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明治維新とは何か~明治維新と文明開化(1)
明治維新と文明開化<メニューとリンク>
1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出
はじめに~明治維新の始期にかかわって
本日のテーマは「明治維新と文明開化」です。
一昔前まで、明治維新を冠したテレビドラマなども、実際描かれたのは坂本龍馬とか高杉晋作、新撰組といった人たちが活躍する幕末が中心でした。こうした激動のドラマの中、人々は日本の未来を信じ大義に殉じ死んでいく、そうした活躍のなか、大政奉還・王政復古が実現し、「日本は夜明け」である明治維新を迎えるという形でおわることが大部分でした。そして、実際の明治維新は描かれることはまれでした。
「夜明け後の日本」が複雑で、矛盾に満ちた者であっただけに、こうした形となったのではと邪推したくなります。
そのためか、後世の人々は、明治維新の変革は偉大ですばらしいもののようにみることが多かったのです。「維新」という名を冠した政党も、こうした点とかかわっているのかもしれません。
しかし重要なのは「明治維新」とよばれた変革の中で何が行われたかです。今日は明治初年の改革とそれが国民に与えた影響を見ていくことにします。
なお、信じがたいほどの量と質の変革が行われたため、多くの分を端折らざるを得ないことをあらかじめご理解ください。
1,明治維新はいつ始まったのか
明治維新は「19世紀後半の日本において江戸幕藩体制が崩壊、近代統一国家と明治新政権が形成された一連の政治的社会的変革」と簡単にまとめることができます。
明治維新が、いつ始まったかについては、右に示したように4つくらいの説があります。
とはいえ、実際には、ほぼ全員が1853年、黒船来航というでしょう。世界と出会うことで、それまでの政治・社会制度が立ちゆかなくなり、明治維新に至ったと。全くその通りであり、私もそれに同意します。
しかしそれだけでいいのか、歴史家たちは考えました。
外国からの影響だけで、明治維新が実現したというのは安易ではないか、江戸時代の日本にそれを実現しうるだけの力量が蓄えられたいたのではないかと。
ペリー来航による明治維新の開始を「外的要因」とすれば、日本の「内的要因」を探るという立場です。
みなさんのなかには「マニュファクチュア=工場制手工業」という念仏のようなことばが耳に残っておられる方もおられるのではないでしょうか。このマニュファクチュアが普及していたのは工場制機械工業が普及する直前の資本主義の一段階であり、世界史的には絶対主義が形成された時期に該当すると考えられていました。そして、こうした段階を幕末の日本の中に探そうとしたのが、服部之総という歴史家でした。そして1830年代の天保期に「厳密な意味でのマニュファクチュア」時代が到来していたと主張しました。だからこそ、日本は明治維新の変革を実現し、絶対主義天皇制を実現できたと考えたのです。
2,寛政期に幕末政局の諸要素が出そろう
近年はもう一つ有力な説が、主に近世史の研究者から出されてきました。19世紀が始まったころ、寛政(1789~1801)期を重視する考えです。
外国船が日本近海に出現し始めるきっかけとなったのがこの時期です。19世紀になるとロシア・イギリスとの国際紛争も発生します。「鎖国」という温室で過ごしてきた日本もいやおうなく外国を意識し始めました。自分たちが「鎖国」してきた事実に気づいたというべきでしょうか。
ちなみに「鎖国」という言葉が用いられたのは元オランダ通事であった志筑忠雄が18世紀末に著した『鎖国論』に由来しています。
また国学や水戸学といった天皇の権威を重視する新たな学問の広がりを背景に、光格天皇(1771~1840、位1780~1817)が、朝廷の権威拡大をめざし積極的な行動を取り始めていました。(天皇という名前を復活させたのもこの天皇です。)
こうしたなかで、幕府は、将軍と天皇・日本という三者の関係を整理する必要が生じてきました。そうしたなかで採用されたのが、将軍は伝統的権威である天皇から日本を外敵から守る(「征夷」)権限を与えられており、その職務を実現するため将軍は諸大名に命令する権利をもつとともに、日本を統べる存在として外交権ももつとの大政委任論でした。
お気づきでしょうか、外国勢力の接近・鎖国という国是(攘夷)・天皇中心の日本(尊王)・幕府の統治権(大政委任論)という明治維新にかかわる諸要素が出そろってきたことがわかりますね。
この時期、日本経済は急速に発展をし始め、庶民教育機関・寺子屋も一挙に増加、人々の間に旅行ブームが始まります。内的要因も成熟し始めました。
外国勢力の接近は偶然ではありませんでした。19世紀が始まるこの時期は、世界史的にみれば「収縮の時代」にかわって「膨張の時代」に変わる時期でした。「世界=資本主義」が世界を席巻するようになり始めた時期、世界が一挙に活性化した時期でもあったのです。
ただ明治維新の歯車が動き出す出発点がこの時期ではありますが、明治維新がこの時期に始まるとまでいう人はいないと思いますが。
寛政期の改革などここで記した内容については別稿をご覧ください。
Ⅰ、江戸時代はどのような時代だったのか
1,平和な時代?暗黒時代?
明治維新がさまざまな「江戸時代」を破壊したことには疑いの余地はありません。ここで簡単に江戸時代を見ておきましょう。
皆さんは江戸時代といえばどのようなイメージがありますか。水戸黄門、暴れん坊将軍のような時代劇の世界?
あるいは古典落語や山本周五郎のような市井の庶民、忠臣蔵や藤沢周平のような世界?
戦争もなく平和・・だが、自由や人権という意味では、うーんとうなってしまうような時代ですか。学生運動華やかなりしころに一世を風靡したカムイ伝の世界でしょうか。
白土三平が書いた「カムイ伝」は非人集落に生まれた忍者カムイの活躍を描いた忍者の物語でしたが、白土の筆はしだいに百姓や非人たちによる民主的な村・社会実現に向かいます。しかしそうした成果は苛烈で残虐な武士によって奪いさられ、それに対抗すべく百姓一揆に立ち上がりますが、悲惨な結末を迎えます。
カムイ伝が描く江戸時代は、このように武士階級のもとで民衆は抑圧されつづけた暗黒時代でした。
権力をふりかざすお役人とそれに苦しめられる庶民という点では水戸黄門なども似た構造を持っており、現在の大河ドラマ「青天を衝け」などもこの構造を引き継ぎます。
江戸時代をネガティブに描くやり方、これは「鎖国」によって日本が世界から後れをとったという見解ともあいまって、明治以降の近代歴史学の典型的な叙述方法でした。
その背景はのちほどお話しします。
戦後の歴史学は、このような残虐な支配に対し一揆や打ち壊しなどさまざまな形で抵抗する民衆の姿を、さらに封建制に対抗する思想を、見つけ出そうとしました。現在の「大河」もこうした性格を一部引き継いでいるともいえそうです。
それにたいし、古典落語や山本周五郎のような「平和な、貧しいが心豊かな時代」という視点からこの時代を描いたのが渡辺京二氏の「逝きし世の面影」であり、現代歴史学の一つの傾向です。
これをうけ、近年の研究は、江戸時代を環境面や勤労革命などという形でポジティブに描き出します。
近代の行き詰まりのなかで、江戸時代を再認識しようという視点です。
2,「分」を守って生きること
しかし、江戸時代を手放しで礼賛することはできないと思います。実は、近松門左衛門にはじまり、現在の藤沢周平につながる江戸時代像があります。こうした作品の中に私たちは身分社会を生きる苦しみを見ることができます。ある意味では忠臣蔵もそうでしょう。
たしかに江戸時代は戦争がないという意味では「平和」な時代でした。しかし、それは平和学の祖ガルトゥングが定義した「消極的平和」であり、「積極的平和」とは言えないものでした。自由に生きることは罪悪とされ、差別しないことが許されない社会、それによってもたらされた「平和」でした。
人々は「分」を守って生きることが求められ、それによって「平和」が実現しているという矛盾に満ちた時代でした。
歴史家・安丸良夫は「幕藩制国家は、<敵>を排除しその内部をひとつの<平和領域>として構成し、そこに安穏と秩序とを実現していることに正統性根拠をおいていた。」と指摘します。
鎖国と禁教令によって「異国」という敵を排除し、身分・社会秩序のなかで「分をわきまえた」生き方に生きるという「不自由」の代償として「平和」が実現されたのです。
安丸はつづけます。「ペリー来航によって外なる<敵>に有効に対処しえないことが暴露されると、その権威はたちまち動揺し、権力として実効ある支配を実現しえなくなった。」(安丸良夫「1850~70年代の日本」)
外なる敵が姿を見せ始めたのが1800年頃といえそうです。
3,「カベ」のなかの「平和」
江戸時代の日本は多くの「カベ」の中にいました。
一つ目は、日本全体を囲むカベ、つまり「鎖国」です。
注目したいのは海外貿易、とくに中国貿易が制限されたことです。
中国製の商品が輸入が困難になったため、生糸や絹織物、陶磁器、美術工芸品などは国内で生産するようになり、世界に類を見ないまでの高度で精緻な文化を生み出しました。
とはいえ、世界と隔絶した「ガラパゴス」的進化であったことも事実ですが。
一定の規模の購買力を持つ日本市場、全国的流通網、発展し蓄積されていく技術、なによりも平和な時代、こうして日本には、高度に自己完結的な国内市場が形成されました。
日本の経済・文化の発展は「鎖国」というカベと密接な関係がありました。
二つ目は、「幕藩体制」(=封建制)という「ヨコのカベ」です。
人びとは藩などの「小国」によって分断され、さらに「村」などの小世界のなかで暮らしました。
しかし、19世紀になると、人々は様々な形で日本を学び、旅行をし、旅人を迎え入れました。それを通じて、自分たちが狭い世界の中で住んでいることを再認識し始めます。
こうして幕末に近づくなか、人々の意識に「日本」という存在が現れ始めます。歴史家がプレ国民国家と呼ぶ事態が生まれつつあったのです。
三つ目は「身分制度」という「タテのカベ」です。
人は「分」をまもり、共同体のルール内で生きることを求められていました。江戸時代は「差別は当然」「平等は許されない時代」でした。
4,「村請制」~相互扶助と連帯責任
江戸時代の社会は、「人々をいくつかの袋に詰め込んで積み上げた」という社会というイメージで語った研究者がいます。この「袋」が「村」(都市では「町ちょう」)にあたります。これも一つの「カベ」として捉えられるかもしれません。
「村」を底辺で支えていたのが「村請制」です。
年貢を村が一括して支払う制度で、村を束ねる村役人には村内の百姓から定められた年貢を集め、責任を負って領主に納める制度です。このことは、村の中で年貢を払えないものがいても、それは村の責任と見なされ、未進があれば村役人の責任が問われます。そこでかれらは、自らが立て替えたり、様々な形で金策をしてやり、最終的に全員分を皆済せざるを得ませんでした。
なお災害や領主の理不尽な要求など村人に共通する事情があるときは、村役人たちが村の代表として領主に交渉します。こうした交渉が不調の場合に、村役人らによる直訴(代表越訴)、村人全員が参加する強訴(惣百姓一揆)といった事態へと発展しました。
このように、年貢の支払いの責任を「村」が負ったため、年貢を払えないことが原因で農民経営が破綻(「つぶれ」)することを防ぐことができました。村が社会保険を担っていたのです。
他方、金を借りることになった百姓は自分が暮らしている「村」に迷惑をかけたという「負い目」から無理をせざるを得なくなります。
このように村には相互扶助と連帯責任の原理が働くシステムがありました。
領主にとっても、「つぶれ」を極力出さずに年貢を完納させるという最大の難問を百姓自らが担ってくれるのでありがたい話です。こうして、特別な事情がなければ、領主は「村」に気を配る必要も薄れていきます。領内のトラブルの多くは村役人らが中心となって、「内済」されました。
こうして「村」には一定の「自治」権が与えられ、村役人には一定の支配権をもつことになります。
このように江戸時代の「村」は、村内の自治を維持しつつ貧農をはじめとする没落しがちな農民を村内にかかえこむ福祉的側面と、領主への年貢納入を円滑に行い、村人を村政に協力・従属させるという領主支配の代行機関という表裏一体の関係性を持ちました。
しかし農村におけるこうした関係もやはり19世紀前後から崩れ始めます。人口の都市への流出がすすみ、兼業農家も増加します。販売目的の農業も広がりを見せ、村役人らの村内把握も困難になっていきます。これまでの村のあり方では通用しなくなってきたのでした。これをうけ、百姓一揆のあり方なども変わり始めてきました。
村請制や江戸期の村落のあり方については、別稿をご覧ください。
5,「国民国家」形成という視点から
江戸時代を「カベ」に囲まれ、人々を身分、村や町などの「袋」にパッケージしていた時代と捉えるならば、明治維新は、鎖国・幕藩制度・身分制度などの「カベ」を壊し、村請制にみられる「袋」を破って均一な国民国家=日本人を形成した変革ということができるでしょう。
ちなみに国民国家とは
①国境に区切られた一定の領域からなる
②主権を備えた国家で
③その中に住む人びと(ネイション=国民)が国民的一体性の意識(ナショナル・アイデンティティ)を共有している国家
と位置づけることができます。
明治維新を国民国家形成(=「日本人を創出していく」過程)と考えるなら、この過程は1800年頃にはじまり、ペリーの来航と開港によって本格化、そして日本に住む多くの人が「国民的一体性の意識」をもつようになった日清日清日露両戦争までと考えることも可能でしょう。
こうしたカベが壊されることはどのような意味合いがあったのでしょうか。
先に見たように江戸時代の「平和」は人々の「分をわきまえた」生き方によって実現していました。その「分」とは、それぞれの身分は権利と義務を示していました。例えば武士は人々の生活の安寧を守り「仁政」を実現するといった義務を負う代わりに年貢を受け取るといった具合です。さらに細分化された身分に応じ義務と権利がついてきます。
「百姓」はどうでしょうか。義務は年貢を納めること、では権利は戦争や災害から生活と生産を守ってもらうこと。戦乱による生命・財産の危機や従軍もなく、平和裡に生活でき、秀吉の言を借りれば「年貢さえ払えば、百姓ほど楽なものはない」状態を維持することです。しかし別の言い方をすれば百姓・町人は政治や軍事などには口出すべきでなく「客分」でありつづけよという「分を守る生き方」でもありました。
「士」の義務は、戦乱だけでなく飢饉や洪水などの災害にたいする「仁政」の実施でもありました。百姓は年貢の減免を要求しや施し米をうけとる権利がありました。
このような義務と権利のなか、人々は「分をわきまえる」生き方を求められました。もし武士が災害などで適切な対応を怠ったり、苛斂誅求をおこなった場合、百姓には抗議する権利が生じました。こうした権利行使が百姓一揆でした。
しかし江戸時代が進み、領主側に財政的余裕が失われるとこうした「仁政」の実施が困難になっていきます。さらに年貢納入のルールの一方的変更は両者の関係を悪化させていきます。こうしたなかでのルールの立て直しを図ったのが、19世紀初めの寛政の改革でした。
Ⅱ、明治政府の成立へ
1,開国が引き起こしたもの
18世紀末以降、本格化した外国船の接近は「外の世界」を意識させ「鎖国」というカベが危くなりつつあることをを感じさせました。しかし、こうした危機感は知識人に限定されました。
一般民衆が「外の世界」を意識したのはやはり1853年のペリーの来航であり、開港によって発生した強烈なインフレーションであり、国外由来のコレラなどの疫病の蔓延でした。
列強諸国が軍事力によって日本を開国させたという事実は、「日本は神の国」=「皇国」という自己意識が広がっていただけにそのプライドを大きく損ねるものでした。ここで生じた屈辱感と復讐心は、彼我の「国力の差」を強く認識していただけに複雑な政治情勢を生み出しました。
攘夷を強く主張している人々の多くが実は開国を考えており、開国を進める人が本音では攘夷を期待していたという風に。
強力な外国勢力の出現は、「汚され、呑み込まれる」という民族的な「強迫神経症」を日本に罹患させました。
ここから生じた「病巣」を完癒できないまま、この病が日本近代史の様々な場面で発症します。
当初は外国勢力を打ち払えという攘夷論で、次に富国強兵と文明開化で西洋風の国家をめざさせ、さらには自ら帝国主義列強の一角に食い込もうとし、最後には日本こそが八紘一宇を実現し世界で指導的な地位を占めるべきだという妄想に。敗戦の高度経済成長のエネルギーもここからエネルギーを得ていたように思えます。
ではこうした神経症が完癒したのはいつなのでしょうか。いまだに治癒できていないのかもしれないし、逆に完癒した結果が、現在の日本の姿かもしれませんね。
2,新政府の成立
開国・開港と屈辱感・危機感は、日本側の主体をどう構築するかの問題を提起しました。そして挙国一致(オールジャパン)の必要性がとかれました。
挙国一致のシンボルとされたのが天皇です。
そこで問題となったのが、天皇と幕府(および諸藩)の関係をどのように整理するでした。問題はこじれにこじれ、1867年、しかも後半になると将軍から権限を奪うべきだという動きが本格化します。
ドラマなどでは「幕府を倒し云々」という言葉がよく出てきますが、本気にそんなことを考えていた人は、長州も含め、一体どのくらいいたのでしょうか。天皇が幕府を通して諸藩に命じ攘夷を実現させるというのが、薩摩藩も含め1867年前半までの一般的な考え方でした。
しかし幕府の軍制改革と、幕府中心の国家方針の意図が見え始める中、薩摩藩と岩倉など急進派公家たちは将軍・慶喜を新国家建設から排除しようと考え始めます。こうして発生したのが王政復古のクーデタでした。
さらに幕府寄りの大名らの工作で慶喜の政権復帰が実現する直前に鳥羽伏見の戦いが発生、薩摩長州を中心とする勢力は旧幕府側を追討する正統性が生まれ、慶喜追討をすすめる官軍であるとの口実が与えられました。その結果、親藩の尾張・越前を始めで多くの大名が雪崩を打つように新政府側について、戊辰戦争を優勢に進めることができ、新政府は支配の実態を固めることに成功しました。
3,十分な「設計図」なしで変革に乗り出す
ドラマなどでは、幕末のリーダーたちが日本の未来への確かな見通しを持って、幕府を倒し、明治維新をすすめていったと描かれがちでした。
しかし、近年の研究でほぼ明らかになってきたことは、新政府側にはこれといった明確なビジョンがなかったということです。
よい言い方をすれば「走りながら考える」、悪い言い方をすれば「行き当たりばったり」であったというのが実態だったというのです。
たしかにおおまかな合意や構想はありました。最も重要なものは、1867年薩摩藩と土佐藩の間で結ばれた薩土盟約(史料)です。
青山忠正氏は、これを「芸州藩なども巻き込んで実現がめざされた『王政復古』を主眼とする政体構想そのものである」と評価します。
ここでは青山氏が引用したその一部を引用しておきます。
「約定書」 ①一、天下の大政を議定する全権は朝廷に在り、我が皇国の制度法則一切の万機、京師の議事堂より出るを要す ②一、議事院を建立するは宜しく諸藩よりその入費を貢献すべし ③一、議事院上下を分かち、議事官は上公卿より下陪臣庶民に至るまで正義純粋のものを選挙し、なおかつ諸侯も、おのずからその職掌によって上院の任に充つ ④一、将軍職を以って天下の万機を掌握するの理なし、自今宜しくその職を辞して諸侯の列に帰順し、政権を朝廷に帰すべきは勿論なり (青山忠正『明治維新』p156) |
(この元になったの坂本龍馬の「船中八策」といわれますが、その存在に疑問を持つ意見もあります)
ここには、新しい政権のありかたについての大まかな合意が見られます。
その合意は、天皇の下に国家を統一すること、「公議」を体現するための機関(ここでは「議事院」と表現される)を樹立すること、人材登用、国政刷新といった方向性が見られます。
さらに、開国と条約改正、さらには日本軍の創設(とくに海軍)内容などの必要性も合意されており、徳川慶喜が諸侯の一員として参加することは可能な内容でした。
これに対し、改革はいずれ幕藩体制否定にすすまざるをえないとの予測も存在しました。たとえば薩摩の寺島宗則は幕藩制は困難でいずれ郡県制(中央集権制)に向かわざるを得ないだろうとの意見書(史料・史料紹介)を提出しています。新政府成立後、最初に言い出したのは伊藤博文です。
では寺島や伊藤に先見の明があったのかというと、そうともいいきれません。数年前、すでに宇和島藩主の伊達宗城もこうした展望を話しています。口に出さないだけで、本気で将来像を考えれば中央集権化=「廃藩置県」に向かわざるを得ないことを多くの人がうすうす気づいていたように思われます。
この点については、以前文章を書いたことがあります。ここを参照。
しかし、このようなラフな内容で実際の政治を進めていけるでしょうか。
ともあれ、鳥羽伏見の戦いをきっかけに、薩長を中心とする新政府があたらしい航海に船出しました。不十分で、有効性を失いつつある海図を手に。
政権の座についた新政府の前に、次々と難題が押し寄せます。
戦争遂行と各藩からの兵力動員、資金調達、外国との対応、政府内の反対派との対応、外国人襲撃や用心に対するテロ活動、民衆の不穏な動きなどなど。
こうした難題の前に、大久保・木戸・西郷といった下級藩士中心の指導者が正面にたって対応していきました。おしゃべりにうつつを抜かしている人々を押しのけて。
最初の難題は神戸事件です。鳥羽伏見の戦い直後に、京に向かう岡山藩兵と神戸居留を始めたばかりの英・仏の兵が衝突した事件です。
かつての攘夷派を中心に誕生した新政府の動きを列強は注視しました。
この対応に当たったのが伊藤博文です。伊藤は各国公使に陳謝、岡山藩家老の家来(陪臣)にすべての責任をおわせて切腹させ、事なきを得ます。
本来なら攘夷か開国かという大問題でしたが、こうした事件も、実際の最前線にいるリーダーたちが即断即決で方針を決めていきました。
3月には堺でも同様の事件が発生、新政府は関係した土佐藩兵全員の切腹を命じました。(実際には殺された外国人と同数が切腹した段階で中止されます。)このような手法で新政府は諸列強の信頼を勝ち取りました。
このように、一定の見識と実行力を持った現場のリーダーたちが、個々の課題に、時には独断専行で対応、こうした結果のなかで新政府の方向性が固まっていったというべきでしょう。
4,五箇条の誓文~開国方針を打ち出す
五箇条の誓文が出されたのは、この時期です。
五箇条の誓文のもとになった文章は、越前藩から来ていた由利公正(三岡八郎)が新政府の役人間の「申し合わせ」のために書いたものでした。有名な第一条も「列侯会議を開き、万機公論に決すべし」となっていました。
しかし、これを新政府の基本方針としようと考えた木戸孝允が最終案をつくります。
それと同時に、発表のやり方も変更します。当初、天皇(実際は代理である三条実美ですが)が大名や公家と向かい合い契約を交わす形を考えていました。しかし実際に行われたのは大名や公卿(その後ろにはすべての「国民」)を後ろにひかえさせた天皇が、自ら先頭に立って新しい政治をすすめることを神に誓う形式となったのです。
もっとも有名な一節が、第一条の「広く会議を開き、万機公論に決すべし」であり、昭和天皇は、なにかあると日本流の民主主義を示すものとして引用しました。
しかし、実はこれは列侯会議などの会議によって政治を進めていくというこの時期まだ有力であった幕末以来の考え方(公議政体論)を文章化したものでした。
実質的な意味を持っていたのは、「旧来の陋習を破り天地の行動に基づくべし」という第4条、とそれにひきつぐ「智識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし」という第5条です。
「旧来の陋習」とはこれまでの古いやり方全般をさすと考えられ、第5条の「欧米の文明(「智識」)を摂取して、近代国家の基礎(「皇基」)をつくる」との記述と響き合って「現在までの日本の古くさいルールや考えを捨て、世界に学んで日本のあるべき道を求め、発展を図っていく」という意味となります。それは鎖国=攘夷といったやり方ではなく、外国文明を積極的に受け入れていくという積極的なメッセージとなりました。
新政府の方針を中止していた列強は、神戸事件の対応などもあり、歓迎すべきものと理解しました。
他方、新政府による攘夷実現を期待していた勢力は裏切られたと感じたでしょう。多くの要人がそのテロの標的となりました。
5,「富国強兵」
このあとも新政府の困難は続きます。
権力は奪ったものの新しい政府についての定まったプランはなく、結局、構想力と実行力を兼ね備えたリーダーの元に「仕事」と「権力」が集中、その判断で政策が動いていきました。
実際のところは、直面する課題にたいし対応するなかで方向性が定まっていったという方が正解のように思われます。
この時期、外国事情に詳しい、計算能力に優れる、民政官僚としての能力に優れるなど、有能と見なされた人物が次々と新政府に登用され、重要な役割をになわされます。
神戸事件や堺事件を裁いた西洋事情に詳しい伊藤や寺島、長崎でキリスト教弾圧に抗議する列強を国際法を盾に拒否した大隈重信などが代表的な人物です。武士以外も、幕臣も、同様でした。大河ドラマの主人公となった渋沢栄一も、旧幕臣たちも力量を見いだされ、新政府に登用されました。
政府の方針はこうした紆余曲折の中、全体として「富国強兵」=欧米型主権国家の実現という方向でまとまっていきました。
その要点は以下のようにまとめることができるでしょう。
・外交=「万国公法」体制の受容→「条約改正」の実現
・制度=西洋型の法・裁判制度、経済・財政制度など導入
→「地租改正」など
・軍備=国民皆兵の近代的「国民軍」創出=「徴兵令」
・産業の「近代」化・インフラの整備=「殖産興業」
・近代国家に適合する「国民」の創出
・文化=欧米文化の輸入=「文明開化」
→伝統的・民衆的文化の否定(「陋習を破」る)
新政府は、維新の改革は天皇の意思であり、神武天皇がめざした国家づくりに由来すると強弁します。
その下で、それぞれの官僚たちがそれぞれの立場で、合従連衡をくりかえし諸改革を実現しようとし、その繰り返しのなかで近代日本のありようが定まっていきます。
その結果、明治維新の改革はいつのまにかリーダーたちすらが思わないような大胆なものになっていきました。
こうしたなか、幕末以来のリーダーの多くはこうした流れに疎外感を感じ始め、反政府に身を投じる者もあらわれます。維新の三傑と言われる西郷や木戸は、幕末のころの理想と自分たちがすすめている改革のギャップに苦しみます。
逆に伊藤や大隈、山県有朋、井上馨らは時代の風をつかみ、改革の中心として活躍します。政府を離れた渋沢や五代友厚らも、民間のなかで時代の風をつかんだといえます。こうした人々を強い責任感をもって支えたのが大久保であり、幕末以来天皇の権威の伸長をめざす岩倉具美や三条実美でした。
<つづく>
<参考文献>
井上勝生『幕末・維新』『開国と幕末変革』
藤田 覚『幕末から維新へ』
中村 哲『明治維新』
石井寬治『開国と明治維新』
青山忠正『明治維新』
佐々木克『幕末政治と薩摩藩』
渡辺京二『逝きし世の面影』
鬼頭 宏『文明としての江戸システム』
安丸良夫『安丸良夫集』『日本の近代化と民衆思想』
松沢裕作『自由民権運動』
奈良勝治『明治維新をとらえ直す』
三谷 博『維新史再考―公議・王政から集権・脱身分化へ』
『図説日本史通覧』『詳説日本史図録』『新詳日本史』
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明治維新と文明開化
1:明治維新とは何か
2:明治の変革
3:文明開化と国民の創出
※参考資料:レジュメとパワーポイント資料
レジュメ「明治維新と文明開化21」
パワーポイント資料「明治維新と文明開化21ppt」