Contents
北白川宮能久親王の「死」をめぐって
近衛師団長北白川宮能久親王の発病
日清戦争の結果締結された下関条約で、清国は台湾を日本に割譲する。しかし、台湾住民はこれに強く反発、台湾民主国の建国を宣言、清仏戦争での英雄劉永福を大将軍に激しい抵抗戦争を繰り返した。これに対し、日本軍は近衛師団を中心に、約76,000人の兵力を投入、そのうちの10,689人が死亡、うち10,236人は戦病死であり、狭義の日清戦争の死者2,622人(うち戦病死1,658人(ただし、のちの輜重兵にあたる軍夫の死者約7,000人や海軍の死者百数十人が入っていない)と比べて、台湾での戦病死者の多さに驚く。
とくに台湾中部彰化に一ヶ月間駐屯した近衛師団は
「野戦病院一箇ニ千人以上ヲ収容セルモ尚不足シ市中至ル処患者充満シ惨澹タル情況ヲ呈シ九月下旬ニ於イテハ全師団中健全ナルモノ僅カニ五分ノ一ニシテ二七十人定員ノ歩兵中隊カ百二十人少キハ三十人ヲ余スノミトナリ山根少将、中岡中佐、緒方参謀等皆不帰ノ客トナレリ」
という惨澹たる有様であった。彰化では率先して見舞いと援助にあたっていた師団長の北白川宮能久親王も抵抗側の中心台南を目指す行軍のさなか、10月18日、嘉義で発症する。(以後、関係年表)
北白川宮という人物
北白川宮能久親王の死は神話の「ヤマトタケル」の死を連想させた。ヤマトタケルを連想させたのはその「死」の異常さだけではない。
北白川宮は数奇な運命をたどる。幕末から明治初年には輪王寺宮公現入道親王として、上野・東叡山寛永寺の門主であった。この地位は、京都の比叡山延暦寺をも管領する天台宗における最高位であり、もし京都の朝廷が幕府に敵対したさい、幕府が自分たちの「天皇」とすべく江戸に連れてきた皇族であったといわれ、実際にその役割を担ったのが彼、二十才の時のことである。
戊辰戦争が始まると、彼は、徳川慶喜の依頼で、助命と東征中止嘆願のため駿府城に有栖川宮を訪ねる。さらに、江戸城開城後、新政府軍に敵対する彰義隊は上野寛永寺にたてこもり、彰義隊が鎮圧されると残党とともに東北に向かった。そこで新政府軍とたたかう奥羽越列藩同盟の盟主におされる。天皇に即位し「東武天皇」と名乗ったという説もある。こうして運命のままに、京都から江戸、さらには東北へと流れていく。
その後許されて皇族の地位を保ち、のち北白川宮家を継承した。さらに留学先のプロイセンでは貴族の未亡人と婚約し、帰国後強い反対をうけあきらめるという、鴎外※と同様の事件も引き起こす。日清戦争には近衛師団長として従軍、台湾攻略戦の中心部隊の司令官となり、現地で戦病死する。南北朝時代以後の皇族でもっとも数奇な運命をたどったであろう人物といえる。
※森鴎外が「宮」の治療に当たっていたという俗説があるが、鴎外は総督府付きの軍医として遅れて6月11日に台北につく。「宮」は6月9日から30日まで台北におり、ここで出会ったことはほぼ確実であろう。その後、鴎外は台北で3ヶ月を過ごし、9月に台湾を離れ、10月4日東京に着く。「宮」の死は東京で聞いたと思われ、死の床の「宮」の治療にあたったことはあり得ない。
病状の深刻化と電文のやりとり
発症後も「宮」は三十八度以上の高熱を押して戦闘と行軍をつづける。最初はかご(「轎子」)にのり、さらには担架で台南に向う。宿泊場所も劣悪であった。こうして二十一日、台南に着くころには、病状はきわめて深刻となった。悪性のマラリアに、肺炎さらには脳症を併発、うわごとを発する。(電文②ー4・「御容体書」E所収)
二十三日の伏見宮貞愛親王を最後に面会謝絶状態となり、副総督(南進軍司令官)高島鞆之助すら面会を拒否される。二十六日には台湾総督樺山資紀も台南に到着、電信による通信も容易となる。樺山が面会、台湾平定を伝えたとの記述があるが確証はない。
こうした状況は電報で大本営に伝えられ、その一部が防衛省防衛研究所に「着電綴」として残される。通信手段の不調などによって情報の錯綜(②ー6)なども発生した。こうしたこともあってか、現地台南からの連絡の多くはいったん台北の総督府に送られ、角田秀松海軍少将(総督府参謀副長)の名で大本営に発信される。(関係年表参照のこと)
台南では、近衛師団軍医部長木村達にくわえて、総督部軍医部長石坂惟寛軍医総監らも加わり医療スタッフも充実、二十六日からは西郷吉義が専任となる。(②-5)病状は逐一大本営の軍医総監石黒忠悳のもとに報告される。(②の各文書)。残された受信文が「こんにゃく版」であることは、情報が大本営などでも共有されていたことを示す。当然明治天皇の耳にも入っていたと思われる。
北白川宮の死去とその秘匿
こうした医療体制を背景に病状は多くの文献に詳細に記されている。(関係年表参照)。病状はいったん小康状態となるが、十月二十七日朝から悪化、二十八日朝七時十六分ついに死亡する。(⑤)近衛師団参謀河村秀一は
「十月廿ハ日ノ朝ハ御病症愈々悪シク、彼所是所ニ人ヲ走ラセ、又急二内地ニ電報ヲ発スル等容易ナラヌ事態ニ迫リ、高貴ノ方々モ時ヲ移サス参集サレ軍医等ハ時々刻々拝診シテ」(C)
と記し、死亡前後の緊張した様子がわかる。「高貴ノ方々」が善後策を検討、電報が次々と発した。『能久親王事績』(D)は「貞愛親王、樺山資紀、高島鞆之助、乃木希典の諸将別を御遺骸に告げまゐらせ、秘して喪を発せず」と簡潔に記す。「高貴ノ方々」とはかれらを指す。
こうした措置が採られた背景には、この日参謀総長から「台南ノ賊徒ヲ剿討ス、朕之ヲ嘉ミス」との勅語が伝達されることになっており(E)、そうした名誉の日が「宮」の死と重なることを嫌ったのかも知れない。
「此の日、優渥なる勅語及び令旨を樺山総督に賜ひ、台南の賊徒掃蕩を賞し賜ひ、大本営にては、近衛師団長御病気御見舞いの為、氷塊約千斤を台南に向け送付方を命じ」(F)とあるように「勅語」自体が死の床にある「宮」へのはなむけの言葉ともおもわれる。さらに金鵄勲章の授与が11月1日、陸軍大将への昇進が11月4日であることから、生前に栄誉を与えようとの配慮も働いたのかもしれない。ともあれ、「宮」の死は「隠され」た。
台湾から送信された5本の電文
北白川宮死亡の一時間後の八時二十分、注目すべき電文が送られる。大島(久直)少将(総督府参謀長)が川上(操六)参謀次長宛に発した電文⑤である。「近衛師団長殿下今朝薨去被為在タルモ、危篤ノ旨ヲ以テ、至急御帰朝被出在筈ナリ」との内容である。「宮」の死去を速報するとともに、さきに決めた方針を伝達した内容である。現地軍の大島参謀長から川上参謀次長の参謀部のルートで、死去の事実と方針が台南→大本営の直通ルートでまず伝えられた。(1)北白川宮の死、(2)「秘して喪を発せず」「危篤」扱いのままとの方針、(3)遺体を船で帰国させる、この3点が伝えられ、この方針にしたがって作業が進められる。
こののち、④「今暁来病気頓ニ進ミ、今ハ危篤ナリ」、③「御病気御危篤、甚心痛ニ不堪」といった電文が、台南→台北の総督府→参謀総長という公式ルートで送られる。「表」用の電文とみられ、「死」は「危篤」と言い換えられる。
「裏」用の正式連絡とみられる電文が⑥である。死亡時間を含めた「宮」死亡の事実が正式に通知され、「御病気ノ名義ニテ軍艦ニ成ラセラレ、本日横浜ニ向ヒ、安平御出帆(略)ナリ。」と搬送作業について連絡がなされる。特別な関係者への公的な電文と思われる。発受信ルートは公式ルートだが、「台北 角田」と階級が記されず、宛も「参謀総長」とのみ記している。特殊な形式があるのかも知れない。なお、「電報訳文」とあることから、暗号文で送られたこともわかる。
午後五時になると、再び公式ルートを用い、公表用の電文⑦が発信される。発信先は「角田海軍『少将』」、宛先が「大本営参謀総長『殿下』」と尊称付きで記される。「死亡」の事実はもとより「危篤」や「病気」という用語すら用いない。そのかわり、⑥で「御出帆ノ時刻及軍艦ノ名ハ追テ報知ス」とされていた内容が正式に記される。これにしたがって東京側で出迎えを準備せよというニュアンスであろう。書体も非常に読みやすい楷書で記され、能書担当が清書したものとも思われる。なお、この電文も暗号で送られる。こうして、死亡の事実は秘せられたまま、北白川宮の遺体は日本に向かう。
北白川宮死亡の公表と国葬
「宮」死亡をめぐる電文のやりとりは、軍の秘密主義や隠蔽の手法などを示している。現地で一定の方針が立てられ、参謀間で方針がやりとりされ、その方針に従って、権威者の名前と公式ルートで正式文書が作られる。その際も、公表用のもの⑦と、有力者の間で密かに伝えられる「正式」文書⑥があり、その枠内で公式発表などが行われた。
遺体は十一月四日に横須賀に到着、死が公表されたのは十一月六日のことである。「官報」としてだされた「北白川宮能久親王御容体書」(Fに収録)では十一月五日まで生存したことになる。にもかかわらず実際に死亡時間には「午前七時十五分御症最モ御危篤ナリ。」といった言語的にもおかしな記述があり、つづく数日間は「二十八日ニ同ジ」とのみ記す。「危篤」は公式発表前の「死亡」を指す用語であった(F)。現在、テレビなどが死亡診断前の状態を「心肺停止」と記すのに近いのかも知れない。
そして十一月十二日国葬がとり行われ、遺体は東京の豊島岡皇族墓地に葬られる。
台湾神社・騎馬像と「殺害」伝説
戊辰戦争における奥羽越列藩同盟の総裁という経歴(それは「東北」という「辺地」に赴いたシンボルでもある)や外地・台湾の「まつろわぬ民」を征討する途上での斃れた武人という生涯は「近代日本のヤマトタケル」とのシンボルに最適であった。皇居北の丸公園には巨大な騎馬像が設置され、日本統治下の台湾では、台湾神宮など日本が建てた多くの台湾の神社で神話上の神々と並ぶ祭神となった。
なお敗戦によって台湾神社が廃されると、靖国神社の主要な祭神としても位置づけられる。戊辰戦争の賊軍は祀らないこの神社に祀られる数少ない元「賊軍」の祭神となる。
歴史家原田敬一は、台湾で語られる伝説を記している。
「台南市北辺の曾文渓を渡河してまもなく、草むらに潜伏していた台湾人ゲリラに襲撃され、竹竿の先に鎌を縛りつけた俄か作りの武器で首を傷つけられて落馬し、重傷を負ったのが病因となって、台南入城後、斃れた」(G)。
北白川宮の死は、日本側「勝利」「台湾平定」という日本軍国主義、帝国主義のシンボルであった。しかし台湾側の抵抗をのちに伝える秘められたシンボルでもあった。
北白川宮の現地における死を秘匿した最大の理由は、こうした伝説を通して、「北白川宮の死」が台湾側の戦果として伝わり、抵抗勢力を勇気づけることを恐れたというところにあったのかもしれない。(この点は原田教授のご教示による)
<参考文献>
※文中の記号は下記の記号を用いた。ただし、A)については綴に残された順に①~⑦をいう番号を用い、さらに②についてはそのなかの着番を付した。
A)大本営副官部「自明治廿八年八月至同十二月着電綴(十五)」
B)陸軍省「台湾征討の経緯及び師団上陸前の状況
C)學龍山人河村秀一「故北白川宮殿下征台略史」
(いずれもアジア歴史資料センター「防衛省防衛研究所」)
D)棠陰会(編輯兼代表森林太郎)『能久親王事績』(1907(明治四十一)年 春陽堂
E)参謀本部編纂『明治二七八年日清戦史第七巻』底本1907(明治四十)年
F)佐藤元英監修『北白川宮能久親王』(ゆまに書房2010 底本1937(昭和12)年)
G)原田敬一『日清戦争』(吉川弘文館2008)