をハワイ真珠湾に集結させました。国民政府への援助も強化し、不平等条約の解消(治外法権の廃止など)中国との関係改善にも前向きに取り組みはじめました。とはいえ、関心の中心はヨーロッパであり、アジア=日本は従属的位置づけでした
ただアメリカ国内には、平和主義者・人道主義者、さらに孤立主義者・親独・親ファシズム派などいろいろなタイプの参戦反対・慎重派がおり、直接戦争に加わることはまだ難しい状態でした。

第二次世界大戦と中国国民政府

第二次大戦およびドイツの快進撃は中国も混乱させました。
蒋介石は英仏側で参戦することでヨーロッパにおける戦争とアジアにおける戦争を結びつけようとしましたが、ドイツの快進撃をみた国民党内の親独派はドイツやソ連との連携を主張、さらに当面は事態の推移を見送るべきとの中立派もあり、国民政府内部での意見の対立が生じました。

日本の動きも中国を苦しめました。日本はヨーロッパ情勢を利用し、余力を失ったフランスとイギリスに中国援助ルートを閉鎖するように求め、6月にフランス、7月にはイギリスも閉鎖に応じました。これにより中国への援助ルートは西北からの主にソ連からのもののみとなり、中国軍は兵器不足に陥りました。
日本軍は軍事面でも攻勢を強め、長江沿いの宜昌を占領、四川省へ入り口を扼する地点にまで軍隊を進めました。
中国は試練の時期を迎えていました。蒋介石は和平の道を探り、いくつかのルートを通して日本との接触をすすめ、日本側もこれに応じました。

百団大戦と「三光」作戦

日本軍占領地と抗日根拠地
5億人の中国人が抗日意識を持ち続けている以上、100万の日本軍で支配することは実際には不可能であった。

こうした情勢を変化させたのが8月に始まる共産党軍の大攻勢=百団大戦でした。共産党軍は日本占領地帯を中心に同時多発的に蜂起、各地で日本軍を打ち破り「治安地域」の内部に第二戦線を成立させました。攻勢は12月まで続きます。こうして、中国において安全な場所はあまりない事を日本軍は思い知らされました。
しかしこの作戦は中国側に多くの犠牲を強いました。
さらに、こうした事態に対処すべく日本軍は「燼滅じんめつ作戦」を本格化します。敵根拠地を燼滅掃討し敵をして将来生存するあたわざるにいたらしむるとして、「土民を仮装する敵」や「敵性があると認められる15才以上60才までの男子」の殺戮を命じ、ゲリラと結んでいるとみなした村を焼き払い、村人を「人囲い」の内部へ強制移住させ、人が住まない「無人区」をつくりました。
作戦の過程で毒ガスを使用され、生物兵器も使用されたといわれます。

中国帰還者連絡会編『三光』
三光とは「奪い尽くし(「略光」)、焼き尽くし(焼光」)、殺し尽くす(「殺光」)」をさす。

中国ではこうしたやり方を「三光」といって恐れました。この作戦が中国民衆を著しく痛めつけたことはいうまでもありませんが、作戦に従事した日本兵にも深い心の傷も残しました。
中国側が危地を脱したもう一つのきっかけは、ほかならぬ日本政府の動きでした。
日本は9月28日ついに日独伊三国同盟締結に踏み切りました。日本が立場を明確にしたことで、アメリカの対中援助は一挙に拡大、イギリスも10月ビルマルートを再開しました。
11月、日本が汪兆銘政権を承認、この「政権」との条約を締結したことで、蒋介石政権との和平工作も立ち消えになりました。

阿部・米内「穏健派」内閣

米内光政(1880~1948)第37代首相 海軍穏健派(米英派)、三国同盟には否定的なの姿勢を見せた。

日本国内では、平沼内閣にかわり阿部信行ついで米内光政という海軍穏健派の内閣がつづきます。
三国同盟締結に消極的であった両内閣は欧州戦争不介入政策をとります。
しかし他方では、仏・英に圧力をかけ、援蒋ルートの封鎖を実現、中国を窮地におとしいれました。
しかし「奇妙な戦争」がおわり、ドイツの快進撃とイギリスへの猛爆は日本国内の親独派を復活させました。ドイツと結んで世界新秩序建設をめざすべきだ、「バスに乗り遅れるな」とのいった議論がたかまり、三国同盟締結を急ぐべきとの声が高まりました。

三国同盟締結論のたかまり
~「バスに乗り遅れるな」論の登場

40年4月にはじまるドイツ快進撃はアジアにも大きな影響を与えました。植民地宗主国・オランダとフランスが相次いでドイツに降伏、インドなどに広い植民地を持つイギリスも風前の灯とみえたからです。
そこで生まれてきた議論は、ドイツ勝利で終わった場合、こうした植民地はどうなるのかというものでした。
同盟賛成派は、日本がドイツと同盟を組みともにたたかうことで日本がその多くを獲得できると考えました。仏蘭英の植民地を獲得し、アジアにおける新秩序=大東亜共栄圏が実現できるというのです。しかしそのためには、期限があります。遠くないイギリスの降伏まで。これがバスに乗り遅れるな」論でした。

「南進論」と海軍

東南アジアなど南方に日本の勢力圏をめざすという南進論は、19世紀後期以来、海軍周辺で唱えられました。
台湾領有も南進論の起点を手に入れたいとの当時の海軍の主張によるものでした。海軍は太平洋地域の危機をあおり、アメリカ海軍の脅威を唱えることで予算増額を要求しました。
 朝鮮から満州へ進出、ロシア・ソ連を仮想敵国とするという陸軍の北進論と対抗する、海軍の主張が南進論でした
第一次大戦後には、あらたに委任統治領として獲得した南洋群島に、さらに米領フィリピンなどに人口過剰と貧困に苦しむ沖縄県民らが植民していきました。
国策の基準」(1936)では南進論が北進論ともに国策として位置づけられ、期限切れとなる軍縮条約ともあいまって海軍大拡張の根拠となりました。

「援蒋ルート」切断と、資源獲得のための「南進」

南進論と天然資源

日中戦争の深刻化は南進論に別の要素を加えます。
「中国は弱いはずだ」と信じ込んでいる人々は、中国が降伏しない理由は米英の援助と考えました。そこで援助ルートの窓口である仏領インドシナおよびビルマを占領すれば、中国は降伏すると考えました。

また日中戦争に反対する米英両国はしだいに輸出制限などの経済制裁を強め、1940年日米間は無条約状態となりました。
アメリカがさらなる制裁に踏み切った場合、日本は石油など天然資源などの原料が枯渇の可能性が強まりました。
そこで、アメリカにかわる原料供給地として注目されたのが東南アジアでした。資源獲得のための南進が叫ばれはじめたのです。
ドイツの快進撃と三国同盟はこうした資源が労せずして獲得できるチャンスでした。そして広大な植民地を獲得することで、「持たざる国」による新秩序が実現アメリカ、ソ連とともに世界支配の四ブロックの一角を占める機会が訪れたのです。

第二次近衛内閣の成立と北部仏印侵攻

第二次近衛文麿内閣(1940~41)外相に松岡洋右、陸相に東条英機を配する強力内閣であった。

1940年7月に成立した第二次近衛内閣は、外相に松岡洋右、陸相に東条英機という対外強硬派を擁する強力な内閣でした。
内閣の動きは素早く、新体制運動は大政翼賛会の結成として実現、「南方問題解決のために武力行使」との方針を確認します。
松岡外相は、日独伊三国同盟を締結し、他方でソ連との関係改善をすることでアメリカを牽制でき、日本がアジアにおいて政治的・経済的優位を確立すればアメリカの政策変更が可能であると考えていました
これは1940年という段階ではまったく通用しない妄想でした。
アメリカはすでにイギリス側に立つ決意を固めており、アメリカの覚悟を決める効果しかありませんでした。

検証・戦争責任:読売新聞より

9月、日本は二つの決定的な行動に出ます。
一つは日本軍の北部仏印(仏領インドシナ=ベトナムなど)進駐です。
宗主国フランスが1940年ドイツに降伏したため、植民地当局は傀儡政権であるビシー政権のもとにありました。ビシー政権援助・主権尊重という口実で植民地当局に進駐を申し出ます。
これにより、
①仏印から中国へ向かう援助ルート(援蒋ルート)の完全切断と中国内地侵攻の拠点化、
②良質な石炭がとれるホンゲイ炭鉱などの資源獲得 
③「南進」の軍事基地の確保
といった目的を実現しようとしたのです。
フランスの植民地当局には、引き延ばしを図る以外、抗するすべはありませんでした。
9月、日本軍は一部でフランス軍との交戦に至りつつ、ベトナム北部に進駐しました
日本はついに東南アジアへの進出をはじめたのです。国際社会がどのような反応に出るか、当時の政府・軍関係者からそのような配慮は消えはじめていました。

三国同盟締結と世界の二分

そして1940年9月27日、ついに日独伊三国同盟を締結します。


日独伊三国条約は主にアメリカを対象とした日独伊三国による軍事同盟であり、加盟国はアジアは日本、欧州は独・伊という形で、それぞれの優越的地位を相互承認しました。
松岡外相は「局外に立っていたアメリカを牽制し、さらには親善関係に引き込んで日中間の調停にあたらせることができると考えて(木畑洋一)いました。
ドイツはアメリカの対独参戦への牽制になると期待、日本が香港・シンガポールといったイギリスの拠点を攻撃すればドイツにとって側面援助になると考えていました。
この締結によって、世界は民主主義国vs反民主主義国に二分されました。動揺していた中国国民政府も立場を明確にします。
松岡の主観とは異なり日本と、「ドイツと死闘を繰り広げていた英仏ならびにその背後にたって支援を惜しまないアメリカとの対立は決定的(臼井勝美)となったのです。
日本の動きに対し、アメリカは対抗措置に出ます。
7月の航空機燃料輸出の停止につづき、9月には製鉄に必要なくず鉄の輸出禁止に踏み切りました。とはいえ、この段階でもアメリカは日本との決定的な対立を避けていました。

日ソ中立条約と中国

松岡洋右(1880~1946)外交官・政治家。国際連盟脱退時の国連大使、第2次近衛内閣の外相として日独伊三国同盟や日ソ中立条約締結を推進した。A級戦犯

松岡のさらなる一手は三国同盟にソ連を加えた四国同盟実現でした。
日本ではノモンハンでの惨敗とドイツの大攻勢によって北進論は勢いを失っていました。
松岡はこうした情勢を背景に、ソ連を三国同盟ブロックに参加させて北からの脅威を減らすことが南進政策を強化し、さらにソ連による中国への援助を止めることが可能になると考えました。
この方針の下、松岡はドイツに乗り込みます。実はドイツも前年、同様の構想をソ連側に伝えたもののソ連側から拒否されていました。
松岡はヒトラーにこの構想を説いたところ、彼は極めて消極的な態度に終始、松岡は四国同盟構想を断念、単独でソ連と結ぶべくモスクワに向かい、41年4月日ソ中立条約を締結しました。
しかし、すでにこの段階でヒトラーは独ソ戦を準備していました。
日ソ中立条約の締結は、中国国民政府・共産党双方に大きな衝撃を与えました。蒋介石は激怒したといいます。
ソ連はこれまでから、もっとも重要な援助国であったし、ソ「満」国境の緊張状態が中国にとっても側面援助になっていたからです。さらに蒋介石はソ連が日本とたたかってくれるという妄想にとらわれていました。
また中国共産党からすれば、ソ連は共産主義のリーダーでさまざまな援助(実際は介入と破壊といった方が妥当かもしれませんが)を行ってきた国です。
さらに、ソ連が「満州国」を承認し、日本が「外モンゴル」を承認したことも衝撃でした。
しかし、衝撃ではありましたが、絶望ではなくなっていました。大国アメリカが中国援助を拡大していたからです。アメリカは「武器貸与法」を援用し、貸与という形式をとって大量の軍需物資を中国に供給しはじめました。援蒋ルートも整備され、航空機やパイロットも提供されました。
中国にとっての最大の援助国はソ連からアメリカに変わっていました。

《参考文献》

鹿錫俊『蒋介石の「国際的解決」戦略1937ー1941』
麻田雅文『蒋介石の書簡外交(上)』
劉傑『漢奸裁判』『中国の強国構想―日清戦争後から現代まで
笠原十九司『日中戦争全史(上)(下)』
臼井勝美『新版日中戦争』
入江昭『太平洋戦争の起源』『日本の外交』
川島真・服部龍二編『東アジア国際政治史』
大木毅『独ソ戦』
木畑洋一『日独伊三国同盟と第二次大戦』
原田敬一『戦争の終わらせ方』
吉田裕『アジア・太平洋戦争』
吉田裕・森茂樹『アジア・太平洋戦争』
伊香俊哉『満州事変から日中全面戦争へ』
森武麿『アジア・太平洋戦争』
江口圭一『二つの大戦』『十五年戦争小史』

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日中戦争をめぐる国際問題と米英開戦

1:日本に勝つには世界戦争が必要だ
2 :  
第二次世界大戦の勃発と三国同盟
3 :  日米交渉とアジア太平洋戦争開戦

 

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