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アメリカは沖縄を「解放」しよう!としていた。~「学長塾」第2期第一回(2)~
表題についてのお断り
誤解を招きそうな表題で申し訳ありません。あとででてくる櫻澤誠さん「沖縄現代史」(中公新書2015)の小見出しの一部を引用させていただきました。先生は、今度はこの本を引用しながら話を進められました。
アメリカの「沖縄の解放」が、「米軍が大手を振って行動できる」と同意語であることは想像に難くないと思います。別のいい方をすれば、「基地の島」にするために「沖縄を解放」しようとしていたのです。現在から見れば、そんな必要はなかった。なぜなら、日本に復帰させたために、米軍は信じられない程の多額の資金提供を毎年受け、デラックスな「ベース・ライフ」が満喫できるのですから。
今回の内容は
学長塾第二期第一回の後半部分です。「本当の戦争を半分しか知らない」大部分の日本人とは違って、「本当の戦争」を骨身に染みて知らされることとなった沖縄戦の話に入っていきます。
前半は加藤陽子さんの引用から始められた先生ですが、今回は上記「沖縄現代史」の本文冒頭のエピソードから話をつづけられました。
沖縄戦は「降伏文書調印」の後までつづいた!
櫻澤さんの本の第1章冒頭は、正式に沖縄戦がおわったのが9月7日であったことからはじまります。この日、南西諸島守備軍代表が降伏文書に調印して初めて沖縄戦が正式に終りました。9月2日、戦艦ミズーリの艦上で重光外相と梅津参謀総長が降伏文書に署名した五日後です。なぜ、別々の調印となったのでしょうか。実は別々の降伏文書が必要でした。櫻澤さんの文章を引用します。
それは、沖縄守備隊が台湾に置かれた第十方面軍の所属であり、屋久島と口之島の間の北緯三十度線で分離された「外地」の部隊だったからである。本土決戦準備および終戦工作のため、戦後米国によって分割される以前に、すでに日本によって分割されていたのである。
九月二日の降伏文書は内地の軍隊に適用されるもので、外地の部隊には通用せず、それでは外地の部隊が戦闘を終結したとはみなされないのです。内地というのは明治憲法が通用するところのことです。四島と南樺太を内地軍が管轄していましたが、沖縄は内地軍の管轄ではなかったのです。憲法の通用しない「外地」=植民地台湾を守備する第十軍所属として沖縄は位置づけられていたのです。櫻澤さんのいうように沖縄は「外地」扱いされていました。
所属軍の違いが朝鮮半島分断を招いた
軍隊の所属、それがどうした、といいたくなるのですが、それが朝鮮半島の人に現在に至る苦難を与える原因となりました。
戦争の最終盤、植民地・朝鮮でも軍隊の編成がかわりました。北緯三十八度線以北は「満州」を守備する関東軍の所属に組み込まれ、朝鮮軍司令官の管轄は南部のみとなります。このことが、のちの朝鮮半島の歴史に大きな意味を持ちます。
軍隊は方面軍ごとに行動します。関東軍はソ連軍に降伏し、朝鮮方面軍はアメリカに降伏しました。この結果、関東軍の管轄下にあった北緯三十八度線以北はソ連が責任を持って武装解除し、以南はアメリカが責任を持って武装解除する、そのため北緯三十八度線が双方の責任分担の境界となったのです。そしてこれが朝鮮半島分断の原因を作りました。
先生の話は、ちょっと脱線したところに重要なエピソードが隠れています。
「玉音放送」を聞きましたか?
玉音放送を聞いた人居られますか、と問いかけられました。ちなみに、先生もラジオで聞かれたそうですが、ガーガーピーピーでよく分からなかったそうです。とはいえ、お父さんが正座して聞き、家族全員も集まっていました。他の参加者の方は、小学生でしたがよく聞きとれたそうです。隣の家のラジオだったそうですが。
ちなみに私の両親もガーガーピーピーでよくわからなかったといっています。両親とも、真っ青な青空だったと話していました。
沖縄の人は玉音放送を聞けず、朝鮮の人は聞きました。
先生の話を続けます。
櫻澤さんは書いています。「沖縄で玉音放送を聞いたのは仮沖縄諮詢会に属した一部の者のみが米軍施設の中で聴いたにすぎない。」しかし大部分の人は聴いておらず、米軍の布告という形で知ったそうです。
ちなみに朝鮮の人は玉音放送を聴きました。そして解放されたと大喜びしたのです。
アメリカは沖縄を解放すると考えていた。
アメリカは沖縄を解放するのだ!と考えていました。沖縄研究の結果です。アメリカでは、日本との戦争、さらに占領政策を円滑にするために、文化人類学者などを動員して日本についての調査研究をしていました。ルース=ベネディクトの「菊と刀」はその成果の一つです。日本本土だけでなく沖縄についても調査していました。「民事ハンドブック」や「琉球列島の沖縄人」といった本が書かれ、沖縄統治に利用されます。
こうした研究によって、アメリカは「琉球列島は、朝鮮半島や台湾と同様に近代日本が獲得した植民地とされ、『沖縄人』は解放される対象であった」(沖縄現代史)と考えたのです。ヨーロッパ人やアメリカ人は、沖縄は日本とは別の国であると理解し、それを日本が奪い取ったと考えました。
このとき在沖縄の米司令官はホッジです。しかしかれは終戦とともに沖縄を去り、朝鮮に渡ります。日本の降伏が予想外に早かったため、日本や沖縄のような事前検討もされず、予備知識もなしで朝鮮に移動し軍政を敷く、こうしたやり方がこののち、現在に至る朝鮮半島の混乱の原因にもなりました。
沖縄を世界はどう見ていたか、興味あるところです。幕末には琉球王国はアメリカやイギリスと和親条約を結ぶ独立国であったことを世界は知っていました。したがってこのように考えたのでしょう。あるいは沖縄に対し「日本」がどのような統治をしてきたのかも学んできました。ただ、アメリカが琉球を「解放」するといった場合、別の思惑があったことは明らかでしょう。
事前学習で何を教えましたか?
このあと、先生は参加している中学校や高校の先生に質問します。沖縄に研修旅行に行くとき、どのような事前学習をしましたか。
沖縄戦にかかわった方のから話を聞く、地元で沖縄戦で戦死した人を調べその方を「平和の礎」で確認する。表通りから少し入った路地の奥に空き地~そこは沖縄戦で一家が全滅した人のあとなのですが~そこの写真を見せたりしているという話もされました。実際に人々が戦火に追われながらたどった後を、南風原の陸軍壕から摩文仁まで実際に歩いて見た先生もいました。
単にいくつかの場所をまわってガイドさんの話を聞くだけにはならないように、追体験をし、戦争を実感できるようにとの先生たちのとりくみを次々と教えていただきました。
ここには、いろいろな素晴らしい実践をしている人がたくさんおられるのです。
日本列島から見た日本軍と、南からアジア大陸を俯瞰したアメリカ
では、なぜ沖縄戦はこのように民衆を巻き込む形の戦争になったのか、先生の話はその部分を日本とアメリカの戦略から見ていきます。
多くの場合は、沖縄戦については、戦場の悲惨さを伝えるという語り口になります。このテキストも、ひめゆり部隊にはじまって学童疎開と対馬丸、そして十月十日の空襲へという展開となります。
少し考えてほしいのは日本は沖縄をどのように見ていたかということです。沖縄に部隊が配置されたのはいつのことか分かりますか?沖縄に第三十二軍が配置されたのは一九四四年、アメリカとの戦争が始まって三年後のことです。
日本はどうも日本列島から南を見る傾向があるみたいです。東京からどれだけ遠くにあるかという視点です。ですから、南から敵が攻めてくると考えると、台湾が危ないとなって、沖縄にいた最強師団第九師団を台湾に移動させる。
ところがアメリカは南から北を見ているのではないかと思います。地図を南から見てみると、沖縄はオセアニア・ミクロネシアの最北端に位置しているのです。当時アメリカが気にしていたソ連に対する拠点として基地としてどこが最適かと考えると沖縄となる。アメリカは南から東アジア全体を見て、もっとも重要な拠点として沖縄を位置づけたのです。そして、このことは今も変わりません。
なぜこんなに多くの民間人が死んだのか?
吉田裕さんは沖縄戦の特徴は、兵士と一般住民の死者がほぼ同数であることを上げていました。それは本土決戦に向けて長い時間たたかうことによってアメリカ軍の出血を強いるという戦術を背景としていますし、さらには軍による住民の殺害、集団自決を強いられたことなどがその原因の一つです。
なぜ「戒厳令」が敷かれなかったのか?
今回は、オリエンテーションもあり、自己紹介をし、事前学習の話をしたりと盛りだくさんだったので、時間がなくなってきました。先生は参加者に「宿題」というか、考えてほしいことを言っておきますとして、思いがけない切り口の話をされました。
「スマホで「戒厳令」をしらべてください、そして書かれていることを読んでください」といわれました。なんのことか、わからないまま、調べて、読んでみました。それが以下の内容です。
戦争や内乱などの非常時に際し,全国ないしは一部地域において通常の立法権,行政権,司法権の行使を軍部にゆだねる非常法をいう。国家緊急権制度のひとつ。(中略)日本では,1882年に太政官布告として制定された。戒厳の宣告は天皇の権能(旧憲法14条)。戒厳が宣告されると,その地域における立法・司法・行政事務は戒厳司令官の権限に移され,住民の憲法上の自由・権利は制限されることが認められた。現行憲法では認められない。(百科事典マイペディア『戒厳令』)
そして、以下のように問いかけられました。
二二六事件では戒厳令がだされます。ところが沖縄戦では戒厳令はだされない。なぜでしょうか。
実は戒厳令を敷くという議論もなされていました。しかし結果は敷かれません。
敷かなくて良かったのか、敷かなくとも十分だったのか、その理由を考えてきてください。
この文章を読んでいただいた皆様もいっしょにて考えてください。